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2006-10-24

「学校自殺」

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最近の「いじめ自殺」問題についての報道を見ていて、ふと10年ほど前にあるミニコミに書いた文章を思い出しました。

学校自殺


ソ連と日本の共産党

昔、ソ連にスターリンという人がいた。当時ソ連では共産党による一党独裁体制が施かれており、彼はその書記長(トップ)だった。横暴な人で、気に食わない者はシベリアへ流刑にしたり死刑にしたりしたそうだ。スターリン=共産党の思想は唯一絶対のものだった。ただスターリンだけが「正しい」のであり、その彼に反する者は当然「正しくない」のだから、そうした「反革命分子」に対する暴力も正当化されていた。神聖なるスターリン主義に反対する者・適応しない者は、容赦なく排除されていたのだ。

ところで、この日本にも同じ名前の政党がある(もっとも彼等は自らをスターリン主義とは相容れぬものと主張しているが)。この党は数十万もの党員を擁しているので、中には党中央と対立したり党中央の気に食わない行動をとったりする党員もいる。現在は“オウム・ウォッチャー”として華々しい活躍をしている有田芳生もその一人だった。有田の「哀しい日本人と日本共産党」(『週間金曜日』65号)という文章によると、ある行動を「規約違反」とされしかも自己批判しなかったために党を除名された彼は「さまざまな得難い体験」をすることになる。街や空港で出くわした知り合いの党員にシカトされる。「罵倒の汚い言葉を羅列した葉書」が送られてくる。党機関紙では彼のジャーナリストとしての功績までがシカトされる。「有田と道で出会ったら、挨拶をしていいのか」と討議した党支部さえあったという。

たしかに共産党や党員の有田に対する仕打ちはひどい。有田の「規約違反」は除名するほどのものとは思えないし、たとえ除名されたからといってシカトまですることはないと思う。はっきり言ってこれは「いじめ」だ。だがそれでも、有田は島流しにも死刑にもならなかった。それどころか今や全国に知られる売れっ子ジャーナリストとして成功している(彼の姿勢には疑問も多いがここでは関係ない)。ソ連でスターリンの反対者がたどった運命とは明らかに異なるのだ。

この違いはどこから来るのだろうか。ソ連よりも日本の共産党の方がより民主的であるということかもしれない。だが最大の原因は、両国共産党自体の体質の違いというよりも、共産党が両国において占めている社会的位置の違いにあると思う。ソ連では共産党=スターリンは独裁体制を施く絶対的存在であり、社会の隅々まで支配していた。共産党から疎外されることは社会全体から疎外されることを意味したのだ。これに対して日本では、共産党は数ある政党・運動体の一つにすぎない。共産党から除名されたぐらいでは、社会における活躍の場が奪われることにはならないのだ。


いじめの論議

最近のいじめ論議において最も攻撃の対象となることが多いのは学校である。「いじめ隠し」に走って失敗するマヌケな校長がまず非難される。そして「なぜいじめを放置したのか」といった声が教師に向けられる。教師自身がいじめに加担していた場合は尚更である。

こうした学校攻撃の次になされることは、「より良い学校」を目指しての学校改善策の提案である。「思いやりのある人を教師にするために採用に際しては面接を重視し、ボランティア経験を評価しよう」「一人ひとりに教師の目がゆき渡るようクラス定員を削減しよう」「暴力はいけないのだと教えるためにまず教師が体罰をやめよう」「いや、いじめる側の子どもには厳しい姿勢で臨むべきだ」「明るい友達関係をつくらせるために挨拶運動を推進しよう」「芸術科目を増設して子どもの心を豊かにしよう」「各学校にカウンセラーを置こう」「点取り競争が子どもの心を荒廃させる。偏差値を廃止しよう」「生徒自身に自分たちの問題として自主的に取り組まよう」「互いに尊重し会う友達関係をつくらせるために名前の呼び捨てやあだ名をやめさせよう」・・・。

現象として現れた学校の問題を攻撃し、「より良い学校」をイメージすることで、そうした問題がもたらしている現実の害悪に対する責任が回避される。「私はこのようなすばらしい学校のあり方を提案しているのに文部省や日教組がダメだから問題が起きる」というわけだ。だが、腹を空かせたトラのオリに投げ込まれた人間が、肉を削がれ、骨を砕かれながら呪うのは、直接的加害者としてのトラだろうか。逃げることを不可能としている鉄格子という存在、そしてそんなところに投げ込んだ人間こそ問われなければならない。


学校自殺

いわゆる「いじめ自殺」をする子どもは、死の直前、親に「もう学校に行きたくない」と言うことがある。これに対してほとんどの親は「そんなことは許されるわけはない」と常識的にこたえる。実はここに大きな分かれ道があるのではないだろうか。というのも、『君らしく僕らしく自分色』(東京シューレの子どもたち編、教育資料出版会)*1という登校拒否児たちの手記を読むと、一時はいじめに苦しみながらも学校をやめることで解放され、現在は元気に暮らしている子どもたちがいることがわかるからだ。実際、いじめに限らず学校における問題は全て学校をやめさえすれば解決してしまうのである。「学校における問題」は学校において発生するからそう呼ばれるのだから当然だ。

ここで日ソ共産党の話に戻ろう。ソビエト共産党=スターリンに楯ついた者は流刑・死刑となったのに対して日本共産党からの被除名者は党関係者からはいじめられながらも社会で活躍している。この違いは両国共産党自体の体質というよりも共産党が両国において占めている社会的位置の違いからくるものであると述べた。

今、「いじめ自殺」の問題において、次のように言うことができるのではないか。「いじめ自殺」の原因は学校自体の体質というよりも学校の社会的位置にある、と。学校でどんなにつらいことがあっても、どんなにイヤな奴がいても、そんな所に行かなければ、そんなやつと付き合わなければ、つらい思いをせずにすむ。ところが多くの子どもにとって学校は絶対的存在(=「絶対に行かなければならない所」)であるために、「学校に行かない」という選択ができない。学校で生きられないと言うことは生きる場所を失うということを意味するのだ。子どもはそう思い込まされている。「いじめ自殺」はこういう構造の下に起きているのではないか。

そうだとすれば、「いじめ自殺」という表現はおそらく適切ではない。自らの生よりも学校を優先させて死ぬのだから“学校自殺”とでも言うべきだろう。「いじめ自殺」ではいじめっ子に対して不当に過重な責任を押し付けてしまう危険がある。本当の殺人犯はいじめっ子ではない。文部省でも日教組でもない。学校の絶対性=学校信仰、そしてそれを支えている一人ひとりの意識こそが子どもを殺すのだ。

だから、安易に「より良い学校」を求めることは、学校の絶対性を強化してさらに子どもを追いつめることにつながりかねない。学校信仰に手をつけずに学校における現象的問題を解決しようとしたとしても、スターリン独裁体制を維持しながら強制収用所の待遇を改善すること以上の意義はもちえないだろう。あるいは、オリの中の獰猛なトラをなだめようとすることでしかない。


無限の世界へ!

実は、学校なんて普遍的・絶対的な存在なんかではない。たかだかここ百年ぐらいの間に人間が勝手につくってきただけだ。それまでは存在しなかったし、将来いつの日か消滅してしまうかもしれない。ほんらい人間は、そんなものに囚われず自由に生きることができる。学校は無数に存在する生きていくための場所の一つにすぎないのだ。スターリンの死後その絶対性が剥奪されたように学校のそれも破り捨てられねばならない。

アジア・太平洋戦争末期、地上戦の舞台にされた沖縄では「集団自決」という悲劇が起きた。米軍によって追いつめられた洞穴の中、親が子を、兄が弟妹を殺し、彼らもまた自らの命を絶ったのだ。天皇や国家への忠誠のためであった。米軍に捕まれば強姦されるか殺されるかどちらかだと信じ込まされてもいた。軍国教育が彼らを縛りつけていたのだ。だがそのような状況にあっても、あえて生き残る可能性に賭ける勇気をもち、米軍に投降した人もいた。敗戦後、忠誠を全うした人はあっさりと天皇・国家に裏切られ、軍国教育も否定されたが、生き残った人は戦争の悲惨さを語り、幸せを求めることができた。

学校信仰という名の錆び付きかかった鉄格子は、子どもを窒息しそうな狭さの中に閉じ込めている。だがそんなものはこじ開けてしまえばいい!一歩外に踏み出せば、この世界は無限に広がっているのだ。どこにでも行きたいところに行き、したいことをすることができる。命に替えてまで留まっている理由はどこにもない。


追記

学校を改善しようとすること自体に反対しているのではない。現象的な問題だけに目を奪われて学校の絶対性という根源的な問題が見えず、「より良い学校」イメージが一人歩きすることでかえってそれが強化されることを懸念しているのだ。選択肢の一つとして学校を改善するのであれば大賛成する。ただし何が「より良い」のかは人によって違うと思うが。

『脱学校通信』No. 56 (1996年5月)

もちろん、現在の僕の考えはこれとは大きく異なります。もしこんなものを書いたということがバレたら、反自由党から鉄の制裁があるでしょう。しかし、歴史的資料としての意義を考慮し、命がけでここに再録することにした次第です。誤字なども含めて変更はしていませんが、紙に印刷されたものをタイプしたので、新たなミスがあるかもしれません。

*1:原文ママ。正しい書名は『僕らしく君らしく自分色』、出版社名は教育史料出版会です。

僕らしく君らしく自分色―登校拒否・私たちの選択

僕らしく君らしく自分色―登校拒否・私たちの選択

2006-10-18

入試問題に挑戦

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不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ) (よりみちパン!セ)』の僕の執筆部分が入試問題(小論文)の課題文として取り上げられたそうです。教材会社の方から問題を送っていただきました。

平成18年度信州大学教育学部入学者選抜試験


次の文章を読んで、下の問いに答えなさい。


僕が「明るい登校拒否の物語」と呼んでいるのは、かつての僕自身を含め、学校に行かない人や行かなかったことがある人のうち、そのことを肯定的に捉えるようになった人の物語である。これは手記やインタビューといった形で本人によって語られることもあるし、支援者によって紹介されることもある。

   起:「学校に行くのがつらいよ!」

   承:「学校に行けなくなったらもっとつらくなっちゃったよ!」

   転:「学校に行かなくてもOKと気づいたら楽になった!毎日楽しくてしょうがない!」

   結:「現在は社会人として立派にやっています」

    <中略>

思うに、「明るい登校拒否」というのは、無臭ニンニクみたいなものである。ある無臭ニンニクの宣伝文句には、こうある。

『にんにくは健康に良いけれど、あの臭いがどうも……』

という方に朗報です!!

たしかにそうかもしれない。しかし僕が問題にしたいのは、それがニンニク自身にとっても「朗報」と言えるのかということだ。無臭ニンニクは「ニンニクなのに臭いがない。スゴイ!」と言われてうれしいだろうか?そして、脱臭されていない、ニンニクの臭いがするニンニクの立場って、いったい……。

「明るい登校拒否」もまた、本来受け入れがたい存在である登校拒否を脱臭して、より多くの皆様にご愛顧いただけるようになった改良品種である。でも、「不登校なのにスゴイね、元気だね、活動的だね、社会人になれるね」と言ってもらったとして、それってホメ言葉なんだろうか?


(貴戸理恵・常野雄次郎『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』理論社、2005年、135頁2行目〜136頁2行目、138頁1行目〜12行目)


問い

上の文章のように、「明るい登校拒否の物語」を「無臭ニンニク」の例と捉えることについて、賛否いずれの立場からでもよいので、あなたの立場を鮮明にして、あなたの考えを800字以内で述べなさい。なお、題欄には適切な題を書き入れなさい。

(解答用紙は必ず、横書きで使用すること)

この短い文章を読んだだけで、上記のような「問い」に答えるのは至難の業なのではないでしょうか?

「明るい登校拒否の物語」という言葉には、不登校に対する抑圧を批判する運動の一部に見られるリベラルな戦略への揶揄が込められています。僕が「明るい登校拒否の物語」と呼ぶようなフィクションを語るリベラルな人々自身が、この言葉を使うことは現在ではまず考えられません。つまり、「明るい登校拒否の物語」という言葉を使うということ自体が、ある特定の政治的立場を取ることになるのです。これはたとえば、「あなたは教育基本法改悪に賛成ですか、反対ですか」という問いに似ています。法律を変えるべきだと思っている人は、そもそも「教育基本法改悪」という言葉は使いません。

信州大学の「問い」に対しては、筆者の用語が適切であるかについても賛否を表明すべきなのか、それともとりあえずは「明るい登校拒否の物語」なるものがあるということは前提にしてしまうべきなのか、はっきりしません。高校教育では不登校についての対抗言説内部での葛藤について教えられることはないわけですから、おそらく出題者の意図としては後者である可能性が高いでしょう。

 また、「「明るい登校拒否の物語」を「無臭ニンニク」の例と捉えることについて」の考えを示すことが求められているわけですが、これも難しい。これを文字通り読もうとすると、後者が前者の適切な比喩となっているかどうかが問われていることになります。

しかし、課題文の後半では、「無臭ニンニク」を「無臭」であることによって肯定すること、ひいては「明るい登校拒否」を支配的な尺度で肯定することに対する疑問が提示されています。はたして「問い」は、筆者のこの主張に対する評価も求めているのでしょうか?

というわけで、この問題はまともに取り組もうとすると出題者の意図を推理しているだけで時間切れになってしまう可能性があります。ですから、おそらく最善の策は、課題文を理解しようとしたりまともに「問い」に答えようとしたりすることではなく、一種の「思想調査」と割り切って、採点者に可能な限り気に入られそうな不登校論を書くことでしょう。もちろん、「明るい登校拒否の物語」と「無臭ニンニク」という言葉をそれぞれ少なくとも一回は使うことは最低条件ですが。

ではどんな主張が評価される可能性が高いか? これもまた難しい。

というわけで、やっぱり難しい問題だと思います。もし実際に受験された方がいらしたら、ぜひどのようなことを書かれたのか、合否はどうであったか、お教えくださるとありがたいです。

なお、信州大学のサイトに問題のPDFファイルがありますが、「著作権の関係」とやらで課題文は空白になっています。

http://eduinfo.shinshu-u.ac.jp/nyuushi/2006/pdf/bksky18.pdf

ワタリワタリ 2006/10/26 18:24 Toledさん

やっぱりこういう記述を見ていると、あなたは学校や大学の価値観で不登校系の人たちも一元化しようとしているように見えます。
主観的な見解の相違といえばそれまでかもしれませんが、わたしには不登校の子どもがニンニク臭いというのは、イメージとかたとえであっても差別的で失礼にあたると思います。もう少し別の表現のしかたもあったと思います。

それに、ちょっと感情的な「売り言葉に買い言葉」をすれば、
不登校系の私から見ると、登校受容系の人たちこそ、時折ファシズム臭く見えなくもないのですが、どうでしょうか?

toledtoled 2006/10/30 00:14 ワタリさん、こんにちは。

> わたしには不登校の子どもがニンニク臭いというのは、イメージとかたとえであっても差別的で失礼にあたると思います。もう少し別の表現のしかたもあったと思います。

そうしてしまうと、ニンニクの立場はどうしてくれるんだという話になってしまうと思います。

> 不登校系の私から見ると、登校受容系の人たちこそ、時折ファシズム臭く見えなくもないのですが、どうでしょうか?

「時折」というよりは、常に例外なくそうだと思います。

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2006-10-12

オールニートニッポンで雨宮処凛の肉声が聴けるぞ!(インターネットラジオ)

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次回放送予定:2006年10月27日(金)19:00〜21:00 生放送

オールニートニッポン開設記念放送

「雨宮処凛のオールニートニッポン」

■パーソナリティ:雨宮処凛(あまみや・かりん)

■ゲスト:月乃光司(「こわれ者の祭典」代表)、AKIRA(作家・ミュージシャン・アーティスト)

■内容:「生きづらさ」をテーマに会場のみなさん、リスナーのみなさんと本音で語り合う一夜。月乃さん、AKIRAさんによるライブパフォーマンスもあり!?

★渋谷T's salonより公開生放送!

http://www.kotolier.org/ann/index.html

「オールニートニッポン」という卓抜なネーミングセンスがある時点で既に潜在的な非ニートなのではないかという気もしますが。「こわれ者の祭典」については以前から興味があったのでぜひ聴いてみたいです。

放送が行われる会場に直接行くこともできるそうです。

★ 10月27日の公開生放送に参加するには?

  入場は先着制となっております。

 [日時] 2006年10月27日(金)

      Open    18:30〜

      On Air   19:00〜21:00

      Free Talk 21:00〜

  [場所] 渋谷T'sサロン1階

  (http://www.salon.tsstyle.jp/map.html

  [出演者] 雨宮処凛(作家)、月乃光司(「こわれ者の祭典」代表)、

   AKIRA(作家・ミュージシャン・アーティスト)

  [内容] 「生きづらさ」をテーマに会場のみなさん、リスナーのみな

   さんと本音で語り合う一夜。

  [参加費] 2,500円(1ドリンク込み)

  (会場でニート・ひきこもり申告をすると300円割引)

http://www.kotolier.org/ann/index.html

非常に微妙な金額ではあるものの、ニート・ひきこもり割引があるのですね。

toledtoled 2006/10/12 21:36 すみません、広辞苑を見たら「肉声」は「機械を通さない人間の生の音声」のことだそうです。

yamamotoyamamoto 2006/10/13 00:33 掲載ありがとうございます。
月乃さん=新潟、AKIRAさん=日光、ということで、
予想外に参加費が高くなってしまったのですが、
当日は楽しい一日になると思います。
(というか朝まで飲み会?)
ぜひ常野さんもお時間が許しましたらご来場ください。
では〜

コトバノアトリエ・山本
http://blog.kotolier.org/

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