2007-06-25
「手すり」と手すり
日記 | |
朝の電車は乗客がみんな傘を持っていたのでいつも以上に窮屈でした。終点の渋谷で、傘の忘れ物に注意するよう呼びかける車内放送。
「手すりに傘を掛けたままお忘れになるお客様がたいへん多くなっております。今一度お確かめください」
え? 手すりに傘? そんなものぶら下げたら、電車の振動で水は飛び散るし、揺れて前に座ってる人の顔を直撃したら危ないよ。だいたい、誰もそんなことやってないじゃないか。まだ誰もやってないことをなんで禁止する必要があるんだ。これは、あの「ファイトクラブについては語ってはならない」というのが「ファイトクラブについて語りまくれ」という意味であるのと同じで、通勤電車内の秩序への反乱を呼びかけてるのか? ということは、既に鉄道会社まで反体制勢力の手に落ちたのか? もう革命は始まっているのか?
と、パニックになったのですが、改札を通るあたりで、あ、なんだ、「手すり」とは手すりのことであって「つり革」ではないのだということに気づきました。あの、座席の両端の、鉄パイプの手すりのことですね。たしかにあそこによく傘掛けますよね。
ここ数年、こんなことばっかり。気をつけなくては、という決意を新たにしました。
夕方、目黒駅のトイレに傘を置き忘れました。
ところで、いわゆる牛肉ミンチ偽装問題。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070625i205.htm
いったい全体、何がどう悪いのか、皆目検討もつきません。
月曜日の朝日新聞のトップもこの問題で、「主な疑惑」というのが箇条書きになってました。
・豚や鶏などを混入した偽牛ミンチを製造
・状態が良くない肉を入手、殺菌処理して製造
・家畜の血液で着色し、牛ミンチに見せかける
・肉に水を混ぜて全体を増量
・学校給食用にブラジル産鶏肉を国産と偽り出荷
・賞味期限切れの冷凍食品を入手し、日付を書き換えた包装に詰め替え販売
・国産鶏肉会社の袋を複製、外国産鶏肉を詰め販売
これがトップに扱われるべき問題であるとは? 豚肉や鶏肉が宗教的理由やアレルギーなどで食べられない人もいるかもしれない。けど、今回はそういう視点はないようです。状態が「良く」なかろうが、賞味期限が切れていようが、食えればいいじゃないですか。っていうか食えるんだったら、「賞味期限」の設定の方が間違ってるんじゃないでしょうか。水で肉が増えるなら、結構なことじゃないですか。きっとこの会社の社長はジーザスの生まれ変わりに違いありません。
不二家の件もわからなかった。ムネオがいじめられて、しかもいじられる側が悪いということになっていた時も置いてけぼりを食らった気分だった。そのムネオをいじめていたツジモトが、さらにスケールの小ささに壮大なスケールで挑むようなささいな「問題」で辞任したのはさらに謎だった。年金の支払い免除資格があるのに免除になっていない人を免除にしたことも何が問題なのか理解できなかった。
それとも、これも「手すり」なのか?
今日の僕には、それを否定する自信はありません。けど、どうしても大問題とは思えない。「問題」を問題化することの方が問題だと思います。
関係ないですが、「問題」を問題化する問題については、↓でも書きました。
学歴詐称事件と「反学校の倫理」
2007-06-16
(その1) 美しい国の無責任の伝統――「慰安婦」国家関与否定と「権限への逃避」について
A: 日本の右翼がアメリカの新聞に意見広告を出したんだって。
B: え? 何の話?
A: コレだよコレ↓。
「慰安婦強制の文書ない」 日本の国会議員ら米紙に広告
従軍慰安婦問題をめぐり、日本の国会議員有志や言論人らが14日付の米紙ワシントン・ポストに「旧日本軍によって強制的に従軍慰安婦にされたことを示す文書は見つかっていない」と訴える全面広告を出した。
島村宜伸元農水相、河村たかし氏ら自民、民主両党の国会議員ら計44人のほか、ジャーナリストの桜井よしこ氏、岡崎久彦・元駐タイ大使らが名を連ねている。4月下旬の安倍首相の訪米に合わせ、韓国人団体が同紙に「従軍慰安婦の真実」と題した全面広告を出したのに対抗し、「事実」という見出しをつけた。
広告では、旧日本軍の強制を示す文書がないと主張し、逆に「強制しないよう民間業者に警告する文書が多く見つかっている」と訴えた。インドネシアで一部の部隊が強制的にオランダ人女性を集めるなど「規律が崩れていたケースがある」ことは認めたが、責任者の将校は厳しく処罰されたと説明している。
そのうえで「慰安婦はセックス・スレーブ(性奴隷)ではなかった」と主張。公娼(こうしょう)制度は「当時の世界では普通のこと」として「事実無根の中傷に謝罪すれば、人々に間違った印象を残し、日米の友好にも悪影響を与えかねない」としている。
(最後だけ略)
http://www.asahi.com/politics/update/0615/TKY200706150143.html
B: へー。韓国でも日本でもなく、アメリカの新聞に出すってのがスゴイね。
A: あ、いや、それはね、この問題について日本政府に謝罪を求める決議がアメリカの議会に提案されてるっていう経緯があるらしい。で、これに関連して、日本政府がアジアで多くの女性の奴隷化と強姦を組織したことを指摘した上で、安倍ちゃんが政府の直接的な責任を否定したことを非難する意見広告が先に出てたんだって。同じ『ワシントン・ポスト』っていう新聞に*1。*2今回の意見広告は、それに対する反論になってるんだよ。
B: ふーん。日本のウヨクはどんなこと言ってるの?
A: これがその意見広告↓。
イオ
≪閣議や御前会議で軍人が主張を通そうとする時には、「私はこう思う」っていうんじゃなくて、「それでは部内がおさまらないから」とか「それでは軍の統制を保障しえないから」っていうのを根拠にしたらしい。つまり、二・二六事件みたいにまた暴発しちゃうかもしれないからってことだね。≫
山本七平さんが(この人は学徒として徴兵されて(下級将校)ひどい目にあった人だから)かつての、(ある意味今もそれは続いているけれど)日本の意思決定を「空気」による決定と分析していましたね。
「空気」に対しては誰も逆らえない。機構的に上部にいる、いわば問題がおきたとき責任を問われる立場に人も、決して「権限」を行使できない。
変な話ですが、「権限」を行使しないタイプ(それは責任をとることと、裏腹なのですが)が、むしろより大きな権限を持つポストに出世しやすい。自民党の森さんや、中川さんには、明示的な政策や政治理念はない。おおめね「空気」によって動くのみの人、(これはほとんど「無能」の別名ですが)しかしいわば「空気」によって動くことには寛容な日本人集団の中では、彼らが個人的な責任を問われる可能性は低い。そして、そのような人を組織の上部に置くことは組織自体が、責任を問われる可能性を下げることに有効である。
戦時中の将校から、自民党の執行部まで、おおむね日本の権力は、そのような力学で組織されていたといっていいのではないでしょうか。
そして「空気」とはある意味で個人としての顔立ちをもつことがない。
いわゆる、「私はそうは思わないが、みんなはきっとそう思ってるはず(実際はみんながそう思うはずと思う判断こそ私の判断と呼ぶべきなのでしょうが)」そう思う人の集団によって為された決定、あるいは行為に、関係者のすべてが「私はそうは思ってなかった」(つまり、反対だったと言いうる)という、ひどく歪で悩ましい状況が出現する。
これはもう徹底的に無責任の(極限まで洗練された)システムなのですが、ではどうするかというと、これがまた悩ましい。
ある意味で過半数を超えた与党が、すべての法案を、野党なんぞの反対を押し切って、すべて通過させるということは、規則と権限の正当な行使なのですが、そうしないのは、「空気」が歯止めになっているからともいえますね
それはそれ。
≪要するに、強姦か売春かということが争われているわけだけど、そもそも暴力のないところに売春はありえないってこと≫
実はオスの性衝動が微妙に攻撃性と結びついているという動物学者の指摘を読んだ記憶があります。
とすると「暴力性のないところで、性行為はありうるのか」という、いささか根源的??な悩ましさを感じたりもします。
アジアで日本兵が行なった残虐な性行為は、日本のみならず、世界中で、ポルノビデオの撮影として、今でも日夜行われていることと、そう変わりなかったりもしますから。
相変わらず取り留めのない文章になりました。
PS,FC2のブログで、ツネノさんのミクシィでの日記の一説を引用させていただきました。事後報告になりました。ごめんなさい。
http://juvenilebook.blog108.fc2.com/blog-entry-8.html
toled
オスの性衝動と攻撃性ということについてはあんまり考えていません。そうではなくて、物理的な暴力も経済的な暴力も似たようなものなんじゃないかと思うのです。
イオ
ちゃす。
≪物理的な暴力も経済的な暴力も似たようなものなんじゃないかと思うのです≫
これはほんとに、そう。
介護保険が始まったころの、話で、いわゆる低所得者層のほうが、要介護になる確率が高いという話。
いわば、『経済的な要因』がダイレクトに『物理的なダメージ』と直結しているというという、ある種、リアルで、あけすけな話。
所得水準と、寿命水準?にはっきりした相関関係が示せれば、資本の経済的暴力性が、直接、物理的な暴力性でもあることを、それは明かすことになるはず。
時々強盗が金持ちの家に入って、金持ちを殺して、金を奪ったりして、徹底的に批判されるけれど、スパンを長く取れば、資本者のやっていることも、倫理的には同じ水準ということになるかもしれませんね。
mojimoji
「物理的な暴力も経済的な暴力も似たようなものなんじゃないか」はまったくそのとおりです。ただ、そのことから≪要するに、強姦か売春かということが争われているわけだけど、そもそも暴力のないところに売春はありえないってこと≫とは言えません。「私は好きでやっている」と、実際にそのように主張する人がいます。どこまで本気かはともかく、その人の本気度を外から評価する、という傲慢さにも慎重であるべきとすれば、これを真に受けたところで考える必要はあります。このあたりの話は「性的自由と買売春」という論文で書いたので、よろしければお送りします。
で、逆にいえば、買売春の是非論に拘泥していると、歴史事実がどうだったかという論点が隠蔽されてしまうわけです。両方問え、という話ならわかります(で、実際にはそのようにしているわけですが)。しかし、本記事では歴史事実の論点を問うことが買売春の是非を問わないこととセットでなされているかのような、それを批判されているかのような印象をもつわけですが、そこには違和感を感じます。
toled
論文、ぜひ拝読させてください。後でメール差し上げます。
> 「私は好きでやっている」と、実際にそのように主張する人がいます。どこまで本気かはともかく、その人の本気度を外から評価する、という傲慢さにも慎重であるべきとすれば、これを真に受けたところで考える必要はあります。
しかし、「私は強姦されたい」とか「強姦されてよかった」とか思ってる人だっていないとは証明できないんじゃないでしょうか? ま、そういう場合それは「強姦」ではなかったということにしてもいいかもしれませんが、それを客観的に事前に判定することは至難です。
しかしそういう可能性は、はたして強姦が容認されるべきかどうかということとは全く関係ないですよね? それと同じで、「自由意志」で売春をしている人がいるかどうかということは売春制度の是非とは関係ないと思います。
もちろん、現在の社会のあり方のままで、ただ売春を取り締まればいいというもんではありません。それは、資本主義を維持しつつただグッドウィルを倒産させればいいというものではないのと同じです。あるいは、消費者金融だって、違法化されたら困ると思う困窮者もいるでしょう。
> で、逆にいえば、買売春の是非論に拘泥していると、歴史事実がどうだったかという論点が隠蔽されてしまうわけです。両方問え、という話ならわかります(で、実際にはそのようにしているわけですが)。
僕は両方問え、という立場で、「売買春の是非論」を通してのみ「歴史的事実」が見えるようになると思っています。
mojimoji
レイプとレイプっぽいプレイは別ですからね。レイプは定義上「意思に反した性的侵襲」ということだと思うので、レイプと売春は同列に扱えないように思います。「暴力的に強いられた」「経済的に強いられた」売春はともかく、「どちらでもなく望んで」と本人が述べている売春をレイプと同列に扱うのは無理があります。
売春が全面的に「否」と言えない場合には、売春の是非論を通しても歴史認識の論点を問えません。鍵は「全面的に否と言えるか」というところにありそうです。
イオ
『鍵は「全面的に否と言えるか」というところにありそうです。』
いささかずれた話ですが、柄谷行人がカントの言葉『他者を手段としてのみならず、目的として扱え』という言葉に対して『……のみならず、』が重要であるという解説?をしていますね。
この世界での、人と人とのかかわりにおいて、他人を手段にすることは避けがたいものかもしれない。おおむね対人関係において、他者を手段としないことが困難であるならば、手段としたかを批判のポイントにしてしまえば、すべての、行為がその批判を免れないものになってしまうのではないでしょうか。それは批判の有効性を、ベーシックに無力化してしまうことになるでしょう。
ポイントを「他者を手段としてのみ、扱ったか」と『他者を手段としてのみならず、目的として扱ったか』にスライドさせることは、倫理的な問題に関する批判の有効性を回復させることになるのではないでしょうか。
おおざっぱですが、「手段のみ」よりにレイプが、「手段のみならず」よりに、売春が、位置づけられるのではないでしょうか。
toled
イオさん
> おおざっぱですが、「手段のみ」よりにレイプが、「手段のみならず」よりに、売春が、位置づけられるのではないでしょうか。
う〜ん、どうでしょうか。仮に買売春を「ギブアンドテイク」としてとらえるとすればそうかもしれないですが、売春制度は常野暴力であるという(僕の)立場からすると、そうした区別は成立しないことになると思います。だからやっぱし、mojimojiさんの言われるように
> 鍵は「全面的に否と言えるか」というところにありそうです。
っていうことになるかと思います。
toled
うわっ、恐ろしいタイプミスが。
> 売春制度は常野暴力であるという
一体どんな深層心理の表れなんでしょうか。もちろん、意図したのは、
> 売春制度は常_に_暴力であるという
です。
イオ
フフフ、(爆笑)
『売春制度は常野!!!暴力であるという』 もう、どういう暴力だか(笑い)
それはそれ、もちろん今回のツネノさんの、問題意識は『物理的な暴力も経済的な暴力も似たようなものなんじゃないか』というところがポイントで、それに関しては私も、mojimojiさんもおおむね同意している。
ツネノさんは、「物理的な暴力も経済的な暴力も似たようなものなんじゃないか」という問題的提起を、慰安婦問題という今盛んに議論されている「時事問題」と結びつけ、それを売春問題というより一般的な広い視点で捉えなおそうとしているところにある独創性を感じるのですが、売春問題というのはいささか奥が深くて、村上春樹にある種影響を与えたといわれることもある、庄司薫という作家の小説に女性の最も基本的な職業として、『巫女、看護婦、娼婦』が並べて語られているところがあります。
「物理的な暴力も経済的な暴力も似たようなものなんじゃないか」という、『真理?』と『売春問題』をリンクさせるのには、より繊細な手続きが必要であると思います。気をつけないとせっかくの「物理的な暴力も経済的な暴力も似たようなものなんじゃないか」という先鋭的な問題意識が、『売春問題』をめぐる議論の論理的展開の不安定さ?に足を引っ張られてしまうような気がします。
「全面的に否と言えるか」という問い。
否とはいえないという結論が出れば、それは、右翼の、慰安婦問題を正当化、あるいは責任回避を模索する?勢力に、いわば理論的な基盤を与えることにもなりかねないし、
否であるという結論は、これまた現実な悩ましさをもたらすことになるような気がします。語弊のある言い方をすれば、タレント、女優の、Oさんが、1年半の結婚期間で、財産分与として、30億を手にしたという話。
私には、なんだか超高額の愛人契約(ある種の売春行為。なんたって一月で、一億にちょっと欠けるくらいの額ですからね)という印象を吹っ切ることが出来ません。そして、Oさんが全体として、そのことで『暴力』を受けたとも考えにくいわけです。
岸田秀さんが、そもそも結婚制度は、長期的な売春精度という側面が少なからずあるということをどこかで書いていたと思います。
『売春制度は常に暴力であるという』という考え方を、論理的な筋道で、説明していただければ、議論は、より深まっていくのではないでしょうか。
それでは。
2007-06-07
禁じられた川
日記 |
ああ、こんなありふれた日常から脱出したい! そこがどんなところであろうとも、ここではないどこかに向けて飛び立ちたい、と朝のまどろみの中で焦燥感に駆られていると、Tちゃんから電話がかかってきました。いわく、「多摩川くだりをしようぜ」。
思えば、数週間前にも同じような誘いに乗って歩き始めたら、なぜか多摩川とは垂直の方向に北上し、上石神井公園まで到達してしまったのでした。
今回は、再び多摩川くだりに挑戦するという、「三度目の正直」を二回目にして実現しようという英雄的冒険となるでしょう。
多摩川沿いを歩き始めてまず見落とすことができなかったのが、「禁止事項」の異様な多さです。
まずはオーソドックスなものから、で〜ん!
色々とあるけど、まあよくある禁止事項ですね。やはりゴミ問題が重要であるようです。このくらいの秩序は民主社会にも必要かもしれません。
掲示三連発。
「カギを閉めます」ってどういうこと? 広大な河原を閉鎖するのは不可能と思われるのですが……。
難解。
この付近での堤防破損、自由使用者の妨げになるようなゴルフ練習等危険な行為はやめましょう。
ここでは、(A)「堤防破損(になるような)」と(B)「自由使用者の妨げになるような」という2つの限定を受けた「ゴルフ練習等危険な行為」が禁止されています。ってことは、(A)でも(B)でもないような「ゴルフ練習等危険な行為」であればOKってこと? その違いを判断する基準はどこにあるんでしょうか。
これも難しい。
「他の人の迷惑となるような場所での使用はやめましょう」っていうのは完全禁止ではなく、部分禁止。そうでないような場所でならOKということになってしまうが、河川周辺全体が「迷惑となるような場所」なのか、そうでないエリアもあるのか、ということは示されていません。
きっと、こういうのを全面的に禁止してしまうのは法律的にちょっとアレだったりして、そのへんをうやむやにしつつも実効性を狙った公務員の知恵の結晶のような掲示文なんでしょうね。
と思ったらシンプルなのもありました。
しかし、地上で走らすラジコンでさえも禁止なんでしょうか? 河原で禁止だったら現代のちびっ子はどこでラジコンをするんでしょうね。
暗くて見にくいですが、「球技禁止」って書いてありますよね。サッカーゴールとかも見えるんですが……、やっぱりダメなのかな。
……。
「ストップざポイすて」(泣)
A:ボール遊びやバーベキューまでとにかく禁止のオンパレードだな。
B:でも、こうやって歩いてると、守ってない人も結構いるね。
A:きっとあれだよ。別に特定の行為自体を禁止したいっていうわけじゃないんだよ。全体的な秩序が維持されてれば警察も違反行為をスルーするわけ。
B:じゃあなんでこんなにどこもかしこも禁止掲示ばかりなわけ?
A:たとえば暴走族とかホームレスとかさ、そういう権力にとって気に食わないやつらを排除する時にさ、ただ「お前らウザイから出てけ!」っていうとアレでしょ。でもこんだけ禁止事項があれば、誰でも一個くらいはひっかるだろうから、それに違反しているっていう理由で追い出すことができるじゃん。
B:なるほどね。些細な禁止事項を無数に作っておいて、それを恣意的に適用することによって、「法の下の平等」を骨抜きにすることができるわけか。なんか例の、オタクっぽい人がカッターナイフを持ってただけで警察にしょっ引かれる*1っていうのに通じる話かもね。でもさあ、それなら、ボール遊び禁止みたいなことよりも、いっそのこと「呼吸禁止」とか「歩行禁止」とか「生きること自体禁止」っていう規則を作っちゃえばいいんじゃないの?
A:おいおい、↓見ろよ。
サバイバル禁止!
A:やっぱ、生き延びること自体もう禁止なんだってば。
B:わー! こりゃスゴイね。ま、もちろん「サバイバルゲーム禁止」っていうのを意図してるんだろうけど。隣りに「不法居住禁止」ってあるし……。この2つを並べるセンスはやっぱりスゴイ!
A:経堂と梅が丘の間の遊歩道に、こんなの↓もあったよ。
B:あはは、何が禁止されてるのかわからない。ま、もちろん、インクがはげちゃっただけなんだろうし、内容は文脈から想像できるけど。
A:ちょっと散歩しただけでこんなに禁止事項に出会えるなんて、我々の全体主義も捨てたものじゃないのかもしれないな。
B:でもね、本当にスゴイ全体主義社会では、自由が抑圧されているという事実それ自体が抑圧されるんだって。ジジェクが言ってた。
A:またジジェクかよ。どういうこと?
B:たとえばさ、ソ連の議会かなんかで、「スターリンは最悪だ。あんなのやめさせろ!」って誰かが叫ぶとするじゃん。で、それに対して、横に座ってた奴がさ、「気でも狂ったのか? 同志スターリンを批判することが許されるわけないだろ!」って糾弾したとしたら、その注意したやつの方が先に撃ち殺されるんだって。つまり、あくまでも、批判精神や、自由闊達な言論が許されている中でスターリンが支持されてるっていう外観を保つことが重要だったんだ。
A:ふ〜ん。じゃあこんなに禁止事項が溢れてたり、市民的自由を制限するような改革が進行する日本社会っていうのは、実はようやく民主化の歩みを開始しつつあるのかもね。*2
最後にオマケ
↑石神井公園にて。
↓多摩センターにて。
サンリオピューロランドって、18未満立入禁止だったの?
*1:http://anond.hatelabo.jp/20070605230519
*2:この会話はフィクションです。
イオ
全体としてのどかな雰囲気で始まって、スターリンの話で落とす。
お見事!
ジジェクは面白そうですね、いつか読んでみよう。
それでは。
toled
ジジェクは笑えますよ〜。ドイツ哲学とかラカンの専門用語への言及とかはチンプンカンプンですが、文章がとにかく面白いです。特に最近のものは時事ネタを扱うことが多いので比較的わかりやすいです。ただし、ある程度サヨク的な発想をもった人でないと、ピンとこないかもしれないですが……。
ちなみに↓でもジジェクを引用しました。
http://d.hatena.ne.jp/toled/20070324#p1
suikan
ネタにマジレスすると、多摩川河川敷の一部は外部の道路から堤を超えて車が入れるようになっています。その部分が施錠されるんですね。もちろん、あの堤を真っ向から上り下りできるほどの特殊車両には無意味な看板です。
ちなみに川崎側堤防の大部分は自転車用コースになっており、所々「歩行者、ランナーは自転車の邪魔をするな」とやわらかい禁止を見ることができました。10年以上前の話です。いまどうなっているかは存じません。
toled
なるほど、カギがかかっちゃうというのは車両のための話なんですね。ゆっくり夕涼みをしていたら帰れなくなってしまうというわけではないと知って安心しました。
その上で(そもそも犯罪をセンセーショナルに報道するのが妥当なことなのかどうかといったような根本的議論はさておいて、一般的な基準に照らしても)、これがトップを飾るような「大問題」と思えないという感覚は、私も共有します。「混ぜればうまくなる」という信念は、ある意味御立派で、これがレストランのシェフであったら何の非難も受けなかったでしょう。
非難の声を大きくしているのは、「ひどいものを食わされた」という新聞読者の感覚から生まれているのでしょう。混入されたもののなかには衛生上、あるいは生理上問題のあるものもあったかもしれませんが、そういうことが「ひどいもの」という感覚に結び付いているようには思えません。むしろ、「ひどいもの」は、つまり「安いもの」なのでしょう。「屑肉」=「安い」=「ひどい」という図式です。その裏側にあるのは、「牛肉」=「高い」=「うまい」という感覚。すなわち、だれも自分の舌で判断しなくなっていて、本来は生理的な感覚で決まるものを市場の価格で判断するようになっているわけです。
で、この奇妙な「生理感覚の市場化」をさらにヒステリックにしているのは、「穢れ」にまつわる日本人的感覚でしょう。屑肉はすなわち「穢れ」ですから、それを食べさせられることに日本人は極端に反応してしまうわけです。屑肉とは本来は流通に載せにくい、処理しにくい部位の肉なわけで、たとえば豚の舌などは屑肉として扱われますが、かなり美味なものです。牛の同じ部位なら「タン」として珍重されるわけです。名前が変わるだけで穢れが穢れでなくなるのですが、誰もそれを自分自身の生理感覚で確かめようとしません。
この「穢れ」にまつわる問題は、なかなか複雑です。たとえば、有機農産物を求める消費者の心理のなかには、「農薬」=「穢れ」という感覚が存在します。このような感覚は有機農産物と慣行農産物の価格差をつけるのには役立ちますが、現実に起こっている農業問題の解決には寄与しません。実際、同じ消費者が「家畜糞尿」=「穢れ」という感覚から「清浄野菜」(化学肥料を使って畜糞などの有機肥料を排除した作物)を選好するという奇妙な現象も起こるわけです。
人間が自分自身の生理感覚を信用しなくなると、実に奇妙なことが起こります。けれど、じゃあ自分自身を振り返って、自分の感覚がどこまで信用できるのかと自問すると……
ミンチ偽装は、あの社長さんの態度があまりにも稚気溢れる悪びれないものだったので、‘そうワルい人じゃないないじゃん’となったんですね。緊急に人命にかかわることでないし、という面もありますが、企業モラルの問題としては、やはり、イカンでしょう。しかし、彼の会社のような弱小企業は、メディアが“正義の味方”を振る舞うに際してはとても叩きやすい相手だったんでしょうね。民放のスポンサーになっているような巨大食品産業の添加物の問題のほうが、はるかに危険でも、何も言えない。
さて ― 「手すり」と「吊り革」の件ですが、ときおりあることですね。 >「問題」を問題化すること → これは‘風潮’でしょうか。この伝でいくと、健康番組で「こういう、日常生活での単純な取り違えもアルツハイマー症の初期兆候なんですね」などとゲストの医博がのたまう日も近いかもしれませんよ〜^^。
電車の話になりますが、最近、降車客の動作が異常にノロいように感じます。もっとも朝通勤時以外での経験ですが。ひとつには携帯を見てるヤツが多いからですが、それ以外の人たちもホンットにゆっくり降りていらっしゃる。‘降車客が降り了えてから乗る’というわが国都心のよき(これはまあ、よいでしょう)風習を守ろうとすると、乗降にひどく時間がかかる。だいぶ前でしたが、日本への留学生などを集め、“日本人はいかにせっかちか”を印象づけるTV番組を見た記憶があります。‘日本人はいつでもどこでも不必要に急いでいる’ということは、どうも、“懐疑・再検証してはならない事実”にされてしまっているような気がし、こういう傾向に危険さを感じます(うーん、意を尽くさぬ言い方…)。
お久しぶりです。
> 人間が自分自身の生理感覚を信用しなくなると、実に奇妙なことが起こります。けれど、じゃあ自分自身を振り返って、自分の感覚がどこまで信用できるのかと自問すると……
「良いもの」を見分ける「目」や「舌」を持たない僕ですが、発泡酒はやっぱり普通のビールよりもまずいと感じます。たぶん、目をつぶってても違いを言い当てることができると思います(逆に1000円のワインと3000円のワインならムリです)。
でも、輸入ビールとかで、分類上は「発泡酒」になってるんだけど高くて、おいしいのもありますよね。「発泡酒」だからってまずいわけじゃないんですね。
だとしたら、普通の発泡酒ってなんでまずいんでしょう? ひょっとして、ビールが売れなくなるとこまるから、わざと差をつけてたりするんじゃないかと思うんですが……。
人々の怒りの背景には、質の悪いものを食わされたということだけじゃなくて、「だまされた」という思いもあるのかもしれないですね。
はじめまして。電車の乗客、ノロいですか? 僕はいつもギリギリまで家を出ないので、駅までも全力疾走、乗り換え時もダッシュしまくりです。ほんの10分でも早く出て、余裕をもって移動したいなあと思うんですが。
> 不登校(昭40年代に‘発症’、現在も半ニート、か?^^;)のほうが、山ほど書きたいことがあるんですが、ま*それはまたの機会に^^。
ぜひぜひぜひぜひよろしくお願いします。しばらく、不登校は直接的なテーマにしてないですが、このブログの記事の大半は、登校拒否について考えるための練習問題みたいなものとして意識しています。直接関連がなくても、お気軽にコメントしてください。