Hatena::Diary

(元)登校拒否系 このページをアンテナに追加 RSSフィード

過去の記事一覧はこちら

2006-09-23

「もうセカンドハーフに入ってます」――「君が代訴訟」に関するサヨクの皆さんへの重大なお知らせ

| 「もうセカンドハーフに入ってます」――「君が代訴訟」に関するサヨクの皆さんへの重大なお知らせ - (元)登校拒否系 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「もうセカンドハーフに入ってます」――「君が代訴訟」に関するサヨクの皆さんへの重大なお知らせ - (元)登校拒否系 「もうセカンドハーフに入ってます」――「君が代訴訟」に関するサヨクの皆さんへの重大なお知らせ - (元)登校拒否系 のブックマークコメント

歴史の転換点となるような画期的な判決が出ました。残念ながら余裕がなく、とりあえずあるブログに張られていた朝日新聞、産経新聞、読売新聞へのリンクのうち、産経新聞の社説を熟読しただけですが、全てを理解しました。これが軍国主義の到来を告げる判決であることに疑いはありません。ウヨクの皆さん、よかったですね。サヨクの皆さん、残念でした。

判決文自体は読んでいませんが、産経の社説を見る限り、今回の判決のメッセージはこういうことです。民主的に選ばれた政府が何と言おうとも、試験で採用された教師は自由に行動してください。

政府は選挙で選ばれます。これに対して教師の採用には直接的な民主的プロセスがありません。もちろん教師も、民主的に選ばれた政府や議会が定めるルールに基づいて任命されるわけですが、国や都道府県の意思と教師の思想傾向には一定のズレが生じます。政府は好ましくない考えをもった人物をなるべく排除すべく努力をすることはできますが、その成果が現れるまでにはタイムラグがあります。

というわけで、サヨクの立場からは、かつて以下のような図式が成り立っていました。政府=悪玉、教師=善玉という構図です。おおざっぱに言って、自民党は教育を右傾化させたいと考えていました。それに対して、相当数の教師は軍国主義を復活させまいと努力してきました。今回の訴訟を起こしたのは、そのような人々の残党でしょう。

このような構図が成り立っていた時代には、政府から教師への「不当な支配」を批判することは、つまり、軍国主義に抵抗することでした。教師の政府からの独立は、平和教育が行われるということを保障していました。自民党が選挙で勝ち続けても、多くの教師は平和を愛していたからです。「不当な支配」の禁止は、民主主義から教育を保護する防火壁となっていました。

好むと好まざるとに関わらず、そのような時代は過ぎ去りました。今や、平和を愛する愛すべき教師は少数派となりました。これからも減り続けていくことでしょう。そして逆に、ウヨク的傾向をもつ教師が増殖しています。それは一つには自民党の地道な努力が成果を上げつつあるということもあるでしょうし、全体の人口が右傾化しているということもあるかもしれません。ともかく、以前のような図式が成り立たなくなったということは確かです。って調べたわけじゃないので僕はよく知りませんが、おおまかな印象としてはそうなんじゃないでしょうか。たぶん。

さて、このような新しい現実を前にして、教師の政府からの独立性は何を意味するでしょうか? ウヨクの教員は、何でも好き勝手にやっていいのだったら何をするでしょうか? もちろん、軍国教育です。サヨクの立場からすると受け入れがたいような歪曲された歴史を教え、科学に反するトンデモ情報を振りまき、保守政治家でさえも大っぴらに口にするのはためらうような人種差別思想を熱く語ることでしょう。要するに、教師の自主性を尊重することが、軍国主義を推進することを意味するようになったのです。

サヨクの皆さん、どうしますか? 平和教育を守るためには、あるいは復活させるためには、何が必要でしょうか?

反自由党はあらゆる教育に反対します。したがって当たり前のことですが平和教育にも反対です。というかどちらかと言えば軍国教育を好みます。軍国教育を受けた人が平和を愛しているのを見るのは心強いことですが、平和教育を受けた人が平和を愛しているのを見たら複雑な気持ちになってしまうからです。ですから、平和教育に手を貸したことがバレると党内で大変なことになるのですが、最近はこのブログを見てくださる方も激減してしまったので、今日だけは特別サービスとして、こっそりお教えします。

状況が変化しているのに相変わらず教師の自主性だの「不当な支配」への抵抗だのを主張し続けるのは、サッカーの試合でセカンドハーフに入ったのに以前と同じゴールに目がけてシュートするのと同じくらい滑稽なことです。教員の政府からの独立が軍国主義の復活を阻止することになる時代は終わりました。これからは、教師が自由になればなるほど、より極端な軍国教育が行われるようになります。

平和教育を推進するには、まず、日本共産党か社民党に政権を取らせて下さい。その上で、新政権が、まずウヨク傾向の強い教員をパージします。さらに、新政府が、つまりサヨクが適切と考えるような教育を実施することを残った教師に強制します。従わない教師は処分します。これが、民主的に教育の右傾化を阻止し、平和教育を実現するための唯一の方法です。つまり、サヨクが必要とするのは「自由」ではなく「支配」なのです。

同じようなことは、憲法論議についても言えます。かつては、護憲=平和主義、改憲=軍国主義という図式が成り立っていました。しかし、近いうちに憲法は変わるでしょう。その上でなお護憲を唱える人がいたら、その人は軍国主義者です。平和主義者のみなさん、もしまだご自宅に「護憲」のスティッカーがあったら、直ちに処分してください。そして「改憲」のスティッカーを注文しておいてください。まもなくハーフタイムです。

もちろん、とにかく教師が自由であるということが至上の価値であるという立場もありえます。それならば、軍国教育だろうが平和教育だろうが、各教員が好き勝手にやればいいことになるでしょう。その場合は、民意に支配された政府に支配された教師が生徒を支配するのではなく、教師が独裁的に生徒を支配することになります。もしあらゆる支配に反対するのであれば、学校そのものに反対しなければなりません。それが反自由党の主張です。

君が代の強制が、教育の自由を侵すだけではなく、労働者としての教師の良心の自由を侵害すると考えられる方もいるかもしれません。たしかに、君が代に対して思想的なアレルギーをもつ人々に斉唱や起立を強制することには問題があるかもしれません。強制はよくない。しかしそれは、ありとあらゆる労働について、常に言えることです。コンビニ店員は、お金をもらうために、レジで商品をバーコードに通したり、おでんをすくったり、雑誌を入れ替えたり、ゴミをまとめたりしなければなりません。そして資本主義社会で生きていくためには、お金が必要です。セブンイレブンに応募するか吉野家に応募するかを選ぶことはできても、全く仕事をしないという選択肢は通常はありません。つまり、労働というものはそもそも強制されるものなのです。「やりたいこと」と「やらなければならないこと」がたまたま一致するという人も中にはいるでしょうが、そこに強制があるという事実に変わりはありません。

労働者は毎日毎日鉄板の上で焼かれているのに、年にほんの数分間の儀式のことがこんなにも大問題になるのはなぜでしょう? インテリサヨクの皆さん、コンビニ利用してますか? 居酒屋で、フリーターにイカの塩辛を運ばせてませんか? 労働者は絶え間なく全身の自由を奪われているという圧倒的な現実。それが未解決の段階で教員というエリート階級の思想だの良心だのといったことについて騒ぎ立てるとしたら、2ちゃんねらーが共感しないのも無理はありません。あ、いや、反自由党が2ちゃんねるで支持を集めることもないでしょうけどね。それは飢えた難民の前で寿司を食べながら、「本当は焼肉がよかった」と文句をたれているようなものです。石原慎太郎やブッシュが支持を集めるのも、そのような思い上がったインテリへの怒りと共振しているからだということはしばしば指摘されます。

本当に自由を求めるのであれば、資本主義制度そのものを破壊する必要があります。それが反自由党の主張です。反自由党は、あらゆる強制の禁止を強制します。

ここで話は教育に戻ります。子どもに学校に行かないという選択肢はありません。だとすれば、卒業式に限らず、学校で起こっていることは全て常に強制の結果です。自由を尊ぶ教師も、「1足す1は2」だとか「イイクニつくろう鎌倉幕府」などという知識を生徒に強制するでしょう。あるいは、勤勉や自主性や思いやりといった道徳を注入(引き出す?)しているでしょう。思想的立場によっては、「君が代は悪いこと。算数は科学」と主張することができるかもしれませんが、強制は強制です。そしてついでに言っておくと、「国旗と国歌は強制ではなく、自然に国民に定着させるのが国旗国歌法や学習指導要領の趣旨だ」という産経新聞に引用されている判決文にあるような、「自然に」とか「自主的に」という外観をもつ強制が最も悪質な強制です。

だとしたら、このエントリーの冒頭に書いたことを訂正しなければなりません。学校教育に軍国主義が到来したというのはウソです。なぜならば、学校とは始まった時から常に軍国主義的であったからです。ま、テポドンに少しマスタードガスがオマケでついたくらいに考えておきましょう。




↑で感動した方・笑えた方はぜひ↓もご覧ください。

「反自由党は卒業式での日の丸・君が代の強制を断固支持する(前篇)」

cafe_noircafe_noir 2006/09/28 03:54 常野さん、お久しぶりです。cafe_noirです。
昨年のその節はメールをありがとうございました。理論社のご著書は、ちゃんと自腹で購入して拝読しました。ちなみに北区の東京シューレ本部は、私の自宅のすぐそばなのです。ただ、私は中学生のときなどは不登校でしたが、シューレとの関わりは一切ありませんでした。
さて、昨年の秋ごろに訳あってPCを取り上げられてしまい、ブログなど全てのコンテンツを消去しました。おかげで「情報貧民」(笑)となりましたが、「雑音」が無くなるのも、かえって良いものですよ。
というわけで、今日はネットカフェからです。一人でぼぉぉとしていると、情報が滞留して思考整理をしたくなるので、なるべく常野さんが関心を持てそうな範囲で、ここで思考整理をさせてください。興味がありましたら、ご意見をいただけるとうれしいです。
_________________
  <現在の日本の思想状況>
(1)日本では、主に戦後以降、左派思想家にとって、西欧近代的な普遍的理性に依拠した思想(マルクス主義的な革命論)が、特に1970年代前半までドミナントであった。
(2)しかし、70年代以降の高度経済成長期に入ると、そのようなマルクス主義的革命思想は下火となり、代わって穏健リベラル派的な市民社会論が、欧米的な経済的近代化の理論的支柱となる。これが1980年代末の冷戦崩壊とバブル経済崩壊まで続く。
(3)さて、90年代に入ると、冷戦崩壊によって、ある種のマルクス主義的な左翼的展望がついえ、バブル崩壊により、穏健な市民社会的社会構造も揺らいでくる。そこで登場するのが、例の「自由主義史観」に代表される(排外的)ナショナリズムである。
(4)ここで思想陣営を「左派」「リベラル」「右派」の3つに分類すると、まず左派は、かつてのような社会改革的展望を持ちにくくなっている。リベラル派は、かつての自身の「市民社会」が、その実、閉鎖的日本性を軸としており、日本の西欧近代化が、過去の植民地支配をもとに成立していた事実を知ることとなる。
(4)ここで日本の(批判的)知識人は、どのようなスタンスをとることができるのか。旧態依然的な西欧マルクス主義思想を回避し、日本的国民国家における市民社会論まで回避するとなると、残るのは「日本的自然=ナショナル・アイデンティティー」を喧伝する自由主義史観と同じスタンスしか取れなくなってしまう。これもまた回避しなければならないという状況が、左派・右派が不明瞭となった、現在の日本のポスト・モダン的思想状況である。
 
ここで、現在の日本の思想状況をいくつか羅列的に分類すると、
■広域アジア安全保障体制の思想(姜尚中・和田春樹「東北アジア共同の家」、宮台真司「亜細亜主義」、森嶋道夫「東アジア共同体」)
■カルスタ的左翼思想(稲葉振一郎『「資本」論』、稲葉ほか『マルクスの使いみち』)←ただの現代マルクス思想の教科書。単なる教科書以上でも以下でもない。
■戦略的本質主義(上野『当事者主権』、貴戸『不登校は終わらない』、杉田『フリーターにとって自由とは何か』などなど)←「ニーズがあればその人は当事者だ」というけれど、それは「今の社会に不満があれば、声をあげて何とかしようぜ!」という、非常に単純な戦略的本質主義でしかないのでは。そのことに十分自覚的ならば、別に良いのだろうけれど、そんな単純な話でいいのかなぁ・・・。あと、内藤『いじめの社会理論』の中の「中間集団全体主義の克服」という話は、すごく単純に言うと「世間のしがらみなんてイヤだよ〜」という単純な話にもなってしまうと思うのは、私だけでしょうか・・・。
 
長文すみません。ではまた。

toledtoled 2006/09/30 00:49 cafe_noirさん、こんにちは。本を読んでくださってありがとうございます。

長文のコメントも歓迎いたします。僕も長文でレスしてみます。

残念ながら「日本の思想状況」については今昔を問わずよくは把握していませんのであまりかみ合わないかもしれませんが、いただいたコメントを読んで思ったことを書かせていただきます。まず、
> 旧態依然的な西欧マルクス主義思想を回避し、日本的国民国家における市民社会論まで回避するとなると、残るのは「日本的自然=ナショナル・アイデンティティー」を喧伝する自由主義史観と同じスタンスしか取れなくなってしまう。

とのことですが、「旧態依然的な西欧マルクス主義」は別に回避しなくてもいいんじゃないかと思いました。と言っても僕もマルクスをちゃんと読んだわけではないので反論ができるわけではないのですが、「マルクス主義はダメだ」と言っている人々も別にマルクス主義を理解して言っているのではないような気がします。

歴史的な変化については、なんとなくの大雑把な印象ですが、「マルクス主義→リベラリズム→ナショナリズム」という図式よりは、リベラリズムが日本社会でもってきた特殊な意味について考えることが重要だと思います。教育がいい例ですが、日本では、明治維新や敗戦といった近代化以後も、前近代的な暴力が長く残存してきました。学校教育というのは本来ならばリベラリズムを体現するような装置であるはずですが、管理や体罰や画一性といったような「自由」のタテマエと抵触するような装置によって支えられてきました。

このような状況の中で、「自由」を主張することは、前近代的な支配に対するレジスタンスとなっていました。ところが、80年代以降、少しずつ、この図式がよりねじれたものになってきているような気がします。財界や、文部省・文科省や、自民党の一部がむしろ積極的に「自由」とか「多様性」とか「選択」ということを唱え始めたのです。このことについては、86年に出た『果てしない教育?』(佐々木賢・松田博公)という本で既に分析されています。

それらは80年代の中曽根臨教審ではまだお題目に過ぎませんでしたが、少しずつ現実の政策となってきました。そうすると、かつての「反体制の闘士」が言っていることなのか、文部官僚や財界首脳が言っていることなのか、内容からだけでは区別することができないという奇妙な事態になってきました。たとえば小泉政権の「構造改革」によって、かつては「学校外の居場所」を自称していた団体が学校を作ることが可能になったりしています。また、今度の安倍政権の「バウチャー」も、「選択」とか「自己決定」とかいったような従来の「反体制派」の主張と共振する部分をもっています。もちろん、「上からの自由化」は、愛国心教育などとセットになっており、これがサヨクの反発を保ち、旧来からの保守層の反発を防ぐ役割を果たしてはいます。

誰に反対されようが、逆に誰に支持されようが、正しいことは正しいはずです。だから、政府が「自由」「選択」と言い出したからといって、突然それらの理想に反対すべきだという理由にはなりません。でも、このような歴史的な変化を前にして、「自由」とか「選択」というものが本当にいいものなのか、どんなふうにいいのか、実は悪いのか、あるいは単純にはどちらかに決めてしまうことはできないのか、もう一度考え直してみるべきなのではないかということは言えると思います。

そしてその際に参照されるべきなのが、ブルジョワ的自由を否定してきたマルクス主義ではないでしょうか。

cafe_noircafe_noir 2006/09/30 07:00 常野さん、こんばんは。今回の長文カキコにレスポンスをありがとうございます。
今日は、常野さんに対する直接の応答にはならないかも知れませんが、上記のカキコに、まだ舌足らずなところがあると思ったので、いくつか補足をさせてください。
_______________
  <1990年代以降の日本の思想状況>
90年代以降において、日本の(批判的)知識人は、どのようなスタンスをとることができるのか。旧態依然的な西欧マルクス主義思想を回避し、日本的国民国家における市民社会論まで回避するとなると、残るのは「日本的自然=ナショナル・アイデンティティー」を喧伝する自由主義史観と同じスタンスしか取れなくなってしまう。これもまた回避しなければならないという状況が、左派・右派が不明瞭となった、現在の日本のポスト・モダン的思想状況である。
 
さて、ここでまず「旧態依然的」な西欧マルクス主義思想の二大潮流(「経済的決定論」と「主体性論=疎外論」)を整理し、そのうえで、そのどちらをも回避しなければならないこと、そして、そのどちらの思想でもない、マルクス主義の「可能性の中心」としての思想(そのひとつとして「アルチュセーリアンズ・マルクシズム」が挙げられると私は思います)が求められるであろうこと、を述べておきます。
 
「旧態依然的」な西欧マルクス主義思想は、以下の二つに分類できると思います。(やや思想史的なミスリーディングがあると思いますが、ご容赦ください)
(A)経済的な下部構造が発展するにつれ、政治・文化などの上部構造が変化・改革されていく、という非常に単純な「経済的決定論」。20世紀前半のロシア革命から、スターリン統治下のソ連邦の計画的経済体制までが典型的なものである。思想史的には、マルクス=レーニン主義からスターリニズムがこれにあたるが、スターリン死後、その悪名高いスターリニズムは厳しい「批判」を受けることとなる。
(B)そのスターリン批判のあと、新たにマルクス主義革命論として出てきたのが、ヘーゲル左派からマルクーゼ、さらにマオイズムにいたる「主体的革命論=疎外論」であり、そこでは単に経済ではなく、主体的実践が歴史・政治・文化を変える、とする。歴史的には、スターリン批判後の新左翼による学生運動・市民運動などの人民戦術(フランスではパリ六月革命)が前面化する。しかし、そのような単なる個々人の横の連帯による人民戦術は、ローカルかつ短期的には有効性を持ちうるであろうが、グローバルな世界資本主義には、果たして対抗できるものなのか?
 
で、実は、この(B)「主体的革命論=疎外論」における、こうした難題とパラレルな問題を持っているのが、先のカキコで言った、最近流行の「当事者主権」や「当事者の自由や選択」「社会的な異議申し立て」なんですね。「ニーズがあるからこそ、自分は異議申し立ての主体となれる」ことをポストコロニアル・スタディーズでは「戦略的本質主義」と言います。「ニーズがあればその人は当事者となれる」として、様々なマイノリティ=社会的弱者(各種障害者・女性・移民・先住民・不登校児・ひきこもり/フリーター/ニート・ゲイ/レズビアン・など)の人々が連帯して、社会的な異議申し立てをしていくという、この「当事者主権」運動ですが、やはりこれも一種の人民戦術であり、それがあくまで「個人におけるニーズ」を基礎とする運動である以上、あくまでローカルな場所では有効でも、グローバルな観点からは、どの程度の有効性をもてるのか。グローバルなヘゲモニーに対して、社会運動を通してカウンター・ヘゲモニーを立てることの有効性の問題。そうした問題が、こうした「当事者主権」運動にもあると思います。
 
例えば、常野さんご自身が取り組んでおられる活動、すなわち「かつて自分は不登校であった。そうした不登校の当事者であるからこそ、自分は社会変革の主体となれる」として、今現在の不登校児たちに対して、公的な学校教育とはまた別な、オルタナティヴな場(フリースクールなど)を提供していく、といった運動があるわけですが、そうした運動はどの程度の広がりをもてるのか? 公教育以外に、不登校児などの居場所をたくさん創出したとしても、依然として、不登校やいじめやひきこもりなどに悩む子どもたちはたくさんいるでしょうし、課題はまだまだたくさん山積しているでしょう。
 
長くなったので、今日はここまで。ではまた。

toledtoled 2006/10/07 11:02 こんにちは。お返事が遅くなってすみません。

「当事者主権」については、危うい面もあり、また容易には否定できない面もあると思っています。

> 「ニーズがあればその人は当事者となれる」として、様々なマイノリティ=社会的弱者(各種障害者・女性・移民・先住民・不登校児・ひきこもり/フリーター/ニート・ゲイ/レズビアン・など)の人々が連帯して、社会的な異議申し立てをしていくという、この「当事者主権」運動ですが、やはりこれも一種の人民戦術であり、それがあくまで「個人におけるニーズ」を基礎とする運動である以上、あくまでローカルな場所では有効でも、グローバルな観点からは、どの程度の有効性をもてるのか。グローバルなヘゲモニーに対して、社会運動を通してカウンター・ヘゲモニーを立てることの有効性の問題。そうした問題が、こうした「当事者主権」運動にもあると思います。

上野&中西を読んでからしばらく経つのでよく覚えていませんが、「ニーズ」という言葉には違和感を持ちました。それが専門家によって処方されるのであれ、当事者から内発的に出てくるものであれ、「ニーズ」という言葉にはとてもニュートラルな印象があります。社会を革命的に変革しなくても、その「ニーズ」とやらが満たされれば問題が解決するかのようです。

しかし、いわゆる新しい社会運動(の一部)によって主張されてきたのは、「問題」はマジョリティとマイノリティの関係、もっと言うと敵対性にあるということだと思います。で、もしこの点に注目するならば、さまざまなマイノリティの運動もローカルなものにはとどまりえないのではないでしょうか? それは特定の「ニーズ」を満たせ、という要求にとどまらず、人と人の関係のあり方自体を変えること、つまり世界を変えることにつながっていくはずです。

ただし、さまざまなマイノリティの運動(の一部)が個別性を主張する中で、統合的な理論や運動に対するアレルギーのようなものができてしまったのも事実だと思います。そこでやはり、マルクス主義を読み直す(というか僕を含めて多くの人にとっては初めて読む)ことが必要だと思います。

> すなわち「かつて自分は不登校であった。そうした不登校の当事者であるからこそ、自分は社会変革の主体となれる」として、今現在の不登校児たちに対して、公的な学校教育とはまた別な、オルタナティヴな場(フリースクールなど)を提供していく、といった運動があるわけですが、そうした運動はどの程度の広がりをもてるのか? 公教育以外に、不登校児などの居場所をたくさん創出したとしても、依然として、不登校やいじめやひきこもりなどに悩む子どもたちはたくさんいるでしょうし、課題はまだまだたくさん山積しているでしょう。

イリイチは「教育におけるオルタナティヴ」と「教育に対するオルタナティヴ」を区別しています。前者はあくまでも教育というものは肯定した上でその枠内での選択肢を増やすということに過ぎないのに対し、後者は教育というものが社会の隅々にまで浸透していること自体に対して異議を申し立てることです。

東京シューレの奥地圭子さんは一貫して前者の立場に立ってきました。ただし、日本の場合はかつて「教育=学校」という図式が強く成り立っていたので、「学校に行かなくともよい」という控えめな主張することが、本人の意図に反して反学校的な効果をもっていました。ところが以前も述べたように、最近は「上からの自由化」が進行し、教育の多様化はむしろ政府の政策となりつつあります。そのような中で、以前と同じことを主張しても異なる効果が生み出されるという新しい状況が出現しつつあるのではないかと思います。

> 例えば、常野さんご自身が取り組んでおられる活動

いや、活動はしてませんってばw

toledtoled 2006/10/07 11:30 すみません、上記後半部分をちょっと補足します。不登校の運動がローカルな効果しかもたらさないのではないかというのがcafe_noirさんの問いだと思うのですが、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない、一般的な答えを出すことは難しい、というのが僕の考えです。そして現に東京シューレの存在は公教育全体のあり方に対して一定の影響を与えてきた。ただし、公教育自体が自由化していく中で、それも変化していくだろう、と思っています。

木村木村 2006/12/18 08:53 日本の兵士が世界でも有数の精強さを誇っているのはまさに明治以降の学校教育のおかげだったわけです。集団で整然と行動し、権威には絶対服従し、どんなにまずい給食に対しても文句を言わず、仲間のためには命さえ貼る強い連帯感。そんな理想的な兵士を育てることが最大の目的でした。
で、学校の現状と言うのは明治以来の国民学校とまったくかわっていません。どんなにサヨク教師が自由を叫んでも連帯・組織という学校の中枢部分は変わりませんでした。むしろ彼らにとってもそれは重要で、排除すべきものでは無かったからです。生徒が教師の思い通りに動かなければ教師の自由なんてありえませんからね。

教育改革も自由な教師も糞食らえ。政治家も教師も等しく権力者でしかありません。学校という存在自体を解体しなければ何も変わりません。