Nay’s Diary

2005-07-01 尼港事件。

尼港(ニコライエフスク港)事件について


 大正9年(1920年)1月29日、ロシア極東の尼港(ニコライエフスク)市(樺太とシベリアとの接点にあたる)は、トリビーチンを首領とする約4000人の共産パルチザンに包囲された。当時、ここには約1万5千人のロシア人一般市民、約1000人の中国人、約500人の朝鮮人、及び約700人の日本人が住んでいた。またここを守備していたのは、石川少佐率いる2個中隊無線電信隊の40名、それから保守派のロシア兵(共産赤軍に対して白衛軍と呼ぶ)合計しても約500名のみであった。共産パルチザンは、策を用いて和睦すると見せかけ市内に入るやいなや、このロシア白衛軍の将兵を捕らえて殺害し、合わせて一般市民の中から「有産智識階級」とユダヤ人を選んで虐殺をはじめた。共産パルチザンは、黒龍江の結氷を破り、有産智識階級を殲滅する為、銃剣で突き刺して次々と凍る流れに人々を放り込んだ。これによって「有産智識階級」とユダヤ人約2,500人が惨殺された。我が日本守備隊は、これを黙視できぬとして共産パルチザンに抗議したが入れられず、敵は逆に守備隊の武装解除を要求してきた。敵は多勢をもって日本守備隊を侮蔑していた。仮に武装解除に応じても、無抵抗で虐殺されるのは誰の目にも明らかであった。やむなく石川少佐以下、約400名の日本守備隊と在留邦人50名の義勇軍は、生死をかけて、数の上では10倍に勝る共産パルチザンに対して市街戦の火ぶたを切った。この戦闘は筆舌に尽くしがたい。追い詰められた日本側は、石田領事以下数十人が燃え上がる日本領事館と運命を共にした。日本守備隊は、河本中尉以下121人の兵士が3月17日まで頑強に抵抗したが、敵は再び策を労して、「山田旅団長の停戦命令」を偽造した。河本中尉は、「停戦命令に従わなかった事が他日国際上の問題となることを心配し」これを受け入れた。ところが結局この121名は投獄され、食事もろくに与えられず日本の救援軍に対する防御陣地構築に駆り出された後、零下30度のアドミラル河岸で両手を針金で後ろ手に縛られたまま共産軍によって次々と虐殺された。残された在留日本人も(この人達は当時商社などに勤めていた一般市民である)、多くが共産パルチザンの手で惨殺された。この惨殺には、中国人朝鮮人も加わり、日本人の死体の指を切り落として指輪を奪い、斧を振るって頭部を砕き金歯を奪って行ったと言う。以上は、中国人の妻となっていたため難を逃れた日本女性など生き残った人の証言、及び救援軍によって掘り出された戦没将兵の手帳にある戦闘記録による。


 以上のとおり、日本守備隊はいたずらに撤退を引き伸ばしたのではない。撤退するにも撤退できなかったのである。冬のシベリアは海が凍る為、小樽からの救援部隊も容易に近づけず、陸上からの救援も40日を要したと言う。


我が子に伝える誇りある近代史より