sub514 東京裁判
「歴史の真実」 前野徹著 
五十年前に今日の日本の混迷を予言したインド人

1、 国際法を無視した無効裁判
 
東京裁判とはいったいどのような裁判であったのか。その実体から明らかにしてみたいと思います。すでに述べたように東京裁判は俗称で、正式には「極東国際軍事裁判」といい、昭和二十一年から二十三年まで二年間、東京の市ケ谷陸軍士官学校跡で開かれました。東京で行われたので、「東京裁判」の名がついています。
 日本の断罪は、昭和六年に勃発した満州事変にさかのぼります。満州事変から、大東亜戦争にいたる一連の日本の行為を連合国側は侵略とみなし、占領軍であるマッカーサー司今部が作成した
「極東国際軍事裁判条例(チャーター)に基づき、戦争犯罪人を起訴しました。起訴されたのは、いわゆる「A級戦犯」と呼ばれる戦争責任者たちです。
 東條英機元首相を筆頭に土肥原賢二
(元陸軍大将)、廣田弘毅(近衛内閣外相)、板垣征四郎(元関東軍参謀長)ら二十八名で、昭和二十一年四月二十九日のことでした。
 そしてダグラス・マッカーサー司令官によって任命された、米、英、仏、オランダ、ソ連、カナダ、ニュージーランド、中国、オーストラリア、フィリピン、インドの各国から選ばれた十一人の判事によって二年間にわたる審理が重ねられ、昭和二十三年四月十六日にすべての審理が終了しました。
 判決がはじまったのは、同年十一月四日。判決文の朗読が終わると、最後に刑が宜告されました。これが十一月十二日のことです。
 東京裁判の判事は次の十一力国十一人です。
     アメリカ代表      マイロン・C‐クレーマー        イギリス代表      パトリック
     ソ連代表        I・M・ザリヤノフ             フランス代表      アンリー・ベルナール
     中華民国代表     梅汝敖                 オランダ代表      バーナード・ウィクター・A・レーリング
     カナダ代表       E・スチュワート・マックドウガル   オーストラリア代表   ウィリアム・F・ウエッブ
     ニュージーランド代表 エリマ・ハーベー・ノースクロフト  フィリピン代表      ジヤラニフ
     インド代表        ラダ・ビノード・バール

 アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、中国、オランダ、カナダ、オーストラリア、ニユージJランドの九カ国は日本と交戦した連合国として、フィリピンは当時、アメリカの保護国、インドはイギリスの属領でともに独立国ではありませんでしたが、両国とも連合国に協力し、多大な犠牲を払ったという理由で代表判事に加わりました。
 裁判長は、オーストラリア代表のウエップ判事です。十一人の判事の判決はどうだったのでしょうか。結論からいえば、米、英、ソ連、中国、カナダ、ニュージーランドの六力国の判事が下した有罪とする判決が多数派として通り、日本国ならびに戦争の首謀者は有罪となりました。
 しかし、後の五人は、この六人とは異なる意見書
(判決)を提出しています。六人の判決を軽すぎるとしたのは、フィリピンのジャラニフ判事のみで、ほかの四人は六人の意見に疑問を投げかけました。
 減刑を主張したのは、オランダのレーリング判事。
「廣田弘毅元首相は無罪、ほかの死刑因も減刑せよ。ドイツのナチスの処刑に比して重すぎる」との見解です。
 フランスのベルナール判事は、
「この裁判は法の適用および手続においても誤りがある」と裁判の不当性を指摘し、「十一人の判事が一堂に集まって協議したことは一度もない」と内部告発の声さえあげています。
 そして、終始一貫して全員無罪、いや
「東京裁判は裁判にあらず、復讐の儀式にすぎない」と強く抗議し、裁判自体を違法として、根底から否定した判事がインドのパール博士でした。
 
「この裁判は、国際法に違反しているのみか、法治社会の鉄則である法の不遡及まで犯し、罪刑法定主義を踏みにじった復警裁判にすぎない。したがって全員無罪である」と傅士は主張しました。
 法の不遡及とは、後でできた法律で過去の出来事をさかのぼって裁いてはいけないという法治社会の根本原則です。
 多数派の判事が同意した検察側の起訴状の内容は、
「東條英機元首相以下二十八人の戦犯は共同謀議を行っていた。目的は侵略による世界支配である。その目的を果たすために通常の戦争犯罪のほかに、〃平和に対する罪〃、〃人道に対する罪〃を犯した」とするものでした。
 日本は世界征服をたくらみ、アジア各国を侵略していったというのです。通常の戦争犯罪とは、捕虜の虐待、民間人の殺戮、放火、略奪などをさします。博士はそれらの戦争犯罪を認めた上で、なお日本を無罪としました。
 
「平和に対する罪」「人道に対する罪」など、国際法上は存在していなかったからです。いやそれどころか、戦時中は、連合国側にしても敗戦国の指導者を裁こうという発想自体が存在していませんでした。
 東東裁判やニュルンベルグ裁判の実施は、戦後になってからあわただしく決定されたのです。ドイツが降伏したのが一九四五年五月七日。この時から戦後処理に向かって、連合国は動きはじめますが、具体的な内容が決まったのは、日本が降伏するわずか一週間前の八月八日でした。
 この日、ロンドンで英米仏ソの四力国外相会談が催され、四力国はヨーロッパ枢軸国の
「重大戦争犯罪人の審理と処罰のための裁判所を設置するために国際軍事裁判条例を定めること」にはじめて合意します。
 これに基づき、ドイツの首脳を裁いたニュルンベルグ国際軍事裁判起訴状が十月に発布されました。
 この時、ナチス・ドイツを裁くにあたって、連合国側が持ち出してきたのが、
「人道に対する罪」「平和に対する罪」です。すなわち、日本とA級戦犯とされた被告たちは事後法によって裁かれたわけです。事後法で裁くことは文明社会では許されていません。
 ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺
(ホロコースト)を罰するためにニユルンベルグ裁判条例で新しく設けられた「人道に対する罪」を、ナチスのような民族大虐殺を行っていない日本に適用したのはあまりにも強引です。
2、 判決は裁判の前から決まっていた
 そもそもこの裁判は、最初から違法でした。オーストラリアのウエッブ裁判長とフィリピンのジャラニ判事は法廷に持ち出された事件に、前もって関与していたので判事としては不適格でしたし、協定用語
(法廷での公用語)である英語と日本語がともに理解できないソ連のザリヤノフ判事とフランスのベルナール判事らも適切な判事ではありませんでした。ましてや中国の梅汝敖判事は、本来裁判官ではなく、論外です。国際法の学位を持つ判事はパール博士ただひとりというでたらめぶりです。
 裁判中の判事たちのふるまいも対照的でした。ほかの判事が観光旅行や宴会にうつつを抜かしている間も、博士は、ホテルに閉じこもり、調査と執筆に専念していました。裁判の間に博士が読破した資料は四万五干部、参考図書は三千部におよんだといいます。しかも驚くべきことに、裁判を開く前に判決は決まっていたという事実が後に判明しました。
 博士が、後にご子息、プロサント氏に
「裁判所が判事団に指令して、あらかじめ決めている多数意見と称する判決内容への同意を迫った。さらにそのような事実があったことを極秘にするために、誓約書への署名を強要された」と語り残しています。博士はこのようなプレッシヤーの中、断固として同調を拒否し続けたのでした。博士の毅然とした態度は、占領軍、ひいてはアメリカ本国の誤算でした。
 昭和二十一年の春、マッカーサー司今部は、すでに発布していたチャーター
(極東国際軍事裁判条例)を改訂して、すでに任命している連合国九カ国の判事団に加え、当時は欧米列強の統治下にあったフィリピンとインドから判事を招聘することを決め、英国政府を通じて、インド人の判事の選考を求めました。選考の結果、選ばれたのがすでに世界の国際法学会で議長団のひとりとして活躍していた国際法の学者、パール博士です。
 しかし、この選考には大きな裏がありました。それは博士がそれまで職務と学間に精励してはいたが、インドの独立運動に参加していなかったからという選考理由です。インドは長い間、西洋列強の支配に苦しんでいました。後にお話しするように、この列強の支配から脱するための独立運動を支援したのが日本軍だったのです。
 なぜ、すでに決定していた判事団にフィリピンとインドの判事をあらたに加えようとしたのか。この駆け込みの変更も、東京裁判の性格を雄弁に物語っています。当初選ばれた判事団には、アジアからは中国一力国だけしか入っていなかったからです。あらたにアジア二カ国(それも当時は完全な独立国ではありません)の判事を参加させることによって、アジアの多くの国が日本を罪悪視しているという印象を演出しようとしたのです。
 ところが、マッカーサー司令部の意に反して、高潔な法律家であった博士は、
「法の真理」に準じ、最後まで公正な判決をつらぬき通しました。
 博士は
「戦勝国が敗戦国の指導者たちを捕らえて、自分たちに対して戦争をしたことは犯罪であると称し、彼らを処刑しようとするのは、歴史の針を数世紀逆戻りさせる非文明的行為である」と論じ、「この裁判は文明国の法律に含まれる貴い諸原則を完全に無視した不法行為」であると宣言しました。
 仮に、東京裁判が名目どおり
「平和に対する罪」を裁く裁判だとしたら、世界のいかなる国に対しても公正に国際法が適用されてしかるべきです。裁く者は戦勝国民で、裁かれる者は戦敗国民などということがあづてはならないはずです。戦争に勝った者が正しく、戦争に負けた者が正しくないなどという理屈は天地がひっくり返っても通らないからです。
 英文にして千二百七十五ページ、日本語にして百万語にもおよぶ博士の意見書の末尾には、こう書かれています。
 
「ただ勝者であるという理由だけで、敗者を裁くことはできない」
3、 東京裁判の違法論議に加わらない日本の不思議
 パール判決書は、今もって公式には発表されることなく、闇の中に葬り去られています。しかし、東京裁判が国際法上では、正当性のかけらもない無効な裁判であるという評価は、すでに世界の常識となっています。なぜなら、裁判に関わった当事者たちが後に次々と非を認めたからです。
 まず、裁判が行われた当初から、パール博士と同じく、意見書を出し
「ドイツのナチスに比して刑が重すぎる。滅刑せよ」と判決に疑義を投げかけていたオランダのレーリング判事。彼は帰国して後、オランダのユトレヒト大学で教鞭をとり、国際法学者として名を知られるようになります。レーリングが七十八歳で亡くなる八年前に彼が東京裁判の真相を書き残した本が刊行されています。『ザートウキョウ・トライアル、アンド・ビョンド』(「東京裁判とその後」)です。この著書の中で、戦災の爪痕も生々しい首都圏を目の当たりにしたレーリングは、次のように述懐しています。
「われわれは日本にいる間中、東京や横浜をはじめとする都市に対する爆撃によって市民を大量に焼殺したことが、念頭から離れなかった。われわれは戦争法規を擁護するために裁判をしているはずだったのに、連合国が戦争法規を徹底的に踏みにじったことを、毎日見せつけられていたのだから、それはひどいものだった。もちろん、勝者と敗者を一緒に裁くことは不可能だった。東條(元首相)が東京裁判は勝者による復警劇だといったのは、まさに正しかった」
 そして、
「侵略」の定義さえなかった時代に、日本の侵略戦争と断じた愚挙にふれ、博士が危惧したのと同じく、「次の戦争では、勝者が戦争を終結した時に新しい法律をつくって、敗者がそれを破ったといって、いくらでも罰することができる、悪しき前例をつくった」と、この違法裁判が後世に残した禍根にふれています。
 また、レーリングは
「連合国側の犯罪行為については、一切取り上げることは許されなかった」と振り返り、東京裁判が最初から有罪を前提としたいかにひどい裁判だったかを暴露しています。レーリングの告発は続きます。連合国の犯罪行為には、指一本ふれさせなかったウエップ裁判長はしばしば泥酔して法廷にやってきました。そのことを明かした上で、レーリングは、「二流の人物」「とうてい役不足だった」とウエップ裁判長を酷評し、みずからをも含め、パール博士を除く判事が、国際法に関しては素人同然だった事実を認めたのです。レーリング自身、当時、ユトレヒト大学で蘭領東インド(現インドネシア)の刑法について教えていたので、アジアのことを少しは知っているだろうというだけの理由で選ばれたといいます。
4、 当事者たちも告白している東京裁判の違法性
 東京裁判の過ちを認めたのは、レーリング判事だけではありません。レーリングから
「とうてい役不足」と酷評されたウエップ裁判長も、東京裁判の主席検事で米国の代表者、キーナン検事も、後に東京裁判は国際法に準拠しない違法裁判であることを認める発言を行っており、現在、東京裁判の正当性を信じている法律家は皆無といっていいほどです。
 東京裁判を画策した張本人のマッカーサー元師でさえ、昭和二十五年十月十五日、ウエーキー島でトルーマン大続領と会見した際、東京裁判は誤りだったとの趣旨の告白を行ったばかりか、翌年五月三日に開かれたアメリカ上院の軍事外交合同委員会の聴聞会においても、
「日本が第二次世界大戦に突入していった理由の大半は、安全保障だった」と明言しています。GHQでマッカーサーの側近であったホイットニー少将の回想録にも、マッカーサーの次のような発言が出てきます。「敗戦国の政治指導者を犯罪人としたことは忌わしい出来事だった」と。
 マッカーサーは当初、
「真珠湾に対する〃騙し討ち〃だけを裁く裁判を望んでいたのだが、ドイツでニユルンベルグ裁判がはじまってしまったので、日本に対してもやむなく同様の裁判を行わなければならなくなった」と苦しい心の内を語っていたようです。
 裁判終了後、ホイットニーがオランダにレーリングを訪ねています。このとき交わされた会話も当時のGHQ幹部たちの複雑な心境を伝えています。
 ホイットニー 
「東京裁判は人類の歴史の中で、もっとも偽善的なものだった。あのような裁判が行われた限り、息子が軍人になるのを禁じざるをえなかった」
 レーリング  
「なぜか」
 ホイットニー 
「アメリカも日本と同じような状況に追い込まれたら、日本がそうしたように戦うに違いない」
 国際法の常識では、占領軍は占領地の国内法を尊重しなければないとなっています。この基本的な決めごとすら無視して、東京裁判は行われたのですから、東京裁判に関わった当事者たちが非を認めても当然です。
 なのに、ひとり日本人のみが、東京裁判から五十年以上たった今でも、その正当性を疑おうともせず、東京裁判史観に呪縛され続けている。これはいったいどうしたことでしょうか。
 当時、欧米など世界の法学者の間では、すでに東京・ニュルンベルグの両軍事裁判の是非について激しい論争が展開されていました。そして、多くの学者たちが、東京裁判の正当性に疑間を呈し、裁判に対する反省を口にしていました。欧米のマスコミもさかんにこのニユースを流し、ロンドン・タイムズはニカ月間にわたって論争を連載、多くの書籍も出版されたほどです。ところが、被害国であるはずの当の日本は、議論に参加しないばかりか、マスコミも国民もこの重大な国際問題に無関心でした。
 
「同抱たちが、年獄で苦しんでいるというのに、議論にソッポを向き、国際正義を勝ち取ろうともしないのはどうしたことか」と博士は、日本人のふがいなさ、無関心、勉強不足に痛く失望し、慣慨すらされていたというのです。
 裁いた連合国側ですら東京裁判の違法性が議論されたのに、なぜ日本では世論が盛り上がらなかったのか。後で述べるように、最大の原因は、占領軍による戦後のプロパガンダが成功していたためです。そのため、本当に日本に侵略意図があったのか、戦犯に法的根拠があるのかなどの本質にふれることなく、日本人は東京裁判史観を受け入れていきました。
 本来、問題を指摘すべき、当時の日本の有識者や法律家、それを伝えるべきジャーナリストは、あえて東京裁判から目をそむけ、歴史の真実を解き明かそうとせず、アメリカのご機嫌をうかがってばかりいました。
 それだけならまだしも、外務省は、英文パンフレットまでつくって、東京裁判に対する御礼を出していたのですからあきれます。当時は、アメリカの影響力が大きく、
「アメリカが風邪を引けば、くしやみをする」といわれた時代です。独立を果たしたとはいえ、まだ日本はアメリカの庇護がなければ、経済的にも、国際政治の場でも、力を持ち得ませんでした。
 しかし、そんな状況下でも、日本の国益を考えれば、間違いは間違いとして正し、将来への禍根は断ちきっておくべきでした。ここで道を誤ったために、
「長いものには巻かれろ」「ことなかれ主義」という戦後の悪しき習慣が日本国民に浸透していったといっても過言ではありません。
5、 原爆を投下された被害国がなぜ謝罪する
 読者の中には、
「いや、日本人は東京裁判史観に縛られてなどいない」と感じる方がいるかもしれません。大東亜戦争は、話に聞くだけで、もう自分たちの世代とは関係ない。日本人は、自虐的な史観を持ち続けていていると考えるのは、それこそ被害妄想ではないか、と思われる方もいるでしょう。
 だが、果たしてそうでしょうか。毎年、八月六日の広島原爆記念日や、八月九日の長崎原爆記念日には、
「ノーモア広島」を合い言葉に犠牲になった人々の慰霊祭が開催され、また八月十五日の終戦記念日には戦争で亡くなった方たちの追悼が行われます。その席上やニュースで必ず聞こえてくるのは、「私たちは、あの過去の悲劇を二度と繰り返しません」という反省の言葉です。また、広島の原爆慰霊碑には、「安らかにお眠りください。私たちは二度とこの過ちは繰り返しませんから」と刻まれています。
 これはどう考えても納得がいきません。悲劇を繰り返さないといいますが、加害者は、原爆を投下して、二十万人もの命を奪ったアメリカです。勝敗はすでに決していたのに、大量殺人を犯したのは、アメリカのほうなのです。しかも、原爆を広島に投下するにあたり、アメリカは、明らかに最初から大量殺毅を意図していました。原爆が落とされる少し前、広鳥の上空にB29が来襲し、空襲警報が鳴り、広島市民は、防空壕に難を逃れました。しかし、敵機はそのまま広島上空を通過、空襲警報は解かれました。夏の蒸し暑い日のことです。防空壕から出てきた市民たちは、シャツを脱ぎ、上半身裸になって、涼を求めました。そこに再ぴ戻ってきたB29が原爆を没下して皆殺しにしたのです。
 なのに、なぜ、被害者であるはずの日本が原爆投下を謝り続けなければならないのか。これはわれわれ日本人の間に、自虐的な史観が刷り込まれている証拠です。
 平成七年、ワシントンの米国立スミソニアン博物館が先の世界大戦終結五十周年を記念して広島に原爆を投下した爆撃機B29「エノラ・ゲイ」展を企面し、爆心地の惨状の写真、熱線で気化した少女の遺品、広島、長崎の原爆資料館から借りた資料などの展示を予定しました。しかし、原爆投下を決める過程の記述をめぐり、米国空軍協会、米国退役軍人協会などの強硬な反対にあい、スミソニアン協会も要求をのみ、展示は大幅に縮小されました。ところが、日本政府は、会式には何の抗議もせず、ほとんどの日本人が、これに疑間を抱きませんでした。堂々と日本人に対して無差別殺人をしかけた戦闘機が飾られるというのにです。
 パール博士は、この日本人の原爆に対する態度をさして、
「東京裁判で何もかも悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった。東京裁判の影響は原爆の被害よりも甚大だ」と嘆かれました。来日された博士が広島の原爆慰霊碑に献花して黙祷を捧げた時の言葉です。
 
「この『過ちは二度と繰り返さぬ』という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落とした者は日本人でないことは明瞭である。落とした者が責任の所在を明らかにして『二度と再びこの遇ちは犯さぬ』というのなら肯ける。
 この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというのなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のためまいたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲綱をつくり、日本を経済的に封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハル・ノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である」

6、 戦後スタートの日本の誤りを根本から是正せよ
 東京裁判は、結局、日本人に
「東京裁判史観」という名の虚構をつくりだすための茶番劇にすぎませんでした。戦後も日本をアメリカの支配下に置くための策謀です。アメリカの狙いはまんまと成功し、戦後、日本はアメリカから押しつけられた枠組みの中で、戦前とは断絶した国家を築き上げました。それは多分に、日本人の国民性、文化、歴史に合っているとは言いがたいものでした。さらに戦後、すでに半世紀以上が経過しており、アメリカの指導のもとでつくりあげたシステムは老朽化し、日本の現状にはそぐわなくなっています。それでなくとも、戦後アメリカの占領体制を維持しようという意図のもとにつくられた現在の体制を基盤に国づくりを進めていっていいわけがありません。
 ジャーナリストの日高義樹氏の表現を借りれば、
「日本の政治体制はもともと『占領時代の日本の状態をできる限り長く続けさせる』というアメリカの意図のもとにつくられた。一九五一年九月八日、サンフランシスコで対日講和条約が調印され日本は独立国になったが、日本国という建物は屋根も柱も壁もすべてアメリカがつくったものである。いまや日本国は築五十年以上の老朽家屋になり、あちらこちらにガタがきている」(日高義樹『アメリカの怖さを知らない日本人{PHP研究所刊)ということになります。言い換えれば、戦後からの脱却、真の意味での独立国づくりを行わない限り、日本の末来はないのです。
 戦後の出発点から、日本は誤っています。その過ちの上に、いくら経済発展を遂げてこようと、やがて行き詰まってしまうのは自明の理でした。日高氏のたとえに従えば、土台が最初から傾いている上に、家屋を建て増築してきたようなものです。やがて傾く運命にありました。いくら修繕しても、基礎がしっかりしていなければ、何度でも倒れます。根本から土台を正さなければ、確かな国づくりは実現しません。私たちは、戦後スタートの過ちを今こそ根本から是正しなければなりません。
 
「パール博士」顕彰碑の左壁面には英語の原文で、右壁面には和訳でこう書かれています。
     
時が熱狂と偏見を   やわらげた暁には
       また理性が虚偽から   その板面を剥ぎ取った暁には
     の時こそ正義の女神は その秤を平衡に保ちながら
       過去の賞罰の多くに   そのところを変えること
     を要求するであろう
                  (パール判事判決文より)