2007-06-25
「手すり」と手すり
日記 | |
朝の電車は乗客がみんな傘を持っていたのでいつも以上に窮屈でした。終点の渋谷で、傘の忘れ物に注意するよう呼びかける車内放送。
「手すりに傘を掛けたままお忘れになるお客様がたいへん多くなっております。今一度お確かめください」
え? 手すりに傘? そんなものぶら下げたら、電車の振動で水は飛び散るし、揺れて前に座ってる人の顔を直撃したら危ないよ。だいたい、誰もそんなことやってないじゃないか。まだ誰もやってないことをなんで禁止する必要があるんだ。これは、あの「ファイトクラブについては語ってはならない」というのが「ファイトクラブについて語りまくれ」という意味であるのと同じで、通勤電車内の秩序への反乱を呼びかけてるのか? ということは、既に鉄道会社まで反体制勢力の手に落ちたのか? もう革命は始まっているのか?
と、パニックになったのですが、改札を通るあたりで、あ、なんだ、「手すり」とは手すりのことであって「つり革」ではないのだということに気づきました。あの、座席の両端の、鉄パイプの手すりのことですね。たしかにあそこによく傘掛けますよね。
ここ数年、こんなことばっかり。気をつけなくては、という決意を新たにしました。
夕方、目黒駅のトイレに傘を置き忘れました。
ところで、いわゆる牛肉ミンチ偽装問題。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070625i205.htm
いったい全体、何がどう悪いのか、皆目検討もつきません。
月曜日の朝日新聞のトップもこの問題で、「主な疑惑」というのが箇条書きになってました。
・豚や鶏などを混入した偽牛ミンチを製造
・状態が良くない肉を入手、殺菌処理して製造
・家畜の血液で着色し、牛ミンチに見せかける
・肉に水を混ぜて全体を増量
・学校給食用にブラジル産鶏肉を国産と偽り出荷
・賞味期限切れの冷凍食品を入手し、日付を書き換えた包装に詰め替え販売
・国産鶏肉会社の袋を複製、外国産鶏肉を詰め販売
これがトップに扱われるべき問題であるとは? 豚肉や鶏肉が宗教的理由やアレルギーなどで食べられない人もいるかもしれない。けど、今回はそういう視点はないようです。状態が「良く」なかろうが、賞味期限が切れていようが、食えればいいじゃないですか。っていうか食えるんだったら、「賞味期限」の設定の方が間違ってるんじゃないでしょうか。水で肉が増えるなら、結構なことじゃないですか。きっとこの会社の社長はジーザスの生まれ変わりに違いありません。
不二家の件もわからなかった。ムネオがいじめられて、しかもいじられる側が悪いということになっていた時も置いてけぼりを食らった気分だった。そのムネオをいじめていたツジモトが、さらにスケールの小ささに壮大なスケールで挑むようなささいな「問題」で辞任したのはさらに謎だった。年金の支払い免除資格があるのに免除になっていない人を免除にしたことも何が問題なのか理解できなかった。
それとも、これも「手すり」なのか?
今日の僕には、それを否定する自信はありません。けど、どうしても大問題とは思えない。「問題」を問題化することの方が問題だと思います。
関係ないですが、「問題」を問題化する問題については、↓でも書きました。
学歴詐称事件と「反学校の倫理」
その上で(そもそも犯罪をセンセーショナルに報道するのが妥当なことなのかどうかといったような根本的議論はさておいて、一般的な基準に照らしても)、これがトップを飾るような「大問題」と思えないという感覚は、私も共有します。「混ぜればうまくなる」という信念は、ある意味御立派で、これがレストランのシェフであったら何の非難も受けなかったでしょう。
非難の声を大きくしているのは、「ひどいものを食わされた」という新聞読者の感覚から生まれているのでしょう。混入されたもののなかには衛生上、あるいは生理上問題のあるものもあったかもしれませんが、そういうことが「ひどいもの」という感覚に結び付いているようには思えません。むしろ、「ひどいもの」は、つまり「安いもの」なのでしょう。「屑肉」=「安い」=「ひどい」という図式です。その裏側にあるのは、「牛肉」=「高い」=「うまい」という感覚。すなわち、だれも自分の舌で判断しなくなっていて、本来は生理的な感覚で決まるものを市場の価格で判断するようになっているわけです。
で、この奇妙な「生理感覚の市場化」をさらにヒステリックにしているのは、「穢れ」にまつわる日本人的感覚でしょう。屑肉はすなわち「穢れ」ですから、それを食べさせられることに日本人は極端に反応してしまうわけです。屑肉とは本来は流通に載せにくい、処理しにくい部位の肉なわけで、たとえば豚の舌などは屑肉として扱われますが、かなり美味なものです。牛の同じ部位なら「タン」として珍重されるわけです。名前が変わるだけで穢れが穢れでなくなるのですが、誰もそれを自分自身の生理感覚で確かめようとしません。
この「穢れ」にまつわる問題は、なかなか複雑です。たとえば、有機農産物を求める消費者の心理のなかには、「農薬」=「穢れ」という感覚が存在します。このような感覚は有機農産物と慣行農産物の価格差をつけるのには役立ちますが、現実に起こっている農業問題の解決には寄与しません。実際、同じ消費者が「家畜糞尿」=「穢れ」という感覚から「清浄野菜」(化学肥料を使って畜糞などの有機肥料を排除した作物)を選好するという奇妙な現象も起こるわけです。
人間が自分自身の生理感覚を信用しなくなると、実に奇妙なことが起こります。けれど、じゃあ自分自身を振り返って、自分の感覚がどこまで信用できるのかと自問すると……
ミンチ偽装は、あの社長さんの態度があまりにも稚気溢れる悪びれないものだったので、‘そうワルい人じゃないないじゃん’となったんですね。緊急に人命にかかわることでないし、という面もありますが、企業モラルの問題としては、やはり、イカンでしょう。しかし、彼の会社のような弱小企業は、メディアが“正義の味方”を振る舞うに際してはとても叩きやすい相手だったんでしょうね。民放のスポンサーになっているような巨大食品産業の添加物の問題のほうが、はるかに危険でも、何も言えない。
さて ― 「手すり」と「吊り革」の件ですが、ときおりあることですね。 >「問題」を問題化すること → これは‘風潮’でしょうか。この伝でいくと、健康番組で「こういう、日常生活での単純な取り違えもアルツハイマー症の初期兆候なんですね」などとゲストの医博がのたまう日も近いかもしれませんよ〜^^。
電車の話になりますが、最近、降車客の動作が異常にノロいように感じます。もっとも朝通勤時以外での経験ですが。ひとつには携帯を見てるヤツが多いからですが、それ以外の人たちもホンットにゆっくり降りていらっしゃる。‘降車客が降り了えてから乗る’というわが国都心のよき(これはまあ、よいでしょう)風習を守ろうとすると、乗降にひどく時間がかかる。だいぶ前でしたが、日本への留学生などを集め、“日本人はいかにせっかちか”を印象づけるTV番組を見た記憶があります。‘日本人はいつでもどこでも不必要に急いでいる’ということは、どうも、“懐疑・再検証してはならない事実”にされてしまっているような気がし、こういう傾向に危険さを感じます(うーん、意を尽くさぬ言い方…)。
お久しぶりです。
> 人間が自分自身の生理感覚を信用しなくなると、実に奇妙なことが起こります。けれど、じゃあ自分自身を振り返って、自分の感覚がどこまで信用できるのかと自問すると……
「良いもの」を見分ける「目」や「舌」を持たない僕ですが、発泡酒はやっぱり普通のビールよりもまずいと感じます。たぶん、目をつぶってても違いを言い当てることができると思います(逆に1000円のワインと3000円のワインならムリです)。
でも、輸入ビールとかで、分類上は「発泡酒」になってるんだけど高くて、おいしいのもありますよね。「発泡酒」だからってまずいわけじゃないんですね。
だとしたら、普通の発泡酒ってなんでまずいんでしょう? ひょっとして、ビールが売れなくなるとこまるから、わざと差をつけてたりするんじゃないかと思うんですが……。
人々の怒りの背景には、質の悪いものを食わされたということだけじゃなくて、「だまされた」という思いもあるのかもしれないですね。
はじめまして。電車の乗客、ノロいですか? 僕はいつもギリギリまで家を出ないので、駅までも全力疾走、乗り換え時もダッシュしまくりです。ほんの10分でも早く出て、余裕をもって移動したいなあと思うんですが。
> 不登校(昭40年代に‘発症’、現在も半ニート、か?^^;)のほうが、山ほど書きたいことがあるんですが、ま*それはまたの機会に^^。
ぜひぜひぜひぜひよろしくお願いします。しばらく、不登校は直接的なテーマにしてないですが、このブログの記事の大半は、登校拒否について考えるための練習問題みたいなものとして意識しています。直接関連がなくても、お気軽にコメントしてください。