2005-06-29
調査する者とされる者の終わらない関係 第3回 対話は続く?
この連載では、まず、スケッグスが自らの姿を調査の中に位置づけようとしていることを見ました。このことは伝統的な立場からは問題であるとされる可能性がありますが、「フェミニストの視点」理論を紹介することを通して、僕は彼女の試みの正当性を支持しようとしました。「フェミニストの視点」理論は、存在論と認識論の橋渡しをする限りにおいて有用なものでした。しかし、初期の理論家たちが存在のあり方の多様性を軽視していたために、この理論は調査者と被調査者の関係を説明するには不満足なものでした。私たちは、スケッグスは自分と調査対象の女性たちとの差異に敏感であったことを見ました。彼女にとって、両者の関係は弁証法的なものでした。スケッグスは女性たちとの交流を通して絶えず自らの研究を見直しました。しかし、女性たちの生をいかに解釈するかということにおいて意見の相違が生じた場合には、最終的な決定権を握っていたのはスケッグスでした。
さて、結局のところ、この調査は成功だったと言えるでしょうか? 僕の見立てでは、本の内容だけからはそれを判断できないのではないかと思います。既に見たように、スケッグスは調査者と被調査者の関係を弁証法的なものだと見なしていました。しかしながら、弁証法のプロセスはまだ完了していないのではないでしょうか? 弁証法の枠組みでは、異なる要素の間の矛盾は制約とは見なされません。それはより高い次元への変化の源となります。調査対象の女性たちが自分たちから自らの階級的位置を切り離そうとしていたことと、スケッグスの「階級は[調査対象の]若い女性たちの主体性の中心にあった」*1という解釈の間には矛盾があります。だとしたら、本の出版は弁証法的なプロセスの完成を意味しないのではないでしょうか? この矛盾がどのように昇華されるかは、スケッグスと女性たちとの対話が続いていくことにかかっているのではないでしょうか?
スケッグスはこう書いています:「私は若い女性たちに[草稿の]章や論文を渡すことによって、女性たちに調査を説明できる(accountable)ようにしようとした」*2。しかし、女性たちの反応は「何を言ってるのか意味不明」*3というものでした。これは一つには、スケッグスの文章に問題があると思われます。彼女の文章は、はっきり言って難しいです(汗)。これはある書評でも指摘されています。*4まあ結局のところ、彼女は学者向けに書いていたわけです。「私が語りかけていた読者は、私の仕事を若い女性たちにとってアクセス不可能なものにしてしまうような言語を要求していた」*5(←この文自体が難解ですね。。。)と彼女は認めています。
スケッグスは被調査者と「弁証法的な関係」をもっているのだと言います。しかし、言語的な障壁の存在は、そのような関係を自動的に与えられるものであるとは考えることができない、ということを意味します。彼女は、書き言葉であれ、話し言葉であれ、学術研究の結果をより容易に獲得できるようにするような新しい言葉を模索する必要があるでしょう。*6そのような言葉があって初めて、彼女は女性たちとの対話を継続できるはずです。女性たちがスケッグスの解釈にどのようなリアクションを示すかは興味深いものです。彼女たちは自分たちの生における階級の中心性を受け入れるのか、異議を唱えるのか? 対話の結果として、スケッグスの解釈は確認されるかもしれません。あるいは修正を余儀なくされるかもしれません。
ある調査が成功であるかどうかは、その出版からだけでは判断できないものです。出版は弁証法的なプロセスの一段階に過ぎません。対話はそこで終わらせるべきではありません。というわけで、社会調査が成功かどうかは調査者と被調査者のはてしなく続く関係のあり方による、というのがこの連載の結論です。って言うは易く、行うは難しやないかコラ! m9(^Д^)プギャー
*1:Skeggs, B. (1997) Formations of Class and Gender: Becoming Respectable, London: Sage, 74.
*2:Skeggs, B. (1994) ‘Situating the Production of Feminist Ethnography’, in Maynard, M. and Purvis, J. (eds.), Researching Women’s Lives from a Feminist Perspective, London: Taylor and Francis, 86
*3:ibid.
*4:Luttrell, W. (1999) ‘Formations of Class and Gender: Becoming Respectable, by Beverley Skeggs’ (a review), Contemporary Sociology, 28 (3), pp. 290-291.
*5:Skeggs, B. (1994) ‘Situating the Production of Feminist Ethnography’, in Maynard, M. and Purvis, J. (eds.), Researching Women’s Lives from a Feminist Perspective, London: Taylor and Francis, 86
*6:実際にやってるのかもしれませんが本には書いてありません。
2005-06-27
調査する者とされる者の終わらない関係 第2回 調査する人とされる人の弁証法
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Formations of Class and Gender: Becoming Respectable (Theory, Culture & Society)
- 作者: Beverley Skeggs
- 出版社/メーカー: Sage Pubns Ltd
- 発売日: 1997/07/21
- メディア: ペーパーバック
スケッグスは、自分のアイデンティティーを認めるだけではありません。彼女は自分と調査対象の女性たちとの違いを認識します。「調査者と被調査者は異なる言説的資源をもつのであり、異なる形態の言説を紡ぐ」*1とスケッグスは言います。彼女も調査対象の女性たちも労働者階級出身ですが、彼女はその位置から脱出しました。調査が行われていた当時、スケッグスは博士課程の学生であり、彼女たちの教師でもありました。彼女は現在では大学教授になっています。彼女は、調査に協力した女性たちにはなかった経済的、文化的、社会的、象徴的資本をもっていました。彼女によれば、女性たちもまたこの違いに気づいていました。女性たちの一人はこう言っています:
あんたなら結婚しなくてもいいよね。自分でモノを買うこともできる。あんたはすごいカネ稼いでるじゃん。自分のアパートもあるし、服もあんなに持ってる。私たちにはありえないことだよ。あんたほどの稼ぎのいい仕事が見つかるわけないよ。……本当にラッキーだったら保育士かな。でも保育士の給料が安いことは誰でも知ってるよ。……生活できる給料じゃないね。……あんたは自分がどれだけラッキーかわかってない。……あんたは汚い仕打ちにも黙ってない(you don't take no shit)。それはね、そうできるからだよ。私たちにはできないね。私たちがあんたみたいな気性だったら、どうなっちゃうか。誰からも声かけられないって。……売れ残るよ。*2
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Researching Women's Lives from a Feminist Perspective (Gender & Society Feminist Perspectives)
- 作者: Mary Maynard, June Purvis
- 出版社/メーカー: Taylor & Francis
- 発売日: 1994/04
- メディア: ペーパーバック
もしこのような差異があるのだとすれば、存在のあり方と知ることのあり方の関係は、複雑なものになります。そこにはさまざまな違いや矛盾があります。スケッグスは、自分と女性たちとの関係を弁証法的なものとみなすことによって、そのような矛盾に敏感であろうとしました。
調査を開始したころ、彼女は自然主義の立場に立っていました。ハマースリーとアトキンソンによれば、自然主義とは「可能なかぎり、社会的世界は研究者によって介入されていない『自然』状態で研究されるべきだ」という考えだそうです*3。スケッグスは当初、「私がこの若い女性たちの『自然な』状況に入っていけば彼女たちの『リアルな』……経験を発見し報告できるだろうと信じて」*4いました。しかし、その正反対が正しかったと彼女は言います。「彼女たちと過ごす時間が増えるほど、私はますます混乱していった」*5のだそうです。
やがてスケッグスは自然主義を棄てました。調査対象の女性たちは自分にとっての「弁証法的他者」*6となったと彼女は書いています。スケッグスは、女性たちの「自然」状態を発見しようとすることをあきらめ、自分と彼女たちがお互いに影響し合っていることを自覚するようになりました。彼女は、「調査に価値観を持ち込んだ」*7ことを認めます。このことは、彼女の存在が女性たちの状態に変化をもたらしたかもしれない、ということを意味します。しかし彼女は自分の価値観が「調査を『汚染する』」*8ことを恐れませんでした。スケッグスいわく:
3年間をフルタイムで共に過ごしたのに、もし私が意見や価値観や評価、よく考えていることを示さなかったとしたら、[調査対象の]女性たちは私のことをヘンに思っていたことだろう。「自文化での」(at home)エスノグラフィーは対話を通して生産される。当時の/現在の私の位置から私が応答できないなどということは絶対にありえなかった。そうしていなければごまかしやいつわりをすることになっていただろう。私の調査の多くは信頼に基づいていたから、私は友人に接するときと同じようにオープンで率直だった。結局のところ、私たちは友人になったのだ。*9
このような「対話」は、明らかに自然主義的な原則から逸脱するものです。スケッグスが現われることによって、女性たちは変化したかもしれません。これは一種の歪曲(わいきょく)でしょうか?
ミース*10であれば、スケッグスを擁護することでしょう。「梨の味を知りたければ、実際に食べて梨の形を変えなければならない」という毛沢東の言葉を真似て、彼女はこう言いました:「あるものについて知りたければ、それを変えなければならない」*11。人は必ずしも「真の意識」*12をもっていないので、実際の社会関係は当事者からも不可視のものかもしれません。それゆえ、ときには被調査者の意識を変革することが必要になります。「現状の変革が科学的な探求の出発点になる」*13とミースは主張します。この立場からは、調査者の被調査者への影響は積極的に評価されるでしょう。
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Social Research: Philosophy, Politics, and Practice
- 作者: Martyn Hammersley
- 出版社/メーカー: Sage Pubns
- 発売日: 1993/03
- メディア: ハードカバー
調査者が被調査者に影響を与えただけではなく、後者もまた前者に影響を与えました。スケッグスは、「女性たちとの弁証法的な関係の中で、私は絶えず理論を修正していた」*14と言います。「私は自分の考えや解釈を彼女たちと話し合った。彼女たちはそれに挑戦したり、矛盾することを言ったり、裏づけたりした」*15と彼女は書いています。女性たちの反応はスケッグスに、当初使っていた理論の一部を捨て去り、新しい理論を採用することを強いました。このように、この調査では、調査者だけが調査結果を決めたわけでも、被調査者だけが決めたわけでもありませんでした。
そうだとすれば、「解釈」の過程が問題として現われます。もし調査者と被調査者の意見が食い違う場合、誰がどちらの見方がより正しいのかを決める力をもっているのでしょうか? この点について、スケッグスはこう書いています:
調査対象の女性たちの分析に合わせて私の分析を変えるのではなく、……対話を通して得られた、しかし私が最終的な責任を負う解釈を使う権利を私は主張したい。*16
この問題は、彼女の本の階級に関する章(Chapter 5)に顕著に見ることができます。スケッグスは、女性たちが「労働者階級に見られないように」努力していたという事実にも関わらず(あるいは、下ですぐに見るように、それゆえにこそ)、「階級は[調査対象の]若い女性たちの主体性の中心にあった」*17と主張します。実際、女性たちの多くは常に労働者階級に貼られたネガティヴなイメージを自分から切り離そうとしていました。たとえば、女性たちの一人の言葉にはこうあります:
本当の労働者階級っていうのは失業手当をもらおうとしてウロウロしてるような奴らだよ。すごくうす汚くてみすぼらしくて、仕事もないんだ。でもあいつらも働いてるのかもね。労働者階級なんだからね。働いてるのかもね。労働者階級なら働いてるはずだから、ひどいとこで働いてるんだろうね。*18
このイメージは、「(まとも(respectable)で人を見定めるような中産階級の表象に基づく)指定された『他者』(the designated "other")」*19を背景として構築されたものでした。労働者階級から距離をとることによって、女性たちは中産階級の幻想に沿って自らのアイデンティティーを作り上げていました。その際に働いていた中心的なメカニズムが、「まともであること」(respectability)という概念でした。さきほどとは別の女性はこう言っています:
私はいつも[まわりの者とは]違っていたいと思ってきたよ。あいつら皆同じような服着てるじゃない。私の服は私が違ってるって言ってるの。私の服は私がまとも(respectable)だって言ってると思うよ。*20
しかしながら、女性たちがまともであることに気を配っていることは、彼女たちの生において階級が重要ではないという証拠にはなりません。むしろその逆のことを示しているとスケッグスは主張します。その理由を、彼女はこう説明します:
まともであるかどうかは、通常、そうではないと見なされる者の関心である。もし(黒人と白人の)労働者階級が一貫して危険で、汚らしく、脅威で、革命的で、病的で、敬意に値しない(without respect)と見なされてこなかったならば、まともであるかどうかはここで重要とはならないことだろう。*21
したがって、スケッグスの見解では、女性たちがまともであろうとし、中産階級に見られようとすることは、彼女たちの意図に反して、彼女たちが階級に囚われているということを示すわけです。
この例からもわかるように、「弁証法的」であると謳(うた)われてはいても、調査者と被調査者の関係は不均衡なものです。ある程度はお互いに影響し合うとは言え、究極的には前者がどの解釈を採用するかを決める力をもっているのです。
*1:Skeggs, B. (1994) ‘Situating the Production of Feminist Ethnography’, in Maynard, M. and Purvis, J. (eds.), Researching Women’s Lives from a Feminist Perspective, London: Taylor and Francis, 78.
*2:ibid, 80.
*3:Hammersley, M. and Atkinson, P. (1983) Ethnography: Principles in Practice, London: Tavistock Publications, 6.
*4:Skeggs, B. (1994) ‘Situating the Production of Feminist Ethnography’, in Maynard, M. and Purvis, J. (eds.), Researching Women’s Lives from a Feminist Perspective, London: Taylor and Francis, 75.
*5:ibid.
*6:Skeggs, B. (1997) Formations of Class and Gender: Becoming Respectable, London: Sage, 168.
*7:ibid, 33.
*8:ibid, 31.
*9:ibid.
*10:Mies, M. (1993) ‘Towards a Methodology for Feminist Research’, in Hammersley, M. (ed.), Social Research: Philosophy, Politics and Practice, London: Sage, pp. 64-82.
*11:ibid, 70.
*12:「真の」とか普通に平気で言うからマルクス主義者はコワイですね。。。
*13:ibid.
*14:Skeggs, B. (1997) Formations of Class and Gender: Becoming Respectable, London: Sage, 23.
*15:ibid, 30.
*16:ibid.
*17:ibid, 74.
*18:ibid, 75.
*19:ibid, 74.
*20:ibid, 84.
*21:ibid, 1.
2005-06-26
調査する者とされる者の終わらない関係 第1回 調査者を位置づける
イギリスのフェミニスト社会学者、ビヴァリー・スケッグスによる『階級とジェンダーの形成:まともになる』*1は、白人労働者階級女性たちを対象とした、長期間にわたるエスノグラフィー研究です。11年間にわたって、スケッグスは継続教育学校(イギリスの大学を除く高等教育機関。主に職業教育を行う)での教師として出会った83人の女性たちを調査しました。これは、「情熱と怒りによって焚きつけられた」*2研究です。スケッグスは、学術言説が「階級から退却」*3していることに怒りを感じていました。彼女の研究は、この流れに抗して階級を再び社会学の領域に位置づけようとするものです。
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Formations of Class and Gender: Becoming Respectable (Theory, Culture & Society)
- 作者: Beverley Skeggs
- 出版社/メーカー: Sage Pubns Ltd
- 発売日: 1997/07/21
- メディア: ペーパーバック
白人労働者階級女性の生における階級の重要性を検証する手助けになる一方で、この本は方法論的な問いについて考える際にも興味深い示唆を与えてくれます。実際、スケッグスは自らの方法論について非常に自覚的です。本の中で、彼女は方法論と認識論について広範な議論を提供しています。特に、彼女は自分自身と調査対象の女性たちとの関係を可視化しようとします。この連載では、彼女の研究を例として、調査する者とされる者の関係について考えたいと思います。まず第一に、僕は「フェミニストの視点」理論を批判的に紹介しつつ、調査者を状況の中に位置づけることの重要性を指摘します。次に、自身と調査対象の女性たちとの関係を弁証法的なものにしようとするスケッグスの試みを検討します。そして最後に、弁証法のプロセスは本の出版の後も継続されるべきであると主張することによって、彼女の認識論を発展させるつもりです。
調査者を位置づける
では、調査する者と調査される者との関係について考える前に、まずは前者に注目しましょう。というのも、調査者とは誰か、ということがわからなければ、彼(女)と被調査者との関係を評価しようがないからです。多くの研究書において、調査者の姿は読者から隠されています。たとえば、「豊かな労働者」に関するゴールドソープたちの報告*4では、著者たちの情報への言及がありません。スケッグスの本は、かなりの部分を彼女自身のアイデンティティーについて語ることに割いているという点で、独特なものです。本のイントロダクションの中で、彼女は自身の来歴を語ります。スケッグスは、調査対象の女性たちと同じように、労働者階級の出身です。しかし彼女は教育を受け、その位置から脱出しました。「この本を書くことは大きな痛みを伴うものだった。私は調査対象とあまりにも近かった/近いからだ」*5と彼女は言います。このことは何を示唆しているのでしょうか? 私たちは、調査を評価するために調査者のアイデンティティーについて知る必要があるのでしょうか?
伝統的な実証主義的立場からは、スケッグスが自身のアイデンティティーに言及することは問題に見えるかもしれません。Ackerたち*6によれば、伝統的な客観性の概念は、研究者に調査活動から自らのアイデンティティーを引き離すことを要求します。しかし、以下のような問いがなされなければなりません:そのような「分離」は実際に可能なものなのか? 「『アルキメデスの』点――つまり、社会におけるいかなる特定の位置とも無縁な点」*7にあると称することができるのは誰なのか?
この問題について、Dyerの「白人であること」の普通-性(normativity)についての論文*8は興味深いものです。彼によれば、支配的言説は白人をあたかも「人種をもたない」(non-raced)*9かのように見せかけます。有色人種が「自らの人種の代表としてのみ語ることができる」のにたいして、白人は「人類の共通性を代表して語る」*10権力をもっているからです。これは、白人が自分たちについて語らないということは意味しません。Dyerは言います:
実際、白人はたいていはただ白人についてのみ語る。ただ、私たち[白人]はそれを「人間」一般として表現するのである。研究が……繰り返し示すところによれば、西洋の表象において白人は圧倒的にまた不釣合いに支配的であり、中心的で精巧な役割にあり、とりわけ標準として、普通のものとして、基準として位置づけられている。白人は表象のいたるところにいる。しかしまさにこのことゆえに、そして彼らが標準として位置づけられているために、彼らは自分たちに対して白人としてではなく様々な形でジェンダーや階級、セクシュアリティー、能力を与えられた人間として表象されるように思われる。言い換えれば、人種的表象のレベルにおいては、白人はある特定の人種ではなく、ただ人類(the human race)なのである。*11
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Theories of Race and Racism: A Reader (Routledge Student Readers)
- 作者: Les Back, John Solomos
- 出版社/メーカー: Routledge
- 発売日: 2000/02
- メディア: 図書館
Dyerのここでの関心は人種にありますが、私たちはこの議論をジェンダーや階級といった他のカテゴリーにも応用できるでしょう。支配的なグループはあたかも自分たちのアイデンティティーが重要ではないかのようにふるまう権力をもっています。スケッグスの言葉で言えば、「知における暗黙の標準化する効果(normalizing effect)は、あるグループの経験を全てのグループに属するものと決めつけることによって働く」*12のです。
だとすれば、研究者が自分のことについて語らないことは問題に思えてきます。「フェミニストの視点」(feminist standpoint)に立つ理論家たちによれば、支配的な社会学者が拠って立つと称する抽象的な客観性は、支配関係の徴候です。スミス*13によれば、支配的な男性社会学者は、いかに抽象的な「客観性」を確保しようとしても、自らの身体的実存から逃れることはできません。彼らの身体の必要は、主に女性の家事労働などによって維持されます。このように、彼らの主体的位置からの「分離」は、支配システムにおいて特定の位置にあって初めて可能になるものです。
スケッグスは、自らの来歴を語ることによって主体的位置につくのではありません。どのような研究者も、常に既に特定の位置を占めているのです。彼(女)がそれに自覚的であるか否かに関わらず。「私たちがどこにいようが、私たちが誰であろうが、私たちは常に知ることの諸関係(relations of knowing)に包み込まれている」*14とスケッグスは言います。彼女と「アルキメデスの」点にあると称する者たちとの唯一の違いは、彼女が自らの位置について正直であるということです。
スミスやハートソックといった「フェミニストの視点」の理論家たちは、この話を一歩進めて、ある位置は他の位置よりも優れた知の基盤となると主張します。彼女たちによれば、女性の経験と男性の経験は社会的な知にとって等価ではありません。彼女たちは、女性の独特の位置は社会関係をより正確に見ることを可能にすると言います。
スミス*15は、ヘーゲルによる主人と使用人の関係についての分析と、マルクスのブルジョワ(資本家)とプロレタリア(労働者)の関係についての分析を考察することを通して、この点を明らかにします。僕はヘーゲルについては「ヘ」の字も知りませんが、スミスのまとめるところによれば、こんな感じです。ヘーゲルの図式においては、主人は、自らの労働を介さずして対象への欲望を満たすことができます。これは、対象が使用人の労働によって生産されるからです。結果として:
その仕組み自体が主人の視点からは見えない。主人の意識内においては、自分と、対象と、手段に過ぎない使用人が存在する。使用人の目からは、主人と、対象を生産する自らの労働が存在し、主人と対象の関係は単純なものに見える。一連の諸関係の全体が見えるのだ。*16
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The Everyday World As Problematic: A Feminist Sociology (Northeastern Series in Feminist Theory)
- 作者: Dorothy E. Smith
- 出版社/メーカー: Northeastern Univ Pr
- 発売日: 1987/12
- メディア: 図書館
スミスによれば、マルクスも支配階級と労働者階級について同じようなことを言っています。マルクスは、前者の存在条件を生産する後者の視点からは原則として諸関係全体が見えるのだと主張しました。
男性と女性の関係についても、同じことが言えます。奴隷と労働者が主人と資本家の存在条件を生産するように、女性もまた支配的な(男性)社会学者の「支配の抽象化された概念様式」*17を可能にします。上で見たように、支配的な男性社会学者は客観性を確保しようとしますが、身体的な必要性を逃れることはできません。そのような必要性は、たいていは女性の家事労働によって満たされます。スミスは、「女性は男性のために、行為の概念様式とそれが実際に拠って立つ具体的な形式の仲介をする」*18と主張します。だとしたら、ちょうど使用人や労働者が主人や資本家よりも優れた視点をもつのと同じように、女性も男性よりも優れた視点をもつと言えるでしょう。
ハートソック*19は、女性の位置の特殊性に関心をもつもう一人の理論家です。スミスと同じように、彼女は女性の経験をより優れた社会認識の源であると見なします。ハートソックいわく:
マルクス派の理論がプロレタリアの生について示したように、女性の生は、男性至上主義への特定の有利な視点を用意する。その視点からは、男根主義的な諸制度や、家父長制の資本主義的形態を構成するイデオロギーを力強く批判することが可能になる。*20
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The Second Wave: A Reader in Feminist Theory
- 作者: Linda Nicholson
- 出版社/メーカー: Routledge
- 発売日: 1997/02
- メディア: ペーパーバック
ここでは、またしてもマルクス主義とのアナロジーを見ることができます。しかし、ハートソックの試みはマルクス主義から批判のための道具を借りるだけではなく、一歩先に進むことによってそれを乗り越えようとするものです。事実、彼女は言います:フェミニストの視点は(男性)プロレタリアの視点よりも「より深い」*21ものであると。
ハートソックによれば、これは一つには性的な労働分業によるものです。彼女はそのような分業が「社会的労働の構成の中心にある」*22と見なします。男性労働者とは異なり、女性は「資本主義での生存に二重の貢献」*23をします。有償労働を通して男性労働者と女性労働者の両方が物質世界とつながっている一方で、男性は家に帰ると自然から切り離されます。彼らの身体的な必要性は女性によって世話されるからです。それに対して、女性は仕事場でも家庭でも自然とつながっています。それゆえ、女性の「世界への参加は……[男性よりも]完全なもの」*24であり、その結果として「プロレタリアの視力は[前者]にとっては強化され改良され、[後者]にとっては弱体化される」*25のです。
このように、女性の性別労働分業における独特の経験はより優れた視点を提供します。ハートソックいわく:
女性の活動を社会システム全体に一般化すれば、人類史において初めて、完全に人間的なコミュニティーが可能になるかもしれない。それは、分離と対立ではなく結びつきによって構造化されたコミュニティーである。……女性の生の活動は、実際に特にフェミニスト的な唯物論の基礎を形成する。……そのような唯物論は、男根主義的なイデオロギーや諸制度を批判し、それらに抵抗する出発点を提供できる。*26
この枠組みにおいては、存在のあり方が認識のあり方の基礎に置かれています。しかしながら、このような見解の問題点は、存在のありようの多様性が忘れられているということです。考慮に入れられている唯一の違いは男性と女性の間のものです。女性たち内部の差異の価値は認められていません。実際、ハートソックは故意にそのような差異を矮小化しようとします。彼女は、「人種や階級の境界線を横断する女性の間の重要な差異は脇に置いて、その代わりに中心となる共通点を求めること」*27を提案します。しかし、そのような「共通点」を求めることは、支配的な白人女性の状況を全ての女性の状況と混同することにつながりました。スペルマンいわく:
「女性としての」女性に注目することは、ただ一つのグループの女性だけに焦点を絞ることだった――つまり、西欧産業化国の白人中産階級の女性にである。だから、[女性の間の差異は共通点よりも重要ではないということは]、女性が女性として共有していることについて語ることではなかった。それはむしろ、ある一つのグループの女性の状態を全ての女性の状態と混同することであった。*28
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Inessential Woman: Problems of Exclusion in Feminist Thought
- 作者: Elizabeth V. Spelman
- 出版社/メーカー: Beacon Pr
- 発売日: 1990/03
- メディア: ペーパーバック
このような考え方はリッチが「唯白論(ゆいはくろん)」(white solipsism)と呼んだ思考パターンに基づいていました。「唯白論」とは、「白人であることがあたかも全世界を説明しているかのように考え、想像し、語る」*29傾向のことです。それは「白人以外の経験や存在を決して貴重であり重要であるとは考えない視野狭窄症(しやきょうさくしょう)」*30とも言えます。
私たちのトピック、つまり調査する者とされる者の関係に話を戻すと、「唯学論」(academic solipsism)とでも呼ぶべきものがあるかもしれません:(初期の)フェミニストの視点の理論家たちは、全ての者が学者であるわけではないということを見逃します。もし女性を均質の集団として考えてしまうと、調査者と被調査者の間の差異が見えなくなります。しかし、男性社会学者と女性社会学者の間に違いがあるように、調査する者とされる者は異なる利害をもっているかもしれません。
スミスとハートソックの主な功績は、存在論と認識論の関係を見えるようにしたことです。そうすることによって、彼女たちは研究者を状況の中に位置づけることが必要であることを示しました。研究者のアイデンティティーは研究にとって重要なものです。しかし、スミスとハートソックは女性たちの間の差異に鈍感でした。調査する者と調査される者の関係を理解するためには、彼女たちの枠組みの一歩先に行く必要があります。それはいかにして可能でしょうか? 次回は、この問いについて考えます。
追記:ふと思ったのですが、今回紹介したフェミニストの視点理論は、障害者差別を内包したものかもしれませんね。。。
*1:Skeggs, B. (1997) Formations of Class and Gender: Becoming Respectable, London: Sage.
*2:ibid, 15.
*3:ibid, 6.
*4:Goldthorpe J. et al. (1968) The Affluent Worker: industrial attitudes and Behaviour, Cambridge: Cambridge Univ. Press.
*5:Skeggs, B. (1997) Formations of Class and Gender: Becoming Respectable, London: Sage, 14.
*6:Acker, J. et al. (1991) ‘Objectivity and Truth: Problems in Doing Feminist Research’, in Fonow, M. M., and Cook, J. A. (eds.) Beyond Methodology: Feminist Scholarship as Lived Research, Bloomington and Indianapolis: Indiana University Press, pp. 133-153.
*7:Smith, D. (1987) The Everyday World as Problematic: A Feminist Sociology, Milton Keynes: Open University Press, 71.
*8:Dyer, R. (2000) ‘The Matter of Whiteness’, in Back, L. and Solomos, J. (eds.), Theories of Race and Racism, London: Routledge, pp. 539-548.
*9:ibid, 539.
*10:ibid.
*11:ibid, 541.
*12:Skeggs, B. (1997) Formations of Class and Gender: Becoming Respectable, London: Sage, 19.
*13:Smith, D. (1987) The Everyday World as Problematic: A Feminist Sociology, Milton Keynes: Open University Press.
*14:Skeggs, B. (1997) Formations of Class and Gender: Becoming Respectable, London: Sage, 18.
*15:Smith, D. (1987) The Everyday World as Problematic: A Feminist Sociology, Milton Keynes: Open University Press.
*16:ibid, 79
*17:ibid, 81.
*18:ibid, 83.
*19:Hartsock, N. C. M. (1997) ‘The Feminist Standpoint: Developing the Ground for a Specifically Feminist Historical Materialism’, in Nicholson, L. (ed.), The Second Wave: A Reader in Feminist Theory, London: Harvard University Press, pp. 216-240.
*20:ibid, 217.
*21:ibid, 222.
*22:ibid, 221.
*23:ibid, 223.
*24:ibid, 224.
*25:ibid, 225.
*26:ibid, 234.
*27:ibid, 222.
*28:Spelman, E. (1990) Inessential Woman: Problems of exclusion in feminist thought, (London: Women’s Press), 3.
*29:quoted in ibid., 116.
*30:ibid.
2005-06-22
学校は社会を救えるか――「学校効果」論批判 第3回 「公正のための力」?
教育 | |
前回は、「学校効果」モデルが内包する方法論的欠陥を指摘しました。しかし、もし仮にそのような欠陥を見逃して他よりも「効果的な」学校が存在すると認めたとしても、「学校は公正のための力となりうる」*1と言えるかどうか疑いが残ります。(1)「学校効果」は社会の不平等を正すのに十分な力をもっているか? (2)「効果的」とは誰にとってのことか? という二つの問題点があるからです。
1. 十分に強力か?
既に繰り返し見たように、「学校効果」のサイズを測定するには、入学者についての変数を統計的にコントロールする必要があります。このことは前回確認した方法論的な困難につながりました。しかしながら、そのような困難を脇に置いて、研究者が全ての学校外のファクターをコントロールすることに成功したと仮定しても、「学校効果」がどれだけ強力なものであるかということについてなお疑いが残ります。というのも、学校外の要因を打ち消すほど強力なものであったとしたら、そもそもそのような外部要因を排除する必要などなかったはずだからです。要するに、「学校効果」は、もし本当に存在するとしても、生徒のパフォーマンスに影響を与えている多くのファクターの一つに過ぎないのです。
このことの問題性は、たとえ話を使って説明できます。ある男の子が女の子をデートに誘おうとします。彼は『プライベート・ライアン [DVD]』のチケットを2枚買って彼女に声をかけますが、あえなく断られてしまいます。彼は嘆きます。「ああ、『恋におちたシェイクスピア [DVD]』にしとけばよかった!」と。ある意味において、彼は正しいかもしれません。『プライベート・ライアン [DVD]』は彼女の趣味に合わず、「映画効果」とでも呼ぶべきものが働いていたかもしれません。別の映画で誘っていればいくらかの違いがあったかもしれません。しかし、彼が認めなければならないことは、他にも多くのファクターが働いていたということです:顔、髪型、服装、年齢、性格、言語能力、社交性などなど。映画はその中の一つに過ぎません。したがって、映画を変えることで問題を解決できるかは疑わしいと言わねばなりません。そもそも、キムタクに誘われていたならば彼女はどんな映画でも一緒に観に行っていたことでしょう。*2
同じように、「学校効果」は数多くのファクターの一つに過ぎないということは、その強度を疑わしいものにします。いくらかの違いはもたらしたとしても、私たちが生きる社会の巨大な不平等を解決するには十分ではないでしょう。
2. 誰にとって「効果的」か?
さらに、百歩譲って「学校効果」が十分に強力なものだと仮定したとしても、(またしても)問題が残ります。というのも、以下のように問われなければならないからです。「効果的」とは誰にとってのことなのか? 「効果的な学校」は貧困層を利するのか、富裕層を利するのか、それとも両方か? それぞれのケースが示唆するのはどのようなことか? この問題は、ヒルマンの以下の文章に見ることができます:
個々の学校が違いをもたらす大きな余地がある。学校は……同じ比率で生徒の進歩を促すのではない。……一部の学校は、生徒の人生の可能性に「価値を加える」ことにおいて、他の学校よりも効果的である。*3
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- 作者: Paul Hamlyn Foundation National Commission on Education, Paul Hamlyn Foundation National Commissi
- 出版社/メーカー: Routledge
- 発売日: 1996/05/29
- メディア: ペーパーバック
しかしながら、もし全ての生徒が平等に「加えられた価値」の利益を受けるなら、各生徒のお互いに対する相対的な位置に変化はないはずです。貧しくて不出来な子どもが学業的に向上するのと同じように、裕福で優秀な生徒の成績も上昇するでしょう。両者の間の距離は縮まりません。
驚くべきことに、ルターたち自身がこの点を認めています。彼らは言います:
どの個別の学校内においても、子どもたちの間の成績の差異は学校間の平均成績のいかなる差異よりもずっと大きい。教育の質を上げることは全ての者を同じようにする効果はもたない。……学校を改良することは必ずしも個人間のバリエーションに違いをもたらさないだろう。*4
ルターたちはそれでもなお、「全体の成績のスタンダード」*5を向上させるということを根拠に「学校効果」の意義を主張します。これは、公正のための力・手段としてではなく、「教育のための教育」に価値を認める者にとっては喜ばしいことかもしれません。しかし、それは社会の不平等の埋め合わせをすることとは何の関係もないはずです。
「効果的な学校」が不平等を減らすためには、以下のいずれかの条件が満たされなければなりません。すなわち、a) 「効果的な学校」が貧困層の子どもに富裕層の子どもよりも大きな利益をもたらすか、b) そうした学校が貧困地域のみに存在しているか。そうであるならば「効果的な学校」は不平等を緩和するのに役立つでしょう。貧しい子どもと金持ちの子どもの間の距離が、前者がより速く上昇し後者に近づくことによって、小さくなるからです。しかしこのことを示す証拠はありません。
それどころか、モルティモアが提示する調査結果は正反対を向いています。彼は、「一般的に効果的な学校では……特に恵まれたバックグラウンドをもつ生徒が好成績の生徒よりもさらに優秀な成績を取ることができるようだ」*6と言います。もしこれが事実だとすれば、格差は増大されてしまいます。なぜならば、「効果的な学校」は恵まれた生徒を貧困層の生徒よりも大きく押し上げるからです。だとしたら、「効果的な学校」は不平等を縮小させるどころか悪化させると言わなければなりません。このように、仮に「学校効果」が存在し、なおかつそれが強力なものだとしても、それが公正のための力となりうるということを信じることはきでないのです。
3. 学校ではなく社会を変えよう
「学校効果」モデルへの僕の批判は二重のものでした。第一に私たちは、学校が生徒のできばえに影響を与えているという研究が方法論的欠陥につきまとわれていることを見ました。第二に僕は、もし第一の点を脇に置いて、「学校効果」の存在を認めたとしても、それは社会的不平等を解消できないことを示しました。今や私たちは、自信をもってモルティモアの「効果的な学校は……一定程度……社会[の不平等]の埋め合わせをする」*7ことができるという主張を退けることができるでしょう。「学校は公正のための力となりうる」*8というルターの説も誤りです。
もちろん、これは社会的不平等を削減することが達成不可能な目標であるということではありません。それは単に、学校教育がそのための手段とはなりえないということを意味しています。「学校効果」論者の一人であるバーバーはこう言いました:
この[生徒のパフォーマンスへの学校の効果は無視できるという]立場の論理は、生徒の状態を改善することに心を砕いている教師を……社会的・政治的変革の要求へと追いやる。というのも、学校が何の違いももたらさないのだとしたら、それだけが状況を変えるだろうからである。……学校の効果性についての研究は……根本的で完全に好ましい風潮の変化をもたらす一因となった。今や教師や学校は、自分たちが違いをもたらすことができるのであり、実現可能で効果が測定可能な変化に向けて努力できるのだと信じている。*9
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The Learning Game: Arguments for an Education Revolution
- 作者: Michael Barber
- 出版社/メーカー: Victor Gollancz
- 発売日: 1997/09
- メディア: ペーパーバック
(イギリスでは)「学校効果」論が不当な人気を博している現在では、バーバーの言葉は逆転されてしかるべきでしょう:「学校効果」の論理は、社会的平等を目指す者たちを、経済的・政治的・社会的なレベルでの直接的な介入から、個々の学校を改善しようという虚しい努力へと追いやる、と。しかし学校教育は公正のための力たりえません。社会を変える唯一の道は、他の何かではなく、社会自体を変えることであるということに気付くべき時であると思います。
*1:Rutter, M. et al. (1979) Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children, (London: Open Books), 205.
*2:分野は違いますが、ゴーントレットは「メディア効果」論を批判する論文の中で次のような例を挙げています:「イギリスの交通事故問題の解決策は、コーンウォール出身の一人の運転が下手で有名なドライバーを監禁することである」。Gauntlett, D. (1998) ‘Ten Things Wrong with the “Effects Model”’, published at <http://www.theory.org.uk/effects.htm>. Originally published in Charlton, T. and David, K. (eds.) (1997), Elusive Links: Television, Video Games, Cinema and Children's Behaviour, (London: Park Published Papers).
*3:Hillman, J. (1996) ‘Introduction: The Challenge of Disadvantage’, in National Commission on Education, Success against the Odds, (London: Routledge), 8, 強調は引用者による.
*4:Rutter, M. et al. (1979) Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children, (London: Open Books), 7.
*5:ibid.
*6:Mortimore, P. (1997) ‘Can Effective Schools Compensate for Society?’ in Halsey, A. H. et al. (eds.) Education: Culture, Economy and Society, (Oxford: Oxford University Press), 481.
*7:Mortimore, P. (1997) ‘Can Effective Schools Compensate for Society?’ in Halsey, A. H. et al. (eds.) Education: Culture, Economy and Society, (Oxford: Oxford University Press), 483.
*8:Rutter, M. et al. (1979) Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children, (London: Open Books), 205.
*9:Barber, M. (1997) The Learning Game: Arguments for an Education Revolution, (London: Indigo), 128.
ぱれいしあ
このエントリ、面白かったです。
結局、社会の不平等を訂正しないと、学校を変えてもしかたがないんですよね。そこで過剰に学校への期待をもつと、いかがわしい改革談義にまきこまれる。わたしはそういう話には面従腹背です。わたしの場合は、家や地域のある種の文化的な貧しさと、ジェンダーによってかなり早い時期より学校的な世界から除外されていました。そんなところで個人的にがんばっても、将来勉強らしい勉強のできるところには行けそうにもないと判断して、10歳のころ、学校用語で言えば小学校の4年生のとき以降、勉強への意欲はうせました。
それでも、60代くらいになってからでもいいから、動物学の博士号をとって学問の入り口に入りたい気持ちは、どうやっても消せないんです(ハァ)。
ぱれいしあ
連続投稿になってごめんなさい。
↑の個人的な話は、個人的であるのと同時に社会的な問題でもあると考えたので、あえて書きました。
toled
ぱれいしあさん、コメントありがとうございます。社会の問題に対して、個々の学校や個人を変えることで対応しようという発想はおかしいと思います。社会の問題はあくまでも社会の問題だと思うのです。
動物学ですか。面白そうですね〜。
タカマサ
リンクいたしましたので、おしらせいたします(http://blog.drecom.jp/tactac/archive/119)。
タカマサ
きのうの文章だけだと誤解をうけそうなので、補足の続編をかきました(http://blog.drecom.jp/tactac/archive/274)。
やたやん
公教育(学校)というものは、民衆にとって必要だったというよりは、国家とって必要だったからこそ、日本でも明治時代に富国強兵、拓殖産業政策のもとに推し進められたわけですよね?無学文盲ではプロパガンダも理解できないですからね。始まりからして公正じゃない流れの上にあると思うのです。
やたやん
公教育(学校)というものは、民衆にとって必要だったというよりは、国家とって必要だったからこそ、日本でも明治時代に富国強兵、拓殖産業政策のもとに推し進められたわけですよね?無学文盲ではプロパガンダも理解できないですからね。始まりからして公正じゃない流れの上にあると思うのです。
2005-06-21
学校は社会を救えるか――「学校効果」論批判 第2回 方法論的欠陥
教育 | |
1. 入学する生徒のバリエーションを統計的にコントロールすることの困難
前回見たように、「学校効果」研究者は「学校効果」を直接測定できるわけではありません。スミスとトムリンソンはこう指摘しています:
学校の効果性を測定する際の基本的な問題は、子どもの到達するレベルは学校に加えて広範囲にわたる要因に影響されているということだ。それゆえ、子どものできばえは彼らが受けた学校教育の結果であり、したがってその効果性を示すものとは憶測することはできない。*1
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- 作者: David J. Smith, Sally Tomlinson
- 出版社/メーカー: Policy Studies Institute
- 発売日: 1989/02
- メディア: ハードカバー
ですから、生徒の教育結果が学校によって異なっていることを示すだけでは「学校効果」を示すのに十分ではありません。というのも、それは学校とは関係ないファクターによるものかもしれないからです。教育結果の違いのうちどれだけが学校によって引き起こされたものであるかは明白なものではありません。だから、「学校効果」を特定する前に、学校以外の要素を考慮することが必要になります。既に見たように、ルターたち*2は、学校が受け入れた生徒についての4つの変数を統計的にコントロールしようとしました。その上で残った差異が個々の学校に帰されました。
しかし、この4つが生徒の特徴を考慮するのに十分であるかには疑いがあります。ハーグリーヴス*3が指摘したように、このうち2つは実は学校のあり方に関係しています。「10歳時の言語推論能力のスコア……[と]教師によって記入された品行調査のスコア」*4は子どものバックグラウンドの指標であるだけではなく、学校教育自体に関わっています。だから、4つのうち残る2つの測定値――親の職業と移民であるかどうか――だけが真に非学校的な変数であると言うことができます。
しかも、これらの2つの測定値は包括的すぎるとハーグリーヴスは言います。たとえば、アジア系と西インド系の違いは無視されています。というのも、ルターたちは親が移民であるかどうかということにしか関心をもっておらず、出身国は考慮していないからです。これはとても問題のあるものです。なぜならば、この2つのグループは、教育への態度においても、その達成レベルにおいても、大きく異なるからです。*5「親の職業」の扱いも異論の余地のあるものです。ルターたちは、「ほとんど全ての目的のために我々は職業を3つの広いカテゴリーにグループ分けした」*6と言います。その3つとは、a) 専門職、管理職及び熟練非肉体労働、b) 熟練肉体労働、c) 準熟練及び非熟練肉体労働と失業者です。これでは、「社会学教授から書類整理係までを含む多様な職業が……[単一のカテゴリーに]組み込まれている」*7ことになります。だとしたら、入学者についてのルターたちの測定値は、「多くの異なる職種を包摂しており、大部分、互いを打ち消す」*8ものであると言わねばなりません。
これは深刻な欠陥です。というのも、「学校効果」は生徒のバックグラウンドの変数を十分にコントロールすることなしには測定できないからです。非学校的なファクターを適切に考慮しなければ、研究者の目には「学校効果」であるように見えるものも実際には学校外の要因の効果かもしれないのです。ルターたちは「[生徒の]バックグラウンドの特徴の影響の深刻な過小評価と……したがって学校教育自体の効果の重大な過大評価」*9を犯しています。
一見、これは修正可能な欠陥であるように見えるかもしれません。多様性を考慮に入れるために、生徒の階級バックグラウンドの変数をもっと工夫できるかもしれない。人種や民族も加えることができるかもしれない。入学した生徒についてのより多くの測定値を導入できるかもしれない。しかし、それでも問題は消えません。というのも、十分な数の変数を考慮したとはいつまでたっても確信できないからです。私たちの目には見えない、なんらかの他のファクターが働いているかもしれません。よって、ルターたちが入学者の変数を十分にコントロールしそこねているということは、この領域の後のより洗練された研究にもついてまわるであろう原理的な方法論上の困難を示しているのです。
2. 「効果的な学校」の特徴を特定することの困難
研究者は、「学校効果」のサイズを測定することにおいてだけではなく、何が学校を「効果的」にするのかを説明することにおいても困難に直面します。学校は真空状態に存在するわけではなく、生徒・親・教師を含む様々な人々と共に存在しているので、学校生活のどの部分を学校自体に帰すことができるのかは明白ではありませんん。
この問題は、ルターたちが学校の「効果性」と校舎や物理的な設備といった学校の有形の要素との間につながりを見出してはいないことに現われています。彼らは、その代わりに「エートス」(ethos)なるものによって「効果的な学校」の特徴を説明しなければなりませんでした。それは「学校全体の特徴となる一連の価値、態度、行動」*10と定義されます。このような心理学的な概念に頼ることには問題があります。というのも、コンクリートの建物とは違い、それは学校のファクターのみからなるわけではないからです。
この問題はレイノルズの論文*11にはっきりと見ることができます。彼は「組み入れ」(incorporation)と「強制」という二つの教育戦略を対比し、前者を「効果的な学校」と、後者を「効果的でない学校」と結びつけます。前者は、「生徒を学校の運営に組み入れることと親を学校のサポートに組み入れること」*12を含みます。このような戦略を採る学校では、生徒は授業に積極的に参加することを奨励されます。レイノルズによれば、「組み入れ」の戦略は生徒の間に反学校文化が芽生えることを防ぎ、生徒は学校に協力的になります。親も学校に関わるよう促されます。
一見、これは「効果的な学校」にとてもふさわしい特徴であるように見えるかもしれません。しかし、こう問う必要があります。「どちらが原因でどちらが結果なのか」と。学校が「組み入れ」戦略を採用しているから生徒と親は協力的なのか? それとも、そもそも生徒と親が支持的であったからこそ学校がこの戦略を採ることができたのか? 皮肉にも、戦略の選択についてのレイノルズ自身の説明はこの点で興味深いものです。彼は、教師が生徒や親をどう見ていたかによって選択がなされていたと言います。レイノルズいわく:
強制的な学校……では、教師は生徒が「性格トレーニング」と「コントロール」を必要としていると見なしていた。これは、初期の社会化における欠陥に根ざすものと考えられていた。学校は一種の管理主義(custodialism)によってこの欠陥を埋め合わせようとした。そのような認識が強制の学校エートスの創造の重要な種子となった。*13
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School Effectiveness: Research, Policy and Practice (School Development Series)
- 作者: David Reynolds, Peter Cuttance
- 出版社/メーカー: Cassell
- 発売日: 1992/07
- メディア: ハードカバー
また、教師たちは「親たちの協力が見込めないと考えた」*14ために彼らを「組み入れ」ようとしませんでした。
「強制的な」教師たちは生徒や親を誤解していたと主張することはできるかもしれませんが、生徒と親が少なくともいくぶんかは教師の認識に影響を与えていたということは否定できないでしょう。だとしたら、学校の「エートス」は、単に教師や学校自体に帰すことはできないはずです。生徒や親はそれから影響を受けるだけではなく、影響を与えてもいるのです。ルターたちやレイノルズが「効果的な学校」の特徴であると説明しているものは、学校自体だけではなく生徒や親によっても引き起こされているように見えます。しかし、生徒や親が学校に持ち込む影響は、「学校効果」を測定するためにはそもそも排除されていなければならなかったのです。
*1:Smith, D. J. and Tomlinson, S. (1989) The School Effect: A Study of Multi-Racial Comprehensives, (London: Policy Studies Institute), 19.
*2:Rutter, M. et al. (1979) Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children, (London: Open Books).
*3:Hargreaves, A. (1980) ‘Review Symposium: Fifteen Thousand Hours’, in British Journal of Sociology of Education, 1(2), pp. 211-216.
*4:Rutter, M. et al. (1979) Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children, (London: Open Books), 44.
*5:Swann, M. (1985) Education for All, (Cmnd 9453).
*6:Rutter, M. et al. (1979) Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children, (London: Open Books), 46.
*7:Hargreaves, A. (1980) ‘Review Symposium: Fifteen Thousand Hours’, in British Journal of Sociology of Education, 1(2), 213.
*8:ibid.
*9:ibid, 214.
*10:Rutter, M. et al. (1979) Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children, (London: Open Books), 179.
*11:Reynolds, D. (1992) ‘School Effectiveness and School Improvement: An Updated Review of the British Literature’, in Reynolds, D. and Cuttance, P. (eds.) School Effectiveness: Research, Policy and Practice, (London: Cassell), pp. 1-24.
*12:ibid, 10.
*13:ibid, 11.
*14:ibid.
2005-06-20
学校は社会を救えるか――「学校効果」論批判 第1回 「学校効果」モデルとは
教育 | |
私たちは人種差別的な社会に生きています。私たちの社会は家父長主義的(男女差別的)でもあり、階層化されてもいます。この現実を前にしての一つの姿勢は、それを「自然」なものとして受け入れることでしょう。日本人は在日朝鮮人よりも、男性は女性よりも、金持ちは貧乏人よりも優っているのであり、不平等があっても当然である、こう考える方もいるでしょう。そう思う方とは対話すること自体が不可能であり、革命成就後に思想改造所でお会いしましょうとしか申し上げようがありません*1。一方で私たちサヨクは、現在のそのような社会のあり方に異議を申し立てようとします。サヨクにとって社会的不平等は放置されるべきものではなく、解消されるべき課題であるのです。この立場からは、人種的・性的・階級的不平等を縮小したりなくしたりすることは言うまでもなく良きことであると見なされます。この連載で僕は、この立場に立ちます。
しかし、平等を求める者の間にも、いかにしてそれを達成すべきかということについては合意がありません。っていうか対立のあまり、殺し合いが起きたりするありさまです。社会を変えるために、どんな手段が取られるべきか? 平等を実現するためには、何がなされるべきか? こうした問いに対する解答としてしばしば挙げられるのが「教育」です。教育や学校制度が、社会変革のカギであると多くの人が考えています。しかし本当に、教育は社会を変える力をもっているのでしょうか?
「学校効果」(school effect)論の立場に立つイギリスの一部の教育研究者は、「イエス」と答えます。「学校効果」論者は、学校教育が階層格差是正に一定の「効果」をもっていると考え、「効果的」な学校の設計を目指します。「学校効果」研究者の一人、モルティモアは「効果的な学校(effective schools)は……一定程度……社会[の不平等]の埋め合わせをする」*2ことができると宣言しました。ルターたちも、「貧しい地域においてさえも、学校は公正のための力となりうる」*3と主張しました。彼らは教育をより平等主義的な社会を実現するための手段であると見なします。この連載では、この「学校効果」研究を批判的に紹介します。
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Education: Culture, Economy, and Society
- 作者: A. H. Halsey, Hugh Lauder, Phillip Brown, Amy Stuart Wells
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr on Demand
- 発売日: 1997/05/08
- メディア: ペーパーバック
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Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children
- 作者: Michael Rutter
- 出版社/メーカー: Harvard Univ Pr
- 発売日: 1982/03
- メディア: ペーパーバック
先ほど引いたモルティモアの言葉は、一文で二つのことを言っています。つまり、(A)一部の学校は他の学校よりも「効果的」であるということ、そして(B)そのような学校は不平等を縮小するのに役立つということ、です。この二つのテーゼのうち、(B)は(A)を前提としています。したがって(A)が誤りであることが示されれば自動的に(B)も退けられるはずです。しかし、僕はそれだけではなくて、たとえ(A)が正しくても(B)は否定されるべきであると主張するつもりです。
この連載では、まず、学校はほとんど違いをもたらさないという異論を手短かに紹介した上で、「学校効果」モデルの基本的な枠組みを説明します。次にこの研究の方法論的な欠点を指摘します。そして最後に、「効果的な学校」は、もし仮に存在するとしても、はたして社会的平等に結びつきうるのかを問います。
ではまず、「学校効果」論に対立する研究を簡単に見ておきましょう。1970年代、アメリカの社会学者であるジェンクスは、膨大な統計的データを分析しましたが、学校の特徴と生徒の成績との間に極めて弱い結びつきしか発見できませんでした。*4それまでは黒人や貧困層の教育水準が低いことは彼らの通う学校が劣っているためであるという見方が強かったのですが、ジェンクスは、学校の設備の違いは生徒の教育的達成レベルには影響を与えないということを示しました。実際、高校の効果は生徒の教育結果のバリエーションのたったの2パーセントしか説明しないそうです。ジェンクスいわく:
学校のアウトプット[=生徒の成績]の性格は主に一つのインプットによって決まる。つまり、入学する子どもたちの特徴である。他の全てのこと――学校の予算、方針、教師の特徴――は二次的であるか完全に無関係である。*5
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Inequality: A Reassessment of the Effect of Family and Schooling in America
- 作者: Christopher Jencks
- 出版社/メーカー: Basic Books
- 発売日: 1972/10
- メディア: ハードカバー
要するに、裕福な子どもが入学する学校は優秀な卒業者を生み出し、貧しい子どもが入学する学校は低い教育結果を生み出す――教育結果の決定要因は「誰が入学するか」ということであって、学校自体の特徴は重要ではない、ということです。それゆえ彼は、教育は「取るに足らない制度」(marginal institution)*6であり、教育を改革しても経済的不平等を是正することはできないと主張します。彼によれば、必要なのは教育を通した間接的な社会改良ではなく、「経済制度に対する[直接の]政治的コントロール」*7、つまり、社会主義です。
ジェンクスのこの研究は1970年代にはかなりの影響力をもっていたそうです。結果として、教育をいじってもしょうがないというペシミズム(悲観論)が教育社会学を支配するようになりました(ってよく知らないんですが知ったかぶりですみません)。イギリスの「学校効果」論者たちは、そのような流れに対抗し、再び教育の重要性を訴えました。ではここからは、彼らの「学校効果」研究のモデルに目を移してみましょう。
モルティモア*8はルターたちの研究*9をこのフィールドでの「先駆的な調査」であると言います。ルターたちは、ロンドンの中等学校*10の約2,000人の生徒について調査しました。彼らについての次の5つの測定値が集計されました。「a) 学校での生徒の品行、b) 出席日数、c) 試験成績、d) 就業、e) 非行」*11。ルターたちは、これらの測定値について、「中等学校の間に、大きくて統計的に有意な差異」*12を発見しました。このような発見自体は新しいものではありません。「学校効果」パラダイムの独自性は、そのような差異の原因をどう説明するか、というところにあります。さっきのジェンクスが「教育的達成の最も重要な決定要因は家庭的背景である」*13と主張したのに対して、ルターたちは学校もまた重要な役割を果たすと考えます。
しかし、生徒のできばえが学校間で異なることを示すだけでは、生徒のパフォーマンスに学校が一定の影響を与えていることを証明するには十分ではありません。というのも、そのような差異は、学校以外のファクターから影響を受けているからです。ルターたちもこの点はわきまえています。だから彼らは、学校が受け入れた生徒のバックグラウンドについて、「各学校を統計的に[補正]」*14しようとします。このために、彼らは入学した生徒のバックグラウンドのバリエーションをコントロールします。彼らが集計した、学校が受け入れた生徒の測定値には以下のようなものがありました。「a) 生徒の10歳時の言語推論能力のスコア、b) 親の職業、c) 教師によって記入された品行調査のスコア」*15。「子どもの親がイギリスへの移民かどうか」*16も考慮されました。
こうした生徒についての測定値が統計的にコントロールされたあとでも、学校は生徒のできばえにおいて有意な差を示す、というのがルターたちの主張です。ルターたちいわく:
入学者の特徴の学校間の違いは、[学校間の教育結果の]差異を説明しなかった。というのも、もっとも恵まれた生徒を受け入れている学校が、必ずしも最高の教育結果を出す学校ではなかったからである。さらに、入学した生徒[の特徴]がとても似ている学校が、時に大きく異なる調査結果を示していた。*17
たとえば、ルターたちは「かなり似た品行的に問題のある少年を受け入れた二つの学校AとB」*18を比較します。14歳時に集計された追跡調査によれば、「B校」の少年たちは「A校」の生徒たちよりも5倍の確率で「品行的問題」を示したとのことです。
ルターたちはそのような差異の原因を個々の学校に求めます。学校が受け入れた生徒のバリエーションは既にコントロールされている(とされている)ので、残る差異は学校によって引き起こされているというわけです。このことから、ルターたちは各学校はそれぞれ異なる「効果性」をもっているという主張を導きます。彼らは言います:
子どもたちは、通う学校によって異なる品行と学業成績を示した。このことの含意は、中等学校在学中の経験が子どもたちの進歩に影響を与えているのかもしれない、ということである。*19
このようにして、学校が生徒のできばえに違いをもたらすのだという議論は組み立てられていきます。
では、どのような類の学校が、より「効果的」であるとされるのでしょうか? 何が学校を「効果的」にするのでしょうか? ルターたちは、校舎や設備といった物理的な特徴が違いをもたらすのではないということについてはジェンクスに同意します。実際、そのような点に問題があるにもかかわらずうまくいっている学校もありました。学校間の教育結果の違いは、むしろ「社会的機関としての特徴」*20によって引き起こされると彼らは言います。その特徴とは、「学業が強調される度合い、授業での教師の行動、インセンティヴ(動機付け)や報奨があるかどうか、生徒にとっての好ましい条件、子どもたちが責任を任されている度合い」*21といったものであり、それら全ては「外的な制約によって固定されておらず、職員による修正の余地がある」*22ものでした。これらのファクターは互いに組み合わさって、ルターたちが「エートス(ethos)」と呼ぶものを形成します。それは「学校全体の特徴となる一連の価値、態度、行動」*23のことです。
これが、「学校効果」研究のアウトラインです。では次回以降は、この研究を検証してみることにしましょう。
*1:っていうのはエンターテインメントとして取ってくださいね♪
*2:Mortimore, P. (1997) ‘Can Effective Schools Compensate for Society?’ in Halsey, A. H. et al. (eds.) Education: Culture, Economy and Society, (Oxford: Oxford University Press), 483.
*3:Rutter, M. et al. (1979) Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children, (London: Open Books), 205.
*4:Jencks, C. (1972) Inequality: A Reassessment of the Effect of Family and Schooling in America, (Middlesex: Penguin Books).
*5:ibid, 256.
*6:ibid, 265.
*7:ibid.
*8:Mortimore, P. (1997) ‘Can Effective Schools Compensate for Society?’ in Halsey, A. H. et al. (eds.) Education: Culture, Economy and Society, (Oxford: Oxford University Press), pp.476-487.
*9:Rutter, M. et al. (1979) Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children, (London: Open Books).
*10:日本で言う中学・高校のことです。たぶん。。。
*11:ibid, 48.
*12:ibid, 92.
*13:Jencks, C. (1972) Inequality: A Reassessment of the Effect of Family and Schooling in America, (Middlesex: Penguin Books), 158-159.
*14:Rutter, M. et al. (1979) Fifteen Thousand Hours: Secondary Schools and Their Effects on Children, (London: Open Books), 26.
*15:ibid, 44.
*16:ibid.
*17:ibid, 27.
*18:ibid.
*19:ibid, 178.
*20:ibid, 178.
*21:ibid.
*22:ibid.
*23:ibid.
toled
↑統計用語の扱いとか自信ないです。。。もし間違いがあったらご指摘ください。
櫻井のりこ
「学校効果」肯定派がイギリスの研究者(たち)で、否定をアメリカの学者の研究が行っている事がわかった時点で、「当ったり前やん、70年代のアメリカとイギリスやったら、人種/階層/経済力が生活に及ぼす影響力、国の景気、かなり違うやん」と思いました。…でも論拠を立証できませんし、自分の《感想》を社会学的に証明せねばとも思わないのですが、あえて言えば、
おそらく当時のイギリスは“福祉国家かつ排他的”な政策で、アメリカは“福祉国家でなく、排他的でもない(イギリスよりは)”政策を取っていたのだから、しかも地理的条件も差異(地域格差が持つ意味の差異)が大きく、そもそもイギリスの統計もアメリカの統計も同列に比較するには偏差が大きすぎる。しかしアメリカ統計のほうが、国土面積・人種多様性において、イギリス統計よりより普遍性が高い可能性がありそうだ――というところでしょうか。
場違いな投稿だったらごめんなさいm(__)m
toled
書き込みありがとうございます! イギリスの「学校効果」論者の研究しか紹介してないのは、この連載が6年ほど前にイギリスに留学していた時に書いたレポートの翻訳だからです。たぶん、アメリカはアメリカで「学校効果」研究があるんじゃないかと思います。「福祉国家かつ排他的」というネオリベラリズム体制は僕も関係していると思います。社会を大きく変革しようとするのではなく、学校のような小さなところで改革し、地域・親・子どもに責任を押し付けていく、という一連の流れの中に「学校効果」論があるのじゃないかと思います。
2005-06-18
(元)登校拒否児のためのブラック・フェミニズム入門講座 第3回 社会運動史のなかのブラック/第三世界フェミニズム
フェミ | |
しかし、女性の間の差異を認めることには、困難が伴います。というのも、そのことは、家父長制に対峙しての全ての女性の潜在的団結を当然のものと見なすことを不可能にするからです。スチュアート・ホールは問うています:
その二つのもの――文化的差異と社会的連帯――は互いに対立するのではありませんか? フェミニズムを見てください。フェミニズムは、ある集合的カテゴリー――女性――の名のもとに歩を進めてきました。……しかし女性運動は急速に、あるカテゴリーに属する女性とまた別のカテゴリーに属する者……との間の差異によって引き裂かれていきました。私たちサヨクの行為主体(agency)の理解はある種の共に集まる感覚、つまり連帯感に常に頼ってきました。……しかし新しい「差異」の論理によって掘り崩されたのは、まさにその一体感であり……連帯感であったわけです。*1
このような現実に直面して、俗流サヨクはこう言うかもしれません。ブラック/第三世界フェミニズムは「分断的」であり、反革命的である、と。また、これらのフェミニズムの差異への注目を廃棄して政治的統一を達成すべきである、と。
しかしそのように言う人がいるとすれば、こう問わねばなりません。「分断的なのは本当にブラック/第三世界フェミニズムなのか」と。この講座の前2回で見たことを振り返れば、答えは明らかに「NO」です。女性を分断したのは人種主義とグローバル資本主義でした。私たちの世界は、ブラック/第三世界フェミニズムが登場するずっと前から既にこれらのシステムによって分断されていました。ブラック/第三世界フェミニズムが分断的であるという物言いは、したがって、被害者を非難するような行為であると言わねばなりません。ブラック/第三世界フェミニズムが実際にやったのは、女性を分断することではなく、あらかじめ存在していたが「普遍的なシスターフッド」の名のもとに隠蔽(いんぺい)されていた差異を、見えるようにしていくということでした。ブラック/第三世界フェミニズムを退けることによって女性の間の差異を否定することは、真実を再び地中に埋めて、白人/第一世界女性の特権を正当化することに他なりません。
ブラック/第三世界フェミニズムが女性間の人種的・国際的格差を明らかにしたことは、社会運動史の進化プロセスに当てはめて理解することができると僕は思います。解放を求める人々の戦いは、「普遍性」の外観のもとにそれまで隠されていた社会的境界線を暴くことを通して前進してきました。この点を展開するために、マルクス主義のイデオロギーというキーワードを導入する必要があります。
マルクスとエンゲルスは、「支配階級の思想は、いつの時代も支配的な思想である」*2と述べました。彼らのフォーカスは階級にありますが、私たちはここで性や人種といったその他の差異についても同様に考えることができるでしょう。マルクスとエンゲルスによれば、被支配者に支配者の思想を受け容れさせる方法は、そうした思想を「普遍的」であるかのように見せかけることです。つまり、支配階級の思想は「社会の全ての成員の共通の利害として」、つまり「唯一の合理的で普遍的妥当性をもった思想として」*3提示されるのです。もしそうだとすれば、被抑圧者が解放を求めて立ち上がるためには、彼らはまず支配イデオロギーの「普遍性」なるものを拒否し、被抑圧者と支配者は異なる位置にあるのだということを明らかにしなければならないでしょう。
歴史を振り返ってみると、マルクス主義はブルジョワ・リベラル・イデオロギーの「普遍性」を攻撃しました。マルクスとエンゲルスは人々が資本家と労働者という二つの階級に分かれていることを示し、両者は必然的に対立する利害関係にあることを指摘しました。*4こうして彼らは階級闘争の場を拓きました。しかしながらそうする中で、彼らはまた別の普遍性を打ち立ててしまいました。つまり、全ての労働者は社会主義建設という共通の利害をもっている、というものです。
そして第二波フェミニズムが登場しました。フェミニストたちは、階級とは独立した別の境界線、性的境界を発見しました。こうして彼女たちはマルクス主義の男性主義的偏向を暴露し、男性労働者と女性労働者は必ずしも共通の利害を持たないと主張しました。*5フェミニストたちは、社会主義が達成されても女性は抑圧され続ける可能性があるのであり、だから、労働者運動とは別に自分たち自身の運動を必要としているのだと主張しました。しかし、このフェミニストたちによる伝統的マルクス主義への異議申し立ては、多くの抵抗を招きました。プロレタリアの統一に対して「分断的」であるという点で、フェミニズムは「反動的」であるとされたのです。*6この非難の論理がブラック/第三世界フェミニズムに向けられたものといかに似通ったものであるかということは注目に値するでしょう。
僕は、ブラック/第三世界フェミニズムの進歩性は、それを歴史的文脈の中に位置づけたときに明らかになると思います。マルクス主義も第二波フェミニズムも共に、先行するイデオロギーによって隠されていた対立した利害を暴露することによって、社会運動のための新しい領域を拓いてきました。ブラック/第三世界フェミニズムは、この流れに続きます。それは、かつては「唯白論」のもとに隠蔽されていた、黒人/第三世界女性と白人/第一世界女性の間の対立する利害を白日のもとに曝し、黒人/第三世界女性が自分たち自身の理論と運動を発展させることを可能にしました。この意味において、ブラック/第三世界フェミニズムは決して反動的ではなく、むしろ進歩的なものであると言えるはずです。もし「進歩」とはより多くの人が自分たち自身の解放の理論と運動を獲得することを意味するならば。
この連載では、まず白人フェミニストの「唯白論」が黒人女性の経験を不可視のものにしていたことを見ました。次にブラック/第三世界フェミニストや一部の白人フェミニストが女性の異なる経験を分析し、人種差別や性差別、国際資本主義の相関性を主張していることを概観しました。最後に僕は、ブラック/第三世界フェミニズムを歴史的文脈に位置づけた上で、黒人/第三世界女性が自らの解放のために立ち上がることを可能にするという点で、それが反革命的どころか進歩的であると主張しました。さて、これで話はおしまいでしょうか?
さっき僕は、ブラック/第三世界フェミニズムは社会運動の歴史的プロセスの一部として理解されるべきであると述べました。だとしたら、ブラック/第三世界フェミニズムもまた乗り越えられる運命にあるのではないでしょうか? この連載を通して、僕は「白人女性」や「黒人女性」、「第一世界女性」、「第三世界女性」といった用語を、あたかもそれぞれが統一的な社会的グループを構成しているかのように使ってきました。しかし、一部のブラックフェミニストは「均質な黒人女性性」*7に疑問を投げかけています。アンシアスとユヴァル-デイヴィスいわく、
世代格差や、移民、難民、イギリス国籍をもつ黒人の区別、また異なるグループが経験する人種差別の独特の性質、こういったもの全てのために、我々は我々の分析についてより慎重に考える必要がある。*8
さらに言えば、「白人女性」もまた多くの異なる民族から構成されており、その中にはユダヤ系やアイルランド系の女性のように、人種差別の対象となってきたグループも存在します。*9
私たちは、階級、年齢、セクシュアリティ、障害、教育レベル、外見などなど、新たなファクターを導入することによって、ほとんど果てしなくこの差異を発見する作業を続けていくことができるでしょう。ブラック/第三世界フェミニズムが私たちに教えているのは、そのような差異は社会運動にとっての障害物ではなく、解放を求めて戦う場を切り拓いていく進歩的な可能性である、ということであると思います。
*1:Hall, S. and Jameson, F. (1990) ‘Clinging to the Wreckage: A Conversation’, in Marxism Today, September 1990, 30.
*2:Marx, K. and Engels, F. (1976) ‘The German Ideology’ in their Collected Works, vol. 5, (London: Lawrence and Wishart), 59.
*3:ibid., 60.
*4:Marx, K. and Engels, F. (1968) ‘Manifesto of the Communist Party’, in their Selected Work, (London: Lawrence and Wishart), 35-63.
*5:MacKinnon, C.A. (1989) Toward a Feminist Theory of the State, (London: Harvard University Press).
*6:ibid.
*7:Mirza, H.S. (1997) ‘Introduction: Mapping a genealogy of Black British feminism’, in her (ed.) Black British Feminism: A Reader, (London: Routledge), 5.
*8:Anthias, F. and Yuval-Davis, N. (1992b) Racialized Boundaries: Race, Nation, Gender, Colour and Class and the Anti-racist Struggle, (London: Routledge), 102.
*9:Maynard, M. (1994) ‘“Race”, Gender and the Concept of “Difference” in Feminist Thought’, in Afshar, H. and Maynard, M. (eds.) The Dynamics of ‘Race’ and Gender: Some Feminist Implications, (London: Taylor and Francis), 21.
toled
↑非常に強引な単純化を含む紹介です。学生レポートですのでどうかご容赦を。
櫻井のりこ
はじめましてm(__)m
マイノリティ(/マジョリティ)とは誰か?という命題らしきものを持つ私には、今連載はとても明快で爽快でした♪
貴戸さんとの共著『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』、はっちゃけ具合に激しく共感しました。
『不登校は終わらない』も、学術本としてはやや粗いかな…とも思いつつ、趣旨(核)には激しく同意です。
私は20年近く前に「登校拒否による身体症状」から高校中退(最終学歴)、数年前までフリースクールの印象は「貧乏家庭にはカンケーないやん。稼ぎ無いガキのくせに、学校イヤ、でもツルミたい?! クソ目出てー、若いって良いわねー(蔑笑)」だった未婚・未出産の34歳♀です。
4年前より某大阪編集局で仕事してます(笑…える?)。できれば常野さんと直にお知り合いになりたいです☆
toled
櫻井さんはじめまして!
ありがとうございます。本も読んでくださって嬉しいです。「はっちゃけ具合」というのもとても嬉しい賛辞です。大阪にお住まいですか? 僕は東京ですので、機会があったらいつかどこかでお会いしましょう!
フリースクールは確かに経済的な問題がありますね。僕が通っていたのは10数年前ですが、ほとんどの子どもは中産階級でした。
ところで「某大阪編集局」例のあの某NPO新聞のですか?
櫻井のりこ
お返事ありがとうございます!
確かに例のあの某新聞です(^^;)
…と公言する(?)からには、やはり今現在のフリースクール(居場所)通所条件には、貧富より教育に対する親の価値観が影響していることが心底わかったと明言いたします。私が高校時代、通学不能に陥ったのも10数年前ですが、当時の感覚で言うと、今はフリースクールと学習塾(進学塾)の垣根がなくなってきた…というところでしょうか。
私の住所は京都になります。名前はハンドルネームだと思ってください、苗字が冗談の産物ですし。
新連載も期待しています。また、じっくり拝読させていただきます!
toled
コメントありがとうございます! やはり某オルタナティヴ教育に関連する新聞の方でしたか。。。ツネノとレスの交換なんかして大丈夫なんでしょうか(汗)? まあ、色んな人がいて、色んな意見があって、ゴチャゴチャしてるくらいがいいのかもしれませんね。
>今はフリースクールと学習塾(進学塾)の垣根がなくなってきた
これはありますよね。っていうか、さらに進んでて、学校と民間の教育機関の境界線が揺らいでるかんじ。。。これは一面では「自由」が広がっていく過程である一方で、なんだか得体の知れない生きがたさも生まれてきてるんじゃないかと思います。
私もこの姿勢を支持します。
(マスコミの取材でも、自分の問題にひきつけて考える人とそうでない人がいますよね。
ただマスコミの場合は、TVや新聞の活字になることで取材された側にも宣伝というメリットがあるので少々意に沿わないことを書かれても目をつぶれる・・・。)
>対話はそこで終わらせるべきではありません。というわけで、社会調査が成功かどうかは調査者と被調査者のはてしなく続く関係のあり方による、というのがこの連載の結論です。
被調査者との対話が続いていくようなコミュニケーションを持つことが大切なんだという。
被調査者との対話が続いていくようなコミュニケーションを調査者が取材の段階からとっていくこと・・・それがあれば被調査者が傷つくことも最小限で済むのかもしれないですね。
今回のエントリーはとても興味深く、常野君の誠実な人柄から出ているメッセージが伝わってきました。
今回のエントリーは自分では調査をしてない人間がひきこもって「きれいごと」を書いてしまったので「誠実」と言われると照れます(汗)。
対話を続けるっていうのは、実際には簡単じゃないかもね。研究者もその調査だけやってるわけにはいかないだろうし。あと、調査が被調査者を傷つけることが主に懸念されるわけだけど、被調査者の側が調査者を追いつめることもあると思う。やっぱり調査者には「取材させてもらってる」という負い目があるので、セクハラまがいのこととか、少々無茶な要求も拒みにくいかも。取材で話を聞いてるうちに「惚れられてしまう」ということがあるそうです(転移)。僕はその話を聞いたときに、「そうか! 調査をしたら彼女ができるのか!」と思っちゃったけどねw
やはり人が人を調査・研究するということは難しいことなんですね・・・。
カウンセラーや精神科医が患者に惚れられるというのと同じかな。
たとえ「きれいごと」であっても、その志を持って行動するのとしないのでは違う過程と結果が導き出されると信じたいです。