アンジェ城壁




人口141.143

アンジュー地方の昔の首都で、メーヌ川 la Maineの両岸にひろがっている。
メーヌ川は、マイエンヌ川とサルト川が合流して出来る長さ10kmの川で、アンジェの8km下流でロワール河に注ぐ。
アンジェは、旧市街の歩行者地区だけではなく、マレシャル・フォッシュ元帥大通りに面した街区を含め、活気に満ちた都市である。

商業活動が極めて活発で、アンジュー地方のワイン、各種のリキュール(果実酒)、野菜、果物、種子と花、薬用植物、苗などが供給されている。
熱烈なアンジューのワイン通によって結成されている「サカヴァン」協会Confrerie des《Sacavins》は毎年9月末に秋季大会を開く。

エレクトロニクスや自動車部品などの先端産業もまた盛んである。
メーヌ・エ・ロワール地方の全域で開催されるフェスティヴァル・ダンジューFestiva1 dlAnjouは、演し物の質の高さから、相当数の観衆を集めている。



●歴史メモ


紀元前1世紀頃のアンジェは、漁師や猟師などからなる土着民の中心地であった。
その首領のダンナックは、町を征服したローマ人に屈服することなく、地下にもぐった。
ローマ人からノルマン人へ

アンド部族の首都であったアンジェ・ユリオマギュスは2世紀に最盛期を迎え、市域の広さは80haに及んだ。
しかし、残念ながら、この輝かしい週去についての考古学的痕跡はほとんど残されていない。
メーヌ川を見おろす小さな丘の狭い圏内(9ha)に押しこめられていたこの都市は、ローマ帝国の末期に、ゲルマン人の脅威と全般的な疲弊との相乗効果によって人口が減少し、衰退期を迎えた。
一方キリスト教は発展を続け、453年にはアンジェで公会議が開催されるまでになった。
このことからも、学識豊かで、アンジェの保護者兼防衛者でもあった司教タレーズは、この時代の司教たちの中でも傑出した人物のひとりであったように思われる。

アンジェの宗教的発展は、メロヴィング王朝の血なまぐさい王位継承の抗争の影響を受けることがなかった。
6世紀と7世紀にはサン・トーバンとサン・セルジュのふたつの大修道院がアンジェの市域外の新開地に設立されている。
カロリング王朝時代に、アンジェはいったん繁栄を取戻すが、大貴族たちの反抗とノルマン人の侵攻による政情不安のため、すぐさま危機的状況に陥ってしまった。
854年12月にはヴァイキングが町を略奪して立ち去った。
872年に再来したヴァイキングは1年以上も町にとどまった。
そこで、シャルル禿頭王はブルターニュ公の助力を得て彼等を攻囲し、退却させることに成功した。
いささか伝説めいた話によれば、シャルル禿頭王がメーヌ川の流れを変えさせたため、ヴァイキング船団はパニック状態におちいり、あわてて逃走したとされている。

初期のアンジュー家(10〜13世紀) 歴代のフールク伯爵の時代に、アンジェはひときわ輝かしい時期を迎えた。 アンジュー家の設立者たち

王権の衰退は、9世紀末から独立した公国の出現を助長することになった。
その結果、898年には赤毛のフールクにより第1期のアンジュー王朝が誕生する。
彼はアンジェ子爵から伯爵になり、収後その爵位を子孫に伝えた。

善王フールクニ世は、彼が公然と蔑視してはばからなかったフランス王で「蒼白の、海の彼方のルイ四世」の存在を気にかけることなく、相続した所領をル・マンの方向に拡張したのであった。

ジョフロワ一世グリズゴネルのほうはナント伯爵から臣従の礼を受けた。
アンジュー家の人びとは、この地方に根をおろしていたロベール家(カペ王朝の先祖)と、徐々に弱体化しつつあったカロリング王朝とを両天秤にかけ、巧みに操った。

フールク・ネラとその後継者たち

11世紀と12世紀に、アンジュー王朝の権勢は、良心のためらいを知らず、並外れた戦意を抱き、政略結婚という鋭い感覚に支えられた巧みな政治的かけひきによって、絶頂に達した。
フールク三世ネラFoulques lll Nerra(在位987〜1040)は、この強力な封建領主の家系の中で、最も恐るべき人物であった。
猛々しく、狂暴な彼は、領地を拡張するため絶えず戦いを仕掛けた。
そして、順次、アキテーヌ公からはソローニュ地方を封土として獲得し、モージュ地方を併合し、ブロワやシャトーダンまで勢力を伸ばし、ランジェやトゥール(後に敬盧王ロベールにより追われることになる)を奪取し、ヴァンドーム地方に介入し、ソーミュールを手に入れる等々、着々と勢力を伸ばした。

野心に満ち、残忍で、犯罪的なまでに狂暴なフールク・ネラ(ネラとは黒い人の意。
肌の色が非常に浅黒かったのでこの名がある)は、世界の終末の年として恐れられた西暦1000年の大封建領主のまさに典型ともいうべき存在であった。
もっとも、彼はしばしば突如として恭謙なキリスト教徒に立ち返り、激しい後悔の発作に見舞われた。
そのような時には、彼は教会や大修道院に山のように贈物をしたり、巡礼の杖を手にしてエルサレムに向かったりした。
彼はまた、征服の拠点として数多くの城を築いたり、多数の宗教的建造物を建立したことでも知られる。

その息子のジョフロワニ世(在位1040〜1060)も父の意思を継いでメーヌとトゥーレーヌの両地方を手中に収めた。
彼は子供を残さずに死んだため、ふたりの甥が遺産を分配した。
が、間もなくふたりは対立し、結局、悲痛王フールク四世が、アンジュー家の所領を縮小することとひきかえにジョフロワ三世を制した。
こうしてフールク四世はサントンジュ、メーヌ、ガーティネの各地方を失ったが、無為無策に過こしたため、遂に失地を奪回するには至らなかった。
l092年、フランス国王のフィリップー世は、フールク四世の2番目の妻で、若くてうっとりするほど美しいベルトラード・ド・モンフォールを誘惑し、彼女を奪いさって結婚した。
このスキャンダルに対する制裁として、教皇直裁の破門宣告が国王に対してなされた。
しかしl106年に殺害されたジョフロ、ワ四世マルテルと、特1こ青年王フールク五世(在位1109〜l131)とが体制を立て直した。
フールク五世はフランスと英国の敵対関係を最大限に利用しながら、結婚による同盟という戦路をこの上なく巧みに駆使した。
彼自らも1109年の結婚によりメーヌ地方を取戻した。
その後彼はふたりの娘をそれぞれフランスと英国の国王に嫁がせて、両国との関係保持に利用した。
しかし彼が収めた最も見事な成功は、もちろんl128年に息子のジョフロワをマチルド・ダングルテールと結婚させたことであった。
彼女は英国王ヘンリー一世の娘で王位継承者であるうえ、ドイツ皇帝ハインリヒ五世の未亡人でもあった。
フールク五世自身の地位確立の最後の試みは、妻を失った彼と、1129年、エルサレム王ボードワンニ世の娘で王位継承者であるマチルドとの結婚であった。
彼はエルサレム王国に新たなアンジュー王朝を築き、巧みな外交によってヨーロッパ系の国家としての地位を固めた。

ジョフロワ五世

在位1311〜1151)は、帽子にジュネgenet(えにしだ)の枝を飾りとしてつけていたためプランタジュネPlantagenetとよばれた人物で、「大アンジュー地方」(アンジュー、トゥーレーヌ、メーヌの各地方を含む)を厳しく統治し、英国(l135年以来英国王はエチエンヌ・ド・プロワであった)と1144年に併合したノルマンディーに対する妻の諸権利を行使しようと努めた。
1151年に没。

プランタジュネ王朝とカペ王朝

ジョフロワとマチルドの息子のアンリ・プランタジュネは、ルイ七世と離婚したばかりのアキテーヌ公女アリエノールと1152年に結婚した。
その結果、アンジュー、メーヌ、トゥーレーヌ、ノルマンディーを含む彼の領地にポワトゥー、ペリゴール、リムーサン、アングーモワ、サントンジュ、ガスコーニュの各地方のほか、オーヴェルニュ地方に
対する宗主権およびトゥールーズ伯爵領を加えることになった。 l153年、彼は英国王のエチエンヌ・ド・ブロワに対し自分を後継者として認めるよう強制し、翌年英国の国王位に即いてヘンリー二世を名乗った。
以後その権勢はカペ王朝をしのぐものとなった。
ヘンリー二世はほとんど常時フランスに住み、特にアンジェに滞在した。
「赤毛で中背のヘンリー二世は、ライオンに似た角張った顔つきをしており、出目であったが、上機嫌の時にはお人好しで穏やかな目つきも、立腹した時にはぎらぎら光った。
朝から晩まで休まず国事に専念している。
馬に乗った時と食事の時を除いては決して座らない。
弓か剣を手にしないのは国務会議の時か読書に耽っている時ぐらいである。
何人1こもまして機略に富み、雄弁であり、気苦労から解放されるようなことがあれば、知識人たちと議論をするのを好んだ。」(M.パコー)。

プランタジュネ王朝とカペ王朝の間の抗争は半世紀にも及ぶことになった。
しかし、カペ王朝が,最終的に優位に立っことになる。
精緻を極めた封建領主権を拠り所として、カペ王朝が、アングロ・アンジュー王国に合体した地方の独自性を求める傾向と、プランタジュネ王朝を分裂させた家族間の不和に乗じた結果である。
フィリップ・オーギコメト王は、英国の欠地王ジョン(ジャン・サン・テール)の封土を押収して、プランタジュネ王朝に大打撃を与えた。
こうして、アンジュー地方とトゥーレーヌ地方は1205年英国王から奪回されたが、英国とフランスは百年戦争が終結するまで、両地方で覇権を争うことになる。

第2、第3期アンジュー家(13-15世紀)

プランシュ・ド・カスティーユの摂政時代(1226〜1234)、封建大領主たちの反抗によってアンジュー地方はふたたびフランスから失われ、英国王ヘンリー三世がピエール・ド・ドルーからこの地方を受領した。
1231年、休戦協定を利用して、ブランシュ・ド・カスティーユとその息子のルイは、目を見はらせるようなアンジェ城塞の構築を企てた。

アンジュー地方はふたたびカペ王朝の勢力下に入り、1246年聖王ルイは、メーヌ地方と共にこの地方を弟のシャルルに親族封(親王に与える領地)として与えた。
1258年、パリ条約によって、この地方がフランス国王に所属することが確認された。
1360年、アンジュー地方は善良王ジャンにより、息子のルイのために、公爵領に格上げされた。
その結果13世紀から15世紀にかけて、カペ王朝直系の親王たち、次いでヴァロワ王朝が、アンジュー地方を統治することになった。
こうした系譜の両極に、シャルルー世とルネ王のきらびやかな姿が浮かびあがってくる。

シャルル・ダンジュー

この奇妙な人物は、信心に凝り固まったようでいて、並外れた野心を抱き、教皇に招かれ、シチリアとナポリ王国を征服し、イタリア半島のその他の地方にも影響力を及ぼした。
驕りたかぶった彼は、聖地パレスチナやエジプト、コンスタンチノープルをも領土に加えようと夢見た。
しかしシチリアの晩トウ事件が現実の厳しさを彼に思い起こさせた。
1282年の復活祭の月曜日、シチリア人が蜂起し6000人のフランス兵を虐殺したのである。
そのうちの半分はアンジュー地方の出身者であった。

善王ルネ

最後のアンジュー公爵が、シチリア王の称号をもつ善王ルネ(1409〜80)である。
彼はラテン語、ギリシア語、イタリア語、ヘブライ語、カタロニア語に通じ、音楽の演奏と作曲を行い、絵を描き、詩をつくり、数学、幾何学、法律学に精通しているという当時の最も完壁な知識人のひとりであった。
気さくで親しみやすい彼は、臣下と談合することを好み、昔の騎士道の競技を再評価し、民衆の祭を催した。
花壇を好んだ彼は馥郁たる芳香を放つカーネーションやプロヴァンのばらを紹介している。

12歳でイザベル・ド・ロレーヌと結婚し、ふたりのむつまじい仲は33年間続いた。
イザベルが47歳で亡くなると、彼は21歳のジャンヌ・ド・ラヴァルと再婚。
この2度目の結婚は危慎されたものであったが、最初の結婚同様幸せなものになった。
生涯も終わりに近づいた頃、ルネは、ルイ十一世がアンジュー地方を手中に収めるのを達観して眺めるだけであった。
プロヴァンス伯爵でもあった彼は、美しい都会に仕立てあげたアンジェを去ってエクス・アン・プロヴァンスに向かい、そこで72年の生涯を終えた(1480年)。
アンジュー公爵の統治時代に、アンジェに大学が創立されて隆盛をきわめ、10ヵ国から4000人から5000人の学生が集まって活況を呈した。

アンリ四世から現代まで

宗教戦争は、強力なカルヴァン派の教会が存在したアンジェにとってきびしい展開となった。
1560年10月14日、「ハンカチーフの一日」の騒乱により多数の犠牲者が出た。
新旧両教徒の衝突はその後も激しさを増し、1572年、アンジェの町でもサン・バルテルミーの大虐殺が起こった。

1598年、アンリ四世はアンジェ城塞で、息子のセザールを、旧教同盟派の最後の希望の星であったメルクール公爵の娘のフランソワーズ・ド・ロレーヌと結婚させることを約し、旧教同盟の騒乱に終止符を打った。
ふたりの結婚の契約は4月5日に調印されたが、両者の年齢は3歳と6歳にすぎなかった。
その8日後にナントの勅令が発布され、プロテスタントは信仰の自由を獲得することになった。
1652年、フロンド党がたてこもったアンジェはマザランに降伏することになる。
1657年、アンジェは市参事官の選出権を失う。
ナントで捕えられた財務卿のフーケは、ダルタニャンに監視されて、城塞内の城塞司令官の部屋で3週間を週こした。
当時、アンジェの人口は約2万5000を数え、ほとんど産業活動は見られなかった。
1789年、フランス大革命が勃発するとすぐ、アンジェは改革派を熱狂的に支持する姿勢を示した。
大聖堂は路奪されて、理性を祭る神殿になった。
1793年、ジロンド党派の市議会の戦線離脱に伴い、ヴァンデ軍が町を6月20日から7月4日にかけて占拠した。
しかしほどなく共和派が町を奪回し、恐怖政治によって多数の犠牲者が出ることになった。

19世紀の初頭以降、アンジェは半睡状態におちいり、パリとナントを結ぶ鉄道が開通してはじめて目覚めた。
1849年、ルイ・ナポレオン大統領が駅舎の開場式を行っている。
こうして近代的発展がはじまり、20世紀前半は休止状態を迎えはしたが、近年はめざましい発展を続けている。



●城塞


LE CHATEAU・見学:所要2時間

聖王ルイによって1228年から1238年の歳月を費やして造営されたこの城塞は、黒っぽい頁岩(けつがん)に白い石材が縞模様をつくっており、封建時代の建築の見事な代表例である。
昔の濠は美しい庭園になっていて、雌鹿とダマ鹿が草を食んでいる。
城壁に1q以上にわたって展開している17基の円い塔は、高さが40mから50mもある。
昔はこれらの塔の上に、1階または2階の建物があり、胡椒入れの形をした屋根がふかれていた。
これらの構築物は宗教戦争下のアンリ三世の時代に除去された。
国王は城塞全体の取壊しを命じたが、城塞司令官のドナディユ・ド・ピュイシャリクはすべての塔の上部を取除くだけでよしとし、跡をテラスにしたのである。
国王の急死によって、城塞の基幹部分が救われることになった。

城塞の北隅にある風車塔Tour du Moulinは最も高い塔であるが、その上からは、市街や大聖堂とサン・トーバン教会の塔、メーヌ川の河岸、城塞の足下につくられた庭園、城塞の内部、城壁に立並ぶ一連の塔、アーチや整形されたつげの木などがちりばめられた庭園が描き出す手入れの行きとどいた模様、礼拝堂、王室居住棟などの素晴らしい展望が得られる。
東側に城壁めぐりを続けると、ラヴェンダー、マルグリット(マーガレット)、たちあおいで美しく彩られた中世風の魅力的な庭園があり、そのすぐそばにはルネ王好みのぶどう畑がある。



●黙示録の壁掛け


とりわけ名高いこの装飾用壁掛けは、われわれが知る限り最古の、しかも最も見事な作品で、保存と展示用に特につくられた建物の中におさめられている。
アンジュー公ルイー世のために竪機(たてばた)職人兼商人のニコラ・バタイユに発注されたもので、おそらく、エヌカン・ド・プリュージュが、国王シャルル五世の手書き彩色挿画を手本にして描いた下絵をもとに、パリのロベール・ポワンソンの工房で、1373年から1383年にかけて制作されたものと考えられる。
アンジュー公ルイニ世とヨランド・ダラゴンが1400年にアルルで結婚式を挙げた時に用いられたあと、ルネ王がアンジェの大聖堂に寄贈し、以後18世紀の末まで、宗教的祭礼の際に使用されたが、やがて廃品として見捨てられてしまった。
これを司教座聖堂参事会員のジューべ一ルが、1843年から1870年にかけて修復したのである。

当初130mの長さと5mの高さを持っていたこの壁掛けは、6等分に切断され、それぞれ、天蓋の下に腰をおろした大きな人物が含まれていて、視線を、各列7面からなる2列の図柄の方向に向けている。
各面の地色は、赤と青が交互になっていて市松模様を形づくっている。
2枚の長い縁飾りが、それぞれ、奏楽の天使をちりばめた天空と、花々をあしらった地上(最初の部分は消失)を表している。

現存する76面の図柄が見事な全体像を形成している。
個々の情景に対応する聖書の文言が、壁掛けの向かい側の壁面に記され、対応するタピスリーの一部分が裏焼きの複製の形で添えられている。
この作品のもつ規模の大きさ、厳格な構成を持つ構図、ならびに高い装飾的価値、構想の純粋さなどを前にすれば感動せずにはおられない。
黙示録は聖書の中で天空のエルサレムの形で示される新しい世界への移行を表す神の啓示である。
この装飾壁掛けは、新約聖書の最後に置かれた聖ヨハネの黙示録の内容を最も忠実に表現している。
迫害の激しさに動揺しているキリスト教徒の希望を再び活気づけるために、著者のヨハネは、キリスト教徒に対して、預言的な幻想の形でキリストの勝利と試練の後にキリスト教会が勝利を収めることを示しているのである。

礼拝堂と国王居住棟

城塞内にあるこれらの建物は15世紀に建造された。
広々として明るい礼拝堂では、戸口の精巧な彫刻を施されたゴチック様式の扉、暖炉のある公爵用の小礼拝室のほか、円天井の要石に描かれているアンジュー十字などが見もの。
礼拝堂に隣接する、ルネ王が作らせた階段を通って階上の国王居住棟に行ける。

千花図タピスリー

キリスト受難を描いた装飾壁掛けは15世紀末にフランドルで制作された4面で構成されているが、そのうちの1面は紛失してしまった。
色調の豊かさは称賛に値する。
主題は、キリスト受難の際の器具類を手にした天使を描いた宗教的なものであるが、これらのタピスリーは千花図(ミル・フルール)の様式に極めて近い。
このほか、見事な「オルガンを奏でる貴婦人Dame a lOrgue」(16世紀)や9人の「女の勇士」を描いた装飾壁掛けの部分である「パンテジレPenthesi1ee」にも注目されたい。

城塞司令官居住棟

東面の城壁に支えられ、城壁と庭園との間に半ば埋もれた形で造られたこの建造物は18世紀に改造されたもので、上階には15世紀からl8世紀にかけて制作された「オードナルドの草木図」(16世紀末)、「イサクとヤコブ」(16世紀初頭)、「聖サチュルナンの生涯」、「サムソンの物語」(ブリュッセル制作、16世紀)を含むタピスリーの見事なコレクションがおさめられている。