2008年 01月
論文「<佐藤優現象>批判」 全文公開 [2008-01-27 03:19 by kollwitz2000]
佐藤優の「大鹿靖明『AERA』記者への公開質問状」について [2008-01-18 01:01 by kollwitz2000]
佐藤優のワシントンポスト意見広告への嘲笑 [2008-01-09 23:12 by kollwitz2000]
2008年1月10日 佐藤優・安田好弘弁護士・『インパクション』編集長による会合 [2008-01-07 00:36 by kollwitz2000]

論文「<佐藤優現象>批判」 全文公開
このたび、『インパクション』第160号(2007年11月10日発行)に掲載された、「<佐藤優現象>批判」の全文を公開した。全文公開に関しては、『インパクション』編集部の了解を得ている。

http://gskim.blog102.fc2.com/

# by kollwitz2000 | 2008-01-27 03:19 | 「<佐藤優現象>批判」全文
佐藤優の「大鹿靖明『AERA』記者への公開質問状」について
少し前の話になるが、佐藤優の「大鹿靖明『AERA』記者への公開質問状」が、『金曜日』のホームページで全文掲載され(2007年5月11日)、現在でも読むことができるようになっている。
http://www.kinyobi.co.jp/MiscPages/open_letter070511

『金曜日』によるホームページでのこの全文掲載自体が、『金曜日』の佐藤への異様なほどの入れ込み具合を示していることは、既に指摘されている。また、この全文掲載に対する私の見解も、既に書いた

なお、この公開質問状の質問25~27について、言及されている小谷野敦は批判しているが、『金曜日』は、小谷野による佐藤への返答を、ウェブページに掲載することを拒否し、また、佐藤自身も、小谷野による批判に対してまともに答えていない。
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20070524

さて、本題に入ろう。前から不思議なのは、佐藤の「公開質問状」の「質問19」が、未だに訂正または削除されていないことである。「質問19」を引用しよう。

「質問19.「読書する大衆」という記述について
(1)《「思考するメディア」「読書する大衆」をターゲットとする戦略》(19頁)という記述がありますが、ここでいうターゲットの意味を説明してください。
(2)私が「読書する大衆」という言葉を用いたことがあるか、あるとするならばどこで用いたかについて明示してください。
(3)私は「読書する大衆」という認識をもっていません。従って、そのような言葉を用いた記憶がないのです。それにもかかわらず、カギ括弧つきであたかも私の発言であるかの如く「読書する大衆」という記述を大鹿さんがなされた真意について釈明を求めます。」

だが、佐藤は『獄中記』(岩波書店、2006年12月刊)で、以下のように書いている。

「どうも法律の世界というものが信用できない。法律という擬制の下で、政治的力関係を処理しているように思えてならない。この点についても国策捜査との絡みで考え方を整理してみる必要がある。/読書する大衆、すなわち活字メディア(月刊誌)の読者をターゲットとする。『世界』、『論座』あたりが狙い目か。メディアの役割は決定的に重要である。ワイドショー型公共圏により、真紀子VS宗男の二項対立ができあがる。プロレス型。鈴木が悪役レスラー(ヒール)に。」(『獄中記』47頁。「(注・2002年)7月2日」付の記述)

「読書する大衆」と佐藤自身がはっきり書いているではないか。ある人物の言明において、これほど誤りが明白な事例も珍しいだろう。

私は、かなり前にこの誤りに気づいたとき、佐藤の間抜けさに笑うだけで、そのままうち捨てていたが、一連の佐藤の言動や振る舞い、それを問題にしない護憲派ジャーナリズムの姿勢を見るにつけ、この件は<佐藤優現象>を考えるにあたって、本質的な問題を示唆しているかもしれない、と思うようになった。

『獄中記』の「読書する大衆」をめぐる記述と、「質問19」に整合性がないことは、誰の目にも明らかである。『獄中記』はベストセラーなのだから、仮に、「公開質問状」の『金曜日』ウェブページ掲載時には、佐藤や『金曜日』編集部が『獄中記』の記述を忘れていたとしても、その後、『獄中記』の読者から、何らかの形で佐藤もしくは『金曜日』編集部に『獄中記』での記述が指摘されることはなかったのだろうか。佐藤の取り巻きや佐藤ファンは佐藤に忠告しなかったのだろうか。『金曜日』読者は、編集部に質問しなかったのだろうか。指摘がなかった、と考える方が不自然だと思うのだが。また、佐藤や『金曜日』編集部は、「公開質問状」掲載後に、『獄中記』の記述に気付かなかったのだろうか。

「公開質問状」掲載後(もしくは、掲載時点で実は気付いていた可能性すらあるが)、この件に関する認識があったにもかかわらず、体面上などの理由から放置しているとしたら、佐藤および『金曜日』編集部にとって、正確さや公正さなどというものはどうでもいい、ということを示している。一連の佐藤の振る舞いや、佐藤を使い続ける『金曜日』編集部の姿勢から推測するに、これくらいのことは平気でやるだろう。

また、「質問19」における、佐藤の「読書する大衆」発言に関するヒステリックな否認の身振りを見れば、「読書する大衆」へのマーケティングという佐藤の戦略は、佐藤にとっての企業秘密だったのかもしれない。確かに、佐藤が「活字メディア(月刊誌)の読者」を「大衆」だと認識していること(多分、現在の佐藤の読者についても、佐藤自身はそう思っているだろう。佐藤がこれほどまでに、「読書する大衆」という認識を持っていることを否定するのは、佐藤が自分の読者を実は愚民視していることを隠したいからのように思われる)、リベラル・左派の「論壇」の傾向と対策を勉強し、それに合わせて言説を展開しているらしいこと等が伺われる、好資料ではある。それにしても、記憶違いはさておき、「私は「読書する大衆」という認識をもっていません」などと、よく言えたものである。これは記憶違いというより、嘘ではないか。 

# by kollwitz2000 | 2008-01-18 01:01 | 佐藤優・<佐藤優現象>
佐藤優のワシントンポスト意見広告への嘲笑
インパクションの論文で、佐藤優が「左」「右」の雑誌ごとに主張を使い分けしていることを指摘し、一例として、米国下院での「慰安婦」決議に関する佐藤による使い分けを検討した。今回はその続編である。

私が奇妙に思うのは、佐藤の、山口二郎との対談での以下の発言が、管見の範囲では問題になっていないことである。

山口 基本的には安倍政権の自滅は日本の民主主義にとっては喜ばしいことで、集団的自衛権の正当化も吹っ飛ぶでしょうし、憲法改正は当分無理でしょう。
佐藤 それはとてもよいことです。歴史認識について、「戦後レジームからの脱却」が結局行き着いたのは、「慰安婦」に関するワシントンポストの6月14日付意見広告です。あれに名を連ねた人たちは、あのような形態で歴史認識問題をアメリカ世論に叩きつけることで、具体的にどのような展望が開かれると考えているのでしょうか。」(山口二郎・佐藤優「なぜ安倍政権はメルトダウンしたか」『世界』2007年11月号。2007年10月8日発売)

だが、佐藤は、産経新聞グループのサイト上での連載<地球を斬る>の、2007年8月8日付の記事(「米下院の慰安婦決議(上) 」)では、「慰安婦問題を巡るアメリカの報道には滅茶苦茶なものが多い。「20万人のアジア女性をレイプ・センターに入れた」などという事実無根の話が独り歩きしている。」と述べた上で、安倍談話(2007年3月1日)も「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとし、談話が原因で起こった騒ぎは、アメリカのメディアのせいにしている。こうして、あたかも「慰安婦」決議案自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている。また、この記事の終わりの方で佐藤は、「慰安婦決議に関して、アメリカ下院ごときに何を言われようとも、謝罪をする筋合いはない。中国や韓国から何を言われようとも、公約として掲げた靖国神社参拝を小泉純一郎前総理が取りやめなかったのと同じ論理構成をとればよい。」と述べている。

また、別の記事では、アメリカ下院の「慰安婦」決議について、「事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢で反論することは当然のことだ」と述べている(<地球を斬る>2007年3月29日「安倍政権の歴史認識」)。

その佐藤がなぜ、「「慰安婦」に関するワシントンポストの6月14日付意見広告」や、この意見広告に「名を連ねた人たち」に対して、こうした嘲笑的な発言をする権利があるのだろうか(賛同者の一人である荒木和博とは、鼎談をやっている)。

恐らく佐藤は、賛同者や右派メディアの書き手・読者から追及されたら、「やり方がまずい、と言っているだけだ。意見広告を出した人々の気持ちは痛いほど分かる」といった弁明を用いるのだろう。だが、そんな弁明を、佐藤信者でもない人間は、なぜ許容してやらねばならないのだろうか。『世界』の大多数の読者が、山口と佐藤の上記の対談を一読して、そのように解釈することはまずあるまい。佐藤のやっていることは、思想・信条以前の問題である。ここでの使い分けは、「左」「右」だけではなく、安倍政権崩壊前と崩壊後という、時期による「使い分け」としても考える必要がある。

佐藤は右翼を自称しているが、こういった発言が、右派メディアに黙認されているところを見ると、右派メディアにおいても左派メディアと同じように、「売れればよい」という原則が貫徹しているように思われる。佐藤のこうした発言を右派の書き手が批判できないのは、批判することで、右派メディアの機嫌を損ねて、書く機会を失うことを恐れるからであろう。要するに、左派メディアと似た構造になっているのではないか。呆れるほかない。

# by kollwitz2000 | 2008-01-09 23:12 | 佐藤優・<佐藤優現象>
2008年1月10日 佐藤優・安田好弘弁護士・『インパクション』編集長による会合
佐藤優と、その意を受けた安田好弘弁護士の強い要望により、佐藤・安田氏と『インパクション』編集長との三者の会合が、1月10日に開かれるとのことである。

私は呆れてしまった。私の論文に佐藤が異論があるのならば、『インパクション』編集部に反論・批判の文章を送るか、別の雑誌で反論・批判すべきである。そうした行為をせず、掲載誌を発行する出版社とコンタクトをとろうとするのは、出版社側と「手打ち」をする、もしくは何らかの裏取引をする、と思われても仕方がないのではないか。

この1月10日の会合だが、話し合われる内容を全面的に公開してはどうか。今回の件は「言論」に関するものなのだから、佐藤にとって、隠すことは何もないはずである。

安田氏が佐藤の助太刀をするのは、社会的にバッシングを受けている安田氏にとって、佐藤が有力な応援者だからだろう。私は、論文で、<佐藤優現象>が示唆する国家体制においては、在日朝鮮人を除くマイノリティなどの、社会的弱者が従属的に包摂される(在日朝鮮人のうち、「反日」ではない、日本国籍取得論を積極的に主張するような人々は、包摂されるだろう)と述べたが、「人権派弁護士」たる安田氏の佐藤への助太刀は、そのバリエーションと位置づけることができよう。この「人権派弁護士」は、『週刊新潮』の記事による私への人権侵害についてはどう考えているのだろうか。また、佐藤のその記事への協力(佐藤自身が仕掛けた可能性すらある)についてはどう考えているのだろうか。

安田氏は、私の論文に強い異論を持っているそうであるから、ついでにこの際、私の論文への批判も公開してはどうか。

なお、現在発売中の『週刊新潮』(2008年1月3・10日号)で、佐藤への批判者である原田武夫氏が攻撃されている(「天皇のお言葉」の秘密を暴露してしまった「元外務官僚」)。これに関しては、原田氏が、自身のブログの2007年12月12日付で、「佐藤優という男の「インテリジェンス論」研究(その1)」なる記事を書いたこととの関係が指摘されている。

http://blogs.yahoo.co.jp/electric_heel/19778722.html 
http://blogs.yahoo.co.jp/electric_heel/19779279.html

既にキャッシュでしか残っていないが、この『週刊新潮』の記事が、原田氏の今月刊の著書『北朝鮮vs.アメリカ――偽米ドル事件と大国のパワーゲーム』(ちくま新書)への、佐藤からの先制攻撃であろうことも、あるライターのブログで指摘されている(論文でも触れたが、原田氏は、偽米ドル事件に関する佐藤の主張を批判している)。

実際、『週刊新潮』は、佐藤を激怒させたという人物を攻撃することを、私のケース(2007年12月6日号)、『AERA』記者のケース(2007年5月17日号。この記者の『AERA』の記事は佐藤への単なる提灯記事だが)と、既に2回行なっているのだから、自社からベストセラーを刊行している佐藤を擁護したい『週刊新潮』と、批判を潰したい佐藤が、合作で原田氏攻撃をやっていると推測することは、さして不自然でもあるまい。

仮に、佐藤が『週刊新潮』による原田氏攻撃や、私への攻撃に積極的に関与しているのならば、これは思想・信条の違いを超えた、「言論」の原則に関わる問題である。これだけ重なっているのだから、佐藤の『週刊新潮』の一連の記事への関与について、ジャーナリストやマスコミは、追求するべきだろう。

「言論」に対してまずは「言論」で応えるという原則に反する、今回の会合に見られる佐藤の行動は、一連の『週刊新潮』の記事に対する佐藤の関与疑惑へも、一つの示唆を与えてくれるだろう。

いろいろな意味で、1月10日の会合は、興味深いイベントである。各人の注目を呼びかけたい。

# by kollwitz2000 | 2008-01-07 00:36 | 佐藤優・<佐藤優現象>
< 前のページ 次のページ >