2008-01-31
百万眼的な視点
教育 |
僕は教科書というものを廃絶すべきだと信じてきました。けれども、乙武洋匡さんがそれよりも素敵な提案をしてくれました。
複眼的な視点
http://sports.cocolog-nifty.com/ototake/2005/08/post_6a7b.html
教科書には二種類あります。当たり障りのないことが書かれている普通の教科書と、嘘八百に満ちた「新しい歴史教科書を作る会」が作った新しい教科書です。あ、いや読んだわけじゃないけど、たぶんそうです。
ところがどうです。
普通の教科書を採択する学校がほとんどで、扶桑社の嘘物語を採択している学校はたったの0.039%!
あらビックリ。
これはどう考えても偏っていますね。
こういう時に、凡人ならこう考えます。オーソドックスな教科書を採択する学校を50%にして、残りの半分の学校では歴史修正主義の教科書を使うことにしよう。
でもそれだと、個々の子どもたちはどちらかの教科書しか使わないという現状を変えることにはなりません。
そこで画期的なのが、乙武さんのアイディアです。
教科書を2冊とも使ったらどうだろう。
・・・たとえば、「韓国併合」。扶桑社版とそれ以外の教科書では、ずいぶんと書かれ方が異なっています。それは、「この歴史的事実をどの国から見つめるか」という視点の違いから来ています。
だったら、どちらの国からも見てみよう!——というのが僕の考え方です。2冊の教科書を読み比べてみれば、「なぜ日本が韓国併合を行ったのか」「それを韓国はどう受け止めたのか」という、双方の主張・立場がわかる。この複眼的な物の見方こそが、これからの国際社会を生きる人間に必要なものだと思うのです。
ものすごく斬新でいて、同時に「なんで今まで考えつかなかったんだろう」と不思議になるような提案です。
今まで僕は、いかにして教科書の権威を失墜させるか、ということをクソ真面目に考えすぎてました。教科書を燃やせ、だなんて、当たり前すぎて面白みがないですよね。
昔、あるギリシャの偉い哲学者が偽札を作ったそうです。それは、価値のない紙切れとお金の区別がつかなくなるようにして、お金というものの支配に反逆するためでした。
っていうのは又聞きなので正確じゃないかもしれませんが、ギリシャ時代の話はどうせ全てが又聞きなんだからまあいいじゃないですか。
それと同じことです。
まともな教科書と同時に、嘘っぱちの教科書を全ての子どもに与える。
良い考えです。
もう、教科書を信用する人なんていなくなるでしょう。
ただ、乙武さんのアイディアは既に十分素敵なのですが、僕はさらにスゴイ提案をしたいと思います。
教科書を100万冊使ったらどうだろう。
これは、「複眼的な物の見方」をさらに発展させたものです。
「2冊」っていうのはたしかに複数ではありますが、どうせ複数なら100万の方が景気がいいです。
しかも、この100万冊には矢追純一とか細木数子とか江原啓之とかの本も含めます。ボーガスニュースの記事は短いので10本で1冊とカウントします。
それでテストも100万冊の「教科書」に準拠させるのです。ただしランダムに。たとえば「UFOは存在する。○かXか」っていう問題が出たとして、正解は先生にもわかりません。こうすることによって無味乾燥だった試験にロシアンルーレット的なゲーム性が確保されます。
コロンブスの卵です。
僕はこれまで、どうしたら1をゼロにできるかということに頭を悩ませてきました。けれども、1を100万にしてしまえば、ほとんどゼロも同然。と、そういう話ですね。
(書き終わってから気づきましたが、乙武さんのエントリーは2005年に書かれたものなんですね・・・。扶桑社版教科書の採択率は変化してるかもしれません。)
関連エントリー
松本
2008/01/31 13:45
100万冊の書物を使っても拭えないのは、書物というメディア自体のもつ虚構性ですね。
つぼみ
2008/04/11 11:43
細木や江原という暴力団がマスコミに乗って暴利をふところにしているのは、まったく許せない!マスコミ人は公務員と共謀して、何の罪もない新井泉さんを強制的にオリに閉じ込めて食事も与えず夜も眠らせないで長いあいだ監禁虐待している。そうして、てめえはやくざと凶悪犯罪を犯しながら栄耀栄華を楽しんでいるのだ。新井泉さんは人生の大部分をむりやり幽閉されて、すべてを日本政府と取り巻きによって奪い取られ、乞食よりもひどい生活をさせられて健康も人生もすべて破壊された。しかし、公務員や取り巻きの日本人どもはますますおもしろがって毎日二十四時間中新井泉さんを暴行し続けて、オレたちは捕まらないで殺人や強盗を犯せるのだと誇示している悪逆さだ。こんな残虐な国日本をこの世から早く滅ぼさなければならない。
2008-01-27
八木ちゃん(日本教育再生機構 )の話がトンデモだってことが増田先生にさえもわかってよかったよかった
おいおい、増田よ、それでいったい何が問題なんだね?
教委主催の講演会に行ったら、講師が「つくる会」だった件。
自分は極右系の教員組合(全日本教職員連盟と全日本教職員組合を混同している奴がいるが、それは双方に失礼だ!)に属しているような良い子ちゃんだけど、八木秀次の講演を聞いたらトンデモばっかりでさすがに引いた。
そういう話だな?
じゃあ、いいじゃないか。
キミは十分な批判精神を持っているよ。悪い大人の間違った話を聞いてコロッとひっかかるようじゃ困るけど、キミはちゃんと見抜けたんだ。鋭いね。めでたしめでたし、ハッピーエンドだよ。
「つくる会」の教科書を採用した地域の学校だからといって、教員が唯々諾々と「つくる会」史観に染まるわけではない、ということですよ。
このことは、左右どちらの論者にも覚えておいて欲しい、と思います。我々はロボットではない。
そうか。エライ! 立派だ。
だがね、キミの八木ちゃんへの態度も考えものだぞ。最後の方で、ささいな漢字の読み間違えなんかをあげつらってるな。八木ちゃんの気持ちを考えろ!
あのね、こういう間違いは、誰にだってあるんだよ。こういうことを攻撃材料にすると、特定の対象だけじゃなくて庶民全体を敵に回すぞ! だいたい、次に自分が同じような間違いを犯したらどうするんだね?
キミはそうやって八木ちゃんを貶めようとする。だけどだ。八木ちゃんがどう有害だと言うんだね? 八木ちゃんの話はおかしい。聞いてるそばからそう判断できてしまうんだ。キミにでも。
じゃあ、いいじゃないか。
え? ああ、キミはたぶん心配なんだな、ちびっ子たちのことが。自分は騙されない。けど、こんなものが蔓延してしまったら、子どもたちはどうなってしまうんだろうか?
すると何か? キミのその立派な批判精神は、文部省や日教組の立派な教育の賜物だとでも言うのかね?
だとしたら、キミは、キミが貶めようとしているロボットのステレオタイプそのものの人間だ。プログラムされた通りでしかないからだ。
そんなことはないだろう? キミにしたところで、ロクでもない教育を受けたんだろう。それでいて、増田君は自分の頭で考えることができる立派な大人なのだ。
人間がやることは、だいたい思い通りにはならないものだ。人間が人間に対して行うことはなおさらだ。増田よ、これまでさんざん非モテの話をしてきただろ? それくらいわかれよ。
批判精神とはそういうものだ。人間は、どんな教育によっても規定されない。そうであるように見えても、規定されることを選んでいるのは人間なのだ。だからどんな教育も、次の瞬間には無効になる可能性を持っている。人間の自由とはそういうことだ。
キミは、国家に殉じた乙女たちの美談を語る際に八木ちゃんがささやかな脚色を行ったことを得意げにあげつらった上で、こう言ってるな。
しかし、今どき、中学生ならネットくらい使いますよ?
「真岡郵便局には女性交換手が12人いた」
くらいのこと、10分もかけずにわかっちゃうわけですよ。
授業で、“公共心ある日本人”の美談を得々と語って聞かせたら、生徒から史実に基づいたツッコミが入る可能性くらい容易に予想されるじゃないですか?
そういう意味では、都合のいいことだけ書いた教科書というのは、発行する側は気分がいいかもしれないけど、現場の人間にとっては迷惑そのものなわけですよ。
いいか。キミがいずれ生徒に打倒されるのは階級的宿命だ。あきらめろ!
教師の権威は、何か正しいことを知っているということに由来するのではない。教師は、教師だからエライのだ。このへんの話は、ぜひプロ教師の本を読んでくれ。
そのうち、キミは生徒に叩きのめされるだろう。その際に、ちょっとした事実の間違いや歪曲が口実となるかもしれない。
だが、さっきも言ったように、誰もが間違いを犯す。歴史の授業だろうが、数学だろうが、英語だろうが、道徳だろうが、同じことだ。
けれども、黒いものを白いと言い放って、あたかも黒いものが白いかのように振る舞わせるのが、教師の権力というものである。
キミは、何か正しい知識を伝授しているから生徒の上に君臨できているのではない。逆だ。キミが権力者だから、キミの言っていることが正しいのだ。
そう、ちょうどキミが、八木っちの話はおかしいなあと思いながらも、おとなしく優等生として拝聴し続けたように。
偉い人が「つくる会」支持者で、しかも同席してるわけですから。
そこでこれだけのことを言ってしまうと、後々どんな処遇を受けることか。
それはもう、陵辱されたり恐ろしい目に遭わされるわけです。(流言)
あはは、そりゃあそうだ。それが権力というものだ。そしてキミの教室も、そうやって維持されているのだよ。
キミが革命勢力によって粛正される時にはそういう権力構造が破壊されるのであって、個別の教育内容が間違ってるかどうかなんて枝葉末節だ。
そしてまさにそこに、問題の核心がある。
というわけで宿題を出そう。
キミは、自分が八木ちゃんよりも知的に優位にあると思いたいようだな。
だが、八木ちゃんは単に間違っているのだろうか? 八木ちゃんは素でバカなんだろうか?
キミは、八木ちゃんの話を鵜呑みにせず、自分の頭で考えたりネットでリサーチをしたりして、間違いであるということに気づいた。エライ!
よし、もう一歩先に行こう。八木ちゃんの間違いは、どのような機能を持っているのだろうか? それは何に動機づけられたものなんだろうか? それはどのように共有され、維持されていくのだろうか?
難問だな。けど大丈夫だ。既にネットに答えがある。それを探し出すことがキミの任務だ。ヒントは、『「永遠の嘘をついてくれ」——「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット』(前編, 後編)だ。
次の授業までにやってきてくれ。
じゃあ、反自由党思想矯正学校イデオロギー批判入門教室でまた会おう!
山口先生、そういう言い方はないでしょ
山口二郎いわく、
90年代に改革を論じた多くの人が、「市場化を進めていったとき、市民化の足場が掘り崩される」ということを、あまり判っていなかった。今でこそワーキングプアとか格差とかいわれているけれど、当時の改革論議では、規制緩和を徹底したときに何が起こるかという心配をしている人なんて、ほとんどいなかった。
(EU労働法政策雑記帳より孫引き)
え〜と、左翼は90年代から規制緩和も民営化も普通に批判してましたが・・・。っていうかそういう改革が始まったのは90年代じゃなくて中曽根時代でしょ。電電公社をNTTにしたのも、国鉄を民営化したのも中曽根さんですよ。
山口先生の「反省」はいつもこんな感じです。小選挙区制についてもそうでした。今「弊害」だと言われていることは、全部やる前からわかっていたことです。朝日新聞ですら、社説は別にしてちゃんと大きな記事にしてましたよ。
まあ、過去のことはどうでもいいです。山口先生、今の自分や未来の自分についてあらかじめ反省しておいてください。あなたが考えることは、だいたい全部間違いだと思っておいていいです。
関連エントリー
t-hirosaka
>だがね、キミの八木ちゃんへの態度も考えものだぞ。
スミマセン、僕もかつてあげあしとりをしました。
toled
さっき神様と話しました。今回限定で許してくれるそうです。
2008-01-21
スターリニストより、ブクマ工作員に党派を越えた愛のエールを贈ります。
これ、別にいいんじゃないんでしょうか? 減るものでもなし、誰か困る人でもいるんでしょうか? 先生に告げ口するほどの大事とは思えません。
ブクマ工作らしきものを見た
ともあれ、工作員諸君の意図に関わらず、その政治に対する情熱には党派を越えた連帯感を禁じ得ません。思えば、我々もロシアで国家権力を掌握していた頃はよくこうしたことをやっていたものです。
はてブ「人気エントリー」とは、大文字の他者のことです。我々は、「人気エントリー」のリストを通して自分の欲望を知るのです。
とすれば、どの記事が「人気エントリ」入りするかどうかというかをめぐっての政治に、前衛党指導部が介入しないとしたら人民への裏切りでなくてなんでしょうか?
というわけで、長時間にわたる討議の結果、2, 3日以内に「人気エントリー」入りすべきエントリーの選定を圧倒的多数の全員一致で決議しました。革命戦士のみなさんは、次のリストを参考にしてブルジョアジーを震撼させるような革命的なクリックをお願いします。我々は、必要ないかなる手段をも用いて、「人気エントリー」上位に反自由党文書を並べさせるでしょう。
嘘と事実の政治倫理的考察
不登校政治哲学の最高峰。これを読んでない人は、他に本を何万冊読んでいても、不登校について語ることを禁止します。
- 「学校は社会を救えるか——「学校効果」論批判」(1999年)
9年前に大学のレポートとして書いた文章を直したもの。ネオリベの本場イギリスで大流行している「学校効果論」の紹介と批判。教育のネオリベ化が進行する中で、すぐにでもブクマしておきたいエントリー。
- 「調査する者とされる者の終わらない関係」(2002年)
やはり大学の課題のリサイクル。調査倫理について教科書を読んでもピンと来なかった方、とりあえずブクマしてください。
政治のグアンタナモ化についてわかりやすく解説、ときどき男泣き。落ち着いてブクマしないと、マウスを涙で濡らすことになります。
十年以上前に書いたコラム。リベラルの逆鱗に触れ、『不登校新聞』編集部には読者からの抗議が殺到。
12年くらい前のエッセー。なんて生き生きとした文章でしょう! しかも書いたのは美少年です。
これを今からブクマしているかどうかで、革命後の食糧配給量に最大3倍の開きが出ることがあります。急いでください。
あなたはこれをブクマするために生まれてきたのかもしれません。
僕はこのエントリーでノーペル文学賞を受賞するような気がします。
「自由」や「平和」といった戦後教育史のキーワードが解きほぐされ、あらたな接合をはたそうとする段階に入っていることを示したエントリーです。とりあえずブクマしておきましょう。
2008-01-20
手塚プロダクションの歴史主義とアウトソーシングされた差別
手塚治虫の『きりひと讃歌』(小学館文庫)をブックオフで買ってきて読みました。たいへんに面白かったのですが、奥付の前ページに「読者のみなさまへ」という文章がありました。手塚プロダクションと小学館の連名によるものです。
手塚治虫氏の作品の中には、いろいろな国の人物が登場しますが、最近、その一部について、いかにも野蛮で未開人という印象を与えたり、過去の偏見にもとづいたステレオタイプで描かれており、人種差別につながる表現だとの指摘がなされております。
この作品が発表された当時、作者にはもちろん、読者にも差別意識はなかったと思いますが、今日、こうした描写を差別と感じる人がいる以上、その声には真剣に耳を傾けねばなりません。
私たちは著作者の原作を尊重し、そのまま紹介いたしますが、読者のみなさまには、ともすれば私たちが見落としがちな人種差別について、いっそうのご理解を深めていただくようお願いするしだいです。
この文章の問題点の一つは、その無責任文体です。まず、手塚作品が差別的であるのかどうかの判断を放棄しています。いわく、「人種差別につながる表現だとの指摘がなされております」、「こうした描写を差別と感じる人がいる」・・・。「その声には真剣に耳を傾けねばなりません」という言葉に反して、ここにはこのような問題提起に真剣に応答しようという態度はありません。むしろ、ガタガタ騒ぐ奴もいるから、話を聞いたことにしようとでも言わんばかりです。
そうやって判断を避けておいて、最後には「読者のみなさま」に差別についての「いっそうのご理解を深め」るよう呼びかけています。ここにきて、個別的具体的な作品の差別性は、抽象的な差別問題一般への問題意識へとすり替えられ、けっきょく何の話だったのかわからなくなってしまいます。
で、ここから僕のこの文章も一般論になっちゃうんですが、一般に、差別とはこういうものです。たとえば、岡林信康の「手紙」を思い出してください。
これは、「みつるさん」が「私」をヤリ逃げするという物語です。重要なのは、直接の当事者である「みつるさん」は差別主義者ではないことになっている点です。ここには、差別のアウトソーシングを見ることができます。差別をするのは自分ではなくて、「おじさん」なのです。「お前が部落だから結婚するのは嫌だ」というのではなくて、「お前が部落だからダメだとおじさんが言ってるからしょうがないでしょ。俺は気にしないんだけどね、そんなこと」というわけです。*1
「手紙」が差別を告発する重い歌でありながら、癒し系ソングにもなってしまってる理由はここにあります。社会問題について批判意識をもつことは、必然的に自己批判を求めます。たとえば、我々は原発が労働者に日々どのような影響を与えているかということを、なんとなくであれば知っています。このようなことと、パソコンを使って大して必要があるとも思えないような記事をブログに書くということを両立させるのは一見、困難に見ます。
けれども、心配はいりません。「おじさん」がついてます。悪いおじさんたちが誤った電力政策を行っているのが悪いんです。僕は、原発で殺される労働者に言うでしょう。「僕は原発なんてよくないと思ってるんだよ。ところがどうだい、あのおじさん。困ったねー」。
上記の手塚プロダクションによる弁明は、この差別の無責任構造を、表現規制において再生産しつつ、責任の所在を曖昧にするものです。手塚プロダクションは、当該の『きりひと讃歌』を差別的なものだと自らの責任において判断することはしません。しかし同時に、それを「差別と感じる人」を想定してこの弁明文を書いているのです。結果として、どう転ぼうとも手塚プロダクションには責任はないことになります。
ただし、この弁明文にも一度だけ例外的な断定が登場します。「この作品が発表された当時、作者にはもちろん、読者にも差別意識はなかった」。これはどういうことでしょうか? 現在では差別であると「感じ」られかねないものが、過去においては差別ではなかったということです。
しかし、同じ作品は過去においても存在したのです。「著作者の原作を尊重し、そのまま紹介」するという言葉を信じれば、現在ある『きりひと讃歌』は過去においてもそのままあったに違いありません。それが一方の時代においては差別の疑いがあるが、一方の時代においては差別ではないと断定できる、というのはどういうことでしょうか?
我々はここにおいても、「責任のアウトソーシング」を見ることができます。さっきの「みつるさん」が同時代人のおじさんに差別意識を託していたのに対して、これは「時をかけるアウトソーシング」です。過去には、過去なりの正義があり、道徳があり、差別についての判断基準があった。それを現代の我々の基準によって裁くことはできない。
このような歴史主義が蔓延しているのが現代です。たとえば少し前に歴史修正主義者たちが『ワシントンポスト』に出した意見広告では、戦前においては公娼制度が一般的であったということが強調されていました。なお、この広告については「「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット」において別の角度からネタにしてます。
けれども、現在は過去からやってきたものです。現時点において同じものが問題とされているのだとすれば、過去にもそれを問題化する契機が含まれていたに違いありません。
このような過去自体にある亀裂や敵対性を消し去り、当時の勝者の利害と結託しようとする態度のことを歴史主義と言います。そしてそれは、他ならぬ現在の勝者の支配を固定しようとするものです。ベンヤミンいわく、
・・・歴史主義の歴史家は誰に感情移入しているのか。反駁の余地なく、答えは勝者である。しかしながら現在の支配者はかつて勝者であったことのある全ての者の相続者だ。こうして勝者への感情移入はいつも現在の支配者の有利に働くことになる。・・・今日の支配者が足下に倒された者たちを踏みつける勝利の行進には、この日まで勝者として登場してきたあらゆる者たちが参加している。これまでいつもそうであったように、強奪品は勝利の行進において運び継がれている。この強奪品は文化遺産として知られている。それは史的唯物論者の一歩引いた視線を免れることはない。なぜならば、史的唯物論者が文化遺産として調査するものは、彼が恐怖なしには考えることができないような系図の不可分の構成要素をなすからだ。それはそれを創造した偉大な天才の努力だけではなく、その同時代人の名も与えられない単純労働に存在を負っている。未だかつて、文化の記録であって同時に野蛮の記録でなかったものはない。*2
太田昌国もまた言っています。
「時代精神」なるものや「自己を拡大し拡張するのは当然であるという感覚」は、いつからいつまでの時代に、世界のどの地域に、いかなる原理によって、通用した者なのか・・・。その「時代精神」や「当然の感覚」の犠牲にされた者はいなかったのか・・・。その犠牲者がいた場合、その人びとの中では、君たちがあからさまに肯定してやまない「時代精神」や「当然の感覚」はどんな位置を占めるのか・・・。
もし世界の一部地域にそれを謳歌する者がいて、その反対の極には、その一部地域の者たちが謳歌した「時代精神」や「当然であるという感覚」の犠牲にさらされた者がいた場合に、後世における歴史の総括はいかになされるべきなのか。松本[健一]たちは、歴史をさかのぼって総括だ、謝罪だと、というのでは、世界は収拾のつかない混乱に陥ってしまう、と悲鳴をあげている。しかし、植民地化された地域の民衆は、その時点で「収拾のつかない」自体に見舞われたのではなかったか。時に土地を奪われ、殺され、家族・友人と散りぢりにされる「連行」や「徴用」を強いられたのではなかったか。北朝鮮の場合は、そのような仕打ちを行った側は、その支配に終止符が打たれてから実に五七年ものあいだ、賠償や補償を行うどころか、国交正常化の努力をすら惜しんできたのではなかったか。他者の存在を意識さえすれば、即座に崩れ落ちるしかない自己中心的な論理を、この連中は恥じらいもなく弄んでいるのである。*3
なお、「いかにも野蛮で未開人という印象を与え」ることが「人種差別につながる表現」であるというのは、それ自体が人種差別です。これについては 「反差別主義者は差別主義者に反論してはならない」で書きましたので、ここでは繰り返しません。ただしこれはすばらしい名文です。まだの方はぜひどうぞ。
*1:ちなみにこのような差別の構造を描いた最近の作品として『パッチギ!LOVE&PEACE スタンダード・エディション [DVD]』があります。良い映画です。
*2:http://www.efn.org/~dredmond/Theses_on_History.PDF
*3:pp. 102-103.
お前の書いてるのも長ったらしくて結局
「こういう、文・手紙を書く人がいるんですよー困った差別ですねー」って言ってるのと変わらん用に取れる
言葉の揚げ足取りなんてしだしたらただの言葉狩りにしかならんってことな
差別なんていうのは結局は自分がどうとるかという問題でしかない
無名
国や時代によって「差別」の定義が違ってくるのは当たり前。それが悪だとか悪じゃないとかを漫画の読者の解釈に委ねるのは、ごく妥当なあり方でしょ。
常野さんみたいに過去に遡って「今ここで差別と言える物は、昔もどこにあっても差別だ!」とイチャモンをつける不思議な「人権ゴロ」の人達がいたからこそ、手塚プロ側は作品の巻末にあのような文をつけることになったわけだし。
なんだか、韓国の「親日取締り法」みたいに過去に遡及してまで手塚や日本を貶めたい人が日本人にもいるんだなー、と実感できる場所でつね。
toled
>兵器爺さん 2008/01/20 23:59
その通り!
> さん 2008/01/21 05:38
これしき長いなんて言うようじゃ、↓はどうなるんですか?
http://d.hatena.ne.jp/toled/20071211/1197417341
> 無名さん 2008/01/21 13:35
どうしてこれで貶められてると感じるのかな?
こんにちは
前文は「この作品は差別的な表現がありますが当時の人は無知だったので勘弁してください」ぐらいが妥当でしょうか
酷
今発行されてる手塚治虫の作品にはたいていこの注意文みたいなのが書いてある。なにもきりひと賛歌だけじゃない。
表現に過剰反応する人たちに対するただのお約束文。
あなたは手塚治虫あんまり読んだこと無いんでしょ。
でなかったら、こんな浅はかな分析しない。
軽はずみなコラムだと思う。
お先にブルルン
きりひと讃歌の格別なヤバさに関しては http://astazapote.com/archives/200609.html#d20 が面白いっすよ。はてなから行けないサイトなんですけど。
toled
>こんにちはさん 2008/01/21 20:44
「当時の人」と一口に言っても色々で、問題だと考える人は当時からいたんじゃないでしょうか。
>酷さん 2008/01/22 23:36
そう言うんだったらついでに僕のブログの他の記事を40本くらい読んでいってください。とりあえず↓あたりがお勧めです。
http://d.hatena.ne.jp/toled/20070607#p1
>お先にブルルンさん 2008/01/23 03:30
紹介してくださったサイト、興味深く読みました。ただ、僕はレイプ魔の身勝手な論理の身勝手さも含めて『きりひと讃歌』は面白い作品になってると思います。
無名
>>どうしてこれで貶められてると感じるのかな?
タイトルからして、手塚プロダクションを、差別主義者のように糾弾しているように見えますが。
常野さんが手塚作品を読まれたことがおありなら、手塚作品がアメリカ帝国主義を揶揄したことはあっても、特定民族・特定文化を差別する目的で差別表現をしたことはないことをご存知のはずです。しかし、手塚の悪ノリでふざけた様に黒人が登場したり、女性が醜悪なものとして描かれることがあったかもしれません。それをある時期「人権主義者」の人達が因縁をつけ、差別主義のレッテル貼りをしました。
常野さんの
>>ここにきて、個別的具体的な作品の差別性は、抽象的な差別問題一般への問題意識へとすり替えられ、けっきょく何の話だったのかわからなくなってしまいます。
>> 我々はここにおいても、「責任のアウトソーシング」を見ることができます。
という言葉も、まさに手塚に「差別意識を過去に責任転嫁する差別主義者だ」とレッテルを貼って、手塚を貶めているのではないですか。しかも作品のどこがどう差別表現なのかの指摘もないまま。
実際に、常野さんは「きりひと賛歌」の中に、あるいは他のどんな手塚作品の中にも、特定できるような差別表現を見つけてはいないのでは?そしてこの手塚作品の巻末にある文章だけを意識して「手塚は差別主義者なのに、変な言い逃れをしている」と断定してしまっているように見えます。
また手塚治虫に限らず、日本では表現の自由は保障されています。常野さんが、手塚のその自由を「公共の利益に反するものだから制限しなくてはならない」と主張する立場におられるならば、そして理由として差別主義的表現を掲げるならば、まず立証責任を果たしてください。巻末の文は手塚が差別主義表現をしている証左とはなりえません。そして、『現在において差別とされているものは、過去にも差別と規定される』という論理も通用しないでしょう。
toled
> 無名さん 2008/01/24 23:43
> タイトルからして、手塚プロダクションを、差別主義者のように糾弾しているように見えますが。
このエントリーの前半では、「みつるさん」が「おじさん」を言い訳にしているように、_手塚プロダクション_が「差別だと感じる人」に判断を任せていることを指摘しています。
そのこととは別に_手塚治虫_について僕の考えを述べますと、彼の作品の多くが差別的であるのは明らかだと思います。ただしそのことは、ある作品が「わいせつ」であるかどうかと同様に、「見ればわかる」ことです。逆に言うとパッと見て一瞬でわからない人にはどれだけ説明してもダメです。
無名
>>「みつるさん」が「おじさん」を言い訳にしているように、手塚プロダクション_が「差別だと感じる人」に判断を任せていることを指摘しています。
それがつまり手塚プロダクションを“「差別だと感じる人」に責任転嫁する差別主義者”、とするあなたの糾弾なのでしょう?指摘しているだけで糾弾ではないと?(だから手塚を貶めているわけではないと?)それとも、もちろん自分は手塚プロダクションを差別主義者だと糾弾する立場だ、とおっしゃりたいのでしょうか。どうも常野さんの論点がわかりません。
>>彼の作品の多くが差別的であるのは明らかだと思います。ただしそのことは、ある作品が「わいせつ」であるかどうかと同様に、「見ればわかる」ことです。逆に言うとパッと見て一瞬でわからない人にはどれだけ説明してもダメです。
これは、常野さんの主観を主張しているに過ぎない言葉です。客観的に見て「手塚作品が差別的である」という具体的な事例も出せずに、手塚を差別主義者のように語るのは、不毛な捏造と大差ありません。説明の労を怠っていては常野さんの正したい「差別主義」は野放しのままですが、それでは折角の「指摘」すら無意味なものとなりますよ。むしろ、「きりひと賛歌」どころか他の手塚作品にさえ具体例を見つけられなかった事への開き直りにとられかねません。常野さんが手塚プロダクションの巻末の言葉を不当なものだと指摘したのは『パッと見て一瞬でわかる』程度の根拠に則ったものならば、その根拠を是非うかがいたいものです。
もっとも、手塚作品をはじめとする漫画全般に関する論評をいくつか読んだことはありますが「手塚作品はパッとみて一瞬でわかるほど明らかに差別的だ」というものは寡聞にして存知あげませんが。
こんにちは
実は私も、手塚作品は差別的だと思うクチです。すごく言い表しづらいんですけどね。
私がちゃんと読んだ作品だけで言うと「やけっぱちのマリア」「七色いんこ」「ブラックジャック」「I.L」などに、性倒錯者、黒人、共産主義者、障害者、女性、犯罪者などに対するかなり差別的な表現を見ました。またリボンの騎士は最初から最後まで通しで読んだことがないのであまり偉そうなことは言えませんが、キャラクター設定と粗筋は端的にトランスジェンダー、インターセックス、女性に対して差別的だと思います。
それから。奥付のあとがきは、秋田書店から出た文庫本ではもうちょっとマシなことが書いてありますよ
2008-01-19
「セーフティネット」地獄
引きこもり:東京都がセーフティネット 予防に特化し支援
東京都は08年度から、不登校経験者や中退者など引きこもりになる可能性がある若者の情報を基に、本人や保護者を支援する「ひきこもりセーフティネット」を始める。予防に特化した支援に行政が乗り出すのは全国初。
都は区市町村に教育・福祉や、NPO(非営利組織)のスタッフらで構成する連絡協議会を設置。中学や高校から、退学したり不登校の生徒に関する情報提供を受け、支援が必要なケースでは積極的に保護者への相談に乗り出したり本人に訪問面談する。地域の特性も加えた独自の対策案を各自治体から募り、効果が高いと判断した3カ所をモデル事業に指定する。
また、引きこもり予防のため、家族を支援する「対策マニュアル」も初めて作成する。保健所、NPO、都立校など約720機関と約50人の経験者を対象にした07年度のアンケートや面談による調査結果を活用し、予防に役立てる。都は08年度予算に「若年者自立支援経費」として2億円を計上する。
厚生労働省の引きこもりに関する全国調査(02年)では、3割以上の人が小・中学校で不登校を経験している。だが、実態把握は難しく、同省やNPOの推計では全国で32万〜160万人と開きがある。対応もNPOなど民間が中心だが、学校との連携などが難しく、早期対応が課題となっていた。
若者支援NPO「育て上げネット」(東京都立川市)の工藤啓理事長(30)は「引きこもりは教育と労働行政の狭間の存在。セーフティネットは画期的な試みだが、不登校や退学の要因は複雑で重層的なため、長期的な視野に立った受け皿作りが求められる」と話している。【佐藤賢二郎】
毎日新聞 2008年1月19日 12時26分 (最終更新時間 1月19日 12時27分)
http://www.mainichi.jp/select/today/news/20080119k0000e010052000c.html
僕は何か決定的な勘違いをしていたようです。「セーフティネット」って、たとえばサーカスの綱渡りの人が落っこちても大丈夫なように下に敷かれている網みたいなものをイメージしてました。間違いでした。ニート諸君、これがセーフティネットです。
[01:30以降]
ワタリ
ひきこもりになる可能性がある若者って…、これはのちに登校受容やフリーターにも拡大、しまいには正規雇用も…ということになるでしょうね。ネットカフェ難民やホームレスにもやる予定なのかな…。
それでいて、わたしも入っている派遣ユニオン(これは常野くん敵には批判もあるかしら?)みたいなところには予算はまわってこない、と。
いろいろと欺瞞的なことも言っているのですが、教育基本法改正とその具体化に反対する市民のみこしになっている大内さんという教育学研究者の「今の若者に必要なのは、心の教育ではなく労働組合・労働運動だ」という部分だけは正しい主張だと思います。
わたしの隣町の大阪府でも、ニート敵視の「無邪気で危険なエリートたち」の典型みたいな弁護士タレントが知事に当選しています。もっと十分に政治的になって、抵抗してゆきたいと思うのですが、うつの後遺症みたいなものもあったり、体調も崩れがちでうまくいかずイライラしています。
toled
おっしゃるように、「ひきこもりになる可能性がある若者」っていうのはいくらでも拡大できますね。非行少年も優等生も落ちこぼれも「普通」の子も、いつどうなるかわかったもんじゃないですから。そのうち、「ひきこもり予防の胎教」とかのノウハウを開発するNPOでも現れるんじゃないでしょうか?
2008-01-17
「外国人労働者問題関係省庁連絡会議」問題連絡会議の立ち上げにあたっての反自由党談話
反自由党 | |
まったく、恐ろしい時代になったものです。こんなものをのさばらしておいていいんでしょうか? 反自由党は、掃討作戦を提案します。
外国人滞在、条件に日本語能力 政府検討、管理強化にも
2008年01月15日12時15分
政府は、日本に長期滞在する外国人の入国と在留の条件として、日本語能力を重視する方向で検討を始めた。・・・少子・高齢化によって単純労働者が不足し、財界を中心に外国人労働者受け入れ拡大を求める声が強い一方、外国人とのトラブルも起きていることから、支援と管理両面の強化が狙いとみられる。
すでに政府は外務、法務など関係省庁で構成する「外国人労働者問題関係省庁連絡会議」を立ち上げ、06年12月、日本語教育の充実や、「在留期間更新等におけるインセンティブ」として日本語能力の向上を盛り込んだ「生活者としての外国人に関する総合的対応策」をまとめている。
今回協議を始める理由について、高村氏は「日本で生活する外国人にとって日本語ができることが生活の質を高めるために大切であり、日本社会のためにも必要である」と述べ、双方のメリットを強調した。協議は当面、外務省外国人課と法務省入国在留課の課長レベルで進められる。
・・・外務省によると、愛知や群馬、静岡の各県などで日系ブラジル人ら長期滞在型の外国人労働者が増える傾向にある。その一方、社会保険の未加入問題や学齢期の子どもの未就学問題も深刻化。行政として対応を迫られている。
http://www.asahi.com/politics/update/0115/TKY200801150134.html
もちろん掃討されるべきなのは日本政府です。「日本政府問題関係者連絡会議」が必要です。
まず、話が通じないからといって相手のせいにするのは重度の非モテ思考と言わねばなりません。
日本語をしゃべれない相手と交流したいんだったら、まず自分がポルトガル語なりベトナム語なり韓国語なりを勉強すればいいわけでしょ? ニコッと笑って「こんにちは」「ありがとう」「お前モナー」とかって中国語で言ってみてください。
そういう努力をしないで、国家暴力によって「日本語」を強制しようという話なんだから、情けないといったらありません。
ふと思い出したのがこの話です。
日本でレディファーストが根付かない理由
なぜ日本にはレディファーストが根付かないかについてゼミで討論した事がある。
例によって女子学生たちは日本男性批判と想像上の外国人紳士崇拝の言辞を並べていたが、
30分ほどで教授(女性)が静かに、だが力強い声で言い放った。
「レディーが絶滅しつつある日本ではレディーファーストを普及させようがありません」
教授は海外で教鞭を執っていた時期が長いが、茶道華道ともに師範の免許を持つ人。
その教授曰く「与えられる平等や優遇をあさましく求めるのは日本女性特有の醜態」
自らレディとならずして、レディ扱いを求めるのは常軌を逸していますと。
女子学生達はその後、ひとことも喋りませんでした。
ズバリ言いますが、間違いです。
本物のジェントルマンは、どんな女性と出会ってもレディとして扱います。まず相手がレディであるかどうかを吟味・確認した上でレディ待遇を与えようとするような人は、既にジェントルマンじゃありません。ジェントルマンは、相手がレディであるかどうかに無関心です。なぜならばジェントルマンにとって女性がレディであるということは検証されるべきことではなく、前提であるからです。
実は、レディもジェントルマンもこの世には存在しません。誰もジェントルマンじゃないのです。けれども、ジェントルマンではなくても あたかもジェントルマンであるかのように振る舞い、だから他の全ての人々を紳士淑女「として」扱うのがジェントルマンシップです。
品格とはそういうものです。品格のある人は他者の品格について徹底的に無関心です。品格について熱く論じるような人に品格はありません。『週刊プレイボーイ』の愛読者はプレイボーイじゃないのと似てます。あ! それは だいたひかるのネタでした。ともかく、「品格とは」という言葉で文を書き始めていいのは、品格を踏みにじる覚悟のある人だけです。
同様に、他人を捕まえてレディではないとかジェントルマン精神はどうしたとかって難癖をつけるのは常軌を逸してるというか、ジェントルマンシップを破壊しようという過激派の陰謀です。けっこうなことです。「こんなものはレディとは言えない」「レディはかくあるべきだ」「本物のジェントルマンは〜します」とかってのは、紳士淑女が滅ぶことを願う者しか言ってはダメです。
日本語能力検定の話でした。
こういう人種差別を前にして、間違ってもやってはいけないのが「対案」についてあれこれ思索することです。反自由党では以前から対案についての思考を禁止しています。
「外国人とのトラブル」を防止するために、もっと良い方策はないだろうか?
なんていう問いはマヤカシです。
本当の問題は「日本政府とのトラブル」をどうするかということでなくてはなりません。
日本列島は、日本政府に占領されてます。そしてこの日本政府が学校教育や試験制度を通して「日本語」を強制してるんです。
この勢力をいかにして打倒するのかというのが真の課題です。
「外国人」は、ますますあらかじめ犯罪者として見なされるようになりつつあります。入国時に外国人にだけ2本の指の指紋採取を強要し、それを拒否した者は10本採取して追い返すという政策はその一例です。
朝日新聞の記事には、「日本語の能力によって査証(ビザ)の取得や更新などが制限される可能性がある」とまで書かれています。
「外国人」は、あらかじめ存在が禁止されています。日本に滞在することも当然の権利ではなく、特別な「お情け」です。だからこそ恣意的な規格を設けて逸脱した者を排除するなどという差別が合法的に行われうるのです。
けれどもこれに対して、「かわいそうな外国人を助けよう」などと思ってる場合ではありません。
あなたが外国人です。
我々は日本政府に占領されています。日本国家設立の陰には、いや、表舞台には、凄惨な暴力があり、阿鼻叫喚の光景がありました。それはあまりにも恐ろしい体験であったために、ついに我々は自分が日本人であり日本語を話すことが自然であるかのように信じ込むようになったのです。そして戦慄することに、「日本人」として「外国人」への攻撃に加わるようになってしまいました。とうとう「外国人とのトラブル」について語り始める者まで出る始末です。
しかし、「われわれ人民は、あなたたちを打倒するために、南米やアフリカ、そしてアラブの人民たちと手を組みます」。日本人は覚悟しておいてください。その日には、日本人なんてどこにもいないんだということがバレてしまうでしょう。そしてその日には、「外国人とのトラブル」なるものがニセの問題であったことが懐かしく思い出されることでしょう。
(参考)
「ランゲージ・バリアフリー?」(猿”虎”さん)
イオ
≪我々は日本政府に占領されています。日本国家設立の陰には、いや、表舞台には、凄惨な暴力があり、阿鼻叫喚の光景がありました。それはあまりにも恐ろしい体験であったために、ついに我々は自分が日本人であり日本語を話すことが自然であるかのように信じ込むようになったのです。≫
あるしゅ、大江健三郎の『同時代ゲーム』がよく似たモチーフを扱っていますね。
村、国家、小宇宙とつなぐ形で。
だいたいこんな話。
四国の山奥の村。
村民が二人組になって、ひとつの日本の戸籍を共有することで、村民の半分は、非日本人であり続けるという、戦略。
日本国が差し向けた軍隊で、それはむごたらしく破壊されはするのですが。
たしか、世界中の独立型?の集団に「商用英語」の文体で、連帯を求める手紙を書こうとするといったシーンもあったように思います。
それでは、また
toled
へー、そういう小説があるんですか。国際主義は大事ですね。宇宙人にも連帯を求める葉書を送っといた方がいいかもしれませんね。
松本
もともとこの問題の前提には「日本に生まれた日本国籍を有する人間は日本語を喋る」という思い込みがあります。これは事実として崩壊しつつあります。その前提を死守するために「教育」が必要となるわけですが、にもかかわらず日本語とは似ても似つかない言語を使用する人々は日々増加を続けています。必要なのは、このような「近ごろの日本語」を正式の日本語であると認定させないことでしょう。そういった取り込みは権力が必ず行うところです。しかし、権力にはぜひ「美しい日本語」を守っていただき、崩れた日本語を使う人々を外国人と十把一絡げに外部化していただくことが必要ではないでしょうか。
日本国籍を取り上げてもらったら、私ももう少し自由になれるのに。
toled
たしかに権力の側に余裕がなくなってきてる感じがありますね。多様性を認めてしまえば悠然としてられるのに。けっこうなことだと思います。「美しい日本語」、推進しましょう。誰も守れないような厳格なルールの導入を求めましょう。
端鶴
恐れ入りますが、かなり無茶な論理です。
外国に長期滞在しようとする以上は滞在先の言葉をある程度習得した上で来日してもらうのは当然であり、日本に至っては昔から国際語として英語を義務教育に盛り込んでいます。大学でも会社でも、お互いの言葉で上手くいえない場合はとりあえず双方英語で書いたり話すことで解決を図ります。
政府の日本語強制に関しては私も疑問を抱きますが、それは実効性の面で無理があるからであり、
来日した外国の人の母国語をこちらが理解するべきだと言うのはもっと無理な話ではないでしょうか。
この問題はそもそも入国と滞在に関して甘すぎる日本が世界から舐められているために発生しているのです。
レディファーストの話も解釈が無茶苦茶で引用元の話を読む限りは教授のお話の方が正しいです。
紳士がどの女性に対してもレディファーストすると言うのはヨシとしても、だからと言って女性が品格を求めなくてもよい事にはなりません。イギリスでは貴族階級出身の人は紳士淑女である事が大前提だからこそレディファーストが基本作法として男女双方に通用しているのです。男性だけ紳士で(日本人だけ多国語を話して)、女性は何もしない(外国の人は母国語だけしか判らない)のが日本のあるべき姿だとは思えません。
2008-01-08
NHK「ワーキングプア�」をヒドイ番組だと思った人の感想文
|ネット中毒になってからというもの落ち着いてテレビを見ることはなくなったのでこの番組も見なかったのですがブログ界隈ですごく話題になって良い番組という評判だったので見たいなと思ってYouTubeで検索したらあったので見たのですが これはヒドイ番組だなあと思ったので↓を書きました。
共産主義者から、ワーキングプア問題問題について一言あるんだ!
ワタリ
以前この意見はハラナさんのブログでもコメントしたのですが、専門学校も大学院も資格検定やそのための団体も含めて、失業利権産業なのではないでしょうか。
まあ、中学・高校・大学、それに塾や予備校等も、そもそもそんな性質を帯びていたと言えばそれまでですけれど…。
toled
ワタリさんと僕の意見が合うなんて珍しいですねw 教育の拡大は失業の隠蔽であると佐々木賢が言ってたのを思い出しました。
2008-01-07
真正保守懐憲派
|コイズミや安倍ちゃん、イシハラの台頭を口実にして、戦後民主主義を守るために「健全な」保守派とも連帯しようだとか、革新政策に拘って共産党のような泡沫政党に入れるとしたら結果的にはイシハラにいれるのも同然だ、などと恫喝して回る山口二郎などの賢しげな「リベラル」諸君よ。諸君に良い名前があるよ。真正保守でどうだい? 自分は保守ではないが、ファシストの台頭を阻止するために保守を支援してるんだって? それでけっきょく諸君は保守として振る舞っているわけじゃないか。おめでとう。諸君も立派な真正保守だよ。
真正保守の諸君には、まず、改憲派としての自覚を持ってもらいたい。君らは、決して護憲派ではないよな? 君らは、PKOよし、安保よし、基地よし、国連の平和維持活動への自衛隊参加OK、そう思ってるんだろ?
それでいて護憲派を名乗ろうとするのはいくらなんでもムリがあり過ぎだよ。SMAPに非モテキモオタが入ろうとするようなものだよ。
憲法9条との関連では、護憲とは何よりもまず自衛隊と在日米軍に対して蜂起することである。軍隊を滅ぼすことだ。
護憲とはそういうことだ。
ところが自衛隊も容認、海外派兵もOK、安保はそのままで---こんなことを言っておきながら、なお「護憲派です」っていうのは何なんだろう?
人は殺したい。けれども心はピュアなリベラルでいたい。ということなのか?
わかった。じゃあ、こうしよう。諸君は懐憲派ということにしようではないか。君たちは憲法をなし崩しにしようとしている。しかもそれを、ファシストに対抗するために全ての民主主義者は山口二郎が選ぶ候補や政党に結集するよう恫喝するといった形で。
これからまずまず軍国化が進行するだろう。諸君は大量殺戮を始めるだろう。
ふと不安になる瞬間が訪れるかもしれない。返り血を浴びた顔を鏡に映して、いったい自分はいつこんな怪物になってしまったのかと驚愕する日がやってくるだろう。
その時に、憲法がまだあるのか、別のものになってしまっているのかはわからない。
どっちにせよ、諸君は第9条を読み返して、懐かしい憲法の思い出に浸ることができるだろう。次に人を殺すときには、携帯型憲法を胸ポケットにでも入れておけ。何人殺そうが君のハートはビューティフルのままかもしれない。
もちろん、反自由党は真正保守も懐憲派も打倒する。
いずれ、懐憲派なんてのがいたねえと二重に懐かしむ日が来るだろう。