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2005-08-25

選択の幻想から反学校の政治へ 第三回 学校制社会と反学校

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今回は、「世界システム論」の基本を紹介した上で、個体をバラバラに見るのではなく、その関係に注目する方法を不登校と学校の問題に適用することを試みます。誤解していただきたくないのは、何も経済体制が学校のあり方を最終的に規定している、などということを主張しようとしているわけではない、ということです。「世界システム」論に触れるのは、あくまでも一種の「たとえ話」としてです。社会的な関係を重視する発想から登校拒否を考えるためのヒントを得たいのです。そのような発想は、社会学やサヨク思想に広く見られるものです。ここで「世界システム論」を取り上げるのは、たまたまそれが比較的わかりやすい具体例であるからにすぎません。


「世界システム論」と反学校

旧来の社会科学においては、「国民国家」が基本的な分析単位となっていました。そして全ての国家は一定の発達段階を通過して「発達」する、とされていました。その際にはイギリスがモデルとなり、それに対してたとえばインドは「遅れた」段階にあって、いずれはイギリスが通った道を進んでいくものと考えられていました。

それに対して「世界システム論」の立場に立つ人々は、このように主張します。この世界は、資本主義世界経済という、単一のシステムからなる。だから、国民国家というものも、決してそれぞれに独立した別々の道を歩むわけではなく、その単一のシステムの「部分(パーツ)」として存在している。そして全体に対する「部分」としての国家は、お互いに対等平等な関係にあるのではなくて、一方がもう一方を搾取する不平等な関係にある。たとえば、イギリスの繁栄は、インドの窮乏に基づいている。また、その逆も真なり。だから、イギリスとインドのどちらが「進んでいる」かを比較することに意味はない。両者は、同じコインの表と裏の関係にあるのだから。。。

このような考え方は、サヨクにとっては、「一国社会主義」のむなしさを意味します。「一国社会主義」というのは、「今にも世界中で革命が勃発しそうだ」という前提で開始されたロシア革命とその後のソ連体制を、その前提が崩れた後でも正当化しようとしてスターリンが編み出したものです*1。この思想の下では、他の主要国で資本主義体制が存続していても、ロシア単独で社会主義を実現できると考えられます。しかし、「世界システム論」の立場からすれば、ロシアは決して他から独立した存在ではなくて、資本主義世界経済の一部なわけだから、このような考え方にはどうしてもムリがある、ということになります。

さて、「学校に行くかどうかを選択できるようになればいい」といった言い方からは、学校と学校の外という二つの別の世界があるかのようなイメージを連想します。これは、「世界システム論」以前の社会科学がインドとイギリスを独立した存在としてとらえていたことと似ています。保坂展人さんいわく:

ぼくたちの社会には、きっと、二つの世界がある。多数派の世界と少数派の世界だ。……

その多数派の世界とは、「学校順応」のオンロードの人たちの世界である。高校を卒業して就職したり、または各種学校や専門学校に通ったり、あるいは短大や大学に進んだりという、ごくごく普通の人たちの世界である。他方、少数派の世界は、「学校離れ」して高校を中退していった人たち、小学校や中学校で不登校経験を持って高校に進学しなかった人たちなど、「学校」からいったん離れ、自分の生き方を模索している人たちの世界だ。

……

ここでさらに、多数派と少数派、二つの世界の関係をもう少し整理してみたい。まず、大地震の時にできる地割れのような大きな裂け目が、「学校順応」と「学校離れ」という二つの世界を隔てていると考えてみよう。多数派の世界に大勢ひしめき合う人々の姿を望遠鏡で最大限に拡大してみると、「卒業証書」という資格を大切に持っている。一方、少数派の人たちは、これを持っていない。……両者を隔てている谷は予想外に深く、漆黒の闇に覆われて、下まで見通すことができないほどだ。……あちらこちらの角度から見ていくと、二つの世界を隔てているのは谷だけではないことが分かってくる。「学歴社会」という名の頑丈な壁が、谷底の手前で多数派の世界をガードしているのだ。その壁にさえぎられて、多数派の人たちは谷底を覗いてみることすらできない。ましてや、頑丈ではないけれど両方の世界をつなぐ橋がかかっていることなど、どれだけの人が知っていることか。しかし、「中退」や「不登校」という名の古い釣り橋が、わずかに一方通行でかかっている。また、よく見れば「大検」や「再入学」というリフトもあるらしい。

ぼくたちの希望は、この谷に簡単だが頑丈な橋をかけて、お互いの行き来を自由なものとすることにある。

もし、本当に頑丈な橋をかけることができて、人々が安心して行ったりき来たりできるようになった時、「学歴社会」という名の壁は、過去の老廃物として谷底に崩れ落ちていく運命にある*2

保坂さんは、「学校順応」の世界と「学校離れ」の世界を二つの独立した領域としてとらえています。この図式においては、「学歴社会」はこの二つの「世界」を分断する「壁」であるとされます。しかし僕は、「学歴社会」は単なる境界線ではないと思います。それは全ての場所を覆いつくしています。「学校順応」の世界も「学校離れ」の世界も「学歴社会」の内部にあります。そしてそれは、「学校順応」の側が「学校離れ」の側を抑圧・搾取する社会です。両者が別々の「世界」に住んでいるとする立場からは、抽象的な「学歴信仰」を批判することはできても、両者の関係を問題化し、その根本的変革を目指すことはできません。

イギリスとインドが同じ一つのシステムの内部にあるように、学校に行く(行った)人も行かない(行かなかった)人も同じ一つの社会に生きています。そして、この社会はより長い期間学校に行った人がそうではない人を抑圧する「学校制社会(学校主義社会)」です。学校的な意味での成功者が享受する様々な利益や特権は、何も天から降ってくるわけではなくて、学校的な意味での敗者が直面する様々な困難に基づいています。また、後者の困難は、前者の特権に基づいています。両者は同じコインの表と裏の関係にあるわけです。一方をそのままにしておいて、もう一方を変えることはできません。

とすれば、「学校に行ってもいいし、行かなくてもいい」などという穏健な主張によって救済されるのは、少数のマイノリティー・エリートに限られます。学校に行かない自由を実現するためには、学校に行く側、特に学校に行くことによって大きな利益を受ける側を告発する必要があります。抑圧・被抑圧の関係を変革する必要があります。つまり、「反学校」である必要があります*3



「一国社会主義」とフリースクール

アメリカの資格主義・学歴主義を分析したランドル・コリンズは、フリースクールを一国社会主義のようだと言って批判します。いくらフリースクール内部で自由を実現しても、いざ大人になれば、資格主義が待っているではないか。どれだけ「自由な」学校であっても、資格主義社会の内部にあるわけで、となるとその「自由」なんて所詮とても限定されたものに過ぎないではないか、というわけです。

Credential Society: A Historical Sociology of Education and Stratification

Credential Society: A Historical Sociology of Education and Stratification

第一回で私たちは、学校に行かない者に対する小寺やす子さんの脅迫を見ました。彼女は、「現行の学校制度を否定してしまっては、子どもの将来の選択を大幅に狭めてしまう結果にな」*4ると主張していました。学校に行かないことを肯定する者はこのような批判にどう応えるべきでしょうか?

東京シューレのスタッフが書いた『フリースクールとはなにか 子どもが創る・子どもと創る』という本があります。この本によれば、東京シューレ出身者の進路は、「進学ルート」、何らかの職業に就くルート、そして「バンド、絵、カメラなど、自分の趣味ややりたいことにエネルギーを注ぎ、いま収入につながっている」ルートの三つに分類することができるそうです。この本は、アニメやゲームに熱中することが就職につながった「ヒロキ」や、アルバイトの経験や調理師学校をへて現在は子育てと仕事をしている「タカコ」、保育士を目指して通信制短大に在籍する「シホ」、親の経営する縫製工場をへて現在は大工をしている「トオル」らを紹介しています。

フリースクールとはなにか―子どもが創る・子どもと創る

フリースクールとはなにか―子どもが創る・子どもと創る

もしこのようなバラ色の将来が保証されているのだとすれば、小寺さんのような人に自信を持って反駁できることでしょう。しかし、「登校拒否解放の(不)可能性」(前編, 中編, 後編)でも指摘したように、このような「成功談」はウソくさいものです。現実には、多くの不登校経験者が、成人後、様々な経済的・精神的な問題に直面しています。

私たちは、学校に行かないことを「選択」することによって「学校制社会」とは別のどこかにワープしたわけではありません。第二回で紹介したビデオの二人の少年は、校門の前で手を振って別れました。しかし、二人はなお同じ一つの社会に生きています。そして、学校に行かないことを「選んだ」側には、「学校制社会」のマイノリティーとしての様々な困難のフルコースが待っていたのです。

では、コリンズの言うように、フリースクールの「自由」はむなしいものなのでしょうか? 学校に行かない子どものための居場所として生まれた日本のフリースクールに限って言えば、そうではないと思います。コリンズは無視していますが、さっきの「世界システム論」には、実は続きがあります。この考え方を普及するのに大きな役割を果たしたウォーラーステインは、資本主義に対抗する反システム運動が、あくまでも支配的システムの内部に存在し、当然それによって制約されていることを強調します。そして、いわゆる「社会主義国」にも貧困があり、不平等があり、性差別があり、言論の自由が制限されていたりするのは、社会主義自体の特徴であるというよりは、資本主義世界経済に属するがゆえであると指摘します。「だから」と彼は言います:

反システム運動とそれが創出することに役割を果たした体制は、どれだけ「いい社会」を作り出したか否かということによって評価することはできない。資本主義からの移行が、平等主義的な社会主義世界秩序に向かってのものとなることを目指す世界規模の闘争にどれだけ貢献したか、これが反システム運動を意味のある形で評価する唯一の基準である*5

Historical Capitalism With Capitalist Civilization

Historical Capitalism With Capitalist Civilization

これにならって言えば、フリースクールがどれだけ「自由」か、あるいはその出身者がどれだけ「成功」しているか、ということによってフリースクールを評価することは不当なものです。フリースクールもまた、「学校制社会」の内部に存在するのだから、それはフリースクール自体の責任ではありません。むしろ、この「学校制社会」を破壊するために、どれだけ貢献したか、ということを分析してみる必要があります。

フリースクールが存在することによって、会員に対して、世間に対して送ってきたメッセージは「学校に行かなくてもいいではないか」ということでしょう。これは、「学校は絶対だ」という「学校制社会」の支配的イデオロギーに対する、強烈なアンチ・テーゼとなるものです。フリースクールは、「学校外の居場所」として存在することによって、「絶対に学校に行かなければならない」という「学校制社会」の前提を危機にさらしてきたのです。

このようにして、会員や世間の一部の意識を変革することによって、自覚的にせよ、無意識的にせよ、フリースクールは学校制度を弱体化させてきました。フリースクールは、閉じられた空間に自由の理想郷を作ったのではなく、この社会全体をより自由なものへと変革してきたのです。フリースクールは、学校制社会とは独立した「別世界」でもなければ「アジール」でもありません。フリースクールは、他ならぬこの「学校制社会」内部に存在し、その制約を受けもすれば矛盾を体現しもします。そしてそれゆえにこそ、この社会を変える力となってきたのです。

フリースクール出身者を含む不登校経験者が様々な困難に直面しているという事実は、私たちがまだその変革の途上にあるということを示しています。私たちは、そのような事実をウソくさいサクセス・ストーリーによって隠蔽することではなく、むしろ積極的に暴露していくことを通して、学校制度を打倒し、より平等な世界の実現を目指す必要性を自覚すべきです。

*1:たぶん。。。

*2:保坂展人, 1994, 「学校の外に飛び出した『百万人』のあなたへ」『THE 中退』朝日新聞社, 8-9.

*3:もちろん、「学校に行った者」と「行かなかった者」の二元論で理解できるほど、この社会は単純ではありません。「大貧民」と「大富豪」の間に様々なバリエーションがあるように、人の学校との関わりも色々です。たとえば僕は、登校拒否をした後で学校に戻り、準学歴エリートになりました。ここでは、学校が不平等な社会関係を生み出すということを強調するために、強引な単純化を行っています。

*4:小寺安子,1994,『いじめ撃退マニュアル だれも書かなかった<学校交渉法>』情報センター出版局, 4.

*5:Wallerstein, I., 1983, Historical Capitalism, New York: Verso, 108.

ぱれいしあぱれいしあ 2005/08/25 23:05 Toledさん、妥当な主張だと思います。
ただ、わたしも「当事者」のひとりとして、たとえば世織書房の「子どもたちが語る登校拒否」の出版記念パーティーなどで、「スクーリングから脱出できても、スクリーニングから自由になったわけではない」程度のことは指摘しています。

あなたがウォーラーステインを使ったわけが、このエントリーを見て納得できました。わたしも十代のころからそれは分かっていましたよ。
フリースクールが、学校制度内存在として、学校を揺り動かすというのは実際そうだと思います。

これは、今日の社会運動は、個人よる行動が、結果として社会の変革をもたらすといった意味の言及を、社会運動論のアルベルト・メルッチの「現代を生きるノマド」(岩波書店)や、山之内靖の「システム社会の現代的位相」などにもあったので、ピンときました。

toledtoled 2005/08/25 23:38 ぱれいしあさんこんばんは。ひょっとして、そのパーティーで、ぱれいしあさんをお見かけしたかもしれません。「学校に行く子どもを『登校癖のある子ども』とでも呼んではどうか」と言って会場が受けていましたよね(違ってたらすみません)? あれからもう10年以上にもなりますね。。。

ぱれいしあぱれいしあ 2005/08/26 01:46 深夜におじゃまします。

そう、あのとき会場で妙な発言をして笑いをとっていたのはわたしでーす(^^)。ただ、わたしが紹介した話を聞いた石川憲彦センセは、ムカついた表情でわたしをにらんでいました。さすがは「一流」の東大理靴鯆未辰織札鵐察⊆らの特権の源泉を暴くヤツには
にらみをきかせてはる(苦笑)。

話が変わりますが、最近、脱学校会議室というMLをたちあげました。なぜかまたTBが貼れないので、URL貼っておきます。
http://blog.goo.ne.jp/egrettagarzetta/e/c2ab639ead2293a2d517
9a04e7a7d4d0

いろいろ語りたいこともあるんですが、差別を推進したい勢力に
見られると不都合かもしれない話題はこちらへどうぞ。
ある程度情報が集まり、議論も詰められた地点で、奥地さん(たちに)知らせたら面白いかも。

チャマチャマ 2005/08/26 23:59 toledさん、こんばんわ。
エントリに対するコメント、反学校に関するコメントその他は、もう少し「反学校とはナンゾヤ?」を明確にしてからさせて頂こうと思います。
今日はこの場をお借りして、ばれいしあさんに・・・

TBが貼れないとのことですが、はてな?外からはてな?にTBする際には、ばれいしあさんのエントリ内にココへのリンクを貼る必要があります。
リンクを貼った上で一端アップします。
その後TBURLを取り込んでから再度アップすると、TBできる筈ですよ。
私も最初は四苦八苦しました(笑)
私の説明では判り難いようでしたら、画面右上の「ヘルプ」を参照してください。
と・・・余計なお世話だったかもしれませんが・・・

toledtoled 2005/08/27 10:04 チャマさんありがとうございます。↓のエントリーにてレスさせていただきました。

2005-08-23

内藤朝雄さんへ

内藤朝雄さんへ - (元)登校拒否系 を含むブックマーク はてなブックマーク - 内藤朝雄さんへ - (元)登校拒否系 内藤朝雄さんへ - (元)登校拒否系 のブックマークコメント

内藤さんがこう書かれています。

問題は、常野氏の私に対する意図的な侮辱・悪罵・デマであり、それについて、常野氏は謝罪表明するべきではないだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/comment?date=20050808#c

僕は、今でも自分が内藤さんに対して行った主張や解釈は基本的には正しかったと思っています。また、「意図的な侮辱・悪罵・デマ」を行ったとは思っていません。ただ、二人のやりとりを読み返してみて、僕自身にもいたらない点が多々あったと感じます。あえて挑発的な言い回しを使ったり、一度言えばすむことを何度も繰り返したり。今から振り返ってみると、コミュニケーションの相手に対する敬意を欠いていたと言われてもしかたないと思います。冷静な対話ではなく、幼稚なケンカになってしまっていました。主張や事実報告は訂正しませんが、このような非礼な態度を取ったことは率直に謝罪します。内藤さん、ごめんなさい。今後も「論争」を行うことは恐れたくないと思っていますが、そして同じ過ちを繰り返してしまうかもしれませんが、なるべく気をつけるようにします。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/toled/20050823

2005-08-16

選択の幻想から反学校の政治へ 第二回 奴隷の「選択」

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学校に行けなくなった10歳の頃の僕にとって、学校に行かないことは絶対に許されないことでした。このままでは生きていく資格はないと思っていました。そのような僕にとって、東京シューレや奥地圭子さんとの出会いは、大きな転換点となるものでした。初めてシューレに行った日、「学校に行かないことは悪いことではないんだよ。法律違反でもないんだよ」と彼女に言われた時のことは今でもはっきりと覚えています。そのように言われて、そして、自分と同じように学校に行っていないのに平然と遊んでいる人々を見て、押しつぶされそうに重い肩の荷が降りたように感じました。

シューレに入ってしばらくの間は、それまでの反動からか「学校に行ってない方がエライ!」などと考えたりもしましたが、しだいに丸くなり、「どっちでもいいじゃないか」と考えるようになりました。「学校には行ってもいいし、行かなくてもいい。本人が決めればいいことだ」。こんな考え方は、かつての僕だけではなく、学校に行かないことを肯定する人々のコンセンサスになっています。たしかに一見すると、非常に「成熟」した考え方に見えます。学校に行かないことを頭ごなしに否定するのでも、逆に行かないことをヘンに持ち上げるのでもなく、そんなことにこだわらなくてもいいじゃないか、と軽くサラッと言ってしまうわけです。中沢淳さんは、1991年に以下のように宣言しました。

学校に行く、行かないは、おおげさに言えば人生の一つの選択に過ぎないと思うのです。ですから学校をこよなく愛する人たちには、皮肉ではなく未来永劫学校に行ってもらえれば、それはそれで誠に結構な事だと思うのです。自分にあった勉強の仕方、自分にあった生き方、それが大事なのだと思うのです。大人は憲法第22条職業選択の自由アハハーンを振りかざして、堂々と愛想のつきた会社を辞めることが出来ますが、なぜ子どもは堂々と愛想のつきた学校を辞める事が許されないのでしょう。

 この本を読んだら、自分からはっきり親に、学校に、社会に「自分は自分の道を歩もうとしてるんだ、邪魔するなぁー」と言って欲しいものだと、僕は勝手に思っています(他の著者はどう思ってるかは知りません)*1

中沢さんの言葉にあるように、この立場の特徴は、学校に行くか行かないかを「選択」の問題としてとらえているところにあります。行く/行かない、どちらが優れているわけでもない。一人ひとりが自分に合った道を選べばいいのだ……。これは、「不登校芸術」でしばしば描かれる物語のテーマでもありました。約15年前に製作された東京シューレ5周年記念ビデオ『いとをかし東京シューレ』には、このようなシーンがあります。制服を着た少年と私服の少年が仲良く連れ立って歩いてきて、校門の前で手を振って別れる。一人は学校の中へ、もう一人は学校の外へ……。

このリベラルな立場からは、学校に行くことを強制することは否定されます。しかしこの立場は、学校制度自体を否定しているわけではありません。学校に行かないことを肯定する運動に関わってきた人々は、しばしば「反学校」「学校否定」という立場と「誤解」されることに当惑し、「選択」という穏当な言葉を強調してきました。

しかし、本当に「選択」をキーワードにしてしまっていいのでしょうか? 校門の前で別れた二人の少年は、本当に「別の道」を歩いていくことになるのでしょうか? 現在の僕の答えは否、です。「学校に行きたい人は行けばいいし、行きたくない人は行かなければいい」などと八方美人なことを言うのではなく、はっきりと「反学校」の立場に立つ必要があると思います。

それは一つには、学校制度というのは一種の奴隷制度のようなものだと考えるからです。はたして「奴隷でいたい人は奴隷でいればいいし、奴隷でいたくない人は奴隷をやめればいい」などという言い方がありうるでしょうか? 言葉の定義から言えば、奴隷は自由意志に反して強制的に働かせられるから奴隷なのであって、もし奴隷に奴隷でいるかどうかの選択権があるとすれば既にその人は奴隷ではありえず、奴隷制度は成り立っていないことになります。問題なのは「奴隷制を廃止するか存続させるか」であって、「個々の奴隷に選択権を与えるかどうか」などという問いは論理的に無意味です。

とは言え、イキナリ学校を奴隷制度にたとえるのはカゲキすぎるかもしれません。そこでこの連載では、もう少し遠回りをしながら考えてみたいと思います。

「選択」という言葉は、焦点を個人に絞ります。もちろん、選択を阻害するような社会的な偏見や差別は批判の対象となるわけですが*2、学校に行く/行かないは究極的には個人の自己決定に委ねられるべきであるとされます。これに対して僕は、個人ではなく社会を出発点とする立場に立ちます。それはつまり、個人を独立させて見るのではなく、複数の者の関係を問題にするということです。マルクスいわく:

社会は単なる個人の集合ではなく、個人がお互いに対する諸関係の和である。社会の観点からは、奴隷や市民は存在せず、皆人間であるなどと言う者がいるかもしれない。実際には、これは彼らの社会の外での姿である。奴隷であること、市民であることは個人Aと個人Bの間の社会的に決定された関係である。個人Aは元来からして奴隷なのではない。彼は社会において、社会を通して初めて奴隷となるのだ*3

学校に行く者も行かない者も同じ一つの社会に生きています。私たちは、各個人をバラバラに分析するのではなく、各個人を結ぶ社会的な関係の糸を辿って行く必要があります。次回は、このような社会学的発想の例としてウォーラーステインの「世界システム論」を紹介しながら、学校に行く者と行かない者がどのような関係にあるのかを見ていきます。

*1:中沢淳,1991,「まえがき」「東京シューレ」の子どもたち編『学校に行かない僕から学校に行かない君へ 登校拒否・私たちの選択』教育史料出版会,5-6.

*2:実はここには選択の政治の両義性があります。これについては回を改めて論じます。

*3:Marx, K., quoted in Hall, S., 1977, E202 Schooling and Society: Unit 32 A Review of the Course, Milton Keynes, The Open University Press, 13.

ぱれいしあぱれいしあ 2005/08/18 05:15 またまたTBがつけられません。リンク貼っておきます。
あんまりきれいにまとまっていないけれど、よかったら見てやってください。
http://blog.goo.ne.jp/egrettagarzetta/e/248aefd796f3abccfcbbc621052b02e1

toledtoled 2005/08/18 08:47 ぱれいしあさんこんにちは。レスありがとうございます。読ませていただきます。

チャマチャマ 2005/08/21 12:38 toledさん、こんにちわ。
不登校の解決は自分にあると思っている私でございまして、チョイとTBなどをさせて頂きました。
素朴な疑問も御座いまして、再度改めてコメントさせていただきます。
ヨロシクお願いします。

toledtoled 2005/08/21 16:58 チャマさんお久しぶりです。トラバありがとうございます。読ませていただきます。

チャマチャマ 2005/08/21 22:41 素朴な・・・というより、判らなくなっちゃったんですけど・・・

奥地氏が講演会で「ひきこもりを認めない社会が悪い」と言いながら、「毎日ネットで社会と繋がっていてコミュニケートしていて、秋葉原にだけは買い物にだって行かれる人がいる。それでいいじゃないか。」ともおっしゃった。「フツーってなによ!ナニをもってフツーって言うのよ!」なんてこともおっしゃった。
ところがひきもりを肯定するための理由として「悪いのは社会だ」といったその社会のフツーと言われるだろう行動を挙げて、これでいいじゃないか、とおっしゃった。
私には未だに矛盾と思えるのですよね。
『不登校、選んだ…』を読んだ時、シューレに通っていた親が言っていることや奥地氏の講演を聴いた時に感じた幾つかの矛盾を、常野さんというシューレOBの方がその本の中で、不登校エリート、という造語?を用いて書き表してくれていたんですよね。
で、常野さんはそういうことを「もうたくさんだ」と言っているのだと感じたものです。
無臭ニンニクの下りとか、最後の登校拒否は病気で、・・・暗く、汚く、臭い。そのようなものとしての登校拒否を肯定する/肯定できるだろうか、と言いたいと書かれた最後の部分とかなんて、漠然としたモノだったナニカを文字にしてもらったゾ!なんて思ったものでした。

ところが、この連載を書いていらっしゃるtoledさんは「無臭ニンニク」を作ろうとしているように思えるのです。
なんとなく、奥地氏やシューレに通っていた親の会の方たちと同じ矛盾をtoledさんに感じるようになってしまいました。
連載を待たずしてこう書くのは時期尚早かな、とも思うんですけど、方向転換なのか、それとも私の読みが浅かったのか、勘違いなのか・・・戸惑っています。

一つ伺いたいのは、本に書かれていたような肯定をtoledさんご自身がされているのでしょうか?
また、それは即ち登校拒否という病気で・・・暗く、汚く、臭い者がより多く集まっているのが、フリースクールや中間教室や居場所を作る会などなのだ、という肯定でもあると思うのですが、こちらに対しての肯定はいかがでしょうか?

お答え頂ければ幸いでございます。

toledtoled 2005/08/22 00:08 チャマさんコメントどうもありがとうございます。この連載は5年ほど前に書いた文章をもとにしています。『選んだわけじゃ……』での主張と意識的にはたいして違いはないと思います。
ただもちろん、僕自身の中で確実な一貫性のようなものがあるわけではありません。たぶん互いに矛盾しあうような主張を同時にもっていると思います。だから、本の方には共感してくださったチャマさんがこの連載には違和感をもたれたということは興味深いです。僕自身が意識していないような亀裂が僕の中にあるのかもしれません。
そこでぜひ伺いたいのですが、どのようなところを「方向転換」と感じられたのですか? ↑のご説明ではいまいちピンと来ませんでした。すみません。。。
僕は、登校拒否を現在の社会で支配的な基準(たとえば社会性がある、など)に合わせて「美化」することには反対です。そうではなくて、ありのままの姿(病気、暴力、ひきこもりなどを含めて)で肯定したいと思っています。

チャマチャマ 2005/08/22 14:44 こちらこそ、お付き合いくださってありがとうございます!
まず、私の質問への解答としては、「肯定している」のではなくて、今もまだ「肯定したい」と思っていらっしゃる、肯定に至る途中、という理解で宜しいですか?
各種サポート団体についてのお答えは無いようですが・・・

で、toledさんからのご質問にお答えしようと思います。
「方向転換」と感じたのは、私の方が間違いでした。
私の中で「無臭ニンニク」が登校者を指す時と、明るい不登校エリートを指す時と、ごちゃまぜになっていました。
常野さんはその本の中でも、「臭いニンニクを臭いまま肯定しよう」とおっしゃっているのですよね。でも、ニンニク(登校拒否・不登校)の存在を肯定しよう、とは書いていらっしゃらないのですよね。私はニンニクを肯定しよう!と書いていると思い込んでいました。
おっしゃる通り、常野さんとtoledさんに相違は無いですね。
何度も読み返しているのに思い込みの上での理解でした。
すみません!!!

そしてtoledさんはニンニクが存在しない社会を目指していらっしゃるのだ、と今思っています。ただ、これは二回分を読んだ時点での理解です。実のところ、toledさんが社会をどう変えたいのかは明確にされていないように思っていますので、やっぱり時期尚早だったかな、と思いつつも・・・
一つ思うのは・・・
「現在の社会で支配的な基準」と書かれていますが、これは今の社会で肯定的な基準、ということですよね?
そして「病気、暴力、ひきこもり、臭い、汚い、暗い」というのは、現在の社会で否定的な基準、ですよね。
「美化」を強調されている、ということは、その基準の是非・肯定否定云々というよりも、美化することを否定されている、ということになりましょうか?
でも、toledさんが想定されている社会というのが、そういった基準に引っかからないでいられる社会、ニンニクが存在しない社会なのだとすると、それはありのままの姿を肯定しようと言っているにも関わらずその存在を消し去ろうとしている、ということじゃないんだろうか、ということです。
私にはこの考え方は「美化」と同じだと思えます。
上手く書けないのですが、基準に合わせる美化と、基準に引っかからないで済むようにシステムを変えること。結局社会の肯定的な基準がその根底にはあるんじゃないのかな、って思うんですよね。
それに、学校制度が悪い、と言われてしまうと、登校拒否・不登校の問題は学校に行かれないことだけだ、と言われているようで、ナンカ違わない?って思います。
登校拒否・不登校って、そんなに存在してはならないんでしょうかねぇ。。。

>僕自身が意識していないような亀裂が僕の中にあるのかもしれません。
私は自分自身にそういった亀裂・ズレ・矛盾を持っていると思っています。それがどこなのか、ナニなのか、どうしてなのか、知りたい!というのが実のところです。私自身が登校拒否に対して意固地に肯定しようとしている気がしているものですから・・・
我儘なお願いですが、ご協力頂ければ嬉しいです。

toledtoled 2005/08/23 21:11 チャマさんこんばんは。コメントありがとうございます。週末あたりに、少し考えてからレスしますね。

チャマチャマ 2005/08/24 03:30 toledさん、ご丁寧に有難うございます!
ネット社会だとやりとりが慌しくていけませんね。
って、慌しくさせてるのは私か・・・って話ですが。
リミットなんて決めなくてもいいですよ。
答えが出た時に「こんなん出ましたぁ〜」なんて教えて頂ければ嬉しいです。

toledtoled 2005/08/27 10:02 チャマさんへ
>まず、私の質問への解答としては、「肯定している」のではなくて、今もまだ「肯定したい」と思っていらっしゃる、肯定に至る途中、という理解で宜しいですか?

う〜む、これは指摘されるまではそれほど意識していませんでしたが、その通りかもしれませんね。「肯定する」と言い切ってしまうと(言い切ってますが。。。)、何かウソくさいというか、そんなに簡単ではないような気がします。そう言った瞬間に「肯定できる」ようにデフォルメするため、「肯定し得ない」要素が切り捨てられてしまう危険があると思います。だからこのへんはアイマイなままにしておきたいというか、「肯定したい」という願望と、「肯定する」という行為は分けておいた方がいいのかもしれませんね。わかりにくくてすみません。。。

>常野さんはその本の中でも、「臭いニンニクを臭いまま肯定しよう」とおっしゃっているのですよね。でも、ニンニク(登校拒否・不登校)の存在を肯定しよう、とは書いていらっしゃらないのですよね。私はニンニクを肯定しよう!と書いていると思い込んでいました。

う〜ん、それは「臭い」要素も含めてニンニク全体を肯定する、ということだと思います。「明るい」から肯定するのではなくて、病気・暴力・ひきこもりも含めて不登校全体を肯定する、いや肯定したい、ということを言っていると思います。

>そしてtoledさんはニンニクが存在しない社会を目指していらっしゃるのだ、と今思っています。

これは違うと思います。そうではなくて、ニンニクは現在の社会では生きづらい。それを変えて、ニンニクがニンニクのまま生きられる社会にしたい、ということです。

>私にはこの考え方は「美化」と同じだと思えます。
上手く書けないのですが、基準に合わせる美化と、基準に引っかからないで済むようにシステムを変えること。結局社会の肯定的な基準がその根底にはあるんじゃないのかな、って思うんですよね。

これは非常に鋭いご指摘だなあと感じました。まだ自分の中でよく消化できていませんが、これから考える材料にさせてください。

>各種サポート団体についてのお答えは無いようですが・・・

これはどういったご質問でしょうか?

チャマチャマ 2005/08/27 14:13 toledさん、ありがとうございました。
登校拒否の肯定に関しては、私も同じです。肯定したいという熱烈な願望を持ちながら、そうし得ない要素を切り捨てられない。。。果てさて、どうやって、どこに落ち着こうかなぁ。。。と。。。
「そうし得ない要素」を全て、「登校拒否の否定」としてしまうことに私は危機感を持ちます。それはあまりに「登校拒否」という立場に没入している考え方だと思うのです。
登校拒否・不登校もまた社会の一員である以上、社会に対して自分の立場だけの視点による偏った要望を突きつけることのないように、慎重になるべきだと思います。
そんなことに対して、自分の中でどこでどう折り合いをつけようかな…と…未だ彷徨い続けている私だったりするのですが・・・

>これはどういったご質問でしょうか?
最初に書いた・・・
>また、それは即ち登校拒否という病気で・・・暗く、汚く、臭い者がより多く集まっているのが、フリースクールや中間教室や居場所を作る会などなのだ、という肯定でもあると思うのですが、こちらに対しての肯定はいかがでしょうか?

ということについてです。
toledさんがフリースクールについてどう考えていらっしゃるの判らなかったもので投げかけてみたのですが、3回目の連載記事でなんとなく判ってきましたので、お捨て置き下さって結構です。

まだ連載途中ですのでナントも言えないのですが、「登校拒否も社会の一員」とおっしゃっていることと、打倒!学校制度とおっしゃっている(今のところは?)ことに矛盾を感じつつ、連載を最後まで読みたいと思います。

それにしても思うのは、登校拒否・不登校というニンニクはそんなに世の中から抹消しなくてはならない存在、なのでしょうか・・・?

2005-08-14

「電話工作」についての内藤朝雄さんの主張について

「電話工作」についての内藤朝雄さんの主張について - (元)登校拒否系 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「電話工作」についての内藤朝雄さんの主張について - (元)登校拒否系 「電話工作」についての内藤朝雄さんの主張について - (元)登校拒否系 のブックマークコメント

もう内藤朝雄さんに反論するのはやめようと思ったのですが、内藤さんのブログを読んだ複数の人が誤解をしているようなので、「電話工作」の嫌疑について説明しておきます。なお、内藤さんには事情を説明した上で訂正を求めましたが無視されました。また、この件について内藤さんのブログにコメントを書きましたが、削除されてしまいました。内藤さんは僕の文章をいくつも無断で全文転載していますが、この件についてだけは不要な情報と判断されたようです。

内藤さんは、このように書かれています。

 日本の社会運動が陥ってきた欠陥のメカニズムを論じるイベントと出版の企画があった。わたしと○○さんとのトークセッションとそれをもとにした出版計画である。わたしはある組織による○○さんに対する暴力がその典型的な事例になると考えた。


(……)


 ところが出版社がイベントの発表を行ってしばらくして、○○さんは「やっぱりできない」と意をひるがえした。わたしと出版社社長は「本人がそういうならしかたがないね」とあっさり受け入れた。私と社長は「被害者○○さんに対してはなんとも思っていない。本人のキャパを超えることはしない方がいいに決まっている。本人がまたやる気になったらいつでも暖かく受け入れて再開しようね」と話し合った。今でも当人次第ではいつでも再開できる、ペンディングの状態にある。

 ○○さんはわたしに「常野さんと電話で話しているときに心が決まった。いつつぶれてもおかしくない、弱小な、マイナー組織の、イメージを悪化させるようなことはすべきでないと常野さんが言っていたし、わたしもそう思う」と言った。


(……)


わたしは今でも常野氏の電話は政治的な意味合いを有する「電話工作」であると思っている。

http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/comment?date=20050808#c

「○○さん」というのは貴戸理恵さん、「組織」というのは東京シューレのことだと思われます。

内藤さんが書かれていることは事実に反します。僕からは貴戸さんには電話をかけていません。貴戸さんの方から、「内藤朝雄さんと書店でトークをする企画がある。実現可能性は低いんだけど、よかったら参加しない?」と電話で誘われました。大ヒマ人である僕は喜んで「面白そうだね。ぜひ参加させて」と答えました。その後貴戸さんから企画は断ったことを知らされました。理由もうかがいましたが、内藤さんが書かれていることではありませんでした。

以上がことの経緯です。僕は内藤さんとトークをすることに「反対」ではなく「賛成」していたわけです。「もし仮に」反対していたとしてもそれは他人からとやかく言われることではないと思いますが。内藤さんは貴戸さんが自分の思い通りにならなかったことがとてもショックだったのでしょう。しかし怒りの矛先を僕に向けるのは筋違いです。

僕と貴戸さんは対等な関係の友人です。一方的に「指令」を出すことはありえませんし、もしそうしたとしても貴戸さんは従わないでしょう。

なお、内藤さんはトークを企画した双風舎の方にも事情を問い合わせてみられるとよいと思います。

ぱれいしあぱれいしあ 2005/08/15 04:47 なるほど、そうだったんですか。
今回の内藤さんの一連の言動には、あぜんとしています。あまりにバランスを欠いているというか……。
日本の社会運動について論じたいのなら、近年なら川田隆平を支える人々、あるいはワールド・ピース・ナウ、もしくは週間金曜日読者会やインターネット新聞JAN JANなどについて論じるべきではないでしょうか? またどうしていちフリースクールにすぎない東京シューレがバッシングのターゲットにされるのか? 結局、カレル・ヴァン・ウォルフレンが言っていたように、官僚の統制は正しい、それ以外はダメだと宣伝するだけの日本の知識人という見えない規制は強固なんでしょうか? 内藤さんほど洗練された方であってもその縛りの外には(少なくとも今のところは)出られないということなのか?

ぱれいしあぱれいしあ 2005/08/15 04:57 ちなみに自分は、このエントリを読んで、常野くんの電話が政治的な工作だとは思えなくなった。たぶん貴戸さんは、貴戸さんなりに、悩んで迷って答えを出したのだと思う。
もし予定や期待どおりに物事が運ばないからといって、常野くんに不当ないいがかりをつけ、八つ当たりをしているのだとしたら、何だろう? いったいどうなっているのだろう?
学内政治で、言論の妥当性よりも、言った人の人格なり力を認めるかどうかでモメているうちに、外の世界も同じようだとみなすに至ったのか? シューレとしては、差別的・侮辱的な書き方をされたり、のちの就職・結婚差別を再生産しかねない組織の実名さらしに怒り・悲しみ、直接不登校や居場所関係者のナマの声を、真実を貴戸さんに知ってもらうために話し合いの席を設定したのだろうけれど。実際、訴訟なんかやるとカネも時間もかかりすぎますし、加差別者というのは、被差別者に向かってどんなささいなことでも欠点としておおげさにあげつらい、孤立させ、つぶしてしまうものだから。そのへんのことは、いじめをテーマにして調査している内藤さんご自身がもっともよく承知しているはずなんだけどね。

貴戸理恵貴戸理恵 2005/08/17 20:23 貴戸理恵です。「○○さん」がわたしであるのならば、「電話工作」の件について、わたしの側からご説明したいと思います。
今回の実現しないことになった企画について、7月の末ごろ、企画をなさった方から「『不登校は終わらない』(新曜社)をめぐる東京シューレと貴戸のやりとりに関する話を具体的に取り上げたい」というお話をいただきました。わたしは「もしそうするならば、東京シューレ関係者をその場に呼んでもらったほうがフェアかもしれない。代表者の方、スタッフの方、常野さんなどに声をかけてみるのも一案だと思う」とお返事をしました。その後、わたしから常野君に電話をかけ、「実現可能性は低い企画だが、東京シューレ関係者と内藤朝雄さんとわたしで、わたしと東京シューレのやり取りを取り上げることになったとしたら、参加してもいいと思うか」を確認しました。彼の返事はOKということでした。けれども、その後よく考えてみたわたしは、「いずれにしても今は具体的な事例としてこの問題を扱うことは難しい」と思うようになりました。
今回実現しないことになった企画のなかで、この問題を取り上げることを止めたのは、あくまでもわたしのなかの整理が追いついておらず、ゆっくりと考えていく必要を感じたためです。
 以上がわたしの側からの経過のご報告です。

貴戸理恵貴戸理恵 2005/08/20 16:34 たびたび失礼します。常野君と内藤さんがブログのなかで言及されているわたしの言動については、両方とも事実であることをお伝えします。ひとつの事実をもとに異なった解釈がなされた、ということだと思います。わたし自身は、当該の電話を「電話工作」ではなく対等な友人同士の会話だと思っており、常野くんと同じ解釈をしています。わたしにとって常野くんと内藤さんはおふたりとも信頼している方がたです。

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2005-08-11

郵政民営化問題に関する反自由党談話

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すべての人民のみなさん、こんばんは。反自由党中央委員会です。

ある友人が、「サヨクにとって郵政っていうのは微妙な問題だよなあ」と言っていました。労働者へのしわ寄せはよくない、しかし利権を放置するのもよくない、う〜ん賛成反対決めがたいねえ、というわけです。

そんな迷えるサヨクのあなたに朗報です。反自由党は革命的に単純明快な答えをもっています。それはつまり、「民営化NO! 逆に国営化を!」というものです。

細かい個別の問題にいちいち悩むのではなく、大きな構図を見てください。

私たち正しいサヨクが目指すのは、国の事業の民営化ではなく、その逆、民間企業の国営化です。郵便局を民営化するどころか、ヤマト運輸とかトヨタとか小田急電鉄とかソニーとかTBSとか三井物産とかライブドアとか、み〜んな国営化します。

しばらく前の「ライブドア・フジテレビ騒動」を通してホリエモンが私たちにわかりやすく教えてくれた真理は、「会社は株主のもの」ということです。企業は、少なくとも社会慣習上許される範囲内では、利潤の追求のために存在します。従業員のことなんてどうでもいいのです。もちろん、会社によっては福利厚生が充実していたりしますが、それも労働力を道具として維持するためです。

これが会社の本質です。会社のエライ人がいい人かどうか、といったことはあまり関係ない。企業にとって、労働者は利益を出すためのコマにすぎません。

反自由党は、全ての企業を国営化して、資本の論理を排し、人間のための経済組織をつくります。会社を資本の自由にまかせるのではなく、民主的にコントロールします。民間企業は究極的にはただひたすら資本の拡大を追求するわけですが、国有化による民主的な管理は人がよりよく生きられることを目指します。

よく、公務員はサボっててもクビにならないからケシカラン、民間だったら絶対にありえね〜よ、などと言われたりします。反自由党は、サボりを抑制するために民営化するのではなく、逆に国営化を推進して皆がサボれるようにします。

ネオリベラリズムの波は、大学にも及んでいます。「民営化」ほどラディカルではないにせよ、社会学や哲学など社会に全く貢献しない学問への風当たりが強くなっています。ズバリ言いますが、社会学も哲学も社会の役にはたちません。では、こんなものを研究するのに大学教員に高給を税金から支払うことはやめるべきでしょうか? 

反自由党の答えはこうです。役にたたないからクビにするというのは資本の論理。逆に私たちは、全ての「役に立たない人」、ホームレス・失業者・ニート・ひきこもり・不法滞在外国人・病人に対して、大学教員の身分を保証します。彼らが「役に立たないこと」をすることに対して一定の賃金を支給します。もちろん、財源は限られているので現在のような高給は再考する必要があるでしょう。

このように、無業者の権利を重視するのが、旧来のサヨクの限界を乗り越えた私たち反自由主義者の特徴です。私たちは、「働く者の社会を」とは言いません。そうではなく、「働こうが働くまいが、天才だろうがバカだろうが、美人だろうがブスだろうが、イケメンだろうがキモ男だろうが、健常者だろうが障害者だろうが、有能だろうが無能だろうが、パスポートを持っていようがいまいが、全ての人が無条件に尊い」と私たちは宣言します。

経済活動の自由を制限して、よりよい社会を築きましょう。


参考

ヤマト運輸を国営化せよ!(労働者Lさん)

http://roudousha.seesaa.net/article/5529931.html

現場から見た郵政民営化(アッテンボローさん)

http://rounin40.cocolog-nifty.com/attenborow/2005/08/post_879b.html

アッテンボローアッテンボロー 2005/08/11 14:18  初めまして。トラックバック有り難うございます。非常に単純明快な郵政民営化論ですね。すっぱりと言い切れるところが良いなあと思います。全ての企業が「国営化」出来るよう頑張りたいと思います。

toledtoled 2005/08/11 14:40 アッテンボローさんはじめまして。最近ブログを拝見するようになりました。上記は半分「ネタ」ですが半分本気です。ただ、じゃあどうやったら実現できるんだと言われると答えにつまりますが。。。

労働者L労働者L 2005/08/11 18:51 はじめまして。トラックバックおおきに。toledさんのブログ、韜晦趣味のテイストがわたしのブログとよく似てますねえ。わたしのとこには靖国バンザイの人が勘違いしてトラックバック張ってきたりしてトホホな気分です。ちゃんと文章読めって!
 ところで、マジレスすると、左翼はみな迷うことなく郵政民営化反対だと思います。ここで迷ってる左翼がもしいたら、日本人民共和国主席が再教育キャンプ行きを命じます。
 あと、じつはわたしフリースクールのスタッフやってます(キャー言っちゃった!)。

toledtoled 2005/08/11 19:47 はじめまして。あはは、ウヨクにカンチガイされるとは愉快ですね。「韜晦」という言葉を初めて知りました。そうですね。そういうところがありますね。たとえば、僕は「正しい」という言葉を連発しますが、これは一部サヨクの無謬主義的傾向に対する皮肉、正義のための行動が悲劇を生んでしまうかもしれないことへの自戒を込めているつもりです。ただ、そんなことは一般の人にはわからず、ギョッとされてしまうかもしれませんが。それでもそういう言葉使いをしてしまうのは、やはりエンターテインメント性を追求したいからです。って言っても成功してないかもしれませんが。。。
 労働者Lさんのフリースクール論、不登校論、期待しています。

ワタリワタリ 2005/08/12 21:02 こんばんわ。以前「失業者の権利ネットワーク」というMLを運営していたワタリといいます。

>全ての「役に立たない人」、ホームレス・失業者・ニート・ひき
>こもり・不法滞在外国人・病人に対して、大学教員の身分を保証
>します。彼らが「役に立たないこと」をすることに対して一定の
>賃金を支給します。

ベイシック・インカムには賛成ですが、職業は選ばせてください。わたしは失業者です。けれど大学の先生にだけはなりたくない! 特に文科系はダメ。デーミオエルゴーイ(古代ギリシャ語で「国民のために働くものたち」がいい。あるいは、渡り奉公人でいいです。お琴と三味線を弾いてみなさんに聴かせること、反戦デモにでかけることが、わたしにとっての労働です。)

↓ フリーターに関するわたしのブログです。正社員至上主義を問い直し、フリーターの地位向上をめざします。つまらないところですが、よかったら見てやってください。

http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra/

toledtoled 2005/08/13 07:07 ワタリさんこんばんは。う〜む困りましたね。大学の先生は嫌ですか。では、「名誉教授」ということでどうでしょう。とにかくブラブラしているだけで一定の報酬を保証しますので、リラックスして趣味に耽ってください。
ブログ、勉強になりそうですね。アンテナに追加させていただきました。

2005-08-07

フロイト講演会「精神分析の起源と発展」 第二講義(3)

| フロイト講演会「精神分析の起源と発展」 第二講義(3) - (元)登校拒否系 を含むブックマーク はてなブックマーク - フロイト講演会「精神分析の起源と発展」 第二講義(3) - (元)登校拒否系 フロイト講演会「精神分析の起源と発展」 第二講義(3) - (元)登校拒否系 のブックマークコメント

おおざっぱなたとえ話によって、この抑圧の過程と患者の抵抗との必然的な関係を、より具体的なものとしてお示ししてもよいかもしれません。このたとえ話は、私たちが今あるこの状況から取ったものです。

このホールのこの聴衆(みなさんの模範的な平静と注意はいくら賞賛しても十分ということはないわけですが)の中に、妨害行為をする人物がいて、行儀の悪い笑い声を出したり、おしゃべりをしたり、足をすったりして私の注意を私の任務からそらしたとしましょう。このような状態では講義を続けられないという私の説明を受けて、みなさんの中から数人の屈強な方々が立ち上がり、ちょっとしたもみ合いの後、この平安を乱す者をホールから追い出します。彼は今や「抑圧」されおり、私は講義を続けることができます。しかし、たった今追い出されたばかりの男がこの部屋に強引に戻って来ようとするといけないので、妨害行為が繰り返されないよう、私の提案を実行してくださった紳士たちが自分たちの椅子をドアのところまで持って行って、抑圧を維持するために、そこで自ら「抵抗」となります。さて、この二つの場所を精神に移し、ここを「意識」と呼び、外を「無意識」と呼べば、抑圧の過程のまあ悪くない例証となるでしょう。

今や、私たちの理論とジャネの理論の違いを見ることができます。私たちは、精神の分裂を、精神機構が経験を統合する能力を先天的に欠いていることに帰すのではなく、対立する精神的な力の葛藤によって動的に説明します。つまり、私たちはそこに、それぞれの精神的なコンプレックス(複合体)が積極的に互いに対抗しようとすることの結果があると考えるのです。

私たちの理論について、多くの新しい問いがただちに浮上します。精神的な葛藤の状況はとても頻繁なものです。自我が苦痛の伴う記憶から自らを守ろうとすることは、いたるところに見ることができるわけですが、その結果として精神が分裂するわけではありません。葛藤が解離という結果に結びつくとすれば、まだ別の条件が必要であると考えざるを得ません。私は、「抑圧」の仮説が、心理学的な理論の終点ではなく始点にあるということを自ら進んで認めます。しかし私たちは一度には一歩ずつしか前進できませんし、私たちの知識を完成するにはさらなるより完璧な仕事が必要です。

ここでブロイアーの患者の症例を抑圧の観点から見ようとはしないでください。彼女の病歴はそのような試みには向いていません。というのも、それは催眠の影響の助けを得て得られたものだからです。催眠術を排除してはじめて抵抗と抑圧を観察し、病原的な過程を正しく理解することができます。催眠術は抵抗を隠蔽し、精神の特定の領域を自由にアクセス可能なものにします。この同じプロセスによってこの領域の境界にある抵抗は塁壁にとなって積み上げられ、その向こうにあるもの全てがアクセス不能となってしまいます。

ブロイアーの観察から私たちが学んだ最も有益なものは、症状と病原的な経験、つまり精神的なトラウマとの結びつきについての彼の結論であり、この結果を抑圧理論の観点から適切に評価しなければならないでしょう。抑圧からどのようにして症状の創造を理解すればいいのか、はじめから明らかであるわけではありません。複雑な理論的な導出の代わりに、ここで、抑圧の特徴を表すために用いたたとえ話に戻りましょう。

乱暴者を追い出してドアの前に番人を置くことによって、ことは必ずしも終わっていません。追い出された男が、憤激して自分の行動の結果をよく考えもしないで私たちにさらにやっかいをもたらすかもしれません。彼はもう私たちの中にはおらず、彼の存在、侮蔑のこもった笑い声、はっきりとは聞き取れない話し声はもうここにはないわけですが、ある意味において抑圧は失敗しています。というのも、かれは外でひどいわめき声をあげていて、叫び声やドアを拳で叩くことによって、さきほどにも増して私の講義を妨害しているからです。このような状況の下で、もし私たちの名誉ある学長であるスタンリー・ホール博士*1が調停者の役割を引き受けてくだされば、喜ばしいことでしょう。彼は外の乱暴者と話をして、私たちに、男が行儀よくすると約束するという条件で、彼を中に入れるという提案を持ち込みます。ホール博士に従って、私たちは抑圧を停止することにして、静かさと平安が戻ってきます。以上は、神経症の精神分析療法で医者が行う仕事を実際にかなりうまく表しています。同じことをもっと直接的に申し上げると、ヒステリー患者や他の神経症患者の治療から、彼らは矛盾した願望を伴う考えを完全には抑圧できていないのだという結論が得られます。たしかに彼らはそれを意識と記憶から追い出して、多大な精神的な苦痛を免れているように見えます。しかし、抑圧された願望は無意識にまだ存在しており、活動的になる機会をうかがっていて、ついに意識の中に、抑圧された考えの代わりに、偽装された認識不能な代理物(Ersatzbildung)を送り込むことに成功します。その代理物には、患者が抑圧によって取り除くことができたと思っているのと同じ苦痛を伴う感覚が結びついています。この抑圧された考えの代理物――症状――は自我の防衛機構からのさらなる攻撃から守られており、短い葛藤の代わりに今や永続的な苦しみが発生します。私たちは、症状の中に、偽装の印に加えて、元の抑圧された考えに遡ることができる類似性の残余を観察することができます。代理物がどのように作られるかは、患者の精神分析療法の中で発見することができます。そして治癒のためには、症状から同じ道をたどって抑圧された考えまで遡らなければなりません。この抑圧された素材が再び意識的な精神的機能に取り込まれると――これはかなりの抵抗を克服することを前提とする過程です――、その時に発生する精神的な葛藤、患者が避けたいと思ったのと同じ葛藤は、医者の指導によって、抑圧よりもより幸福な終結を迎えることができます。葛藤と神経症を幸福に終わらせることができるいくつかの適切な決定がありえます。個々の症例においてはその内いくつかを組み合わせようとすることもあります。患者の人格は病原となった願望を退けたのが誤りだったと説得されて、患者はそれを完全にせよ部分的にせよ受け入れさせられるかもしれません。あるいは、昇華(Sublimierung)と呼ばれる過程によってこの願望はさしさわりのないより高等な目標に向けられるかもしれません。あるいは、拒絶は正当な動機に基づくものであると認識されて、自動的でしたがって不十分な抑圧のメカニズムはより高度で典型的に人間的な心の能力によって強化されるかもしれません。つまり、意識的な思考によって願望を征服することに成功するわけです。

今日「精神分析」として知られている治療の要点をより明確に提示できないことをお許しください。困難は、この論題の真新しさだけにあるのではありません。

抑圧されているにも関わらず無意識から影響を与える受け入れられない願望の性質について、そしてそのような抑圧の失敗と代理物や症状の創造においてどのような主観的な構成的要素が働いているのかという問いについては、後ほどお話しすることいたします。

*1:訳注。フロイトをアメリカに招待した著名な心理学者。講義の会場となった大学の学長。

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2005-08-03

ケンカ

ケンカ - (元)登校拒否系 を含むブックマーク はてなブックマーク - ケンカ - (元)登校拒否系 ケンカ - (元)登校拒否系 のブックマークコメント

ある掲示板で、また内藤朝雄さんとケンカをしてしまいました。情報交流が主の、普段は議論なんてない掲示板なのに。。。「荒らし」同然、というか「荒らし」そのものでした。関係のない人にも嫌な思いをさせてしまったかもしれないと思います。書き込みは既に削除されています(妥当な措置だと思います)が、内藤さんがブログに転載されていますその後削除されたようです。

http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/20050803

今読み返してみると、とてもいや〜なやりとりですね。売り言葉に買い言葉で、相手を挑発するような書き方をしてしまっています。感情的になって、勢いにまかせて書いてしまいました。自分の中にこのような攻撃心が眠っていたのかと気づかされ、愕然としています。

一つには、ネットだけでのやりとりで、お互いに敵意が際立ってしまったのだと思います。内藤さんの『学校が自由になる日』を拝読し、リベラリズムには根本的に共感できないと思いつつも、分析の鋭さに感服しました。実際にお会いして話していれば、もう少し違ったコミュニケーションができたかもしれないと思います。ただ、内藤さんは事実に反することを書いていらっしゃるので、そのことはやっぱりおかしいと思います。

って↑のような優等生的な言い方の方がイヤらしいかもしれない。。。やっぱり思ったことはハッキリ言った方がいいのかもとも思います。う〜ん。ともかく、自分は人格的に本当にまだまだだな〜と思いました。

今回のケンカの発端になったやりとりは↓です。これも削除されたようです。

http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/comment?date=20050501#c

内藤さんの書き込み部分のみ、一部復活されたようです↓。

http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/20050806

とりあえず、「電話工作」の疑いは晴れたようでなによりです。

ぱれいしあぱれいしあ 2005/08/09 01:55 ご指摘のブログ、見てきました。
さて、感想ですが、あれでは常野さんがシューレと闘っているのか、内藤さんともめているのかよく分からなかった。ああいう書き方では、シューレのネガティブ・キャンペーンを貼っているも同然じゃあないのかな? ブルジョワたたきなんてやっているんじゃまるでサヨク・ファシズムだし。たとえば、宮地健一さんのサイトをググって探してもみてください。充実した旧ソ連批判が読めます。(内藤さんの主張に対しては、反ユートピア小説の紹介のなかでもとりわけ「水晶宮」批判が参考になるでしょう。彼のサイトにない情報を加えるとすれば、オクタビオ・パスの政治評論「くもり空」現代企画室くらいかな。)どういう事情でああいうパフォーマンスをやるに至ったのかは知らないけれど、世代錯誤のサヨクぶりっこなんてやめたほうがいいと思う。

わたしはかつて東京シューレの人たちとイベントでご一緒したり、奥地さんとは電話でお話したり、そのほか本やTVやラジオなども通じて親しみを持っています。兵庫や愛媛の別のフリースクールにいったり、名古屋ではフリースペースのスタッフをしていたこともあって、仲間意識もあります。十代のころからのイリイチおたく(w)でもあります。貧乏で生きられるかどうか分からないくせに、文化優先主義により、関西地区にオルタナテイブな図書館や大学を作ろうと構想しているうつけものでもあります。
 話がうつりますが、こういう問題を語るのは難しくて、なぜかというと、自分の実感に沿った言葉と、登校中心主義の人たちの使いそうな言葉との間に落差があるから。それで、いいたいことと言ったことがズレてしまうことがある。主観と客観のズレというのか、支配的な言語と被支配的な言語の齟齬というべきか。
はじめ本屋で常野さんの本を見たときには「敵かな?」とも考えましたが。こちらのブログを見て、ひょっとしたら同じ問題を共有できるかもしれないと考えを改めました。
それでは、今日はこのへんで。

今事情があってネットカフェからです。もうすぐ弊店ですので、また改めて連絡したいと思います。

(なお、もしこのカキコに対して内藤さんから苦情があった場合、わたしをかばわずに、削除を願います。わたしは彼には大きな貸しがあるので。)

toledtoled 2005/08/09 02:57 ぱれいしあさん、こんばんは。僕にとってシューレは多面的な存在で、ある一つの出来事だけでは評価できません。だから「おかしい」と思ったらハッキリ批判もするし、そのことと計り知れない愛着を持っていることは全然普通に両立します。
「いいたいことと言ったことがズレてしまうこと」、僕もしょっちゅうあります。だからあえて否定的に用いられてきた言葉を肯定的に用いたり、その逆をしてみたり、工夫もしていますがうまくいくとは限りません。。。

ぱれいしあぱれいしあ 2005/08/10 22:21 おじゃまします。

あとから気づいたのですが、なんか日本語として意味がめちゃくちゃになっていました。
訂正させてください。
()内の彼→宮地さん(まぎらわしいけれど、内藤さんじゃありません。)
弊店→閉店
2つめの()内貸し→借り

お目汚ししてしまい、すみません。

ところで、中国映画の「活きる」ごらんになったことがありますか? 文化大革命期の中国で、国家総動員が行われ、そのために主人公の子どもの亡くなる衝撃的シーンがあります。また、金持ちが金持ちであるだけで処刑にされたり、伝統芸能が弾圧・迫害されるところもあります。そのほか、居丈高な紅衛兵が、お医者さんを市中引き回しの刑にしてしまい、見習い看護士らだけで病院を運営する状況も。結局、主人公の子でもある妊婦の出産を助けられず、死なせてしまうんですよ。
市民的自由というのも流動的な概念です。はじめはヨーロッパの白人の男性の……だけだったものが、女性や黒人や文化的少数派にも広がりつつあり、さらには自然の権利・動物の権利なども検討されていることはご存知かと思います。それを全部否定するようなことをなぜおっしゃるのでしょうか? かりにも「普遍的な」人権だからこそ、「人間」以外にも認めろと論争する余地があるのに。

かりに内藤さんが特権を持つとしても、大学の先生になるというのは職業選択の自由という人権でしょう。特権は一部の人しか持てないが、人権はすべての人が持てる。日本国憲法にもうたわれた、人の権利を侮辱するようなことを主張されていますが、わたしは到底賛成できません。失業者でなければものを言ってはならない(?)ということですか? 

今、世界の特権階級は、各国に跋扈する2世・3世政治家ではないでしょうか?(ブッシュ、金、小泉など) 東大の大学院に「ロンダリング」で入り、私立の大学の教員をしている、それも職場でのいじめに悩まされながら「万年講師」をしいられている人にむかってかみついても仕方がないのではないでしょうか?
自分たちの立場がますます不安定化しているのだとしても、だったら相手と同じような収入や保証等を求めてゆくべきであって、相手の人権を否定しないほうがいいと思うのですが、どうでしょうか?
むしろ、世代的にも立場的にも、そういった人たちと、わたしたちとは上の世代の横暴に抵抗するために、うまくいけば協力できたのではないでしょうか?

貴戸さんに関して2ちゃんでの悪ふざけは、いっときの2ちゃんに比べればマシなほうかもと思います。わたしもときどき貴戸さんの茶髪・ピアス等にからむ悪口には数度にわたり「バカらしい。やめようよ」という内容のかきこをしています。なかにはちゃんとものを考えていて、話せる人もいるんですが……。

もちろん、内藤さんのおっしゃることも絶対ではありません。わたしはわりと日本文化に純粋培養されたようなところもあって、神学論争をやるような伝統文化になじんでいませんが、一点でもシューレに理があれば、情報発信してゆくべきだと考えています。ルサンチマンが絶対に悪いのか? キリスト教は奴隷解放に効果がありましたよ。 ルサンチマンはゼロにできるのか? など焦点はいくらでも見出せます。
 あの人もひとりの人間です。以前、社会臨床学会というところで、まだ院生時代の内藤さんについて、社会学系の人が「あの人は学校へのルサンチマンが強すぎる」と語っていたのを思い出してしまいました。

>「いいたいことと言ったことがズレてしまうこと」、僕もしょっ
>ちゅうあります。だからあえて否定的に用いられてきた言葉を肯
>定的に用いたり、その逆をしてみたり、工夫もしていますがうま
>くいくとは限りません。。。』

なるほど。そのへんが「アクロバット」と見られたのかもしれませんね。まだまだ自分たち登校拒否者は、自分たちの言葉とか文化を獲得していないのだと思います。獲得できそう! と思ったとたんに社会的圧力によりスポイルさせられることの連続ですから。それでも、なんとか生き残って、自分たちの納得のいく言葉を残していきましょうよ。たとえば沖縄の文化のように、独自の香りのする言葉や文化を作って、伝えてゆけたらいいですね。

toledtoled 2005/08/10 22:46 コメントありがとうございます。
『活きる』観ました! すごく面白かったです。個人的には、最初の方の、ダメ親父がギャンブルにはまってるシーンがお気に入りです。
僕が全体主義や暴力について語ったりするのは、何も「全体主義国家にしようぜ!」と言いたいからではありません。そうではなくて、自らの内なる全体主義や暴力に無自覚であるようなものこそ恐ろしいと思っているのです。たとえば、北朝鮮は、公式イデオロギーによれば「最も全体主義から遠い社会」ではないでしょうか? 逆に自らの暴力を自覚することによってこそ暴力をコントロールすることが可能になると思います。

ぱれいしあぱれいしあ 2005/08/10 23:48 うーん、非常に話がかみあっていないんですねー。常野君のリアリティは伝わってくるけれど、もう少し時間をおいたコメントが見たいな。

コメントをながながと書くのもどうかと思い、TBを書きました。
だけど、TBがなぜかつけられない。
http://blog.goo.ne.jp/egrettagarzetta/e/4ef471ab60a7f927c2ad892aafc1928f
不愉快なこともあるかもしれませんが、よろしければごらんください。

あと、東大という学閥の特権を制御するか、人権として一般に広く開放する(たとえば図書館の開放など)といったことについては、また別の問題になります。だから、「特権」をよく思わない東大内部・外部の人と話し合ったほうがいいと思います。ただし、なるべく非暴力の、平和的な方法で。どんな手段を使っても、というのは、誇張表現としても使わないほうがいいと思う。(かくいうわたしもある人からどうも全共闘扱いされているようで、あまり人のことを言えないかもしれないけれど。恥。)

toledtoled 2005/08/11 19:46 こんにちは。ブログ読ませていただきます。

pqimzxopqimzxo 2008/12/09 06:28 auJ8bh <a href="http://yywfiwsoakzx.com/">yywfiwsoakzx</a>, [url=http://mfgvvsfkycen.com/]mfgvvsfkycen[/url], [link=http://qwcgnljqhjag.com/]qwcgnljqhjag[/link], http://egbevevrwaya.com/

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2005-08-02

炎上

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日本を代表するいじめの専門家である内藤朝雄さんのブログコメント欄をプチ炎上させてしまいました。下の方です。

http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/comment?date=20050501#c

「組織人」、「電話での工作」、「○○」、「××距離◇◇」、「自己裂開部駆動型収奪」、「なぜか2ちゃんねるとあげつらいの勢いがシンクロ」、「もうわたしのブログにはこないでください」。

「電話」って一体。。。内藤さんの電話番号は知らないです。

ゆーすけゆーすけ 2005/08/02 12:42 活動がんばってるのはわかるけど、あんまり自慢しない方が良いよ。
多分。。。

toledtoled 2005/08/02 12:58 ゆーすけひさしぶり。活動はほとんどしてないよ。立ち読みくらいかな。

たけしたけし 2005/08/02 16:04 客観的にはどうあれ、内藤さんにはツネノの書き込みが「2chのあげつらい」と同じように感じ、ツネノが「全体主義的政治を志向することを否定しない」と書いている人間であり、そのような人間がブログにコメントを残すのは止めてほしい、と考えているのでしょう。「電話での工作」は一般的に2chで過去行われた事象について触れているのでしょう。とりあえずしばらくコメントは控えるべきだね。

ちなみに僕も全体主義的政治手法は、たとえ終着に全体主義を目標としていなくても賛同しかねます。それは以前書いたよね。

toledtoled 2005/08/03 00:59 全体主義を阻止するためには、第一に他ならぬ自分自身が全体主義的となってしまうことを警戒すること、第二に他者の全体主義的な傾向について極力寛容であること、が不可欠だと思うな。
あと電話うんぬんはマジで身に覚えがない。電話回線で2ちゃんねるにアクセスして内藤さんの悪口を書いてるってゆう意味なんだろうか。。。2ちゃんねるには僕の悪口もあるんだけどな。

toledtoled 2005/08/03 01:23 内藤さんにとって、あるモノは「100パーセント善」か「100パーセント悪」の二つに一つしかないんだと思います。だから今回の件でシューレへの評価を突然に豹変させることができるのでしょう。でも僕は、シューレには多くの人が関わっており、多種多様な存在で、決して一括りにはできないと思います。誰が書いたとも分からない2ちゃんねるの書き込みを材料にシューレを全否定するのは、シューレの非単数的な豊かさを知る者として本当に納得ができません。シューレというマイナー団体を攻撃するのに内藤さんは全力をあげているわけですが、はたして彼は彼の所属する東大や明治大学に対しても同じように振舞うのでしょうか? もし今回のように一事をもってして全否定できてしまうのなら、材料には事欠かないはずだと思いますが。
僕は、欠点を持ち、過ちを犯すモノを愛しいと思い、また逆に、美しく、完全無欠なモノを警戒することを目指します(それを実践できているとはとても言えませんが)。内藤さんのアカかシロかという発想は本当にコワいと思います。

たけしたけし 2005/08/03 02:50 > 第二に他者の全体主義的な傾向について極力寛容であること
何で?集中砲火をしろというわけでもないけど、極力寛容でいることはないんじゃないかな。
> 欠点を持ち、過ちを犯すモノを愛しいと思い、また逆に、美しく、完全無欠なモノを警戒することを目指します
僕もそうありたいと思います。

toledtoled 2005/08/03 03:33 >何で?集中砲火をしろというわけでもないけど、極力寛容でいることはないんじゃないかな。

なんでかというと、「おお、あいつは全体主義的だ。ぶっ潰せ!」という「反」全体主義的振舞いこそが最も全体主義的だから。西洋社会でのイスラム系の人たちへの迫害とか見てるとそう思う。
もちろん批判するのはいい。けど、自分は有名大学教員という特権にしがみついている内藤さんが、たった一つの事件をネタにシューレというマイナー団体に解散をせまるのは本当に卑劣というかみっともないと思う。まずは明大なり東大なりの不正に抗議して職を辞し、学位を破り捨てて、全力で戦ってから、それでもなお余力があったらシューレに向かえばいいと思うけどな。一体何が内藤さんにここまで徹底した憎悪を抱かせ、「シューレいじめ」に向かわせるんだろうか。それは、大学教員としての特権を享受している罪悪感を外の手軽で安全な「敵」に投影しているのかな。東大や明大に解散を迫れば内藤さんにとっては職の危機だけど、シューレならモグラ叩きのようなノリ解散を求めることができるのかも。しかしそれでは、シューレに関わっている多種多様な人・子どもはたまったもんじゃない。
あと、シューレ批判をやりたいなら自分の名前においてやればいい。貴戸さんをタテに利用して攻撃するのは本当にかっこ悪いと思います。

ふやふやふやふや 2005/08/06 01:44 電話やらなんやら具体的に何があったと内藤さんが考えているのか、実際何があったか見当もつかないけれど。

まずシューレとかフリースクールという組織の捉え方をいわゆる
会社や大学と同じように(ピラミッド型の様に)捉えてること、
もしくは理想郷のように捉えてること、
「当事者」に対して調査者は、人間相手のルールさえ守ればどんな解釈をしてもいいと公言していること、(社会学者が当事者を叩いても良いが、当事者=シューレが学者=貴戸さんを叩くことは許さない矛盾)
証拠も無いのに2chの書き込みをシューレ関係者と決め付けていること、
その2chのカキコに対してシューレ側が貴戸さんの中傷を辞めよ、シューレとは関係無いとアクションを起こせと言っていること、
私も疑問に思う。

内藤さんも貴戸さんも、シューレや不登校児に比べたら自分は完全な強者の立場であることを忘れているし、内藤さんの文はなにかこう・・・上から物を見ているような文章だなという嫌悪感も感じる。
だから常野君が↑で言ってることはわかるんだけど、でも
私からしたら申し訳ないけど、常野君も貴戸さんもどこか学校的な考えに染まっている部分があると感じるよ。(まぁこの辺は会った時にゆっくり話しましょう)

2chスレなんて全然見てなかったけど、この炎上騒ぎで覗いたら
結構鋭くて頷ける意見があったな。(勿論貴戸さんの容姿についてのひどい書き込みもあるけど・・・。)
内藤さんのフアンであっても、今回の件では冷静に受け止めている読者も多いよう。
わかってる人はわかってるよ。
だからいいんじゃない、相手にしなくてもさ・・・。

toledtoled 2005/08/06 02:50 コメントありがとう! 内藤さんの書き込みを見ると内藤さんと貴戸さんが一体のような印象を受けるかもしれないけど、二人は区別した方がいいと思うな。
今回の件で、ネットの怖さを思い知ったような気がします。自分の中の憎悪のような負の側面が増幅されて表に出てしまった。ってネットのせいにするのはよくないかな。
>常野君も貴戸さんもどこか学校的な考えに染まっている部分があると感じるよ。
↑も含めて、ふやふやさんとも実際に会って色々と話したいです。

ぱれいしあぱれいしあ 2005/08/15 04:31 おじゃまします。

>ふやふやさん
>内藤さんも貴戸さんも、シューレや不登校児に比べたら自分は完
>全な強者の立場であることを忘れているし、内藤さんの文はなに
>かこう・・・上から物を見ているような文章だなという嫌悪感も
>感じる。

このへんのコメントをさして、内藤さんは「嫉妬」と決め付けかつ切り捨てているね。
だけど、多分意図的な誤解だという気がする。
ふやふやさんたちが言いたいのは、嫉妬とかいうことじゃない。差別される側である登校拒否・不登校は、いつも就職や結婚や交友のなかでの排除や蔑視を恐れてびくびくしている。それでもなんとか人生を生きようと懸命になっている。自分の中の絶望・劣等感・羞恥心・自己否定・将来が断ち切られた感覚、他人との間に大きな壁ができてしまって打ち壊そうとしても壊せないつらさなどのことを言っているんだと思う。貴戸さんたちは、そのへんの差別される痛みへの理解・共感が足りない。いや、立場上できないのではないか? ならば、そう簡単には分からないってことを前提にものを考えてもらわないと、困る。優等生の悪いクセで、分かってもいないのに要領よさげな答えを用意して分かったフリをする、そのへんが抵抗しにくくて、むずがゆく・もどかしいんだよね?(このへんわたしの推論です。)

内藤さんのシューレ陰謀説は、被害者意識が強すぎて、とても理性とか教養のある人の意見とは思えない。ネットワーク型の組織がどんなものかよく分かっていないのもおかしい。アルベルト・メルッチの「現代を生きる遊牧民」とか読んでいるの? って文化資本のハイアラーキーを問い直さない程度の低いことを語らなきゃならないのだとしたら、悲しい。

内藤さんは世代的に学生運動がらみのトラウマがあるのかもしれない。けれど、わたしたちはたとえば川田隆平を支える会の学生たちが、小林よしのりから「共産党・オウム・赤軍派だ」と言われても、テロも何もなかった記憶もあるから、そのへん意識に落差があるみたい。
 実は、図書新聞とかFONTEとかで、横浜で青少年への夜間戒厳令がひかれた! って例のおどろおどろしい文体で大騒ぎしていたとき、ググったり、横浜在住の友人に電話で確認したところ、少なくともその時点では、まだ横浜市も神奈川県もその条例を制定しておらず、検討中、ということもあったっけ。
 トラブルがあったときにじっくりと話し合わず、ちょっと気にくわないからって誰かとつきあいを切ったり、本人に無断でメール転載というのは、ルール違反とまでいかなくても、慣習・常識のレベルで見て、ちょっとどうかと思う。
確かに内藤さんはユニークな人だけれど、言っていることは絶対じゃないんだから、あまり気にしないほうがいいと思う。

2005-08-01

フロイト講演会「精神分析の起源と発展」 第二講義 (2)

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私がヒステリー患者の精神的なプロセスについての理論の基礎としたのは、この抵抗の考え方でした。患者を治療するためにはこの力に打ち勝たねばならないということが明らかとなりました。治療のメカニズムを出発点として、かなり明白な理論を構築することができました。これらの同じ力が、現在の状況で、忘れられた考えが意識に上ってくるのを抵抗として阻害していたわけですが、それ自体、忘れてしまう原因となり、意識から病原的な経験を抑圧したに違いありません。私はこの仮説的なプロセスを「抑圧」 (Verdrängung)と呼び、それは抵抗の存在が否定できないことによって証明されていると考えました。

しかしここで問いが発生しました:このような力とは何なのか? この抑圧の条件とは何か? そのような抑圧の中では、今やヒステリーの病原的メカニズムを認識することができます。カタルシス治療が可能にした病原的な状況の比較研究によって、この問いに答えることができます。こうした全ての経験において、偶然に願望が呼び起こされます。その願望は当該の個人のその他の欲望とは激しく対立しており、患者の人格の倫理的、審美的、個人的な上辺(うわべ)と統合することができないものです。急な葛藤が起こり、この内的な争いの終了は、意識にとってこの統合できない願望の担い手として現われる考えの抑圧を意味します。こうして、この考えは、意識から抑圧され忘れられてしまいます。問題の考えと患者の「自我」との矛盾は抑圧の動機となり、個人の倫理的なそしてその他の上辺は抑圧する力となります。統合できない願望の存在、もしくは長きにわたる葛藤は、高度の精神的な苦痛をもたらします。この苦痛は抑圧によって避けられます。この後者のプロセスは明らかにそのような症例においては人格を守る装置となっています。

多くの例を挙げることはしませんが、私の症例の一つの履歴についてお話しましょう。その症例においては、抑圧プロセスの条件と効用を十分に明確に見ることができます。もちろん、ここでは、病歴を短縮して多くの価値ある理論的な考慮を省略しなければなりません。これはある少女の症例です。彼女は、父親に深く愛情を感じていました。その父親は、ちょっと前に亡くなってしまいました。少女は父親の世話を手伝っていました――ブロイアーの患者の状況と似ていますね。彼女の姉が結婚したとき、少女は新しい義理の兄に対して独特の親しみの気持ちを感じるようになりました。それは彼女の中では明らかに家族の愛情ということになっていました。間もなく姉は病に陥り、少女と母親が出かけている時に亡くなってしまいました。二人は、痛ましい状況について完全には知らされることなく急いで呼び戻されました。少女が亡くなった姉の床に立つと、ほんの一瞬、少女の心にある考えが押し寄せました。それは、このような言葉で表すことができます:「これで彼は一人身になって私と結婚できる」。この考えは、それまで意識していなかった義理の兄への激しい愛情を彼女の意識に明らかにしましたが、その次の瞬間には、彼女の不快感によって抑圧に葬り去られてしまいました。少女は重篤なヒステリー症状を患い、私がこの症例を治療しに来た時には、彼女は姉の床での情景と、彼女のなかに湧き上がった不自然で自己中心的な欲望のことをすっかり忘れてしまっているようでした。彼女は治療の中でそれを思い出し、強い感情的な興奮のあらゆる徴候を示して病原的な瞬間を再現し、この治療によって治癒しました。

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