2008年 09月
中野敏男氏からの寄稿 [2008-09-04 00:00 by kollwitz2000]
なぜ佐藤優は竹島問題で強硬論を唱え(られ)るか [2008-09-01 00:00 by kollwitz2000]

中野敏男氏からの寄稿
社会思想史研究者の中野敏男氏から、韓国のインターネット新聞向けに発表予定(追記注)の文章を寄稿いただいた。内容的に、私が論陣を張っていることと深いつながりがあり、私の話の文脈につなげていくべきと考えられ、私への「連帯の挨拶」として寄稿下さったとのことである。ありがたいことである。内容的にも、朝日新聞の対韓認識の歪みを鋭く批判する、大変興味深いものなので、是非ご一読いただきたい(ただ、私は朝日新聞は、既に国益主義的な路線への再編は完了していると見ているので、この点で中野氏とは若干立場が異なるかもしれない)。

http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-5.html

中野氏に関しては、改めて紹介するまでもないが、『大塚久雄と丸山眞男――動員、主体、戦争責任』(青土社、2001年)や、『歴史と責任――「慰安婦」問題と一九九〇年代
(青弓社、2008年6月。共編著)などの著作や論文を発表されており、戦前・戦後の日本思想史を中心として、数多くの重要な問題提起を行なっておられる。特に、季刊『前夜』での連載「「日本の戦後思想」を読み直す」(単行本化が待たれる)は、最近のリベラル・左派陣営における、過去清算や戦後責任や「日本国民としての政治的責任」といった問題はどこかへ行ってしまったかのような「民族」「ナショナリズム」の称揚(注)を見るにつけて、参照されるべき論点を多く含んでいる。

(追記注)『プレシアン』(2008年9月8日)に掲載された(9月8日追記)。

「「暴徒、新聞社を襲撃」――朝鮮日報にあらず  危機に瀕する日本のリベラルジャーナリズム」
http://www.pressian.com/Scripts/section/article.asp?article_num=60080828170744


(注)典型的な言説をいくつか挙げよう。

萱野稔人は、「ナショナリズムを抑えることができるのは、反ナショナリズムではなく、べつのかたちのナショナリズム」とした上で、「戦後史をみると、ナショナリズムってべつに右の専売特許ではないんですよ。たとえば共産党はずっと「愛国の党 日本共産党」を標榜していました。アメリカ帝国主義から日本国民の生活を守る、というね。昔はポスターに富士山なんかもよく使っていましたし」と、日本共産党的な<愛国><民族独立>を称揚している。「日本国民としての政治的責任」を果たそうという「ナショナリズム」ではなく、日本人としての民族感情に基づいたナショナリズムが称揚されている、ということである(雨宮処凛・萱野稔人『「生きづらさ」について――貧困、アイデンティティ、ナショナリズム』光文社新書、2008年7月)。

山口二郎も『論座』の終刊号で、以下のように述べている。少し長くなるが、「正体見たり!」と言いたくなるような、重要な発言である。

「自省的ナショナリズム、あるいは再帰的ナショナリズムという問題ですね。私は、社会民主主義はあと100年ぐらいしか動かないと思うんです。グローバル社会民主主義、先進国から途上国に大きな再分配ってそんな簡単なものじゃありません。まずはそれぞれの国の中で貧困をなくしていく、あるいはミニマムを保障していくという社会民主主義を実践しないと、外には目が向かないと思っています。そういう意味では私も、ポストコロニアルのような議論はあまり好きではなく、やはり国民国家という単位のなかで当面、政治を闘っていくしかないと思います。/先日、元文部科学省の寺脇研さんと初めて酒を飲んだのですが、寺脇さんが「俺、日教組の委員長になりたいんだ」と言うから、「ああ、おもしろいね」って。「みんなで左翼の愛国心教育でもやろうか」という話をしました(笑い)。愛国心という言葉は特定の色がついた言葉なので使えませんが、能動的市民をつくる公民教育というか、自らが帰属する政治共同体に対する自発的な参加意識というか、そういう政治的ナショナリズムというものを下からつくっていかないと、対抗政治のエネルギーにはなかなかつながっていかないんじゃないかと思っています。」(柄谷行人・山口二郎・中島岳志「現状に切り込むための「足場」を再構築せよ」『論座』2008年10月号)

なお、『思想地図』『ロスジェネ』といった、最近創刊された雑誌も、こうした傾向が支配的である。

# by kollwitz2000 | 2008-09-04 00:00 | メッセージ・推薦文・紹介
なぜ佐藤優は竹島問題で強硬論を唱え(られ)るか
講談社の月刊誌『現代』が年内に休刊するらしいが、その『現代』の最新号(10月号)で、佐藤優が竹島について、長文の文章を書いている。

ざっと見たところ、佐藤のウェブ連載記事(↓参照)の竹島関連の文章に付加した、内容的な新味は大して無さそうだが、

http://www.business-i.jp/news/sato-page/rasputin/index.nwc

http://news.livedoor.com/category/vender/145/

興味深いのは、なぜ佐藤がこれだけ竹島問題にこだわっているか、である。

恐らくこれは、小林よしのりからの佐藤への攻撃が絡んでいるのではないか、と私は見ている。

『sapio』2008年9月3日号(8月6日発売)で、小林は佐藤を批判しているが、そこで小林が書いているように、そこに至るまでには佐藤による『琉球新報』の連載での小林への当てこすりがあった。佐藤は、沖縄集団自決問題で、小林からの攻撃が避けられないと見て、こうした当てこすりに進んだように見える。

私は、「佐藤優・安田好弘弁護士・『インパクション』編集長による会合の内容について②:コメント(4)」の「(注1)(※※※)」で、以下のように書いた。


「佐藤が小林への賛美・追従をあちこちで行なってきたことは、佐藤の読者には周知のことであろう(例えばこの、佐藤の熱烈なファンによる記事を参照)。佐藤にとって、日米同盟の推進・対テロ戦争の必要性の強調・イスラエルの擁護は絶対に譲れない一線であろうが、だからこそ、佐藤は「反米」の小林からの攻撃を避けるために、沖縄戦での米軍の残虐さを強調するなど「反米」のポーズをとって、小林からの攻撃を避けようとしてきたわけである。

佐藤が小林からの攻撃を警戒してきたのは、小林から攻撃を受けると、佐藤が「親米」右翼であることが露呈し、「「親米」と「右翼」は論理矛盾」という共通理解を持つリベラル・左派論壇において、佐藤が「右翼」であることで担保されていたある種の「オーラ」が消えかねないからである。佐藤は「<左右の図式>を超えて活躍する一流の思想家」なる表象を維持しなければならないのだから、「親米保守」と一緒にされなかねない「親米」ではなく、真の「右翼」と思われなければならないのだ。したがって、この観点からも、佐藤は小林からの攻撃が本格化しないうちに、自らが「右翼」であることを示す発言をより強調していかなければならない。」


基本的には上の原理で、竹島問題への佐藤の固執も説明できるだろう。小林から攻撃を受けているからこそ、佐藤は竹島問題での強硬論を主張することで、自らが「右」であることを従来以上に読者(小林からの攻撃後は、特に保守層の読者)に示さなければならない。

佐藤が、『正論』の最新号(2008年10月号)での新連載「回帰と再生と」において、「「親米保守」というステロタイプからの脱却」が必要だと唱えているのも、こうした佐藤の小林からの攻撃対策という側面が大きいように思われる。佐藤が、実際には「親米保守」であるからこそ、新自由主義への反対といったお題目を口実に、「親米保守」であることを否定するような身振りをするわけである。

では、なぜ竹島問題が佐藤に選ばれたのだろうか。ここがキモなのだが、それは、朝日新聞のようなリベラルが、私がこれまで指摘してきたように、竹島問題に関して強硬論を容認する立場に立っているからである、と私には思われる。要するに、竹島問題に関して、「保守」と「リベラル」の間に挙国一致的に、「日本政府の主張が絶対的に正しい、韓国の主張は異常な「反日ナショナリズム」」という合意があるからこそ、佐藤は安んじて竹島問題で、強硬論(注)を主張できるわけである。

これは、小泉・安倍政権期における「拉致問題」での国論一致状態に似ている。恐らく、現在の佐藤にとって、竹島問題が、対北朝鮮強硬論、朝鮮総連への政治弾圧の扇動の機能的等価物になっているのである。私は「<佐藤優現象>批判」で、佐藤が対北朝鮮強硬論、朝鮮総連への政治弾圧の扇動の点で、「右派メディアの中でも最も「右」に位置する論客の一人」だと指摘したが、国論が一致している問題に関して、最も強硬な立場をとることによって、佐藤は誰からも(現在の護憲派ジャーナリズム関係者の本音は、朝日新聞の主張と大して変わらないと見て差し支えない)批判されることなく、安んじて「右」であるという称号を得られるわけである。これから少なくとも半年は、佐藤は竹島ネタで食いつないでいくと思われる。

佐藤の処世はさておき、問われるべきは、「竹島問題」をめぐるこの「国論」一致的な言説構造である。佐藤が竹島問題を「拉致問題」と関連付けて論じようとしていることは示唆的であって、こうした「国論」一致的な言説構造は、拉致問題、チベット問題を通して一貫している。考えられるべきなのは、佐藤の主張自体よりも、なぜ佐藤が竹島問題で安んじて強硬論を唱えられるか、である。


(注)ただし、韓国による竹島の「不法占拠」を第二の「拉致」問題として、外務省の「事なかれ主義」を攻撃する勇ましさとは異なり、竹島問題に関する佐藤の提言(落としどころ)は、武力行使を選択肢として含めた強硬姿勢といったものではなく、内閣府での竹島担当部署の設置、「竹島の日」の制定、である(『月刊現代』)。この辺はリベラル向けであろう。これでは佐藤が攻撃する「外務省の二重基準」と本質的には変わらない。

# by kollwitz2000 | 2008-09-01 00:00 | 佐藤優・<佐藤優現象>
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