2009年02月09日

◆ わが師の思い出

 ( 前項 の続き。)
 わが師と呼べる人のことを記す。
  ・ 「思考訓練の場としての英文解釈」の 多田正行 氏。
  ・ 「思考訓練の場としての現代国語」の 棟 明郎 氏。

 ──

 私にとって「わが師」と言える人は、ただ一人しかいない、とも言える。
   思考訓練の場としての英文解釈
 の 多田正行 氏だ。
 私は氏からは、通信添削で学んだだけであり、お顔も知らない。だが、私としては、「わが師」と感じている。(片思いみたいなものだが。)
 私は氏から厳しくしごかれた。これほど厳しくしごかれたことは、他に一度もなかった。ひどい罵声のような言葉を浴びたものだ。「馬鹿の見本」として、添削の雑誌上に掲載されて、全国に馬鹿をさらしたこともあった。
 しかし、このような厳しいしごきによって、甘ったれた自惚れた悪ガキだった高校生が、自分の未熟さを悟るようになり、大きく成長することができたと思う。「おまえは未熟な人間だ」ということを常に意識させられ、「もっと成長せよ」と教えられたと思う。仮に、氏と出会わなかったなら、私はいかに甘ったれた軟弱な人間になっていたかと思うと、ぞっとする。

 氏の言葉は滅茶苦茶に厳しかった。これは、他人から見れば、「人を傷つける行為」の見本であろう。
 しかし、その厳しさの奥には、深い愛情があることは、よくわかっていた。氏は決して、私が憎くて、厳しい言葉を浴びせたのではない。私に成長してもらいたいから、厳しい言葉を浴びせたのだ。そのことははっきりとわかっていた。
 だからこそ私は、何が何でも氏の教えを受けようとして、早く並んで席を取ろうとした。(この意味はちょっとわかりにくいと思うが、説明しない。すみません。)

 ──
 
 あと一人、やや厳しい先生もいた。
   思考訓練の場としての現代国語
 の 棟 明郎 氏だ。この先生もまた、私に大きな影響を与えた。私はこの先生からもいろいろと学んだ。
 自分勝手に文章を読むようないい加減さを徹底的に正されたし、文章をきちんと理解する厳しい態度を教えられた。私はこの先生のもとにも、せっせと参じて学んだものだ。

 以上の二人の先生が、私にとって決定的に大きな影響を与えたと言える。

 ──

 さらに言うなら、高校時代の恩師が二人いる。

 一人は、数学教師だった、長野先生だ。天才的な数学のヒラメキを見せることで、「問題が解ければいい」と考えていた私の頭をぶちこわしてくれた。「物事の本質を突け」ということを、はっきりと実例で教えてくれた。「点数だけよければいい」という発想がいかに愚劣であるかを、数学において、これほど明確に教えてくれた先生はいない。厳しい言葉で生徒を批判すればするほど、生徒の側は学ぶことが大きかった。

 もう一人、英語の 大西先生も、厳しさと厳密さで、とてもよくしごいてくださった。

( ※ その点では、両先生は、多田正行氏と似ていた。あれほど厳しくはなかったが。  (^^); )

 ──

 とにかく、私にとって大きな影響を与えたのは、滅茶苦茶に厳しい言葉を与えて、私をしごいた先生ばかりだ。他の先生は、優しい先生も多かったが、あまり役に立たなかった。ほとんど心にも残っていない。
 厳しい言葉こそ、人を成長させる。そのことを、これらの先生は、本当によく示してくれた。その効果は本当に大きかったと思う。

 ──

 最後にもう一人。
 特に学問的に優秀というわけではなかったが、私にとって、とても重要な先生が一人いる。ずっと忘れていたが。
 それは、中学時代の、若い美人の先生だ。タレントみたいな感じ。サンデー先生みたいな感じ。大学の新卒で、ミニスカートがよく似合った。
 私は、先生が来ると、胸をドキドキさせて、顔を真っ赤にして、俯くばかりだったが、他の悪ガキの生徒は、先生をさんざん冷やかした。(若い美人を冷やかさずにはいられない、という悪ガキばかり。  (^^); )
 この先生は、現代文の先生だったが、授業をつぶしてまで、生徒に人生論をしばしば垂れた。人を馬鹿にするような態度をする悪ガキたちに、さんざん人生訓を垂れた。……あれは心にしみいった。馬鹿な悪ガキたちが、いかに馬鹿であるかを、はっきりと教えてくれた。私もまた、自分がいかに未熟なガキであるかを、はっきりと教えられた。

 この先生は、人間の優しさというものを、教えてくれたと思う。仮に、この先生に出会わなかったら、他人への優しさなど、知らずじまいだったかもしれない。「他人が悪い、社会が悪い」と責任転嫁するだけで、自らを反省することを知らない、下らない人間になっていたかもしれない。他人から物をもらうだけで、自分からは与えることをしないような、欲深い人間となっていたかもしれない。自分からは他人に何も貢献しないまま、「自分は頭がいいから尊敬されて当然だ」と思うような人間になっていたかもしれない。……そういう身勝手な人間になってはいけないということを、先生は涙をこぼしながら、何度も教えてくれた。あれは本当に、心にしみいった。
 この先生は、私たちの人間性を否定した。私たち(悪ガキたち)が、いかに下らない人間であるかを、はっきりと教えてくれた。人間性を否定する厳しい言葉であったからこそ、私たちの心の奥に針のようにしみこんできた。
 今にして思えば、あれほど愛情の深い言葉はなかった、と思う。学力でなく人間性を否定するような、最も手厳しさをもたらしてくれる言葉こそ、最も愛情に満ちた言葉だったと思う。

 ──

 人を成長させるものは、厳しい言葉だ。未熟な愚か者の心を手ひどく傷つけるような、厳しい言葉だ。それに勝るものはない。そして、それは、にも等しい。
 だから、それを与えてくれた上記の先生方に、私は本当に感謝している。今となっては、会って対面してお礼を述べることもできないが、できれば、ネットを通じて、先生方の耳に届けば、と願う。……本当にありがとうございました。
 
( ※ もう一人、重要な人がいた。それは、ひょっこりひょうたん島を書いた、井上ひさし氏だ。氏にも感謝しなくては。)



 [ 付記 ]
 ひるがえって、若い人のために言っておこう。アドバイスふうに。(厳しい言葉だから、聞かなくてもいい。耳をふさいでいたければ、ここで退場して下さい。)

 「人に傷つけられたくない」
 「人を傷つけたくない」
 というふうなことばかり思っていては、「引きこもり」ふうになってしまう。それは現代の「オタク化社会」に特有な現象だ。
 人と人との関係では、傷つけることもあるし、傷つけられることもある。それを恐れていては、人と人との関係を結べない。そのあげく、ちょっと指摘されたとたんに、マジギレしたりするようになる。

 人間社会というものは、傷つけることもあるし、傷つけられることもある。それを恐れていては、軟弱になるだけだ。
 大切なことは、傷つけるとか、傷つけられるとかではない。もっと別のことだ。(それが何であるかは、前項で明白に述べた。)

 最後に、私からアドバイスすることがあるとしたら、こうだ。
 「傷つくことを恐れるな」

 社会であれ、人間関係であれ、傷つくことを恐れていては、前に進めない。しかし、勇気をもって前に進むことが大切なのだ。

 ただ、私は、最初はそれを知らなかった。ビクビクして、前に進むことを恐れていた。傷つくのが怖くて仕方なかった。……そんな私に、前に進む勇気を教えてくれたのは、クラスメートのかわいい女の子だった。小学校の一年生のときに出会った女の子。
 もしかしたらその子が、私にとって最高の師であり、最高の天使だったのかもしれない。
 
 ※ その気持ちがどんな気持ちだったかを知りたければ、次の歌を聴いて下さい。
   → キャンディーズの「つばさ」
 
 ♪ やわらかな 陽ざしの中 朝露にめざめかけた 小鳥のように ……
 
posted by 管理人 at 18:13 | Comment(1) | 科学トピック
この記事へのコメント
 週間モーニングの漫画(三田紀房の「ドラゴン桜」の続編)に、興味深い話があった。2009-02-12 発売号の話。
 ──
 企業が人を育てるには、どうするか? それは
 「獅子は子を千尋の谷に突き落とす」
 という方法。つまり、「若い社員にあえて失敗体験をさせる」という方法。

 そのあと、有能な人と無能な人の差が出る。
 有能な人は、失敗して、谷底に突き落とされたあと、死にものぐるいになって、這い上がる。そのことで、大きく成長する。こうして企業は有能な人材を得る。
 無能な人は、失敗したら、言い訳をして、他人を恨む。引きこもって、いつまでも谷底にいるままで、成長できない。企業はそういう人を、あとでリストラして、社外に放り出す。
(もっと詳しい話は雑誌を読めばいい。)
 ──
 なお、私の真意は、
 「谷から這い上がれやつは馬鹿だ!」
 ではなくて、
 「勇気をもって這い上がれ!」
 である。勘違いしないように。(言わずもがなだが。)

 しかしそれでも、これを誤解して、非難が襲いかかってくるだろう。
 「谷から突き落とすなんてことが、許されると思っているのか! 人でなし!」
 と。……そもそも、谷から突き落とすのは、私じゃないんだが。  (^^);
 ──
cf.
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q127418932

Posted by 管理人 at 2009年02月12日 19:29
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