2005-07-14
反差別主義者は差別主義者に反論してはならない
社会 |
石原都知事:「フランス語は国際語失格」発言で提訴される
石原慎太郎・東京都知事が「フランス語は数を勘定できず国際語として失格」などと発言したのは名誉棄損に当たるとして、都内のフランス語学校校長、マリック・ベルカンヌさん(46)や日本人のフランス語研究者ら21人が13日、石原知事を相手に、新聞への謝罪広告掲載と計1000万円余の慰謝料を求めて東京地裁に提訴した。
石原知事は昨年10月、首都大学東京(今年4月開学)の支援組織設立総会で「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする」と発言。フランス語は「70」を「60+10」、「80」を「4×20」などと数えるため、知事の発言はこうした数え方を念頭に置いたものとみられる。
これに対し、原告は「フランス語は数を数えられ、国際機関や多数の国で公用語として使われている。虚偽の発言で母国語として話したり研究する者の名誉を傷つけ、学習者の意欲をそぐことで語学校の業務を妨害した」などと主張している。
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050713k0000e040036000c.html
全ての人民のみなさんこんばんは。反自由党中央委員会です。この事件についての反自由党の公式見解を発表します。
1. 帝国主義的言語であるフランス語が「被害者ヅラ」をするのは、なんかおかしいと思う。
2. 「数を勘定でき」ないという中傷に対して、「フランス語は数を数えられ」ると反論すると、「数を数えられるかどうか」ということを評価基準として受け入れることになってしまう。しかし「言語は数を数えられて当然」という一見ニュートラルな発想にこそ都知事の自民族中心主義がある。反差別主義者の正しいリアクションは、こうでなくてはならない:「数は数えられない。悪いか?」。
というわけですのでよろしくお願いします。
なお、同じようなことは、他の「差別発言」についても言えます。たとえば「女性はすぐ感情的になる」という偏見があります。リベラルはこれに対して実証主義的な調査を行い、「男性よりも女性のほうが感情的になりやすいとは言えない」とか、「男性よりも女性に感情的な人が多いとは言えない」といったことを示そうとします。あるいは、「不登校は社会性の欠如のあらわれだ」といった偏見に対して、リベラルはコミュニケーション能力に優れた不登校児を「発掘」してきて反論しようとします。
しかしそうすることによって差別主義者が勝手に設定した「感情よりも理性」とか「社会性はいいものだ」というルールを受け入れることになります。その過程で、被差別者の中にも「より理性的な女性とより感情的な女性」「より社会的な不登校児とよりヒッキーな不登校児」という序列が生まれ、反差別の言説のはずが、いつのまにか差別主義者の下請け工事をやることになってしまいます。
これにたいして私たち正しい反自由主義者はこう言います。女性は感情的だ。不登校児に社会性はない。それがどうした。それで生きにくいなら、社会の方を変えればいいんじゃん。
変態左翼の日比野真さんの言葉に、こうあります。
ホモやオカマは決して「普通の人」ではありません!!
ホモやオカマが嫌われるのは、それらが異常(=時代の多数派権力が生き延びるために恣意的に創り出した生け贄/スケープゴート)だからなのだ。「異常な私たち」が、異常なままで、堂々と今の社会の中に生きることが大切だ。決して「同性愛者は正常な普通な人だ」などと言ってはならない。そう言ってしまうことは私たち自身に対する最大の裏切りだ。正常化され毒抜きされた「普通の姿をした」同性愛者を社会が受け入れることが大事なのではない。私たちが生きる今の社会秩序---性別2分法と「男らしさ・女らしさ」の性別役割を押しつけ、ホモフォビア(同性関係嫌悪)で、強かんや暴力などの「男のわがまま」を黙認し、セックスを悪いことだと考える社会秩序を、変態で性的倒錯者でホモで異常でオカマな「私たち」こそが、堂々と解体しなくてはいけない。
あたしは偶然地元がかぶるので日比野さんのイスラエル滞在報告を聞いたことがありますが、もちろん、これまで勤めた会社にいたオヤジどもなんぞよりとっても普通の(笑)、自らのある不可思議な階層にも自覚的な、ちゃんとした方でした!!!
お会いしたのが冬だったのでウールのダッフルコートとロングスカート(腰巻?)をお召しで、その色合いの美しさ(彩度・明度とバランスの良さ)に魅かれ「いい色ですねー」と話しかけると、ハニカんで「お気に入りなんです〜」と言っておられたのを思い出します。…あのオレンジと黄緑ゲッツは、そうそう真似できんわ〜♪
『しかしそうすることによって差別主義者が勝手に設定した「感情よりも理性」とか「社会性はいいものだ」というルールを受け入れることになります。その過程で、被差別者の中にも「より理性的な女性とより感情的な女性」「より社会的な不登校児とよりヒッキーな不登校児」という序列が生まれ、反差別の言説のはずが、いつのまにか差別主義者の下請け工事をやることになってしまいます。
これにたいして私たち正しい反自由主義者はこう言います。女性は感情的だ。不登校児に社会性はない。それがどうした。それで生きにくいなら、社会の方を変えればいいんじゃん。』
はたして『理性』は『感情』から完全に自由になれるものなのでしょうか? この二つは対称化し得るとする“西洋”的な概念は、私たち(少なくとも第二次大戦後“日本語”教育を受けてきたヤマト列島在住者)には、どこまで浸透しているのでしょう?
それが自明な世の中/世間なら、大阪市立付属小学校事件も西鉄バスジャック事件も奈良ロリコン拉致殺害事件も、少なくとも、これらに類する女性加害者が、同等に出るだろうと私は思っています。(女は女であるがゆえに理性の恩恵は浴し得ない…と言う方は悪いけど単性生殖をしてくださいネ。ご苦労様です☆)
この場合、佐世保の女児による女児殺害事件は、非対称性の観点では“女性性”問題より“子ども性”問題の範疇に入ると私は考えています。つまり佐世保事件は非対称性によるプレッシャーの関与の少ない稀有な事例であり、前出3事件は私にとってDVにも匹敵するありきたりな“男性性(男ジェンダー)”問題事件なのです。
オトココドモは大変さー。オンナコドモはどーせ死ぬまでオンナコドモさー。でもオトココドモは死にたーなきゃー“ワシゃーもーコドモ違う〜”言うて、なんぞ証を立てにゃー“一人前のオトコ”扱いしてもらえんさー。でも孕みもできん、巫女(ユタ)にもなれんオンナーもー、それはそれは辛きゃーのー。
…なーんてエラそーに言うてる私も、カレシとエッチしてる時は“オンナらしい(…AVくさ〜い;)”アエギ声出したほーがえぇかなーなんて意識してるんですが…(^^;)
一方で「女らしさ」のプレッシャーも大変だろうなと思います。「女らしさ」を体現する人にとっても、その基準からこぼれ落ちる人にとっても。
などと言ってる僕は単性生殖について日夜研究中ですw
長文コメント大大大歓迎ですのでこれからもよろしくお願いしますね〜。
ところで、ちょっと感想が遅れてしまったのですが、このエントリ、学歴詐称事件の話に続くヒットですね!面白かったです。(というと凡打差別になってしまうかもしれませんが……)。語学学校長の訴えもなんだかな、と思うのですが、明大教員が石原に学習セット贈呈という話http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050726k0000e040055000c.htmlは、さらにおいおいと思いました。もちろん、石原がどうしようもないのは言うまでもないのですが……。
サルトルについてはほとんど何も知らなかった僕ですが、今ではとても引きつけられています。「自由」とか「選択」ということをリベラリズムの枠組みを越えて考える手がかりになるかも、と考えているのですが、どうでしょうか? って言いながらサルトル自体の文章はまだほとんど読んでないんですが。。。いつかセロトニンが
湧いてきたら挑戦したいと思います。その時にはぜひ質問させてください。
学習セット、僕も欲しいです。