2005-06-18
(元)登校拒否児のためのブラック・フェミニズム入門講座 第3回 社会運動史のなかのブラック/第三世界フェミニズム
フェミ | |
しかし、女性の間の差異を認めることには、困難が伴います。というのも、そのことは、家父長制に対峙しての全ての女性の潜在的団結を当然のものと見なすことを不可能にするからです。スチュアート・ホールは問うています:
その二つのもの――文化的差異と社会的連帯――は互いに対立するのではありませんか? フェミニズムを見てください。フェミニズムは、ある集合的カテゴリー――女性――の名のもとに歩を進めてきました。……しかし女性運動は急速に、あるカテゴリーに属する女性とまた別のカテゴリーに属する者……との間の差異によって引き裂かれていきました。私たちサヨクの行為主体(agency)の理解はある種の共に集まる感覚、つまり連帯感に常に頼ってきました。……しかし新しい「差異」の論理によって掘り崩されたのは、まさにその一体感であり……連帯感であったわけです。*1
このような現実に直面して、俗流サヨクはこう言うかもしれません。ブラック/第三世界フェミニズムは「分断的」であり、反革命的である、と。また、これらのフェミニズムの差異への注目を廃棄して政治的統一を達成すべきである、と。
しかしそのように言う人がいるとすれば、こう問わねばなりません。「分断的なのは本当にブラック/第三世界フェミニズムなのか」と。この講座の前2回で見たことを振り返れば、答えは明らかに「NO」です。女性を分断したのは人種主義とグローバル資本主義でした。私たちの世界は、ブラック/第三世界フェミニズムが登場するずっと前から既にこれらのシステムによって分断されていました。ブラック/第三世界フェミニズムが分断的であるという物言いは、したがって、被害者を非難するような行為であると言わねばなりません。ブラック/第三世界フェミニズムが実際にやったのは、女性を分断することではなく、あらかじめ存在していたが「普遍的なシスターフッド」の名のもとに隠蔽(いんぺい)されていた差異を、見えるようにしていくということでした。ブラック/第三世界フェミニズムを退けることによって女性の間の差異を否定することは、真実を再び地中に埋めて、白人/第一世界女性の特権を正当化することに他なりません。
ブラック/第三世界フェミニズムが女性間の人種的・国際的格差を明らかにしたことは、社会運動史の進化プロセスに当てはめて理解することができると僕は思います。解放を求める人々の戦いは、「普遍性」の外観のもとにそれまで隠されていた社会的境界線を暴くことを通して前進してきました。この点を展開するために、マルクス主義のイデオロギーというキーワードを導入する必要があります。
マルクスとエンゲルスは、「支配階級の思想は、いつの時代も支配的な思想である」*2と述べました。彼らのフォーカスは階級にありますが、私たちはここで性や人種といったその他の差異についても同様に考えることができるでしょう。マルクスとエンゲルスによれば、被支配者に支配者の思想を受け容れさせる方法は、そうした思想を「普遍的」であるかのように見せかけることです。つまり、支配階級の思想は「社会の全ての成員の共通の利害として」、つまり「唯一の合理的で普遍的妥当性をもった思想として」*3提示されるのです。もしそうだとすれば、被抑圧者が解放を求めて立ち上がるためには、彼らはまず支配イデオロギーの「普遍性」なるものを拒否し、被抑圧者と支配者は異なる位置にあるのだということを明らかにしなければならないでしょう。
歴史を振り返ってみると、マルクス主義はブルジョワ・リベラル・イデオロギーの「普遍性」を攻撃しました。マルクスとエンゲルスは人々が資本家と労働者という二つの階級に分かれていることを示し、両者は必然的に対立する利害関係にあることを指摘しました。*4こうして彼らは階級闘争の場を拓きました。しかしながらそうする中で、彼らはまた別の普遍性を打ち立ててしまいました。つまり、全ての労働者は社会主義建設という共通の利害をもっている、というものです。
そして第二波フェミニズムが登場しました。フェミニストたちは、階級とは独立した別の境界線、性的境界を発見しました。こうして彼女たちはマルクス主義の男性主義的偏向を暴露し、男性労働者と女性労働者は必ずしも共通の利害を持たないと主張しました。*5フェミニストたちは、社会主義が達成されても女性は抑圧され続ける可能性があるのであり、だから、労働者運動とは別に自分たち自身の運動を必要としているのだと主張しました。しかし、このフェミニストたちによる伝統的マルクス主義への異議申し立ては、多くの抵抗を招きました。プロレタリアの統一に対して「分断的」であるという点で、フェミニズムは「反動的」であるとされたのです。*6この非難の論理がブラック/第三世界フェミニズムに向けられたものといかに似通ったものであるかということは注目に値するでしょう。
僕は、ブラック/第三世界フェミニズムの進歩性は、それを歴史的文脈の中に位置づけたときに明らかになると思います。マルクス主義も第二波フェミニズムも共に、先行するイデオロギーによって隠されていた対立した利害を暴露することによって、社会運動のための新しい領域を拓いてきました。ブラック/第三世界フェミニズムは、この流れに続きます。それは、かつては「唯白論」のもとに隠蔽されていた、黒人/第三世界女性と白人/第一世界女性の間の対立する利害を白日のもとに曝し、黒人/第三世界女性が自分たち自身の理論と運動を発展させることを可能にしました。この意味において、ブラック/第三世界フェミニズムは決して反動的ではなく、むしろ進歩的なものであると言えるはずです。もし「進歩」とはより多くの人が自分たち自身の解放の理論と運動を獲得することを意味するならば。
この連載では、まず白人フェミニストの「唯白論」が黒人女性の経験を不可視のものにしていたことを見ました。次にブラック/第三世界フェミニストや一部の白人フェミニストが女性の異なる経験を分析し、人種差別や性差別、国際資本主義の相関性を主張していることを概観しました。最後に僕は、ブラック/第三世界フェミニズムを歴史的文脈に位置づけた上で、黒人/第三世界女性が自らの解放のために立ち上がることを可能にするという点で、それが反革命的どころか進歩的であると主張しました。さて、これで話はおしまいでしょうか?
さっき僕は、ブラック/第三世界フェミニズムは社会運動の歴史的プロセスの一部として理解されるべきであると述べました。だとしたら、ブラック/第三世界フェミニズムもまた乗り越えられる運命にあるのではないでしょうか? この連載を通して、僕は「白人女性」や「黒人女性」、「第一世界女性」、「第三世界女性」といった用語を、あたかもそれぞれが統一的な社会的グループを構成しているかのように使ってきました。しかし、一部のブラックフェミニストは「均質な黒人女性性」*7に疑問を投げかけています。アンシアスとユヴァル-デイヴィスいわく、
世代格差や、移民、難民、イギリス国籍をもつ黒人の区別、また異なるグループが経験する人種差別の独特の性質、こういったもの全てのために、我々は我々の分析についてより慎重に考える必要がある。*8
さらに言えば、「白人女性」もまた多くの異なる民族から構成されており、その中にはユダヤ系やアイルランド系の女性のように、人種差別の対象となってきたグループも存在します。*9
私たちは、階級、年齢、セクシュアリティ、障害、教育レベル、外見などなど、新たなファクターを導入することによって、ほとんど果てしなくこの差異を発見する作業を続けていくことができるでしょう。ブラック/第三世界フェミニズムが私たちに教えているのは、そのような差異は社会運動にとっての障害物ではなく、解放を求めて戦う場を切り拓いていく進歩的な可能性である、ということであると思います。
*1:Hall, S. and Jameson, F. (1990) ‘Clinging to the Wreckage: A Conversation’, in Marxism Today, September 1990, 30.
*2:Marx, K. and Engels, F. (1976) ‘The German Ideology’ in their Collected Works, vol. 5, (London: Lawrence and Wishart), 59.
*3:ibid., 60.
*4:Marx, K. and Engels, F. (1968) ‘Manifesto of the Communist Party’, in their Selected Work, (London: Lawrence and Wishart), 35-63.
*5:MacKinnon, C.A. (1989) Toward a Feminist Theory of the State, (London: Harvard University Press).
*6:ibid.
*7:Mirza, H.S. (1997) ‘Introduction: Mapping a genealogy of Black British feminism’, in her (ed.) Black British Feminism: A Reader, (London: Routledge), 5.
*8:Anthias, F. and Yuval-Davis, N. (1992b) Racialized Boundaries: Race, Nation, Gender, Colour and Class and the Anti-racist Struggle, (London: Routledge), 102.
*9:Maynard, M. (1994) ‘“Race”, Gender and the Concept of “Difference” in Feminist Thought’, in Afshar, H. and Maynard, M. (eds.) The Dynamics of ‘Race’ and Gender: Some Feminist Implications, (London: Taylor and Francis), 21.
マイノリティ(/マジョリティ)とは誰か?という命題らしきものを持つ私には、今連載はとても明快で爽快でした♪
貴戸さんとの共著『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』、はっちゃけ具合に激しく共感しました。
『不登校は終わらない』も、学術本としてはやや粗いかな…とも思いつつ、趣旨(核)には激しく同意です。
私は20年近く前に「登校拒否による身体症状」から高校中退(最終学歴)、数年前までフリースクールの印象は「貧乏家庭にはカンケーないやん。稼ぎ無いガキのくせに、学校イヤ、でもツルミたい?! クソ目出てー、若いって良いわねー(蔑笑)」だった未婚・未出産の34歳♀です。
4年前より某大阪編集局で仕事してます(笑…える?)。できれば常野さんと直にお知り合いになりたいです☆
ありがとうございます。本も読んでくださって嬉しいです。「はっちゃけ具合」というのもとても嬉しい賛辞です。大阪にお住まいですか? 僕は東京ですので、機会があったらいつかどこかでお会いしましょう!
フリースクールは確かに経済的な問題がありますね。僕が通っていたのは10数年前ですが、ほとんどの子どもは中産階級でした。
ところで「某大阪編集局」例のあの某NPO新聞のですか?
確かに例のあの某新聞です(^^;)
…と公言する(?)からには、やはり今現在のフリースクール(居場所)通所条件には、貧富より教育に対する親の価値観が影響していることが心底わかったと明言いたします。私が高校時代、通学不能に陥ったのも10数年前ですが、当時の感覚で言うと、今はフリースクールと学習塾(進学塾)の垣根がなくなってきた…というところでしょうか。
私の住所は京都になります。名前はハンドルネームだと思ってください、苗字が冗談の産物ですし。
新連載も期待しています。また、じっくり拝読させていただきます!
>今はフリースクールと学習塾(進学塾)の垣根がなくなってきた
これはありますよね。っていうか、さらに進んでて、学校と民間の教育機関の境界線が揺らいでるかんじ。。。これは一面では「自由」が広がっていく過程である一方で、なんだか得体の知れない生きがたさも生まれてきてるんじゃないかと思います。