2007年 12月
リベラル・左派からの私の論文への批判について(4) [2007-12-23 23:41 by kollwitz2000]
リベラル・左派からの私の論文への批判について(3) [2007-12-23 23:40 by kollwitz2000]
リベラル・左派からの私の論文への批判について(2) [2007-12-23 23:34 by kollwitz2000]
リベラル・左派からの私の論文への批判について(1) [2007-12-23 23:33 by kollwitz2000]

リベラル・左派からの私の論文への批判について(4)
④エリート意識

もう一つの特徴として、②でも少し触れたがこの批判者の、エリート意識が挙げられる。これは、最近の「リベラル」系知識人全般に見られるように思う。

このブログから一例を示せば、私の論文への批判のエントリーは、以下のような書き出しで始まっている。

「ヴェネズエラでチャベスによる憲法改正が否決された。韓国で大統領選が迫っている。/反米左翼の大統領なら政治的自由を制限しても許容する?金大中、盧武鉉とこれだけ急速に社会が動いた韓国で、また次も革新の大統領を選び出すべきなのか?・・・・・・激動する政治状況のなかでの選択は、安易な政党帰属party affiliationを許さない。自分の頭で考えなければならないだろう。/日本の古い「革新系」の信条を持った人たちが、ヴェネズエラや韓国のような針路なき政治情勢のもとで、「指導部」から与えられた公式見解なしに、どのような自律的判断が出来るのか、少し疑問だ。安易な政党帰属party affiliationなど無いほうが、その人の政治的判断力と政治的自律は、鍛えられるのではないだろうか。」

コメントの必要もあるまい。現在の「論壇」の「リベラル」の思考法やら紋切型しか持っていない、「自分の頭で」考えることの全く出来ないこの批判者が、一丁前に、お説教賜って下さっているわけだ。また、私に対しても、「現下の飢えを我慢する自制心と、そうすれば春に大きな収穫があるはずだという予測能力を持てない」などと言っている。「予測能力」などと、「能力」の問題とされているのだ。この批判者は、私が論文で、総連系団体の政治弾圧を佐藤が擁護していることを指摘していることも当然読んでいるだろうから、同じ在日朝鮮人として私がそのことを問題にしていること自体を、「現下の飢えを我慢する自制心」がないとしていることは明らかである。よく言えたものであるが、では、こうした弾圧を「我慢」すれば、どんな「収穫」があるというのか。佐藤はそもそも安倍政権の擁護者だったではないか。安倍政権が倒れたことは、「我慢」とは何ら無関係ではないか。

つい最近も、熊本朝鮮会館の固定資産税等減免税措置を、「在日朝鮮人の私的利益」として(これは、在日朝鮮人をコミュニティの構成員としては認めないことを、国家として宣言したことを意味している)否定した、福岡高裁判決(2006年2月2日)を、最高裁は上告棄却して追認したが(11月30日)、これに対してリベラル・左派からは何ら批判的な論評は出ていない。福田政権になっても、「収穫」など、どこにも現れていないのである。論理も状況認識も滅茶苦茶ではないか。また、朝鮮人は「自制心」を欠いているという主張が、<嫌韓流>の特徴的な言説の一つであることはよく知られていよう。私は論文で「人民戦線」的思考法を批判しているが、この「大学4年生」は、その批判自体に反論するのではなく、<嫌韓流>的な認識と、エリート意識の混在のもと、論理も状況認識も滅茶苦茶な論法を動員しているのである。

重要な点は、この批判者が、1980年生まれで、現在「大学4年生」であることだ。東大生であれ、明らかに、「エリートコース」からは外れている。なぜこれほどのエリート意識を持っているのかは謎であるが、このことは逆に、現在のリベラル系知識人のエリート意識がいかに自明とされているかを照らし出している。『論座』あたりで書いている、若手のリベラル系知識人など、特にひどい。この批判者の場合、③でも指摘した、愚民観が最悪の形で露呈しているものだ。


これまで、この批判者の私への批判の文章の特徴として、4点挙げたが、これは、冒頭で述べたように、<佐藤優現象>に乗っかるリベラル・左派全体の特徴でもある。さすがにこの批判者は程度が低すぎる(注4)、他のリベラル・左派はここまで酷くない、という声もあるだろう。だが、多かれ少なかれ、感情としては、この批判者と似たり寄ったりではないか。この批判者は正直かつ無恥だから、自分の文章の救いようのなさに気付かずに書いてしまっただけで、あまり違いはないのではないかと思う。また、この批判者のブログで、その読書傾向を見れば分かるように、この批判者は、主として近年のリベラルで重用される書き手やその著書・論文によって、知的(?)形成を遂げているように思われる。したがって、近年のリベラルの論理が、却って純粋に表現されており、<佐藤優現象>を擁護するリベラル・左派のメンタリティを考える上で、ある意味で好都合であると私は考える。

<佐藤優現象>は、この批判者に露呈している論理・衝動を全面的に否定することでのみ、初めて乗り越えられるだろう。




(注1)そもそも、この批判者の論理の前提自体が成立していない。この批判者は、「△○派」の主張として、「イラク戦争を支援する日共」「小泉政権を黙認する学生自治会」といったものを挙げているが、「日共」自体がイラク戦争を支援しているわけではなく、「学生自治会」自体が小泉政権を支持しているわけではあるまい。ところが、リベラル・左派は、排外主義的主張(その具体例は論文に記した)を主張している佐藤優を、実際に使っているわけである。私が実際に起こっている自体を批判していることに対して、この批判者が挙げる「△○派」は、実際には起こっていないことを「批判」しているわけだ。ここでまず、私の論文が、あたかも実際には起こっていないことを妄想して批判している、と読者に思わせようとする記述を行なっている。

(注2)興味深いことに、ある佐高信ファンは、この批判者とほぼ同様の論理構成で、『金曜日』が佐藤を使うことを擁護している。「佐藤氏は正論、諸君!、SAPIOといった右派系の雑誌にも登場して、元外務省職員としての「国家主義者」いわゆるザインとしての国家を認める立場で執筆活動もされています。/そして産経のサイトやSAPIOなどで日本が国家としての外交政策はどうあるべきかということを論じております。/しかしながら、9条改憲、そして日本国憲法のすべては改めるべきではないという独自の主張もおこなっています。」私が聞きたいのは、佐藤を「護憲派」として擁護する人々は、集団的自衛権の行使の容認等も含めた解釈改憲論者まで「護憲派」と見なすのか、ということである。非常に簡単な話なのだから、その点をはっきりさせてくださいよ。

論文でも指摘したように、佐藤の盟友である山口二郎をはじめとした、リベラル系の政治学者が提唱した「平和基本法」(特徴としては、①「創憲論」の立場、②自衛隊の合憲化 、③日本の経済的地位に見合った国際貢献の必要性、④国連軍や国連の警察活動への日本軍の参加 、⑤「国際テロリストや武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった点が挙げられる)が、解釈改憲論的な構成になっており、改憲派と主張自体は大して変わらないことからも明らかなように、<佐藤優現象>に乗りかかる護憲派ジャーナリズムは、そうした解釈改憲論は許容範囲であって、明文改憲ではなく、立法改憲(「安全保障基本法」制定などによる)ならばよい、と思っているふしがある。

(注3)小谷野敦は自身のブログで、佐藤の名前も挙げつつ、最近では、「「かっこいい右翼」VS「凡庸な保守派」」という図式が出来ており、「前者と後者はどこがどう決定的に違っているのかといえば、別に何もない。単に後者は大衆向けで、前者はインテリ向けだというだけ」、「単に、前者のほうがかっこよさそう、という雰囲気の問題でしかない。単に自分はインテリだと思いたいだけの連中が群がっているだけ。あほらしい。」としている。佐藤のように、街宣右翼と違って護憲派ジャーナリズムにも礼儀正しく、「インテリ向け」の右翼ならば、護憲派ジャーナリズムは「リベラル保守」だと勝手に見なしてくれるわけだ。

(注4)この批判者のブログのコメント欄の、批判者の友人らしい「K」なる人物は、この批判者に輪をかけて酷い。この佐藤信者は、「左派メディアの柔軟性のなさが、佐藤優が受容される基盤をつくっている」なる意味不明の言辞はさておき、私のことを「金光氏」と呼び、「佐藤を批判するなら、佐藤の特徴そのものを丁寧に指摘して、彼を相対化すべきでしょう。「下らない処世術」とか「民族排斥」とかで一般化せずに。」と書いている。私の名前すらちゃんと認識しておらず、一読すれば誰にでも明らかなことだが、私が論文で、佐藤の言説を数多く具体的に引用し、まさに佐藤の主張・論理の特徴を指摘して批判していることも分かっていない。要するに、この人物は、私の論文も読まずに、匿名で批判しているのだ。

# by kollwitz2000 | 2007-12-23 23:41 | 日本社会
リベラル・左派からの私の論文への批判について(3)
③「リベラル保守」を探し求める論理と衝動

②で、佐藤を「リベラル保守」と見なすことの馬鹿馬鹿しさを指摘したが、ここでは、さらに考察を進めて、リベラル・左派の、護憲を唱えてくれるような「リベラル保守」をなんとかして探し出そうとする論理と衝動について考えたい。佐藤を「リベラル保守」と見なすのは、本質的には現在のリベラル・左派が、暗黙のうちに集団的自衛権や対外的武力行使を容認していることの問題であるが、それとは別に、護憲派の「リベラル保守」を探し出したいという衝動が強力であるからこそ、私が論文であれほど、そうした「人民戦線」的な思考法を批判したにもかかわらず、その批判には何一つ答えることなく(あたかもそうした批判自体がなかったかのように)、この「大学4年生」は、佐藤を「リベラル保守」としたがるのである。そのことは、この「大学4年生」の文章の、「社共の潜在的支持層は固定化している。護憲のために肝要なのは、「リベラルな保守」がどう動くか、であろうと思う。」という一節によく現れている。「リベラルな保守」が現実的にどの程度層として存在するか、などという肝心な議論とは全く無関係に、「護憲」の戦略上の観点から、「リベラルな保守」の登場が要請されているのだ。「リベラル保守」が、具体的な存在とは無関係に、あくまでも「護憲」のための論理上の必要物として、呼び出されているのである。

このことを非常に鮮明に示してくれるのは、<佐藤優現象>の中心人物の一人である、『金曜日』代表取締役社長、佐高信による、宮沢喜一評価の変容である。
このことを、佐高信のファンのブログの記述に沿って見てみよう。

この人物は、佐高が、宮沢について、2001年7月に出した本では、「経済戦犯」の一人として、「評論家的無為無策の罪、平成の高橋是清とは片腹痛い」とまで述べているにもかかわらず、宮沢死去後の文章(「政経外科 追悼宮澤喜一」『サンデー毎日』2007年7月22日号)では、極めて好意的に書いていることを紹介し、「これを読んで、さすがに言葉を失いました。佐高さんのコラムを最近読み始めた人ならばいざ知らず、ずっと前からの愛読者なら、それはないのではないかと感じるでしょう」と驚いている。この佐高ファンは、その2001年と2007年の文章両方で、佐高が、宮沢との会合に関する同じエピソードを使っていることを指摘し、「今週の「政経外科」とほぼ同じ話なのにこうまで違う結論になってしまうとは!!!!」と絶句した後で(そりゃ絶句するだろう)、「一時代をつくった同じ人間に対して、わずか6年の期間差でこうまで違う評価をするのはいかがなものかとは思います。/佐高さんには宮澤さんのよいところを強調したかったのでしょうが、以前に批判していたことをおくびにも出さずにその人間の最後の評価とすることは疑問です。」と、正論を述べている。

私は、この、佐高の宮沢評価の変容は、「リベラル保守」を殊更に高く持ち上げたいという衝動を、現在の佐高が強く持っていることの反映であると考える。そして、こうした傾向こそ、<佐藤優現象>を成立させている大きな要因になっていると思われる。こうした衝動が強すぎるからこそ、改憲後の護憲派ジャーナリズムの(恐らくは無意識の)生き残り戦略と相まって、佐藤のような右翼まで「リベラル保守」にしてしまうのだ(注3)

だが、もうそろそろ、こうした衝動に基づいた、「リベラル保守」探しは止めるべきではないか。「リベラル保守」なんてどこにいるの?どんな層が、どんな像が想定されているの?「九条の会」このかた、ここ数年間、護憲派がやってきたのは、いかにして「護憲派」陣営に「リベラル保守」を組み込むか、ということだった。私自身は、「リベラル保守」なる存在が、そもそも層として存在すること自体に懐疑的なのだが、「リベラル保守」たる可能性を持った層として想定されているのは、一定の教養と生活水準を持つ中産階級(以上の層)であろう。だが、彼ら・彼女らは、ある程度明確な政治意識を持っていると考えるべきであって、ここ数年間で、「護憲」「改憲」問わず、これだけ憲法論議が行なわれてきた後の現段階において、「護憲」の立場に立たない「リベラル保守」に、改めて「護憲」を訴えようとしても無駄である。それこそ、身の程知らずの愚民観の最たるものではないか。だいたい、現在の護憲派ジャーナリズムの「護憲」の根拠など、主張を読んでも説得力が全くないし、この「大学4年生」の主張などその最たるもので、自分でも何が言いたいのか分からないのではないか。こんな論理で「リベラル保守」を説得できると、本気で思っているのだろうか。明確にしておく必要があるのは、日本の「国益」の擁護を大前提に置く価値観からすれば、改憲の方がはるかに合理的かつ整合的なのである。

私の論文でも指摘したが、現在の護憲派ジャーナリズムには、下層階級への(いや、上で指摘したように、中産階級(以上)へも)愚民観が蔓延している。そこで、前述のように、「護憲」のためには、半ば妄想の、一定の教養と理性を持った「リベラル保守」を探さざるを得ない。そうした、「リベラル保守」を欲する衝動の結果、「リベラル保守」の概念は、不断に拡大され、護憲派ジャーナリズムは、野中広務や加藤紘一らハト派どころか、最近では、石破茂や後藤田正純まで「リベラル保守」に加えたがっているような気配すらある。この、「リベラル保守」の外延の馬鹿げた拡大の行き着いた先が、佐藤を「リベラル保守」とするこの「大学4年生」の(いや、<佐藤優現象>に乗っかる護憲派ジャーナリズムの)主張なのだ。

では、改憲を止める主体として、どのような層が想定されるべきなのか。それは、「リベラル保守」などとは違い、具体的な層として明確に存在し、「改憲」による結果、具体的な不利益を蒙ることが明確な層である。

私は、その層とは、リベラル・左派が、その愚民観のもとで、まともな政治的判断力を持った対象と見なしていない、「下層」階級、すなわち、ワーキング・プアや、ワーキング・プア化への不安に晒されているフリーター、派遣・契約社員、パート、中小企業正社員や、その他の低所得層だと考える。
改憲は、「対テロ戦争」他の武力行使に日本が積極的に十全に参加することを通じて、グローバル企業の海外展開を円滑に進めることと、そのための国内改革、「国民」統合の洗練化・強化という観点から行なわれる。改憲後、こうした「下層」階級が、戦争以外には這い上がれない社会(既にそうなりつつあるが)、アメリカのように奨学金のために軍隊に入るような社会になるのであって、「対テロ戦争」に日本が中心的アクターとして十全に参加することにより、国内での「テロ」の可能性が現在よりも格段に高まる。このことは、アメリカやイギリスなどの「普通の国」の欧米諸国を見れば明らかだろう。しかも、日本の場合、現行憲法があるからある程度抑制されているものの、過去清算すらまともにされないような社会意識なのだから、改憲後は、欧米諸国よりもはるかに抑圧的・排外的な体制になることは明らかである。

「下層」階級にとって、改憲問題は、本来、極めてリアルな問題なのである。だが、現在の憲法論議においては、そうした問題がほとんど論じられておらず、護憲派ジャーナリズムの「護憲」の主張は、この「大学4年生」に毛の生えた程度のものに過ぎない。「下層」階級に訴えようとする護憲派ジャーナリズムの言語は、『金曜日』に典型的なように、「護憲」を唱える有名人・芸能人を使ったり、現行憲法の素晴らしさを抽象的に(観念的に)説いたり、「憲法九条」のグッズを販売したり、あげくの果てには「徴兵制の恐怖」を訴えたりといった、私が論文で「護憲派のポピュリズム化」と呼んだ、ぬるい、あからさまな愚民観の下での「手法」でしかない。有名人やグッズが一概に駄目だとは言わないが、今のところ、そればかりではないか。そうではなく、改憲で具体的にどうなるか、を明確に、明晰に示せれば、言葉は「下層」階級にちゃんと届く。そのことは、2005年の衆議院選挙を見ればよい。あの時に、自民党に投票した若者や女性を、リベラル・左派は、愚民視したが、論文で既に論じたように、あれは、彼ら・彼女らの置かれた状況にしてみれば、合理的選択である(私がこの投票行動を肯定しているわけではない。念のため)。愚民観からそろそろ脱却しなければならない。

このままでは、来たるべき国民投票においては、「下層」階級の多くは棄権するか、メディアやネット右翼によるプロパガンダの影響で、改憲に一票を投じることになろう。

私を含めた、「改憲」に反対する勢力に必要なのは、現行憲法下での、「下層」階級にとって魅力的な社会像の提示だろう。既存の、男性正社員中心の企業社会(御用労組も含む)が、「下層」階級には打破するべきものとしか映らないのは当然である。そして、護憲派ジャーナリズムは、まさにそうした企業社会そのものであり、護憲派の亜インテリの大学院生・大学生の大多数は、中上層出身なのだから、現在の「体制」に根本的な疑問を持たないだろう。せいぜいが、論文で指摘したように、「格差社会」の是正として、外国人労働者を排除した上での調整を志向するといったところである。こうした、現状を打破する、現在の「体制」とは別の社会像を提示しない限り、「下層」階級を「護憲」に引き付けることはできまい。「リベラル保守」を探し求めるという志向の下では、現在の「体制」を打破することは極力避けられる。「保守」と「下層」階級は、明確に利害が対立するのだから。この志向の下では、「護憲」の立場からの現状打破の主張は、この「大学4年生」のように、「本来の敵と当座の見方が区別できないで、結局、団結できない」などとして否定されることだろう。

# by kollwitz2000 | 2007-12-23 23:40 | 日本社会
リベラル・左派からの私の論文への批判について(2)
②佐藤優を「リベラル保守」とする認識

この批判者は、「金光翔氏は、「リベラル保守」とも手を組めという姜先生(注・姜尚中)をも、「改憲後の生き残りのための右派への擦り寄り」とするだろうか。私は、そこにもっと誠実な動機を見るのだが。」「護憲のために肝要なのは、「リベラルな保守」がどう動くか、であろうと思う。したがって、私は姜先生の認識と提案に、同意したいと思う。」と述べているのだから、佐藤を「リベラル保守」と見なしているわけである。
私は、論文で、佐藤について以下のように書いている。

「そもそも、佐藤は白井聡との対談(注・『国家と神とマルクス』太陽企画出版、2007年4月、194~195頁。) で、潮匡人の、「憲法を改正せずに、しかも一円の予算支出もせずに今すぐできる日本の防衛力増強のための三点セット」の提言、すなわち、内閣法制局の集団的自衛権解釈変更(現行憲法下でも集団的自衛権を保持しており、行使可能であるとする)、周辺事態法の「周辺地域」に台湾海峡が含まれることの明言、「非核三原則」を緩和して朝鮮半島有事の際には「持ち込み可」とすることを紹介した上で、全面的に肯定し、「国家が自衛権をもつのは当然のことで、政府の判断で、潮さんが言うようにこれだけ抑止力を向上させることができるのですから、潜在力を十分に使っていない状況で憲法九条改正に踏み込む必要はないと私は考えています」と述べている。護憲派ジャーナリズムでは、佐藤は「保守の立場からの護憲派」と紹介されるが 、これで「護憲派」ならば日本の保守派にどれほど「護憲派」は多いことだろう。佐藤の(潮の)主張が、極端な解釈改憲論であることは言うまでもない。護憲派ジャーナリズムのやっていることは、完全な詐術ではないのか。」

この批判者は、私の論文を読んだらしいから、当然この一節も読んでいるだろう。とすると、この批判者は、こんな解釈改憲論者まで「リベラル保守」として、護憲のために手を組む相手と見なしているわけだ(注2)。また、当然ながら、論文で挙げた、「拉致問題」解決のための対北朝鮮武力行使の容認や、朝鮮総連弾圧の煽動、イスラエルの侵略戦争支持などの佐藤の発言も、この批判者は読んでいるわけであるから、この批判者にとっては、その主張が佐藤を「保守」ではあっても「リベラル」だと見なすことの障害にはならないということを意味する。「リベラル」とはなんなのか?一つだけ明らかなのは、この批判者にとって、憲法九条の擁護が、自分が「リベラル」である「立ち位置」を示すもの以外の意味を持っていないことだ。

そのことは、具体的に明らかにできる。この批判者の、「護憲」についての以下の一節を見ればよい。

「アジアにおいて、日本が戦後、現行憲法によってかろうじて自由社会を一貫して維持してきたという実績は、日本が他のアジア諸国にたいして保持する何よりの政治体制上の優位であるはずだと私は思っています。しかし、まさにその自由によって日本が、中国や北朝鮮など大陸アジア諸国に対する政治的なhigh groundを保っているという事実を、与党の政治家はどれほど認識できているのか、疑わしいと思っています。具体的には、「戦後レジームからの脱却」なるスローガンや、愛国心を盛りこんだ教育基本法の改正、日の丸・君が代の訴訟、初等教育における道徳教育の科目化などです。なかなか金日成バッジをはずさない帰国直後の拉致被害者の姿から、北朝鮮の洗脳的な独裁体制の深刻さを強調した拉致被害者家族会やそれを支援する政治家たちが、その思いのあまりブルーリボンの着用を日本国民に強制しないかどうか、心配でさえありました。
北朝鮮や中国のような、高圧的でみじめな国民統合をしないですんでいるという点において日本の自由国家としての優位性があるにも関わらず、現在の保守政治家が、それらのグロテスクでilliberalな国家と同じような心性を持っているという点に、liberalとしての自分は、最後の最後で成熟した自由国家になれない日本の「弱さ」を感じている次第です。日本の議会政治のこの「弱さ」が、9条改正や集団的自衛権の行使を考える上でも、どうしても気になる点です。
私はむしろ、憲法9条2項による強度の平和主義は、他のilliberalな大陸アジア諸国に対する日本の政治道徳上の優位性を示す証左として、戦略的かつ積極的に押し出すべき理念として活用できないかと考えています。」

全体に流れる無根拠なエリート意識には失笑せざるを得ないが、それはさておき、この批判者の論理で考えたとしても一つだけ確かなのは、「中国や北朝鮮など大陸アジア諸国」、特に、「高圧的でみじめな国民統合」を行なっている「北朝鮮や中国」への「自由国家としての優位性」を示すためならば、改憲でも全然構わないではないか、ということである。この批判者は、改憲後、日本が戦前のようなファシズム国家になるとでも思っているのだろうか(それが、妄想であることは既に論文で指摘している。イラク戦争を遂行したアメリカや、最悪の侵略国家イスラエルは、政治的自由や民主主義体制が維持されており、議会での論戦や市民運動も日本よりはるかに活発である。現代戦争を遂行する上で、戦前型の総動員体制は必要とされない)。この批判者は、自民党の改憲案すら読んでいないのではないか。この批判者の論理にしたがって、「自由国家としての優位性」を示すためならば、最低限度は機能している議会制民主主義と市場経済があれば十分だろう。

だいたい、「北朝鮮や中国」に対して「自由国家としての優位性」があるとする思考法は、恐ろしく古典的な冷戦図式そのものの「陣営論」的把握であり、丸山真男らリベラル左派が、まさに批判の対象としたものだ。ここには、現在の「リベラル」が、戦後民主主義のリベラル左派の国際政治観とは、基本的に切れたものとして(だが一方で、限界は引き継ぐ形での連続性を有しながら)存在していることが、端的に表れている。

この批判者は、現在の日本が「政治体制上の優位」にあるとするならば、「北朝鮮や中国」ではなく、韓国や台湾と比較しなければなるまい。ところが、彼は、恐らく証明が困難なそうした比較はやらない(やれない)わけである。「中国や北朝鮮など大陸アジア諸国」と、「など」とあるから、韓国と比べても「政治体制上の優位」にあると考えているのだろうが、どういう理屈でそう言えるのか、政治学専攻の人間としては、教えていただきたいものだ。まさか、日本は「平和憲法」があるから、「徴兵制」がある韓国よりも「政治体制上の優位」にある、と言いたいわけではないだろうな・・・。本気でそう思っているのならば、韓国でそれを言ってみろよ。

何回も強調しておく必要があるが、日本の「平和憲法」と韓国の「徴兵制」はワンセットだ。韓国の権赫泰の言葉を借りれば、「アメリカが軍事的リスクを負担し日本が軍事基地を提供する日米間の「役割分担」により、建前としての「平和路線」が維持された。このような日米の役割分担のなかで、日本には兵站基地、韓国をはじめとする周辺国には戦闘基地としての役割がそれぞれアメリカによって与えられた。」「日韓関係にそくして考えるならば、日本の戦後民主主義が・・・周辺諸国の「軍事的犠牲」の上に乗っかっている・・・。日本が本格的な軍隊を保有しなくても「平和体制」を維持できた理由は、アメリカの対アジア戦略に組み込まれ、米軍基地の75パーセントを沖縄に駐屯させ、また韓国が日本の戦闘基地あるいは「バンパー」としての役割を引き受けたからである。言い換えれば、周辺諸国が軍事的リスクを負担することによって、戦後「平和体制」が維持できたのである。わかりやすくいえば、韓国の厳しい「徴兵制」は日本の「軍隊に行かなくともいい若者の当たり前の権利」と関連しあっているということである。」(権赫泰「日韓関係と「連帯」の問題」『現代思想』2005年6月)

権は、こうした批判を何度か書いている(例えば、『世界』2007年10月号「9条の世界的意味を探る 第2回  改憲と歴史認識を周辺国から問う」)。権の文章は明晰で分かりやすいので引用したが、こうした戦後日本の「平和体制」への懐疑は、韓国だけではなく、恐らく東アジア全般の多くの人間が共有していると考えた方が良い。この批判者の脳裏からは、朝鮮戦争もベトナム戦争も、綺麗に抜け落ちているようだ。こんな認識で、どうやってテロ特措法に反対するのだろう。

仮に日本国内で、イスラム原理主義集団によるテロが発生したら、日本が「対テロ戦争」に実質的に軍事参加しているという実態は忘れて、こうした「リベラル」は、「平和体制」を脅かすテロリストに対する、「対テロ戦争」への日本の積極的参加と国内治安の強化を煽ることだろう。少なくとも、そうした煽動に何の抵抗力も持てないことは明らかである。

もちろん、この批判者には、米軍と、強大な自衛隊の日米安保体制が「北朝鮮や中国」に軍事的な緊張感を与えており、そのことが「北朝鮮や中国」の国内統合のあり方を大きく規定している、という認識もかけらもない。こんな認識で、憲法の「平和主義」を、「他のilliberalな大陸アジア諸国に対する日本の政治道徳上の優位性を示す証左として、戦略的かつ積極的に押し出すべき理念として活用できないかと考え」ているわけである。仮に今後、「理念として活用」されたら、アジアの人間から見れば、馬鹿としか見えないのではないか。「戦後民主主義」の「一国平和主義」的傾向の醜悪さが、行きつく所まで行った例がこの批判者であろう。

要するに、この批判者の「護憲」の中身は、何一つ実質がない。そりゃ、現行憲法下での集団的自衛権の行使を容認する佐藤を「リベラル保守」として手を組む相手と見なすのだから、無内容なのは当たり前である。この批判者の「護憲」論は、「自由国家としての優位性」「戦略的かつ積極的に押し出すべき」など、空疎な修辞のオンパレードである。「護憲」論としての中身がないから、修辞に頼らざるを得ないのだ。このことは、山口二郎らの「平和基本法」にもあてはまるのであり、論文での、<佐藤優現象>を推進する護憲派ジャーナリズムが、改憲論に反論できる理屈を持っていないという私の主張を補強してくれている。この批判者の文章は、「戦後民主主義」の「一国平和主義」が、改憲論に行きつかざるを得ないことも示してくれている。

# by kollwitz2000 | 2007-12-23 23:34 | 日本社会
リベラル・左派からの私の論文への批判について(1)
私の論文「<佐藤優現象>批判」(『インパクション』第160号)に対して、リベラル・左派からの批判の声が一向に現れず、残念に思っていたのだが、ここにきてようやく出てきた。こうした批判を検討することを通じて、リベラル・左派の論理の問題点を追求し、私の論文の補足を行なうこととしたい(なお、字数制限で一度に全文アップできないので、それぞれの注は、(4)の末尾にまとめて掲載している)。

ここで取り上げるのは、ある匿名ブログの「大学4年生」(1980年生まれ)による、私の論文への批判である。こういう、いかにも『論座』あたりからお声がかかるのを待っているようなブログを採り上げてやるのは気がひけるのだが、それはともかく、批判の声を聞こう。

「一読後の感想として、この論文の言葉使い、その論理の運びからして、駒場のときの△○派のアジびらの論理を思い出した。悪の帝国ブッシュと追随する日本政府、まではまあ良いのだが、イラク戦争を支援する日共、小泉政権を黙認する学生自治会、右翼論壇の岩波書店、断固フンサーイ!という論理。/この類の論理は、日本の、韓国の、あるいはアジアの政治的未成熟さを表すメルクマールだ。/佐藤優に書かせる岩波書店はすでに改憲を見こしたメディアだという論理は、共産党は議会制民主主義を認めるからすでにブルジョア政党だとレッテルをはる△○派と同じ論理だ。日本でも韓国でも、結局、二人集まれば三つの党派をつくっているわけだ。本来の敵と当座の見方が区別できないで、結局、団結できないのだ。現下の飢えを我慢する自制心と、そうすれば春に大きな収穫があるはずだという予測能力を持てないで、打倒すべき相手の前で、惨めな内ゲバをくり返している。この批判は、「社民党は2、3の選挙区で民主党と選挙協力するからすでに改憲派の政党だ」とする共産党にたいしても無縁ではないと思う。」
「金光翔氏は、「リベラル保守」とも手を組めという姜先生(注・姜尚中)をも、「改憲後の生き残りのための右派への擦り寄り」とするだろうか。私は、そこにもっと誠実な動機を見るのだが。/金光翔氏の主張は、左派メディアは改憲を見通して自らの生き残り戦術を確保していると批判するが、その実、自らの護憲のための建設的提案は何も示せていない。護憲派が、自らのサークルのなかで教条主義的に結集していくのならば、それこそ展望は皆無だろう。社共の潜在的支持層は固定化している。護憲のために肝要なのは、「リベラルな保守」がどう動くか、であろうと思う。したがって、私は姜先生の認識と提案に、同意したいと思う。」

特徴点としては、大きく言って、以下の4点が挙げられよう。

①私のリベラル・左派批判を、極左・セクト的として戯画化しようとする姿勢

この批判者は、「右翼論壇の岩波書店、断固フンサーイ!」と、私の主張を戯画化して記述している。だが、一読すれば分かるように、私の主張は、リベラル・左派による佐藤優の重用は、リベラル・左派が、改憲後の国家体制に適合的な形に再編されていくプロセスであって、改憲後は、比喩的に言えば、イスラエルのリベラルのようなものになるだろう、というものだった。誰が、リベラル・左派が「右翼」になるなどと言ったのか?「国益」中心主義を保守派と共有し、「イスラエルのリベラルのようなものになる」ことは、無論「右傾化」の一種である。だが、「右傾化」を批判することと、批判対象が「右翼」と同じだとすることは明確に違う。この批判者は、私の論文が、「共産党は議会制民主主義を認めるからすでにブルジョア政党だとレッテルをはる△○派と同じ論理」を使っていると主張しているのだから、ここでの「右翼論壇」という用法が、「右傾化」ではなく、「右翼」と同一のものとしての「論壇」を意味していることは明らかだ。要するに、ここでこの批判者は、私の主張を捏造した上で、極左・セクト的として戯画化しているわけである(注1)

したがって、この批判者の決めつけが私の論文の実際と異なることは明らかだが、ここで考えたいのは、この批判者は、私の論文を読んで、多分本気で、私が、リベラル・左派と右翼は同一だ、と言っていると思ったのではないか、ということである。

これは、この批判者に、リベラル・左派の独自の社会的責任、という認識が欠落していることを意味している。

自明だと思ったので論文では書いていないが、リベラル・左派が佐藤を重用することと、保守派が重用することの社会的効果は違う。リベラル・左派が佐藤を重用することは、世間一般の人々やリベラル・左派の読者に対して、「左派が佐藤を使っているくらいだから、佐藤の主張もそんなにひどくないのではないか」と、佐藤が主張しているような排外主義的な主張への違和感、抵抗感を薄める結果になるだろうし、実際そうなっているだろう。保守派とは別の意味で、リベラル・左派には、佐藤を使うことについての社会的責任がある、ということだ。

この批判者は、リベラル・左派が佐藤を使うことの社会的効果の独自性という観点が、視角から欠落しているのだ。だからこそ、私の論文を読んで、私がリベラル・左派と右翼は同一だ、と言っているとしか認識できないのである。逆に言うと、佐藤を支持するリベラル・左派には、リベラル・左派の社会的責任、独自の役割という認識が欠落している、ということがここから読みとれよう。

# by kollwitz2000 | 2007-12-23 23:33 | 日本社会
< 前のページ 次のページ >