2004-12-23
登校拒否解放の(不)可能性 後編
再び前編の最後の言葉を引きます。
登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。登校拒否は不自由だ。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ…。
しかしでは、病気などの社会的にマイナスとされている要素を含めて登校拒否を肯定するとは、いったいどういうことでしょうか? それはいかにして可能なのでしょうか?
この問題について、今回は3本の映画における「怪物(モンスター)」の描かれ方を例に考えてみたいと思います。なお、途中で『美女と野獣』と『シュレック』の重要なネタバレが出てきます。あらかじめご了承ください。
1. 『ロードオブザリング』−差別の対象としての「モンスター」
『ロードオブザリング』には、ホビット、人間、エルフ、ドワーフ、魔法使いなどのさまざまな種族が登場します。彼らは、時には悪事を働くことはあっても基本的には魅力的な人々として描かれます。一方で、オーク(ゴブリン?)という悪の「モンスター」も登場します。邪悪な魔法使いに操られる彼らは、あくまでも暴虐(ぼうぎゃく)な存在として描かれます。最終的にはホビットらの善の勢力によって彼らは大量虐殺されますが、誰もそのことに悲しみを表現しようとはしません。
『ロードオブザリング』は、オークの立場からすると、古典的な差別主義者の視点からの映画だと言えるでしょう。オークは徹底した否定の対象になっています。登校拒否の問題に置き換えて言えば、学校に行かないことを「ずる休み」「怠け」などと非難する立場に相当すると思います。ここには、学校に復帰する以外には救いはありません。しかし一方で、「ずる休み」と言われる側は、自分が攻撃されているのだということを間違うことなく認識することができます。
2. 『美女と野獣』−変身する「モンスター」
ディズニー映画の『美女と野獣』にも「モンスター」が登場します。主人公の美しい王子は、醜い魔法使いを邪険に扱います。「美しさは内側にあるものだ」という魔法使いの言葉に耳を貸さなかった彼は、魔法をかけられて醜い野獣の姿にさせられてしまいます。自分の醜さを恥じる彼は屋敷にひきこもります。ある日彼は、そこを訪れてきたヒロインの美女と出会います。彼女の愛情に接し、自分にも「内面の美しさ」があると気づかされた彼の魔法はとけ、元の美しい姿に戻ります。めでたしめでたし。
この映画は、不登校の問題では、奥地圭子さんらの「明るい登校拒否」派の立場に相当するのではないでしょうか。学校に行けなくなった子どもは、病気・ひきこもり・暴力といった症状を伴う「モンスター」となる。これは学校に行かないことが認められないことの心理的抑圧のためである。しかし学校に行かないことを受け入れ、愛情を持って接すれば元の元気な姿に戻り、立派な社会人となることもできる……。「明るい登校拒否」の物語は、このようなあらすじに沿って語られます。奥地さんいわく、
…登校に拒否反応を出している子に登校を促すことが、どれほどのマイナスか、子どもを犠牲にしてわかってきた。また登校を促す方が、より劣等感、罪悪感を深め、葛藤を強め、その後のアイデンティティの形成に否定的な色合いを濃くすることもわかってきた。そして、登校を促す方法でなく、不登校を受けとめる方向で、元気に育ち、自立していく子どもを多くみるようになった…。…私たちは(不登校を)治療問題とせず受けとめ、親の理解をすすめ、自己否定から自己肯定に自己認識を変え、充電し、居場所や学びの場をつくり成長へのサポートをしてきた。社会の誤解や偏見を変える活動、不登校の子どもの人権擁護・権利保障のための活動、孤立しないで交流を広げるネットワーク、情報提供の活動などもやってきた。その結果、不登校の中で閉じこもり解消の子ども、元気で成長していく子どもがたくさん育った。…東京シューレでは、すでに16年以上、学校へ行かない子ども、若者が通ってきたが、そのほとんどが、その後、社会に出ている。それは、登校拒否を治療する対象とせず、学校と距離をとることを肯定的にうけとめ、自分らしい生き方が大事である、という考えに立ち、不登校を罪悪感・劣等感にしなかったことが大きい。*1
前編でも述べたように、このような「明るい登校拒否」の物語にはウソがあります。しかし、そのことを差し引いても、このような物語で登校拒否を肯定することには問題があると思います。
この物語においては、一見、「モンスター」が肯定されているように見えます。『美女と野獣』の野獣が美女の愛情に接したように、この物語は、学校に行かないことをそのまま受け入れるように説きます。しかし、野獣が元の美しい王子の姿に戻ることがハッピーエンドなのだとしたら、一生を野獣として生きる野獣の立場は一体どうなるのでしょうか。この枠組みの中では、「モンスター」の姿は、あくまでも望ましくないものとされています。不登校を治療問題にしないと言いつつも、家庭内暴力や神経症、ひきこもりはあくまでも克服の対象となっています。奥地圭子さんと斉藤環さんは、愛情と医療という手段が違うだけで、ひきこもりを克服の対象と見る点は共通しているのです。
そうだとすれば、『美女と野獣』的な「モンスター」の受容、そして「明るい登校拒否」の物語における不登校の肯定は、実は、ねじれた形の「モンスター」差別であり、登校拒否差別であると言えるでしょう。
3. 『シュレック』―「モンスター」の肯定?
この映画の主人公は、シュッレクという名の醜いオーガ(怪物)です。彼は人々から恐れられています。あることから彼は獰猛(どうもう)なドラゴンのいる城からフィオナ姫(人間の姿)を救出します。お供の喋るロバと共に二人は旅をします。次第に二人の間には恋心が芽生えます。ところが、喋るロバはとんでもないことを発見してしまいます。夜になるとなぜか姿を隠すフィオナ姫は、日の光のないところではオーガになってしまうのです。
フィオナ姫:
私は物心ついたときからこんな風だったの。「夜は一つの姿。昼はもう一つの姿。真の恋人からのファーストキスを受け、愛の真の形になる時まで、この呪(まじな)いはとけない」。小さい頃、魔女にこんな魔法をかけられたの。毎晩、これ(オーガの姿)になってしまうのよ。この、恐ろしい、醜い、野獣に!
喋るロバ:
君は、そんなに醜くないよ。あ、いや、ウソは言わない。君は醜い。でも、君は夜の間だけこんなふうになるじゃないか。シュレックなんて24時間だぜ。
フィオナ姫:
でもロバさん、私はお姫さまなのよ。これはお姫さまのあるべき姿じゃないわ。
紆余曲折をへて、シュレックとフィオナ姫は結ばれます。そしてファーストキス。魔法がとけ、フィオナ姫は美しい姿になるはず。ところが、姫はオーガの姿になってしまいます。
シュレック:
フィオナ、大丈夫かい?
フィオナ姫:
ええ。でもおかしいわ。(ファーストキスを受けて)美しくなるはずなのに(オーガの姿になってしまった)。
シュレック:
いや、君は美しいよ!
シュレックのこの感動的な言葉と共に映画はハッピーエンドで終わります。
『美女と野獣』と並べてみると、『シュレック』のラディカルさが明らかだと思います。『美女と野獣』が、「モンスター」をあくまでも望ましくない存在として描いていたのに対し、『シュレック』は、「モンスター イズ ビューティフル」と主張します。
さて、もう一度前編の最後の言葉を繰り返します。
登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。登校拒否は不自由だ。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ…。
これは、登校拒否について望ましくないとされているものを含めて肯定すべきだ、ということです。「モンスター」の「真の姿」を目指すのではなく、「モンスター」のまま素晴らしいと言いたいのです。この言葉は、登校拒否の解放の言葉となりうるでしょうか。残念ながら、ことはそう単純ではないと思います。
それは、『シュレック』的な「モンスター」の肯定には、あるトリックがあるからです。オーガであるシュレックやフィオナ姫は、本来身の毛のよだつようなモンスターです。原作となった絵本のアマゾンでのレビューによれば、絵本は「シュレックの両親はとてもみにくいひとたちでしたが、息子のシュレックはもっとみにくいのでした」という書き出しで始まるそうです。「どんな醜さかというと、木も草も倒れてしまうほど」だといいます。
だとすれば、そのような醜い存在を肯定することは、並大抵のことではないはずです。それなのになぜ、『シュレック』という映画はこれほどまでにヒットして、多くの人に愛されているのでしょうか。
それは、映画の中のシュレックやフィオナ姫が、肯定できるように描かれているからです。映画では、本来は醜いはずのシュレックたちの姿は、コミカルにデフォルメされています。また、人間たちに恐れられているとはいえ、人間を殺戮(さつりく)するシーンは描かれていません。さらに、シュレックたちは人間の言葉を喋ります。『シュレック』は「モンスター」を「モンスター」のまま肯定する物語です。しかしそこには、「モンスターらしくないモンスター」が巧妙に用意されています。
ここに、「モンスター」を肯定することの困難があります。『美女と野獣』には「モンスター」差別が隠れていました。しかし『シュレック』的な「モンスター」の肯定も、実は欺瞞(ぎまん)に満ちたものなのです。
登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。登校拒否は不自由だ。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ…。
こう言葉で言うことは簡単です。しかし、肯定可能なものになった瞬間に、「病気」のしんどさが隠蔽(いんぺい)され、暴力の恐ろしさが見えなくなり、ひきこもりの絶望が語れなくなります。登校拒否を肯定可能なものとするために、登校拒否に伴うさまざまな望ましくないとされる要素がデフォルメされていくのです。
登校拒否の肯定は、(不)可能です。私たちは、「登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ」と言い続けるべきです。そう言った瞬間に、それがウソになることを知りながら。
*1:奥地圭子「『ほんとうですか? 不登校の子は、ひきこもりもする』に反論します。」『月刊 子ども論』2002年2月号
- なんだよ、もう!
- http://d.hatena.ne.jp/renz/20041228
- http://d.hatena.ne.jp/toled/20041228
- http://d.hatena.ne.jp/toled/20050110
- http://d.hatena.ne.jp/toled/20050304
- http://d.hatena.ne.jp/toled/20050414
- http://d.hatena.ne.jp/toled/20050825
- (元)登校拒否系 - 反自由党は「ビラ配布→逮捕→有罪」を歓迎する...
- (元)登校拒否系 - スターリニストより、ブクマ工作員に党派を越え...
- (元)登校拒否系 - ネグリ来日拒否への抗議に抗議する
- (元)登校拒否系 - 「登校拒否解放の(不)可能性」
- (元)登校拒否系 - へんたいのリレー
- (元)登校拒否系 - 飯島愛の先生
- (元)登校拒否系 - わたしはクイアです。異性愛を殲滅(せんめつ)...
でも学校にいってようが勤めてようが主婦だろうが「病気・ひきこもり」の人はいるこんな社会だから、登校・不登校は関係ない(線引き必要ない)って思うけど。
重要なのは自分らしく生きられる場所を自分で選べることであって。
で、ちょっと不登校のことはおいといて、シュレックを観たとき、「所詮醜いモンスターはモンスター同志がお似合いさ」という風に読み取ってしまった私は病んでますか?(笑)美しいお姫様がシュレックを好きになるのは非現実的?
ディズニー映画「ノートルダムの鐘」でせむし男とヒロインが結ばれたら天晴れ!なのになーとも思ってたし。
でもやっぱり結ばれなかった。
美女と野獣は「野獣=自分に自信をなくした心もしくは虚栄心に凝り固まった心」
「元の美しい姿=本当の自分に気づいた(自信と自分らしさを取り戻した)」てな解釈はどうでしょう?
ロード・・・いわく指輪物語は昔の時代背景(あと宗教観も?)がよくでてるよね。善と悪とがきっちりわかれて、
「血(家柄)」が重要で「男尊女卑」。でも「自分も男性のように手柄を立てたい姫」が活躍したり、どの種族よりも小っぽけなホビットが世界を救ったり・・・という古い価値観を覆す部分もあるのがトールキン(原作者)の不思議なところ。おっと話ずれてごめん。
「学校にいってようが勤めてようが主婦だろうが『病気・ひきこもり』の人はいる」。うーんたしかにそうだね。Mallkuも言ってたけど。でも、仮に100万歩譲って登校・不登校は関係ないとしても、「登校拒否は病気じゃない」と「あえて」言いたくなる理由はなんなんだろうか? そこにあるのはやっぱり内なる差別意識なのでは?
>シュレック
なるほど! そういう解釈があったか。同じ被差別を共有する者に生じる連帯感みたいなのはある気がする。
「登校拒否はひきこもりにつながるからよくない,あいつは怠けている」なんて言って登校拒否を否定してみたって,それで登校拒否が解消するわけじゃ無いし.逆に,肯定したら当事者は気持ちが楽になるのかもしれないけれど,やっぱり事態が解消しないという点では変わらないと思います.
ただ「登校拒否である(あった)」というのではダメですか?今日の給食は焼きそばだった,とか,生まれたのは北海道です,とか,そういうのと一緒で,いいも悪いもない,というのではダメなんでしょうか?というか,なぜそこにそんなにこだわるのかがよく分からないです.
それはおそらく、toledさんが或る尊厳を賭けて闘っているからだと、私は思います。
もしかしたら尊厳という言葉がtoledさんにとっては軽すぎる、その言葉自身、或る何かのための、単なる賭金にしかならないかもしれないですが(なので「或る尊厳」なんて表現はtoledさんにとって単に迷惑かもしれないけれど)。
なので(さらに)もしかしたら、こうやって言論に賭けるという行為遂行的なtoledさんの選択自身、「或る何か」のための方便=賭けに過ぎない可能性があるわけですが。
そしてさらに言えば、その「或る何か」は非常に肯定できるが、手段が=方便が=賭け方が=表現の仕方が悪すぎるという、いわば「ものわかりのいい」認識の仕方自身(の権力)が、まさにtoledさんが首尾一貫して闘っている相手(の一つ)だと言えるかもしれません。
そしておそらく、具体的な人間や事象を知り、その人間・事象について判断を下すためには、人は、いわばこの矛盾(或る何かとその現れ方の、或る限界における、区別の決定不可能性)をひきうけつつ、知り、また判断する必要があり、そうしない限り人は、決して責任をもって知り、判断することなどできないのではないか――つまり倫理の(不)可能性――、という主張が、toledさんから読者が学べるものの内の貴重な示唆の一つと言えるかもしれません。