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人が人を否定すること(蔑むことなど)は、あってはならないか? ── こういう疑問を出した人がいる。社会経験の少ない人ならば、こういう疑問を出すことは考えられる。そこで、そういう人のために、私なりに見解を示しておこう。
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まず、初めの質問は、次の通り。
本来、どのような理由があろうとも、人が人を侮ったり、否定したりすることがあってはならない、と私は思う。他人を侮蔑することを正当化できる理由など、どんな人間がもつだろう。この疑問を誰が発したかは、あまり考えないでほしい。本来ならば、リンクを記すべきだとは思うが、相手に迷惑がかかりそうなので、あえて記さない。(先日も迷惑をかけてしまったので、二の舞を防ぐ。)
とにかく、同じ疑問を発する人は、いっぱいいるはずなので、誰が質問を発するかは、特に問わないでほしい。著作権も生じないほどの、ありふれた疑問だからだ。
( ※ 「発言者は誰か?」ということを探りたがる人が、やたらと多いが、そんなの、どうだっていいでしょ!)
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ともあれ、私なりの見解を示せば、次の通り。
一般に、社会経験のない子供は、物事の是非を問う。
「それは正しいことなの? 悪いことなの?」
と。たとえば、次のように。
「嘘をつくことは、正しいことなの? 悪いことなの?」
「人を傷つけることは、正しいことなの? 悪いことなの?」
しかし、そういうのは、子供の発想である。
子供はそういう質問をするが、大人になれば、自然に解答は得られる。
「世の中には、正しいことも、悪いこともある。それはどうしようもない現実だ。その現実を知ることが大事だ」
「嘘をつく人は、とにかくいる」
「人を傷つける人は、とにかくいる」
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正しいとか悪いとか、書生論議をしても仕方ないのだ。大人が子供にしつけるならば、そういう論議をしてもいいが、大人自身は、そんな論議をしない。その上で、次のいずれかを取る。どちらもダブルスタンダードだ。
(1) 自分はしてもいいが、他人はしては駄目。
(2) 自分はしないが、他人がするのは仕方ない。
以下、説明しよう。
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(1)
前者は、悪人の人生観だ。
「自分は他人を傷つけてもいいが、他人はおれを傷つけてはいけない」
これは実は、次の発想と同じである。
「自分は盗んでもいいが、他人はおれのものを盗んではいけない」
そしてこれは、ひょっこりひょうたん島が教えてくれている。
「♪ 俺のものは俺のもの 人のものは俺のもの だから地球は俺のもの
グッドバイバイ グッドバイジョー グッドバイバイ グッドバイジョー」
( → 出典 )
こういう発想をする悪人はいる。それが世界の現実だ。その現実を知ることが大切だ。
泥棒を良いとか悪いとか、書生論をすればいいのではない。悪のある現実を知るのが、大人の態度だ。
(泥棒に向かって善悪の倫理を垂れることほど無駄なことはない。)
(2)
後者は、善人の人生観だ。ここでは、次のように考える。
「世の中には、人を傷つけて攻撃する人はいる。それが世界の現実だ。しかし自分は、それを正当化しない。他人が自分を傷つけても、自分からは他人を傷つけない」
たとえば、トンデモマニアが
「おまえはトンデモだ! おまえは気違いだ!」
と攻撃してきても、それを柳の風と受け流す。まともに応じない。相手と同じ土俵には乗らない。「相手が気違いだからといって、自分が気違いの相手をする必要はない」と考える。
ここでは、「人を傷つけていいかどうか」などと考えてはならない。そんなことを考えれば、「相手は私を傷つけているから悪だ」と判断してしまう。
しかし、そんなことを考えることほど、馬鹿馬鹿しいことはない。いくら考えても、気違いが態度を改めるはずがないからだ。
世の中には、気違いがいる。そういう現実を認識するべきだ。その上で、「他人から攻撃されても、自分は攻撃しない」という立場を取ればいい。
まともな人ならば、そう判断するはずだ。
( ※ つまり、「相手に悪口を言われた」とか「蔑まれた」とか、そんなふうに認識して、相手の是非を考えるな、ということ。他人は他人。自分は自分。他人が間違っていようと、自分は正しいことをすればいい。)
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以上のように記した上で、質問に答えよう。質問を再掲すると、次の通り。
本来、どのような理由があろうとも、人が人を侮ったり、否定したりすることがあってはならない、と私は思う。他人を侮蔑することを正当化できる理由など、どんな人間がもつだろう。基本的には、われわれは、人のことを侮辱するようなことは、やめた方がいい。特に、悪意ゆえに、そうすることは、やめた方がいい。自分がみじめになるだけだ。(悪口を言う自分が、馬鹿に見えて、馬鹿にされるだけだ。トンデモマニアと言われる連中が、世間からどういうふうに見られているか、知るといい。2ちゃんねるあたりでは、さんざん馬鹿にされているのがわかる。)
だから、悪意をもって、人を攻撃するのはやめた方がいいだろう。相手のためというよりは、自分のために。(みっともないので。)
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とはいえ、悪意がなければ、人の難点を指摘することは、決して悪いことではない。ここでは、次の二通りがある。
(A) 他人の間違いを見ても、見て見ぬフリ。
(B) 他人の間違いを見たら、きちんと指摘する。
このどちらにするか? 実は、それには、正解がない。あくまで人生観の問題だ。どちらにしても、全面的に正しいということもないし、全面的に間違っているということもない。
ただし、次のようには言える。(場合分けする。)
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(A) 他人の間違いを見ても、見て見ぬフリ。
これは非常に得である。そうすれば、他人に恨まれることもない。「悪口を言わない、いい人」と思われて、とても得をする。
たとえば、あなたの友人である女性が、変なふうに下着を出して、恥ずかしい思いをしているとしよう。それを指摘すれば、あなたは恨まれる。「恥をさらされた!」と相手は怒るだろうし、あなたは敬遠されるだろう。
だから、そういうときは、口を閉じて黙っていればいい。他人の欠点は、他人の責任だ。放置しておけばいい。それで損するのは本人だ。こっちがとばっちりを食う必要はない。相手がいくら欠点を放置したままで、恥をさらそうと、「見て見ぬフリ」をすればいいのだ。それが自分にとって一番得な方法である。
だから、自分が得をしたければ、そうすればいい。
(B) 他人の間違いを見たら、きちんと指摘する。
きちんと指摘するなんて、そんなことをすれば、恨まれるだけだ。
指摘された本人は、指摘されたおかげで、以後、恥をさらさないで済むようになる。本人はとても大きなメリットを得る。しかしながら、指摘したこちらは、相手からすごく恨まれる。
たとえば、
「人に優しくされたいと思うより、自分の方から優しくしましょう」
と教えたとする。それを知った本人は、そのことで、人間的に成長して、大きな利益を得るようになるだろう。しかしながら、そう指摘して上げた自分は、その相手から、すごく恨まれるようになる。
「私のことを優しさが足りないと指摘したのね!」
というふうに思われて、すごく恨まれる。
だから、まともな人間は、そういうふうにするべきではなかろう。「他人のためには奉仕するが、自分は恨まれてもいい」と思うのは、酔狂な人だけだ。
だから、「他人の間違いを見たら、きちんと指摘する」ということは、一般的には、やらない方がいい。損するだけだからだ。
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結論。
上の (A)(B) の二つの人生観がある。そのどちらを取るかは、各人の生き方の問題だ。どちらでもいい。
ただし、次の違いがある。
(A)は、他人にとって損で、自分にとって得。
(B)は、他人にとって得で、自分にとって損。
したがって、「自分は損をしたくない」あるいは「人をほんのわずかでも傷つけたくない」と思うのであれば、前者を取るべきだ。つまり、「見て見ぬフリ」をするべきだ。そうすれば、「いい人」と思われて、得をする。
一方、「人を成長させてあげよう」と思うのであれば、後者を取ってもいいだろう。ただし、その場合、指摘した自分が攻撃されて傷つく。親切なことをしたがゆえに傷つく。その覚悟がないのであれば、やめた方がいい。「あんたは、人の欠点を指摘して、平気でいるような、ろくでなしね!」と思われて、恨まれて、損するだけだ。
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なお、上記では記さなかったが、話の前提に、次のことがある。
「人間は誰しも欠点をもつ。人は誰しも未熟である。完璧な人間などはいない。……ただし、その欠点を正そうとすることで、人間は成長する」
欠点に耳をふさげば、人間は成長しない。
欠点を聞けば、人間は成長する。
だから、一般論で言えば、
「他人の欠点を指摘してはいけない」
ということは、ありえない。実際、教師ならば、そういうことはしばしばするだろう。(ただし、教師であっても、生徒から恨まれることはある。「この先生は私をいじめた!」と生徒が思うことはある。)
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なお、指摘する内容で分類すると、次の通り。
絶対に告げてはいけないのは、身体的なことだ。それは自分では直せないからだ。容貌であれ、身長や体重であれ、機能性であれ、身体的なことについては、良し悪しを告げてはならない。……そういうことを理解するのが、「心優しさ」というものだ。
一方、人間性や学説についてであれば、指摘してもいい。なぜなら、それらは、いくらでも是正可能であるからだ。(例。タバコを吸うことや、オタクであることは、直せる。)
人間性はいくらでも変えられる。人は人間的にいくらでも成長できる。
とすれば、人間性の未熟な人に向かって、その人の未熟さを指摘しないでいることは、決して優しさではない。人間的に未熟な人は、これからも恥をかき続ける。それをあえて放置するのは、決して優しさではない。
逆に、本人に恨まれても、本人の成長を助けてあげることが、優しさだろう。(「おせっかい」とも言うが。 (^^); )
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最後に。
言わずもがなの蛇足だが、本項は、次のようにまとめることもできる。
「人を傷つけるのは是か非か、というような質問は、質問そのものが無効である」
( ※ 「塩分を取るのは是か非か」というのと同じように、馬鹿げた質問。一律に答えられるものではない。)
ただ、一つだけ処世訓を与えるなら、次のようになる。
「自分の未熟さをさりげなく指摘してくれる人がいたら、(たとえそれがピンボケでも)恨むよりは、感謝した方がいい。そうすれば、自分はいっそう成長できる。逆に、恨めば、どんどん愚かになる」
「傷ついたとか、傷つけられたとか、そんなことはどうでもいい。人間は誰しも未熟である。それを踏まえて、いかに成長するかだけが、大切だ」
[ 付記1 ]
以上は、人生経験のない人向けの、わかりやすい解説だ。
「そんなの当り前だろ! いちいち書くな!」
と言わないで下さい。当り前のことを知らない人が多い、というのが、現代のオタク社会なんですから。
[ 付記2 ]
とはいえ、こういうのは、昔のスポコン漫画時代には流行ったが、今ではちっとも流行らない。
だから、時流に乗るなら、本当の優しさなんか捨てた方がいい。今の流行は、「相手を甘やかしてスポイルさせること」である。
たとえば、メードさんや萌えキャラのような。
[ 付記3 ]
とすれば、最初のような質問をする人は、もともと現代に育った人なのだから、そういう人には、
「相手をスポイルする方針を取るといいですよ。それが楽で得するから」
と答えるのが、正解かもしれない。とにかく、現代とは、そういう時代なのだ。雑草のようにたくましく育った人は、ひどく少数派になってしまった。
[ 付記4 ]
余談として、私の個人的体験を語ろう。……と書きはじめたら、分量が長くなってしまったので、次項に移す。
→ わが師の記憶
ここにこそ、本項の本当の解答がある、とも言えるかもしれない。本項だけを読んでも、話は解決していないので、次項も読んでほしい。