2009年02月09日

◆ 人を否定することの是非

 人を否定することはあってはならないか? ── これに答える。社会経験の少ない人のために。

 ──

 人が人を否定すること(蔑むことなど)は、あってはならないか? ── こういう疑問を出した人がいる。社会経験の少ない人ならば、こういう疑問を出すことは考えられる。そこで、そういう人のために、私なりに見解を示しておこう。

 ──

 まず、初めの質問は、次の通り。
 本来、どのような理由があろうとも、人が人を侮ったり、否定したりすることがあってはならない、と私は思う。他人を侮蔑することを正当化できる理由など、どんな人間がもつだろう。
 この疑問を誰が発したかは、あまり考えないでほしい。本来ならば、リンクを記すべきだとは思うが、相手に迷惑がかかりそうなので、あえて記さない。(先日も迷惑をかけてしまったので、二の舞を防ぐ。)

 とにかく、同じ疑問を発する人は、いっぱいいるはずなので、誰が質問を発するかは、特に問わないでほしい。著作権も生じないほどの、ありふれた疑問だからだ。
( ※ 「発言者は誰か?」ということを探りたがる人が、やたらと多いが、そんなの、どうだっていいでしょ!)

 ──

 ともあれ、私なりの見解を示せば、次の通り。


 一般に、社会経験のない子供は、物事の是非を問う。
 「それは正しいことなの? 悪いことなの?」
 と。たとえば、次のように。
 「嘘をつくことは、正しいことなの? 悪いことなの?」
 「人を傷つけることは、正しいことなの? 悪いことなの?」
 しかし、そういうのは、子供の発想である。

 子供はそういう質問をするが、大人になれば、自然に解答は得られる。
 「世の中には、正しいことも、悪いこともある。それはどうしようもない現実だ。その現実を知ることが大事だ」
 「嘘をつく人は、とにかくいる」
 「人を傷つける人は、とにかくいる」

 ──

 正しいとか悪いとか、書生論議をしても仕方ないのだ。大人が子供にしつけるならば、そういう論議をしてもいいが、大人自身は、そんな論議をしない。その上で、次のいずれかを取る。どちらもダブルスタンダードだ。
 (1) 自分はしてもいいが、他人はしては駄目。
 (2) 自分はしないが、他人がするのは仕方ない。

 以下、説明しよう。

 ──

 (1)

 前者は、悪人の人生観だ。
 「自分は他人を傷つけてもいいが、他人はおれを傷つけてはいけない」
 これは実は、次の発想と同じである。
 「自分は盗んでもいいが、他人はおれのものを盗んではいけない」
 そしてこれは、ひょっこりひょうたん島が教えてくれている。
 「♪ 俺のものは俺のもの 人のものは俺のもの だから地球は俺のもの
 グッドバイバイ グッドバイジョー グッドバイバイ グッドバイジョー」

   ( → 出典
 こういう発想をする悪人はいる。それが世界の現実だ。その現実を知ることが大切だ。
 泥棒を良いとか悪いとか、書生論をすればいいのではない。悪のある現実を知るのが、大人の態度だ。
(泥棒に向かって善悪の倫理を垂れることほど無駄なことはない。)

 (2)

 後者は、善人の人生観だ。ここでは、次のように考える。
 「世の中には、人を傷つけて攻撃する人はいる。それが世界の現実だ。しかし自分は、それを正当化しない。他人が自分を傷つけても、自分からは他人を傷つけない」
 たとえば、トンデモマニアが
 「おまえはトンデモだ! おまえは気違いだ!」
 と攻撃してきても、それを柳の風と受け流す。まともに応じない。相手と同じ土俵には乗らない。「相手が気違いだからといって、自分が気違いの相手をする必要はない」と考える。
 ここでは、「人を傷つけていいかどうか」などと考えてはならない。そんなことを考えれば、「相手は私を傷つけているから悪だ」と判断してしまう。
 しかし、そんなことを考えることほど、馬鹿馬鹿しいことはない。いくら考えても、気違いが態度を改めるはずがないからだ。
 世の中には、気違いがいる。そういう現実を認識するべきだ。その上で、「他人から攻撃されても、自分は攻撃しない」という立場を取ればいい。
 まともな人ならば、そう判断するはずだ。

( ※ つまり、「相手に悪口を言われた」とか「蔑まれた」とか、そんなふうに認識して、相手の是非を考えるな、ということ。他人は他人。自分は自分。他人が間違っていようと、自分は正しいことをすればいい。)

 ──

 以上のように記した上で、質問に答えよう。質問を再掲すると、次の通り。
 本来、どのような理由があろうとも、人が人を侮ったり、否定したりすることがあってはならない、と私は思う。他人を侮蔑することを正当化できる理由など、どんな人間がもつだろう。
 基本的には、われわれは、人のことを侮辱するようなことは、やめた方がいい。特に、悪意ゆえに、そうすることは、やめた方がいい。自分がみじめになるだけだ。(悪口を言う自分が、馬鹿に見えて、馬鹿にされるだけだ。トンデモマニアと言われる連中が、世間からどういうふうに見られているか、知るといい。2ちゃんねるあたりでは、さんざん馬鹿にされているのがわかる。)

 だから、悪意をもって、人を攻撃するのはやめた方がいいだろう。相手のためというよりは、自分のために。(みっともないので。)

 ──

 とはいえ、悪意がなければ、人の難点を指摘することは、決して悪いことではない。ここでは、次の二通りがある。

 (A) 他人の間違いを見ても、見て見ぬフリ。
 (B) 他人の間違いを見たら、きちんと指摘する。


 このどちらにするか? 実は、それには、正解がない。あくまで人生観の問題だ。どちらにしても、全面的に正しいということもないし、全面的に間違っているということもない。
 ただし、次のようには言える。(場合分けする。)

 ──

 (A) 他人の間違いを見ても、見て見ぬフリ。

 これは非常に得である。そうすれば、他人に恨まれることもない。「悪口を言わない、いい人」と思われて、とても得をする。
 たとえば、あなたの友人である女性が、変なふうに下着を出して、恥ずかしい思いをしているとしよう。それを指摘すれば、あなたは恨まれる。「恥をさらされた!」と相手は怒るだろうし、あなたは敬遠されるだろう。
 だから、そういうときは、口を閉じて黙っていればいい。他人の欠点は、他人の責任だ。放置しておけばいい。それで損するのは本人だ。こっちがとばっちりを食う必要はない。相手がいくら欠点を放置したままで、恥をさらそうと、「見て見ぬフリ」をすればいいのだ。それが自分にとって一番得な方法である。
 だから、自分が得をしたければ、そうすればいい。

 (B) 他人の間違いを見たら、きちんと指摘する。

 きちんと指摘するなんて、そんなことをすれば、恨まれるだけだ。
 指摘された本人は、指摘されたおかげで、以後、恥をさらさないで済むようになる。本人はとても大きなメリットを得る。しかしながら、指摘したこちらは、相手からすごく恨まれる。
 たとえば、
 「人に優しくされたいと思うより、自分の方から優しくしましょう」
 と教えたとする。それを知った本人は、そのことで、人間的に成長して、大きな利益を得るようになるだろう。しかしながら、そう指摘して上げた自分は、その相手から、すごく恨まれるようになる。
 「私のことを優しさが足りないと指摘したのね!」
 というふうに思われて、すごく恨まれる。
 だから、まともな人間は、そういうふうにするべきではなかろう。「他人のためには奉仕するが、自分は恨まれてもいい」と思うのは、酔狂な人だけだ。
 だから、「他人の間違いを見たら、きちんと指摘する」ということは、一般的には、やらない方がいい。損するだけだからだ。

 ──

 結論。

 上の (A)(B) の二つの人生観がある。そのどちらを取るかは、各人の生き方の問題だ。どちらでもいい。
 ただし、次の違いがある。
 (A)は、他人にとって損で、自分にとって得。
 (B)は、他人にとって得で、自分にとって損。


 したがって、「自分は損をしたくない」あるいは「人をほんのわずかでも傷つけたくない」と思うのであれば、前者を取るべきだ。つまり、「見て見ぬフリ」をするべきだ。そうすれば、「いい人」と思われて、得をする。
 一方、「人を成長させてあげよう」と思うのであれば、後者を取ってもいいだろう。ただし、その場合、指摘した自分が攻撃されて傷つく。親切なことをしたがゆえに傷つく。その覚悟がないのであれば、やめた方がいい。「あんたは、人の欠点を指摘して、平気でいるような、ろくでなしね!」と思われて、恨まれて、損するだけだ。

  ────────────

 なお、上記では記さなかったが、話の前提に、次のことがある。
 「人間は誰しも欠点をもつ。人は誰しも未熟である。完璧な人間などはいない。……ただし、その欠点を正そうとすることで、人間は成長する」

 欠点に耳をふさげば、人間は成長しない。
 欠点を聞けば、人間は成長する。

 だから、一般論で言えば、
 「他人の欠点を指摘してはいけない」
 ということは、ありえない。実際、教師ならば、そういうことはしばしばするだろう。(ただし、教師であっても、生徒から恨まれることはある。「この先生は私をいじめた!」と生徒が思うことはある。) 

 ──

 なお、指摘する内容で分類すると、次の通り。
 絶対に告げてはいけないのは、身体的なことだ。それは自分では直せないからだ。容貌であれ、身長や体重であれ、機能性であれ、身体的なことについては、良し悪しを告げてはならない。……そういうことを理解するのが、「心優しさ」というものだ。

 一方、人間性や学説についてであれば、指摘してもいい。なぜなら、それらは、いくらでも是正可能であるからだ。(例。タバコを吸うことや、オタクであることは、直せる。)
 人間性はいくらでも変えられる。人は人間的にいくらでも成長できる。
 とすれば、人間性の未熟な人に向かって、その人の未熟さを指摘しないでいることは、決して優しさではない。人間的に未熟な人は、これからも恥をかき続ける。それをあえて放置するのは、決して優しさではない。
 逆に、本人に恨まれても、本人の成長を助けてあげることが、優しさだろう。(「おせっかい」とも言うが。  (^^); )
 
 ──

 最後に。
 言わずもがなの蛇足だが、本項は、次のようにまとめることもできる。
 「人を傷つけるのは是か非か、というような質問は、質問そのものが無効である」
( ※ 「塩分を取るのは是か非か」というのと同じように、馬鹿げた質問。一律に答えられるものではない。)

 ただ、一つだけ処世訓を与えるなら、次のようになる。
 「自分の未熟さをさりげなく指摘してくれる人がいたら、(たとえそれがピンボケでも)恨むよりは、感謝した方がいい。そうすれば、自分はいっそう成長できる。逆に、恨めば、どんどん愚かになる」
 「傷ついたとか、傷つけられたとか、そんなことはどうでもいい。人間は誰しも未熟である。それを踏まえて、いかに成長するかだけが、大切だ」




 [ 付記1 ]
 以上は、人生経験のない人向けの、わかりやすい解説だ。
 「そんなの当り前だろ! いちいち書くな!」
 と言わないで下さい。当り前のことを知らない人が多い、というのが、現代のオタク社会なんですから。

 [ 付記2 ]
 とはいえ、こういうのは、昔のスポコン漫画時代には流行ったが、今ではちっとも流行らない。
 だから、時流に乗るなら、本当の優しさなんか捨てた方がいい。今の流行は、「相手を甘やかしてスポイルさせること」である。
 たとえば、メードさんや萌えキャラのような。

 [ 付記3 ]
 とすれば、最初のような質問をする人は、もともと現代に育った人なのだから、そういう人には、
 「相手をスポイルする方針を取るといいですよ。それが楽で得するから」
 と答えるのが、正解かもしれない。とにかく、現代とは、そういう時代なのだ。雑草のようにたくましく育った人は、ひどく少数派になってしまった。

 [ 付記4 ]
 余談として、私の個人的体験を語ろう。……と書きはじめたら、分量が長くなってしまったので、次項に移す。
   → わが師の記憶
 ここにこそ、本項の本当の解答がある、とも言えるかもしれない。本項だけを読んでも、話は解決していないので、次項も読んでほしい。
 
posted by 管理人 at 18:03 | Comment(0) | 科学トピック
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