2005-12-04
東京シューレ葛飾中学校
登校拒否 |
東京シューレが学校を作るそうです。
http://www.shure-chugaku.info/
僕はすでに十数年前に退会しており、東京シューレの活動について参加権はありません。したがってこれは外部の人間としてのただの感想です。
この事業は、東京シューレにとって大きな転換点となるものだと思います。シューレ出身者に話を聞いても、違和感をもったという声が大半です*1。
奥地圭子さんによる「ごあいさつ」にはこうあります。
ご存知のように、これまで私たちは、不登校の子どもや親への世間の誤解や偏見とたたかい、成長支援の活動を全力ですすめてきました。
そこでは、不登校を「治すべき困った存在」とするのでなく、学校と距離をとる在り方・生き方を肯定し、学校だけが成長の道ではないと価値観を広げることを訴え続けてきました。
このことと、子ども中心の学校を不登校の子たちと共に創っていくことは、何ら矛盾するものではありません。
……。
私たちは、不登校の子どもの解決策は学校復帰のみではないと考え、学校以外の成長の道を拓いてきました。
しかし、不登校の子たちが発信していることは、もう一つ、「学校を変えてほしい」というメッセージもあるのではないでしょうか。
上記引用の最後の2行はこれまでのシューレの活動とは容易には相容れないものであると思います。
シューレが存在することによって社会に求めてきたのは、学校の変革というよりは、学校に行かなければならないという常識の見直しです。全ての子どもにあった理想的な学校をつくることではなく、学校に行かなくても生きていける社会を実現することを私たちは求めてきました。そうする中で、私たちは旧来の市民運動にあった「よりよい学校という幻想」(太田昌国さん)を批判し、どのような学校であろうともそこに通うことを強制されるのは誤りだ、と主張してきました。
東京シューレは決して「理想の学校」のプロトタイプ(雛形)ではなく、学校に行けない・行かない者たちの居場所として存在してきました。「学校」をつくることは、このような従来の存在意義を書き換えることになると思います。
今回の事業は、構造改革特別区によって学校の設置基準が緩和されたことで可能になりました。このことは、これまで対抗運動として存在してきた東京シューレが、メインストリームに食い込みつつあることを示しています。
東京シューレは、「選択」や「自由」といったリベラリズムと共振する言説を紡いできました。保守主義的な従来の日本の教育界においてリベラリズムは対抗言説として位置しており、「自由」を唱えることが学校のあり方への批判ともなっていました。
ところが中曽根「臨教審」以降、この傾向に変化が現われます。体制側自身が、リベラリズムを取り入れ始めたのです。小泉構造改革は、その延長線上にあります。
リベラリズムは、今や主流言説となりました。「選択」や「自由」はかつては反体制派の言葉でしたが、今では誰もが口にします。
とすれば、現状を批判したいと願う人は、もはや「選択」や「自由」という言葉がもっていた対抗性をあてにすることはできません。リベラリズムを超える、よりラディカルな思想が、今必要とされています。
*1:とは言え僕が話を聞いた全ての人は今さら口を出すようなことはしないそうです。
相手(現状)を見て言う事変えるのを「ラディカル」っていうかなぁ?「選択」や「自由」に価値があるなら、それが主流言説になった事は慶賀すべき事でしょう。「選択」「自由」の意味をめぐって「お前の言う「自由」は偽者だ!」ってな内ゲバ(?)はもちろん必要だと思うけど。
不自由党党首としてのラディカリズムは一体何に価値を置いてるの?
う〜む、言われてみればそうかも。。。と思いつつ反論しておくと、ある言葉なりある種の言説なりがどのような政治的効果をもつかは、歴史的なもので、固定的なものではない。一例を挙げると、ナショナリズムという言説がある。これが果たす機能は、その時の政治的諸条件に依存する。たとえば、旧植民地の独立戦争において、それは宗主国の支配を批判する進歩的な効果をもっていた。しかし一方で、それは旧植民者内部の矛盾を正当化する役割も果たした。そのような反動的な傾向は、独立達成後、革命政権が腐敗していく中で顕在化する。と、いうようなことを念頭に置くと、リベラリズムの価値を本質的に評価するのではなく、それが他の言説との関係でどのような機能を果たすのかということを問題化することにも一理あるんじゃない?
反自由党です。学校の社会的強制力を弱めること、これがラディカルな政治の目標。だから登校強制は批判されるし、戸塚ヨットスクールなどの暴力装置も批判される。しかしさらに重要なことに、学校に行かないことで将来も含めていかなる不利益が生じることも批判される。
しかし反学校も大事だけど反教育も大事。反学校的な現象が教育的なものの増殖を招くこともあるから難しい。
×旧植民者内部の矛盾
○旧植民地人内部の矛盾
体制側に言葉(この話題では「選択」「自由」)を取り込まれたら、運動家は新たな(例えば、よりラジカルな)言葉を使わなくてはいけないのかな。でも、それでは際限がないでしょう。むしろ言葉の定義を徹底的に争うべきなのでは。
さてシューレ中学ですが、シューレは以前から「オルタナティブ」な「スクール」を目指している節があるので、こういう流れは不自然ではないように思います。ただ、それはやはり「教育」にとらわれている発想だと思います。僕は、不登校者の居場所は「反学校」と言うより「反教育制度」の考えに基づいていると思うので、フリーでもオルタナティブでもスクール(学校)であるべきではないと考えます。
とは言え、シューレに口を出す気はありません。やってみればいいと思います。僕は不登校に関わる運動自体がもっと広がるといいな、と思っています。
これはビミョウな問題だね。たとえば天皇制なんかは、現在の状況では反動的な存在でしかない。けど自由というのはたしかに簡単に譲り渡したくない輝きをもった言葉だ。自由の名の下に押し付けられるものは拒否しつつ、真の自由を求めることは可能だろうか?
勝利できるかどうかはわからんけど、求めるべきだろう、と僕は思う。
以前に行ったときは募集要項がなかったのですが、今回はもう出ていまして、現役生のみだということが判明しました。
個人的に、フリースクール的な年齢の縛りが少ない学校になるんじゃないかなあと期待していたのですが、結局年齢統一型の学校になってしまいました。
編入学も現中学校の学年に合わせた形のみですし、不自由な印象をがあります。
シューレは別に好きではなかったんですが、不登校分野でのいち早い活動で注目していたので、ちょっとがっかりです。