2008年 07月
岩波書店による私への攻撃② 「鄭大均さんも「岩波書店の著者」」――実質的な退職勧告 [2008-07-29 00:00 by kollwitz2000]
共和主義的レイシズム――『週刊朝日』見出し「いい加減にしろ! 韓国人」補足② [2008-07-28 00:00 by kollwitz2000]
アジア諸国からの「押し付け」としての憲法9条 [2008-07-27 00:00 by kollwitz2000]
準戦時体制は継続する――日朝関係について [2008-07-25 00:00 by kollwitz2000]
リベラル紙の新しい「バランス」感覚――『週刊朝日』見出し「いい加減にしろ! 韓国人」補足 [2008-07-24 00:00 by kollwitz2000]
岩波書店による私への攻撃① 「首都圏労働組合 特設ブログ」を閉鎖させようとする圧力 [2008-07-23 00:00 by kollwitz2000]
『週刊朝日』見出し「いい加減にしろ! 韓国人」 [2008-07-22 00:00 by kollwitz2000]
板垣竜太氏からのメッセージ [2008-07-09 00:00 by kollwitz2000]
<佐藤優現象>と侵食される「言論・表現の自由」 [2008-07-07 00:00 by kollwitz2000]

岩波書店による私への攻撃② 「鄭大均さんも「岩波書店の著者」」――実質的な退職勧告
「首都圏労働組合 特設ブログ」で文章を執筆した。ご参照いただきたい(今回は、特に!)。

岩波書店による私への攻撃② 「鄭大均さんも「岩波書店の著者」」――実質的な退職勧告

# by kollwitz2000 | 2008-07-29 00:00
共和主義的レイシズム――『週刊朝日』見出し「いい加減にしろ! 韓国人」補足②
最近発表された、菊池恵介「植民地支配の歴史の再審――フランスの「過去の克服」の現在」(金富子・中野敏男編『歴史と責任――「慰安婦」問題と一九九〇年代』(青弓社、2008年6月)所収)は、フランスにおける植民地主義の問い直しに向けた動きとそれへのバックラッシュの相克を描いた、大変有益な論文であるが、『週刊朝日』の「いい加減にしろ!韓国人」の見出しについて考える上でも、重要な示唆を与えてくれる。

菊池は、現代フランスにおけるマイノリティー排除の論理を、「共和主義的レイシズム」として分析する、ピエール・テヴァニアンの見解を紹介している。菊池の文章を引用しよう(強調は引用者)。

「(注・テヴァニアンは)国民共同体の文化的マジョリティーの側が、「共和国」対「共同体主義」という虚構の二項対立を作り出し、フランス共和制の礎となる普遍的理念の名において、マイノリティーの排除を正当化しているというのである。たとえば、2003年のフランスでは、イスラム・スカーフを着用して公立学校に登校した少数のアラブ系女子学生が、「政教分離」と「女性解放」の名の下に排斥された。「女性蔑視のシンボル」と一義的に断定されたスカーフをまとう彼女たちは、「家父長制に屈した娘」として主体性を否定され、さらに、学校側の説得を聞き入れようとしなかった者たちは「原理主義に洗脳された娘」として排斥されたのである。こうして、だれもが賛同する普遍的理念の名の下に、同化圧力に抗う少数者を糾弾し、沈黙させるところに、テヴァニアンの指摘する「共和主義的レイシズム」の本質がある。」>(注)

そして、菊池は以下のように続ける。

「これ(注・「共和主義的レイシズム」)が厄介なのは、普遍的理念に訴えるため、人種主義とは一見無縁であり、従来の極右支持層を超えて、広くリベラル左派層にも支持される点である。」

今回の『週刊朝日』の見出しについて、この観点から考えてみよう。記事が言いたいのは、要するに、韓国人は、反日ナショナリズムという「原理主義に洗脳された」人々であり、ナショナリズムの狂騒から脱している「大人」の自分たち日本人から見れば、感情的で非理性的で半人前な連中だ、ということだ。「脱ナショナリズム」という「普遍的理念」の下にあるからこそ、レイシズムが正当化されているのである。

今の日本で支配的なレイシズムというものは、リベラル・左派論壇の紋切型のように、現実社会に適応できない「負け組」の人々が抱く認識、あるいは、戦前からの差別意識を踏襲した復古的な認識、というだけでは説明できないだろう。むしろ、「脱ナショナリズム」という「普遍的理念」を自分たちが保持していると考えているからこそ、レイシズムが正当化され、再生産されるのだ。もちろん、こうした「共和主義的レイシズム」は、従来からの差別意識と絡み合っているだろう。

だから、『週刊朝日』の見出しも、朝日にもかかわらずこのような見出しを付けたというよりも、朝日的なリベラルこそ、「共和主義的レイシズム」に、右派メディアよりもより容易に感染するという側面から考えるべきであろう。事情は、所詮は民族主義への認識や共感がろくになかった「戦後」の子どもである右派でも大して変わらないが、リベラルの方が、自分たちは「普遍的理念」の下にあるという自意識が強いから、「戦前からの差別意識」とは別の位相から、そうした従来からの差別意識と絡み合いながら、「共和主義的レイシズム」により容易に感染するのである。


(注)興味深いことに、護憲派の著名な憲法学者である樋口陽一は、このイスラム・スカーフの着用での登校を禁止するフランス政府・学校当局の措置を、「政教分離」の観点から擁護している。



# by kollwitz2000 | 2008-07-28 00:00 | 日本社会
アジア諸国からの「押し付け」としての憲法9条
憲法9条を理想化し、偶像視する言説は数多い。9条は人類の平和思想の理想が体現されている、9条は現代世界の進むべき方向性を提示している、と。現実の「平和憲法」体制は、韓国の徴兵制や沖縄の米軍基地とワンセットだと思うのだが、護憲派からは、「9条を輸出せよ!」という言葉まで聞こえてくる。今の護憲派は、暗黙のうちに、民主党や朝日新聞の軍事的国際貢献路線までも「護憲派」に数えているが、これも、「素晴らしい憲法9条を変えないでくれればそれでよい」という心性があるからである。

とはいえ、私も、「<佐藤優現象>批判」で何度も書いているように、改憲に反対する立場では護憲派と同じだ。ただし、後述するように、それは朝鮮人、一アジア人としてであって、日本人と同じ立場からではない。

さて、私の疑問は、憲法9条とは、もっと散文的なものではないか、ということである。憲法9条は、崇高な平和思想に源流をおくものなのだろうか。

多分、そうではないのではないか。私見によれば、憲法9条の原案を構想したGHQや、憲法9条の成立を受け入れた連合国の人々は、憲法9条を、第1次世界大戦で敗北したドイツに課せられた、ヴェルサイユ条約による軍備制限の延長上で捉えていたのではないか(注)

周知のように、憲法9条は、アメリカが、天皇制を存続させて円滑な占領統治に利用しようとしたために、他の連合国からの反発に配慮してつくられたものである。連合国からすれば、天皇制に象徴される強力な旧勢力が温存されるということは、早晩、日本の軍国主義が復活することを意味するから、それを予防するために、第1次世界大戦後のドイツへの軍備制限よりもはるかに強力な、「戦力放棄」を押し付けた、ということではないのか。当時のGHQや連合国は、日本への措置を考えるにあたって、当然、第1次世界大戦で敗北したドイツが念頭にあったはずである。だから、明文改憲または安全保障基本法制定による立法改憲(民主党系のも含む)は、比喩的に言えば、ヒトラーのドイツ再軍備宣言と同じ意味合いである、ということになる。

なお、ドイツの場合、憲法9条の対応物が、「東西分断」であろう。実際に、ドイツ統一に対して、イギリスやフランスやイスラエルは危惧を表明しており、エリー・ヴィーゼルのようなユダヤ人知識人やギュンター・グラスのような左派知識人は反対している。

こんなことを言うと、それは、日本の右派と同じ「押し付け論」ではないかと言われるかもしれないが、ある意味でその通りである。ただし、右派の押し付け論と違うのは、右派の主張では、憲法9条は、日本が再び強大国となることを恐れたアメリカが押し付けた、ということになっている点である。だが、当時のアメリカとしては、沖縄を軍事占領しているため、自分たちがコントロールできない形で日本が軍国主義化しようとしたとしても、本土を空爆して簡単に潰せるわけだから(これは今もだ)、憲法9条自体はさして必要ではなかったろう。だから、憲法9条をアメリカを通じて日本に押し付けたのは、周辺諸国であり、特に近隣アジア諸国だ、というのが私の理解である。

したがって、「押し付け」だから憲法9条を廃棄するとか、「ねじれ」を解消するとかとは全く逆で、「押し付け」だから守ってくださいよ、ということである。強大な旧勢力が残存し、過去清算もろくに行なわれず、「大日本帝国」との断絶という歴史認識も社会的に確立していない状況で、改憲するのはやめてくださいよ、ということだ。実際に、現在の右傾化も、靖国参拝や歴史教科書修正、戦前の日本人(特に在朝日本人)の歴史観・朝鮮(人)観を濃厚に引き継いでいる<嫌韓流>をはじめとして、旧勢力の残存があってはじめて成立しているのだから。したがって、「<佐藤優現象>批判」ほかでの私の改憲反対論は、日本の侵略・植民地支配を受けた近隣諸国のアジア人と同一の立場であり、日本の左派や現在の姜尚中のような、「日本に愛着心または帰属意識があるから日本の右傾化を批判する」という立場とは別である。

戦後の日本の護憲運動・平和運動は、右派の憲法押し付け論に対抗するために、憲法9条の構想・制定にあたっての日本人の役割や、そもそも押し付けかどうかという議論自体の無効性を強調することが支配的だったように思うが、こうした流れは、憲法9条が特にアジア諸国からの「押し付け」であったことを忘却させてしまったように思う。それは、戦後の護憲運動・平和運動において、加害責任の認識が薄かったことの反映でもある。こうした一国主義的性格は、現在の護憲運動・平和運動の脆弱さ、例えば、簡単に<佐藤優現象>に乗っかってみたり、民主党に色目を使ってみたり、「加害」の点を強調する(これ自体がそもそも多くないが)のはやめて「被害」の側面を強調する方向にシフトしたり、といった点ともつながっている問題だろう。


(注)もちろん、9条の源流が平和思想にないとしても、9条の理想を実現させようという立場はありうる。ただしそれは、本文からの論理的帰結だが、日本の旧勢力と闘い、日本国民の侵略と植民地支配に関する政治的責任を果たそうとする姿勢が伴わなければ、整合性がないだろう。そうした姿勢の護憲派の人物に私は敬意を惜しまない。

# by kollwitz2000 | 2008-07-27 00:00 | 日本社会
準戦時体制は継続する――日朝関係について
このところの、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)に対する日本による経済制裁一部解除や日朝関係に関する、メディアの論調で目に付くのは、拉致問題について北朝鮮が一定の譲歩を行なってきたから、それをどう評価するかにより、日本政府の対北朝鮮政策が決定される、という論理である。下のような図式だ。

「北朝鮮の譲歩→日本政府による評価→日本政府による対北朝鮮政策の決定」

例えば、下のサイトで、制裁一部解除に関する2008年6月14日の主要紙の社説を読み比べてみるとよい(読売は、検索してください)。
http://d.hatena.ne.jp/ktaro3838/20080614

朝日・毎日は上記の図式の上に立ち、北朝鮮の譲歩を一定評価して、制裁一部解除を支持する。読売は判断保留だが、これは実質的には支持である。日経はこの時点での制裁一部解除に反対しているが、「(注・北朝鮮の)譲歩がせっかく開いた北朝鮮との対話の窓口を閉ざせというわけではない」のであって、北朝鮮側の「本気」「誠意」を疑いつつも、北朝鮮が譲歩しうる対象であると見なしている。だから、この4紙は、上記の図式に立っているわけだ。

だが、実際には上の図式の前に、下の図式が接続しているはずである。

「米朝関係の進展→(米国の介入)→日本政府による対北朝鮮政策のスタンスの変化というシナリオ作成→北朝鮮の譲歩」

現実の流れとしては、恐らく米国が介入して、日本側が譲歩するという話がまずあって、日朝で落としどころをつくろうという話になったわけであろう。ところが、メディア上の論調では、それが逆転しており、北朝鮮の譲歩がまずあって、日本がそれを評価する、ということになっている。

要するに、実際には日本側がスタンスを変えており、その結果として制裁一部解除が出てきているにもかかわらず、メディア上においては、安倍政権下の対北朝鮮政策との連続性は崩れていない、という建前が維持されているのである(注)

これは奇妙である。外部から見ればそれは明らかだ。例えば、韓国の保守系の新聞『中央日報』は、テロ支援指定国解除について、以下のように書いている。

「日本は米国の北朝鮮テロ指定国解除を平静に受け入れた。これまで、日本人拉致問題の解決を要求し、テロ指定国解除に積極的に反対してきた立場を大きく翻したのだ。」

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=101788&servcode=A00§code=A00

また、同じく保守系の新聞『朝鮮日報』は、制裁一部解除について、

「日本政府はこれまで、北朝鮮をテロ支援国リストから除外することを検討している米国に強い反対の立場を示しており、今回の合意も米国の仲裁によって成立したとされる」

と報じている(念のためだが、これらの新聞が優れている、と言いたいわけでは全くない。外部から見れば自明だ、ということである)。

http://www.chosunonline.com/article/20080614000019

だが、多分、上記の6月14日の社説を書いた日本の各主要紙の記者たちは、実際には、日本のスタンスの変更という現実をよく理解しているはずである。理解しているにもかかわらず(あるいは、理解しているからこそ)、連続性は崩れていないという建前を維持するのである。みんながわかっているのに、それを紙面に反映するのはタブーになっているのだ。

さて、比喩的に言えば、日本社会は2002年の小泉訪朝以後、北朝鮮との準戦時状態にあったわけである。この準戦時体制の下で、日本社会とその言説構造は、大きく変容した。本来、必要とされるべきは、この準戦時状態の下で起こった、こうした変容の再検証と克服であろう。いわば、「過去清算」である。

連続性は崩れていない、崩す必要もない、という前提であれば、当然、準戦時体制下での変容も、そのまま肯定されることになるわけである。だから、「日朝国交正常化に向けて、幅広い結集を」ということになれば、2002年以降の準戦時体制下での日本社会とその言説構造の変容も、問われることはないわけだ。

したがって、こうした形でいかに日朝関係が急展開し、制裁が全面緩和され、国交正常化にすら達したとしても、日本の準戦時状態が終わることはないだろう。右傾化や、<嫌韓流>の蔓延も変わるまい。第二・第三の北朝鮮バッシングや、中国バッシングなどが起こることになる。

本日深夜の「朝まで生テレビ!」は、日朝関係がテーマである。私は多分見ないが、いち早く「日朝国交正常化」路線に転向した田原総一郎の振る舞いに、驚くく人々も多いのではないか。今回は田原がリードして、多分、日朝関係の更なる展開を求める側が、意外に優勢に立つと思う。
http://www.tv-asahi.co.jp/asanama/video/0807/program.html

こうした動きは何ら希望にならない。必要なのは、準戦時状態における変容の再検証と克服であろう。


(注)産経新聞と東京新聞の6月14日の社説は、もともと北朝鮮が交渉相手として信頼するに値しないと強調した上での反対であるが、その意味では両紙の方が、まだリベラル紙よりも「スタンスの変更」を言語化していると言える。ただし、東京新聞は「拉致解決を支援参加の前提にしている日本にとって情勢は有利に動いている。日米韓、日中韓の連携も強化されつつある。いまは焦るときではない」と脳天気に書いているから、単に何も分かっていないだけかもしれない。産経新聞の苛立ちと好対照である。

# by kollwitz2000 | 2008-07-25 00:00 | 韓国・朝鮮(在日朝鮮人)
リベラル紙の新しい「バランス」感覚――『週刊朝日』見出し「いい加減にしろ! 韓国人」補足
『週刊朝日』の見出しについて、「ここまで直球だと、『諸君!』、『正論』、『Will』ほかの並みいる右翼雑誌をすっ飛ばして、<マンガ嫌韓流>(しかも初期の)である」と書いたが、これは誤解を招く表現だった。『マンガ嫌韓流』の1巻のキャッチコピーは、「だから僕たちは韓国が嫌いだ」で、「韓国人が嫌い」とは言っていない。また、『週刊朝日』のように、大々的な吊革広告や新聞広告をしたわけでもないのだから。「いい加減にしろ!韓国人」の『週刊朝日』の方が、この文言だけ見る限り、『マンガ嫌韓流』より過激であり、悪質である。

右派メディアは、キャッチコピーにおいては、「韓国」は罵倒しても、「韓国人」一般に罵倒表現を使う事例はあまり見かけない。民族差別だと言われないよう警戒しているのだろう。「リベラル」であるはずの朝日の方が、警戒心がないからこそ、こうした差別感情が垂れ流されたキャッチコピーを使うわけである。

朝日が使ったのだから、右派メディアにも、こうした「韓国人」への罵倒表現は「解禁」されてしまったということだ。今後、「朝日ですらあそこまで言うのだから、ああいう表現はセーフなんだ」として、右派メディアでも、「韓国人」「朝鮮人」「中国人」への罵倒表現がキャッチコピーとして使われだす可能性が高い。

ところで、私は「<佐藤優現象>批判」で、「仮に佐藤優が没落して、「論壇」から消えたとしても、〈佐藤優現象〉の下で進行する改編を経た後のリベラルは、佐藤優的な右翼を構成要素として必要とするだろう」と書いたが、『週刊朝日』のこのところの急速な右傾化にも、同じ原理が働いていると思われる。今後、本紙の朝日新聞が、若宮啓文流の、ぬるい「国益」中心主義的「リベラル」路線の微調整で行くとすれば、『週刊朝日』の右傾化は、朝日グループ全体から見れば「バランス」がとれているわけである。むしろ、『週刊朝日』のような、本紙から見れば周辺的な媒体の一つが右傾化しておいてくれたほうが、本紙にとっては都合がいいのだ。

こういった、従来とは異質の「バランス」感覚は、現在の東京新聞の論調にもつながっている。最近の東京新聞は、産経とあまり変わらない対中バッシングのオンパレードだ。また、6月の、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への日本による経済制裁一部解除、米国によるテロ支援国家指定解除については、東京新聞の社説はどちらにも反対し、産経よりも強硬な主張を展開していた。一方で、沖縄の集団自決訴訟、死刑問題、格差社会論については、明確に「左」としての立場を打ち出している。

要するに、現在の東京新聞は、ある記事に関して、「右」と「左」の立場からの主張の配分比率を考えて「バランス」のとれた記事をつくるというよりも、国外(特に中国・北朝鮮)の問題には「右」のスタンスで、国内の問題には「左」のスタンスで臨むという形で、全体としての「バランス」をとっているように思われる。これまた従来とは異質の、新しい「バランス」感覚である。

この、中国バッシングが一段落した後(というよりも、もはや中国への否定的な認識が支配的な世論の「空気」として成立した後)、2008年6~7月は、現在のリベラル系の大手紙の、新しい「バランス」感覚に基づいた「立ち位置」が確立した時期なのではないか。

# by kollwitz2000 | 2008-07-24 00:00 | 日本社会
岩波書店による私への攻撃① 「首都圏労働組合 特設ブログ」を閉鎖させようとする圧力
「首都圏労働組合 特設ブログ」で文章を執筆した。ご参照いただきたい。

岩波書店による私への攻撃① 「首都圏労働組合 特設ブログ」を閉鎖させようとする圧力

# by kollwitz2000 | 2008-07-23 00:00
『週刊朝日』見出し「いい加減にしろ! 韓国人」
昨日、『週刊朝日』の最新号(2008年8月1日号。7月22日売)の吊革広告を見て驚いた。「竹島問題 なんと80%が反日だと」という小見出しの後、以下の見出しがでかでかと書かれている。

「いい加減にしろ!韓国人」



ここまで直球だと、『諸君!』、『正論』、『Will』ほかの並みいる右翼雑誌をすっ飛ばして、<マンガ嫌韓流>(しかも初期の)である。「平和」や「人権」を口にするリベラル系のマスコミ業界人が、私的な場で平然と差別発言を行う光景は、これまで何度も見てきたから、『週刊朝日』編集部が人種差別に親和的な心性を共有していても別に驚かない。ただ、「リベラル」を標榜する朝日新聞系列のメディアが、こうした民族差別、レイシズムそのものの見出しにゴーサインを出したというのは、やはり一つの事件であろう。

なぜかその記事の実際のタイトルは、「いい加減にしろ!韓国人」ではなく、「なんと80%が「反日」・・・いまさら「竹島問題」が沸騰する 韓国のお家事情」である。だが、記事の内容を読む限り、「いい加減にしろ!韓国人」の方が、この記事によりふさわしいタイトルだと思わざるを得ない。

この記事は、<感情的で理性的な判断のできない韓国人が、「反日」に狂っている>とでもいいたげな、<嫌韓流>的な目線に基づいたひどい内容だ。「沸騰」、「絶叫」、「ヒートアップ」、「パニックに陥っている」、「デマですぐにまひする韓国社会」(これは『朝鮮日報』の引用だが)、こうした単語がちりばめられ、「「主張に相違がある」という記述だけで“反日”に火がつく韓国には大人になってもらいたい。不毛な竹島論争に終止符が打たれる日は、いつの日になるのやら・・・・・・」と、全体を結んでいる。

この記事は、韓国国民の李明博大統領への批判も、朝鮮日報の記事を引用しつつ、韓国国民がデマに踊らされているだけだ、といいたげである。だが、この件での韓国の左派の李明博批判の支配的な論調は、発足当初、李明博政権が対日宥和と「未来志向」を謳ったからこそ、日本の右派勢力が韓国を舐めてかかって、新学習指導要領の解説書に、竹島(独島)が日本の固有領土であると明記しようという方向に進んだのだ、だからこれは李明博の外交失策だ、というものだ。李明博政権がこの件で激しく批判されているのは、デマ情報のために、韓国国民が「パニックに陥った」(これは、『週刊朝日』記者の言葉)からではない。

問題を「デマ」や「扇動」のせいに矮小化して、民衆の保守派批判に冷水を浴びせようとするのは、右派の「朝鮮日報」のいつものパターンである(例えば、米国産牛肉輸入をめぐる「ろうそくデモ」に対しては、「背後に北朝鮮の手先の扇動がある」といった具合)。『週刊朝日』編集部の記者に、はじめから、「韓国人=反日=感情的=非理性」という<嫌韓流>的な図式があるから、その図式に都合のいい論調だけがつまみ食いされて、こうした記事ができあがるわけである。

また、上で引用したこの文章の結びの言葉の一部、「「主張に相違がある」という記述だけで“反日”に火がつく韓国」という箇所も、事実関係が歪曲されている。この件が問題になった発端は、文部科学省が中学校社会科の新学習指導要領の解説書に、竹島(独島)を「我が国固有の領土」として明記する方針を固めたという報道だ。「「主張に相違がある」という記述だけ」でないことは明白である。ここも、はじめから、「大人」である自分たち日本人が、感情的で非理性的な半人前の韓国人に対処する、という<嫌韓流>的図式がこの『週刊朝日』の記者にあるからこそ、こうした事実の歪曲になるわけである。

『週刊朝日』のこのレイシズムそのものの見出しは、この、<嫌韓流>的な視線に基づいた記事内容と、ちょうど見合っている。

# by kollwitz2000 | 2008-07-22 00:00 | 日本社会
板垣竜太氏からのメッセージ
朝鮮近現代史研究者であり、「メディアの危機を訴える市民ネットワーク」(メキキネット)をはじめとする社会活動でも知られる、板垣竜太氏より、メッセージをいただいたので、「首都圏労働組合 特設ブログ」にアップした。

http://shutoken2007.blog88.fc2.com/blog-entry-14.html

岩波書店労働組合と私に関する状況を非常に明晰に分析されており、私自身も気付かされた点の多い文章だった。是非ご一読いただきたい。

板垣氏の優れた論文は多い。特に、最近作の「脱冷戦と植民地支配責任の追及――続・植民地支配責任を定立するために」(金富子・中野敏男編『歴史と責任――「慰安婦」問題と一九九〇年代』(青弓社)所収)で展開されている、「東アジア真実和解委員会」の構想や、そうした構想の基となっている植民地支配責任概念の定立に向けた模索は、朴裕河的な安易な「和解」ではない、別の方向を考える上で、読者に貴重な示唆を与えてくれる。

また、私は未読だが、最近、『朝鮮近代の歴史民族誌――慶北尚州の植民地経験』という大著を、明石書店から上梓されている。これから読むのを楽しみにしている。

# by kollwitz2000 | 2008-07-09 00:00 | メッセージ・推薦文・紹介
<佐藤優現象>と侵食される「言論・表現の自由」
新刊の、山口二郎編著『札幌時計台レッスン 政治を語る言葉』(七つ森書館、2008年7月1日発行)に収録されている佐藤優の講演録「思想で抗する新自由主義」を読んでいたところ、佐藤の以下の発言が目に入り、唖然とすると同時に、改めて強い怒りを覚えた。

オリックスの宮内義彦会長の「北海道の人口は二百万もあれば十分」という発言について、佐藤は、以下のように言っている。

「北海道の右翼が情けないですよね。街宣車で会社の回りをグルグル回るというようなことをして、怖いと思わせなければ、こういう発言はやめないですよね。「発言は自由である。しかし、それには責任がともなう。これが民主主義だ」って。」(強調は引用者)

佐藤は、言論に対して、暴力をちらつかせて威圧させて黙らせることを積極的に肯定しているのである。これが、言論・表現の自由の公然たる否認ではなく、一体なんなのだろうか。

既に述べたように、現に佐藤は、『週刊新潮』の記者に対して、私を攻撃する記事を書くよう教唆しているのであり、佐藤が、『週刊新潮』の私に関する記事に関して、積極的に関与していたと推測する論拠もある。また、前にも書いたが、自身のブログで、佐藤を批判する記事を書き、佐藤批判の内容を含む本を刊行することを述べた明言した原田武夫は、本の刊行直前に、『週刊新潮』に大々的な中傷記事を書かれており、佐藤の怒りを買ったらしい『AERA』の大庭記者も、『週刊新潮』に中傷記事を書かれている。

佐藤の怒りを買ったと思われる書き手について、『週刊新潮』が中傷記事を書くというケースが、3つも続いているのだ。これだけこうしたケースが続けば、私以外の2件も私の件と同じように、佐藤が『週刊新潮』の記者に中傷記事を書くことを教唆した、と考えるのが自然であろう。しかも、佐藤は私の論文について、「私(注・佐藤)が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です」などと言っているにもかかわらず、論文中のどこが「言ってもいないこと」なのかすら示せておらず、一切反論していないのである。

今回の佐藤の講演の日付は、「2007年11月20日」とのことである(なお、巻末に「講演をもとに、書き下ろしを加えて再構成したもの」との記載がある)。前に述べたように、佐藤に情報を提供されたらしい『週刊新潮』の記者が、私に最初に接触してきたのは2007年11月23日であるから、上記の発言時には、当然、私の論文のことが念頭にあっただろうし、この発言自体が、私の論文をも念頭に置いたものだったかもしれない。

今回の佐藤の発言は、佐藤が「言論・表現の自由」を公然と否認していることを示しており、一連の『週刊新潮』による、佐藤への批判者への攻撃が、佐藤の教唆によるものであったことを強く示唆している。佐藤は、自身への批判に対して、公的に反論するのではなく、まさに右翼の街宣車が相手に怖いと思わせるのと同じように、『週刊新潮』という言論テロ雑誌を用いて、批判者を叩き潰そうとしたのではないか。一体、どこまで卑劣な人間なのだろうか。こんな男が「公共性」を云々することは、茶番以外の何物でもあるまい。

なお、映画『靖国』の上映をめぐって、鈴木邦男を中心として、「右翼の街宣車の抗議活動は、表現行為の一つであり、決して暴力的な威嚇ではないのであって、「表現の自由」が適用されるべきものだ」といった主張が展開されているが、佐藤の今回の発言は、こうした鈴木らの主張を、真っ向から否定するものである。右翼を自任する佐藤が、街宣車による抗議活動は、相手に「怖いと思わせ」るのを目的としていることを明言しているではないか。

『靖国』の上映中止に関して見られたリベラル・左派の言説は、明白に右翼の暴力的威嚇があったにもかかわらず、そのほとんどは、そうした威嚇の度合いを低く見積もり、中止の責任を映画館の自主規制という姿勢に負わせるものであった。

私は、「佐藤優・安田好弘弁護士・『インパクション』編集長による会合の内容について②:コメント(4)」の「(注1)(※※)」で、以下のように書いた。

「上映中止は映画館の自己規制のせいだと言わんばかりの論調が、リベラル・左派内でも出てきている(例えば、日下部聡「政治時評 常套句は思考停止をまねく 「靖国」の騒動を「民主主義の危機」と括るのは早計だ」(『金曜日』2008年4月18日号)、田原牧「こちら特報部 右翼・民族派の憂うつ」(『東京新聞』2008年4月26日付朝刊))。日下部は、毎日新聞の記者である)。
念のために書いておくと、映画館に出向いて直接抗議した右翼の当事者は、抗議の際に『南京1937』でのスクリーン切り裂きの前例を持ち出した、という映画館側の主張を否定しておらず(4月7日放映のTBS『NEWS23』より)、また、上映中止活動を行っている右翼は、「無論上映となれば断固抗議行動を徹底し、日本の正義を守る覚悟である」と明言しているのだから、これが「表現の自由」の侵害でないならば何が侵害になるのか。日下部も田原も、こうした事実には触れていない。」

上記の文章をアップした直後に出た『論座』2008年6月号(2008年5月1日発売)は、「映画『靖国』騒動への疑問」を特集していたが、『論座』編集部は、特集タイトルページで、「助成金を問題にした国会議員の横槍と、報道に触発された右翼の街宣活動に、映画館側が過剰に反応した」(強調は引用者)と書いている。

同誌同号で、上野千鶴子は「「自主規制」という名のファシズム」と主張し、森達也は、上記のTBS番組に言及しているにもかかわらず(その番組のコメンテーターだった)、右翼青年が抗議の際に『南京1937』でのスクリーン切り裂きの前例を持ち出したことには触れず、上映中止を決めた映画館の対応を「お粗末」だとする。斎藤貴男に至っては、「右翼を何だと思ってるんだという話ですよね」と、右翼は警察のメンツを潰さないよう合理的に行動するとして、そのことを計算できずに「自主規制」する側を批判している。暴力的な威嚇を前にして、なぜそんな計算を働かせなければならないのか?倒錯もここまで来ると、見事というほかない(注)

自分たちは東京大学教授や朝日新聞記者や売れっ子言論人という安全な地位にいながら、右翼の暴力的威嚇や警察の放置を問題にせずに、小さな映画館に毅然とした態度をとることを要求しているのである。よく言えたものだ。前にも書いたが、<まっとうな右翼>を救い出して、反グローバリズムなどの争点で<まっとうな右翼>と連帯していきたいという衝動が強いからこそ、上映中止を映画館の自己規制のせいにするという認識が生まれるのである。こうした認識は、ある種のイデオロギーに根ざしたものなのであって、イデオロギーは現実を簡単に乗り越える。

こんな認識の下では、テロ行為も含めた右翼によるいかなる「言論・表現の自由」への侵害行為も、「<まっとうな右翼>ではないニセの右翼によるもの」として表象されることになり、「言論・表現の自由」の深刻な問題として受け止められなくなる。

『世界』2008年6月号の「メディア批評 第6回」で、神保太郎(筆名であろう)は、『靖国』上映中止問題について、以下のように述べている。

「過剰な萎縮の背景にあるもの。日本の警察の右翼団体のやりたい放題に対する野放しを、メディアはどこまで自覚しているだろうか。耐え難い騒音をまき散らすあれらの街宣車を、警察は国会周辺、皇居周辺以外では放置・黙認している。あの騒音レベルを計測してみるまでもなく、違法行為が堂々と黙認されているのである。これが法治国家と言えるのだろうか。前述の通り、靖国神社の境内で青年が殴打される現行犯を警察は明らかに放置していた。映画(注・映画『靖国』)がそれを撮っているのだ。これが法治国家か。」

上の発言は、少し前ならば、当たり前に見られたものだったはずである。こうした発言が、リベラル・左派系の論壇でこれ以外にほぼ全く見られなかったこと(しかも筆名の筆者)こそが、現在のリベラル・左派論壇の変質がいかに進んでいるかを示している。

また、『金曜日』編集部で、佐藤と昵懇の伊田浩之は、『金曜日』2008年6月27日号の編集後記で、以下のように述べている。

「本誌連載「飛耳長目」をまとめた佐藤優さんの新刊『世界認識のための情報術』を7月中旬、発売します。佐藤さんは、この本のために400字詰め原稿用紙100枚超を書き下ろしました。本誌購読者などで佐藤さんの言説に違和感を持たれている方がいれば、その方にこそ書き下ろし部分を読んでいただきたいと思います。」

前にも述べたが、佐藤が『金曜日』に書こうとするのは佐藤の勝手である。佐藤ではなく、『金曜日』こそが、佐藤をなぜ『金曜日』が使うのか、また、左派ジャーナリズムたる『金曜日』が佐藤を重用することが、佐藤が右派メディアを中心に展開している排外主義的・国家主義的主張に対する、一般読者の警戒感や、リベラル・左派の抵抗感を弱める役割を果たしていないと本気で考えているのか、答えるべきだろう。

それにしても、少し前に『金曜日』は、まさに『週刊新潮』の煽動により、右翼の街宣車をはじめとする抗議を受け、それこそ「怖いと思わせ」られ、謝罪文を公表することになったはずである。

周知のように、2006年末の、『金曜日』主催集会での劇団「他言無用」の皇室劇をめぐる一件である。
 
この時の『週刊新潮』の記事が、右翼への扇動的な内容であったことは、鈴木邦男や『創』編集長の篠田博之も指摘している。

2006年12月22日号の『金曜日』に掲載された、『金曜日』編集部による文書「「11・19」緊急市民集会について」は、同時に掲載された「『週刊金曜日』発、読者のみなさまへ ~緊急市民集会のパフォーマンスと『週刊新潮』の記事を発端とした一連の経緯について」という文章とともに、下のサイトに転載されている。

http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/32f9e618b34205f77f4e2389c0065694

この文書は、「読者のみなさま」宛になっているが、『金曜日』の主要な読者で、その緊急市民集会の皇室パフォーマンスにより、「人権およびプライバシー上、一部の表現に行き過ぎや不適切な言動があったことで、誤解や不快の念を生じ」、『金曜日』に謝罪してほしいと考えていた人間は、ほとんどいまい。この文書における謝罪の宛て先が、右翼や「世間」であることは、誰の目にも明らかである。「「11・19」緊急市民集会について」の前に附されたあらゆる言い訳にもかかわらず、そうである。念のために言っておけば、一義的な責任は、『金曜日』編集部よりも、『週刊新潮』の扇動、右翼の暴力的威嚇、そうした行為を野放しにする警察、一連の事態に沈黙するジャーナリズムにある、と私は考える。

『週刊新潮』に、批判を向けられた相手の中傷記事を書くことを教唆し、また、右翼の抗議活動による威嚇的行為を肯定する佐藤と、『金曜日』がこれほど緊密な関係を結ぶという事態は、どう考えても奇妙というほかあるまい。『金曜日』は、まさに、佐藤が肯定し、実践しているところの、「言論・表現の自由」の侵害の被害者ではなかったのか。

<佐藤優現象>を通じて、リベラル・左派の自壊が進んでいること(もちろん、リベラル・左派の自壊という現象があってはじめて、<佐藤優現象>が成り立っているわけだが)はすでに指摘したが、これほど明瞭に自壊ぶりが現れている事例もないだろう。「戦後民主主義」は、最も基本的な市民社会の原理たる「言論・表現の自由」すら、自ら破壊しつつあるのである。

五・一五事件が起こった際、大手紙をはじめとした当時の日本のマスメディアは、テロリズムを批判するのではなく、決起した青年将校たちに同情的であったことは、有名な話である。私には、映画『靖国』上映中止に関する一連の言説状況や、「言論・表現の自由」を公然と否認し、しかもそうした否認行為を実践する佐藤をリベラル・左派論壇が重用している事態は、今後再び、より深刻になって現れるであろう、「言論・表現の自由」の危機の予兆であるように思われる。



(注)『論座』の同号の長谷部恭男「がっかりなさいましたか?」において、長谷部は以下のように述べている。

「今回の(注・映画『靖国』上映中止をめぐる)騒動で議論の焦点になっているのは、多くの映画館が「お客様や周辺の方々に迷惑になってはいけないので」という理由で、上映を「自粛」したことである。(中略)自分や従業員の身が危ないかもしれないのに、あえて一般公共のために表現の自由を守るのが映画館主の「義務」かというと、そういうわけではない。非難されるべきなのは、中止を求めて圧力をかけたり脅したりした人々であって、映画館主ではない。自分は脅していないという人も、脅した人たちと「合唱」したことは認識すべきだろう。しかし、あえてそれでも表現の自由を守るため上映するという映画館主に対しては、称賛を惜しむべきではない。自分たちの義務を超えて、表現の自由のために尽くしているのだから。」(強調は引用者)

左派でもなんでもない長谷部ですら、「非難されるべきなのは、中止を求めて圧力をかけたり脅したりした人々」だと述べている。リベラル・左派の『靖国』上映中止をめぐる論調がどれほど歪んでいるかを、このことはよく示している。

# by kollwitz2000 | 2008-07-07 00:00 | 佐藤優・<佐藤優現象>
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