常識を踏み越えた先にある「記者の姿」

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2009-02-01

これからも不定期に続くであろう、「メディア関係者の呟き」第5回。

今回は、「新聞案内人」に掲載されていた鷲田清一氏の文章を紹介する。

もっと厚く、もっと苦々しい文章を(あらたにす:新聞案内人) より
 引用が重なって恐縮であるが、ひとりの記者(読売新聞・丸山謙一記者)の述懐としてどうしても引いておきたい文章がある(高橋シズエ・河原理子『<犯罪被害者>が報道を変える』より)。

 <最初の赴任地で中学生同士の校内暴力事件があり一人が死亡した。病院で関係者が悲嘆に暮れる場面に報道陣は自分一人だけ。校長先生の話を聞いた旨の報告を社に入れると、写真は撮ったか、と問われ、とても撮れそうにない情況であることを報告するものの、「バカ、おまえプロだろ!という言葉を浴びせられる。新人記者である自分は験されているような気になり、覚悟を決めてシャッターを押した。先生たちから刺すような視線が向けられるなか自分は一礼して立ち去るしかなかった。これは新聞記者としてハードルを一つ超えた話とも言いうる。しかし、常識を一歩踏み外したことも間違いない。そんな経験をしながらだんだん均されていく。翌年には漁船の転覆事故で救助された船長が甲板員を失って男泣きする姿をためらうことなくカメラに納めるようになっていた。心の中で自分はプロだからとつぶやきながら。ある種、オウム真理教の信者が一線を越えていった経過に似ている。>
 → 「記者として」一線を踏み越える前に感じたであろう、「先生たちから刺すような視線が向けられるなか自分は一礼して立ち去るしかなかった。」という心は、本来記者が捨ててはならないはずの、最後の良心だと私は考える。

踏み越えてはならない一線を越えた後にあるもの。

それは、報道という商売のために、悲しみに打ちひしがれる人々であっても「ためらうことなく」カメラに納めるようになった人間がそこにいるということだろうか。

メディアがよく使う「道義的に云々・・・」という言葉というものは、恐らく建前上の言葉になる。

本音で語ろうとした瞬間に、メディアは「被害者・加害者問わず情報を漁る」という行動原理は、非人道的ではないかという自問自答に、一瞬にして潰されるのだから。

以下は単なるメモ ↓

もっと厚く、もっと苦々しい文章を(あらたにす:新聞案内人) より
○メディア自身の情報改竄・偽装、なぜ起きる

 これもずいぶん前の記事になるが、映画監督の是枝裕和がテレビ報道についてこう書いていた(読売新聞2008年7月9日朝刊)。「テレビが犯罪を報じる目的の一つは、その犯罪を生んだ背景を考え、その原因を個人の“心の闇”に帰すのではなく、私たちと地続きなものととらえ、社会を考える材料とするためだろう。被疑者に対し、司法に先立って社会的制裁を加えるためではもちろんないはずだ。司法が基本的には罪を個人の責任として考えるのに対して、ジャーナリズムは社会に、より責任を見いだしていこうとする」、と。

 いろいろな不正を暴きたてるメディア自身が、これまで情報改竄や偽装をくりかえしてきた。だからそうした不正に対し、正義の代弁者のようにとくとくと犯人捜しやつるし上げをするメディアは、それよりもそういう偽装がみずからのそれを含めなぜくりかえし起こるのか、その構造的原因をこそ究明すべきだということなのだろう。
 → 構造的原因こそ究明すべきなのだが、それをしていないからこそ現状の体たらくがあるのだろうな、としか言いようがない。

Comment

じゅうきゅうごう : 2009年02月10日(火) 01:51 URL edit

だっひょおおぉおぉ♪
ボキのテンコをお姉たまに舐めさせてあげたら4万貰えたでち!!!
ずっと寝てただけで4万も貰えちゃうと思ってなかったら正直ビックリでちゅ・・
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楽して稼ぐのがいいに決まってるでち(`・ω・´)!

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