2005-07-07
『Fonte』(旧・不登校新聞)メーリングリストへの投稿
登校拒否 |
『Fonte』(旧・不登校新聞)のメーリングリストに以下の文章を投稿しました。
こんにちは。
このたび経済的事情により、定期購読を継続しないことにしました。『Fonte』の社会での必要性はますます高まっていると思いますが、お金があまりないもので。。。
編集局の方のメールに紙面についての意見をとありましたので、この機会に僕の思うことを書かせていただきます。もうすぐこのメーリングリストの参加資格もなくなってしまうので「言い逃げ」になってしまうかもしれませんがどうかご容赦ください。
ちゃんと読んできたわけではないので間違っているかもしれませんが、僕の『Fonte』を読んでの感想は、「偏っているな」ということです。一部の人の同じような意見ばかりが目に付くように思います。
偏っているから悪いということではありません。『Fonte』は一般のマスコミに大きくは取り上げられないような、不登校を支える立場に立つメディアですからある意味「偏って」いて当然です。紙面の内容は学校に行かない者や行かなかった者を応援するような、あるいは彼らが自ら語ることを可能にするようなものでなければならないでしょう。
ただ、学校に行かないことを何らかの形で肯定する人々の声が中心になるのは当然として、彼(女)らの内部にも実はさまざまな違いがあるのではないかと思うのです。僕の印象では、その多様性がうまく掬(すく)い上げられているようには見えません。
一例を挙げますと、去年の11月に、貴戸理恵さんが『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』という本を出されました。この本は、かつて学校に行かなくなり、現在は成人している若者たちへの社会学調査をまとめたものです。貴戸さん自身も不登校経験者です。インターネットではこの本のことがたいへん話題になり、また『朝日新聞』の書評でも取り上げられました。ところが、『Fonte』ではこの本のことを見かけることはありませんでした。
また、自分のことを言うのは恥ずかしいのですが、貴戸さんと僕は一緒に『不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ) (よりみちパン!セ)』という本を書きました。非常に傲慢な言い方になってしまうのは承知で書きますが、貴戸さんと僕はこの本で不登校を肯定する思想に新たな視点を提供しています。この本は代表理事の奥地圭子さんにも献本させていただき、またこのメーリングリストでも恥ずかしながら宣伝させていただきましたが、『Fonte』では取り上げてはいただけませんでした。
貴戸さんや僕の考えが奥地さんをはじめとして編集局の方々と一致したものではないということはわかっています。編集局の方からすれば、正しくないように見えているかもしれません。これは一朝一夕にして決着のつくことではないでしょうし、違いがあることは認めたいと思っています。
しかし、仮に貴戸さんや僕の意見がいかに間違ったものであるにせよ、本を読んでいただければ、少なくとも学校に行かないことを肯定したい、学校に行かなくても嫌な目に遭うことがない社会にしたい、という欲望が根底にあるということは理解していただけると思います。編集局の方々からすればあまりにも低レベルで誤ったことを言っているかもしれないけれど、貴戸さんも僕も不登校肯定という「同じ陣営」にいることだけは確かではないでしょうか?
僕は、貴戸さんや僕の本がいつか取り上げられるのではないかと思って『Fonte』が来るたびにドキドキしながらページを捲ってきました。しかしついにそれはありませんでした。紹介もなければ批判もなかった。そこで感じたのは、昔なつかしいある「におい」です。そう、あのシカトという嫌なにおい。まだ批判していただいた方が、こちらとしてもありがたかった。しかし完全に無視されてしまったことは正直こたえました。
これは一つの例です。学校に行かなくてもいいじゃないか、と思っている人は少数派です。しかしその少ない人々の中でも、様々な意見があるはずです。『Fonte』は、その多様な声の交差点であるというよりは、あらかじめ決められた「正解」を布教するための拡声器のように見えます。
たとえば、このごろ、文科省が「フリースクール」などの運動に近づこうとしています。これは果たして歓迎すべきことなのか? それとも警戒した方がいいのか? 僕も確信を持った「答え」はもっていません。だからこそ、いろいろな人の意見を知りたいと思います。不登校を肯定するという一点は共有した上で、しかしお互いに譲れないところは妥協しないで、活発な対話があってもいいのではないでしょうか。もちろん、「現場」におられる方はそのような話し合いを日々行っておられると思います。それを、紙面と言う公開の場で、間違ったことを掲載してしまうというリスクを引き受けた上で、行うことができないものでしょうか?
現在の体制だと、東京や大阪にいる「指導者」が「正しい」見解を教えることが目標になってしまっていると思います。しかし、そのような立場にある人々は、誰かから教え導かれて現在の思想に到(いた)ったのでしょうか? 奥地さんの本に特に詳しく書かれていますが、彼女自身、さまざまなとまどいや失敗を生き延びながら、自分自身の手で言葉を獲得し、場をつくってきた人です。その過程にはあらかじめ確定された「正解」などなかったはずです。
だとしたら、現在のようなワンパターンな紙面はどうかと思います。もっと色んな人の文章が読めないものでしょうか? 激しい論争があってもいいのではないでしょうか? 時には編集局や理事に批判的な意見が載ってもいいのではないでしょうか? もちろん、学校に行かないことを肯定するという一点は守った上で。そのような批判は決して理事の方たちを貶(おとし)めるものではなく、むしろ深い「度量」を示すものであると思います。僕は奥地さんは個人的に存じ上げていますが、彼女がそのような人間的深みをもっていることは知っているつもりです。
不遜ながら、もしお誘いいただければ、僕はエッセーでもインタビューでも座談会でも喜んでお引き受けします。現在ほとんど働けておらず、時間はありますので。
毎号ていねいに読めていたわけではないのに、思いつくままに書いてしまいました。僕が提案したようなことはすでに一部実現されていて、「釈迦に説法」だったかもしれませんね。そうであればどうか聞き流してください。なお、このメールは僕のブログにも掲載させていただきます。批判的な内容ではありますが、このようなものを積極的に出していくことが「私たちの陣営」(そうです、この文章は一人称で書きました)の豊かさを示し、少しでも風通しをよくしていくことになることを期待してのことですので、どうかお許しください。
p.s. 173号の要友紀子さんへのセックスワーカーについてのインタビュー記事、たいへん興味深く読みました。
http://d.hatena.ne.jp/toled/20050414#p1 と一部矛盾していることはくれぐれもご内密に。。。
Fonteホームページ
いるメディアを読めばいいのでは。斎藤環氏とか…。
自分は東京シューレも奥地圭子氏も大嫌いですが、何故「肯
定派」の団体の発行物で批判意見を読まなきゃいかんのですか
ね?
批判的な意見と肯定的な意見を両方読んで判断を下すのは
読者の権利であって、発行者の義務じゃないでしょう。
東京シューレが意見を押し付けてくるのなら、無視すれば
良いだけの話でしょう? 東京シューレの意見は発言力が大
きい? 世間の「登校拒否児はクズ」という意見の方がずっと
発言力大きいですよ。これ以上、身内からも批判されたいので
すか?(東京シューレを身内だなんて思いたくは無いですけど
ね)
貴方が「登校拒否児はダメ人間。登校拒否だった自分はダメ
な人間」と思うのは勝手ですが、「自分を批判してくれ」という
加虐趣味をさも登校拒否経験者全員が持っているように主張する
のは止めていただけませんか。
「自分自身で主張しているように無視すればいいだろう」と言わ
れれば、それまでですが。
被虐趣味でした。やはり学校ロクに行ってないとダメです
ね(自虐
ついでに継ぎ足しますが、もし文部科学省等が
「やはり当事者の子供達と元登校拒否だった人々が「登校
拒否だった自分は肯定できない。登校拒否になどなるんじゃ
なかった」と言っている。このような不幸な人間を出さない為
にも、もっと登校刺激を与えて登校拒否の子供達を学校に復帰
させなねばならん」
とか言い出したら、責任とって下さいね。
1 「『登校拒否に批判的な意見を、肯定派団体の発行物に載せろ』という主張を、toledさんが行った。」という解釈を元登校拒否児さんがなさった、ということでしょうか?
もしもそうだとしたら、エントリーのどの部分をどのように捉えてこの解釈に至ったのか教えてください。
2 「自分を批判してくれ」という被虐趣味 という表現がなされていますが、この場合の「批判という言葉」は、どういう意味で使われているのでしょうか? 教えてください。
「物事に検討を加えて、判定・評価すること」の意味でtoledさんはこの言葉を使用した(「非難」の意味で使用してはいない)と、私は解釈しています。
3 「元登校拒否児さんがtoledさんを批判するのはO.K。しかし、toledさんがこのエントリーのような批判をするのは不可。」と主張しておられるように、私には見受けられます。(「責任とってくださいね」という書き方から、私はそのように解釈しました。)
もしもそうだとしたら、「元登校拒否児さんだとよくて、toledさんだといけない」とする根拠は何でしょうか? 教えてください。
「このエントリーにおけるtoledさんの主張は、次のことである」というふうに、私は解釈しました(toledさんが登校拒否を否定していないというふうに、私は解釈しました)。
・ 学校へ行かないことを何らかの形で肯定する人々の内部にも、さまざまな違いがあると思う。
・ 貴戸さんもtoledさんも不登校肯定の立場を取っている。ただし、編集局の方々とは、考えが一致したものではない。
・ 『Fonte』には、編集局や理事に批判的な意見が載ってもいいと思う。もちろん、学校に行かないことを肯定するという点は守った上で。
文章では表現しにくい考えが色々と浮かびました。
今度会ったとき色々話しましょう。って文も話も巧くない(だから美術で表現しているわけで)んで、会ったからってちゃんと伝えられるかわからないですが。
要約をどうもありがとうございます。僕も元登校拒否児さんの「読み」は僕の意図したこととズレがあるように感じました。ただ、そのような「解釈」の背後には、元登校拒否児さんなりの思想があるのかもしれないと思います。それがどのようなものなのか、話を聞いてみたい気がします。
話しましょう!!! そうですか、合点がいきましたか。僕は「騒動」になったことは想定外で、本を最初に読んだときには予想だにできなかったよ。。。
こっちに来られる際はMLにて告知してくださいね。
ようやく見つかた! たくさんのレス、乙カレさまです。
2ちゃんスレ、ようやっと1/4くらい読みましたが、すっっっごいっすねーーー♪ まさに乙カレさまで御座いますです。プリントアウトして盆休みにでもじっくり読みますわ。
ヒッキー&ニート「問題」には、当事者の辛さにもジェンダー臭が強すぎて個人的に参ってる面も強かったんですが、まぁ上山氏は著作も拝読しましたが、やはり“男ジェンダー”の権化/犠牲者という感想も私だけのものやなかったんですね〜〜〜☆
toiedさんには、また今度、仕事のスキを見てDMさせてもらいますですぅ♪
toledさんやのに、、、失礼しましたm(x_x)m
カナ入力って哀しいわぁ…間違いもヘンで・・・
名前は適当に決めたものなので気にしないでください。