2005-09-24
フェミニストはいかに「知る」のか 第三回 複数形の「フェミニストの視点」
「フェミニストの視点」の理論家たちの政治姿勢は、客観性の科学的な概念をラディカルに問うものです。性差別主義的な偏見を取り除くことによってフェミニスト経験主義者が伝統的な客観性を復活させようとするのに対して、「フェミニストの視点」の理論家はそれを根本的に脱構築しようとします。第一回で見たように、旧来の客観性の概念は研究者に研究活動から自らのアイデンティティーを切り離すことを要求します。これに対して、「フェミニストの視点」の理論家たちは女性としての社会的位置をより優れた「知」の基礎にポジティヴに位置づけます。彼女たちは、現実の社会関係は抽象的で「客観的な」位置からではなく、日常世界の具体的な社会的位置から見渡せるものであると主張します。そうすることによって、彼女たちは同時に社会思想における「人=男(Man)」を脱中心化します。もはや「人=男」は「アルキメデスの点」、つまり、「社会におけるいかなる特定の位置にも属さない点」*1としては受け入れられません。自分たちの経験の特異性をポジティヴに主張することによって、「フェミニストの視点」の理論家は「客観的」であることを装う従来の科学者の抽象的な「中立性」の神話を暴露します。
しかしながら、話はここで終わりません。第二回で見たように、「フェミニストの視点」の理論家たちは男性と女性の差異を強調します。しかし、そうする時に、彼女たちは女性たちの中の差異を軽視してしまいます。実際、ハートソックはこのことに自覚的で、「人種や階級の境界線に渡る女性たちの間の重要な差異を脇に置いて、その代わりに中心的な共通点を探る」*2ことを提案します。これはとても大きな問題を孕んだ言い方です。というのも、そのような「共通点」を求めることは、歴史的に、支配的な白人女性の状況を全ての女性の状況と混同することにつながってきたからです。*3だとしたら、「人=男」を脱中心化するだけでは不十分でしょう。さらにフェミニズムにおける「白人の、経済的に恵まれた、異性愛者の、西洋のフェミニストの関心を脱中心化する」*4ことが必要になります。
この点について、コリンズの論考は示唆的です。彼女は、黒人女性の周縁的な社会的位置が、逆説的に「自己や家族、社会に対する特別な視点」*5をもたらすと主張します。コリンズは白人家庭の使用人としての黒人女性の位置に注目します。彼女たちは白人世界の「内部に」おり、白人の現実を見ることができました。一方で、黒人女性はアウトサイダーでもありました。というのも、「彼女たちは決して白人の『家族』に属してはいなかった」*6からです。このように、彼女たちはユニークな位置にありました。コリンズはこれを「内側のアウトサイダー」*7と名付けます。
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Beyond Methodology: Feminist Scholarship As Lived Research (A Midland Book)
- 作者: Mary Margaret Fonow, Judith A. Cook
- 出版社/メーカー: Indiana Univ Pr
- 発売日: 1991/04
- メディア: ペーパーバック
コリンズは、今日の黒人女性の社会学者もまた、伝統的に白人男性によって支配されてきた学問の世界における「内側のアウトサイダー」であると言えると主張します。彼女たちは、「よそもの(strangers)」であるために、支配的な人種や性に属する者よりもより容易に「社会学の『いつもの発想』」*8に含まれる問題に気づくことができます。第一に、彼女たちは社会学の理論において黒人女性が白人の男性にも白人のフェミニストにも見落とされてきたことを指摘できます。*9第二に、彼女たちは黒人女性のイメージが社会学者によってわい曲されてきたことを指摘できます。このように、「内側のアウトサイダー」としての黒人女性社会学者の視点からは、「インサイダー」には見えないことが見えるわけです。
黒人女性の「内側のアウトサイダー」の視点の特異性を見落としたり、それを「フェミニストの視点」一般に包摂してしまうのは致命的な過ちでしょう。白人女性と黒人女性は異なる経験を持っており、したがって異なる視点を獲得します。だとしたら、「フェミニストの視点」を単数形で語ることはできないでしょう。そうではなくて、複数形の「フェミニストの視点」が存在するのです。*10
この連載では、男性中心主義的な「知」に対抗するフェミニストの様々な戦略を見ました。フェミニスト経験主義者は、性差別主義的な偏見を取り除くことによって、旧来の科学者よりも「客観的」であろうとしました。一方で、「フェミニストの視点」の理論家たちは抽象的な「客観性」の様式を退け、フェミニストの「知」の基礎を日常世界における女性の具体的な経験に置こうとしました。とすれば、単数形の「フェミニストの視点」を複数形の「フェミニストの視点」に置き換えることは、彼女たちの思想の論理的な延長でしょう。というのも、「知」が日常的な経験に基礎づけられるべきなのだとしたら、そして女性たちが異なる経験をするのだとしたら、彼女たちは当然異なる「知」の視点を獲得するはずだからです。私たちはもはや、世界を見る単一の視点に頼ることはできません。私たちは、私たちの複数の経験に基づく複数の視点を求めるべきです。人種差別的家父長主義資本制の下で複合的な抑圧を受ける女性にとって、複数形の「フェミニストの視点」は、重要な武器となることでしょう。
*1:Smith, D. (1987) The Everyday World as Problematic: A Feminist Sociology, (Milton Keynes: Open University Press), p. 71.
*2:Hartsock, N. C. M. (1997) ‘The Feminist Standpoint: Developing the Ground for a Specifically Feminist Historical Materialism’, in Nicholson, L. ,ed., The Second Wave: A Reader in Feminist Theory, (London: Harvard University Press), p. 222.
*3:Spelman, E. (1990) Inessential Woman: Problems of Exclusion in Feminist Thought, (London: Women’s Press), p. 3.
Inessential Woman: Problems of Exclusion in Feminist Thought
- 作者: Elizabeth V. Spelman
- 出版社/メーカー: Beacon Pr
- 発売日: 1990/03
- メディア: ペーパーバック
*4:Harding, S. (1991) Whose Science? Whose Knowledge? Thinking from Women's Lives, (Milton Keynes: Open University Press), p. 13.
*5:Collins, P. H. (1991) 'Learning from the Outsider Within: The Sociological Significance of Black Feminist Thought' in Fonow, M. M., and Cook, J. A. eds., Beyond Methodology: Feminist Scholarship as Lived Research, (Bloomington and Indianapolis: Indiana University Press), p. 35.
*6:ibid.
*7:ibid., p. 36.
*8:ibid., p. 50.
*9:たとえば、一部の白人フェミニストは家族を女性の抑圧の主要な源として定義しました。しかしながら、そうすることによって、彼女たちは黒人女性の経験を無視します。カービーはこれに対して、黒人女性にとっては家族は抑圧の源としてだけではなく「[人種差別的な]抑圧への主要な抵抗の源」としても機能してきたと主張します。Carby, H. V. (1982) ‘White Woman Listen! Black Feminism and the Boundaries of Sisterhood’, in Centre for Contemporary Cultural Studies, University of Birmingham, ed., The Empire Strikes Back: Race and Racism in 70s Britain, (London: Hutchinson), p. 214.
Empire Strikes Back: Race and Racism in 70's Britain (Hutchinson University Library)
- 作者: Centre for Contemporary Cultural Studies
- 出版社/メーカー: Hutchinson Educational
- 発売日: 1984/03
- メディア: ペーパーバック
*10:「黒人フェミニストの視点」や「白人フェミニストの視点」を単数形で語ることにも問題があります。というのも、黒人女性と白人女性の間に違いがあるように、黒人女性同士、また白人女性同士の間にも差異があるからです。たとえば、黒人女性の秘書は黒人女性の教授とは異なる経験をし、異なる視点に立つかもしれません。
2005-09-14
フェミニストはいかに「知る」のか 第二回 「フェミニストの視点」の理論
「フェミニストの視点(feminist standpoint)」の理論家たちは、単に従来の研究の「エラー」を指摘するだけではなく、社会的な「知」の枠組み自体に関心をもつ人々です。その一人スミスは、社会学の問題構制それ自体が、支配階級の白人の男たちの社会的位置に深い根を張っていると主張します。スミスいわく:
社会学はこのイデオロギーの構造に属する。社会学のテーマや何がそれに関連するのかということは、そこで特定の階級的役割を演じ、関係のネットワークに参加している者としての男性の遠近法(視点)によって組織されており、またそれを表現する。その関係のネットワークとは、彼らの仕事を社会の他の医療・教育制度の専門家の仕事に結びつけ、ビジネスにおいてであれ、行政においてであれ、その他の分野においてであれ、社会のより直接的な支配の実践と結びつけるものである*1。
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The Everyday World As Problematic: A Feminist Sociology (Northeastern Series in Feminist Theory)
- 作者: Dorothy E. Smith
- 出版社/メーカー: Northeastern Univ Pr
- 発売日: 1989/03/02
- メディア: ペーパーバック
ここで、私たちは二つのフェミニスト認識論の違いに気づくことができます。前回見たフェミニスト経験主義者たちは、(社会科学者を含む)科学者が性差別主義的な主張を行ったのは、彼ら自身の原則を十分に厳密に適用しなかったからであると考えました。それに対して、「フェミニストの視点」の理論家たちは、社会学や他の科学の基礎にある原則それ自体を問題にします。
スミスは、「私たちが今女性としている場所から……始めること」*2によって、また「日常世界を問題枠組みとすること」*3によって、社会学にラディカルに挑戦します。この立場からすれば、女性たちの日常のローカルな経験は、社会学(や他の学問)の支配的形式を批判し、オルタナティヴなフェミニスト的な形式を作り上げるための、適切な出発点となるでしょう。
このような発想は、マルクス主義の唯物論を連想させます。マルクスは、考えや精神が歴史の原動力だとする観念論に異議を唱えました。マルクスとエンゲルスいわく:
天国から地上に降りてくるドイツの[観念主義的]哲学とは正反対に、私たちは地上から天国に上る。つまり、私たちは、生身の人間を理解するために、人間が言ったり、想像したり、思ったりすることから出発することも、語られたり、考えられたり、想像されたり、思われたりするものとしての人間から出発することもしない。私たちは、現実の活動的な人間から出発し、彼らの現実の生の過程に基づいてこの生の過程のイデオロギー的な反響やエコーを示す*4。
マルクスはさらに、「人間の意識がその実存を規定するのではなく、彼らの社会的実存がその意識を規定する」*5と主張しました。支配関係の抽象的なイデオロギー装置としての社会学を拒絶して、女性の日常の物質世界を「知」の出発点とする点において、スミスもまた「地上から天国に上る」と言えるでしょう。
しかしながら、ここで問いが発生します:彼女は男性中心主義的な理論家たちの過ちを繰り返しているのではないか? 社会の理解の基礎を女性の経験に置くことによって、彼女もまた、性差別主義的な科学者たちと同様に、偏見に囚われているのではないか? ハーディングが指摘するように、相対主義者ならばこのように言ってスミスに反駁するかもしれません*6。けれども、女性と男性の経験は、社会的な「知」にとって、等しい価値をもつわけではない、というのが「フェミニストの視点」の理論家たちの立場です。彼女たちは、女性の独特の位置からは、社会的関係をよりよく見ることができると主張します。
スミスはこのことを、主人と奴隷の関係についてのヘーゲルの分析と、資本家と労働者についてのマルクスの分析に依拠しながら示そうとします*7。スミスのまとめるところによれば、ヘーゲルの図式においては、主人は、自らの労働を介さずして対象への欲望を満たすことができます。これは、対象が使用人の労働によって生産されるからです。結果として:
その仕組み自体が主人の視点からは見えない。主人の意識内においては、自分と、対象と、手段に過ぎない使用人が存在する。使用人の目からは、主人と、対象を生産する自らの労働が存在し、主人と対象の関係は単純なものに見える。一連の諸関係の全体が見えるのだ。*8
スミスによれば、マルクスも支配階級と労働者階級について同じようなことを言っています。マルクスは、前者の存在条件を生産する後者の視点からは原則として諸関係全体が見えるのだと主張しました。
男性と女性の関係についても、同じことが言えます。奴隷と労働者が主人と資本家の存在条件を生産するように、女性もまた支配的な(男性)社会学者の「支配の抽象化された概念様式」*9を可能にします。前回見たように、支配的な男性社会学者は客観性を確保しようとしますが、身体的な必要性を逃れることはできません。そのような必要性は、たいていは女性の家事労働によって満たされます。スミスは、「女性は男性のために、行為の概念様式とそれが実際に拠って立つ具体的な形式の仲介をする」*10と主張します。だとしたら、ちょうど使用人や労働者が主人や資本家よりも優れた視点をもつのと同じように、女性も男性よりも優れた視点をもつと言えるでしょう。
ハートソック*11は、女性の位置の特殊性に関心をもつもう一人の理論家です。スミスと同じように、彼女は女性の経験をより優れた社会認識の源であると見なします。ハートソックいわく:
マルクス派の理論がプロレタリアの生について示したように、女性の生は、男性至上主義への特定の有利な視点を用意する。その視点からは、男根主義的な諸制度や、家父長制の資本主義的形態を構成するイデオロギーを力強く批判することが可能になる。*12
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The Second Wave: A Reader in Feminist Theory
- 作者: Linda Nicholson
- 出版社/メーカー: Routledge
- 発売日: 1997/02
- メディア: ペーパーバック
ここでは、またしてもマルクス主義とのアナロジーを見ることができます。しかし、ハートソックの試みはマルクス主義から批判のための道具を借りるだけではなく、一歩先に進むことによってそれを乗り越えようとするものです。事実、彼女は言います:「フェミニストの視点」は(男性)プロレタリアの視点よりも「より深い」*13ものであると。
ハートソックによれば、これは一つには性的な労働分業によるものです。彼女はそのような分業が「社会的労働の構成の中心にある」*14と見なします。男性労働者とは異なり、女性は「資本主義での生存に二重の貢献」*15をします。有償労働を通して男性労働者と女性労働者の両方が物質世界とつながっている一方で、男性は家に帰ると自然から切り離されます。彼らの身体的な必要性は女性によって世話されるからです。それに対して、女性は仕事場でも家庭でも自然とつながっています。それゆえ、女性の「世界への参加は……[男性よりも]完全なもの」*16であり、その結果として「プロレタリアの視力は[前者]にとっては強化され改良され、[後者]にとっては弱体化される」*17のです。
このように、女性の性別労働分業における独特の経験は社会に対するより優れた視点を提供します。このように考えることで、「フェミニストの視点」の理論家たちは相対主義者からの異論を退けます。彼女たちによれば、女性の経験は男性の経験と等価ではありません。女性の経験の特異性はより優れた社会認識の基礎となります。ハートソックいわく:
女性の活動を社会システム全体に一般化すれば、人類史において初めて、完全に人間的なコミュニティーが可能になるかもしれない。それは、分離と対立ではなく結びつきによって構造化されたコミュニティーである。……女性の生の活動は、実際に特にフェミニスト的な唯物論の基礎を形成する。……そのような唯物論は、男根主義的なイデオロギーや諸制度を批判し、それらに抵抗する出発点を提供できる。*18
もちろん、女性は全てのものを無条件に把握できるなどという素朴なことをハートソックは言おうとしているのではありません。女性もまた女性嫌悪的な考えを抱くことがあるわけですから、そのように考えることは馬鹿げています。女性は男性支配の中に生きており、家父長主義的なイデオロギーに浸かっています。したがって、「フェミニストの視点」は、初めからあるものではありません。それはむしろ、「特定の歴史空間における分析と政治的な闘争によって達成されるもの」*19として理解されるべきです。フェミニストにとって、「知」とは家父長主義的な現実との実際の関わりを通して初めて獲得されるものであり、それは政治的な戦いと切り離せないものなのです。
*1:Smith, D. (1987) The Everyday World as Problematic: A Feminist Sociology, (Milton Keynes: Open University Press), p. 56.
*2:ibid, p. 64.
*3:ibid, p. 99.
*4:Marx, K. and Engels, F. (1965) The German Ideology (London: Lawrence and Wishart), p. 37.
*5:Marx, K. (1963) ‘The Preface to a Contribution to the Critique of Political Economy’, in his Early Writings (London: Penguin Books), p. 425.
*6:Harding, S. (1987) ‘Introduction: Is There a Feminist Method?’ and ‘Conclusion: Epistemological Questions’, in her, ed., Feminism and Methodology: Social Science Issues, (Milton Keynes: Open University Press), pp. 185-186.
*7:Smith, D. (1987) The Everyday World as Problematic: A Feminist Sociology, (Milton Keynes: Open University Press
*8:ibid, p. 79.
*9:ibid, p. 81.
*10:ibid, p. 83.
*11:Hartsock, N. C. M. (1997) ‘The Feminist Standpoint: Developing the Ground for a Specifically Feminist Historical Materialism’, in Nicholson, L. (ed.), The Second Wave: A Reader in Feminist Theory, (London: Harvard University Press), pp. 216-240.
*12:ibid, p. 217.
*13:ibid, p. 222.
*14:ibid, p. 221.
*15:ibid, p. 223.
*16:ibid, p. 224.
*17:ibid, p. 225.
*18:ibid, p. 234.
*19:ibid, p. 232.
2005-09-11
フェミニストはいかに「知る」のか 第一回 フェミニスト経験主義という戦略
学校に行けなくなった当時の僕にとって、「知」とは縁遠いものでした。もちろん、すでに80年代には、登校拒否についての科学的言説は巷にあふれていました。心理学者を初めとして医者、教育学者、そしてやや遅れて社会学者たちが僕らのことを研究対象にしていました。当初それは僕にとってよそよそしいものでしかありませんでした。学校に行けなくなってからしばらくたって、学校に行かなくてもいいじゃんと思えるようになってからは、僕は彼(女)らのことを批判的に見るようになりました。そして、既存の「専門家」に教えを請うのではなく、学校に行かないとはどういうことなのか、それと社会はどうつながるのか、ということを自ら知りたいと思うようになりました。「知」にアクセスしたい、「知」を発信したいという欲望が生まれました。しかし僕が興味を引きつけられたような学問は、そのほとんどが学校エリートによって生産されたものでした。疑問が生まれました。もっと多くのことを知りたい。しかし「知る」とはどういうことか。それは、学校エリートの文化に屈服していく作業なのではないか。
そのような不安を抱えながら社会学の勉強をしている時に、僕は学問としてのフェミニズムに出会いました。上野千鶴子さんはこう言っています。「解放の思想には解放の理論が必要だ」。このフレーズには興奮しました。それは、既存の「知」を批判しつつ、新たな、自分たち自身の「知」を作ってゆくのだという宣言でした。
ではフェミニストにとって「知る」とはどういうことか? 6年ほど前にイギリスに留学していた時、このことをテーマに少し勉強をしてエッセイ(レポート)を書きました。その日本語訳を、数回に分けて連載していきます。なお、以前書いた「調査する者とされる者の終わらない関係」(第1回,第2回,第3回)と一部内容が重複します。
私たちは、女性と男性の地位が平等ではない社会に生きています。自らを解放するためには、女性はこの社会を変える必要があります。そしてそのために彼女たちは、何が問題であるのか、何がそれを引き起こしているのか、どうやったら変えることができるのかを「知る」必要があります。もちろん、これは「知」だけで問題を解決できるということではありません。現実に社会的な効果をもつためには、それは行動を伴う必要があます。それでも、「知」は社会変化にとって不可欠です。というのも、行動を開始するには何をなすべきかを「知る」必要があるからです。しかし、「知」は女性たちに自動的に与えられるものではありません。私たちの社会が家父長主義的(男性が女性を抑圧するようなあり方)であるという事実は、「知」の領域もまた男性支配から自由ではないということを意味します。とすれば、フェミニストにとって、「知」それ自体が問題として現われます。この連載では、このことにフェミニストがどのように対処してきたのかを紹介していきます。第一回では、男性中心主義的な既存の研究にフェミニスト経験主義の担い手たちがどのように反駁したのかを見ます。第二回では、「フェミニストの視点」(フェミニスト・スタンドポイント)理論のよりラディカルな認識論を紹介します。最後に第三回では、ブラック・フェミニストの思想を参考にしながら、「フェミニストの視点」理論を発展させることを試みます。
フェミニスト経験主義
シールが指摘したように、「社会的・政治的理論は、その大部分が、男性によって、男性のために、男性について書かれて」*1きました。従来の研究者による業績は「男性の関心[を反映し]、男性の活動や欲望を扱い、女性に関わる、あるいは女性にとって関心のある問題からは切り離され」*2たものでした。女性は、従来の学問言説の領域から構造的に排除されていたわけです。
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- 作者: Linda McDowell, Rosemary Pringle
- 出版社/メーカー: Polity Pr
- 発売日: 1992/03
- メディア: ペーパーバック
女性が伝統的に社会理論から排除されてきたとしたら、それはなぜなのでしょうか? なぜ社会理論は、女性の関心を無視したりゆがめたりしてきたのでしょうか? 伝統的な「知」の様式のどこに問題があるのでしょうか? こうした問いに対するフェミニストの回答は、決して一様なものではありません。様々なフェミニストが、様々な答えを出してきました。その中の一つは、リベラル・フェミニストが依拠する「フェミニスト経験主義」の立場からのものです。
彼女たちにとって、従来の(男性)理論家たちによってなされた主張は、単に経験的に誤ったものです。たとえば、女性は男性から暴力をほとんど経験しないという見解は、新しい調査が行われれば、誤りであることが証明されるでしょう*3。女性の賃金が男性よりも低いのは能力が劣っているからだというのは端的に間違っています*4。このように、フェミニスト経験主義者たちは、社会理論における誤った性差別主義的な主張を指摘し、正していこうとします。
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- 作者: Sylvia Walby
- 出版社/メーカー: Blackwell Pub
- 発売日: 1990/09
- メディア: ペーパーバック
彼女たちは、この種の経験的な「エラー」は、社会科学の深刻な構造的欠陥ではなく、単に個々の研究者が抱いている男性中心主義的な偏見によって引き起こされたにすぎないと考えます。ハーディングは、フェミニスト経験主義者の主張をこのようにまとめます:
[フェミニストの]研究者が異議を唱える性差別主義的で男性中心主義的な主張は、単に「(質的に)悪い学問」の結果にすぎない。そのような主張は、社会的な偏見や先入観によってもたらされる。そしてそのような偏見は、迷信や無知、誤った教育による敵対的な態度や間違った信念によってつくりだされたものである*5。
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Whose Science?: Whose Knowledge?: Thinking from Women's Lives
- 作者: Sandra G. Harding
- 出版社/メーカー: Open Univ Pr
- 発売日: 1991/12
- メディア: ペーパーバック
このように、フェミニスト経験主義者は学問自体を問題にするのではなく、「悪い学問」を追及し、「良い学問」を実践しようとします。ある意味において、彼女たちは「父言説」、つまり伝統的な経験主義を、それ自体の武器を用いて批判するとハーディングは指摘します。その武器とは「客観性」です。客観性は、伝統的な定義では、研究者に「偏見や先入観から自由」であることを要求します*6。客観性を重視する人々は「研究対象を、研究主体から厳密に切り離されたものとして、『そこにある』ものとして」扱います。それは、「研究者の視線をあて、観察し、厳密に自然で距離をおいた言葉で記述することができる」*7とされます。もしこの立場に立てば、性差別主義的な研究成果をあげる男性研究者は、十分に客観的でないという点において、つまり、研究対象から男性としての経験や信念を切り離しそこなっているという点において、批判されえます。女性への彼らの偏見が対象をゆがめており、彼らは客観性の基準を満たしていないと言うことができるでしょう。
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- 作者: Zygmunt Bauman, Tim May
- 出版社/メーカー: Blackwell Pub
- 発売日: 2001/08/15
- メディア: ペーパーバック
ハーディングによれば、従来の研究は様々な段階で偏見の影響を受けます。たとえば、研究者がトピックを選ぶ時、研究を設計する時、データを収集し分析する時です。とすると、フェミニスト経験主義者のよりよい「知」を生み出す戦略は、客観性を復元することを目的として、社会調査からそのような性差別主義的な偏見を除去することになります。彼女たちは、「学問探求の既存の方法論的規範をより厳密に守ることによって」*8それを果たそうとします。このように、彼女たちの方法は、フェミニスト的な目標を目指すものであるとは言え、特にフェミニスト的であるわけではありません。彼女たちは、学問研究の既存の原則をラディカルに変更しようとするのではなく、社会的偏見の余地をなくすため、それをより厳密に適用しようとするのです。
この意味において、フェミニスト経験主義は原理的に保守的なものであると言えます。ハーディングの言葉で言えば、「それは知的にまた政治的に権力をもってきた学問探求の理解を保存し、維持し、救出する」*9ものです。一見、これは深刻な欠点であるように見えます。というのも、フェミニズムそれ自体は決して保守的なものではないからです。フェミニズムの目的は、社会を変えることであって、家父長主義的な現状を維持することではありません。しかし、ハーディングは言います。フェミニスト経験主義の保守主義はその弱点であるだけではなく強みでもあると。保守的であることによって、フェミニスト経験主義は、よりラディカルなフェミニスト認識論ならば退けてしまうような従来の理論家の抵抗からフェミニストの研究を保護します。フェミニスト経験主義は「学問の規範それ自体ではなく、学問的方法の不完全な実践」*10を批判するものなので、従来の原則の多くは無傷のままです。そのぶん、従来からの研究者はあまり脅威を感じず、フェミニストの研究が学問のメインストリームに入っていくことを邪魔しようとはしません。
さらにハーディングによれば、保守的なものでありながら、フェミニスト経験主義はラディカルな可能性を秘めています。それは伝統的な経験主義の原則に従うものでありながら、「父言説を超える」*11面をもっています。というのも、フェミニスト経験主義は、「『発見の文脈』は、社会的な偏見を除去するために、『正当化の文脈』とまさに同じくらい重要である」*12ということを明らかにするからです。これはどういうことでしょうか? 伝統的な経験主義は、研究者のアイデンティティーは研究とは関係がないと主張します。経験主義の枠組みでは:
研究者が白人であろうが黒人であろうが中国人であろうがイギリス人であろうが、社会的出自が裕福だろうが貧しかろうが、研究成果の説明する力や客観性などには違いをもたらさないと考えられている。しかしフェミニスト経験主義は、グループとしての女性(あるいは、男女を問わずフェミニスト)は、グループとしての男性(非フェミニスト)よりも、男性中心主義の偏見に侵されていない主張をする可能性が高いと主張する*13。
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Feminism and Methodology: Social Science Issues
- 作者: Sandra G. Harding
- 出版社/メーカー: Indiana Univ Pr
- 発売日: 1987/12
- メディア: ペーパーバック
男性中心主義的な偏見は経験主義的な方法を用いる者全てによって自動的に除去できるわけではありません。そのような偏見を最初に指摘したのはフェミニスト女性たちでした。女性運動が登場して初めて、学問の世界の住人は男性的な偏見の存在とそれを取り除く必要に気づいたのです。誤った性差別主義的な主張を正すためには、女性の視点が学問言説に取り入れられなければなりませんでした。フェミニスト経験主義は、保守的な装いで学問の世界に潜入し、伝統的な経験主義の基礎を掘り崩していったと言えるでしょう。それは、いわば「トロイの木馬」であったのです。次回は、フェミニストの視点をより前面に打ち出す立場を紹介します。
*1:Thiele, B. (1994) 'Vanishing Acts in Social and Political Thought: Tricks of the Trade' in McDowell, L. and Pringle, R., eds., Defining Women, (Cambridge: Polity Press), p. 26.
*2:ibid.
*3:Walby, S. (1990) Theorizing Patriarchy, (Oxford: Blackwell), p. 16.
*4:ibid.
*5:Harding, S. (1991) Whose Science? Whose Knowledge? Thinking from Women's Lives, (Milton Keynes: Open University Press), p. 111.
*6:Abercrombie, N. et al. (1984) The Penguin Dictionary of Sociology, (London: Penguin Books), p. 146.
*7:Bauman, Z. (1990) Thinking Sociologically, (Oxford: Basil Blackwell), p. 219.
*8:Harding, S. (1991) Whose Science? Whose Knowledge? Thinking from Women's Lives, (Milton Keynes: Open University Press), p. 111.
*9:ibid. p. 113.
*10:ibid.
*11:ibid. p.115.
*12:ibid. p. 116.
*13:Harding, S. (1987) ‘Introduction: Is There a Feminist Method?’ and ‘Conclusion: Epistemological Questions’, in her, ed., Feminism and Methodology: Social Science Issues, (Milton Keynes: Open University Press), p. 183.
2005-09-07
フロイト講演会「精神分析の起源と発展」 第三講義(1)
精神分析 |
みなさん。真実を言うのは必ずしも簡単ではありません。手短に話さなければならない時は特にそうです。というわけで今日は前回の講義での間違った発言を訂正しなければなりません。
催眠術を使うことを断念した後、取り組んでいる問題と関係することで心に浮かぶことを話すように患者をせきたて、忘れてしまったように思えることを思い出すでしょうと患者に告げ、意識に突然に浮かぶ考え(Einfall)は確かに求めている記憶を体現したものでしょうと告げたということを、私は申しました。さらに私は、私の患者の最初の考えが正しい手がかりをもたらし、忘れられていた記憶とつながりのあるものであると示すことができると主張しました。実はこれは必ずしも正しくありません。私は、手短にまとめるためにそれをそのような単純なものとして提示したにすぎません。実のところ、忘れられていたものが私がプレッシャーをかけるだけで正しく去来するのは、最初の数回だけでした。もしその経験が継続されれば、正しいものではありえない考えが去来しました。というのも、それは適切なものではなく、患者自身がそれを正しいものではないと退けたからです。こうなってはプレッシャーを与えても役に立たず、催眠術を断念したことをまた後悔するほかありませんでした。このように困惑した状態の中で、私はある先入観を固く守り続けました。その先入観は、後に友人のC.G.ユング(チューリッヒ大学)と彼の学生によって科学的に正当なものであると証明されました。先入観を持つことは、しばしば非常に有益なことであると言わねばなりません。私は精神の精密な決定過程は高く評価していました*1。そして患者が集中した状態で思い浮かべた考えが、ほんの気まぐれで、私たちが求めている忘れられた考えとは何の関わりも持たないとは、信じることができませんでした。前者が後者と同一でないという事実は、仮定の心理状態によって満足に説明できます。私が診療した患者の中には、2つの対立する力がありました:一方には、無意識にある忘れられた経験を意識にひっぱり上げようとする意識的な努力があり、もう一方には既にお話しした、抑圧された考えやその連想の発生に対する抵抗があったのです。この抵抗が存在しなかったりとても薄弱なものだった場合には、忘れられた経験は偽装(Enstellung)なく意識的なものとなることができました。とすれば、考えの発生に対する抵抗が強ければ強いほど、偽装はより手の込んだものとなると考えるのが自然でした。したがって、求めている考えの代わりに患者の意識に押し入ってきた考えは、ちょうど症状のように作り出されたものなわけです。そのような考えは、抑圧された考えの新しく、人為的でつかの間の代理物であり、抵抗の影響の下でより偽装の度合いが増すのに応じて、抑圧された考えとの違いが生じていたのです。ところが、こうした代理物は、症状としての本質ゆえに、私たちの求めている考えと一定の類似点を持ちます。そして抵抗が強すぎない場合には、こうした突然に思い浮かぶ考えの性質から、私たちの求めている隠されたものを発見することができます。これは、抑圧された考えをある意味でほのめかすものであり、同じことを間接的に表現したものであるに違いありません。
正常の心理状態において、私たちが想定したのと類似した状況が同じような経験を生むことを私たちは知っています。それは、ウイット(機知・ジョーク)の例です。精神分析の技法を研究することを通して、私は必然的にウイットの本質という問題について考えるようになりました。この種のものの一例をお話ししましょう。これは、元は英語で語られた話でもあります。
それはこのようなお話です:二人の無節操な実業家が投機の成功で莫大な富を築き、それから上流社会の仲間入りをすることに努力を注ぎました。その手段の一つとして、街で最も有名で高価な画家に肖像を描いてもらうことが有益だろうと彼らは考えました。それは絵を描くことが「事件」であると考えられているような画家でした。費用の高くついた絵画はまず壮大なパーティーで披露されました。二人のホスト(客をもてなす主人)は最も影響力のある鑑定家兼アート批評家を肖像画のかけられた客間の壁に案内し、賞賛を引き出そうとしました。批評家は長いこと見つめ、何かを探しているような表情をした後で、2枚の絵の間の空いたスペースを指しながら、こう尋ねるだけでした:「で、救世主(キリスト)はいずこに?」と。
このウイットの好例に皆さんお笑いになっていますね。この例を、これから分析してみましょう。批評家が「君たちは二人の罪人だ。救世主が十字架にはりつけにされた時に両側にいた罪人のように」と言おうとしているのだということを私たちは理解します。しかし彼はこうは言わないで、代わりに初めのうちは当を得ておらず関連性がないように思えるけれども、次の瞬間にはそれが彼の意図する侮辱へのほのめかしでその完璧な代理物になっていることを了解できるような言い方をしました。ウイットの例において、患者の中に突然浮かぶ考えの起源について私たちの理論が想定する全ての関係を見つけることができるわけではありませんが、ウィットと突然に思い浮ぶ考えの動機が似ていることを強調したいと思います。なぜ批評家は、二人のならず者に対して言いたいことを直接言わないのでしょうか? それは彼が、それをはっきりと言ってしまいたいという欲求だけでなく、強力な反対の動機にも突き動かされているからです。数多くの使用人の腕力を従えているホストの気を損ねるのは、危険になりそうな行為です。私が前回の講義で抑圧を説明するために用いた例と同じ命運が待っているかもしれません。こうしたわけで、批評家はその侮辱を直接表現することはせずに、偽装された形で、省略を含むほのめかしとして表現します。私たちの仮説によれば、求めている忘れられた考えの代理物として患者が突発的な考えを作り出す時に、同じ布置が働いているのです。
*1:訳注。ここよくわかりませんでした。原文はI put a high value on the strength of the determination of mental processesとなっています。
2005-09-06
(元)登校拒否児のための社会学入門 目次
社会学 |
数年前のイギリス留学時代に書いたエッセイ(レポート)を日本語訳しながらこのブログで連載しています。
最終学年の時はイギリス留学とは名ばかりで、実質自室にひきこもって「2ちゃんねる留学」状態で、ほとんど勉強しませんでした。しかし2年生の時は課題の提出期限の間際は徹夜で猛烈に勉強しました。今その当時のエッセイを読み返してみると、あ〜、自分にもセロトニンがほとばしる時期があったのかもなあ、と思います。気分は抑うつ状態だったけど、「ここぞ」という時には踏ん張る力があったような気がします。逆に最終学年の時は、「ここぞ」という時にぼ〜としてしまい、っていうか内心は「やらなきゃやらなきゃやらなきゃ!」と思いながら時間だけが経ってしまいました。。。
学問の最前線を行くものでは決してありませんが、エンターテインメントとして楽しんで読んでいただけるとうれしいです。また、基本的に参考文献の情報も示していますので、学生の方がレポートを書く際にも活用していただけるのではないでしょうか。バレない範囲でお気軽にコピペもどうぞ。
まだ「ネタ」がいくつかあるので、近いうちに新しい記事も書いていくつもりです。
- 「学校は社会を救えるか――「学校効果」論批判」(1999年)
- 「(元)登校拒否児のためのブラック・フェミニズム入門講座」(1999年)
- 「調査する者とされる者の終わらない関係」(2002年)
- フェミニストはいかに「知る」のか(1999年)
わたしは、十代のころつきあっていたのが、学問否定派みたいな人たちだった影響と、女性は知的に半人前であるべしとする保守のコミュニティの規範の縛りもあって、登校拒否学みたいなものを一度はあきらめた経緯があります。
ただ、やはり世間は狭量なので、なんとか博士号だけはとらないと、と思っているところです。女性の場合特に、権威がないとナメられたり信用もなかったりして、話が前にすすまないこともありますから。
動物学の権威があれば、「大学出ていないのは文字の読み書きもできない」という世間の常識に対抗して、「類人猿の研究によれば、人類はまず言葉を発明した。大学はあとだ。だから、あなたの意見は時系列的に見て間違っている」と言えば信用してもらえる蓋然性が高い。まだ博士ないし、だれそれの弟子とか、組織・肩書きがなければ、ぜんぜん話し相手にもしてもらえない。とにあっく、まずは博士号です。
最近、学力にからめて、高専の有能な人間が学歴格差により冷遇されている件について触れました。オルタナティブ大学の最新エントリーです。よかったら見てください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%89%E5%A4%A7%E5%AD%A6
>むしろ、博士号なんていう制度を破壊してしまった方がよいと
>いますが
あ、それはいいですね。幼稚園入試の塾から大学院までみんななかったら、どれほど救われるか! 博士号をひとつの完成とすれば、幼稚園入試ころから、ずっと人を縛るシステムいなっている。しかも、その間に多数の「落ちこぼれ」をつくり、「学力」が低いと難癖をつけ自信を喪失させながら、学校の勉強とハイアラキカルな分業が再生産サイクルでつなげられている。
もっとも、女性はコケにされないために肩書きが必要とか、日本社会ではオルタナティブ大学ひとつやろうにも、組織への所属だのカンバンだのがないと「信用」がなくて、にっちもさっちもいかない、といった事情もあるんですけれどね。いやあ、十代のころに父もなくなってお金もないし、大変ですよ。幼稚園から大学院まで行かずにすむなら、個人的には大助かりなんですけれどね。