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〜「底が突き抜けた」時代の歩き方〜

情報操作によって戦争を勝利したボスニア−「戦争広告代理店」の暗躍

 戦争請負企業があり、民営警務所があるアメリカなら、戦争PR企業があっても、別に驚くことではない。戦争PR企業とはどのような宣伝を請け負うことを業務とする会社であるのか、その内容をボスニア紛争に即して明らかにしたのが、高木徹著『戦争広告代理店』である。著者は、敵と味方がはっきりしていた冷戦終結後の紛争では、《当事者がどのような人たちで、悪いのがどちらなのか、よくわからないことが多い。誘導の仕方次第で、国際世論はどちらの側にも傾く可能性がある。そのために、世論の支持を敵側に渡さず、味方にひきつける優れたPR戦略がきわめて重要になっているのだ。それは、国際政治の場だけでなく、経済の世界にも広がっている現象である。》と、PR戦略が必要になっている背景を説明する。
 ドキュメントは、1ヶ月前にバルカン半島に生まれたばかりのボスニア・ヘルツェゴビナの運命を背負って、外務大臣ハリス・シライジッチが92年4月9日、ニューヨークの空港に降り立った場面から幕は切って落とされ、彼がやがてアメリカの大手PR企業、ルーダー・フィン社の幹部社員ジム・ハーフと出会ったところから、物語は始まる。 《PR企業のPRは「Public Relations」の略だ。きわめてアメリカ的な概念であるために、未だにこれといった日本語の訳語はない。PR企業のビジネスとは、さまざまな手段を用いて人々にうったえ、観客を支持する世論を作り上げることだ。日本では広告代理店がこの仕事をすることが多い。だが日本の広告代理店と比べても、アメリカのPR企業がとる手段は、じつに幅広い。CMや新聞広告を使うのはもちろん、メディアや、政界、官界の重要人物に狙いを絞って直接働きかける、あるいは、政治に影響力のある圧力団体を動かす。その他何でも、考えられるかぎりのあるゆる手段でクライアントの利益をはかる。全米およそ6千のPR企業の中で、ルーダー・フィン社はベスト20に入る大手だ。ハーフは、国際政治局長としてそのワシントン支社を任されていた。》
 ハーフは《外国の政府、つまり国家そのものをクライアントとすること》を得意としており、《クライアントとなった政府の国際政治における国益追求》を助けるために動く。前年の91年から、ユーゴスラビア連邦から独立するために、連邦を握るセルビア人と戦争をしていたクロアチアと契約を結んだ彼は、バルカン地域に関する《研究者顔負けの知識を身につけ、プロのPR技術を駆使してクロアチア独立戦争がいかに正当なものか、セルビア人がいかに汚い連中であるかを世界にアピールしていた。》国連の各部局を訪ねまわって、《祖国の存亡の危機が、国際政治の奔流の中では、ヨーロッパの裏庭で起きた「ほんの些細な出来事」にすぎない。》ことを思い知らされたシライジッチ外相は、ボスニアの独立戦争に《勝利を得るために、来るべきボスニア紛争を「国際化(International)」する、という国策》をかかえて、ジム・ハーフに出会うのだ。
 ここで旧ユーゴ紛争について簡単に記すと、多民族国家である社会主義国「ユーゴスラビア連邦」を40数年間まとめてきたチトーが死ぬと、連邦を構成する6つの共和国のうち、最初にスロベニアが独立し、次にクロアチアが独立した。いずれの独立も、連邦政府を牛耳るセルビア人と、《そこからの脱却をはかる各民族との戦い、という構図になって》おり、ボスニアの独立も同じ構図であったが、スロベニアやクロアチアの独立とは異なる複雑な事情を学んでいた。それはボスニア自体が、4割強のモスレム人と、3割強のセルビア人と、2割弱のクロアチア人による多民族国家であったことであり、隣国に「本国」を持つセルビア人やクロアチア人と違って、ボスニアにしか母国を持たないモスレム人が92年3月、《数の力を恃んで、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立を強引に国民投票にかけ、決めてしまった》ために、ボスニア内のセルビア人は反発し、紛争が勃発することになったのだ。
 明白なのは、セルビア人中心の連邦政府の軍事力に対抗できるだけの軍事力をボスニア政府が持っていなかったことであり、その圧倒的な劣勢を《力のある西側先進国を主体とした国際社会》を巻き込むことによって、引っくり返そうとする以外に術を持たなかったのだ。「泣かない赤ちゃんは、ミルクをもらえない」というボスニアのことわざを胸にしまっているシライジッチから、そのことわざを彼の胸中から引き出すために、ハーフは「アラン・ドロン似」の彼をテレビ映りのよいスポークスマンに仕立て上げ、憂いを含んだ彼の表情とキャラクターそのものをニュースにしていく戦略を立てる。
 ルーダー・フィン社のCEOのデビッド・フィンは、《全米のユダヤ人を束ねる多くの組織の役員をつとめ、経済的な援助も行ってきた》ユダヤ人であるが、《自らの会社、ルーダー・フィン社の活動の倫理的な問題についてはきわめて慎重》で、《多くのPR企業が、アメリカ国内の政党の政治活動に関するビジネスで莫大な利益を上げている》なかで、社内の個人レベルでの政党支持の自由の原則から、《民主党や共和党など、アメリカ国内の政党をクライアントとすることを禁じている。》そして、《国際紛争に関する依頼など、倫理的に複雑な事情のあるビジネスにかかわるときに開かれる「倫理委員会」》も開かれる。「ボスニア・ヘルツェゴビナ政府の仕事を受ける前にも、現地の状況を知るジャーナリストや研究者から話を聞き、倫理委員会にかけて、モスレムスが真の被害者であるとの確信を持ったうえで、仕事を引き受ける決断をしたとフィンは語る。
 フィンが倫理面での慎重さを再三強調するのは、《1990年におきた湾岸危機にまつわる、あるPR企業の醜いスキャンダル》があったからだ。隣国イラクに侵攻されたクウェート政府は、大手PR企業ヒル&ノールトン社に多額の資金を払って、でっちあげ工作を仕組んだのだ。《イラクのクウェート侵攻から2ヶ月後。米議会下院の公聴会で一人のクェート人少女が証言席に立った。15歳というその少女の名は「ナイラ」。奇跡的にクェートを脱出し、アメリカに逃れてきたというナイラは、その眼で目撃した世にもおぞましい出来事を語った。/「病院に乱入してきたイラク兵たちは、生まれたばかりの赤ちゃんを入れた保育器が並ぶ部屋を見つけると、赤ちゃんを一人ずつ取り出し、床に投げ捨てました。冷たい床の上で赤ちゃんは息を引き取っていったのです。ほんとうに怖かった・・・」/この議会証言は全米のメディアを通じて報道された。》
当時のジョージ・ブッシュ大統領も、「心の底から嫌悪感を感じる。こうした行為を行う者たちは、相応の報いを受けることをはっきり知らせてやらなければならない」というコメントを発表したが、湾岸戦争終結後、『ニューヨーク・タイムス』紙によって、ナイラが在米クェート大使の娘でクェートに行っていなかったことや、ストーリーはヒル&ノールトン社による演出だったことが発覚した。《クェート政府とヒル&ノールトン社には、ダーティなイメージが残》り、《その結果、PR企業とそのものイメージも大きく損なわれた。金のためには事の真偽は問わずどんなことでもする奴ら、そういう印象がPR業界に対してもたらされた。》ので、《フィンCEOが、倫理の問題について敏感になるのは当然だったのだ。》
 取材を通じて筆者もこう断言する。《彼らがボスニア・ヘルツェゴビナに関するビジネスで、クライアントのために「無から有を生む」でっちあげ工作にかかわった形跡はない。フィンもハーフも、そうした安易なやり方には大きなリスクがあることを知り尽くしている。ルーダー・フィン社の手法はもっと洗練されている。明らかな不正手段を用いずに最大の効果をあげるという、巧妙なプロフェッショナルの仕事である。紛争当事者の片方と契約し、顧客の敵セルビア人は極悪非道の地も涙もない連中で、モスレム人は虐げられた善意の市民たち、というイメージを世界に流布することに成功する。そのうえで、「私たちは、モラルを最も重視しています」と言い続ける事ができる。それが彼らのPRビジネスの神髄である。》
ここでもし彼らがセルビア人側から先に契約をもちかけられていたなら、彼らは顧客の敵モスレム人は《極悪非道の血も涙もない連中で》、セルビア人は《虐げられた善意の市民たち、というイメージを世界に流布する》のだろうか、という疑問が沸き起こってくる。PR企業はおそらくクライアントを選択しないだろうからだ。だがこの仮定は、2つの点で成り立ちそうにない。1つは、軍事力で優位に立つセルビア側がPR企業と契約する必要に迫られるようなことはありえなかったからだ。もう1つは、ビジネス面でクライアントの側に立つだけでなく、心情面においてもクライアントの側に立たなければ、PRビジネスは成り立たない面が見られるからだ。「私たちは、モラルを最も重視しています」と言い続けるのも、単に建て前である以上に、PR企業といえども、モラルは踏み外したくないという気持ちがそこに窺われ、暗にセルビア人側をクライアントにもつことが自分たちのモラルに反するとみなされているのが感じられる。
 シライジッチ外相が幸運にもベーカー長官と会談できたり、国務省にサラエボの悲惨な実情を訴えるなかで明らかになったのは、ボスニアにはアメリカの国益はないから、アメリカ国民は政府がその地域に軍事力を投入することを支持しない、したがって、世界中の紛争地域のなかでボスニアにアメリカ国民の目を向けさせるためには、メディアを動かさなくてはならない、ということだった。そのメディアを動かすためにハーフは雇われたのだが、彼はまず全米の有力ジャーナリストたちの互助組織であるナショナルプレスクラブ(NPC)でのシライジッチの記者会見を設定するが、そこで突き当たった問題は、集まったアメリカ人記者の多くがボスニアに対して無知だったことである。《サラエボでは1984年に冬季オリンピックが開かれていた。多くのアメリカ人記者にとってボスニア・ヘルテェゴビナやサラエボについての知識とは、それがすべてだった。モスレム人支持、セルビア人非難という論調をメディアの中に作るためには、まず記者たちのボスニア・ヘルツェゴビナに対する無理解、無関心という大きな壁を乗り越えなければならないことをハーフははっきりと認識した。それが、この1回の記者会見だけで解決できる問題ではないことは明らかだった。》
 ボスニア政府の目的はアメリカの外交政策を動かし、セルビア人勢力に圧力をかけることだったが、ブッシュ政権を動かすためにはメディアだけでなく、議会も動かさなくてはならなかった。アメリカでは議会の協力なしに外交政策を押し進めることはできなかったからだ。ハーフは《持続的な効果を発揮する拠点を連邦議会内に築くこと》に全精力を注ぐ一方で、サラエボやその他のボスニアの戦場で、命がけの取材を行っているアメリカ人記者たちの《モスレム人を支持する論調は、アメリカでのハーフのPR戦略と、現場に入った記者たちのリポートの相乗効果によって形作られていった。》
ハーフはシライジッチをテレビの前でかつての《大学教授から、サラエボの悲劇を伝えるひとりの証言者に変えることを決意し》、《さまざまなテクニックを授けた》。
《「短い間に、私はテレビ画面でいかに効果的に表現するか、そのレッスンを受けました。そのおかげで私はさまざまなテクニックを生放送のスタジオで駆使できるようになりました。時にはわざと沈黙し、声の調子を変え、話すスピードを速くすることもあれば、遅くすることもありました。そういう技術があるかないかでは、同じ内容を語っても、視聴者に与える印象に天と地ほどの差ができるものなんです」
 シライジッチがトークショーに出演したときのビデオを見ると、質問を受けたシライジッチは、かなり長い間沈黙してから話し出すことが多い。一瞬言いよどんでいるようにも見える。
 それは計算ずくでしたことだった。
 そこには、シライジッチをプロの政治家ではなく、サラエボで市民が傷つく姿を目の当たりにした一人の人間として演出する狙いがあった。
 シライジッチは自分が使った手法をこう解説する。
「もし、キャスターの質問に、常に当意即妙で答えてしまえば、私がとてつもなく頭がいい、いや頭がよすぎる人間であるか、さもなければ事前に答えを用意していたのだ、という印象を与えることになります。それでは、私が普通の感覚を持った視聴者と同じ生身の人間、というイメージから遠くなってしまい、効果は半減してしまいます」》
3月にサラエボを離れてから、1度もボスニアに戻っていなかったシライジッチは、サラエボの悲劇のほとんどを目の当たりにしていなかったにもかかわらず、《サラエボの悲劇を語る証言者シライジッチは、想像を絶する流血の惨状を目撃してきたのだ。》この作為については、《ハーフに言わせれば、サラエボで悲惨な事態が起きていたことはまぎれもない事実であり、その事実を伝えるのにシライジッチを教育して利用するのは、当たり前のこと》であり、「公の立場に立つ者が、カメラの前でどのように話をするべきか学ぶのは当然のことです。そこに多少の演技があるのも普通のことだと思いますよ」という考えだった。
 《シライジッチを1人の市民として演出し、サラエボの悲劇を訴える。》という《戦略には成功した》が、しかし、ハーフは次の手を考えていた。《人間の「慣れ」とは残虐である。シライジッチのテレビ露出が増え、サラエボ攻撃の映像がより多く放送されるようになれば、遠からず人々は慣れ、飽きてしまう。シライジッチの迫真の訴えを聞いても市民の流血を見ても、何も感じなくなるだろう。そして、アフリカや中東など、世界の他の場所で起きるもっと「新鮮な」紛争の話題に世論はすぐに関心を移してしまうだろう。/ボスニア・ヘルツェゴビナに注目を集め続けるためには、何か別の工夫が必要なのだ。/ハーフが探していたのは、人々の心の奥に触れるキャッチコピーだった。》 ルーダー・フィン社がボスニア政府に提出した報告書には、「1992年春、第1段階。アメリカの政策決定者と各国指導者の脳裏に注入するボスニア紛争の情報量を劇的に拡大し、大きな衝撃を与える作戦を発動した。そのために“民族浄化”が注目を集めるように取り計らった」と記されており、ハーフは「私たちの仕事は、一言で言えば、“メッセージのマーケティング”です。」マクドナルドはハンバーガーを世界にマーケティングしています、それと同じように私たちはメッセージをマーケティングしているんです。ボスニア・ヘルツェゴビナ政府との仕事では、セルビアのミロシェビッチ大統領がいかに残虐な行為に及んでいるのか、それがマーケティングすべきメッセージでした」と言い、マーケティングにつきものの効果的なキャッチコピーが「民族浄化」だった。
『ニューヨーク・タイムス』紙のバーバラ・クロセット記者も、「“民族浄化”と言ってもよい現象そのものは、他の場所、たとえばルワンダでも起きていました。ボスニア紛争が他の紛争と違ったのは“民族浄化”という言葉が、ひとつのキャッチフレーズとして使われたことなんです」と話し、『ワシントン・ポスト』本社で国際問題を担当していた編集者は、「“民族浄化”はあっという間に、あらゆるメディアが使いまくる言葉になってしまったんです。言葉の持つイメージが一人歩きしてしまい、具体的な事実があろうがなかろうが濫用されて、誰も止められなくなっていました」と語る。
《セルビア人が占領した地域で、モスレム人だけを選別し、家から追い出し、長年住み慣れた村や町から追放している、という情報》にハーフはすかさず目をつけた。「たとえば、石油のようなわかりやすい経済的な利害関係がないことは、ボスニア紛争にアメリカ人の関心をひきつけるには、不利な条件でした。しかし、私たちは、もっと高度な視点から人々の心に訴えかけることにしたのです。それは民主主義と人権の問題です。私たちの国アメリカは、まさにこのふたつの価値観を基盤として成り立っているからです」
残虐な映像に訴えかける事の慣れがもたらす限界を打破するために、「民主主義と人権の問題」に切り込もうとしたのだ。《「民主主義」「人権」という言葉にアメリカ人が持つ郷愁は、彼らの人格のはるかに深い部分に根ざしている。子どもの頃から繰り返しその大切さをたたき込まれている言葉であり、この価値観を侵害する連中は、確実にアメリカの敵であると誰もが自動的に考えるようインプットされている。そして、人々に銃を突きつけ、理由もなく住み慣れた街から追い出すという映像は「基本的人権の侵害」を絵に描いたようなものだった。》
更に、この「追い出し」の映像から連想されるのは、第2次大戦時のナチスのユダヤ人迫害の光景であり、《ホロコーストを引き合いにだして、セルビア人をナチスになぞらえたほうがPRの効果は大きい》と考えられなくはなかったが、ボスニア紛争の前にクロアチア政府と契約した時に、セルビア人を非難するために一度“ホロコースト”の言葉を使ってところ、アメリカのユダヤ人社会から不快感をあらわにされることがあったので、その教訓から“ホロコースト”という言葉を使わずに“民族浄化”という言葉を用いた。「民族浄化」という言葉一つでセルビアの非道残虐な行為を浮かび上がらせることができ、《「ホロコースト」と言わずに「ホロコースト」を思い起こさせる力》を、その言葉は秘めていた。
《これはバルカンには以前からある言葉だ。現地で広く用いられているセルボ=クロアチア語の「エトゥニチコ・シチェーニェ」という言葉が元になっていて、第2次大戦の時、セルビア人とクロアチア人との間で戦われた民族紛争で使われていたのだ。当時クロアチアにはナチスの傀儡政権があり、多民族が混住していたクロアチアを無理矢理「クロアチア人の混血国家」だとする政策をとった。そして、異民族である「セルビア人狩り」を行った。それは、クロアチアに住む190万人のセルビア人のうち、おおよそ6人に1人が殺されるというすさまじい虐殺だった。そのとき「民族浄化」という言葉が使われたのである。
 抵抗するセルビア人たちも、自らの支配地域に住むクロアチア人を殺し、追い出した。セルビア人の指導者も「民族的に純粋なセルビア国家」の理想を説き、他の民族の「浄化」を命じた。
 戦後、チトー政権ができ、その政策でユーゴスラビアは多民族共存の国家ということになった。そしてバルカンのこの呪われた言葉も歴史の中に封印され、一部の学術書などで英訳されることはあったが、メディアで使われる一般的な英語の語彙にはならなかったのだ。》
この説明からもわかるように、旧ユーゴ連邦の解体後に噴出したクロアチアやボスニアの独立をきっかけとする紛争の背後には、第2次大戦時における民族殺し合いの怨念が潜んでいたのである。ハーフは「民族浄化」という言葉を広めるために、大新聞の「論説委員会議」に働きかけるなど精力的に動きまわり、そのおかげで《7月以降、3大紙の紙面に「民族浄化」という言葉が文字通り毎日飛び交うようになった。》「バズワード(buzzword)」という英語の表現があり、《「バズ(buzz)は、蜂がぶんぶん飛ぶ、というときの「ぶんぶん」にあたる。メディアの中をうるさいほどに飛び交うはやり言葉、という意味である。同時に、公式のあらたまった場で使われるべき言葉ではない。というニュアンスも感じられる。あくまではやり言葉であって、しばらくすると顧みられなくなる言葉ではないか、ということ》だが、《だが、「民族浄化」は単なるバズワードに終わらなかった。当時ボスニア紛争でセルビア人が行った非人道的行為について用いられたこの言葉が、現在では世界各地で起きる同様の行為をさして頻繁に使われ、辞書にものる英語の1つの語彙になっている。》
しかし、「アメリカは世界の警察官ではない」「熟慮して判断した結果、軍事行動には慎重にならざるを得ない」という立場をとるブッシュ大統領は、軍事行動には否定的な姿勢を固め、《セルビア人を叩くための軍事力行使という選択肢は封じられた。》だが大統領選が近づく中で、「ミロシェビイッチを野放しにするブッシュ」というイメージを避けるために、「われわれは、ミロシェビッチを“サダマイズ”することにしたのです。それは、国際政治の舞台で彼を戦争犯罪人のように扱い、すべての国が彼に背を向けるような世論を作ってしまう、ということです」とジマーマン元大使が語るように、ミロシェビッチ大統領をイラクのサダム・フセインやリビアのカダフィと同様の、「世界のならず者」の列に加えるように仕向けていった。
 歴史的に英仏はセルビアに近親感を持っており、《セルビア人に対して強硬な政策をとることについて、EC諸国は腰が重かった。》ものの、《ナチスの記憶を自らの体験として持つヨーロッパの人々にとって、「民族浄化」という言葉には決定的なインパクトがあった。国務省はその「民族浄化」という言葉にとびついたのである。》「民族浄化」という言葉は、《ハーフ自信の言葉によってではなく、メディアを通じて、またシライジッチ外相の国務長官への手紙を通じて国務省の目にとまるように仕掛けられた。その網が正しいタイミングで張り巡らされたとき、国務省は「民族浄化」を公式の場で使う用語に採用したのだ。》ハーフの巧妙なテクニックによって、《「民族浄化」はお墨付きを得た言葉とな》り、《国務省高官の口から語られ、声明の中で使われる「民族浄化」という言葉は、「国務省発の情報」として再びメディアに取り上げられてい》き、《「民族浄化」の自己増殖が始まっていた。》
92年の《5月には、ジャーナリストでもボスニア・ヘルツェゴビナの位置を正確に語れない者が多かった》のに、《7月が近づくと「民族浄化」というフレーズが、毎日テレビ、新聞、雑誌を飾るようになった。それとともに、人々のボスニア・ヘルツェゴビナへの関心は飛躍的に高まっていった。》いうまでもなく世界各地で起きている民族紛争は、なにもボスニアだけではない。「競争の激しいマーケットで、顧客のメッセージをライバルに打ち勝って伝えてゆく。それはどんなクライアントとの仕事でも同じです。ボスニア紛争の場合、伝えるべき相手はアメリカの外交政策を決める立場にある権力者たちでした。アフリカのエリトリアには、そこがいくらか悲惨な状況でも世界はあまり注意を払いませんでしたね。それにはそれなりの理由があるのです」とハーフはいう。
《唯一の超大国となったアメリカの注目を最も集めることができるのは、どの地域の紛争か。民族紛争が世界カウチで頻繁に起きる時代において、紛争に苦しむ地域同士のPR競争が起きていた。そしてボスニアにはハーフがいたが、エリトリアにはいなかった。》当時の国連事務総長であるアフリカ出身のブトロス・ガリが、「世界にはサラエボより、もっと苦しい状態にある場所が10カ所はある。(ボスニア紛争は)所詮は金持ち同士が戦っている紛争だ」と発言したのも、ボスニア紛争のみが突出して国際的関心をひいていることに不満を抱いていたからだ。しかし、この発言によってガリは「民族浄化」に寛容な考えを持つ人物だ、と国際的な大非難を浴びて、《結局、自らが強く望んだ再任をはたせず、国連史上ただひとり「1期限りの事務総長」としてその座を降りざるを得なくなった》。
 ハーフ立ちは次のターゲットを「政治」に定め、最終目標はアメリカ大統領であった。《アメリカのPR企業がカバーする業務は幅広い。メディア戦略だけでなく政治の世界で権力を持つ者に直接働きかけることも重要な柱だ。PRとは「Public Relations」の略であり、「public=公共」とはメディアも官僚も、そして政治もすべて含み、それらと「relations=関係」を築く手段も直接間接を問わず、そのとき最適の方法を選ぶのだ。》ハーフはPRの仕事について、「私は若いときにジャーナリストの経験があり、メディアの世界を肌身で経験しています。政治の世界にも身を投じ、3人の連邦議員の首席補佐官を務め、また州知事の選挙参謀として選挙運動を仕切ったこともあります。メディアと政治の世界で働いた経験を通じて、私は、どんな事態にも応用できる“ツールボックス”を得ることができました。選挙の仕事を頼まれれば、それに最適の方法を、スイス政府の観光促進キャンペーンを依頼されれば、やはりこの私自身のツールボックスから必要な手段を取り出し組み合わせて提供できるのです」と述べ、彼の得意分野が「政治」であることを明かす。
大統領選を利用してハーフは、《ブッシュにプレッシャーをかけるためにもクリントン陣営に働きかけ》た。《クリントン候補は、すでにブッシュ陣営の外交政策を攻撃する材料としてボスニア紛争をもちだし、ブッシュ大統領はセルビア人に寛容すぎる、という主張をし始めていた。クリントンがさらにボスニア紛争を主要な争点として浮上させれば、ブッシュ大統領も、選挙対策上積極的な政策を取らざるを得なくなる。/ハーフは、クリントン陣営への工作の足がかりとして、副大統領候補に指名された上院議員」アルバート・ゴアとシライジッチ外相との会談のセットに成功した。》次にハーフは、《国務省の役人のように「民族浄化」という言葉を口にすることもほとんどなく、ボスニア紛争へのアメリカの関与に消極的な発言を繰り返していた》ブッシュ大統領に、アメリカの独立記念日である7月4日に、3月に独立を宣言したばかりのボスニアの独立をアメリカが1ヶ月後に承認してくれたことへの礼状を、イセトベゴビッチ大統領から出そうというアイディアを考えた。
「アメリカがその独立をお祝いする機会に、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の国民と政府が、生まれたばかりの私たちの民主主義に貴国が施してくれている勇気ある支援に対して感謝する言葉をお受け取り下さい。(中略)私たちにとって、アメリカは、全世界に向けて自由と正義、そして民主主義の光を放つ灯台です」と、ハーフが書いた草稿はアメリカへの賛辞から始まっており、「自由と民主主義という価値観」を強調した。《ポイントは、ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領が自らを「fledgling democracy」の国と言っていることだ。「fledgling」とは、雛鳥のような、あるいは、よちよち歩きの、という意味である。自らをそのように卑下し、アメリカを「民主主義の大先輩」と持ち上げることで、ブッシュ大統領の心を揺さぶろうというのだ。アメリカ人は自国の歴史がまだ200年ちょっとと浅いことをどこかで気にしていることが多い。「民主主義の長い伝統」を誉めるやり方は、アメリカ人の心を大いにくすぐった。》
「ミロシェビッチには、、こういう手紙は絶対に書けないはずですよ」とハーフは自慢するが、《こんな手紙は、ミロシェビッチだけでなくシライジッチにもイゼトベゴビッチ大統領にも書けなかったことは間違いない。バルカンの人々は、誇り高い。今は「ヨーロッパの裏庭」の地位に甘んじていても、長い歴史の中で培ってきた民族の誇りを背負っている。その彼らがいかに戦略のためとはいえ、「あなたは世界の灯台です」という言葉を綴ることはできない。/それはアメリカ人のPRのプロだからこそできることである。》そして極め付きは、「どのような国も、他の国が行う虐殺、追放そして“民族浄化”に賛成することは許されないのです」という一節であり、《「民族浄化」という言葉には引用符「“”」が付けられ、この言葉に自然に目が向くようにしている。》
 更に、7月9日、《アメリカとヨーロッパの国々が集まり、冷戦後の欧州の安全保障体制を議論する大イベント》が、フィンランドの首都ヘルシンキで開かれ、ブッシュ大統領とイゼトベゴビッチ大統領が出席することになったので、本会議の前にブッシュ、イゼトベゴビッチ両大統領の初めての首脳会議が行われるように全力を挙げること、そして《フランスのミッテラン、イギリスのメージャー、ドイツのコール、ロシアのエリツィンら各国の指導者が一堂に会する場で、「民族浄化」という言葉をブッシュ大統領が使い、各国首脳の頭に印象づけることができ》るようにするという戦略を立てた。そのためにハーフは、「交渉のすべてに参加できるように、自分たちをボスニア・ヘルツェゴビナ政府代表団の正式メンバーとしてID登録してもらいたい。そして、イゼトベゴビッチ大統領とブッシュ大統領の会談が実現したら、そこに同席できるようにしていほしい」と、ボスニア政府に申し入れた。
《すでにボスニア政府はハーフを頼り切っており、ハーフはシライジッチ外相やサビーナ大統領補佐官のもとに入ってくる、国際交渉の機微にかかわる情報の詳細を逐一知ることができた。その対応についてアドバイスしたり、シライジッチ外相とイゼトベゴビッチ大統領の間の意見を調整したりもしていた。
 しかし、大統領同士の会談にボスニア政府のスタッフとして同席することは、さらにもう一歩踏み込んだ業務内容だった。なによりハーフはアメリカ国民なのであって、ボスニア・ヘルツェゴビナの国民でも何でもないのだ。》
実利に徹するボスニア政府はハーフの要請にOKを出し、ブッシュ、イゼトベゴビッチ会談が行われるという知らせが入るや、《ハーフは、てきぱきとイゼトベゴビッチ大統領とシライジッチ外相に会談での役割分担をアドバイスした。
「アメリカの大統領と話せる時間はほんのわずかです。次の機会がいつになるかもわかりません。手際よくやらないといけませんよ。まず、イゼトベゴビッチ大統領が話をしてください。挨拶と、大まかな枠組みの話を終えたら、シライジッチ外相にバトンタッチです。セルビアの連中が何をしているか、アメリカ人にわかりやすく説明してください。」
 ハーフは、この役割分担について、こう解説している。
「国際的な首脳会談で意外にありがちなのは、友好的ないい雰囲気で話が進んではいても、じつは単なる世間話をしているだけで、あっという間に予定の時間が終わってしまうというケースです。ですから、言いたいことを確実に伝えるためには、誰が何を話すのか、その要点は何か、事前にしっかり決めておく必要があります。英語力や、真に迫った話の表現力ではイゼトベゴビッチ大統領よりシライジッチ外相のほうが上ですから、大統領の話は最重要な点にしぼって早めに切り上げて、あとはシライジッチ外相が話をするように決めたのです」》
 会談はまずイゼトベゴビッチ大統領がたどたどしい英語で、かみしめるように「サラエボを攻撃しているセルビア人たちの大砲の陣地を空爆してください。それはアメリカだけができることです」と切り出し、予測されたようにブッシュ大統領がその要求に難色を示すと、シライジッチが《芸術の域に達》する話術で、ボスニアでの「民族浄化」の実態を説明し、《一刻も早く動いてほしい、という懇願》で進められた。心を動かされていないようにみえるベーカー国務長官と違って、《初めての「シライジッチ体験」》に遭遇する《ブッシュ大統領の表情に明確な変化が浮かんだことをハーフは見のがさなかった。》ブッシュ大統領の発言中に、「アメリカの代表団が、反対側の席、つまりボスニア・ヘルツェゴビナ政府側に、別のアメリカ人がいることを気にしている」のを感じ取ったハーフは、交渉の進展を妨げないために《静かに席を立って首脳会談の行われている部屋を出た。》
 首脳会議の成果は、それから数時間後に明らかになった。
《ヘルシンキ会議のクライマックスは、ブッシュ大統領の演説だった」。登壇したブッシュ大統領はこれまでになく厳しい言葉でセルビア人を非難した。そして、演説はドラマチックに締めくくられた。
「今、私たちが話し合っているこの瞬間にも、“民族浄化”は行われているのです」
 ゆっくりと降壇するブッシュ大統領に、満場の拍手がなりやまなかった。
 ブッシュ大統領は「ethnic cleasing」という単語をとくにゆっくりと、大きな声で強調して発音した。イギリスのメージャーはもちろん、英語が母国語でないミッテランもコールも、そしてエリツィンも、他の部分は聞き取れなくてもその単語だけははっきりと聞き取る事ができただろう。
 ブッシュ大統領もまた、「民族浄化」のキャッチコピーとしての力を理解した。》
 ヘルシンキ・サミット終了後、ブッシュ大統領からイゼトベゴビッチ大統領に、ニューヨークにいるアメリカ国連大使からボスニアの国連大使を経由して、手紙が届いた。それは、《A4判3枚、73行の長いもの》で、《それまでのボスニア紛争をめぐる国際交渉の経緯を詳しく振り返り、セルビア人の行為を列挙して非難していた。
「民族浄化」は冒頭、3行目に登場する。
「私は、“民族浄化”という許しがたい政策を非難します」/そして、
「私たちはセルビアを孤立させ、経済制裁が完全に実施されるよう監視監視を強める政策を遂行します」/と書かれていた。さらに、「私たちは国連安全保障理事会に対し、ボスニア・ヘルツェゴビナへの人道支援を行うために必要なあらゆる手段を可能にする決議を通過させるべく圧力をかけています」/とあった。
「あらゆる手段」には軍事行動も含まれる。ヘルシンキ・サミットの首脳会談をきっかけとして、ブッシュ大統領の認識に変化が起きていることは間違いなかった。》
「私がしたのは、たとえば日本の外交当局なら、外務省の官僚がするべき仕事だったわけですね。でも、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府には外務官僚などというものがそもそもいませんでした。だから、私がその役割も果たしたのです」と、ハーフは自分が果たした役割について振り返っているが、遅ればせながら国際世論の逆風に気づいたセルビアもPR合戦で反撃に出るものの、すでに大勢は決していた。ハーフの口から「日本の外交当局」という言葉が出たことに触れて、著者の高木氏はこう述べる。《そのとおりだろう。日本政府も、アメリカのPR企業を雇うことはある。だが、PR企業の社員を首脳会談に同席させるなど絶対にありえない。日本の場合は、国際政治の舞台でPR戦略を担当しているのは役人だ。それはどこの先進国もそうである。だが、問題なのはそのPRの能力において、ハーフが日本外務省の官僚よりはるかに優れていることだ。その結果、皮肉なことに、自前のスタッフを持たないボスニア・ヘルツェゴビナという小国に世界の注目が集まり、国際政治において日本などより格段に大きい存在感を持つに至る、という現象が起きた。》
 ここで想起されるのは、湾岸戦争に日本が130億ドルもの巨額を多国籍(アメリカ)軍に拠出しながら、自衛隊を派遣して血を流さない卑怯な国という悪評判を世界中で被ったという問題である。これは自衛隊を派遣しなかったという問題では全くなく、130億ドルもの巨額を拠出したことや、憲法第9条の問題などを世界にむかってほとんどPRしなかったという問題である筈だ。PR能力を全く欠いていたために、日本が130億ドルを拠出していることを他の国々は知らずに、自衛隊の派遣云々の問題にすりかわっていったのではなかったか。もっとも日本の政府は問題のすりかえを望むようにして、自衛隊の海外派遣の大きな根拠としていったようにみえるが。
                                    2003年11月23日記
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