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2005-08-16

選択の幻想から反学校の政治へ 第二回 奴隷の「選択」

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学校に行けなくなった10歳の頃の僕にとって、学校に行かないことは絶対に許されないことでした。このままでは生きていく資格はないと思っていました。そのような僕にとって、東京シューレや奥地圭子さんとの出会いは、大きな転換点となるものでした。初めてシューレに行った日、「学校に行かないことは悪いことではないんだよ。法律違反でもないんだよ」と彼女に言われた時のことは今でもはっきりと覚えています。そのように言われて、そして、自分と同じように学校に行っていないのに平然と遊んでいる人々を見て、押しつぶされそうに重い肩の荷が降りたように感じました。

シューレに入ってしばらくの間は、それまでの反動からか「学校に行ってない方がエライ!」などと考えたりもしましたが、しだいに丸くなり、「どっちでもいいじゃないか」と考えるようになりました。「学校には行ってもいいし、行かなくてもいい。本人が決めればいいことだ」。こんな考え方は、かつての僕だけではなく、学校に行かないことを肯定する人々のコンセンサスになっています。たしかに一見すると、非常に「成熟」した考え方に見えます。学校に行かないことを頭ごなしに否定するのでも、逆に行かないことをヘンに持ち上げるのでもなく、そんなことにこだわらなくてもいいじゃないか、と軽くサラッと言ってしまうわけです。中沢淳さんは、1991年に以下のように宣言しました。

学校に行く、行かないは、おおげさに言えば人生の一つの選択に過ぎないと思うのです。ですから学校をこよなく愛する人たちには、皮肉ではなく未来永劫学校に行ってもらえれば、それはそれで誠に結構な事だと思うのです。自分にあった勉強の仕方、自分にあった生き方、それが大事なのだと思うのです。大人は憲法第22条職業選択の自由アハハーンを振りかざして、堂々と愛想のつきた会社を辞めることが出来ますが、なぜ子どもは堂々と愛想のつきた学校を辞める事が許されないのでしょう。

 この本を読んだら、自分からはっきり親に、学校に、社会に「自分は自分の道を歩もうとしてるんだ、邪魔するなぁー」と言って欲しいものだと、僕は勝手に思っています(他の著者はどう思ってるかは知りません)*1

中沢さんの言葉にあるように、この立場の特徴は、学校に行くか行かないかを「選択」の問題としてとらえているところにあります。行く/行かない、どちらが優れているわけでもない。一人ひとりが自分に合った道を選べばいいのだ……。これは、「不登校芸術」でしばしば描かれる物語のテーマでもありました。約15年前に製作された東京シューレ5周年記念ビデオ『いとをかし東京シューレ』には、このようなシーンがあります。制服を着た少年と私服の少年が仲良く連れ立って歩いてきて、校門の前で手を振って別れる。一人は学校の中へ、もう一人は学校の外へ……。

このリベラルな立場からは、学校に行くことを強制することは否定されます。しかしこの立場は、学校制度自体を否定しているわけではありません。学校に行かないことを肯定する運動に関わってきた人々は、しばしば「反学校」「学校否定」という立場と「誤解」されることに当惑し、「選択」という穏当な言葉を強調してきました。

しかし、本当に「選択」をキーワードにしてしまっていいのでしょうか? 校門の前で別れた二人の少年は、本当に「別の道」を歩いていくことになるのでしょうか? 現在の僕の答えは否、です。「学校に行きたい人は行けばいいし、行きたくない人は行かなければいい」などと八方美人なことを言うのではなく、はっきりと「反学校」の立場に立つ必要があると思います。

それは一つには、学校制度というのは一種の奴隷制度のようなものだと考えるからです。はたして「奴隷でいたい人は奴隷でいればいいし、奴隷でいたくない人は奴隷をやめればいい」などという言い方がありうるでしょうか? 言葉の定義から言えば、奴隷は自由意志に反して強制的に働かせられるから奴隷なのであって、もし奴隷に奴隷でいるかどうかの選択権があるとすれば既にその人は奴隷ではありえず、奴隷制度は成り立っていないことになります。問題なのは「奴隷制を廃止するか存続させるか」であって、「個々の奴隷に選択権を与えるかどうか」などという問いは論理的に無意味です。

とは言え、イキナリ学校を奴隷制度にたとえるのはカゲキすぎるかもしれません。そこでこの連載では、もう少し遠回りをしながら考えてみたいと思います。

「選択」という言葉は、焦点を個人に絞ります。もちろん、選択を阻害するような社会的な偏見や差別は批判の対象となるわけですが*2、学校に行く/行かないは究極的には個人の自己決定に委ねられるべきであるとされます。これに対して僕は、個人ではなく社会を出発点とする立場に立ちます。それはつまり、個人を独立させて見るのではなく、複数の者の関係を問題にするということです。マルクスいわく:

社会は単なる個人の集合ではなく、個人がお互いに対する諸関係の和である。社会の観点からは、奴隷や市民は存在せず、皆人間であるなどと言う者がいるかもしれない。実際には、これは彼らの社会の外での姿である。奴隷であること、市民であることは個人Aと個人Bの間の社会的に決定された関係である。個人Aは元来からして奴隷なのではない。彼は社会において、社会を通して初めて奴隷となるのだ*3

学校に行く者も行かない者も同じ一つの社会に生きています。私たちは、各個人をバラバラに分析するのではなく、各個人を結ぶ社会的な関係の糸を辿って行く必要があります。次回は、このような社会学的発想の例としてウォーラーステインの「世界システム論」を紹介しながら、学校に行く者と行かない者がどのような関係にあるのかを見ていきます。

*1:中沢淳,1991,「まえがき」「東京シューレ」の子どもたち編『学校に行かない僕から学校に行かない君へ 登校拒否・私たちの選択』教育史料出版会,5-6.

*2:実はここには選択の政治の両義性があります。これについては回を改めて論じます。

*3:Marx, K., quoted in Hall, S., 1977, E202 Schooling and Society: Unit 32 A Review of the Course, Milton Keynes, The Open University Press, 13.

ぱれいしあぱれいしあ 2005/08/18 05:15 またまたTBがつけられません。リンク貼っておきます。
あんまりきれいにまとまっていないけれど、よかったら見てやってください。
http://blog.goo.ne.jp/egrettagarzetta/e/248aefd796f3abccfcbbc621052b02e1

toledtoled 2005/08/18 08:47 ぱれいしあさんこんにちは。レスありがとうございます。読ませていただきます。

チャマチャマ 2005/08/21 12:38 toledさん、こんにちわ。
不登校の解決は自分にあると思っている私でございまして、チョイとTBなどをさせて頂きました。
素朴な疑問も御座いまして、再度改めてコメントさせていただきます。
ヨロシクお願いします。

toledtoled 2005/08/21 16:58 チャマさんお久しぶりです。トラバありがとうございます。読ませていただきます。

チャマチャマ 2005/08/21 22:41 素朴な・・・というより、判らなくなっちゃったんですけど・・・

奥地氏が講演会で「ひきこもりを認めない社会が悪い」と言いながら、「毎日ネットで社会と繋がっていてコミュニケートしていて、秋葉原にだけは買い物にだって行かれる人がいる。それでいいじゃないか。」ともおっしゃった。「フツーってなによ!ナニをもってフツーって言うのよ!」なんてこともおっしゃった。
ところがひきもりを肯定するための理由として「悪いのは社会だ」といったその社会のフツーと言われるだろう行動を挙げて、これでいいじゃないか、とおっしゃった。
私には未だに矛盾と思えるのですよね。
『不登校、選んだ…』を読んだ時、シューレに通っていた親が言っていることや奥地氏の講演を聴いた時に感じた幾つかの矛盾を、常野さんというシューレOBの方がその本の中で、不登校エリート、という造語?を用いて書き表してくれていたんですよね。
で、常野さんはそういうことを「もうたくさんだ」と言っているのだと感じたものです。
無臭ニンニクの下りとか、最後の登校拒否は病気で、・・・暗く、汚く、臭い。そのようなものとしての登校拒否を肯定する/肯定できるだろうか、と言いたいと書かれた最後の部分とかなんて、漠然としたモノだったナニカを文字にしてもらったゾ!なんて思ったものでした。

ところが、この連載を書いていらっしゃるtoledさんは「無臭ニンニク」を作ろうとしているように思えるのです。
なんとなく、奥地氏やシューレに通っていた親の会の方たちと同じ矛盾をtoledさんに感じるようになってしまいました。
連載を待たずしてこう書くのは時期尚早かな、とも思うんですけど、方向転換なのか、それとも私の読みが浅かったのか、勘違いなのか・・・戸惑っています。

一つ伺いたいのは、本に書かれていたような肯定をtoledさんご自身がされているのでしょうか?
また、それは即ち登校拒否という病気で・・・暗く、汚く、臭い者がより多く集まっているのが、フリースクールや中間教室や居場所を作る会などなのだ、という肯定でもあると思うのですが、こちらに対しての肯定はいかがでしょうか?

お答え頂ければ幸いでございます。

toledtoled 2005/08/22 00:08 チャマさんコメントどうもありがとうございます。この連載は5年ほど前に書いた文章をもとにしています。『選んだわけじゃ……』での主張と意識的にはたいして違いはないと思います。
ただもちろん、僕自身の中で確実な一貫性のようなものがあるわけではありません。たぶん互いに矛盾しあうような主張を同時にもっていると思います。だから、本の方には共感してくださったチャマさんがこの連載には違和感をもたれたということは興味深いです。僕自身が意識していないような亀裂が僕の中にあるのかもしれません。
そこでぜひ伺いたいのですが、どのようなところを「方向転換」と感じられたのですか? ↑のご説明ではいまいちピンと来ませんでした。すみません。。。
僕は、登校拒否を現在の社会で支配的な基準(たとえば社会性がある、など)に合わせて「美化」することには反対です。そうではなくて、ありのままの姿(病気、暴力、ひきこもりなどを含めて)で肯定したいと思っています。

チャマチャマ 2005/08/22 14:44 こちらこそ、お付き合いくださってありがとうございます!
まず、私の質問への解答としては、「肯定している」のではなくて、今もまだ「肯定したい」と思っていらっしゃる、肯定に至る途中、という理解で宜しいですか?
各種サポート団体についてのお答えは無いようですが・・・

で、toledさんからのご質問にお答えしようと思います。
「方向転換」と感じたのは、私の方が間違いでした。
私の中で「無臭ニンニク」が登校者を指す時と、明るい不登校エリートを指す時と、ごちゃまぜになっていました。
常野さんはその本の中でも、「臭いニンニクを臭いまま肯定しよう」とおっしゃっているのですよね。でも、ニンニク(登校拒否・不登校)の存在を肯定しよう、とは書いていらっしゃらないのですよね。私はニンニクを肯定しよう!と書いていると思い込んでいました。
おっしゃる通り、常野さんとtoledさんに相違は無いですね。
何度も読み返しているのに思い込みの上での理解でした。
すみません!!!

そしてtoledさんはニンニクが存在しない社会を目指していらっしゃるのだ、と今思っています。ただ、これは二回分を読んだ時点での理解です。実のところ、toledさんが社会をどう変えたいのかは明確にされていないように思っていますので、やっぱり時期尚早だったかな、と思いつつも・・・
一つ思うのは・・・
「現在の社会で支配的な基準」と書かれていますが、これは今の社会で肯定的な基準、ということですよね?
そして「病気、暴力、ひきこもり、臭い、汚い、暗い」というのは、現在の社会で否定的な基準、ですよね。
「美化」を強調されている、ということは、その基準の是非・肯定否定云々というよりも、美化することを否定されている、ということになりましょうか?
でも、toledさんが想定されている社会というのが、そういった基準に引っかからないでいられる社会、ニンニクが存在しない社会なのだとすると、それはありのままの姿を肯定しようと言っているにも関わらずその存在を消し去ろうとしている、ということじゃないんだろうか、ということです。
私にはこの考え方は「美化」と同じだと思えます。
上手く書けないのですが、基準に合わせる美化と、基準に引っかからないで済むようにシステムを変えること。結局社会の肯定的な基準がその根底にはあるんじゃないのかな、って思うんですよね。
それに、学校制度が悪い、と言われてしまうと、登校拒否・不登校の問題は学校に行かれないことだけだ、と言われているようで、ナンカ違わない?って思います。
登校拒否・不登校って、そんなに存在してはならないんでしょうかねぇ。。。

>僕自身が意識していないような亀裂が僕の中にあるのかもしれません。
私は自分自身にそういった亀裂・ズレ・矛盾を持っていると思っています。それがどこなのか、ナニなのか、どうしてなのか、知りたい!というのが実のところです。私自身が登校拒否に対して意固地に肯定しようとしている気がしているものですから・・・
我儘なお願いですが、ご協力頂ければ嬉しいです。

toledtoled 2005/08/23 21:11 チャマさんこんばんは。コメントありがとうございます。週末あたりに、少し考えてからレスしますね。

チャマチャマ 2005/08/24 03:30 toledさん、ご丁寧に有難うございます!
ネット社会だとやりとりが慌しくていけませんね。
って、慌しくさせてるのは私か・・・って話ですが。
リミットなんて決めなくてもいいですよ。
答えが出た時に「こんなん出ましたぁ〜」なんて教えて頂ければ嬉しいです。

toledtoled 2005/08/27 10:02 チャマさんへ
>まず、私の質問への解答としては、「肯定している」のではなくて、今もまだ「肯定したい」と思っていらっしゃる、肯定に至る途中、という理解で宜しいですか?

う〜む、これは指摘されるまではそれほど意識していませんでしたが、その通りかもしれませんね。「肯定する」と言い切ってしまうと(言い切ってますが。。。)、何かウソくさいというか、そんなに簡単ではないような気がします。そう言った瞬間に「肯定できる」ようにデフォルメするため、「肯定し得ない」要素が切り捨てられてしまう危険があると思います。だからこのへんはアイマイなままにしておきたいというか、「肯定したい」という願望と、「肯定する」という行為は分けておいた方がいいのかもしれませんね。わかりにくくてすみません。。。

>常野さんはその本の中でも、「臭いニンニクを臭いまま肯定しよう」とおっしゃっているのですよね。でも、ニンニク(登校拒否・不登校)の存在を肯定しよう、とは書いていらっしゃらないのですよね。私はニンニクを肯定しよう!と書いていると思い込んでいました。

う〜ん、それは「臭い」要素も含めてニンニク全体を肯定する、ということだと思います。「明るい」から肯定するのではなくて、病気・暴力・ひきこもりも含めて不登校全体を肯定する、いや肯定したい、ということを言っていると思います。

>そしてtoledさんはニンニクが存在しない社会を目指していらっしゃるのだ、と今思っています。

これは違うと思います。そうではなくて、ニンニクは現在の社会では生きづらい。それを変えて、ニンニクがニンニクのまま生きられる社会にしたい、ということです。

>私にはこの考え方は「美化」と同じだと思えます。
上手く書けないのですが、基準に合わせる美化と、基準に引っかからないで済むようにシステムを変えること。結局社会の肯定的な基準がその根底にはあるんじゃないのかな、って思うんですよね。

これは非常に鋭いご指摘だなあと感じました。まだ自分の中でよく消化できていませんが、これから考える材料にさせてください。

>各種サポート団体についてのお答えは無いようですが・・・

これはどういったご質問でしょうか?

チャマチャマ 2005/08/27 14:13 toledさん、ありがとうございました。
登校拒否の肯定に関しては、私も同じです。肯定したいという熱烈な願望を持ちながら、そうし得ない要素を切り捨てられない。。。果てさて、どうやって、どこに落ち着こうかなぁ。。。と。。。
「そうし得ない要素」を全て、「登校拒否の否定」としてしまうことに私は危機感を持ちます。それはあまりに「登校拒否」という立場に没入している考え方だと思うのです。
登校拒否・不登校もまた社会の一員である以上、社会に対して自分の立場だけの視点による偏った要望を突きつけることのないように、慎重になるべきだと思います。
そんなことに対して、自分の中でどこでどう折り合いをつけようかな…と…未だ彷徨い続けている私だったりするのですが・・・

>これはどういったご質問でしょうか?
最初に書いた・・・
>また、それは即ち登校拒否という病気で・・・暗く、汚く、臭い者がより多く集まっているのが、フリースクールや中間教室や居場所を作る会などなのだ、という肯定でもあると思うのですが、こちらに対しての肯定はいかがでしょうか?

ということについてです。
toledさんがフリースクールについてどう考えていらっしゃるの判らなかったもので投げかけてみたのですが、3回目の連載記事でなんとなく判ってきましたので、お捨て置き下さって結構です。

まだ連載途中ですのでナントも言えないのですが、「登校拒否も社会の一員」とおっしゃっていることと、打倒!学校制度とおっしゃっている(今のところは?)ことに矛盾を感じつつ、連載を最後まで読みたいと思います。

それにしても思うのは、登校拒否・不登校というニンニクはそんなに世の中から抹消しなくてはならない存在、なのでしょうか・・・?