( 前項 の続き。)
わが師と呼べる人のことを記す。
・ 「思考訓練の場としての英文解釈」の 多田正行 氏。
・ 「思考訓練の場としての現代国語」の 棟 明郎 氏。
──
私にとって「わが師」と言える人は、ただ一人しかいない、とも言える。
思考訓練の場としての英文解釈
の 多田正行 氏だ。
私は氏からは、通信添削で学んだだけであり、お顔も知らない。だが、私としては、「わが師」と感じている。(片思いみたいなものだが。)
私は氏から厳しくしごかれた。これほど厳しくしごかれたことは、他に一度もなかった。ひどい罵声のような言葉を浴びたものだ。「馬鹿の見本」として、添削の雑誌上に掲載されて、全国に馬鹿をさらしたこともあった。
しかし、このような厳しいしごきによって、甘ったれた自惚れた悪ガキだった高校生が、自分の未熟さを悟るようになり、大きく成長することができたと思う。「おまえは未熟な人間だ」ということを常に意識させられ、「もっと成長せよ」と教えられたと思う。仮に、氏と出会わなかったなら、私はいかに甘ったれた軟弱な人間になっていたかと思うと、ぞっとする。
氏の言葉は滅茶苦茶に厳しかった。これは、他人から見れば、「人を傷つける行為」の見本であろう。
しかし、その厳しさの奥には、深い愛情があることは、よくわかっていた。氏は決して、私が憎くて、厳しい言葉を浴びせたのではない。私に成長してもらいたいから、厳しい言葉を浴びせたのだ。そのことははっきりとわかっていた。
だからこそ私は、何が何でも氏の教えを受けようとして、早く並んで席を取ろうとした。(この意味はちょっとわかりにくいと思うが、説明しない。すみません。)
──
あと一人、やや厳しい先生もいた。
思考訓練の場としての現代国語
の 棟 明郎 氏だ。この先生もまた、私に大きな影響を与えた。私はこの先生からもいろいろと学んだ。
自分勝手に文章を読むようないい加減さを徹底的に正されたし、文章をきちんと理解する厳しい態度を教えられた。私はこの先生のもとにも、せっせと参じて学んだものだ。
以上の二人の先生が、私にとって決定的に大きな影響を与えたと言える。
──
さらに言うなら、高校時代の恩師が二人いる。
一人は、数学教師だった、長野先生だ。天才的な数学のヒラメキを見せることで、「問題が解ければいい」と考えていた私の頭をぶちこわしてくれた。「物事の本質を突け」ということを、はっきりと実例で教えてくれた。「点数だけよければいい」という発想がいかに愚劣であるかを、数学において、これほど明確に教えてくれた先生はいない。厳しい言葉で生徒を批判すればするほど、生徒の側は学ぶことが大きかった。
もう一人、英語の 大西先生も、厳しさと厳密さで、とてもよくしごいてくださった。
( ※ その点では、両先生は、多田正行氏と似ていた。あれほど厳しくはなかったが。 (^^); )
──
とにかく、私にとって大きな影響を与えたのは、滅茶苦茶に厳しい言葉を与えて、私をしごいた先生ばかりだ。他の先生は、優しい先生も多かったが、あまり役に立たなかった。ほとんど心にも残っていない。
厳しい言葉こそ、人を成長させる。そのことを、これらの先生は、本当によく示してくれた。その効果は本当に大きかったと思う。
──
最後にもう一人。
特に学問的に優秀というわけではなかったが、私にとって、とても重要な先生が一人いる。ずっと忘れていたが。
それは、中学時代の、若い美人の先生だ。タレントみたいな感じ。サンデー先生みたいな感じ。大学の新卒で、ミニスカートがよく似合った。
私は、先生が来ると、胸をドキドキさせて、顔を真っ赤にして、俯くばかりだったが、他の悪ガキの生徒は、先生をさんざん冷やかした。(若い美人を冷やかさずにはいられない、という悪ガキばかり。 (^^); )
この先生は、現代文の先生だったが、授業をつぶしてまで、生徒に人生論をしばしば垂れた。人を馬鹿にするような態度をする悪ガキたちに、さんざん人生訓を垂れた。……あれは心にしみいった。馬鹿な悪ガキたちが、いかに馬鹿であるかを、はっきりと教えてくれた。私もまた、自分がいかに未熟なガキであるかを、はっきりと教えられた。
この先生は、人間の優しさというものを、教えてくれたと思う。仮に、この先生に出会わなかったら、他人への優しさなど、知らずじまいだったかもしれない。「他人が悪い、社会が悪い」と責任転嫁するだけで、自らを反省することを知らない、下らない人間になっていたかもしれない。他人から物をもらうだけで、自分からは与えることをしないような、欲深い人間となっていたかもしれない。自分からは他人に何も貢献しないまま、「自分は頭がいいから尊敬されて当然だ」と思うような人間になっていたかもしれない。……そういう身勝手な人間になってはいけないということを、先生は涙をこぼしながら、何度も教えてくれた。あれは本当に、心にしみいった。
この先生は、私たちの人間性を否定した。私たち(悪ガキたち)が、いかに下らない人間であるかを、はっきりと教えてくれた。人間性を否定する厳しい言葉であったからこそ、私たちの心の奥に針のようにしみこんできた。
今にして思えば、あれほど愛情の深い言葉はなかった、と思う。学力でなく人間性を否定するような、最も手厳しさをもたらしてくれる言葉こそ、最も愛情に満ちた言葉だったと思う。
──
人を成長させるものは、厳しい言葉だ。未熟な愚か者の心を手ひどく傷つけるような、厳しい言葉だ。それに勝るものはない。そして、それは、宝にも等しい。
だから、それを与えてくれた上記の先生方に、私は本当に感謝している。今となっては、会って対面してお礼を述べることもできないが、できれば、ネットを通じて、先生方の耳に届けば、と願う。……本当にありがとうございました。
( ※ もう一人、重要な人がいた。それは、ひょっこりひょうたん島を書いた、井上ひさし氏だ。氏にも感謝しなくては。)
[ 付記 ]
ひるがえって、若い人のために言っておこう。アドバイスふうに。(厳しい言葉だから、聞かなくてもいい。耳をふさいでいたければ、ここで退場して下さい。)
「人に傷つけられたくない」
「人を傷つけたくない」
というふうなことばかり思っていては、「引きこもり」ふうになってしまう。それは現代の「オタク化社会」に特有な現象だ。
人と人との関係では、傷つけることもあるし、傷つけられることもある。それを恐れていては、人と人との関係を結べない。そのあげく、ちょっと指摘されたとたんに、マジギレしたりするようになる。
人間社会というものは、傷つけることもあるし、傷つけられることもある。それを恐れていては、軟弱になるだけだ。
大切なことは、傷つけるとか、傷つけられるとかではない。もっと別のことだ。(それが何であるかは、前項で明白に述べた。)
最後に、私からアドバイスすることがあるとしたら、こうだ。
「傷つくことを恐れるな」
社会であれ、人間関係であれ、傷つくことを恐れていては、前に進めない。しかし、勇気をもって前に進むことが大切なのだ。
ただ、私は、最初はそれを知らなかった。ビクビクして、前に進むことを恐れていた。傷つくのが怖くて仕方なかった。……そんな私に、前に進む勇気を教えてくれたのは、クラスメートのかわいい女の子だった。小学校の一年生のときに出会った女の子。
もしかしたらその子が、私にとって最高の師であり、最高の天使だったのかもしれない。
※ その気持ちがどんな気持ちだったかを知りたければ、次の歌を聴いて下さい。
→ キャンディーズの「つばさ」
♪ やわらかな 陽ざしの中 朝露にめざめかけた 小鳥のように ……
2009年02月09日
◆ わが師の思い出
posted by 管理人 at 18:13
| Comment(1)
| 科学トピック
──
企業が人を育てるには、どうするか? それは
「獅子は子を千尋の谷に突き落とす」
という方法。つまり、「若い社員にあえて失敗体験をさせる」という方法。
そのあと、有能な人と無能な人の差が出る。
有能な人は、失敗して、谷底に突き落とされたあと、死にものぐるいになって、這い上がる。そのことで、大きく成長する。こうして企業は有能な人材を得る。
無能な人は、失敗したら、言い訳をして、他人を恨む。引きこもって、いつまでも谷底にいるままで、成長できない。企業はそういう人を、あとでリストラして、社外に放り出す。
(もっと詳しい話は雑誌を読めばいい。)
──
なお、私の真意は、
「谷から這い上がれやつは馬鹿だ!」
ではなくて、
「勇気をもって這い上がれ!」
である。勘違いしないように。(言わずもがなだが。)
しかしそれでも、これを誤解して、非難が襲いかかってくるだろう。
「谷から突き落とすなんてことが、許されると思っているのか! 人でなし!」
と。……そもそも、谷から突き落とすのは、私じゃないんだが。 (^^);
──
cf.
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q127418932