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2004-12-28

登校拒否解放の(不)可能性 toyoさんの問いに応えて

| 22:48 | 登校拒否解放の(不)可能性 toyoさんの問いに応えて - (元)登校拒否系 を含むブックマーク はてなブックマーク - 登校拒否解放の(不)可能性 toyoさんの問いに応えて - (元)登校拒否系 登校拒否解放の(不)可能性 toyoさんの問いに応えて - (元)登校拒否系 のブックマークコメント

toyoさん(=ぼよさん)からトラックバックが送信されました。「登校拒否解放の(不)可能性」に対するコメントがつけられています。ぜひ↓をご覧ください。

http://volvox.seesaa.net/article/1384204.html

toyoさんいわく、

「登校拒否は『病気』ではない(『家庭内暴力』『非行』『怠け』『ひきこもり』とは本質的に無関係である)。故に、登校拒否は肯定的にとらえても良い。」(i)

んで、常野の実感としては、登校拒否は上記のネガティブな「症状」と密接不可分であると。うん。仮にそうだと認めるとしよう。だとすると普通に出てくる結論としては

「登校拒否は『病気』だ。故に、登校拒否は否定されるべきだ。」(ii)

なんじゃなかろうか?にも関わらず常野が出した結論が

「登校拒否は『病気』だ。故に『病気』を肯定すべきだ。」(iii)

になるのは何故なんだろう?

思うに、常野は(i)の結論部分を前提としているんじゃないだろうか。

「登校拒否は『病気』だ。故に(登校拒否を肯定するならば)『病気』を肯定すべきだ。」(iii')

でも(i)の結論部分は「登校拒否は『病気』じゃない」という前提部分で成り立っているんであって、その前提部分を認めないんであれば、そもそもなぜ登校拒否(そして密接不可分である『病気』の諸症状)は肯定され得るのかを示すべきなんじゃないの?

これは非常に重要なポイントだと思います。奥地圭子さんが「登校拒否は病気じゃない」と主張することで登校拒否を肯定しようとしていることを僕は批判しました。では、「登校拒否は病気じゃない」と言うべきではないのだとすれば、何を根拠にして登校拒否を肯定するのか?

僕の答えは、「根拠はない!」というものです。何がしかの根拠を出発点にして登校拒否の肯定という結論にいたるのではなく、登校拒否の肯定のほうを出発点にしたいのです。

根拠を求めると、「登校拒否でも問題ない」ということを示すことが必要になります。その必要性から、登校拒否の本質からひきこもり・暴力・病気などの望ましくないとされる要素を切り離した「明るい登校拒否」の物語というフィクションが生まれました。しかしこれでは、救済されるのは一部の「エリート」だけだということが今日では明らかです。

登校拒否の肯定を出発点にする。これは、病気としての、ひきこもりとしての、暴力としての、犯罪としての登校拒否を、ありのままにまず肯定するということです。その上で、その他の問題に対する立場を決めていくべきであると思います。

「なぜ学校に行かなくてもよいと言うのか」、この問いに答えてはいけません。必要なのは、理解してもらうことではなく、学校に行かせる勢力を打倒することです。

toyoさんはまた、以下のように問います。

それに

登校拒否の肯定は、(不)可能です。私たちは、「登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ」と言い続けるべきです。

と言う時の「私たち」ってのは誰なんだろう?登校拒否をしてる当の本人達、その親達、それらに関わる活動をしている人達、元登校拒否児だった僕達…?んで「私たち」はどのような御利益があるから、そのようなものとして登校拒否を肯定するのだろうか?

「私たち」とは、登校拒否の解放を願う人々です。女性に対するフェミニストを想定していただくといいかもしれません。

以上の長ーいたとえ話を踏まえた上で常野に質問。

・今の社会で不登校に「吐き気」をもよおさない事は不可能だろうか?学校に行くのも行かないのも「選択」の問題に引き下げる事は「明るい登校拒否児」が「ひきこもり」に対してもよおす「吐き気」の解消と関係あるのだろうか?

・「ひきこもり」というのは「解消されるべき問題」だろうか?それともそこから何かしらの価値を引き出し得る、社会の中で一種の生き方となっていくべきものだろうか?

これについては、後編の結論で答えていると思うのですがどうでしょう?

hanahana 2005/08/12 13:02 私は、今中一の登校拒否児だけど、学校なんて行かないほうが良い。特に、中学は、義務教育だし、縛られるから。学校を辞めて本当に良かったと思ってる。今は、したいことが出来るし色んな事を考えられる。今日だって、ソーイングをしているんだよ。学校に行って、性格がひねくれかけちゃってる私は、今から、ホントの自分探しの旅に出かけるトコです。
問題は、学校に行かないことじゃなくて、ひきこもる事だと思います。

toledtoled 2005/08/12 13:24 hanaさんはじめまして。「学校なんか行かない方が良い」と思えることは本当に大事ですよね。僕も学校に行けなくなった当初は「絶対に行かなきゃダメ」だと思ってたからつらかったけど、「行かなくてもいいや」と思うようになってからラクになりました。hanaさんが学校の外で充実した生活を送っていることは本当にステキだなと思います。
ただ、学校に行かないことはひきこもりにつながりやすいことも事実だと思います。そこで、「学校に行かなくたっていいじゃん」という思想を発展させて「ひきこもったっていいじゃん」と言えるだろうか、それともそれは難しいのだろうか、というのが僕の目下の課題です。

hanahana 2005/08/22 14:33 返事ありがとう。確かにそうかも知れないね。絶対大丈夫とはいえないよね。だから、私はなるべく色んなものに触れるように心がけてます。やっぱり学校に行ってないと、周りの目が気になってしまって、自分の声がだんだん小さくなって行くのが分かります。ダイジョウブとは言えないけれど、ダイジョウブと言えるようにがんばります!−追伸ーHP作りました。まだ誰も見てないけど・・・URLhttp://www,hpmix,com/home/tanakaharuna/

toledtoled 2005/08/23 01:53 HP見させていただきました。BBS1ゲット!

hana*hana* 2005/08/27 10:27 HP見てくれてありがとう。また来てね。今、HP17人見てくれてるんだよ!!!!!所で、不登校選んだわけじゃないんだぜを書いたのってツネノさんだったんですね。この間本屋で母が見ていました。あなたが書いていたとは気付かなかった・・・。また今度じっくり立ち読み(!?)させてもらいますね!(うそです。買ってみようかな・・・。私のお小遣いの残りいくらだっけ??)ではSee you!!

hana*hana* 2005/08/28 13:44 何度もカキこんじゃってすみません。昨日、“不登校選んだわけじゃないんだぜ”を買わせて貰いました。面白そうだったので最初は買うつもり無かったんだけどつい・・・。今、ハッピーエンドはもういい!を読んでいます。早いでしょう(笑)色々考えさせられる本ですね。早く読んで、また二度目が読みたいです。それでは・・・

toledtoled 2005/08/29 00:16 hana*さんこんにちは。本を買ってくださってありがとうございます。あの本は、不登校についての「ファイナルアンサー」ではなくて、皆に考えてもらうきっかけになればいいな、と思っています。hana*さんからすると「ここはおかしい」と感じられることがあることがあるかもしれません。そういうところがあったらHPにでも、このコメント欄にでも書いていただけるとうれしいです。

hana*hana* 2005/09/02 13:19 2〜3回読みました。う〜ん、答えなんて出てこない・・・。ツネノさんは登校拒否は病気だと言っているけど、私はそうは思わない。ただ、ツネノさんの肯定の仕方はスゴイ素敵だと思います。自分が登校拒否を経験しているのに、病気だと言える事、そして、登校拒否を肯定するのではなくて、病気を肯定するなんて・・・!!!同じ登校拒否でも、それぞれ考えは違うだろうし、私も貴戸さんとも、ツネノさんとも考え方は違う登校拒否って面白い!!??と思ってしまいました。書く事がまとまんなくなってきた・・・。まとまった時にでも、カキコミさせて下さいね>0</

toledtoled 2005/09/03 12:58 本を読んでくださってありがとうございます。僕のカゲキな登校拒否論を面白く思ってくれてうれしいです。賛成してくれなくても、「あ、こういう考えもあるんだ」と思ってもらえれば書いたかいがあります。

hana*hana* 2005/09/14 12:34 久しぶりです。トートツですが、いま私のHPにリンクを作っています。そこで、このHP(ブログ)も載せたいのですが良いでしょうか?良・否は私のHPにでも書き込んでください。よろしくお願いします。
P,S本6回目に突入しました。読む度に違う印象を受けます。色んな考えがあるんですね!!

2004-12-23

登校拒否解放の(不)可能性 後編

| 13:59 | 登校拒否解放の(不)可能性 後編 - (元)登校拒否系 を含むブックマーク はてなブックマーク - 登校拒否解放の(不)可能性 後編 - (元)登校拒否系 登校拒否解放の(不)可能性 後編 - (元)登校拒否系 のブックマークコメント

再び前編の最後の言葉を引きます。

登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。登校拒否は不自由だ。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ…。

しかしでは、病気などの社会的にマイナスとされている要素を含めて登校拒否を肯定するとは、いったいどういうことでしょうか? それはいかにして可能なのでしょうか?

この問題について、今回は3本の映画における「怪物(モンスター)」の描かれ方を例に考えてみたいと思います。なお、途中で『美女と野獣』と『シュレック』の重要なネタバレが出てきます。あらかじめご了承ください。


1. 『ロードオブザリング』−差別の対象としての「モンスター」

『ロードオブザリング』には、ホビット、人間、エルフ、ドワーフ、魔法使いなどのさまざまな種族が登場します。彼らは、時には悪事を働くことはあっても基本的には魅力的な人々として描かれます。一方で、オーク(ゴブリン?)という悪の「モンスター」も登場します。邪悪な魔法使いに操られる彼らは、あくまでも暴虐(ぼうぎゃく)な存在として描かれます。最終的にはホビットらの善の勢力によって彼らは大量虐殺されますが、誰もそのことに悲しみを表現しようとはしません。

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『ロードオブザリング』は、オークの立場からすると、古典的な差別主義者の視点からの映画だと言えるでしょう。オークは徹底した否定の対象になっています。登校拒否の問題に置き換えて言えば、学校に行かないことを「ずる休み」「怠け」などと非難する立場に相当すると思います。ここには、学校に復帰する以外には救いはありません。しかし一方で、「ずる休み」と言われる側は、自分が攻撃されているのだということを間違うことなく認識することができます。


2. 『美女と野獣』−変身する「モンスター」

ディズニー映画の『美女と野獣』にも「モンスター」が登場します。主人公の美しい王子は、醜い魔法使いを邪険に扱います。「美しさは内側にあるものだ」という魔法使いの言葉に耳を貸さなかった彼は、魔法をかけられて醜い野獣の姿にさせられてしまいます。自分の醜さを恥じる彼は屋敷にひきこもります。ある日彼は、そこを訪れてきたヒロインの美女と出会います。彼女の愛情に接し、自分にも「内面の美しさ」があると気づかされた彼の魔法はとけ、元の美しい姿に戻ります。めでたしめでたし。

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この映画は、不登校の問題では、奥地圭子さんらの「明るい登校拒否」派の立場に相当するのではないでしょうか。学校に行けなくなった子どもは、病気・ひきこもり・暴力といった症状を伴う「モンスター」となる。これは学校に行かないことが認められないことの心理的抑圧のためである。しかし学校に行かないことを受け入れ、愛情を持って接すれば元の元気な姿に戻り、立派な社会人となることもできる……。「明るい登校拒否」の物語は、このようなあらすじに沿って語られます。奥地さんいわく、

…登校に拒否反応を出している子に登校を促すことが、どれほどのマイナスか、子どもを犠牲にしてわかってきた。また登校を促す方が、より劣等感、罪悪感を深め、葛藤を強め、その後のアイデンティティの形成に否定的な色合いを濃くすることもわかってきた。そして、登校を促す方法でなく、不登校を受けとめる方向で、元気に育ち、自立していく子どもを多くみるようになった…。…私たちは(不登校を)治療問題とせず受けとめ、親の理解をすすめ、自己否定から自己肯定に自己認識を変え、充電し、居場所や学びの場をつくり成長へのサポートをしてきた。社会の誤解や偏見を変える活動、不登校の子どもの人権擁護・権利保障のための活動、孤立しないで交流を広げるネットワーク、情報提供の活動などもやってきた。その結果、不登校の中で閉じこもり解消の子ども、元気で成長していく子どもがたくさん育った。…東京シューレでは、すでに16年以上、学校へ行かない子ども、若者が通ってきたが、そのほとんどが、その後、社会に出ている。それは、登校拒否を治療する対象とせず、学校と距離をとることを肯定的にうけとめ、自分らしい生き方が大事である、という考えに立ち、不登校を罪悪感・劣等感にしなかったことが大きい。*1

前編でも述べたように、このような「明るい登校拒否」の物語にはウソがあります。しかし、そのことを差し引いても、このような物語で登校拒否を肯定することには問題があると思います。

この物語においては、一見、「モンスター」が肯定されているように見えます。『美女と野獣』の野獣が美女の愛情に接したように、この物語は、学校に行かないことをそのまま受け入れるように説きます。しかし、野獣が元の美しい王子の姿に戻ることがハッピーエンドなのだとしたら、一生を野獣として生きる野獣の立場は一体どうなるのでしょうか。この枠組みの中では、「モンスター」の姿は、あくまでも望ましくないものとされています。不登校を治療問題にしないと言いつつも、家庭内暴力や神経症、ひきこもりはあくまでも克服の対象となっています。奥地圭子さんと斉藤環さんは、愛情と医療という手段が違うだけで、ひきこもりを克服の対象と見る点は共通しているのです。

そうだとすれば、『美女と野獣』的な「モンスター」の受容、そして「明るい登校拒否」の物語における不登校の肯定は、実は、ねじれた形の「モンスター」差別であり、登校拒否差別であると言えるでしょう。


3. 『シュレック』―「モンスター」の肯定?

この映画の主人公は、シュッレクという名の醜いオーガ(怪物)です。彼は人々から恐れられています。あることから彼は獰猛(どうもう)なドラゴンのいる城からフィオナ姫(人間の姿)を救出します。お供の喋るロバと共に二人は旅をします。次第に二人の間には恋心が芽生えます。ところが、喋るロバはとんでもないことを発見してしまいます。夜になるとなぜか姿を隠すフィオナ姫は、日の光のないところではオーガになってしまうのです。

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フィオナ姫:

私は物心ついたときからこんな風だったの。「夜は一つの姿。昼はもう一つの姿。真の恋人からのファーストキスを受け、愛の真の形になる時まで、この呪(まじな)いはとけない」。小さい頃、魔女にこんな魔法をかけられたの。毎晩、これ(オーガの姿)になってしまうのよ。この、恐ろしい、醜い、野獣に!

喋るロバ:

君は、そんなに醜くないよ。あ、いや、ウソは言わない。君は醜い。でも、君は夜の間だけこんなふうになるじゃないか。シュレックなんて24時間だぜ。

フィオナ姫:

でもロバさん、私はお姫さまなのよ。これはお姫さまのあるべき姿じゃないわ。

紆余曲折をへて、シュレックとフィオナ姫は結ばれます。そしてファーストキス。魔法がとけ、フィオナ姫は美しい姿になるはず。ところが、姫はオーガの姿になってしまいます。

シュレック:

フィオナ、大丈夫かい?

フィオナ姫:

ええ。でもおかしいわ。(ファーストキスを受けて)美しくなるはずなのに(オーガの姿になってしまった)。

シュレック:

いや、君は美しいよ!

シュレックのこの感動的な言葉と共に映画はハッピーエンドで終わります。

『美女と野獣』と並べてみると、『シュレック』のラディカルさが明らかだと思います。『美女と野獣』が、「モンスター」をあくまでも望ましくない存在として描いていたのに対し、『シュレック』は、「モンスター イズ ビューティフル」と主張します。

さて、もう一度前編の最後の言葉を繰り返します。

登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。登校拒否は不自由だ。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ…。

これは、登校拒否について望ましくないとされているものを含めて肯定すべきだ、ということです。「モンスター」の「真の姿」を目指すのではなく、「モンスター」のまま素晴らしいと言いたいのです。この言葉は、登校拒否の解放の言葉となりうるでしょうか。残念ながら、ことはそう単純ではないと思います。

それは、『シュレック』的な「モンスター」の肯定には、あるトリックがあるからです。オーガであるシュレックやフィオナ姫は、本来身の毛のよだつようなモンスターです。原作となった絵本のアマゾンでのレビューによれば、絵本は「シュレックの両親はとてもみにくいひとたちでしたが、息子のシュレックはもっとみにくいのでした」という書き出しで始まるそうです。「どんな醜さかというと、木も草も倒れてしまうほど」だといいます。

みにくいシュレック

みにくいシュレック

だとすれば、そのような醜い存在を肯定することは、並大抵のことではないはずです。それなのになぜ、『シュレック』という映画はこれほどまでにヒットして、多くの人に愛されているのでしょうか。

それは、映画の中のシュレックやフィオナ姫が、肯定できるように描かれているからです。映画では、本来は醜いはずのシュレックたちの姿は、コミカルにデフォルメされています。また、人間たちに恐れられているとはいえ、人間を殺戮(さつりく)するシーンは描かれていません。さらに、シュレックたちは人間の言葉を喋ります。『シュレック』は「モンスター」を「モンスター」のまま肯定する物語です。しかしそこには、「モンスターらしくないモンスター」が巧妙に用意されています。

ここに、「モンスター」を肯定することの困難があります。『美女と野獣』には「モンスター」差別が隠れていました。しかし『シュレック』的な「モンスター」の肯定も、実は欺瞞(ぎまん)に満ちたものなのです。

登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。登校拒否は不自由だ。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ…。

こう言葉で言うことは簡単です。しかし、肯定可能なものになった瞬間に、「病気」のしんどさが隠蔽(いんぺい)され、暴力の恐ろしさが見えなくなり、ひきこもりの絶望が語れなくなります。登校拒否を肯定可能なものとするために、登校拒否に伴うさまざまな望ましくないとされる要素がデフォルメされていくのです。

登校拒否の肯定は、(不)可能です。私たちは、「登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ」と言い続けるべきです。そう言った瞬間に、それがウソになることを知りながら。

*1:奥地圭子「『ほんとうですか? 不登校の子は、ひきこもりもする』に反論します。」『月刊 子ども論』2002年2月号

ふやふやふやふや 2004/12/24 02:51 後編まで読んでようやく君のいいたいことがわかったような。「病気などの社会的にマイナスとされている要素を含めて登校拒否を肯定する。」なるほど。
でも学校にいってようが勤めてようが主婦だろうが「病気・ひきこもり」の人はいるこんな社会だから、登校・不登校は関係ない(線引き必要ない)って思うけど。
重要なのは自分らしく生きられる場所を自分で選べることであって。

で、ちょっと不登校のことはおいといて、シュレックを観たとき、「所詮醜いモンスターはモンスター同志がお似合いさ」という風に読み取ってしまった私は病んでますか?(笑)美しいお姫様がシュレックを好きになるのは非現実的?
ディズニー映画「ノートルダムの鐘」でせむし男とヒロインが結ばれたら天晴れ!なのになーとも思ってたし。
でもやっぱり結ばれなかった。

美女と野獣は「野獣=自分に自信をなくした心もしくは虚栄心に凝り固まった心」
「元の美しい姿=本当の自分に気づいた(自信と自分らしさを取り戻した)」てな解釈はどうでしょう?

ロード・・・いわく指輪物語は昔の時代背景(あと宗教観も?)がよくでてるよね。善と悪とがきっちりわかれて、
「血(家柄)」が重要で「男尊女卑」。でも「自分も男性のように手柄を立てたい姫」が活躍したり、どの種族よりも小っぽけなホビットが世界を救ったり・・・という古い価値観を覆す部分もあるのがトールキン(原作者)の不思議なところ。おっと話ずれてごめん。

toledtoled 2004/12/24 06:28 コメントありがとう! 最近はこのはてなダイアリーが最大の生きがいなのでコメントしてくれるとすごくうれしいです!
「学校にいってようが勤めてようが主婦だろうが『病気・ひきこもり』の人はいる」。うーんたしかにそうだね。Mallkuも言ってたけど。でも、仮に100万歩譲って登校・不登校は関係ないとしても、「登校拒否は病気じゃない」と「あえて」言いたくなる理由はなんなんだろうか? そこにあるのはやっぱり内なる差別意識なのでは?
>シュレック
なるほど! そういう解釈があったか。同じ被差別を共有する者に生じる連帯感みたいなのはある気がする。

toledtoled 2004/12/24 13:42 ロードオブザリングは善の勢力の側に白人っぽい人しか出てこないのも気になるとこですね。

njamotanjamota 2008/11/11 23:29 登校拒否の人の多くは「行ければ良いのに」と思っているのではないですか(登校することに価値を認めず実際に登校もしない人のことは考えないことにして).行ければ良いのに行かれない.登校拒否というか登校障害?こういう状態は肯定するもしないもないと思います.病気,暴力,ひきこもりも,自分の意志で簡単に解決できるものではないという意味で,おなじく肯定する必要は無いと思います.肯定したってしなくたって,そういうものは確かに存在するのですから.
「登校拒否はひきこもりにつながるからよくない,あいつは怠けている」なんて言って登校拒否を否定してみたって,それで登校拒否が解消するわけじゃ無いし.逆に,肯定したら当事者は気持ちが楽になるのかもしれないけれど,やっぱり事態が解消しないという点では変わらないと思います.
ただ「登校拒否である(あった)」というのではダメですか?今日の給食は焼きそばだった,とか,生まれたのは北海道です,とか,そういうのと一緒で,いいも悪いもない,というのではダメなんでしょうか?というか,なぜそこにそんなにこだわるのかがよく分からないです.

L 2009/01/28 02:50 >というか,なぜそこにそんなにこだわるのかがよく分からないです.

それはおそらく、toledさんが或る尊厳を賭けて闘っているからだと、私は思います。
もしかしたら尊厳という言葉がtoledさんにとっては軽すぎる、その言葉自身、或る何かのための、単なる賭金にしかならないかもしれないですが(なので「或る尊厳」なんて表現はtoledさんにとって単に迷惑かもしれないけれど)。
なので(さらに)もしかしたら、こうやって言論に賭けるという行為遂行的なtoledさんの選択自身、「或る何か」のための方便=賭けに過ぎない可能性があるわけですが。
そしてさらに言えば、その「或る何か」は非常に肯定できるが、手段が=方便が=賭け方が=表現の仕方が悪すぎるという、いわば「ものわかりのいい」認識の仕方自身(の権力)が、まさにtoledさんが首尾一貫して闘っている相手(の一つ)だと言えるかもしれません。
そしておそらく、具体的な人間や事象を知り、その人間・事象について判断を下すためには、人は、いわばこの矛盾(或る何かとその現れ方の、或る限界における、区別の決定不可能性)をひきうけつつ、知り、また判断する必要があり、そうしない限り人は、決して責任をもって知り、判断することなどできないのではないか――つまり倫理の(不)可能性――、という主張が、toledさんから読者が学べるものの内の貴重な示唆の一つと言えるかもしれません。

2004-12-19

登校拒否解放の(不)可能性 中編

| 10:27 | 登校拒否解放の(不)可能性 中編 - (元)登校拒否系 を含むブックマーク はてなブックマーク - 登校拒否解放の(不)可能性 中編 - (元)登校拒否系 登校拒否解放の(不)可能性 中編 - (元)登校拒否系 のブックマークコメント

前編の最後を僕はこう結びました。

登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。登校拒否は不自由だ。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ…。

これに対して、toyoさんはこう書きました

なぜこんな事をくどくど言うのかというと、僕は「登校拒否児」が差別される理由と「引きこもり」が差別される理由、また「登校拒否は病気じゃない」と言う事の意味が、ゲイの例ではなく僕のたとえ話の方の関係にあるんじゃないかと考えるからです。言い換えると「引きこもり」は「登校拒否児」のサブグループではなく、それ自身(重なり合う所は有るにせよ)別個の問題ではなかろうかと。

 「登校拒否は社会に対する不適応だ」と言われるのに対して「登校拒否は高々学校に対する不適応だ。その事を責め立てると、またその事で就職などで差別をするのなら、本当に社会に適応できなくなってしまう」と言うのはAの人が「我々はヤクザではない」と言うのと同じ事でない?

ここがまさに問題の急所であると思います。toyoさんは、オカマなどの「変態」がゲイのサブグループであるのに対して*1、ひきこもりは登校拒否児とは別個の独立したカテゴリーであると言います。そうだとすればたしかに、「登校拒否=ひきこもり=病気」などの連想ゲームに当事者や支援者が反発したとしても、それは無理からぬことかもしれません。

しかし僕は、そこを出発点にするのではなく、では、私たちがそのように感じるとすれば、それはなぜなのか、ということを問題にしたいのです。登校拒否とひきこもりは別問題と感じるとすれば、それはなぜ、いつからそうなったのか?

両者の間にある境界線が決して自然なものではなく、むしろ人工的なものであるということは、歴史を振り返ってみると明らかです。80年代に奥地圭子さんが登場するまで、登校拒否・不登校は、ありとあらゆるネガティブなイメージの貯蔵庫のようなものでした。「病気」、「家庭内暴力」、「非行」、「怠け」、20代・30代にも尾を引く「ひきこもり」*2といった、時には相矛盾するようなイメージが、混沌と同居していました。

そうした中で登校拒否児になってしまうことは、とてもつらいことでした。そして、そんな我々がリベラル路線においてやってきたのが、ネガティブなものたちを、登校拒否の「本質」から一つ一つ引き剥がしていくことでした。たしかに多くの登校拒否児が病的であったり暴力的であったり怠けているように見えるのは事実かもしれないが、それは差別や偏見によって追いつめられた結果であって、登校拒否自体に固有の性質ではない。追いつめるのをやめて、存在を受け入れてあげれば、自然とそういった「症状」はおさまっていくはずだ……。

このようにして、我々「明るい登校拒否児」たちは、混沌としていた領域に、新たな境界線を引いていきました。プレ奥地圭子時代には学校に行く普通の人と登校拒否児との間の境界線しかなくて、後者にはこの社会で望ましくないとされているもの全てが乱暴に一緒くたにされていたわけですが、その排除された領域に、さらなる境界線が引かれていったのです。

こうすることによってはじめて、「登校拒否」と「病気」や「ひきこもり」を、それぞれ独立した別個のものとして意識することが可能になりました。現在では当たり前のように感じられる分類かもしれませんが、実はこれは、奥地さんや僕ら「明るい登校拒否児」の政治的な努力の成果なのです。ありとあらゆるネガティブなものがすし詰めにされていた登校拒否というバスの中から、私たちがひきこもりや病気や暴力を追い出していきました。

ひきこもりも病気も暴力も、かつて確実に私たち登校拒否児自身の身体の一部でした。それは登校拒否になった私たちが独立した問題であるひきこもりなどを「たまたま」併発した、ということでは決してなかったと思います。そういうふうに感じられるとしてもそれは今から振り返って見るからであって、プレ奥地時代に学校に行けなくなった当初の私たちには、「登校拒否児」という恐ろしい怪物(モンスター)になってしまった、という恐怖と不安しかなかったはずです。

今になって、斉藤環さんらのプロパガンダもあり、一度は追い出した問題が戻ってきました。登校拒否出身者の相当数が現在もひきこもっていたり犯罪を犯していたり経済的な問題に直面したりしています。もはや「明るい登校拒否」のフィクションは通用しません。

また、「明るい登校拒否」は、社会からの一定の認知を勝ち取ったわけですが、はたしてそれは、当の「明るい(元)登校拒否児」自身にとって、本当に歓迎すべきことだったのでしょうか。今の社会で望ましくないとされているものを自分から削ぎ落として認めてもらったとしても、それは喜ぶべきことなのでしょうか。

たとえば、「色白ですね」と言われて黒人は嬉しいでしょうか? 大宮には新幹線も停まる。埼玉でも、意外と都会ですね。文字を覚えるサル。かしこい! 英語の発音がきれいなインド人。日本人離れしたスタイル。高い能力をもつ障害者。元気な病人。安全な統合失調症患者。心の美しいブス。。。

*1:「オカマ表現問題」参照。http://www.pot.co.jp/okmhg/

*2:当時は「ひきこもり」という言葉ではなかったかもしれませんが。

2004-12-11

登校拒否解放の(不)可能性 toyoさんのコメント

| 登校拒否解放の(不)可能性 toyoさんのコメント - (元)登校拒否系 を含むブックマーク はてなブックマーク - 登校拒否解放の(不)可能性 toyoさんのコメント - (元)登校拒否系 登校拒否解放の(不)可能性 toyoさんのコメント - (元)登校拒否系 のブックマークコメント

登校拒否解放の(不)可能性 前編は、約2年前にある人への私信として書いたものです*1。その後、あるメーリングリストに同じ文章を投稿しました。その際に、toyoさんから以下のようなコメントをもらいました。ご本人の了承を得てここに掲載します。

「革命家でも、駄目連でもない人の行う異議申立ては『登校拒否は病気じゃない』で問題無いんじゃないの?」

話を見えやすくするために(余計見えにくくなるかも知れないが)、たとえ話をしよう。

あるマイノリティー:Aは社会的に差別されていて、就職もままならない。結果的にそのマイノリティー:Aの少なからぬ構成員の就職先が「ヤクザ」になる。そして、社会は言う「Aはヤクザの集団だ」

Aの構成員達は言う。「お前達が、我々をヤクザにしているのだ、我々を"不当に"差別するのをやめろ」(i)

革命家は言う「ヤクザを生み出す社会が悪いのだ、革命だ」(ii)

実話時代(注)は言う「ヤクザ結構。ヤクザとして生きて行く事は価値のある事である」(iii)

(注)実話時代--ヤクザの日経とも言うべき月刊誌。普通にコンビニで売っている。読者層がヤクザさんなのか、ヤクザマニアなのかは分からない。

非常に大雑把に3つの立場を仮定した。この3つの立場をこれまた大雑把に言い直すと(i)はAに対する差別の否定、ヤクザに対する"差別"については肯定。(ii)はAに対する差別は、その他諸々の差別の要因と同様に否定され、しかし、ヤクザに対する"差別"は肯定されている(何故ならヤクザは「解消されるべき問題」だから)。これらに対して(iii)はヤクザに対する"差別"(価値判断)を相対化させる。「ヤクザはヤクザで素晴らしい」と。まあ、もっと細かく見れば(ii)と(iii)の間にヤクザ革命--民兵によるクーデターとか、考えられるけど話が面白く…もとい大きくなりすぎるので省略。

この話において"普通に"生きたいAの人々にとっての障害は、Aに対する"不当な"差別と、*その結果*生み出された「Aはヤクザの集団だ」という偏見だ。だからAは言う「我々を"不当に"差別するな」また「Aという属性とヤクザという属性は無関係だ」と。

Aは以上の目的を達する上で有利になるなら、革命家が問題とするその他諸々の集団と手を組むかもしれないし、そもそもAを差別する事でしかその社会が回っていかないのであれば革命家と手を組むだろう。しかし、もしAに対する差別を革命なしでなくす事ができるなら、Aの"普通に"生きたい人々は革命なんか望まない。

ところで実話時代は言う「ヤクザはヤクザで素晴らしい」。しかし現実にヤクザであるという事はアウトローであるという事で、素晴らしいとは言え、一般社会とはお互いに相容れないもの(または補い合うもの)として、個別に価値を認めなければならない。ヤクザになりたい(ならざるを得ない)人々にとって、自分達に独自の価値が与えられるのは喜ばしい事だろうが、"普通"に生きたいAの人々にとっては、これは助けにならない。

また、もしAに対する"不当な"差別がなくなったとしても、Aからヤクザに就職する人がいなくなるとは言えない。Aが差別されていた、という要因以外にもヤクザになる要因はあって、その要因をAの個別の構成員が持っていないとは限らないからだ。

以上の長ーいたとえ話を踏まえた上で常野に質問。

・今の社会で不登校に「吐き気」をもよおさない事は不可能だろうか?学校に行くのも行かないのも「選択」の問題に引き下げる事は「明るい登校拒否児」が「ひきこもり」に対してもよおす「吐き気」の解消と関係あるのだろうか?

・「ひきこもり」というのは「解消されるべき問題」だろうか?それともそこから何かしらの価値を引き出し得る、社会の中で一種の生き方となっていくべきものだろうか?

んでは。

その後、補足としてさらに以下のようなコメントをいただきました。

>Aの構成員達は言う。「お前達が、我々をヤクザにしているのだ、我々

>を"不当に"差別するのをやめろ」(i)

> 革命家は言う「ヤクザを生み出す社会が悪いのだ、革命だ」(ii)

> 実話時代(注)は言う「ヤクザ結構。ヤクザとして生きて行く事は価値

>のある事である」(iii)

この(i)(ii)(iii)はそれぞれ(仮想)奥地さん、革命家、駄目連に対応しております。ここでAという集団と、ヤクザという集団はそれぞれ、差別される理由は違っていたと仮定しています。Aが差別される理由の例:「なんとなく」「昔からそうだから」「穢れている」。これに対してヤクザが差別、というか、取り締まられる理由はヤクザというあり方が反社会的である(法律を破る事を前提としている)からです。法律を守る侠客というのもいるのかもしれませんが、とりあえずここでは考察外。

んで、Aが就職に際して差別されて、その結果Aの少なくない構成員がヤクザになってしまう状態が続くと*その結果*Aを差別する理由にもう一つ「Aはヤクザ者の集まりだ」という理由が付け加わるわけです。

ここでAの構成員がヤクザを"差別"するのは、ゲイの人がゲイの中のさらなる小集団を指して「自分達はあれらよりはマシだ」と言うのとは性質が違います。極論すればこれは単に相手の「好き嫌い」の基準を動かしてくれと言うだけの事です。これに対してAが「我々はヤクザではない」と言うのは「我々は(Aと言う性質は)反社会的な存在ではない」と言う事です。

なぜこんな事をくどくど言うのかというと、僕は「登校拒否児」が差別される理由と「引きこもり」が差別される理由、また「登校拒否は病気じゃない」と言う事の意味が、ゲイの例ではなく僕のたとえ話の方の関係にあるんじゃないかと考えるからです。言い換えると「引きこもり」は「登校拒否児」のサブグループではなく、それ自身(重なり合う所は有るにせよ)別個の問題ではなかろうかと。

「登校拒否は社会に対する不適応だ」と言われるのに対して「登校拒否は高々学校に対する不適応だ。その事を責め立てると、またその事で就職などで差別をするのなら、本当に社会に適応できなくなってしまう」と言うのはAの人が「我々はヤクザではない」と言うのと同じ事でない?

また「学校に対してとっても良く適応した人」が「引きこもり」になる可能性だってあります。「使えない東大生(一流大卒、大卒)」といったフレーズを聞いたことは無いでしょうか。これは一方で学歴という価値がまだまだ力を持っている証拠とも言えますが、他方、高学歴者も職場によっては排斥される可能性、それが続けば「引きこもり」になる可能性が有るとも言えます。学校によく適応できたからといって、社会に適応できるとは限らないのです。そんな事はここ数十年無いでしょうが「登校拒否は病気じゃない」という事が徹底的に信じられれば、逆に「高学歴者の引きこもり」が増えるという事も考えられます。

とはいえ、学校に対する息苦しさと、会社(その他の職場、社会)に対する息苦しさが別々の理由ではない人だっているだろうし、それは常野が問題とする学校社会に由来するものかもしれない。そこの事についての疑問が最後の質問2点です。

*1:一部加筆しています

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2004-12-04

登校拒否解放の(不)可能性 前編

| 12:02 | 登校拒否解放の(不)可能性 前編 - (元)登校拒否系 を含むブックマーク はてなブックマーク - 登校拒否解放の(不)可能性 前編 - (元)登校拒否系 登校拒否解放の(不)可能性 前編 - (元)登校拒否系 のブックマークコメント

近年、登校拒否解放運動*1は「バックラッシュ」(反動)に見舞われています。90年代は彼らの主張が一部マスコミに取り上げられ、「理解」が広がっていく時期であったとすれば、現在は不登校の「行き過ぎた肯定」が反省されつつある時期だと言えるでしょう。

そのような時代の転換を象徴するような論争が2001年から2002年にかけて『月刊子ども論』で行なわれました。論争の発端は、斎藤環さん、山下英三郎さん、藤井誠二さんによる、「本当ですか!?『不登校の子は、ひきこもりもする』」と題する座談会です*2。この座談会のなかで、斎藤環さんは、東京シューレや一部の精神科医について、「イデオロギー的に『不登校』を持ち上げていきすぎた」と批判しています。斉藤さんは、「『不登校はすばらしい』とか、『不登校にならない感性の鈍い子たち』というような言い方はいきすぎがあったのではないか」と指摘します。そのような考えのために、本来は必要な不登校の子どもへの治療的介入が遅れがちになってしまうと彼は言います。

これにたいして、東京シューレ主宰者の奥地圭子さんは同誌上で猛反発しました*3。奥地さんはまず、「持ち上げている」という批判に対して、未だに不登校は否定的に見られていると反論します。また奥地さんは学校に行っている子を「感性の鈍い子どもたち」と呼んだことはないと言います*4。奥地さんいわく、

学校へ行く、とか行かないとかの形が大事ではなく、登校、不登校でいい、悪いを評価するのはおかしい、という立場に私たちはたっている。私は、学校へ行っている子もいない子も、生命の重みは一緒であり、どっちが価値が重い、軽いはないと考えてきた。不登校を克服したり、治したりする対象と考えるのではなく、その子の在り様を、その子の成長の姿として社会が認め、自分にあった成長が、安心してできる状況がつくりだされることは私は望んでいるのだ。


1.マジョリティーの側は、なぜ登校拒否の肯定に反発するのか?

奥地さんは、不登校を肯定することは学校否定ではないことを繰り返し強調しています。また、学校に行かない子の価値を認めたからといって学校に行く子が劣っているということにはならないと主張します。つまり、現在の不登校差別を逆転させて、学校に行くことを貶(おとし)めることによって不登校を肯定するのではなく、どちらも価値あるものとして認められるべきだというわけです。

このような奥地さんからすれば、自らの主張が学校否定と受け取られたり、過剰に不登校を持ち上げているかのように思われるのは心外なことでしょう。自分は不登校への差別に反対しているだけなのに、なぜこのような「誤解」をされてしまうのか、理解しがたいことかもしれません。しかしこれは、本当に「誤解」なのでしょうか? 学校に行かないことの肯定は、学校に行く人にとって本当に脅威ではないのでしょうか? 学校に行くことと行かないことを同時に肯定することは本当に可能なのでしょうか?

奥地さんの枠組みで特徴的なのは、学校に行く人と行かない人のアイデンティティーが、それぞれ独立したものとして捉えられていることです。だからこそ、これまで差別されてきた登校拒否児を肯定しても、学校に行く人を否定しているわけではないことになるわけです。しかし僕は、そのような前提はおかしいと思います。むしろ両者は、お互いに規定し合うような、強いつながりをもっているのではないかという気がするのです。それは、マジョリティのアイデンティティーがマイノリティーを前提としていると思うからです。

現在の社会では、学校に行くか行かないかということは、決して選択の問題ではありません。むしろ学校は、全ての人に有無を言わさず強制されるものです。しかし一方で、学校は自然なものではなくて歴史的な制度ですから、学校に行かないことは、本来だれにでもできるはずのことです。学校は全ての人に押し付けられる一方で、同時に全ての人が学校に行かない潜在能力を持っている。だとすれば、この社会でマトモであるためには、つまり学校に行き続けるためには、「学校に行かない(ことができる)自分」を日々捨て去らなければならないと言うことができるでしょう。そしてそうすることによって初めて「学校に行くカラダ」ができるのです。

このように考えれば、登校拒否児とは、学校に行く人のアイデンティティーが形あるものとして確立するために、その外部にあると同時に、しかしどうしてもなくてはならないものであるように思えてきます。登校拒否児の排除・抑圧は、学校に行く人のアイデンティティーにとって必須の構成要素なのです。

そうだとすれば、学校に行く人にとって、またひいては学校に行く人が支配する社会にとって、登校拒否児を受け入れるということは、並大抵のことではないはずです。学校に行く人にとって、登校拒否児とは、いわばゲロやウンコのようなもの—安定したアイデンティティーの境界を設定するために自己から排泄(はいせつ)されたもの—なのですから。アイリス・ヤングいわく、

私が排泄物*5に嫌悪するのは、私の境界を保つためだ。排泄物は私に触れてはならない—私の中に染み込んできて、私の生に必要な内部と外部を隔てる境界、排除の過程で生まれた境界を消し去ってしまうだろうから。もしうっかりしてあるいは誰かに強いられて排泄物に触れてしまったら、私の内部にあるものを排除する反射神経が再び作動するだろう。つまり吐き気だ。

Justice and the Politics of Difference

Justice and the Politics of Difference

「不登校への過剰な肯定」への批判は、この「吐き気」の表れでしょう。学校に行く人にとって登校拒否児は、自己から排泄されたものです。学校に行く人のアイデンティティーの安定が維持されるためには、そして学校制社会の平穏が保たれるためには、登校拒否児は蔑まれ、虐げられなければなりません。そうすることによってのみ学校に行く人の自己の境界は維持されるのです。その登校拒否児が肯定されるとすれば、それは境界の危機を意味します。自分から切り離したはずのもの、吐き出してしまったはずのものが戻ってくるのです。吐き気を感じずにいられるでしょうか。「ずる休み」という侮蔑と同時に嫉妬の込められた言葉は、この吐き気をよく表現しています。

両者がこのような関係にあるのだとすれば、「学校に行く子も行かない子も共に素晴らしい」などと言ってハッピーエンドに持ち込むことはできないでしょう。学校に行く側のアイデンティティーが維持されるためには、行かない側が否定され続けなければならないのですから。逆に言えば、行かない側が差別に異議を申し立てて自分たちを肯定しようとすることは、行く側に対する挑戦であり、行く側の支配する社会の変革につながるものであるわけです。主人のあり方に挑戦することなく、奴隷が肯定されることがありうるでしょうか。外国人への差別に反対すると言いながら、「日本」という幻想を不問に付す人の言葉を信用できるでしょうか。「正常」とは何かを問い直すことなく性的少数者を肯定することができるでしょうか。奴隷を、外国人を、性的少数者を肯定するということは、主人の、日本人の、正常人の拠って立つ基盤を突き崩すということです。同様に、登校拒否児の自己肯定は、行く側のアイデンティティーを撹乱するものであると思います。


2.なぜ一部のマスコミや文化人は登校拒否の肯定を受け入れることができる/できたのか?

このように考えると、奥地さんらの学校に行かないあり方への肯定が強い反発を受けるのも、無理からぬことであるように思えてきます。となると問われるべきは、なぜ不登校の肯定が反発されるか、ということではないのかもしれません。むしろ不思議なのは、特に90年代、なぜ一部のマスコミや文化人が不登校の肯定を受け入れることができた(かのように見える)のか、ということの方です。不登校の肯定は学校に行く人の側のアイデンティティーの崩壊に結びつきかねないものなのに、なぜ学校エリートである彼らが簡単に奥地さんらの主張に同調できるのでしょうか。

結論を先に書くと、彼らは本当の意味で登校拒否を受け入れているわけではないと僕は思っています。彼らが受け入れているのは、奥地さんやかつての僕自身も含めた一部の登校拒否児が提示する、排泄物の汚らしさを覆い隠した、「無臭ニンニク」ならぬ、明るく元気な「無臭登校拒否」にすぎません。

もちろん、奥地さんもかつての僕も、単に美しい面だけを編集しているわけではありません。奥地さんの本には、必ず暴力や神経症のエピソードが出てきます。しかし、その場合でも、それらが登校拒否の「本質」とは切り離されたものであることを強調するような構造の物語が用意されています。そのような仕組みは、たとえば、奥地さんの以下の発言に見ることができます。

不登校そのものは病気ではない。本人が登校することを心や体が拒否する何かの経験や感覚あるいは意識があってのことで、いわば学校制度に対する生き物としての反応をしたわけだ。ところが、日本社会は、不登校を容認しない。…不登校とからんで出てくる症状は、そういった社会状況の中で、存在が受け止められず、自分でも自分を肯定できず、強い不安にさらされたり、苦しい状況に追い込まれたりする中で発症しているものが多い。…私たちは、症状をどうにかしようというより、なぜ子どもはそんな症状を出しているのかを考え、子どもに共感し、家庭を居場所とし、社会の中にも居場所をつくり、がんばることよりマイペースと自己決定を大事にする姿勢でやってきた。とてもたくさんの例が、医者にかからなくても安定し、落ち着き、元気になった。医者にかかわって元気になった人もいるが、医療にかかわらないとダメということではない。

この枠組みのなかでは、「不登校とからんで出てくる症状」が、不登校自体とは別の、「プラスアルファ」のものとして捉えられています。こうすることによって、暴力、神経症、ひきこもりといった不登校にまつわる「汚物」を切り離して、不登校を美しいものとして提示することが可能になります。

「無臭登校拒否」のできあがりです。「登校拒否は病気ではない」し、不登校自体は無害なものなのだから、「存在が受け止められず、自分でも自分を肯定できず、強い不安にさらされたり」という状況さえ改善されれば、「安定し、落ち着き、元気に」なることができる。そして、学歴社会をものともせず自分を売り込んで就職することもできるし、結婚することもできるし、名のある大学に入ることもできる。現にA君は…だし、Bさんは…になったし、C君は…なんてことまでしている。学校に行かなくなったからといって、何を心配する必要があるだろう……。一部のマスコミや文化人が受け入れているのは、このような不登校の物語でしょう。

たとえば、東京シューレのスタッフが書いた『フリースクールとはなにか 子どもが創る・子どもと創る』という本があります。この本によれば、東京シューレ出身者の進路は、「進学ルート」、何らかの職業に就くルート、そして「バンド、絵、カメラなど、自分の趣味ややりたいことにエネルギーを注ぎ、いま収入につながっている」ルートの三つに分類することができるそうです。この本は、アニメやゲームに熱中することが就職につながった「ヒロキ」や、アルバイトの経験や調理師学校をへて現在は子育てと仕事をしている「タカコ」、保育士を目指して通信制短大に在籍する「シホ」、親の経営する縫製工場をへて現在は大工をしている「トオル」らを紹介しています。

フリースクールとはなにか―子どもが創る・子どもと創る

フリースクールとはなにか―子どもが創る・子どもと創る

このような「明るい登校拒否」の物語はとてつもなくウソっぽいものです。元登校拒否児の中で「マトモ」な社会人になってる人が、一体どれくらいいるというんでしょう。東京シューレはよく「登校拒否のエリートを集めている」と陰口をたたかれていましたが、その東京シューレ出身の僕の知り合いでも、安定した職業にありついた人は少数派です。定職についてなくて、さっきの三つの分類のどれにも当てはまらない人も多くいます。こういう人たちは、うっかり忘れられてしまったんでしょうか? それとも、「見せたくない」とハブかれてしまったんでしょうか?

だとしたら、疑問がわいてきます。「明るい登校拒否」の物語は、本当に登校拒否を肯定するものだったのでしょうか。僕はそうは思いません。この物語で示されているのは、登校拒否児でも学校エリートのようになれる、ということなのですから。ここで肯定されているのはあくまでも学校的価値であって、登校拒否ではありません。

だからこそ、一部のマスコミなどの学校エリートは登校拒否「肯定」言説を受け入れることができるのだと思います。このようなものであれば、彼らのアイデンティティーが脅かされることもないし、学校制社会のあり方が根底から揺らいでしまうこともありません。いや、むしろ、学校的価値を賞賛し、学校制を正当化すると言ってもいいでしょう。

ここに、奥地さんら不登校「肯定」派の、最大の弱点があり、また同時に最大の武器があると思います。奥地さんの主張は、あくまでも学校制言説の枠内にとどまるものです。だからこそマスコミや一部の親に受け入れられることができたし、シューレその他も一定の影響力を持つことが可能になりました。いわば「トロイの木馬」作戦です。だから、奥地さんらの主張は、簡単に否定することも肯定することもできないと思います。むしろその相矛盾する二つの性質がどうからみ合うのかを見極める必要があるでしょう。


3.なぜ登校拒否肯定派は「登校拒否=病気=ひきこもり」という図式に反発するのか?

斎藤環さんの功績もあって、「トロイの木馬」のメッキがはがれ、中に爆弾が入っていたことが明らかになりました。ひきこもりが目に見えるようになって、「明るい登校拒否」の物語が、登校拒否児の一部にしか当てはまらないといことがハッキリしました。明るい(元)不登校児たちが「不登校児として」語るハッピーエンドつきの物語は、実は「不登校の物語」ではなく、「不登校エリートの物語」にすぎなかったわけです。引きこもり、暴力、病気を切り離すことができたのは少数に過ぎず、かなりの人が20代・30代になってもそのような「プラスアルファ」と共に生きています。

これは、僕自身の実感でもあります。かつて「明るい登校拒否児」だった僕は、自らの「選択」に確信をもっていました。登校拒否への内なる差別を完全に克服できたと思っていたし、学校に行かなかったことで困難に直面することなどありえないと思っていました。80年代後半に稲村博さんが20代・30代になっても尾を引いて大変なことになるぞ、と警鐘を鳴らした時には猛反発したことを覚えています。

しかし、現に20代後半になってみて思うのは、「予言的中だなー」ということです。あの時は絶対にそうならないと思っていたけど、稲村博さんの言った通りになりました。具体的に何がどうと説明するのは難しいのですが、生きていくのが大変です。経済的不安があります。メンヘラーです。コミュニケーション能力が不足しています。将来何になったらいいのかわかりません。

このような困難に対処するノウハウは、「明るい登校拒否」の物語を読み直しても、見えてはきませんでした。むしろ、僕の登校拒否はそんなんじゃない、勝手に登校拒否を「代表」するな、という憤りを感じました(あ、いや、かつて「明るい登校拒否児」だった僕にそんなこと言う資格ないですが。っていうか自分が反省せい、っていう感じですが)。

そのような実感から生まれてきた疑問は、そもそも、なぜ奥地さんやかつての僕は、「登校拒否=病気」という図式に反発したのだろうか、ということです。なぜ「汚い」ものを切り離すことでしか、登校拒否を「肯定」することができなかったのでしょうか。さっき引用した本の中で、アイリス・ヤングはこう言っています。

…文化帝国主義においては、あらゆる主体の視点は、所属集団に関わらず、特権集団のものと一致する。…文化帝国主義の対象となる集団の構成員自身が、自分自身の集団や他の被抑圧集団の構成員に対して、しばしば恐怖や嫌悪を示したり、彼らの価値を否定したりすることがある。…つまり、こうした集団の構成員が支配的文化内部の主体の位置を引き受ける限りにおいて、彼らは自分自身の集団の構成員を排泄物のようなものとして受け止めるとことになるのだ。

これにならって、学校制社会においては、登校拒否児や登校拒否「肯定」派もまた学校的価値観に支配されていると言うことができるでしょう。学校制の枠内に留まる限り、登校拒否児自身もまた、登校拒否を本当の意味で肯定することができないわけです。登校拒否が学校に行く人の排泄物であるとすれば、不登校にまつわる「プラスアルファ」、暴力やひきこもり、病気は、「明るい(元)登校拒否児」にとっての排泄物です。だとすれば、「登校拒否は病気だ」、「登校拒否はひきこもりにつながる」と言われて奥地さんやかつての僕が我慢ならなかったのは、僕ら自身の内なる登校拒否差別ゆえであったと言うことができるでしょう。かつて自分たちが「明るい登校拒否児」というアイデンティティーを確立するために排泄した「汚物」を見せ付けられて、「吐き気」がこみ上げてきたのです。

これまでの登校拒否「肯定」論は、実は、登校拒否差別に基づいたものであったと言わなければならないと思います。かつて粉砕した(つもりだった)稲村博さんが斎藤環さんとなって再び現れたおかげで、そのことがハッキリしました。そうである以上、僕は次のように言いたいと思います。登校拒否は病気だ。登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。登校拒否は不自由だ。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだと。

つづく

*1:これは僕が勝手に名づけたもので、運動の担い手たち自身はこのような表現は使っていません。

*2:2001年9月号

*3:奥地圭子「『ほんとうですか? 不登校の子は、ひきこもりもする』に反論します。」『月刊 子ども論』2002年2月号

*4:これについては、奥地さんはそのような発言をしたことはないかもしれませんが、僕が所属していた80年代後半から90年代前半の東京シューレの””一部の””子どもたちにはそのような雰囲気がありました

*5:原語はabjection。一般的には「おぞましきもの」と訳されるようです。

幡ヶ谷幡ヶ谷 2004/12/04 23:01 長すぎて読む気が・・・

toledtoled 2004/12/05 00:08 1日10行づつくらい読みましょう!

kuukokuuko 2004/12/05 01:43 読んだよ。(ちなみにkuukoの綴りはわざとだから。ホントはkookoだっけ)

toledtoled 2004/12/05 06:19 おお! kuuちゃんありがとう!シューレ出身者としてどう思った? 異論反論歓迎です。

たけしたけし 2004/12/07 16:32 病気とは何か?という問題はあるが、不登校自体は病気ではないと思う。でも、不登校はひきこもりにつながるし、医療の扶助が必要なケースは多い。それは考える会に寄せられる相談などで、現役の当事者だった頃からわかっていたことだよね。僕らはエリートだったのではない。単にあの時期あの場所を居場所に出来たことがラッキーだっただけなのだ。

MallkuMallku 2004/12/07 16:58 そんなに大げさなもんかなあ。たかが学校に行かなかったぐらいで、あとは普通の人間やんか。時々メンヘルになったりするのも「普通」の範畴だと思うけどね。

toledtoled 2004/12/07 20:57 こめんとありがとう!
>たけし
ラッキーだったのは本当にそうだと思う。シューレに出会えたこと、奥地さんに出会えたことは、僕の人生でも最大の幸運だった。でも、単にラッキーだったに過ぎない僕らが、まるで登校拒否を「代表」するかのごとく文章を書いたりマスコミでしゃべったりしたのはいかがなものかと思うのですよ。そういう振る舞いについて悪い意味で「エリート」であったのではないでしょうか?
>Mallku
うーむ。でもその「普通」というのが問題。「普通」になるために、もともとは登校拒否というカテゴリーに含まれていた暴力、病気、ひきこもりなどの要素を「切り離す」ことが必要になります。それはどうなんでしょう。なぜ、病気と言われることが嫌だったんでしょう? この点は「後編」でも考えます。

MallkuMallku 2004/12/19 15:17 じゃなくって「暴力、病気、ひきこもりなど」も普通のうちということ。だって、トーコーキョヒと関係なく、そこらじゅうで普通に起こっている現象だよ。仕事柄そういう人とばかり付き合っているからそう思うのかもしれないけど。

toledtoled 2004/12/19 20:26 うーむ。でも僕は登校拒否もひきこもりも「異常」だと言いたいな。あえて。なぜならば「普通」というカテゴリーは政治的にニュートラルではないと思うから。全ての人を「普通」と認めて「平等」に扱っても、けっきょく弱いものは下に置かれることになる。表面的な偏見を排除して登校拒否やひきこもりが「普通」の市民権を獲得しても、救われるのは「能力」のある一部だけだよ。それよりは、「登校拒否は異常だ。ひきこもりも異常だ。だから特別待遇が必要だ」とでも訴えた方が有効だと思う。

MallkuMallku 2005/01/03 00:42  あけましておめでとうございます。今年もこんな感じでよろしくお願いします。
 さて、すべての議論に目を通していないのですれ違うところがあったら申し訳ない。意味は通じたみたいね。あとは、大差ないようでいてそうではない、こだわらざるをえない部分があるこの二つのオプションについて、どっちのスタンスを取るかということ。
 ひきこもり、メンヘル一般はその辺で不登校と関係なく普通に起こっている出来事。「登校拒否=ひきこもり、メンヘルです、異常です」というのは、実態と異なるんではないか。
 まあそれと、卑近だけどぼくを持ち出して「ひきこもり、メンヘル」というのは、いつそうなるかわからないけど現状としてはなんか違うじゃない。「=」が成り立つケースはいくらでもあるけど、成り立たなそうなケースも同程度に多くて、その比率が非不登校世界とくらべて高いのか低いのか、あんまり客観的にはわからないじゃない。怪しげな人とばかり付き合っているぼくだけの実感では、比率は変わらない。
 「病気じゃない」という表現の危うさは認めるけれども、それがいきなり「病気である」にいくのはすっ飛びすぎと思います。アンチテーゼとしてはいいけど。
 というのが感想です。

toledtoled 2005/01/03 17:45 あけおめ! またまたコメントありがとう!!
うーむ。難しいね。ちょっと考えてからレスします。

araiarai 2005/07/02 17:11 こんにちは、触発されて長い文章を書いてしまいました。
http://www.moodindigo.org/blog/archives/000314.html

先輩面先輩面 2006/02/24 00:07 30過ぎの元登校拒否児です。肯定のされすぎって、10年くらい前まではありえなかったな。将来、おまえはぜったい乞食か犯罪者になるって、早く自殺してくれた方が世のためだとも言われた。東京シューレはお金がなくて行きたくても行けなかった。エリートというより、昔はお金持ちの子供(もしくは親が無理して)しか行ける所じゃなかった。学校に行っていた幼友達も、社会に出てから精神的にアブなくなったり、すごく図太く見えた学校時代の後輩も、30才くらいで自殺してしまったり、もちろん登校拒否経験者の知人が死んじゃうこともあった。差別され、死ねとまで言われ、死ぬに死ねずに生きてきて、それでもとりあえず今は生きててよかったと思う。病気だって薬中だって、なんだっていいよ。生きたもの勝ち。登校拒否児と官僚、どっちの方が異常かなんて分からない。でも、登校拒否児はそれがイコール「危険」につながるわけじゃない。ついこの前までは、「異常」だって戸塚ヨットスクールや鉄格子付の精神病院もしくはぼったくり教団に送られてた。病気でもないのに、病気って決め付けられ、ひどいめにあってたのだよ。

toledtoled 2006/02/24 00:24 先輩面さん始めまして。学校に行かないことが認められない厳しい社会の中、生き抜いてこられたのですね。いつの日か、学校に行かなくても平気な世の中が訪れることを願っています。

タガメ太郎タガメ太郎 2009/01/28 21:38 はじめまして、当方、最終学歴小学三年中退の三十路過ぎのおっさんです。おっさんになるまでフリースクール等とは全く縁がなかったですが、奥地さんやその周辺の人たちとお会いして、俺が感じていた
モヤモヤした違和感がこの記事を読んでかなりすっきりしたです。そうです、俺は学校システムの排せつ物なんですな。したがって、打倒義務教育は当然至極。もちろん、うんこのままの叫び声で。

マイブログですお暇な時にどうぞ。
: http://blogs.yahoo.co.jp/nmgfb186/5610639.html

タガメ太郎タガメ太郎 2009/01/28 21:55 すんません上記URL違ってました(汗)。
blogs.yahoo.co.jp/nmgfb186/5610639.html
が正しいようです。

2004-12-01

バーチャルな不幸を抱きしめて

| 18:21 | バーチャルな不幸を抱きしめて - (元)登校拒否系 を含むブックマーク はてなブックマーク - バーチャルな不幸を抱きしめて - (元)登校拒否系 バーチャルな不幸を抱きしめて - (元)登校拒否系 のブックマークコメント

いま体験しているこの現実は、コンピューターによって生み出されたバーチャルリアリティかもしれません。目の前にあるものも実際には存在せず、「本当の」世界には、まったく異なる現実があるとしたら?

このような問いに、科学的に反論することはあまり意味がないでしょう。「これこれこういう科学的な根拠から、この世界がバーチャルリアリティーであるはずがない」と言ってみたところで、そのような「根拠」自体、あらかじめプログラムされていたものかもしれないという疑いが残ります。もちろんこの世がバーチャルリアリティであるという確信もありませんが、それを完全に否定することもできないわけです。

この人生がバーチャルリアリティである可能性がある。

だとすれば、実際にバーチャルリアリティであったと仮定した上でいくつかの問題を考えてみる作業も、無意味なことではないでしょう。

そこで疑問があります。もしこの人生がバーチャルリアリティだとすれば、なぜ苦しいのでしょうか? なぜ痛いのでしょうか? なぜ悲しいのでしょうか? なぜ不安なのでしょうか? なぜ無気力で怠惰なのでしょうか? なぜブスなのでしょうか? なぜ病気なのでしょうか? なぜ貧乏なのでしょうか? なぜバカなのでしょうか?

バーチャルリアリティにおいては、あらゆる設定が可能であるはずです。心地よい。嬉しい。楽しい。安心。意欲旺盛。美人。健康。大金持ち。天才。なのに、この人生が「あえて」不幸に設定されている理由はなんでしょうか?

もし自分のバーチャルリアリティをあらかじめ自由に設定できるのだとしたら、人はどんな人生を望むでしょうか? リアルの人生から離れてバーチャルリアリティに入るのだから、なるべく実際の人生では体験できなかったことを味わいたいと思うのではないでしょうか?

もしそうだとすれば、苦しみ・痛み・不幸は、実は、リアルの人生が幸福なものであることの徴候だと言えるでしょう。ブスな人は、リアルではミス日本なのです。美人でチヤホヤされることに飽きたのでブスになってみたかったのです。貧乏な人は実人生ではビル・ゲイツだったのです。苦しいのはリアルでは楽しかったから。一度苦しみを味わってみたかったから。悲しいのは本当の人生では嬉しいことばかりだったかったから。悲しみを味わいたかったから。不安なのは安心することに疲れたから。不安の味を知りたかったから。無気力な人は実は努力家。病人は健康優良児。

と、いうのは荒唐無稽(こうとうむけい)な妄想です。しかしこの妄想によって、あることが見えてくると思います。それはつまり、「味わう」という感覚です。

なるべく金持ちになりたい。なるべくもてたい。なるべく幸せになりたい。不幸はなるべく避けたい。人がそう願うのは、当然のことでしょう。

しかし現実には、必ずしもそうはいきません。避けたくても避けようがないのだとすれば、なんとか不幸の価値を救い出すことはできないものでしょうか?

そう考えたときに、不幸にも「味わい」があると言いたいと思います。バーチャルリアリティの妄想において不幸を味わうことを求めるように、いま現に感じているこの痛みに、苦しみに、悲しみに、味わおうと対することができるのではないでしょうか?

もちろん、これは不幸が大きければ大きいほど、難しいことです。激痛を感じながらそれを味わうのは容易なことではありません。しかし、不幸が大きければ大きいほど、「味わい」もまた深いはずです。

不幸はなるべく避けたい。でも避けようとしても避け得ないならば、その「味わい」を噛みしめていきたいと思います。それがバーチャルなものであれ、リアルなものであれ。

参考文献

自虐の詩 (下) (竹書房文庫ギャグ・ザ・ベスト)

自虐の詩 (下) (竹書房文庫ギャグ・ザ・ベスト)

toledtoled 2004/12/01 18:37 もちろんなるべくなら幸福を味わいたいことは言うまでもありません。

初台初台 2004/12/02 00:30 「マトリックス」見すぎて、新たな「認知療法」思いついちゃった?

toledtoled 2004/12/02 00:36 認知療法とはちょっと違うかも。認知療法はあくまでもより幸せになるための技術でしょ。この文章で問題にしたかったのは不幸を不幸のまま受け入れるにはどうしたらいいか、ということです。

カリスマニートカリスマニート 2004/12/08 00:14 まあ、過程と考えるか結果と考えるかの違いですかね。

toledtoled 2004/12/08 00:23 過程と考えられるならそれは不幸ではないですよね。

toledtoled 2004/12/08 20:59 そうでもないかな。たしかに過程と結果というのは重要な問題ですね。幸福でも、それは不幸への過程かもしれない。不幸でも、それは幸福への過程かもしれない。。。

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