2008年04月

2008年04月30日

有角の仏「せんとくん」

第1部 角は悪魔の象徴ではない

〈形状によるイメージ 動物によるイメージ〉

 「世界的に見たら、角があるのは悪魔なんですよ。その悪魔を、お坊さんか、
  仏さまとしか思えないものに付けるっていうことは、文化的な理解も何も考
  えていないバカ野郎が考え出したキャラクターですよ。」

今月14日放送の『スッキリ!!』(日本テレビ)で勝谷氏がこう発言したことは「がんばれ、せんとくん!(前編)」でお伝えしました。
実は、この発言の後、共演しているテリー伊藤氏が勝谷氏のこの主張に異を唱えました。

 「これは鹿ですからね。悪魔ではないんですよ。」




翌日15日夕方の『ムーブ!』(朝日放送)でも、これと同じやり取りが、司会の堀江政生氏との間にもありました。

 勝谷「やっぱり多くの宗教においては角というのは非常に『デビル』の意味な
    んですよ。だから、そういうことまでの思いが至ってないような気がす
    るよね。」

 堀江「でも鹿の角ですよ?」

 勝谷「いやいやいや、そ、それは、それはね、それは、奈良のあそこの公園に
    鹿がたくさんいるということを知っているのは、日本人だけでしょ。」




テリー氏や堀江氏が「鹿の角」に悪魔のイメージを持たなかったのはなぜでしょう? 勝谷氏は、奈良公園に多くの鹿がいることを知っていたからと言っていますが、それは関係ありませんよね。キャラクターに鹿の角を描いたことを理解する理由にはなっても、鹿の角と悪魔が結びつかない理由にはまったくなっていません。

では鹿の角が持つイメージってどんなもんなんでしょう? ほかの動物の角が持つそれとは違うんでしょうか?

日本人が角を悪いイメージでとらえる場合、たいがい鬼を連想しますよね。
日本の鬼の角は牛の角のように短くて枝分かれしていません。これに対し鹿の角は枝分かれしていて大振りです。その他にも日本人に馴染みのある角と言えば、巨大で湾曲した水牛の角もあります。これら形状の著しく違う角に対しては、それを見る側も当然違うイメージを持つのではないでしょうか? また、その角を持つ動物のイメージによってもそれは違ってくるのではないでしょうか。

黒田長政の兜まず水牛の角ですが、よく見かけるのは兜の脇立ですね。安土桃山時代を中心に作られた当世具足という種類の甲冑には、兜の脇立に水牛の角をかたどったものがよく付けられています。有名なのは黒田長政の兜ですね。
どうでしょう、この兜を見て悪魔を想起しますか? 私はこの立派な角は単純に力強さや雄々しさを表現しているものだと思います。この手のデザインは当時の兜には珍しくありません。多少の違いはあっても、水牛の角を付けた兜はたくさんあります。もし当時、水牛の角が悪魔を意味するという考えが一般的であったら、このデザインが多用されたわけがないのではないでしょうか。

水牛の角が悪魔とは無関係に力強さ、雄々しさを表現するのもであるという証拠は、現代にもあります。「ウルトラの父」です。悪魔の「あ」の字もない正義のヒーローですが、巨大な水牛様の角を生やしています。なんでもこの角は「ウルトラ超戦士」の証なんだそうです。
ちなみに「ウルトラの父」の実子に当たる「ウルトラマンタロウ」にも角があります。角はまだ小さく、水牛というよりは、ただの牛の角ですね。
現代の日本人に、角が悪魔を意味するという意識があるなら、このようなヒーローは作られなかったと思います。

ウルトラの父ウルトラマンタロウ











本多忠勝の兜では、鹿の角はどうでしょう。
鹿の角も当世具足の兜には脇立としてよく使われたようです。有名なのは本多忠勝の兜でしょう。
水牛に比べて、力強さ、雄々しさの他に華麗さも感じますよね。これもまた悪魔と結びつくイメージであるのなら、兜に多用されなかったと思います。

こういう外見から感じるイメージの他にも、鹿の角には生理的な現象から来る別の意味があるようです。
最近、大阪八尾市の小阪合遺跡で発見された古墳時代の土器に鹿と船の絵が描かれていたことがわかったんですが、そのことを伝える新聞記事の中で、これを研究・発見した同市文化財調査研究会の解説が、このように紹介されていました。

 「シカは角の生え替わる時期が稲作のサイクルと一致し、船は稲の霊を運ぶと
  されており、同研究会は『いずれも稲作の象徴で、豊作を祈る祭りに使った
  のではないか』と話している。」

  http://www.chunichi.co.jp/s/chuspo/article/2008042401000671.html

つまり、鹿の角は稲作の象徴とされ、豊作と関連づけられているわけです。

このことによるのかどうかは知りませんが、鹿は昔から神の使い、神獣とされています。奈良公園の鹿はそこにある春日大社の鹿ですが、もともとは茨城県の鹿島神宮の神が鹿に乗ってやって来たことが由来だそうです。
勝谷氏は「奈良公園には鹿がたくさんいる」「その鹿は春日大社の鹿」と発言していますので、もちろんこの鹿が神使であることは知っていたと思います。知っていながら自説が危うくなると思い、ここでは出さなかったのでしょう。


これまで見てきたように、日本では鬼を連想させるような短い形状の角(おそらく生えかたも関係している)以外、角に対しては悪いイメージを持っていないようです。特に鹿の角にはよいイメージはあっても、悪魔に結びつくと感じる事実はどこにもないと言っていいでしょう。


では外国ではどうなんでしょう?

例えば中国。中国でも鹿の角に対して、いいイメージはあるものの、悪いイメージはないようです。
中国では「鹿」は「禄」と同音であることから裕福の象徴とされました。また、盲目の両親のために息子が苦労して目の薬になる鹿の乳を手に入れたという寓話から、親孝行の象徴とされてきたそうです。
そういういいイメージを付与されている鹿ですから、その角も悪魔を象徴するとはなかなか考えづらい。
皇帝を示す龍にも頭に鹿の角が描かれますしね。

ヨーロッパではどうでしょう。
ヨーロッパでも、鹿の角が生え変わることから、生命の若返りや新生を意味するようですし、北欧神話では太陽光線の象徴とされているようです。
また、牡鹿は紋章に描かれることが多く、角だけで描かれることもあるとか。角だけの場合は「力」を意味するんだそうです。
これら以外にも鹿および鹿の角に関しては、いいイメージを示す事例がまだまだたくさんあります。
逆に悪いイメージを示す事実はなかなか見つかりません。少なくとも私には見つけられませんでした。


その他の地域で角、特に鹿の角がどのようなイメージで受け取られているかは調べていませんが、今まで見てきたことでも「せんとくんの角が必ずしも悪魔のイメージを持つわけではない」ということは十分言い得ると思います。
テリー氏や堀江氏の感覚も理解できますよね。


〈宗教における角〉

勝谷氏は、角のイメージを語るのになぜか宗教における角の意味だけを問題にしています。しかし私は、物事のイメージというのは、宗教だけがそれを決定するのではないと思っています。その国の神話や、その地域の古い民話、その民族がどのように自然を認識していたか、そういう要因が大きいと思います。
しかしまあ、だからと言って宗教をなおざりにするわけにもいきません。今度はそっちのほうに行ってみましょう。

勝谷氏は「多くの宗教においては角というのは非常に『デビル』の意味なんですよ」と言っていました。しかし勝谷氏の言う多くの宗教とは、具体的に何教を指すんでしょう?
ラジオの『コラムの花道』で氏はルシファーの名前を例として挙げていたことから、少なくともキリスト教ではそうなんだ、ということなんでしょうね。
ではそのキリスト教を見てみましょう。

キリスト教の聖典に「角は悪魔の象徴である」と明記されている部分、あるいは暗にそう思わせる記述があるんでしょうか? 私はそういうのを全部読んだわけではありませんが、たぶんないと思います。なぜなら『ルカによる福音書』に次のような記述がありますから。

 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我
  らのために救いの角を、僕(しもべ)ダビデの家から起こされた。」

ここで言う「角」は民族解放のための神の力の象徴です。つまりキリスト教においては、角は悪魔の象徴ではなく、神についても用いることのできる単なる力の象徴にすぎないということです。

同じような表現は『ヨハネの黙示録』にもあります。

 「それ(小羊)には七つの角と七つの目があり、それらは全地につかわされた
  神の七つの霊である。」

角は神の力の象徴、目は神の知恵の象徴だそうです。
この『黙示録』には、サタンの竜も登場し、それも10本の角を持っていることから、キリスト教では角は善悪関係なく単に力を意味することが確認できます。

モーセ像さらに、キリスト教で最もメジャーな登場人物の一人、かの有名な予言者モーセには角があります。ミケランジェロ作のモーセ像で、それがハッキリ確認できます。その他の作品でも角のある作品は多いと言います(このモーセ像の角に関してはブログ『哲学するサラリーマン』でも取り上げていて、勝谷氏の「角=悪魔」説を厳しく批判しています。その他の角度からも勝谷氏の『せんとくん』への難癖を批判しています。是非この同志のブログを読んでください)。

モーセはユダヤ教やイスラム教にとっても重要な人物です。しかし、ユダヤ教徒がこれらの角のあるモーセ像に怒りや不満を持っているという話を私は聞いたことがありません。そうすると、ユダヤ教でも角を悪魔のシンボルとは見なしていないということではないでしょうか(イスラム教はそもそも偶像を否定しているので、これらのモーセ像からは判断できません)。


キリスト教においては(ユダヤ教も)単に「角」と言った場合でも、それが悪魔を象徴するとは言えないことがわかります。当然鹿の角も悪魔と関連づけているとは、やはり考えられませんね。


次は仏教です。

私は仏教の経典にも精通しているわけではありませんが、おそらく仏教においても角を悪魔の象徴と断じた記述、そう読み取れる記述はないのではないでしょうか。
確かに仏教美術には鬼、または鬼のような角を持ったものがありますが、それだけではなんとも言えません。キリスト教でもそうでしたが、悪魔に角を持つものがあるからと言って、それで角を悪魔の側にあるとは言えなかったように。
また、仏教美術でさえ鹿の角を持った魔物の像を私は見たことがありません。やはり仏教でも鹿の角は悪魔とは関係がないと言わざるを得ないと思います。


イスラム教やその他の宗教に関しては、ほとんどまったくと言っていいほど、私は知識がありません。なのでそれらの宗教が角をどのように認識しているかは私にはわかりません。
しかし、勝谷氏の言を否定するには、これまでの話で十分だと思います。

「世界的に見て角は悪魔の象徴」「多くの宗教において角はデビルの意味」などとは言えません。少なくとも角が必ず悪魔を意味するなどということはまったくありません。
そして鹿の角である『せんとくん』の角が悪魔を表し、仏を冒涜しているなどとは、世界的に見て考えられないことだと思います。



第2部 『せんとくん』が意味するもの

「がんばれ、せんとくん!(前編)」で角のある神の例としてギリシャ神話の牧神・パンを挙げました。その際、他にも探せばあるのではないかと言いましたよね。見つけたかた、いらっしゃいますか?
私も探してみて、いくつか見つけることが出来ましたよ(古代エジプトの神には結構多い)。

ケルヌンノスその中で特に面白いと思える神がいました。
ケルト神話のケルヌンノスです。
この神の角は『せんとくん』と同じく鹿の角なんです。
ケルヌンノスは動物を支配する神であると同時に、冥界を支配する神だと言われています。鹿の角が生え変わることから、死と再生を司るということでしょう。


実はこのケルヌンノス、世界的に有名な日本のアニメ作品に登場する神の、一つのモデルと考えられています。その神とは宮崎駿氏の『もののけ姫』に出てくる「シシ神」です。
シシ神このシシ神の外見は鹿に似ています。ただ鹿様の角は2本ではなく、何本も頭から生えています。また顔が人のように平面的で、脚の指が3本であるというような特徴もあります。夜になると巨大な「ディダラボッチ」に変化し、2足歩行で歩き回ります。
シシ神は森の中にいて、森にあるものの生と死を支配します。彼が歩いて足が触れた草は、急速に成長し枯れていきます。動物の生死も彼の胸一つです。

このシシ神にはケルヌンノス以外の神や神獣などがいくつか取り入れられていると言います。中国の神獣・麒麟、ケルヌンノスによく似た古代インドの神・パシュパティ、角はないものの森を守るメソポタミアの半神半獣・フンババなどだそうです。
しかし、ここでシシ神を考える場合、ケルヌンノスが最も適当だと思います。宮崎氏は明らかにケルトを強く意識しています。


『もののけ姫』はものすごーく単純に言ってしまえば、自然と人の関係を考えるお話です。人の文明が躊躇なく自然を破壊していく、それでいいのかというお話です。
舞台は日本の、おそらくは室町時代の設定です。しかし作者の宮崎氏の頭の中には、明確にケルトの森がイメージされていると思います。

ケルト人は、かつてヨーロッパの大部分に広がっていた民族です。彼らは森に住み、森とともに生きていた人々なんだそうです。
それがローマ帝国の拡大にともない、その文化はローマ化し、彼らの宗教は多神教からキリスト教に置き換わっていった。森に対する畏敬の念も失われ、自然は文明の力で容赦なく削り取られていった。これが宮崎氏が持つ、ケルトのたどった運命の図式だと思います。

現代はその図式の延長線上にある。自然は人間から客体化されたままその血肉を奪われつづけ、けがされつづけたまま瀕死の状態にある。今こそ人類はかつて失われた自分たちの姿と心を取り戻し、自然の一部となって「生きろ。」そういう思いで描かれたのが『風の谷のナウシカ』であり『もののけ姫』なわけです。そしてそれらの物語の下絵としてケルトの森が選ばれたのです。

したがってシシ神は自然の側の代表であり、自然への畏敬から生まれ、一神教によって歴史の古層に追いやられた多神教の神々の新しい姿です。極めて今日的な問題意識から再生された、古い神々の複合体です。


近頃は捕鯨反対活動が過激さを増す一方です。そういう活動をやっているのはたいがいキリスト教の人たちだと思います。しかし、私はそれが不思議だったんです。キリスト教やユダヤ教は自然を崇拝する宗教ではありません。むしろ自然を利用することを良しとする宗教です。『創世記』にはこういう記述があります。

 「神は彼ら(人間)を祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を
  従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」

つまり、キリスト教・ユダヤ教の聖典によれば、自然を人間が支配するのは当然なわけです。それなのになぜ彼らは鯨を利用することに反対なのか?

私は彼らが無意識のうちに古い神々の復権を望んでいるように思えます。彼らにとって海におけるクジラとは、「シシ神の森」における「シシ神」であり、「腐海」における「王蟲」なのではないでしょうか。
ただ、彼らの信じる神は唯一神であり、他の神々は認められません。そのジレンマがああいった屈折した活動に彼らを走らせるのではないでしょうか。


そう考えたとき、自然と人間との関係をあるべき姿に改めていくという巨大な課題を、もはや一神教は担えきれない、そう思えてきます。そこで脚光を浴びるのが仏教の寛容さと柔軟性というわけです。

一神教が自然崇拝から生まれた古い神々の多くを悪魔として迫害し、歴史の古層に沈めてきたのに対し、少なくとも日本では、古来の八百万の神々が仏教という新しい宗教に駆逐されることはありませんでした。
そしてその共存のために考え出された理論が本地垂迹説です。
八百万の神々とは、仏がその姿をとって現れたものという考え方です。
まあ、仏を優位においた感もありますが、とにもかくにも神々と仏は共存できたわけです。

そういった仏教の柔軟性・寛容さが今世界から注目されている、その期待感から生まれたのが『せんとくん』だと思います。つまり『せんとくん』は人類が自然と一体となって生きていくという考えを体現するため、自然崇拝から生まれた古い神々の複合体「シシ神」をその身に取り入れたのです。
『せんとくん』のあの角は、奈良公園の鹿を表しているだけではありません。それは「シシ神」の角をも表していたのです。


しかし、そのような誰もが共感できるであろうコンセプトに基づいて産み出されたキャラクター『せんとくん』なのに、なぜ我々は違和感や不快感を抱いてしまうんでしょうか?
それはこの「平城遷都1300年祭」のコンセプトに答えを見いだすことができます。このイベントのウェブサイトには、それがこう書かれています。

 「“互いの文化や価値観を尊重すること”− その人類共通の課題に向けたひとつ
  の試み。それが2010年に開催する“歴史文化の祭典”の趣旨です。
  そのため、私たちは、歴史の中の文化・技術・こころに、もう一度光を当て
  なおし、人と文化、人と人との豊かな関係を再構築したいと考えます。」

ここには文化や技術については述べられていますが、自然については何も述べられていません。つまり、現代社会おける喫緊の課題であり、『せんとくん』にも取り入れられている自然との共生、自然の一部として生きるというテーマが完全に抜け落ちているわけです。

この、イベント自体のコンセプトと『せんとくん』のコンセプトの齟齬が、我々に違和感・不快感をもたらすのだと思います。
私はこの際、『せんとくん』を葬り去るのではなく、このイベントのコンセプトのほうを『せんとくん』のそれに合わせて変更すべきだと思います。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

奈良にはこういうおおらかなお坊さんもいらっしゃいます。ホッとします。

ブログ『お坊さんの戯言(たわごと)』

「平城遷都キャラクター論争」

「「せんとくん」に決まりました!」


manguhsai at 11:23|PermalinkComments(39)TrackBack(0)clip!

2008年04月24日

がんばれ、せんとくん!(後編)

「平城遷都1300年祭」のマスコットキャラクターをはじめて新聞記事で見たときは衝撃的でした。
「なんじゃこれ? センスないなぁー。坊主に鹿の角って・・・」
それがそのときの私の感想です。みなさんもだいたい最初はそんな感じじゃなかったですか?

ただ、そこから先は人それぞれのようで、「こういうダサいのがあってもいい、いやむしろそれがいい」という容認派と「絶対ダメ、許せない」という拒絶派に分かれるようですね。

まあ容認派の私から言わせてもらうと、こういうダサさ、センスのなさを楽しむのがポストモダンな成熟社会というものだ、なんて思うんですがね。

しかし、拒絶派のみなさんのお気持ちというのは相当強かったようで、このマスコットの白紙撤回を求める市民運動やら、代替キャラクターの公募活動まではじまるとうい展開に発展してしまいましたねぇ。
そしてさらに、そういうキャラクターへの嫌悪感に基づく活動に加え、選考課程の不透明さを糾弾する動きが起こり、事態は政治的な色合いを帯びるに至りました(聞くところによると、ある政党がこれに絡んでいるとか。「市民運動あるところにあの政党あり」ですな)。

ここまでの動きに関しては、私はなんの文句をつけるつもりもありません。「かわいくない、気持ち悪いからやめてくれ」そう要求する権利は奈良県民にはありますからね。また、もし不正があるなら、これを糾弾するのも当然ですね。
私がイヤなのは、こっから先なんです。


先月27日に、「南都二六会」という奈良の寺院が中心になった集まりが、キャラクターの再考を求める意見書を平城遷都1300年記念事業協会に提出しました。理由は「仏様を侮辱している」というものでした。

http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20080327-340972.html

ついに宗教問題にまで発展してしまいましたよ。
で、この「仏様を侮辱」とかいう言い草が、勝谷氏のそれとよく似ているんですよね。気脈を通じているとは言わないまでも、この坊さんたちは、テレビで勝谷氏が理屈をこねているのを見たんではないでしょうか。

前編でもやったように『せんとくん』には仏を侮辱する意図も要素もまったくありません(角問題は牧神パンを例に出したこともあり、反論も出ましたが、これに関しては次回、「補足」というかたちでやります。でも結論は同じです)。表現上問題があるとすれば、かわいくないこと、センスがないこと、それにつきるでしょう。
結局寺側や勝谷氏は、この「センスの悪い仏様」をなんとか撤回させたいがために、感覚的問題を宗教的問題に強引にすり替えた、私はそう思っています。

また仮にそうでないとしても、私は基本的に、宗教が芸術などの表現の問題に、やれ「冒涜」だ「侮辱」だと言って干渉することには反対です。

『GANTZ』というマンガをご存知でしょうか? 『週刊ヤングジャンプ』(集英社)で現在連載中の人気マンガです。このマンガでは登場人物たちが現実ともゲームともつかない世界に放り込まれて、そこに出現する敵キャラを殲滅する、これを舞台を変えて何度も繰り返すお話です。敵キャラにやられると、登場人物は実際に傷ついたり死んだりしてしまいます。
で、この漫画で1度敵キャラとして寺にある(いる?)仏像たちが登場したことがありました。結構リアルに描かれた仏像です。これがなかなか強くて登場人物たちを殺しまくるわけです。舞台は血みどろです。

どうですか、仏の姿をしたものが殺人ですよ、大虐殺ですよ。「南都二六会」は『せんとくん』が許せないんですから、当然このマンガも許せないんですよね。ほかにもまだまだあると思いますよ、仏や仏教を茶化したりおどろおどろしく描いたものは。それら全部に「冒涜」のレッテルを貼っていくつもりなんでしょうか? 私はそんな息苦しい社会になることには絶対反対です。

3月30日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』(よみうりテレビ)で三宅久之氏はこう言っていました。

 「ですから日本人の宗教心というのはいい加減なもんだと思うけれども、その
  いい加減なとこが心地いいんですよね。」




その通りだと思います。そしてこれは表現の問題にもすんなり当てはまると思います。
日本の宗教、特に仏教は本来そういうおおらかなものなのではないでしょうか? それが良さなのではないでしょうか。私は日本の宗教にはそういうおおらかさを持ち続けてほしいですよ。

一方勝谷氏は、4月20日の同番組で「せんとくん問題」に絡んで、こう発言しています。

 「大問題なのは、辛坊さんが言われた、前、日テレの番組で、これがマホメッ
  トだったらどういう大騒ぎになっているか。」




脅しのようにもとれる発言ですが、だからこそ先の三宅氏の発言が生きて来ると思います。マホメットのことで大騒ぎするイスラム教国のようになっていない、おおらかな日本が心地いい。

「南都二六会」がとった抗議行動は、それ自体は小さな行動かもしれませんが、方向性としては大変な危険性を孕んだものだと思います。はっきり言って間違った方向への第1歩だと思います。
そして、「せんとくん問題」での勝谷氏のエキセントリックな発言は、日本の宗教をそのような危険な方向に進ませる、それを煽る発言だと思います。


ところでなんですが、勝谷氏には宗教心というものが本当にあるんでしょうか? 私にはとてもそうは思えません。
思い出してください、赤ちゃんポストについて書かれた彼の日記を。

 「耶蘇の手前勝手な性善説が日本国民の底抜けした倫理感に通用すると思って
  いるのか。」

こういう人間が本気で宗教の側に立って発言しているとはとても思えません。
結局彼は宗教を利用しているだけでしょ。障害児を利用して赤ちゃんポストを攻撃したように。

勝谷氏はダライ・ラマのことを「猊下(げいか)、猊下」と呼んでいます。宗教心のかけらもない人間がこんな大仰な言葉を使うのは気色悪い限りですが、これはチベット問題を通じて勝谷氏の大嫌いな中国政府を攻撃するために、対峙するダライ・ラマを持ち上げているに過ぎないでしょ。

『せんとくん』に関しても、ただ単にそのキャラクターが嫌いで攻撃してやりたいと思っているだけ。そのためには手段を選ばない。仏教界をも利用する。その結果、日本の仏教界がどんな危険な1歩を踏み出そうが、勝谷氏はおかまいなしです。

目先のものを攻撃することしか頭にない単細胞な卑劣漢に、またしても吐き気がします。

manguhsai at 12:08|PermalinkComments(76)TrackBack(0)clip!

2008年04月21日

がんばれ、せんとくん!(中編)

「がんばれ、せんとくん!」は前・後編、2回で取り上げるとお伝えしていましたが、残りを2つに分けて、前・中・後編、3回にします。悪しからずご了承ください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

16日放送の『コラムの花道』(TBSラジオ)では、勝谷氏は『せんとくん』のみならず、その作者の籔内佐斗司氏をも誹謗中傷しています。

http://tbs954.cocolog-nifty.com/st/files/st20080416.mp3

今回はそのことと、キャラクターの選考課程に関する勝谷氏の発言を取り上げます。


勝谷氏は、籔内氏に関してこう言っています。

 「ボクはまず倫理的に声を大にして申し上げたいが、えー、独立行政法人かも
  しれないけれども、ま、国家公務員もしくはそれに準じる大学の教授である
  東京芸大教授である籔内佐斗司某が、地方自治体のイベントである奈良博、
  平城博にそれを提供することによって500万円もらうってのは、これは国
  家公務員法ギリギリですね。
  あの平山郁夫さんとか、あとアーティストがね、芸大の先生がバイオリンコ
  ンサートでお金もらうとか、こういう特殊な技能に関して免除規定あるんで
  すけれども、行政がやるあれに対して、国家公務員が提供して500万円取
  るっていうのは、これはね、もしくれるって言っても『結構です』って言う
  のが、ボクは筋だと思う。人間としてね。」


はて「国家公務員法ギリギリ」とは、結局アウトなんでしょうか? セーフなんでしょうか? なぜハッキリ言わないんでしょうねぇ?
もしアウトなら違法行為として告発すればいいし、セーフならそれで問題ないわけでしょ。最初に「倫理的に」などと曖昧な言葉を付けているのは、法的には問題がないことを勝谷氏自身が認識しているからこそでしょ。倫理的な問題? なんだよそれ? なら国家公務員法をわざわざ持ち出すなよ。

それに、平山郁夫氏や他のアーティスト先生の活動を「特殊な技能」として是認しているのに、なぜ同じ芸術家の籔内氏の活動が認められないんでしょうか? 勝谷氏は「キャラクターデザイン」という仕事を芸術家のやるべき仕事ではないと言うんでしょうか? 籔内氏や、キャラクターデザインという仕事への偏見としか言いようがないでしょ。

仕事をしたのに金もらうな? どういう人間の筋なんでしょうか?

さらに勝谷氏はこう言います。

 「で、ハッキリ言って今ボク今日、C調言葉かけたんだけど、あれほんとはD
  調言葉って言いてえんだよ。Dのつくデカい代理店があるけれども、どっか
  いろいろ、放送局どこも言わしてくんないけど、
  (中略)
  D調の本社に入ると、正面にドーンとその籔内の作品が飾ってあんだよ、ほ
  かの。御用作家なんですよ、要するに。信じられない卑しさでしょ。」


勝谷氏の言う「Dのつくデカい代理店」とは、広告代理店の電通のことです(なんでハッキリ言えないんですかねぇ。間違ったこと言ってないならハッキリ言えよ)。その電通本社のロビーに籔内氏の彫像が飾ってあるんだそうです。
で? それのどこがおかしいの?
会社に芸術品が飾ってあったら、その会社とその作者はなにかやましい関係にあるんでしょうか? そんなこと言い出したら、世界中やましい会社とやましい芸術家だらけですよ。

御用作家? なんじゃそれ。芸術家がスポンサーから依頼を受けて作品を作ることなんて、古今東西を問わず極々普通のことじゃないですか。それが卑しいというなら、ミケランジェロも狩野永徳も卑しい人間ですよ。
「御用」が付いてダメなのは、学者や評論家でしょ。パトロンにおもねって学説や評論を曲げるのは確かに問題ですよ、小沢氏から50万円もらった勝谷氏のように。しかし、芸術家は「御用」が付こうが付くまいが、なんら悪いことではない。
これは「御用」という言葉を使って、御用学者や御用評論家とイメージを混同させようという、勝谷氏の印象操作です。卑しい人間はどっちだよ。


続いて選考課程に行きましょう。

勝谷氏は、このキャラクター選定がコンペ形式であるにも関わらず、はじめから籔内氏のそれが選ばれることが決まっていたかのように言います。
しかし、それならなにもわざわざコンペ形式にしなくてもいいわけです。すんなり籔内氏にキャラクターデザインを依頼すればいいんですよ。
それはなにも不正なことではないですよ。こういうキャラクターは、公募するときもあれば、今回のようなコンペにする場合もあり、また作家をはじめから指定して依頼する場合もあります。そのいずれをとった場合も、それ自体がおかしいということはありません。

今回コンペに敗れた人たちに総額で500万円支払われていることに関しても、勝谷氏は「山分けしている」などの表現で、さも悪事であるかのような印象操作をやっています。この金額が妥当かどうかは私にはわかりませんが、コンペに敗れた人にそれなりの金額を支払うこと自体は何も不思議なことではありません。不正があったと言うに足る根拠は何もありません。

(ただ私としても、コンペに参加した人の名前ぐらいは出すべきだと思います。有名な芸術家やデザイナーに、負けた場合には名前を出さないという条件でコンペに参加してもらったことは十分考えられますが、こういう自治体のイベントでは、それは好ましいやり方ではないと思います。)


勝谷氏は『せんとくん』のデザインが発表された当初から、このキャラクターが気に入らなかったようで、彼の出演番組でもそれを表明していました。しかし当時はまだ、作者や選考課程に対する批判はしていなかったように思います。
それが、世間の不評の声が高まり、選考課程の不透明さが取りざたされるようになると、勝谷氏の批判も俄然勢いを増し、その攻撃範囲も拡大していきました。挙げ句の果てがこの誹謗中傷と印象操作です。

かつて勝谷氏は、倖田來未氏への批判が治まらないことを「尻馬に乗ったバッシング」と非難していましたが、今回の件は勝谷氏が『せんとくん』批判の尻馬に乗って言いたい放題言って、ウサを晴らしているようにしか、私には見えないんですけどねぇ。



平城宮跡


















ぼうとくんと平城宮跡に行ってきました。後は復元された朱雀門です。
せんとくんの姿はまだどこにもありません。5月にはここにもコキントウ氏が来るそうです。


ぼうとくんとタンポポ


















タンポポに囲まれていにしえの都を忍ぶぼうとくんです。

manguhsai at 17:56|PermalinkComments(43)TrackBack(0)clip!

2008年04月20日

前回記事の訂正とお詫び

読者(J1さん)からのご指摘で、前回の記事に誤りがあることがわかりました。

前回の記事で、勝谷氏が『せんとくん』を非難する理由を4つ挙げましたが、そのうちの3番が間違っています。
「『せんとくん』の横になっている絵が、本来の涅槃像から見て左右逆である」と勝谷氏が非難していると私は思っていましたが、そうではありませんでした。勝谷氏はただ単に『せんとくん』に涅槃のポーズをとらせたことがけしからんと言っているだけでした。
ワット・ポーに関しても、左右の問題ではなく、単にCMに使ったということでタイ政府から抗議を受けたということです。

事実誤認があったことをお詫びいたします。

つきましては、その部分に関する私の主張を以下のように訂正いたします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

3 『せんとくん』の横になった絵は、涅槃のポーズでありけしからん。

3について。
そもそもこのキャラクターを仏と見なすならば、それが涅槃のポーズをとっていて何が悪いんでしょうか?
仏が涅槃のポーズをとっている・・・普通ですよね。
角の問題はまだ議論の余地があったと思いますが、これに関しては、なんの問題があるのか私にはサッパリわかりません。

勝谷氏は、以前タイのワット・ポーの涅槃像をモデルにした日本のCMが、タイ政府から抗議を受けたという事例を出して得意げですが、それは「タイの」それを商業利用したから、タイ政府が怒ったということですよね。
しかしこの『せんとくん』は日本が作ったキャラクターですよ。どこの国から、どういうクレームがつくと言うんでしょうか?

勝谷氏は、仏教そのものを他国(例えばタイ)の文化だと考えているんでしょうか?
日本には日本独自の仏教があり、日本独自の仏教文化があるわけですよね。その範囲で行われる活動に、他国が容喙して来るとは考えられませんし、もし仮に容喙してきたとしても、それを是とするとは、一体どういうことなんでしょうか?
勝谷氏は日本の仏教を、他国の仏教の下にあると見ているんでしょうか?

manguhsai at 19:42|PermalinkComments(30)TrackBack(0)clip!

2008年04月18日

がんばれ、せんとくん!(前編)

今週15日、奈良の「平城遷都1300年祭」のマスコットキャラクターの名前が「せんとくん」に決定しました。

みなさんもうご存知の通り、我らが勝谷様はこのキャラクターがお気に召さなかったようで、例によってあちこちの番組でけなしまくっておられます。
特に私がひどいと感じたのは、16日に放送された『コラムの花道』(TBSラジオ)での発言です。この番組を聴いた私は、氏の(また相手役の小西克哉氏の)あまりの無知迷妄ぶりと愚劣漢ぶりに、しばらく怒りによる目眩がおさまりませんでした(まだのかたは、是非お聴きください)。

http://tbs954.cocolog-nifty.com/st/files/st20080416.mp3

というわけで、もともとこのキャラクターの話題は小ネタで済ますはずだったんですが、言いたいこと、言わねばならないことが増え過ぎてしまったので、今回と次回の2回にわたって取り上げたいと思います。
で、今回はこのマスコットキャラクター『せんとくん』に対する誹謗中傷に的を絞ります。その他のことは次回に回します。



勝谷氏は、この『せんとくん』に白毫(びゃくごう:眉間のイボのように見えるもの。本当は1本の毛が巻き縮れたものだそうです)があるなどの特徴から、これが仏をキャラクター化したものであるとしています(私もそれには異を唱えません)。
で、そう見なした上で、このキャラクターが仏を冒涜するものだとし、またこのキャラクターの作り手は、仏教などの文化に対する理解が欠如したバカ野郎だと言っています。

勝谷氏がそう主張する理由を挙げてみましょう。

1 仏様の頭に悪魔を象徴する角を付けている。

2 鹿の角を付け、仏様と鹿を関連づけているが、それは日本固有の事情。奈良
  に鹿がいることなど世界的にはまったく知られていない。

3 『せんとくん』が横になった絵は、本来の涅槃像から見て左右が逆になって
  いる。
せんとくん3





4 別の絵で『せんとくん』が人差し指を頭に当てて考えているポーズは、ある
  国から見れば相手を挑発するポーズになっている。
せんとくん2







以上の4点でした。


まずは1、角について。

ダライ・ラマダライ・ラマ14世が10日、成田空港で会見した際、頭に指で角を作り「私がデーモンに見えますか?」とおどけてみせました。勝谷氏はそれを引き合いに出して「角はデーモンの象徴」と言います。
で、「その悪魔の象徴を仏の頭に生やすのは、冒涜以外の何ものでもない」と『せんとくん』を非難します。
14日に放送された『スッキリ!!』(日テレ)でもこんな風に言っています。

 「世界的に見たら、角があるのは悪魔なんですよ。その悪魔を、お坊さんか、
  仏さまとしか思えないものに付けるっていうことは、文化的な理解も何も考
  えていないバカ野郎が考え出したキャラクターですよ。」




さてさて、頭に角を生やしているのは、本当に悪魔の類いだけなんでしょうか?
そんなことはありませんよ。頭に角の生えた神様だってちゃんといます。みなさんもご存知ですよね、ギリシャ神話の牧神『パン』を。この神は脚がヤギのようになっていて、頭には同じくヤギのような角を生やしています。まさに角の生えた世界的超有名神です。まさか勝谷氏、こんな神様さえ知らなかったんでしょうか?

まあそういう神は探せば他にももっと見つかるんじゃないでしょうかねぇ。つまり世界的に見れば、角が必ずしも悪魔を示すというわけではないんですね。
ダライ・ラマのとったポーズは通俗的なジェスチャーに過ぎません。そんなものにすがった勝谷氏の批判は、お寒い教養の象徴と言う以外ありませんね。


次、2は後回しにして3の涅槃です。

勝谷氏は、発表されたポーズ違いの『せんとくん』のうち、横になったポーズの絵が本来の涅槃像と逆向きになっていると非難しています。
本来、仏の涅槃の姿は右脇腹を下にして寝ています(このブログの一番上の勝谷フィギュアのように)。だから勝谷氏が言っている絵は左脇腹を下にしている絵のはずなんですが・・・おかしいですね、私はそんな絵を見たことないんですけど。ネットで調べても、テレビの映像を見直しても、どれも本来の涅槃像と同じ向きの絵しかないんですけどねぇ・・・。
まあ、いいや。そういう絵があるとして話を進めましょう。

さて、みなさん、勝谷氏の話、おかしいと思いませんか? 『せんとくん』が横になっているからって、なんでそれが涅槃だと言えるんでしょうか?
涅槃とは釈迦が入滅、つまり死んでしまうことです。でもこの『せんとくん』、目を見開いてますよ。とても死んでる様には見えません。まあ、当たり前と言えば、当たり前ですよね。なんでイベントのマスコットキャラクターが死んでるところをわざわざイラストにしなきゃいけないんですか。つまりこの絵はただ単に『せんとくん』が横になっているだけで、涅槃なんかじゃないんですよ。
そもそもですよ、勝谷氏が言うように、涅槃と逆向きになっていたら、それこそその絵は涅槃ではないと判断するのが普通でしょ。

勝谷氏は、以前タイのワット・ポーの涅槃仏をモデルにしたCMがそれを左右逆にしてしまって、タイ政府から抗議を受けた事例を持ち出して得意げですが、それはワット・ポーだから問題なんですよ。ワット・ポーのそれは間違いなく涅槃像ですから。しかし、『せんとくん』は涅槃じゃないですから。

結局勝谷氏は仏が横になっていたらそれは涅槃だと思い込んでいるわけです。しかし、釈迦だって死ぬとき以外にも横になっていたでしょうし、左側を下にして寝てたときもあるでしょう。そういうところを描いたに過ぎない絵を、「涅槃と逆だ」なんて騒ぎ立てているだけなんです(まあ、勝谷氏はしょっちゅうこの手のアホ騒ぎしますけどね)。


2と4は手短にいきましょう。

2。「奈良に鹿がたくさんいることが世界的に知られていない」って、だからなんなんだよ。知られていないから、知ってもらうためにわざわざ鹿の角生やしてるんでしょうが。ご当地キャラなんてそういうもんじゃないですか。世界的に知られていなければキャラクターに出来ないっていうなら、日本のキャラクターは大概、富士山か芸者か侍か相撲取りになってしまう。

4。どこかの国で、そのポーズがヘンな意味にとられるからって、いちいちそれを気にして作らないといけないのか? だったら仏像の印相(手指のサイン)もどうにかしないといけないことになる。親指と人差し指でワッカを作ったら、日本では「銭」とか「銭儲け」のことだし、確かどこかの国ではセックスを意味していたんじゃなかったでしょうかねぇ。



「オレ、仏教教えに行ってやろうか?」なんて偉そうにほざいていた勝谷氏ですが、結局見てきたように『せんとくん』に対する非難は、氏の無知と非論理性の産物でしかなかったわけです。

そう言えばお気づきですか? 実はこの『コラムの花道』中、『せんとくん』以外のことで勝谷氏自身の無知・無教養を象徴的にさらけ出した発言があったんですけど。
それは、5月に中国の胡 錦濤国家主席が法隆寺を訪れることに触れ、このときに寺側がなんらかの抗議行動をとるべきだと言ったところです。こう言ってます。

 「ボクはね、法隆寺のあの塔のとこからね、上からね、エッフェル塔はやった
  よ、上から『人権を守ろう』っていうのを垂らしてくれるとね、素晴らしい
  と思いますよ。」

どうやら勝谷氏は寺院にある塔がなんであるのか知らないようです。
塔の基部には仏舎利(釈迦の骨、本物とは限らない)が収められています。つまり、寺院にある塔はお釈迦様の墓です。墓に垂れ幕を吊るすアホがこの世にいるんでしょうか!? しかも釈迦の墓に!
仏を冒涜しているのは、勝谷、お前のほうなんだよ、このバカ野郎!


ぼうとくん

manguhsai at 19:41|PermalinkComments(84)TrackBack(0)clip!

2008年04月16日

倖田來未は素直で率直でいい人

先週12日(土)、倖田來未氏が全国ツアーを開始しました。
活動自粛から72日ぶりだそうで、会場の静岡エコアリーナでファンを前に改めて謝罪していました。

http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2008/04/13/01.html

週があけた14日(月)、この話題はテレビ各局の情報番組で取り上げられました。この日、2つの番組のレギュラーコメンテーターである勝谷氏も、もちろんこれについてコメントしています。

まず朝8時からの『スッキリ!!』(日本テレビ)では、こうコメントしていました。



 「ボクね、今回のことが起きるまでね、なんの接点もなかったの、この人と。
  ファッションもなんやケバいなと思ってたしね、歌もなんの興味もなかった
  んだけれども。ちょっとこの一連のことで彼女を知って、なかなかええヤツ
  やんと思いましたね、逆に。」


「羊水腐る」発言が問題になった当初は、倖田氏批判への憎しみをあらわにしていただけの勝谷氏ですが、今では彼女の人柄に惚れ込んでしまったようです。
夕方の『ムーブ!』(朝日放送)でも、こう言ってましたよ。

 「ボクは倖田來未って人、全然あの時期まで知らんかったけれども、それ以
  降知るようになって、非常に素直で率直でいい人だなと思いましたよ、今
  回の見てても。」


しかし、私は不思議なんですよね。勝谷氏は何をもって彼女を「非常に素直で率直でいい人」と評価しているんでしょうか?
活動を自粛している期間、フジテレビのニュース番組での謝罪を除いて、倖田氏はまったく表舞台に立っていないわけでしょ。まさかそのニュースでの涙の謝罪会見と今回のファンへの謝罪を見てそう評価したんでしょうか?
ま、過去の彼女の出演番組やインタビュー記事を取り寄せて見たなんてことはないでしょうから、それしか考えられませんよね。
だとしたら、勝谷氏の人物評はなんてペラいんでしょうか。ペラペラですよね。上っ面だけで評価している。人間、そんなもんでわかるわけないでしょ。
私なんか勝谷氏とは逆に、2つの謝罪を見て何も心に来るものはなかったですけどね。

さて、勝谷氏はその『ムーブ!』で、こんな奇妙な発言もしています。



 「しかし、あんときねぇ、その、バーッと来たバッシングの尻馬に乗ってです
  ね、スポンサー降りたりなんかした企業やなんかはねぇ、どういうつもりで
  今おるんかねぇ、ちゃんと説明しろよな、ほんとに!」


はあ?でしょ。
「企業がバッシングの尻馬に乗った」っていうのもおかしな考えですが、「企業は説明しろ」っていうのも意味がわかりませんよね。何を? なんで? どういうこと?
企業が何もおかしなことをしていないのは、このブログでも述べた通りです(笑止!倖田來未擁護論・前編)。また今回の倖田氏の改めての謝罪も、街の声は賛否半ばしていました。少なくとも『スッキリ!!』をはじめ、いくつかのワイドショーではそのように伝えていました。倖田氏への批判がほとんどなくなってしまったというわけでもないし、ましてや「彼女は正しかった」なんてことは、まったくないわけです。
それを、鬼の首でも取ったように「どや、企業ども!」って言うのはどういうことなんでしょう?

私、ちょっと考えてみたんですが、こういうことしか考えつきませんでした。
つまり「倖田來未は素直で率直でいいコだった。今回それがハッキリした。しかし企業はそれをわからずに彼女を広告から降ろした。企業は間違っていたのだ。間違った認識に基づいて彼女を降板させてしまったのだから、企業は自分たちの過ちに対してきちんと言及せよ。そして責任をとれ。」ということなんでしょうねぇ、勝谷氏の頭の中では。
自分の妄念の中だけに生き、その妄念から他人を非難する勝谷氏。いつものパターンとはいえ、なんだかもうここまで来てしまったか、っていう感じですよねぇ・・・。


で、その舌の根も乾かない翌日15日(火)の『ムーブ!』では、芸能コーナーの最後、CMタレントランキングの話題のときに、勝谷氏、こんなこと言ってました。



 「なぜ宮崎哲弥さんにCMが来て、オレに来ないのか!? 募集中でーす。」


もう救いようのないアホですわ。

manguhsai at 13:19|PermalinkComments(46)TrackBack(0)clip!

2008年04月14日

真実は日記に宿る

まずはお詫びしたいと思います。

前回、勝谷氏の人間性、本性が垣間見えるとして、最近の雑誌、ラジオでの氏の発言をご紹介しました。
しかし「垣間見える」程度の発言をご紹介する前に、まず氏のそれが「丸出し」「むき出し」である文章を先にご紹介するべきでした。
私、『勝谷誠彦の××な日々。』の赤ちゃんポストについて書かれた06年11月11日の記事のことをすっかり失念しておりました。
今回はお詫びとともに、その記事をご紹介したいと思います。


「無責任国家に次に出現するのは『老人ポスト』だな。」と題したその文章で、まず勝谷氏は赤ちゃんポストをこのように評しています。

 「コインロッカーベイビーとどこが違うというのか。」

そしてそれが、犯罪の居留地を認めたようなものだとして、こうも例えます。

 「『痴漢OK車両』や『強姦特区』とどこが違うんだ。」

また、このポストの設置が子供の遺棄を促進するとして、次のように言います。

 「かつてリサイクル法が施行された時に日本中に粗大ゴミが捨てられた。林道
  の脇に一人が捨てるとあっという間にそこはゴミ捨て場になった。熊本市の
  慈恵病院の前には捨て子の山が出来るかもしれない。」

(ちなみに、前々回で紹介した『ニュースバカ一代』VOL.280 では、今年3月末までに16人が捨てられた事実を踏まえ、上の記述を自分でこう評しています。

 「『熊本には捨て子の山が出来るだろう』とあちこちで書いた私の危惧はほぼ
  当たったと言っていいだろう。」)

さらに、このポストは、子捨てを決行する際に「人と人が目を見つめ合って『それでもやりますか』と」確認しないことにおいて消費者金融の自動契約機と同じ簡便さがあり、『借金屑(借金をしている人を「人間のクズ」だと決めつけ、こう称しています)』同様、子を捨てる親が社会に蔓延する、と述べています。
そして、社会に蔓延した「子を捨てる親」とはこのような人物だとしています。

 「税金で義務教育を受けさせてもらいながら売春婦をやっている餓鬼どもがコ
  ンドーム代をケチったツケを投入しにやってくるのだろう。」

つまり、女子中学生が援助交際をした結果できてしまった赤ん坊を始末するためにこのポストを利用するんだそうです。

最後に勝谷氏は、子供への虐待が増加している現状を踏まえてこう言います。

 「子捨ては実は激増している。下流社会の子育ての能力も気力もない下民ども
  が作ってしまった子供を家庭内で子捨てしているのが虐待の激増の実態なの
  だ。そいつらにこういう逃げ道を与えるとどういう事がおきるのか真っ当な
  頭の大人なら考えてみろ。」

私は逆にこう勝谷氏に問いたい。「逃げ道を与えないとどういう事になるのか、小さすぎてあまり働かないだろうが、それでもその頭でよく考えてみろ」と。
しかし、まともな答えはやはり返って来そうにありません。勝谷氏は、子供の命を救うということに関して、このように述べています。

 「『亡くなるはずの命を救っている』という心理的な詐欺にメディアも役人も
  騙されて全員が腰がひけている卑劣。」

 「病院側は善意のつもりだろうがこういう勘違い馬鹿の押しつけ善意ほど迷惑
  なものはない。」


後は全文を読んで、心行くまで勝谷氏の人間性をご堪能ください。

http://www.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=31174&log=20061111


manguhsai at 00:00|PermalinkComments(19)TrackBack(0)clip!

2008年04月12日

真実は片言に宿る

「このブログは勝谷氏の言葉尻を捕まえて難癖をつけているだけの、ただの揚げ足取りだ」なんていう批判をときどき目にします。
まあ、そういうときもあるかもしれませんが、私は基本的に大上段からぶたれた思想や論説よりも、片言節句にこそその人の人間性がよく表れていると思っています。
今回は(も)そういう観点から、最近の勝谷氏の言葉を2、3拾ってみました。

〈その1〉

まずは『月刊WiLL』に連載されている『あっぱれ!築地をどり』からです。
このコラムは主に朝日新聞を批判、と言うより揶揄するためのものなんですが、現在発売中の5月号では、イージス艦衝突事故に関する朝日の『天声人語』『素粒子』が槍玉に挙がっています。
その中で勝谷氏はこんな表現をしています。

 「なぜか、常に自衛隊の至宝とでも言うべき艦船に遊漁船だの漁船だのはブチ
  当たるのだが、その瞬間から築地をどりとしては、全流派あげてのお祭の始
  まりだ。」

日本語としての違和感はおくとして、この「艦船に遊漁船だの漁船だのはブチ当たる」という表現はどうでしょう?
それらの船にそれなりの非があるとしても、死者・行方不明者が出てしまった側にその言い方はないんじゃないでしょうか?

また、これより少し前ではこう書いています。

 「イージス艦『あたご』が漁船を撃沈してしまった瞬間から、築地をどりは大
  臨時興行に突入したのだ。」

「撃沈」したんだそうです。これでは『清徳丸』どころか、勝谷氏が愛してやまない自衛隊をもバカにしているんじゃないでしょうか?

朝日新聞を揶揄するのは結構ですが、それ以外の人たちを侮辱するのは、なんの意味があってのことなんでしょう?

〈その2〉

4月9日に放送された『コラムの花道』(TBSラジオ)での発言です。
チベット問題に抗議して、世界各地で北京五輪の聖火リレーを妨害する行為が起きていることに関して、勝谷氏は笑いながらこう言いました。

 「毎日が楽しくてしょうがないんですよ。聖火の行く先々で何が起きるかとい
  うことが。」

  http://tbs954.cocolog-nifty.com/st/files/st20080409.mp3


聖火リレーを妨害している人たちは真剣にやっているんじゃないでしょうか。逮捕覚悟で、それこそある意味命がけで。それを他人事を見物するように「楽しくてしょうがない」ですか? この人、本気でチベットのことを憂慮しているんでしょうか?

先に挙げたイージス艦事故の表現もそうですが、何かのための批判ではなく、ただ気に入らないものを攻撃して「ざまあみろ」と言いたいだけ。そうとしか思えないんですけどねぇ。

〈その3〉

最後は4月6日のラジオ『勝谷誠彦の志ジャーナル』(MBS)です。

http://www.mbs1179.com/katu/

前回取り上げた、赤ちゃんポストに関する勝谷氏の持論をまたしても拝聴することになるんですが、この番組では、勝谷氏の「障害児を捨てる親」の具体的なイメージが示されました。
障害児を産んだ親が、その子を遺棄しようと決断する瞬間を、勝谷氏は想像でこのように描写しました。

 「親が障害があるのを見た瞬間に『この子、もういらん』と思たのかもしれな
  いなと、そら思いますよね、常識的に考えて。」

 「生まれました。自分の赤ちゃんに障害がありました。『これ、いらんわ』」

批判対象の描写ですから、誇張もあるでしょう。しかしねぇ、こんな親、世の中に本当に存在するんでしょうかね? 親というものをあまりにもバカにしていると思うのは、私だけでしょうか?

そして、マスコミが赤ちゃんポストへの障害児遺棄を大きく取り上げない理由を勝谷氏なりにマスコミ側に立って推測する中で、親とその家族(あるいは友人)とのやり取りをこんな風に描写してみせました。

 「今度は障害を持った子を『ちょっとよう育てんわ』『アンタ、あそこ行って
  置いて来ぃ』そういうことをまたマネする親が出かねない、ということで報
  道を規制しているんだったらわかるけれども」

人間をこういう風にとらえているからこそ、1億総愚民化なんて言えるんでしょうね。



どうでしたか、みなさん。勝谷氏の人間性、本性を垣間みることができませんでしたか?

manguhsai at 00:00|PermalinkComments(48)TrackBack(1)clip!

2008年04月10日

障害児をダシに使うな!

現在発売中の『週刊SPA!』08.4.15号掲載の『ニュースバカ一代』VOL.280「赤ちゃんポスト の巻」が、例によって朝日放送の『ムーブ!』(8日)で紹介されました。
そして、このコラムのあまりの内容に、我らが上村幸治教授が敢然と反論しました。

このコラムには次のように書かれています。少し長い抜粋になります(できれば書店などで全文を読んでみてください)。

 「三十一日に配信された共同通信は、三月中にポストには三人の子供が預けら
  れたと紹介した中で〈うちひとりは障害があるとみられる〉と報じた。読ん
  だ私は目の前が真っ暗になるほどの衝撃を感じた。これはもっともあっては
  ならない差別ではないか。かつてナチスは第三帝国で優生思想と称して障害
  者を抹殺した。それらへの深い反省から人類は出産前診断で判明する障害や
  病気を持つ胎児の中絶にも極めて慎重になってきた。ましてや出産後に障害
  がわかったからといって子供を遺棄するということは、生命の尊厳に対する
  根本的な挑戦である。あるいは親は『障害のせいではなく経済的理由』など
  と言うかもしれない。しかしそれは本人だけが知ることであり永遠に他人に
  はわからぬことだ。少なくとも『子捨て箱』の存在が親の行為のハードルを
  下げたことは間違いないと私は思う。
  (中略)
  これは新聞の一面に載り国民的な論議を巻き起こすべき事件ではないのか。
  (中略)
  しかし共同通信以外の大マスコミが障害児が捨てられたと報じたとは、私は
  寡聞にして知らない。日頃、人権や差別についてあれほどうるさい新聞やテ
  レビが、である。そこに一旦は『子捨て箱』を容認した後ろめたさがあると
  すれば卑劣というほかはない。」


このコラムが紹介された後、上村氏は
・障害児を捨てたからといって、それが差別かどうかはわからない。
・このポストを作ったから子供を捨てるハードルが下がったとは言えない。
・今回は命を救うという機能を果たしたと思う。
・最初からダメだという形ではなく、もっと冷静に議論すべきだ
ということを述べ、勝谷氏に反論していました。

(やり取りの全体は動画でご覧ください。動画をご覧になれないかたは、「続きを読む」に文字を起こしてあります。)



さて、私はここで赤ちゃんポストそのものの是非を直接云々しません(といっても、読者には私の考えがおわかりになると思いますが)。
私がここで批判したいことは、勝谷氏が障害者を利用しているという点です。
自分がこの論争で優位に立つために、また自分の考えを喧伝するために、いや、もっと言うなら気に入らない者を罵倒するために、勝谷氏は障害者を利用している、ということです。


勝谷氏は「これはもっともあってはならない差別ではないか」と大見得を切ります。しかし、そもそもなぜ捨てられた子供の中に障害児が含まれていただけで差別だと言えるんでしょうか? 健常児が捨てられたときより障害児が捨てられたときのほうが問題は大きい、と考えることのほうが差別的ではないでしょうか?

今までに捨てられた子供が16人、そのうち1人が障害児だったらしいということですが、この割合は健常者に対する障害者の割合と変わりません。つまり生まれてきた子供をランダムに捨てていってたら、16人のうちに1人ぐらいは障害児が含まれるということです。
障害児の割合が飛び抜けて多いのなら、障害児への差別と見なせるかもしれませんが、事実はそうではありません。むしろ数の上から言えば、「差別なく捨てている」ということになります。

また親の意識にしても、勝谷氏は「障害を理由に捨てたかどうか永遠にわからない」と言っているにもかかわらず、氏は「障害児だから捨てた」ことを前提にして強引に論を進めています。
おかしな話です。理由がわからない以上、差別かどうかもわからないわけで、氏の主張も土台から成り立たないわけです。


勝谷氏は大マスコミが、この件を大問題として取り上げないのはおかしいと騒いでいますが、そんなこと当然です。上に見たように、これが障害者差別であるというハッキリした事実はどこにもないんですから。
むしろ人権や差別に真っ当な感覚を持っているからこそ取り上げないんですよ。差別がどういうものであるかサッパリ理解していない勝谷氏だからこそ大騒ぎできるんです。


そして勝谷氏はさらにひどい論法を持ち出してきます。

氏はナチスの優生思想を引き合いに出し、あたかも赤ちゃんポストがその象徴であるかのように言います。しかしこれこそ氏の印象操作に他なりません。でないのなら、彼はよっぽどのバカということです。
赤ちゃんポストは、障害児であれ健常児であれ、捨てられた子供の命を救う目的で設置されたものです。それのどこが「障害者を抹殺する」思想とつながるんでしょうか? それがなぜ「生命の尊厳に対する根本的な挑戦」になるんでしょうか? まったく逆じゃないですか。
勝谷氏は、親に対する非難と、ポストを設置・容認した側に対する非難を故意に混同している卑劣な人間か、もしくはそれらを区別することさえできない低劣な頭脳の人間かの、どちらかです。

また親に対する非難だとしても、優生思想などというものを引き合いに出すのはまったくの見当違いです。
優生思想はナチスの国家的な思想です。それを親の個人的な考えを非難するのに用いるのは間違っています。個々の親が生まれてきた子供の障害を悲観し、その子を遺棄することは、世界中にあり、ナチス以前にも以後にもあります。そういう個人的な(上村氏風に言うなら)心の弱さを、国家レベルの思想を持ち出してきて非難すべきではありません。



赤ちゃんポストは、設置された当時から議論がありました。勝谷氏と他の論者との間でもそれは交わされました。
例えば設置に肯定的な宮崎哲弥氏とも議論になりました。宮崎氏もやはり命を救うことを最優先に考えるべきだと主張していました。

設置から1年が経とうとしていますが、今なお勝谷氏の主張には、このポストが子供の命を救うという事実への言及がまったくありません。
私は勝谷氏に問いたいですよ。アンタ本当に命の尊さについて考えたことあるのか?
勝谷氏のコラムに感じるのは、他者への憎悪と怨念、それらをぶつけてやりたいという欲求だけです。
そのために、捨てられた子供の中に障害児が1人含まれていたという、たったそれだけの事実を、利用できるだけ利用してやろうと大はしゃぎしている。人間ここまで卑しくなれるのかと、ヘドが出る思いです。

 「読んだ私は目の前が真っ暗になるほどの衝撃を感じた。」

猿芝居はもういいよ。



続きを読む

manguhsai at 00:10|PermalinkComments(24)TrackBack(1)clip!

2008年04月09日

『偽装国家』に石を投げたら

前回、前々回『偽装国家』から文章を引用しましたが、そのためにこの本を買うハメになりました。
実はこの本、近所の図書館にも置いてあったみたいなんです。しかし貸し出し中で借りることができませんでした。それでやむなくブックオフで購買したというわけです。105円でした。なんかすごい悔しい気持ちです。
まあでも仕方ありません、買ってしまった以上は、なるべくこの本を活用するようにして、元を取ろうと思います。

そこでですが、さっそく今回こういう趣向をやってみます。
目をつぶってこの本を適当なところで開いてみます。で、開いた2ページ分におかしなところがあるかどうか。あれば私の勝ち。なければ勝谷氏の勝ちです(勝ち負け決めたからって、何をどうするわけでもないんですけどね)。

ではやってみますよ。それっ。
開きました、30、31ページです。どこかおもしろいところは・・・おっ、ありました。
「サラ金無人ATMが諸悪の根源」という小見出しのすぐ後です(この小見出しもどうやねん)。

 「後ろめたいことをするとき、人と人は、目と目を見合ってやるのが基本
  です。」

ええ!? そうかぁ!? 普通、後ろめたいことをするときは目をそらすんじゃないのか? どういうことなのか、状況が思い浮かばない。
これたぶん「サラ金から金を借りるとき、昔なら対面でやり取りしていて借りづらかったところがあったが、今は機械による貸し出しで抵抗なく借りられるようになった、それがいけない」と言いたいんでしょうが、この表現はどう見てもおかしいですよね。
ちなみに、次のページになってしまいますが、こうも書いています。

 「繰り返しますが、やましいことをするときは最低限、人と人が目と目を合わ
  せて、『それでもやりますか?』『やります』というのが礼儀だったわけで
  す。」

れ、礼儀!? やましいことをするときに礼儀があるのか?
これはもう完全に私の勝ちですね。

もう1回やりましょう。
よっ。68、69ページです。また前のほうになっちゃいましたね。
おっ、あります、あります。
「ノブレス・オブリージュ」についてですね。

 「たとえば、イギリスの軍隊では貴族は必ず入って将校になりました。
  しかし、突撃のときは、真っ先に先頭を駆けなければならないんです。
  先に弾に当たって死ぬんです。」

ええ!? 将校が先に死んでいっちゃうの!? じゃあ後誰が指揮とるんだよ。めちゃくちゃな戦術だよ。
勝谷氏、「憲法残って、国家滅ぶ」ってよく言ってるけど、これじゃあ「ノブレス・オブリージュ残って、軍隊全滅」だよ。
はい、また私の勝ちでした。

さらにもう1回。
はっ。146、147ページです。今度はないかな。と思ったらありました。
防衛省、自衛隊絡みの話です。

 「もう一つ言えば、これを機会に気の毒な階級名も変えたほうがいい。何が
  一等陸尉だ。一尉二尉三尉って、小学校の運動会の順位でしょうか。ちゃ
  んと大尉中尉少尉という呼称があるじゃないですか。」

何が気に入らないんでしょうねぇ。数字がいやなんでしょうか? でも昔も一等兵、二等兵はありましたよね。昔ながらの呼び方じゃないからって、そんな目くじらたてるようなことですかねぇ。
さらにこれに続く文が笑えます。

 「誓って言いますが、庁を省にするよりも、こちらを見直す方が軍の士気は画
  期的に上がるでしょう。自衛官もとい軍人に志願したがる優秀な若者も激増
  するはずです。」

そんなわけないだろ!
はい、これも私の勝ちです。なんと3連勝しちゃいました。


3連勝したところで、この趣向を勝谷氏風に総括しておきましょう。
このようなおかしな文言が含まれたページが、3回も連続で開かれたということは、単なる偶然ではあるまい。そこにはすべてを貫く理由があると考えるざるを得ない。ではそれは何なのか?
簡単ですよね。勝谷氏がアホだということ。ただそれだけ。

石を投げたら、アホ文に当たる。いや、アホ文にしか当たらない。『偽装国家』はそういう本のようです。


石を投げれば

manguhsai at 09:52|PermalinkComments(13)TrackBack(0)clip!