2007-09-23
「対案についての思考」を禁止します
腹減ったなー。よし、一杯やるか。お! 白木屋があるじゃん。ここに入ろうぜ。と、誘ってるのに、「白木屋はイヤだ。白木屋以外がいい」という返事が返ってきたら、ムカつきますよね? 白木屋がダメなんだったら、じゃあどこがいいっていうんだ。他にもっといいところがあるのか。具体的な対案もないのに「白木屋以外がいい」って何事? 10秒以内に別のより良い候補を挙げなかったら白木屋に入っちゃうよ! と言いたくなります。
これに対して、「「対案を出せ」論法について」の前半でmojimojiさんが書かれているのはこういうことです。もちろんどの店にも入らないというわけにはいかない。けど、もし「白木屋はイヤだ」という批判を真摯に受け止めるのであれば、白木屋よりもマシな店を見つけるということは、白木屋を提案した側、白木屋に異議を唱える側、双方にとっての課題となるはずだ。なのに、対案を見つけるという責任が白木屋に異議を唱える側にだけあるかのように、対案がないというだけで白木屋がイヤだという意見を否定しようとするのはゴマカシである……。
しかし、mojimojiさんの批判は、ここに留まりません。返す刀で「「ラディカルな」人たち」をも斬って、喧嘩両成敗の裁きをくだします。mojimojiさんいわく、
実は、ここに[保守主義者と「ラディカルな」人たちの]奇妙な相似形があるのだ。「対案を出せ」論法が批判そのものを封じ込める恫喝として作用するのに対して、批判が「対案についての思考」を停止させるような形で作用することがあるのだ。つまり、「対案を出せ」論法は、その拒否を通じて、その目論見を達成している。これでは、完全に罠に嵌ってしまっている。だから、ここでもう一度、考えなければならない。「対案を出せ」論法を拒否するとして(するべきだ)、しかし、対案のあるなしに関係なく、私たちは生きてゆかねばならない、ということについて考えなければならない。──先に述べたことからすれば(つまり、「対案を出せ」論法の問題は、「対案」要求にではなく、それを「誰に」要求するか、という点にあるのだとすれば)、私たちは「対案を出せ」論法に抗しつつ、対案を構想する権利(そう、これは権利だ)を手放さない、という行き方になるはずである。
つまり、白木屋に異議を唱える者も、ただイヤだイヤだと駄々をこねているばかりでは、対案がないならだまって白木屋について来いと恫喝する者と同じ穴のムジナなのです。ただ拒絶するだけでは、よりよい店を見つけるという課題を放棄していることになってしまいます。しかし、mojimojiさんは対案は絶対になくてはならないものだと信じています。なぜならば、「ある瞬間を空白にしておくことはできない」からです。
しかし僕が言っているのは、まさに「対案についての思考」を停止せよ、ということです。
これまで、教育をめぐって、様々な「対案」たちが争ってきました。白木屋よりも隣に和民があるよ。和民のクーポン券持ってるし。いや、和民も白木屋も似たようなもんだよ。男なら養老の滝だろ。電車で移動してでも行きたいよ。は? 何それ。そこのデニーズでマッタリするのが一番だよ。
イリイチの『脱学校の社会 (現代社会科学叢書)』は、これに対して、いや、居酒屋なんか行かなくたって、その辺のコンビニでビールと魚肉ソーセージ買って多摩川で飲もうよ。夕日も見れるしさ。くらいのことは提案しました。
だけれども、本を書きながらイリイチも薄々感じていたのは、それって、飲み食いをしているという点では、居酒屋に入るのと同じじゃんかということです。
私は教育をより良くするために学校を脱制度化することを求めた。そして、そこにこそ自分の過ちがあったのだと私は気づいた。教育を任意の余暇活動の恵み*1ではなく差し迫った必要にしてしまう傾向をひっくり返すことの方が、学校の脱制度化よりもずっと大切であるということに私は気づき始めた。私は、教育教会[=学校]を脱制度化することが、腐敗した、全てを包み込むような教育の様々な形態が熱狂的に復興することにつながって、世界を全体的な教室、グローバルな校舎にしてしまうのではないかと恐れるようになった。より重要な問いは次のようなものになった。「なぜかくも多くの人々が――学校制度の熱心な批判者までもが――ドラッグに対するように教育に中毒になってしまうのだろうか」。
……主には友であり同僚であるボルフガング・サックスを通して、教育機能は既に学校から離脱しつつあり、次第に、別の形態の強制的な学習が現代社会に打ち立てられつつあるということに私は気づくようになった。それは法律によってではなく、人々にテレビからなにごとかを学んでいるかのように信じ込ませたり、現職研修に参加させたり、より良いセックスをする方法や、感受性を高める方法や、自分が必要としているビタミンについてよりよく知る方法や、ゲームをする方法などについて教わるために巨額のお金を支払わせたりといった別のトリックによって強制的なものとなるだろうと思えた。このような「生涯学習」や「学習ニーズ」についての語りは、学校だけでなく社会をも、教育の悪臭で完全に汚染してしまった。*2
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- 作者: Matt Hern
- 出版社/メーカー: New Society Pub
- 発売日: 1996/09
- メディア: ペーパーバック
つまり、イリイチはまず学校の支配を解体しようとしたわけです。*3ところが、学校から教育機能が溶け出し、社会全体を覆うようになってしまうというのもまた、不気味な光景でした。だからイリイチは、「教育における代案」ではなく、「教育に対する代案」を目指すようになりました。そして、教育が必要だという信仰についての歴史研究を行っていきます。
実を言うと、僕はその歴史研究についてはまともには読んでませんし、読んでもその妥当性を判断する能力はたぶんないでしょう。ただ、僕がイリイチを引きつつmojimojiさんに言おうとしていた*4のは、メシなんか食いたくないし、ビールもイヤだ、ということです。白木屋も和民も京都吉兆もみんな同じだ。多摩川に行って缶ビールを飲むのだって一緒だ。これらの間に引かれた線はニセの線だ。ありとあらゆる代案を拒否する。未だ存在していない、「来るべき飲み食い」という代案も含めて。
つまり、僕は「対案についての思考」を一まとめにして否定しているのです。現に存在する対案だけでなく、将来ありうるかもしれない可能性も含めて、全部ダメだと言っているのです。
ですから、mojimojiさんは僕への批判として僕が対案の構想を放棄していると指摘しているわけですが、これは僕にとっては賞賛でしかありえません。もし僕の主張に1グラムでも教育を良くするためのヒントのようなものが混じっていたら、僕は厳しい自己批判を迫られることでしょう。
食いたくない、飲みたくない、と言う人に対して、「白木屋がイヤだからといって、対案をあきらめてはいけない。一緒にもっといい店がないか考えよう」などというリアクションがありうるでしょうか? それは、「白木屋」という現状の選択肢以外の可能性に開かれているようでいて、飲み食いするという前提を固定しようとするものです。飲み食いするという提案に対して飲み食いしないという対案を出してるのに、「じゃあお前がもっといい店を提案しろよ」と恫喝しようが、「白木屋よりもよい店の可能性について皆の問題として考えていこうぜ」と肩を組んでこようが、ウザイものはウザイのです。もし、食いたくない、という人をどこかの食い物屋に連れて行きたいのだったら、飲んだり食ったりすることがすばらしいことであるか、必要なことであるということが示されなければなりません。
mojimojiさんは「すばらしい」とは言わないけれど、必要であるという立場です。mojimojiさんは、学校(的なもの)は絶対に必要なもので、永遠になくなることはないという信仰を持っています。これに対して、僕はそういう信仰を持っていない。あるいは、全く別系統の信仰をもっているわけです。
mojimojiさんいわく、
そこで、常野さんや貴戸さんはここにどんな(異なる)答えを与えるのか、ということを問うているわけだ。学校廃棄論において、僕が述べたこと[=人間の徹底的な受動性]に対応する(形而上学的)前提としてどんなものが与えられているのか、ということを聞いているわけだ。「ない」なら「ない」でいいと思うけれど、いずれにせよ、この問いに答えない限り「学校廃絶」を「究極の理想」として設定することは、まさしく「空理空論」でしかない。──誤解のないように言えば、「教育を廃絶する」という発想がラディカルだから「空理空論」なわけではない。そこに理がない、そこに論がないから「空理空論」なのだ。ラディカルであることと「空理空論」であることは別のことなのだから。
(僕が言うことじゃないのかもしれないですが、なぜ貴戸理恵さんまでもが「空理空論」の「学校廃棄論」者に分類されてるのか謎です。貴戸さんのこれまでの本にそれっぽいことって出てたでしょうか? 『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』には最後の方にむしろ妙に具体的な対案がわんさか示されてたような気がしますが……。)
ここで、mojimojiさんは自らが提示した前提に対応する前提が学校を破壊すべきであるという立場にあるのかと問うています。ここで、人間は生まれたときから能動的に選択する能力を持っている、といったような主張を出せば話がかみ合うのかもしれません。「学習ニーズ」についてのイリイチの歴史研究は、ある程度そういうことを言うのに役立つかもしれません。けれどもその前に、mojimojiさんの主張の前提に対応する前提が学校廃棄論には「ない」っていうのは、なんだか日本語に「主語」が「ある」とか「ない」とかという話に似ています。異なる体系は異なる前提をもっています。それだけではなくて、そもそも何について前提を設定するかということも違うのです。だから、前提が「ある」か「ない」かということも、何らかの特定の体系に依拠しながらでないと、判断することはできません。
僕は、学校的なものが人間にとって必要であるかどうかということについての判断を前提にはしません。そうではなくて、学校をなくすべきであるということが僕の出発点なのです。だから、学校が必要かどうかということは、ささいな問題です。必要ないならそのままなくせばいいし、必要だということになればその必要性をなくせばいい。このような出発点の設定には、ただ僕がそれを選んだという以外には、何の根拠もありません。
だからあなたも、今この瞬間に、反学校主義者になることができます。そうすることを選びさえすれば。そのうち、学校(的なもの)をなくすためのプランやら代案やらが山のように出てくることでしょう。そしたら、こっちの代案の方がいいとか、あっちの代案の方が実現性が高いとか、誰それの代案はメチャクチャだけどなんか笑えるとか、百家争鳴になるでしょう。そうなってくると、「より良い学校」を模索している人に対して、「あなたは学校にこだわるばかりで、学校をなくすための対案は出していないじゃないか!」などという見当はずれの恫喝も行われることになるかもしれません。あるいは、心温かい人ならば、「まあまあまあまあまあ、学校をなくすための代案を考えることは私たち全員の課題じゃないか。考えていこうよ、一緒にね」と言って、キモがられることになるかもしれません。
*1:原文は"a gift of gratuitous leisure"。ちょっとヘンな訳かもしれないです。
*2:Ivan Illich, "Foreword," in Matt Hern ed., Deschooling Our Lives, 1996, p. viii.
*3:っていうのは○○中学校とか××大学を焼き討ちにするってことではなくて、学校に公的資金を投入しないことや学校に課税すること、学校に行くことで蓄積される特権の剥奪といったようなことです。
2007-09-12
江川紹子さんのプレスリリースを読んで
教育 | |
数ヶ月前に松本智津夫さんのお子さんの一人の「未成年後見人」になった江川紹子さんが、辞任することを希望されているそうです。江川さんのサイトには、「未成年後見人の辞任について」と題された文章が掲載されていて、そこにはマスコミ向けに発表された文書も含まれています。
http://www.egawashoko.com/c006/000237.html
全国の難しいお子さんを抱える親の皆さんの中には、江川さんに羨望の念を抱く人もいるかもしれません。親は辞めれないけど、「未成年後見人」というのはイヤになったら辞めていいんですね。ま、裁判所に辞任を申し立てたということなので、簡単なものではないのかもしれないですが。
僕は、江川さんが件の未成年女性とどのような関係にあったのかということは知りません。また、アカの他人の「後見」などを引き受けることは一生ないだろうと思われる僕は、今回の江川さんの行動を非難する資格はないでしょう。以下は、江川さんが書いた上の文章に対する批判です。
江川さんは、後見人を引き受けることになったいきさつを、こう説明しています。
私は、家出中だった四女が、オウム真理教的価値観から離れ、教団に強い影響力を及ぼしている松本家から離脱し、社会の中で一市民として自立して生きていきたいので助けて欲しいと頼ってきたことから、未成年後見人を引き受けました。彼女のこれまでの生育環境に同情し、社会の中で自立した人間として生きていこうとするのであればそれを応援してあげたいという思いからでした。
江川さんは、辞任したいと思うようになった経緯についても書いています。
しかし、残念ながら彼女の父親を「グル」と崇める気持ちや宗教的な関心は、私が気が付きにくい形で、むしろ深まっていました。彼女の状態が分かるたびに、私はカルト問題の専門家の協力を得ながら長い話し合いを行いましたが、効果はありませんでした。
7月末、彼女は住んでいた場所を飛び出し、行方不明となりました。その後、何度かメールのやりとりはありましたが、8月10日以降は音信不通の状態です。再三話し合いを呼びかけましたが、応じてはくれませんでした。今なお所在は分かりません。
こういう状況では、未成年後見人としての職務を果たせませんし、オウム真理教及びその価値観と対峙してきた私としては、教祖の後継者という自覚で行動している者を支援していくわけには参りません。
この文章から、江川さんと未成年女性との関係が、(少なくとも江川さん側の意識においては)当初から対等なものではなかったということを窺うことができます。江川さんは、「オウム真理教及びその価値観と対峙してきた」という自覚を持っています。彼女は、「教団以外の人間関係を広げて欲しいと思い、いろいろな働きかけ」をしたそうです。彼女にとって後見人とは、ただこの女性を支援するだけの存在ではなく、正しい方向に導く指導者も兼ねたものだったのでしょう。江川さんは、女性のグルになろうとしたのです。ところが、それがうまくいかなかった。それどころか女性は、江川さんが好ましくないと思うような信仰を深めていった(と江川さんが当人の許可なく勝手に書いてるだけですが)。「社会の中で一市民として自立して生きていきたいので助けて欲しいと頼ってきた」のだと思っていた江川さんからすれば、話が違うじゃないかということなのかもしれません。しかし自立した市民であれば信仰の自由があるのではないでしょうか?
ふと思い出したのが、浅野史郎の次のような言葉です。
差別をしている人たちには差別をしているという意識がない。むしろ女性や障害者を保護すべき対象と見ている。俺が稼いでくるから、お前はきちんと家庭を守れみたいに。ただ保護の対象が自己主張をした瞬間に態度が変わる。「なまいき」だと。その瞬間から差別が始まる。
[こちらからの孫引き→ http://d.hatena.ne.jp/kechack/20070326/p1 ]
この図式に当てはめると、江川さんにとって女性は「保護すべき対象」であったのでしょう(後見人なのだから保護するのは当り前かもしれませんが)。ところが、女性は江川さんの意図に反して江川さんにとって気に食わない信仰を深めていった。これは江川さんにとって想定外の出来事であったのかもしれません。女性が反オウムの闘士にでもなってれば江川さんも鼻が高かったでしょうが、「オウム真理教及びその価値観と対峙してきた私としては」オウムへの信仰を持ち続ける人の後見人を務めるのは立場的にちょっと、と思っても無理はありません。
尾山奈々は、自殺する前、教師とのトラブルをマンガにしていました。
「ちょっと来なさい!」(I先生)
二人の少女はつい出来心でクラブをさぼってしまった。
すると家に電話がかかってきて、その先生としゃべらなければならなくなった。つくづくいやな先生だなと少女は思った。(自分の名前を聞かれるまで名乗らなかった、無礼なやつだ!)
少女たちはくどくどと説教されて、次の日、呼ばれたが行かなかった。
「ちょっと尾山さん」(I先生が声をかける)
するとある日、呼び止められた少女は、もろもろの事情で無視した。(奈々さんの文)
次のクラブの日、これからのクラブのことを、きめなければいけなかったので思わずさぼった。副クラブ長は出た。すると先生は言った。
「どうしてああなっちゃったんだろう。前はあーじゃなかったのに」
少女は部活に出たが、出口に先生がいたのでつい出来心で南の窓からとびおりた(みえないはずだった)。少女は次のクラブもさぼってしまった。部活にいこうとしたある日、
「ちょっと話があるの」(I先生が奈々さんの手首をつかむ絵)
そして、手をつかんだりスカートをひっぱったりするので、思わずたたいてしまった。
「ひきょうだよ。そんな。ひきょうだよ、ちゃんと話し合いなさい」(I先生のセリフ)
最後は逃げました。観客はたくさんいました。家まで走ったのですよ。カバンをつかまれたりもしたから、つい床にバシッとたたきつけたりしてしまった。そして、先生は言ったのです。
「よくなるまで待つ」
何がよくなるんだ。悪口いうな! 現在、よくなるのを待っているみたいです。*1
[上記、()内は保坂によるマンガのイラストの補足説明であると思われます。]
佐々木賢は、このようなやりとりが教師-生徒関係においてはごく日常的なものであることを確認した上で、対等な人間同士の間でのトラブルとして見ると、教師の言動は異常なものであると指摘しています。佐々木いわく、
……「よくなるまで待つ」と背後から声を掛けられたら、大抵の人はゾッとするに違いない。善悪の判断は相対的なものなのに、自分の思い込みの「善」のみを基準にして行動し、それに従わない他者に、これまた自分の思い込みの「広い心」で待つわけである。ここには二重の思い込みがあり、その独断と独善の強さには辟易する。また、「よくなる」という言葉は暗に「従順になる」とか「服従する」事を意味していて、支配服従の関係を当然の前提にしている。その前提の上で「待つ」態度は、支配者の「寛容」であって、いかに立場の違いを誇示した言葉であるかが分かる。*2
江川さんは「よくなるまで待つ」ことができなかったわけですが、相手を正しい方向に導こうとする姿勢は「I先生」と共通するものがあると思います。
江川さんがオウムに反感を持つのは自由です。オウムに対して、何でも思ってることを言えばいいでしょう。けれども、江川さんの未成年女性に対する態度は卑怯なものだと思います。
いや、江川さんの態度は教育者としてなら当然のものと言えるかもしれません。だけど佐々木賢が「I先生」について書いているように、もし対等な人間同士の間であれば、相手の信仰を矯正しようとした挙句、「効果はありませんでした」などと書くことが、はたして許されるでしょうか?
女性を洗脳することが正しいと確信している江川さんは、「彼女がもう少し幼ければ児童自立支援施設などでの育て直しも可能でしょうが、18歳という年齢を考えるとそういうわけにもいきません」とまで言ってのけます。「児童自立支援施設」とは、かつての教護院のことです。江川さんの好みから逸脱することは、かくも大きな罪なのでしょうか? 江川さんが女性について勝手に書いていることが仮に全て本当だとしても、女性は何の犯罪も犯していません。対立する意見を持つ相手から「育て直し」ができればいいんだが、などと言われることのおぞましさ!
ここで「児童自立支援施設」という一種の強制収容所まで持ち出されていることは、江川さんのようなソフトな権力について考える上でとても示唆的であると思います。「「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット」(前編、後編)でも書いたように、体罰教師と「進歩的」な教師は対立しているようでいて、実際には持ちつ持たれつの関係にあります。後者が無垢なふりをしていられるのも、前者の暴力に支えられているからです。江川さんは、自ら女性を拉致監禁する度胸をもたないでしょう。もし女性が江川さんの思うようにコントロールされていたら、暴力が露わになることもなかったでしょう。しかし、一線を越えてしまうと仏は鬼にバトンタッチします。ここで明らかになるのは、非暴力と暴力の連帯です。*3
僕がとりわけ問題だと思うのは、江川さんが次のように書いていることです。
彼女の居所を探すために、捜索願を警察に出してあります。生活状況や健康状態を確認するためにも、彼女の居場所について何らかの情報をお持ちの方は、最寄りの警察までご一報下さるよう、お願い申し上げます。
大切な人の行方がわからなくなったら、警察に捜索願を出すのは自然なことでしょうし、一般の人に情報提供を呼びかけることもあるでしょう。しかし、江川さんは女性に対して敵対することを表明し、後見人も辞任しようとしているのです。それでもなお警察に捜索を依頼するとしたら、一体何が目的なのでしょうか?
繰り返しますが、女性は犯罪者ではありません。また、オウムへの信仰についても江川さんが本人の許可なく書いているだけで、本当のところはわかりません。しかし、仮に江川さんの書いている通りだとしたら、オウムとは対立する立場にある警察に居所を探られたいと思うでしょうか? また、そのような警察への密告を奨励するのってどうなんでしょうか?
オウムの恐ろしさを知らないからそんなことが書けるんだ、と言われるかもしれません。けれども僕は、オウムが何者であるにせよ、この女性がオウムとどんな関係があるにせよないにせよ、その脅威から守るに値するものが一体どこにあるんだと江川さんの文章を見て思いました。
*1:尾山奈々著、保坂展人編『花を飾ってくださるのなら 奈々十五歳の遺書』, 1986, pp. 132-133.
*2:佐々木賢『怠学の研究 新資格社会と若者たち』, 1991, p. 15.
*3:ジジェクいわく、「―米軍がある地方の村落を占拠した後、彼らの人道的な配慮を演出するために、部隊の軍医は子供たちの左腕にワクチンを注射した。翌日、その村はヴェトコンによって再奪還されたが、彼らはワクチン注射を受けたすべての子供の左腕を切り落とした……。従うべき文字通りの手本であると主張するのは確かに難しいが、まさしく「人道的」配慮の側面においてこのように敵を完全に拒絶するということは、それがどれほどの犠牲をともなうものであっても、その基本的な意図においては支持されなければならない。同様に、センデロ・ルミノソがひとつの村を支配下においたとき、彼らが重点的に殺害したのは、そこに駐屯していた兵士や警察官ではなく、地方の農民を援助しようとしていた国連や合衆国の農業顧問や医療関係者であった。彼らは何時間か説教され、そして帝国主義との共謀を公に告白することを強いられた後、銃殺された。その手続きが野蛮であったとはいえ、それは鋭い洞察に基づいている。警察でも軍隊でもない彼らは、真の危険、もっとも不実な敵であった。なぜなら彼らは「真実の外皮をまとって嘘をついて」いたからである。彼らが「罪なき」ものであればあるほど(彼らは「ほんとうに」農民を助けようとしていた)、彼らはますますアメリカ合衆国の道具として役立ったのだ。敵に対して、その最良の点において、すなわち敵が「ほんとうにわれわれを助けてくれている」ような点において、このような一撃を加えることのみが、真の革命的な自律性と「主権/至高性」を露呈させるのである。「敵から良いところだけを取り、悪いところは拒絶するか、あるいはそれと戦うかしよう」という姿勢をとるならば、そのときすでにリベラルの「人道的援助」という罠に捕らえられている」(http://d.hatena.ne.jp/hanak53/20070831/p2 より孫引き)
評論家?
>オウムの恐ろしさを知らないからそんなことが書けるんだ、と言われるかもしれません。けれども僕は、オウムが何者であるにせよ、この女性がオウムとどんな関係があるにせよないにせよ、その脅威から守るに値するものが一体どこにあるんだと江川さんの文章を見て思いました。
?オウムにより同級生が殺されている立場としてはそうは言えません。
あなたのご意見は、一応、批判的意見に配慮しているかのようにして、さも、そうでないという主張の仕方は同意できかねます。
??から江川さんの本などさまざま読んでいますが、この文章を読んだとき、江川さん、オウム系の施設にいるなど、ある程度居場所がわかっているのだろうなと考えました。基本的に、江川さんの過去の文章を読むと感情的な発言は少ないです。
?「未成年後見人」の制度趣旨をお考えください(もとい、お調べになりましたか?)
?、?については受け取り方ですが、?の制度趣旨は差別云々とは別の議論です。
趣旨が異なるものについて、同じ土俵に上げるのは少々論理の飛躍と考えます。
toled
評論家さんの同級生が殺されたのは不幸なことですが、それは今回のこととは全く関係ないと思います。
イオ
まあ、基本的に、お子さんの問題ですからね。
オウムの事件、その被害と直接結びつけることは、「彼女」の人権を損なうことになるように思います。
しかしまあ、安倍前首相のグズグズの退陣に比べたら、江川さんの引き際?は、それなりにすっきりしたものではないでしょうか。
私にはなんとなく、北方領土をめぐる、日ロの綱引きを思いました。
領土問題は建前としては、どちらの『固有の領土』であるのかが論点になりますが、近代国家が、べつだん固有の領土だけを領土にしているわけではないというありふれた現実の前で、議論は平行線を辿らざるを得なくなりますし、むしろリアルな力関係と駆け引きだけが、ものを言ったりもするわけです。
いま北方領土で暮らしているロシア人!!!に、日本かロシアかと問いかければ、「ロシア」と答えるに決まっているように、「彼女」も江川さんの元を離れたのだと考えれば、それはむしろ自然なことでしょう。オウムを取り巻く外部の状況が(それはつまり日本の状況が)「彼女」に対して友好的でないことは、まちがいないわけで。
それにしてもシジェクの考え方は強烈ですね。
昔冷戦の時代の亡命者は(いまの北朝鮮からの亡命者でもそうですが)、べつだん政治的なことを言う必要はないわけです。
ただ「飢え死にしそうだった」というだけで十分。
最も政治的でない言葉(行為)が、最も政治的な意味を持つ、そういう瞬間というのはあるわけですね。
それにしてもなんだか悩ましい話ですね。
評論家?
常野雄次郎さんのことを評論家?さんといいました。
文字化けしたところもあり、気にはなりますが、反論は控えます。
プロフィールを拝見して、気づきました。というか題名で気づくべきでした。
10代のころお会いしたことがある可能性が高いからです。
2007-09-08
いつでも聞ける「貴戸理恵の不登校系トークラジオ」
|金曜日に、「貴戸理恵の不登校系トークラジオ」に出演させていただきました。上山和樹さんも参加されてます。
↓この放送を、ポッドキャスト&オンデマンド版でいつでも聞けるようです。
http://www.allneetnippon.jp/2007/09/2_12.html
自分の喋り方がヘン……。
2007-09-06
「貴戸理恵の不登校系トークラジオ」
|明日(金曜日)、「貴戸理恵の不登校系トークラジオ」というのに出演させていただくことになりました。19時からオールニートニッポンのサイトで聞くことができます。
また、オールニートニッポンのウェブマガジンに「「弱者による暴力」に対する暴力について」というエッセイを書かせていただきました。
-巨椋修 第4回「支援者は思想・信教の“良識”を」
-白井カツミ 第8回「昼夜逆転」
-白井カツミ 第9回「無情」
-赤木智弘 第6回「ハイ&ローの愉悦(その2)」
-くまき由佳 第9回「止まらないつまづき君」
-常野雄次郎 第5回「「弱者による暴力」に対する暴力について」
-湯浅誠 第5回「北九州市福祉事務所長を刑事告発」
-投稿原稿 「憂鬱から生まれた歌人」第二話
ということは…、
> 僕は、学校的なものが人間にとって必要であるかどうかということについての判断を前提にはしません。そうではなくて、学校をなくすべきであるということが僕の出発点なのです。
という主張も
「僕は、野菜的なものが人間にとって必要であるかどうかということについての判断を前提にはしません。そうではなくて、野菜をなくすべきであるということが僕の出発点なのです。」
という主張も、(それは主張した当人がただ選択しただけなのだから)その主張の妥当性自体を吟味する事はできないって事でしょうか?
人がある主張をするとき、なぜそう思ったのか、そう思うにいたるための出来事や事実があったと、僕なら考えます(僕達はプレアデス星団の、とある恒星系に住んでいるホニャラ星人の社会形態に対する主張を持ち得ません)。
ですから、前の用法で言えば「学校(的なもの)はなくすべきである」という主張の妥当性は、それらの出来事・事実はその主張を実現する事で解消する事ができるのか、という事で判断される事になります。
ただ、上ではもう少し広い意味で使っていて、それに加えて
i)そう思うにいるための事実や出来事に対する価値判断(ここではそういう事実や出来事は解決されるべき問題であると考えられているはず)
ii)そもそも暗黙の前提である「学校(的なもの)をなくす」という事は可能なのか
にくらいの事も含めています。
これら2つは独立しておらず、絡み合っていますしそれ自体別の問いを生み出すかもしれません。
エントリ本文の例をちょっと拡張するなら、この腹をすかせた人々は朝昼晩、毎食居酒屋で飯を食っているとします。そしてある時白木屋に入るのがイヤになってしまいました。
ここでこの人が、いつも相方が注文する「鶏ささみのチーズ揚げ」が見るのもイヤになってしまったのか、白木屋のメニュー全体に飽きてしまったのか、どこの居酒屋も騒々しくてイヤになってしまったのか、そもそも物を食べてうんこしっこをするのにうんざりしてしまったのかによって、解決の方法は変わってきます。
もし「鶏ささみのチーズ揚げ」を見るのもイヤになってしまった場合に、「あんたの店は騒々しいから静かにしろ」と主張しても意味がありません(狭い意味での妥当性)。
そもそも物を食べるのがイヤと主張するなら、食べる事が好きな相方はその主張を考慮しないで「じゃ、外で待ってて」と言うかもしれません。(i))
相方も「いい加減うんこしっこするのもうんざりだよな」と思っていたとしても、食事をしなければ死んでしまうので、結局白木屋に入る決断をするかもしれません(ii))
もしかしたら「そもそも我慢してうんこしっこをし続けるてまで、生き続けなくてもヨクネ?」という問いを彼らは発するかもしれません(ii)の結論からi)的な問いへの発展)
ある物を不要をと主張するとき、(ただ、対案というのではなくその物の性質ゆえ)代替手段が無いために、そのある物が有ったために成り立っていたものをも不要といわざるを得ない事があります。その「付随して不要といわざるを得ないもの」の中にあるものをその主張をした当人が「必要である」といったなら、これは、妥当ではない主張という事になります。
長文失礼。
学校が必要ではないということが示されないままに学校をなくすべきだと主張するのはおかしいって話? けど、僕は学校をなくすべきということから出発して、だからその「必要性」とやらが仮に万が一あるんだとしたらそれをなくせと言ってるんだよ。
これは形式としてはまったく過激でも荒唐無稽でもなくて、人間の歴史というのはそういうもんでしょ? 奴隷制だって、身分制だって、人種隔離政策だって、「必要」だったんだよ。そういうものに対して異議を唱えた人たちというのは、「はたしてこれがなくても世の中回っていくのでありましょうか?」と自問自答して、「ま、なんとかなりそうだね」と思ったから反逆者となったのではない。そうじゃなくて、まずそういうものがどうしてもイヤだという気持ちがあって、だからじゃあそれをなくそう、社会を変えよう、となったんじゃないの? それで、たとえばアメリカの黒人奴隷制は実際になくなったわけだ。それは今の地点から見れば必然的なことだけど、でもそれは「必要」に刃向う自由な人間によって生み出されたのだと思う。そしてもう一つ重要なことは、その際に「それまでの社会 マイナス 奴隷制」が生み出されたわけではなくて、社会_全体_がそれまでのあり方とは全然違うものに変質したということ。ま、奴隷制時代にくらべて今の方がマシかという問題もあるわけだけど、それは未完の革命というまた別の問題だ。
こういう歴史観に立つ場合、「食わないということを出発点にする」っていうのも、極めて現実主義的なものだよ。食わないと生きていけないっていう「必要性」をなくせばいいわけだから。それは荒唐無稽に思えるかもしれない。けど、奴隷制が強固にあった時代には奴隷制廃止論も十分に「荒唐無稽」だったわけだ。
もちろん、何千年間経っても荒唐無稽であり続けていることというのもあって、たとえば人間は自力で空を飛べるようにはなってない。だから願えばなんでも思い通りになるという話ではないけど、学校が必要かどうかということを検討するよりも前に、なくすべきだということを出発点にしているということをもって妥当ではないっていうのはおかしいんじゃない? もちろん、学校信仰という特定の立場からだったらそれは否定されるだろうけど、一般的な形式としてそれがダメだとは言えないと思う。
と思ってますが、それと学校をなくすべきかどうかというのはまた別の話です。。。う〜ん、「別」って言っちゃうとアレかもしれないですね。「なくてはならないもの」をなくすことができるのは人間が自由であるからなわけだから。。。
違う違う。僕がいくらか誤読してたのと「妥当性ってどういう事?」っつう質問に面食らって、余計な事まで言っちゃったんで分かりにくくなってしまったんだが、要するに言いた事は次のような事。
「なぜ「学校(的なもの)はなくすべきだ」という事を議論の出発点にするの?」と質問に対して「根拠は無い」と答える事は問題ない(かなぁ?)。しかし「なぜ学校(的なもの)はなくすべきなの?」という質問に対して「根拠は無い」と答えるのはおかしい。
エントリ本文の例で言えば、彼らのうちの1人は「白木屋はいやだ」という主張*から出発して*「飲み食いしたくない」というより一般的な主張にたどり着いたわけだよな。でも「なぜ白木屋がいやなの?」という質問に対して「根拠は無い」と答えてしまったら、周りの人間は「飲み食いしたくない」という主張に対して賛成も反対もできないじゃん。
mojimoji氏と違って常野さんは酒井隆史『自由論―現在性の系譜学』346-347pの見開きを押さえていると思いますが、一応
ごめんなさい。押さえてないです。その本は持ってるのですが、なんか難しいので数ページくらいしか読んでません。
この世界は、英語帝国主義だと思います。韓国人と日本人、あるいは中国人と日本人でさえ、英語で会話をしたりします。また、アントニオ・ネグリの『Empire』が、ほかならぬハーバード大学出版会から出ていることからも、世界的な「共通言語」は英語であるといってもよいと思います。
さて、toledさんは、英語がすごくおできになると思うのですが、この「英語帝国主義」について、および「英語帝国主義の中でtoledさんご自身が英語を学ぶ/実際に使うことの可能性と限界」について、どのようにお考えなのでしょうか。1つの考えとしては、「英語廃絶論」が考えられるわけですが、いかがでしょうか。はたまた、「英語帝国主義に抗する英語の使い方」をお考えでしょうか。単純に、知りたいなと思って、お聞きします。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070922/p2#c1190749378
mojimojiでは無いのですから346-347pの見開き位は読んでください
そうかなあ。何に対してであれ、賛成するも反対するも自由だと思うよ。まあ、革命が起きたら反革命に対しては人民裁判があるかもしれんけど。。。
それはともかくとして、「根拠」についてだけど、ぼよちゃんが学校に行けなくなった はるか昔に、そんなものあった? 僕は少なくとも確たるものはなかったな。もちろん、「ひどいいじめにあって」とか「管理教育に押しつぶされそうになって」といったようなわかりやすい「原因」を語る人もいるわけだけれども、
そういうのってけっこう「原因説明のテンプレ」みたいのにそって個々の出来事を編集しているところがあると思う。
学校に行かなくなる「原因」を引き出そうという欲望は、特殊な事情がないかぎり人は学校に行くものだという信仰に基づいている。だから、たとえば特に井上塾系の言説において、「原因論」は厳しく批判され、ユーモラスに乗り越えられてきたわけだ。
学校をなくすべきであるという理想に「根拠」をあたえてしまうと、それはその「根拠」によって条件付けられたものになってしまう。逆に言えば、「根拠」の方がどうにかなったら、学校信仰への恭順を迫られることになってしまう。
けれども反学校主義者は、学校を「良い面」と「悪い面」にわけたりはしない。学校に「良い」も「悪い」もない。ただ学校があるだけだ。
「根拠がない」という開き直りは、学校がどなふうに変革されようとも反学校の思想は微動だにしないということを示してるんだよ。
さてこれは批判を許さないという頑迷さだろうか? もちろんどんなものであれ批判することはできるのだけど、学校信者から反学校主義者への批判は届きにくいものであることはたしかだろうし、逆もまた真なりだろう。けれども、そもそも、本当に大切なことには「根拠」なんてないものなんじゃない? たとえば、アメリカ独立宣言にはこうある。
「われらは、つぎの真理が自明であると信ずる。すなわち、すべての人間は平等につくられ、造物主によって一定のゆずりわたすことのできない権利をあたえられていること、これらの権利のうちには生命・自由、および幸福の追求が含まれていること」
平等は自明=無根拠なことであると宣言は言ってるわけだ。「根拠」らしきものがあるとしたら、それはただ人間が自由に選択したということ以外にはない。僕の反学校主義も、こういう数百年前から続く古きよき伝統に忠実な極めて穏健なものだと思うけどな。
逆に、たとえば「人権が平等に保障されるべき」ということに根拠を与えようとすることほど野蛮なことはない。そうすることは、おうおうにして「根拠」から漏れ落ちる者を生み出すだろう。
ご要望はうかがいました。reds_akakiさんは『資本論』でも読んでいてください。
英語帝国主義については、英語が暴力的に押し付けられたものでありながら、旧植民地人民の抵抗の武器ともなったということを、フーコーの「権力のあるところには常に抵抗がある」という言葉を引きつつ述べるのが「模範解答」かと思います。
ただ、ここまでの話の流れからすると、僕は当然「英語廃絶論」を取ります。
これは一見すると、不寛容の裏返しのように見えるかもしれません。英語帝国主義がよくないのは当然だとしても、英語をなくせとまで言うのはちょっと言い過ぎなんじゃないか。
もちろん、英語帝国主義が打倒された後でなお英語を使ったり勉強したりする人がいても別に全然いいわけです。
けれども僕は、英語をそれ自体は中立的な道具であるとは考えていません。そうではなくて、英語は帝国主義と不可分に結びついてものであると思ってます。このことから、だからこそ英語は抵抗の武器ともなりうるんだ、ということもできるでしょうが、逆に言えば「抵抗」しているようでいてお釈迦様の掌中で暴れまわってるだけかもしれない、とも言えると思います。
この、英語は中立な道具ではない(あるいは、道具とは政治的なものである)というのは、x0000000000さんのブログ(http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20070921/p1#c)でのhituzinosanpoさんやmojimojiさんを含む「漢字」についてのやり取りとも関連します。
よみかき計算が、「世界を了解するためのツール」の一つであるというx0000000000さんに対して、hituzinosanpoさんはそれが差別化装置であり、よみかきができない人や習得する能力が低い人を排除していると批判しています。x0000000000さんは、これに応えて、排除された人には特別な支援がなされるべきだと主張されています。
この図式だと、よみかきができない人は支援を受ける「ニーズ」を抱えた人、ということになると思います(もちろん同じ人が複数の事情で支援を必要とすることはあるでしょうが、ここではよみかきの支援に限定しています)。だけれども、その「ニーズ」自体が、よみかき帝国主義によって作られたものなのではないでしょうか? もともと「ニーズ」があって人は文字を学ぶようになったというよりは、文字が勢力を拡大していく中で、文字に対する「ニーズ」が作り出されていったのだと思います。たとえば、お酒はおいしいものですが、あんまり飲みすぎると、体がお酒を必要とするようになってきます。そうなってくると、楽しむむ(だけのもの)じゃなくて、お酒はなくてはならないものとなっていくのです。
日本人のほとんどは読み書きができると思い込まれていなかったら、漢字が読めなくてもそれほど困ることはないでしょう。別の例を挙げると、携帯電話の「必要性」なんかも似たようなところがあると思います。
このように、英語や漢字を教えることこそがそれらに対する「必要性」を生み出し、その「必要性」を満たせないことが「障害」となる、という面があるのです。だから、教育の存続を前提に排除される人や能力の劣る人には特別な配慮をするというのはちょっとどうかなと僕は思います。戦争を続けつつ戦死者を厳かに弔っているような。。。
>ここまでの話の流れからすると、僕は当然「英語廃絶論」を取ります。
そうですよね。そうでないと変ですよね。
僕は、(そしてmojimojiさんなんかも同じだと思いますが)「道具とは政治的なものである」に完全に同意します。問題は、その政治的であるところの「道具」を誰のために/誰が/どのように使うか、ということに尽きると思うのです。そこでポジションの違いが生じていますよね。
「必要性」の政治については、おいおい議論していければと思います。よろしくお願いします。
ただ1つ、「英語帝国主義が打倒された後でなお英語を使ったり勉強したりする人がいても別に全然いいわけです」と言われているわけですが、そして僕はそれに賛成しますが、「英語帝国主義が打倒された後の英語」の様相は、「打倒前の英語」とは違ったものにはなりませんか? そしてそれは「英語帝国主義に抵抗する英語の使用法」なのではないでしょうか? これを「英語廃絶論」は許容しないのではないでしょうか?