2007年 06月
佐藤優現象について(3):護憲派は北朝鮮との戦争を容認するのか? [2007-06-11 22:59 by kollwitz2000]
佐藤優現象について(2):護憲派の「再編」 [2007-06-05 00:51 by kollwitz2000]
佐藤優現象について(1):「この現象は変だ」という感覚の重要性 [2007-06-04 00:58 by kollwitz2000]

佐藤優現象について(3):護憲派は北朝鮮との戦争を容認するのか?
佐藤優現象の本質が、ジャーナリズム内の護憲派の解体であることは既に述べた。この護憲派の解体現象は、別の形で説明した方がより分かりやすいだろう。

改憲か護憲(反改憲)か、という問いは、以下の問いに置き直した方がよい。要するに、日本国家による、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)への武力行使を認めるかどうか、という問いだ。

イラク戦争への派兵が違憲であることは言うまでもないが、それでも、憲法九条の縛りのお蔭で、自衛隊は直接イラク人を殺すことはなかった。それが、対北朝鮮との戦争になれば、朝鮮人(兵隊だけではない。民間人も)を殺すのは米軍と日本軍ということになろう。それを認めるかどうかが問題の本質だ。

ジャーナリズム内の護憲派や、小林正弥あたりを中心とした護憲運動の戦略は、大雑把に言えば次のようなものだ。北朝鮮問題には触れないか、佐藤優のような対北朝鮮戦争肯定派を組み込むことによって、「護憲」のウィングを右に伸ばし、「従来の護憲派」だけではない、より幅の広い「国民」層を取り込む。また、アジア太平洋戦争については、「加害」の点を強調する(それは「反日」になるから))のはやめて、「被害」の側面を強調し、改憲することによって再び戦争被害を被りかねないことに注意を促す。

この戦略は馬鹿げている。対北朝鮮戦争は護憲の理念に反しているから言語道断だ、と言っているのではない。国民投票の票計算として馬鹿げているのだ。

簡単な話である。日本が、アジア太平洋戦争のように、敗戦国となることはありえない。現代の戦争は、湾岸戦争にせよイラク戦争にせよ、アメリカ単独もしくはアメリカを中心とした多国籍軍対小国という、ゾウがアリを踏むような戦争になるのであって、ゾウの側の戦争当事国本国が、アリの側からの被害を被ることは、100%ありえないからである。大衆は、マスコミの人間ほど馬鹿ではないのだから、そのことは直感的に分かっている。したがって、対北朝鮮攻撃論が「国民的」世論となってしまえば、護憲側に勝ち目は万に一つもない。

護憲派が、あくまでも仮に、ポピュリズム的な手法や、右へのウィング(これで護憲派が増えるとは全く思えないのだが、あくまでも仮定上)で「護憲派」を増やしたとしても(たとえ、一時的に「改憲反対」が8割くらいになったとしても)、対北朝鮮攻撃論が「国民的」世論ならば、そんな形で増やした層をはじめとした護憲派の多くの人々は「北朝鮮有事」と共に瞬時に改憲に吹っ飛ぶ。自分らに被害が及ぶ可能性が皆無なのだから、誰が見ても解釈上無理のある「護憲」より、「改憲」を選ぶのは当たり前である。

佐藤優の、現在の北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに準える主張や、もっとオブラートに包んだ形での、「週刊金曜日」での対北朝鮮外交に関する主張(ここ参照)が、対北朝鮮攻撃論であることは明白であろう。こういう「リアリスト」(笑)を護憲派に組み込む(組み込んだつもりになる)ことで、護憲派は、「現実」的になって改憲に対抗しようと妄想していると思われるが、それこそ非現実的な妄想の最たるものだ。

護憲の旗頭を掲げている人間と無原則的に組んで、ジャーナリズム内の「護憲派」を増やしたところで、大衆には無関係である。現在の、佐藤優現象に見られる無原則さ、「右」へのシフトは、対北朝鮮攻撃の容認に向けた世論形成を起こし、大衆への「護憲派」の説得力を失わせることに結果するだろう。

護憲派がたたかうべきポイントは、改憲か護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮攻撃を容認するかどうか、である。容認してしまえば、護憲派には勝ち目はない。本気で改憲を止めたい人間は、ジャーナリズム内の護憲派の馬鹿げた判断(または改憲後の生き残り戦略)に惑わされず、明確に対北朝鮮攻撃の是非という争点を設定し、絶対的に反対すべきである。早ければ早い方がよい。世論形成は現在進行中だ。

# by kollwitz2000 | 2007-06-11 22:59 | 佐藤優・<佐藤優現象>
佐藤優現象について(2):護憲派の「再編」
佐藤優現象はなぜ起こっているか、また、その問題の政治的意味は何か、が問われなければならない。これに関連した問いだが、斎藤貴男のような、リベラル左派の中で最も戦闘的な人間も、佐藤を擁護しているのはなぜか。このことも問われなければなければならない。

もちろん、「リベラルの右傾化」の一環であることは間違いないが、佐藤優現象には、これまでのリベラル・左派の論調・言論のあり方からの明らかな切断がある。だからこそ、これは「変」なのである。単なる「右傾化」としただけでは、この現象は説明できない。

また、佐藤が「一流の思想家」だと(無教養または教養俗物の)リベラル・左派から思われているから、と説明することも十分な説明ではあるまい。単純な話だが、『世界』にしても『週刊金曜日』にしても、「思想」を扱う雑誌ではないのであり、肝心の政治・社会に関する佐藤の「分析」から、佐藤が「一流の思想家」であることを読み取ることは、金曜日編集部の人間ですら無理だろう。これでは、リベラル・左派の論調と敵対する言説を言い散らかしている人物を、あえて使う理由にはなっていない。

私は、佐藤優現象は、リベラル・左派に支配的な、ある認識と衝動に対して、佐藤が適合的であったために生じた現象であると考える。

説明すると、

①ファシズム政権の樹立に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤を擁護する

(魚住昭は「いまの佐藤さんの言論活動の目的は、迫りくるファシズムを阻止するために新たなインターアクションを起こすことだ」と、佐藤との共著『ナショナリズムの迷宮』(朝日新聞社)で言っているらしい(斎藤貴男「佐藤優という“迷宮”」『週刊読書人』2007年6月1日号)。実際、佐藤も、『世界』で連載していた「民族という罠」のどこかでそうしたことを書いていたはずである。また、斎藤も、上記の記事の中で、後に「魚住の理解に明確な共感を覚えた」と述べている)

②改憲の流れを止めることはできないから、これまでのリベラル・左派の主張を改編して「現実的」な勢力となっておく必要があるために、すなわちリベラル・左派の改憲後の「生き残り」のために、佐藤を擁護する

この2点が、佐藤を擁護する人間の中に、多かれ少なかれ並存しているように思われる。大雑把に説明すると、現在のリベラル陣営において、斎藤貴男を一番「左」、朝日新聞の学芸部あたりを一番「右」とし、斎藤が佐藤を擁護する理由は①100%②0%(甘いかな)、朝日は①0%②100%とすれば、あとの『世界』やら『週刊金曜日』やらのリベラル・左派の諸メディアが佐藤を使う理由は、それぞれの政治的スタンスに応じて比率配分されている、といった具合である。①を自分自身や編集部内部での弁明として使いながら、暗黙の了解として②の理由のために佐藤を使っている、というのが、だいたいのリベラル・左派メディアの現状ではないかと思う。

私は、佐藤を使う理由として、①は首肯できるが、②はいただけない、と言っているのではない。②も問題だが、より重要な、それゆえ徹底的に批判されるべきなのは、①だ。

まず押えておく必要があるのは、日本において、佐藤らが言っているような「ファシズム体制」なるものは絶対に到来しないことだ。だいたい、「国民」全体を監視・抑圧するような全体主義的体制は、端的に不効率でしかなく、支配層にとって経済的にペイしない。治安や管理や統制は、要所要所さえできていれば支配層にとって問題ないだろう。よくある「監視社会論」は、ほとんど陰謀論に近い(斎藤の『安心のファシズム』(岩波新書)はその典型であろう。佐藤優現象における斎藤の役割は重要な位置を占めている。「週刊金曜日」北村肇編集長も、佐藤が評価されている一例として、斎藤の名前を挙げているように(ここでの、2007年3月5日の片山貴夫への返信メール参照)。

もちろん政党が解散したり、国会が停止したりすることもありえない。「強制的画一化」も起こらない。現代の戦争においては、「自発的な参加」と形式的な正当性があった方が、合理的に戦争を完遂できるからである。端的に言って、最悪の侵略国家であるアメリカ合州国、イスラエルを見ればよい。それらの国の議会における論戦や市民運動が、現在の日本よりもはるかに活発であることは周知の事実であろう。

ここで重要なのは、佐藤の、イスラエル国家への賞賛である。

佐藤は、片山もブログで指摘しているように、イスラエルによるレバノン侵略戦争を「拉致問題の解決」として支持している。片山の指摘どおり、当然、佐藤にとっては「北朝鮮の拉致問題の解決」においても戦争が視野に入っているということである。

佐藤ファンの護憲派のブログの一つの管理人は、ここの「コメント欄」で、この片山の解釈に対して、「確かに佐藤さんはイスラエル、イラン、北朝鮮などに関する記述では冷徹な国際政治のスタンダードで発言していますが、もちろん戦争を煽っている訳ではありませんね」などと述べている。言うまでもないが、初歩的な現代文の読解として、片山の解釈以外の答えはありえない。佐藤も、お人好しの護憲派佐藤ファン以外の人間には、片山の解釈が正しいことを認めると思われる。

佐藤は、『獄中記』(岩波書店)でも、「中東地域におけるイスラエルの発展・強化は、イスラエルにとってのみでなく、日本にとっても死活的に重要です。なぜなら、私たちは、人間としての基本的価値観を共有しているからです」「外務省でも私、東郷さん、そして私たちと志を共にする若い外交官たちは、日本とイスラエルの関係を強化する業務にも真剣に取り組みました。彼ら、彼女らは、「私たちはイスラエルの人々の愛国心から実に多くのものを学ぶ」ということを異口同音に述べていました」(397頁)と書いている。佐藤は、日本をイスラエル型の国家にしたいのだろう、と思う。

まとめよう。要するに、佐藤優現象の下で起こっていることは、「日本がファシズム国家の道に進むことを阻止するために、人民戦線的に、佐藤優のような保守派(私から見れば右翼)とも大同団結しよう」という大義のもと、実際には、イスラエル型国家に適合的なリベラルへと、日本のジャーナリズム内の護憲派が再編されていくプロセスである。イスラエル型国家に適合的なリベラルとは、憲法九条とは背反的であることは言うまでもない。このまま行けば、国民投票を待たずして、ジャーナリズム内の護憲派は解体していることだろう。これが、佐藤優現象の政治的本質だと私は考える。

もっと言えば、佐藤優自体はどうでもいい。仮に佐藤優が没落して、「論壇」から消えたとしても、「佐藤優現象」の下で進行する改編を経た後のリベラル陣営は、佐藤優的な右翼を構成要素として必要とするだろうからだ。

恐らく、国民投票法案審議などにおける安倍政権の強硬姿勢は、この辺のことも一因ではないかと思われる。私は、佐藤優現象で、ジャーナリズム内の護憲派が死に体に向かっていることに気づいたが、安倍らは安倍らでどこかでそれに気づいたのではないか。

ジャーナリズム内の護憲派が解体することは、反改憲派全体にとって大きな痛手ではあるが、過剰に悲観的になる必要もない。どっちみち、こんな連中では戦えないのだから。われわれに必要なのは、佐藤優現象に侵されているジャーナリズムへの全面的な批判であり、新しい出発点である。

# by kollwitz2000 | 2007-06-05 00:51 | 佐藤優・<佐藤優現象>
佐藤優現象について(1):「この現象は変だ」という感覚の重要性
佐藤優をリベラル・左派が使うことの奇妙さが、ようやく話題に(問題に)なりつつある。
この点については、小谷野敦のブログや、片山貴夫のブログを読まれたい。

私がこのことを指摘したのは昨年12月だ。その際に、佐藤優を好んで使っている以上、一連の「総連弾圧についても、左派系メディアは、沈黙か、形だけの日本政府批判でお茶を濁すだけだと思われる」と書いたが、残念ながらその予測は的中してしまった。

私は、佐藤優個人は取るにたらない「思想家」だと思うが、佐藤優現象は重要だと考えている。佐藤優現象とは、「佐藤優のような、右翼であり、右派メディアに頻繁に登場して国家主義を喧伝している人物が、全く同時期に、リベラル・左派と一般的に目されているメディアにも登場している現象」と私は考えている。この規定の中で、「右」と「左」を逆にすることはできない。佐藤のリベラル・左派メディアでの発言内容は、「保守的護憲論」など毒にも薬にもならないものばかりであり、右派にとっては基本的にどうでもよいことだからである(『諸君』2007年5月号の柏原竜一による佐藤批判は、佐藤への右派メディアによる「牽制」と私は考える。7月号には佐藤はちゃんと登場し、丸山真男批判という仕事をこなしている)。

これが、「現象」と呼ぶべき事態であり、「変」である、ということの確認からまずはじめよう。論者によってそれはさまざまな表現がされているが(「いささか異様と言わざるを得ない」、「言論キム・イルソン状態」(小谷野敦)、「いまや「正論」から「世界」まで、いまや「週刊東洋経済」から「週刊アサヒ芸能」まで、右も左も、硬派も軟派も、佐藤になびく」(『AERA』2007年4月23日号)、「この現象は変だ」という感覚の有無が、実は重要なポイントの一つだと思われる。

この現象が「変」なのは自明ではないか、と言う人がいるかもしれないが、注目すべき点は、リベラル・左派が佐藤を使う際の論理が、「この現象は変だ」という感覚の抹消によって成り立っている、という点である。言い換えれば、小谷野のような改憲派や、片山のような左翼には自明な、そして恐らくリベラル・左派に思い入れのない多くの一般大衆にとっても自明な、「この現象は変だ」という感覚が、佐藤を擁護するリベラル・左派にはない、もしくはない振りをしている、ということだ。

具体的に見てみよう。「週刊金曜日」北村肇編集長の片山への返信の中に、以下の一節がある。

「本誌は「論争する雑誌」としてスタートしました。必ずしも考え方の一致しない著者の登場は、多くの読者から支持されてもいます。」(2007年3月27日)

では、佐藤のように、全く同時期に、右派メディアで国家主義的主張を喧伝する書き手を、これまでの「週刊金曜日」が積極的に使っていたのか?鈴木邦男や野中広務を使うのとはわけが違うのだ。誰にでもわかることである。

私が佐藤ファンの護憲派ブログを見た際に感じた気もち悪さは、この「変だ」という感覚が何一つないことだった。「佐藤優は反新自由主義」などと持ち上げているが、反新自由主義の右翼など掃いて捨てるほどいるではないか。

佐藤からの「大鹿靖明『AERA』記者への公開質問状」に関する、金曜日編集部の佐藤への過剰な肩入れと便宜供与(ここでも指摘されている)は、その意味で、単なる居直りではなく、「佐藤優現象は変ではない」ということを、金曜日編集部が必死で読者にアピールするための(無意識の?)パフォーマンスである、ように、私には思われる。「これだけ金曜日が佐藤へ肩入れするのだから、佐藤が金曜日に書くのは当たり前だ」という論理だ。金曜日編集部が必死で守ろうとしているのは、「「取材と表現、マスコミのありよう」などについて」の「重要な問題提起」」(ここでの週刊金曜日編集部の言い草。しかし、こんな「公開質問状」が「重要な問題提起」とは、失笑するほかない)ではなく佐藤を金曜日編集部が使うことの「自然さ」(と装いたいもの)である。

佐藤が、『AERA』の佐藤への馬鹿げた提灯記事に対して、あれだけ執拗に攻撃するのも、この辺のことが原因であると思われる。要するに、単なる提灯記事では駄目なのだ。佐藤が求めているのは、リベラル・左派メディアで佐藤が書くことは「変」ではない、「自然」なことであるという見解であり、その意味で、「左右の枠をこえて」佐藤を支持している現象、佐藤優現象を言語化し、佐藤を使う左翼に批判的な小谷野の見解を紹介した大鹿は、異端審問官としての佐藤の目から見れば「異端」なのである。

佐藤の抗議に対し、大鹿は、哀れにも、「“佐藤さんによかれと思って書いたことが、全然そうなっていなかった。申し訳ない”といきなり謝って」いたとのことであり(『週刊新潮』2007年5月17日号)、同記事によれば、佐藤は、大鹿が簡単に謝ったこと自体にも怒っているとのことである。大鹿も、何が佐藤をこれほど怒らせているか理解できなかっただろう(事実誤認については、この程度の内容であれば訂正を後で出せば済む話ではないか)。佐藤自身にも怒りの所在が理解できていないのかもしれない。いずれにせよ確実なことは、金曜日編集部は佐藤による洗礼、いや、洗脳が完了している、ということである。

吉野作造は、満州事変に対して、「諸新聞の論調が一律に出兵謳歌に傾いて居ること」と、「無産党側からいっこう予期したような自由豁達の批判を聞かぬこと」を、満州事変直後の情勢で「最も××[遺憾]とし、同時にまた最も意外としたこと」とした上で、無産党が「変態」した、諸新聞の態度は「変だ」と述べている(「民族と階級と戦争」『中央公論』1932年1月号)。かつて吉野のこの晩年の文章を読んだとき、この「変だ」という吉野の言葉の生々しさが、妙に印象深かったのだが、佐藤優現象を考える上で、この「変だ」という感覚は不可欠である。

リベラル・左派の子供騙しの弁明を排し、われわれは、この現象が何の徴候であるかを見極める必要がある。満州事変への「諸新聞」「無産党」の反応が、その後の事態の徴候であったように。

# by kollwitz2000 | 2007-06-04 00:58 | 佐藤優・<佐藤優現象>
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