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2008-04-23

本村洋さんにその質問をしないで、いったい何を聞くの?

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 いわゆる光市母子殺害事件の被告に対する死刑判決後に行われた本村洋さんの記者会見において、アカヒ記者がある質問を行った。これが物議をかもしている。

D

[00:50以降]


母子殺害に死刑 本村さん「命で償って欲しい」 2008年04月22日23時03分


――18歳1カ月で前科がない少年が2人を殺害して死刑判決になると、今後厳しい量刑が続くと思うが


[本村さん] 今回の裁判所の判断で最も尊ぶべきは、過去の判例にとらわれず個別の事案をきちっと審査して、死刑に値するかどうかを的確に判断したこと。世情にあった判決を出すという風土が日本の司法に生まれることを切望する。


[これは朝日新聞がまとめた要旨からの抜粋です。上の動画に出ている「死刑に対するハードル」という言葉は入っていません。見れる人はまず動画を見てください。]

http://www.asahi.com/national/update/0422/TKY200804220183.html


[2ちゃんねる関連スレまとめ]

朝日新聞女記者「この判決で死刑に対するハードルが下がった事に対してどう思いますか?」

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1117161.html

朝日女記者「お前の妻と娘殺したくらいで死刑になっちゃったよ」

http://blitznews.blog97.fc2.com/blog-entry-941.html


 この質問をめぐって、「被害者[の神経]を逆撫でする」「神経を疑う」「不適切な質問」「レベルが低すぎ」「失礼すぎる」「愚かな質問」などという感想があふれている。

 僕は、まったく逆だと思う。

 本村洋さんは、この事件の被告を死刑にするために、精力的に活動してきた。活動家である。そしてたぶん、今回の判決は彼の活動の成果であるはずだ。

 それを受けての会見において上のような質問をせずして、いったい何を聞こうというのか? たとえば日銀総裁が公定歩合の引き下げを発表して、それが日本経済にどのような影響を与えるのかということを問われなかったとしたらどうか?

 もし今回のような質問が出なかったとしたら、それこそ本村さんを愚弄している。彼は、ただ受動的な被害者なのではなかった。積極的に、被告の元少年の命を奪うための発言を続けてきた。この朝日新聞の記者は、本村さんのそのような能動性に敬意をこめて質問をしたのかもしれないと僕は思うな。そして本村さんは、それに対してしっかりと臆することなく答弁しているじゃないか。彼はこの判決自体についてにとどまらず、今後の司法のあり方も含めて堂々と自説を展開している。いったい、この質問がなされたことそれ自体の何が問題なのか理解できない。


昨晩のエントリー↓ 超オススメです。

「メンヘルCatch-22――光市母子殺害事件、不当判決についての雑感」




ふ 2008/04/24 07:57 朝日憎しだからね。

とくめいとくめい 2008/04/24 11:56 だから、単純に「死刑判決が出ましたがどう思いますか?」だと問題なかったんだよ。
それを記者がかってに「今後厳しい量刑」だとか、「18歳と1月で2人しか殺してないのに」っていうニュアンスで言うから、そこが無神経だと言ってるわけ。

おもろおもろ 2008/04/24 17:52 >だから、単純に「死刑判決が出ましたがどう思いますか?」だと問題なかった

またまた、心にもない事を。

プップッ 2008/04/30 03:17 朝日ってアカヒって揶揄するほど赤いんですか

通りすがり通りすがり 2008/05/17 15:34 >朝日ってアカヒって揶揄するほど赤いんですか
全然赤くないですよ。
赤旗とかと比べてみれば一目瞭然

kirakira 2008/06/03 12:38 本村さんをキチガイ呼ばわりしてる日記はこれhttp://blogs.dion.ne.jp/syuuriya31/

gdigdi 2008/07/09 06:06 本村洋には本当に頭が下がる。あの発言には驚いた。本村さんは、「この事件の死者は三人です!私は三人の死を背負って生きていく!」と。加害者の少年の分も含めたのだ。今までそんな事を言った、被害者は絶対にいなかったはずだ!あの記者会見は刑務所にいる全ての受刑者に見せるべきではないかと思う!

かよこかよこ 2008/10/18 22:44 あたしは、本村さんみたいな目にあったとしたら、どうやってそこまで強くなれるのか知りたいな。

オナニートオナニート 2008/11/06 13:32 もし本当に死刑制度が犯罪を抑止する効力を持たず、(その意味での)刑罰としての実用性が無いのだとすれば死刑の持つ意味は事件が起こった後に生き残った人間にだけあるという事になる。
俺は自分の家族が殺されても他の人間ほど怒りや悲しみの感情が湧く事は無いと想像しているし、たとえ自分が100万人、人を殺してもそれをなかった事にしたいとか許されたいと思っているので利己主義の立場から死刑制度には反対だ。もっとも、仮に俺に殺された人間が俺の死を望めばそれに応じたいと思う可能性が無いわけではないと思うが。
俺が理想的と考える世界は殺人や戦争、暴力が存在しない世界ではなく人が人を殺しても罪に問われる事が無く、人が人に殺されても生命を失ったり苦痛に苛まれる事の無い世界だ。

2008-04-22

メンヘルCatch-22――光市母子殺害事件、不当判決についての雑感

メンヘルCatch-22――光市母子殺害事件、不当判決についての雑感 - (元)登校拒否系 を含むブックマーク はてなブックマーク - メンヘルCatch-22――光市母子殺害事件、不当判決についての雑感 - (元)登校拒否系 メンヘルCatch-22――光市母子殺害事件、不当判決についての雑感 - (元)登校拒否系 のブックマークコメント

光母子殺害、元少年に死刑判決 広島高裁差し戻し控訴審 2008年04月22日13時22分

http://www.asahi.com/national/update/0422/OSK200804220010.html


 たとえば、どの求人広告にも「経験者のみ応募可」と指定があったとしよう。この場合、経験なしでは就職できない一方で、仕事がなければ経験を得ることができないことになる。

 こんなふうに、選択に開かれているようでありながら結局は「ニワトリとタマゴ」のような悪循環によって袋小路にはまってしまうような規則や慣行のことを英語ではCatch-22という。そういう題名の映画(元は小説)にちなんだ表現である。

 僕は映画の一部を何年か前にテレビで観ただけなんだけど、けっこう面白かった。第二次大戦中の話で、主人公は米軍の爆撃部隊に所属している。で、あまりにも無謀な突撃空襲を命じられた彼は、なんとかその任務から逃れようとする。頭がおかしくなったら免除されるはずだと彼は考えるんだけど、診断を求められた医者は彼にCatch-22という軍規を説明する。それによれば、実在の危険を前にして身の安全を考えるのは、理性的な思考をしている証拠である。もし狂っているのであれば爆撃任務を免除される。ただ申請すればいいだけだ。しかし免除を申請するということは正気であることを示しているので、作戦に参加しなければならない……。

 ここでは精神病(主に統合失調症)がネタになっている。しかし皮肉なのは、現実のメンヘラー自身がしばしばこのCatch-22的な状況に直面するということだ。

 たとえば医者とのコミュニケーションや作業所などへの適応といった場面においてである。患者は医者の前で社会人としてのマナーを守らなければならない。しかしそもそも社会常識に忠実でないから病気ということになるのである。医者は病人を相手にするのが仕事なわけだから、患者が非常識な行動をとろうとも、権威に刃向うような発言があろうとも、動ずることがあってはならない。不快であったとしても、それをオモテに出してはならない。

 っていうのが教科書的なタテマエだけれども、これは実際には難しいようだ。まあ、小学校の先生が小学生相手にマジギレするのと同じだね。

 たとえば僕は、喫茶店で本を読んでいる時に周りの人がしゃべっててもあんまり気にならない。しかし図書館で座談会を開催してる方々がいるとイライラする。つまり実際の被害は同じでも(「被害」がなくても)、僕のように「くそまじめの精神」を持っていると、規範に違反してるということにこそムカつくわけだ。

 医者の前で非常識に振舞うというのはこれと似たところがあると思う。医者はエライ人なんであって、患者は常に一定の敬意を示し続けるべきである。これ 「常考」

 だから医者は患者のマナー違反を前にして、ただ非常識に寛容であるだけでなく、常識的であるべきシチュエーションで非常識であるという二重の非常識に対して寛容であるという難しいワザを要求される。しかし医者も人の子なので、そういうことができないこともあるのだ。

 というわけで、病人が病的な行動をとったがゆえにクリニックや作業所から出入り禁止をくらうという笑うに笑えないというか、泣きながら笑えるというか、ただ泣きぬれてたわむる相手のカニさえいないハメになっちゃうことがある。

 病人には病人が歩むべき道が用意されている。そういうもの自体を否定する考え方もある。だがそもそも、そういう決められた道を歩くというのも並大抵のことではなかったりする。たとえば一般向けの医学書には、精神病になったらこんな制度があるとかこういう場所があるとかこうすべきだとかああしてはいけないとか書いてある。けれども、それが良いことなのかどうかはともかくとして、その通りにできないような人だからこそ病気という診断がありうるのであって……という、これはまさにCatch-22である。あれ、違うかな? まあ厳密には違うかもしれないけどなんか似てるとこがある。ような気がする。

 Wikipediaによると、『キャッチ22』の著者が示す解決策は、逃亡することが不可能であるような状況から逃亡するということなんだそうである。

 なんか難しくてよくわからない。

 けども自由とはそういうことであると思う。そして僕が[シリーズ:自由と強制と(無)責任の政治学]において考えようとしているのはまさにそのことだ。


 「荒唐無稽」。「不自然」。「非人間的」。

 今回の判決に含まれる楢崎康英裁判長の言葉だ。これまでにもマスコミや一部のブログで繰り返し目にしてきた表現。その空気をうまく汲み取った判決なのかもしれない。


 だが、まさに荒唐無稽であるがゆえにメンヘルなのではないか? 「人間」というカテゴリーから排泄された外部がメンヘラーなのではないか? あるいは逆に、メンヘルという「外部」を設定することによってはじめて成立するのが「人間」なのではないか? そしてもし裁判官やマスコミがすんなりと納得できるような「動機」なり経緯なりが用意されたとしたら、それもまた彼の「責任能力」を証明するものと見なされるのではないか?


 我々は学校で駅でデパートで町中で、メンヘルをメンヘルとして扱っている。メンヘラーはその社会で生きている。そのことを我々は知っているはずだ。我々がふだんメンヘラーにどんな仕打ちをしているか知っているはずだ。そして最後の最後の瞬間にだけ、気前よく「責任能力」を認定してやろうというのだ。

 

 「人間」たちよ。「平和」を脅かされる「被害者」たちよ。諸君は、我々は、卑怯だ。


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reponrepon 2008/04/23 01:34 こんにちは。
「メンヘル」という言葉はとかく誤解を受けやすい言葉であり、差別に直結する言葉です。
今回の光市の母子殺害事件を文章の初頭に挙げられているのですが、この判決と「メンヘラー」との関係が今ひとつつかめません。
というか、「メンヘラー」と、被告人のジレンマとは何の関連もないのではないでしょうか?
「メンヘラー」という言葉は、catch22というジレンマを表すためだけの言葉であって、この文章の主題が「メンヘル」ではなく、光市の事件と被告人のジレンマである、と言う認識でよろしいでしょうか。
それですと、タイトルに「メンヘル」という言葉が入るのはいかがかと思います。
ご一考いただければ幸いです。

toledtoled 2008/04/23 03:07 reponさん、こんにちは。

モスバーガーには、ハンバーグもバンもケチャップもタマネギその他も含まれています。全部合わせてモスバーガーです。

さて、今回の裁判の争点の一つは被告の法的「責任能力」の有無でした。そしてそれと切り離せないキーワードが「メンヘル」であり、その証明の困難を表す言葉がCatch-22です。

reponrepon 2008/04/23 12:52 責任能力の有無はそれ自体言葉として使えばよいのではないでしょうか?
「メンヘル」というと、世間的には統合失調症もうつ病も躁病も境界性人格障害もありとあらゆる精神疾患が含まれる上、「それ以上のもの」が含まれてしまいます。それは、「普通じゃない」という排除の視点です。
「メンヘル」という言葉と犯罪を安易に結びつけるのは大変危険だと私は認識しています。軽度のうつ病の方が、あのような異常犯罪を起こす猟奇殺人者と同じカテゴリーに入れられてしまうことは、どうしても私には納得できません。

reponrepon 2008/04/23 17:36 エントリを読み返させていただいたのですが、どうもかみ合わないコメントをしていたようです、すみません。
上記の主張に変更はないのですが、続きはブログに書くことにします。
お騒がせしました。

toledtoled 2008/04/24 03:41 reponさん、こんばんは。あらためてエントリーにしてくださるとのこと、楽しみに待っています。

toledtoled 2008/04/25 04:54 ropponzoさんからさきほどコメントをいただいたのですが、被告の姓と思われるものが含まれていたので、削除させていただきました。

2727 2008/04/25 23:22 6〜7年前にうつ病にかかってから、いまだに薬を飲んでいる者からの
コメントです。いろいろ思う所がたくさんあったのですが、かなり
精神力を使うので書ききれそうにないです。なので、一つだけ。

>病人には病人が歩むべき道が用意されている。

これはtoledさんの考え方ですか?
それとも何か、出典元はあるのでしょうか。

この一文に、とても傷つきました。
数年ぶりに、悲しくて、ショックで、泣きそうになりました。

2727 2008/04/25 23:27 6〜7年前にうつ病にかかってから、いまだに薬を飲んでいる者からの
コメントです。いろいろ思う所がたくさんあったのですが、かなり
精神力を使うので書ききれそうにないです。なので、一つだけ。

>病人には病人が歩むべき道が用意されている。

これはtoledさんの考え方ですか?
それとも何か、出典元はあるのでしょうか。

この一文に、とても傷つきました。
数年ぶりに、悲しくて、ショックで、泣きそうになりました。

2727 2008/04/25 23:28 すいません、ブラウザの反応が遅くて2重投稿してしまいました。
申し訳ございません。

KYKY 2008/04/27 00:21 >27さん

>病人には病人が歩むべき道が用意されている。

これは後の文脈からしても肯定的に捉えていい言葉だと思う。

病気を「治す」ことで健常者になるのではなく、病気である私を受けいれて生きる覚悟をすること、それを「病人の歩むべき道」と言っているのでは?(もっとも私自身精神科に通院する身なので、こういう指摘が耳に痛い気持ちもありますが。)

とにかく、差別であろうとなんであろうといちど我が身に引き受けて、そこから周囲の認識自体を変えさせるくらいのな動きをすることができなければいけないんだけど、そこは「メンヘラ」という弱みが邪魔をするんだな…

toledtoled 2008/04/27 20:07 >27さん 2008/04/25 23:22

どうもこんにちは。
うつ病の患者・家族向けの本をご覧になったことがありますか?

多くの場合、「発病→受診→服薬開始・認知療法etc.→回復」という「モデル」ストーリーが用意されています。「病人には病人が歩むべき道が用意されている」と書いたのはそのことです。

しかし、実際にこのようにうまくいくケースばかりではありません。薬が効かないこともあるし、医者との関係がこじれてしまうこともある。何年も、あるいは一生、病気と共に生きていくのかもしれない。

つまり僕が言いたかったのは、啓発書や製薬会社のパンフレットで描かれる通りに行かないこともある。ということです。

ところが、世間は、そのような「病人の歩むべき道」からも逸脱するような病人に冷たい。それはとても悲しいことだと僕は思ってます。

2727 2008/04/28 20:36 toledさん

私の認識が間違っている事に気付きました。

>病人には病人が歩むべき道が用意されている

これを私は「病人は死ぬまで病人らしくしていれば良い。病人は死ぬまで苦しめ」と
解釈してしまいました。

なぜこののように解釈したのか。
それは「自分の病気はもう治らない。一生付いてまわるものだ」という考えが根底にあったためです。

ですので、toledさんのレスでちょっとびっくりしてしまいました。

>「発病→受診→服薬開始・認知療法etc.→回復」という「モデル」ストーリーが用意されています。

この最後の「回復」という可能性自体を、既に自分が放棄してしまっていたので、そのストーリーに気付けませんでした(もちろん、厳密には「回復」したいと思っていますし、「回復」を全て放棄したわけではありません)。

症状の「緩和」はあっても、「回復」という状態を想像できなくなっている事に、今回気付かされました。
確かに書籍などでは「モデル」ストーリーが用意されていますよなぁと思いました。

エントリ自体の本筋に触れず、その中の一文だけを拡大解釈(しかも誤認識)してしまい、すみませんでした。



KYさん

コメントありがとうございます。

>これは後の文脈からしても肯定的に捉えていい言葉だと思う。
仰る通りでしたね。

>病気を「治す」ことで健常者になるのではなく、病気である私を受けいれて生きる覚悟をすること、それを「病人の歩むべき道」と言っているのでは?

この考えが自分の中でネガティブと混ざり合い、「回復」という考えに至りませんでした。
何というか、ネガティブもほどほどにしとけ、と自分に言い聞かせようと思います。

オナニートオナニート 2008/10/31 08:26 おれは昔、精神病院に強制入院(今は医療の現場では措置入院と呼ぶようだ)させられた経験のある者だが、その事から「俺のようなキチガイ異常者(と他人に判断された者)が強制入院を免れるには
人でも殺すしか方法が無いな。人を殺した人間が精神の病理を理由に刑罰を免れ、医療措置としての強制入院を言い渡される事を世論の大多数は許容し難いだろう。」などと考えた事があった。
それが今回の話題とかぶっているかな?と思ってこの書き込みをした。

2008-04-14

なぜ「本当のことを言ってはいけない」と言ってはいけないのか?

| なぜ「本当のことを言ってはいけない」と言ってはいけないのか? - (元)登校拒否系 を含むブックマーク はてなブックマーク - なぜ「本当のことを言ってはいけない」と言ってはいけないのか? - (元)登校拒否系 なぜ「本当のことを言ってはいけない」と言ってはいけないのか? - (元)登校拒否系 のブックマークコメント

 全国津々浦々の皆さん、反自由党は、本当のことだけを言います。

なぜ「本当のことを言ってはいけない」のか(id:biscuit855さん)


(前略)

 この劇を見たとき、ご多分にもれず僕は「つまらない」と思い、大あくびをかき、寝ぼけ眼でその劇を見つめていた。暗い照明と相まって、非常に寝たい気分だった。

 やっと劇が終わり、照明が明るくなると、今度はプリントをもらって、感想を書かなくてはならなかった。その頃はやんちゃ盛りであったので、何か他とは違う文を書きたいと思った。教訓めいたことを書こうとしている真面目な子を尻目に、僕はわざと素直に「この劇から学んだことは何もありませんでした。面白くないです」みたいなことを書いた。

 そうして一週間ぐらいたったホームルームの時間に、その感想を書いた紙を赤ペン付きで返された。正直説教めいたことが書いてあるんだろうと、ちょっと覚悟はしていた。しかし、よく見てみると、たった一行

「本当のことを、言ってはいけません」

 とだけ書いてあった。

 この文章は衝撃的だった。悪ガキだったので、大抵の説教じみた物言いには慣れていた。しかし、「本当のことを言ってはいけない」ということが、他のどの文章よりも不快だった。


http://d.hatena.ne.jp/biscuit855/20050923#1127513254


 もちろん本当のことなんか言ってはいけません。けれども本当のことを言ってはいけないという本当のことを言うことはもっといけなくて、ワクワクすることです。

 「大阪府KY若手職員と「姜尚中トラメガ事件」について−−米粒が立ち上がった日」からのリサイクルで恐縮ですが、ジジェクがこう言っています。

D

[1:10以降]


私の夢なのですが、ここが[19]36-37年のモスクワの中央委員会で、そう、私がスターリンであるとしましょう。私が演説をします。そして皆さんの内の一人が立ち上がって、私を批判し、攻撃したとしましょう。誰にでもわかることですが、次の日には、その人を最後に見たのは誰かということが問われるでしょう[その人は粛正されるってこと]。いいですね。しかしさらに別の人が立ち上がり、私つまりスターリンを攻撃した最初の人物を攻撃して、こう言ったとしたらどうでしょう。「お前は気が狂っているのか? ソ連では同志スターリンを攻撃したりしないんだぞ。お前はなんでこんなことをしているんだ」と。私は、この第二の男が最初の男よりもさらに速く姿を消すだろうと思います。つまり、スターリンを批判することが禁止されていただけではない。この禁止を公に語ることはさらに強く禁止されていたのです。*1


 教師には二つの類型があります。「大阪府KY若手職員と「姜尚中トラメガ事件」について−−米粒が立ち上がった日」の例で言うと、橋下徹府知事タイプの教師と、姜尚中タイプの教師です。前者は、暗黙のルールの侵犯を華麗にスルーして何ごともなかったかのように平静を装い、暗黙のルールが暗黙であることを維持します。これに対して後者は暗黙のルールがルールであることを防衛しようとします。本当のことを言ってはいけないという暗黙のルールが危機にさらされた際に、暴力的にそれを明示してしまうのです。そのことによって、逆説的にも支配は弱体化します。暴力を隠蔽する「自由」の外観がほころんでいくからです。

 biscuit855さんはラッキーです。姜尚中タイプの教師と出会えたからです。そのおかげで暴力は誰の目にも明らかとなったのです。

 反自由党は、姜尚中タイプの教師が増えることを願っています。なぜか?

 biscuit855さんはこう書いています。

僕は小学校を洗脳機関として叩いているわけではない。「どんなクズな教師でも、権力には逆らえない」ことを生徒に結論づけさせる、今のクズ教師がダメなのだ。権力第一にして、どんな生徒でも言うこと聞くと考えるおめでたい教師は、職権の乱用どころか、人権蹂躙だと言いたい。なぜなら、そういうクズ教師のおかげで、生徒一人一人に与えられるはずの「教育を受ける権利」がまず破綻しているからだ。


 ズバリ、間違いです。「教育を受ける権利」を侵害されたと言って被害者意識を持つのは、奴隷が鎖をあてがってもらえなかったと嘆くようなものです。

 biscuit855さんは本当のことを言う人です。本当のことを言う人は、まず「本当のことを言ってはいけない」と言う人と同盟して、自由教育の推進者を打倒しなくてはなりません。なぜならば「本当のことを言ってはいけない」ということは本当のことだからです。本当のことを言う人はまずその本当のことを暴露しなければなりません。だから「本当のことを言ってはいけない」と言う人は本当のことを言う人の友です。本当のことを言う人は「本当のことを言ってはいけない」と言う人と協同して「自由」の建前に挑戦しなければなりません。そうして「自由」の外観が崩れ落ちた先に自由があるのです。

*1:"Imagine, a dream for me, we are in Moscow 36-37, central committee, OK, I’m Stalin. I give a speech. Then one of you stands up and criticizes me, attacks me. OK, everyone knows next day the question would be who saw that guy the last. OK. But then imagine that another guy stand up and attack the first guy who attacked me, Stalin, and would say “Are you crazy? We don’t attack Comrade Stalin in Soviet Union. Why are you doing this?” I claim that this second guy would disappear even faster than the first guy. That is to say, it wasn’t only prohibited to criticize Stalin; it was even more prohibited to publicly announce this prohibition."

ぼよぼよ 2008/04/14 22:59 って事は、「本当のことを言っている*かのように見える*」見解を次々に発表し、特に処罰される様子も見えない反自由党の執行部の方々は、真の自由の敵というこうわなにをするくぁwsでrftgyふじこ

toledtoled 2008/04/14 23:17 >ぼよちゃん
う〜ん、ちょっと違うな。僕は本当のことを言っている。けれども、「特に処罰される様子も見えない」ということは、敵もさるもの、華麗にスルーされてるんだよ。だから僕は、姜尚中みたいな余裕のないキレる権力者が増えればいいと言ってるわけ。たとえば、「(元)登校拒否系」は売国だからそれを容認している「はてな」に破防法を適用せよ! とかいう機運が高まってくれば希望が出てくる。そうなったら革命の日は近いよ。

ぼよぼよ 2008/04/15 00:01 僕のふじこを華麗にスルーなんだ…。
> たとえば、「(元)登校拒否系」は売国だからそれを容認している「はてな」に破防法を適用せよ! とかいう機運が高まってくれば希望が出てくる。そうなったら革命の日は近いよ。
だけどさ。その革命後の社会は、(少なくとも「本当のことをいうこと」に関して)今の社会と見分けが付くの? つねのがどんな社会を想像してるのか知らんけど、革命後もきっと「誰もが本当のことを言うのを許される社会」になっちゃうんじゃないかなぁ。それとも「誰もが鶏なんかいないと思える社会」が到来するのかしらん?

toledtoled 2008/04/15 00:10 さっき、藤子とディープキスしたら僕の方がうまいって。
いやね、「革命後もきっと「誰もが本当のことを言うのを許される社会」になっちゃう」っていうのがまさにニワトリなのだよ。そしてそこでまた本当の本当のことを言えばいいんだよ。

ぼよぼよ 2008/04/15 03:21 > そしてそこでまた本当の本当のことを言えばいいんだよ。
ん? それだったら今現在が革命後であって「誰もが本当のことを言えばいい」ってのと同じじゃないかい? 革命ってのは別に社会がどうこうってんじゃなくて、皆の心の中にあり、体で表現される一人一人のマイレボリューションなんだよ!!って事?

とおりすがりとおりすがり 2008/04/15 10:56 誰かマリアカラスが日本に来たときの話をしてよ。
「本当のことを言わない」ことの残酷さをあれほどよく示した逸話もないと思う。

toledtoled 2008/04/15 15:01 >ぼよちゃん

・・・う〜ん、ちょっと苦しくなってきた。この次僕はどうやってぼよちゃんに反論すべきだと思う?

>とおりすがりさん 2008/04/15 10:56

こんにちは。ごめんなさい、その話は知らないです。
もしよかったら教えてください。

ぼよぼよ 2008/04/16 14:51 > この次僕はどうやってぼよちゃんに反論すべきだと思う?
今までの発言との一貫性を重視するなら
「わが党がヘゲモニーを握ったならば、虚偽を弄する者は銃殺刑に処し、空気を読んで生き残ろうという日和見主義者には思想改造を施す。よって本当のことを言わないような者は根絶やしだ。前衛党をなめるな!」
という辺りが模範解答じゃないか? 僕としてはあんまり気に入ってほしくない見解だけど。

toledtoled 2008/04/16 21:29 う〜ん、そういうことになるのかなあ。
まあ、ぼよちゃんは党幹部の友人なわけだから、革命後はそうとう優遇されることになると思うよ。

>虚偽を弄する者は銃殺刑に処し

これは違うと思う。共産主義者は都合が良いときには正直であり、都合が良いときには嘘をつく。ってブレヒトという共産主義者が書いてるんだってさ。僕も↓を書いたしね。
http://d.hatena.ne.jp/toled/20050324/1111673660

2008-04-10

値繰り

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 ATOK for Mac 2007で「さるとる」と入力してスペースバーを押すと一発で「サルトル」になります。


 ところが!


 値繰り

 素ぴう゛ぁく

 際ー土

 ぁ癌弁

 デリだ

 児じぇく

 ウオーラー捨て印

 ギル路意

 得るネスト・ら食らう

 しゃん樽・無不

 テリー・イーグル噸

 ドナ・原ウェイ

 ドゥルしら・コー寝る


 ……もうわかりますよね。時代はサルトルです。

図解雑学 サルトル (図解雑学シリーズ)

図解雑学 サルトル (図解雑学シリーズ)

↑一時、サルトルブームを見越した思惑買いが入ってアマゾンマーケットプレイスでは7,000円まで暴騰していましたが、今はだいぶ相場が落ち着いています。つまり、仕込み時です。


実存主義とは何か

実存主義とは何か

↑読みやすいです。


↑まだ読んでないです。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/toled/20080410

2008-04-08

「逃げよ。しかし逃げながら武器をつかめ」

| 「逃げよ。しかし逃げながら武器をつかめ」 - (元)登校拒否系 を含むブックマーク はてなブックマーク - 「逃げよ。しかし逃げながら武器をつかめ」 - (元)登校拒否系 「逃げよ。しかし逃げながら武器をつかめ」 - (元)登校拒否系 のブックマークコメント


逃げ方、避け方、守り方 (id:reponさん)


いじめに耐える必要なんか無い。

学校なんか行かなくていい。

嫌な集団に取り入る必要はない。

そんな集団に属さなくても、その子が生きられる集団はいくらでもある。

それが、今のその子には見えていないだけなんだ。

http://d.hatena.ne.jp/repon/20080407#p1


逃げ上手は生き上手 (小飼弾さん)


まずは逃げろ。追っ手の手の届かぬところまで。

そして自分を変えろ。強くたくましく。

順番を違えてはならない。つらい現実にいても、それに耐えているだけで自分を変える余裕はなくなる。そうしているうちに、逃げる余力さえなくなってしまう。

かっこ悪くてもいい。卑怯者でもいい。

まずは、逃げろ。

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51031057.html


 けれども問題は、逃げた先に何があるのかということだ。朝倉景樹の『登校拒否のエスノグラフィー』でも紹介されている干刈あがたの『黄色い髪 (朝日文庫)』を思いだそう。

 夏実は、一度学校をサボったことぐらい何でもないような気がしてきた。明日また、いつものとおりに登校すればいいんだ。ケンケンケンケン。遊びすぎてちょっと遅くなった子どもの気分で家の路地に入っていった。

 裏口のドアを開けると、食卓のむこうに、母親の史子が待ちかまえるように坐っていた。顔は緊張し切っている。それを見た途端に夏実は、教室を、学校を、先生を、同級生を、あの息苦しさを思い出した。

 ここにも居たくない!


 (中略)


 問題1 学校へ行かなくなると、どうして家にもいられなくなるのでしょう。

 問題2 私は今、どこへ行けばいいのでしょうか。

 数時間前、陸橋の上でユキコに会う前に考えていた問題が、またよみがえってきた。それは欠席しているあいだ、ずっと考えていたことだ。

 問題1について答えます。学校と家が、なぜか同じ場所になっているからです。生きていくことイコール学校にいくこと、という場所です。だから、学校へ行かないことイコール死になってしまうのです。

 ……問題2 私は今、どこへ行けばいいのでしょうか。つぎのうちから一つ選べ。

 1 家に帰って学校に行く。

 2 家に帰らないで死ぬ。*1


黄色い髪 (朝日文庫)

黄色い髪 (朝日文庫)

↑今ならアマゾンのマーケットプレイスで1円だYO!


 この作品が朝日新聞に連載されていたのは約20年前である。その後、登校拒否児や親の運動と財界主導のネオリベ改革によって、教育状況は大きく変化している。

 けれども変わらないことがある。「外部」はないということだ。我々は、学校に行こうが会社に行こうが自宅にひきこもろうがデニーズでまったりしようが、同じ一つの全体の中に生きている。

 ダンコーガイさんは、「逃げ場を提供できる組織は、強い」と書く。だが、そのような「逃げ場」も含めて単一のシステムが構成されているのだ。ダンさんが登校拒否をした時代はまだそのような「逃げ場」は公式には用意されていなかった。ダンさんは、イバラの道を歩いた。あるいはダンさんが歩いたあとに道ができたのかもしれない。だが今や、様々な「逃げ場」が用意されている。学校や学校でない多種多様なものたちが、我々の個別のニーズにフレキシブルに対応してくれる。強制の時代は終わり、選択の自由が保証されるようになったのか? ジジェクいわく、

日曜の午後、(子どもが)祖母を訪ねなければならないとしよう。古き良き全体主義的な父は言うだろう。

聞きなさい。お前がどう思おうが知ったことではない。お前は行って行儀良くしていなければならないのだ。

これならば良い。抵抗することもできるし、何も損なわれはしない。

 しかし、いわゆる寛容でポストモダン的な父だとしたら、彼が言うのは次のようなことだ。

お婆ちゃんがどれだけ君のことを愛しているかということはわかっているね。けれども、お婆ちゃんのところに行くべきなのは、君が本当にそうしたい場合だけなんだよ。

さて、バカではない子どもは(そうだ彼らはバカではない)、この自由選択の外観は、はるかに強力な命令を隠匿しているということを知っている。つまり、祖母のもとに行かなければならないだけではなく、そうすることを好まなければならないということだ。


D

[05:50くらい以降]


 「逃げろ」。だが誰がどんな立場で「逃げろ」と言うのだろうか?

 どこか遠く離れた惑星の宇宙人と交信しているのであれば客観的なアドバイスもありうるだろう。だが我々は「観客席」にいるのではない。もう一度繰り返す。我々は一つの全体の中に関係し合いながら生きている。「観客席」はない。「ないものはない。残念ながら、あなたも立派な当事者だ」

 サヨクは、責任という概念を取り戻さなくてはならない。我々は、個人的なライフスタイルの選択に「自己責任」を負っているのではない。私は全体について責任を負っているのだ。そして僕が学校に行くとしたら、僕は学校化社会をまた一歩前進させたのだ。そして僕が学校の支配に対して行動を起こさないとすれば、「夏実」を死に向けて追いやろうとしているのだ。それを夏実の「自己責任」とするならば、それは僕の全体への責任からの逃避である(サルトル『実存主義とは何か』参照)。

 ネグリとハートは、『<帝国>』の中でこう言っている。

反逆する意志は実際に、支配に服従する能力を全く持たない身体を必要とする。それは家族生活や工場の規律、旧来の性生活の規制などに順応する能力を持たない身体を必要とする(もし君の身体がこうした「ノーマルな」生の様式を拒むのであれば、絶望するなーー天賦の才に気づき給え!)。*2

<帝国>

<帝国>


そしてまた彼らは、『マルチチュード 下 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)』の中でドゥルーズの次の言葉を引用している。

逃げよ。だが逃げながら武器をつかめ。


 そうだ。逃げることだ。だが逃走は闘争である。

 ダンさんはできることは三つしかないと説く。

  1. 現実を変える
  2. 自分を変える
  3. 逃げる

 しかしこれはニセの選択である。逃げるとは、現実を変えることであり、そのために自分は武器を取らなければならないからだ。「外」はない。もし抑圧から完全に逃れることに成功することがあったとしたら、そのときには「全体」が変革されるのだ。逃げることは、常に「全体」での闘いである。

 十数年前、いわゆる「いじめ自殺」事件が頻発したとき、我々は「学校に行かない生き方もあるじゃないか」と主張した。だが今や、その対抗思想が支配イデオロギーとなっている。↓の朝日新聞のサイトでも、有名人のそのようなメッセージを読むことができる。

いじめられている君へ いじめている君へ

http://www.asahi.com/edu/ijime/


 だが、「いじめられている君」はこんなアドバイスを必要としているのだろうか? ありがたい知恵を授けてもらう必要があるのだろうか? 彼らが「合理的」な選択を行えるようにするための啓発が必要なのだろうか?

 『マグダレンの祈り』は、20世紀(そう、つい最近です)のアイルランドを舞台にした映画だ。アイルランドには、レイプの被害を受けた女性や社会的に逸脱者と判断された女性を監禁する「修道」施設があり、彼女たちは実質的な奴隷労働を強いられていた。脱走を試みる者には壮絶な拷問が課せられた。映画の半ばに、修道女が院内で使いを命じられて、裏門の前を通りがかるシーンがある。彼女は、門に施錠がなされていないことに気付く。おそるおそる外をうかがうと、車が通りがかる。運転手は「乗っていくか」と問いかけるが、彼女はためらったあと断り、施設内に戻る。

マグダレンの祈り [DVD]

マグダレンの祈り [DVD]


 いったい誰が、彼女に「逃げろ」と言うことができるだろうか? ダンさんの言うように「最も難しいのは、現実を変えること。次に難しいのは、自分を変えること。そして最も簡単なのは、逃げること」なんてことがあるだろうか? 修道院があり、そしてその「外部」があるという発想は間違いだ。全体があり、修道院はその一単位なのだ。逃走はその全体との闘争である(『大脱走 [DVD]』の後半や『バトル・ロワイアル [DVD]』のラストを思いだそう)。そしてそのような全体に安住していながら「いじめられている君」に「逃げろ」と呼びかけて「当事者」の自己選択を促すとしたら、それは全体への責任からの逃走である。

 「いじめられている君」は、私と同じ全体に属している。問題は、彼らにありがたい知恵を授けることではない。これは私の問題だ。私がいかに全体と関わるかということだ。私が学校制度を破壊するために何をするのかということだ。


 というわけで↓をどうぞ。

「選択の幻想から反学校の政治へ」第一回 第二回 第三回

*1:干刈あがた『黄色い髪 (朝日文庫)』, p153, p.203

*2:Michael Hardt and Antonio Negri, Empire, paperback edition, p. 216.

イオイオ 2008/04/10 13:06 TWO PUNKS 縛られて
TWO PUNKS 見張られて
TOO PUNKS 逃げられない
   THE MODS『TWO PUNKS』
http://jp.youtube.com/watch?v=SApmdkWw3rs

いや、実際金が無かった……
ついでに、『風邪ひくなよ』、ということで。

ishish 2008/04/21 01:44 素晴らしい。
しかし、こんなことを他人にツッコまれないと気付けない豚どもがのさばっていることにはうんざりする。
ネグリは微妙だと思いますが(笑)、ここで引用されている箇所については妥当!

toledtoled 2008/04/21 04:51 >ishさん

ファシストのishさんに「素晴らしい」とコメントいただけて、とりわけ嬉しいです! やはり、ファシストと正当派マルクス主義者が協同してまずはリベラルを殲滅する必要がありますね。

ネグリが微妙っていうのは同意です。共産主義、暴力肯定でありながら、肝心なところで突然ヌルくなり、結果的にリベラルからも共感を得やすい「癒し文体」になっているところがあると思います。何せ、「国際文化会館」などというブルジョア団体から招聘されてしまうのですからね。まあ、それだけマーケティングがうまいとも言えますが。

ちなみに日本での<ネグリ現象>と左派知識人の醜態については↓でもとりあげました。
http://d.hatena.ne.jp/toled/20080407/p1
http://d.hatena.ne.jp/toled/20080321/p1

toledtoled 2008/04/21 18:17 ↑訂正。
誤:正当派マルクス主義
正:正統派マルクス主義

2008-04-07

大阪府KY若手職員と「姜尚中トラメガ事件」について−−米粒が立ち上がった日

| 大阪府KY若手職員と「姜尚中トラメガ事件」について−−米粒が立ち上がった日 - (元)登校拒否系 を含むブックマーク はてなブックマーク - 大阪府KY若手職員と「姜尚中トラメガ事件」について−−米粒が立ち上がった日 - (元)登校拒否系 大阪府KY若手職員と「姜尚中トラメガ事件」について−−米粒が立ち上がった日 - (元)登校拒否系 のブックマークコメント

 3月に大阪と東京で行われた別の集会において、二人のテレビタレントがとっさのリアクションを迫られるハプニングがあった。

 大阪では、府の若手職員を集めた「朝礼」が行われた。橋下徹知事が自説を語り続けていると、大ホール後方の職員が立ち上がった。


D


彼女は府職員がサービス残業を強いられていることを指摘した上で、知事が民間労働者と公務員を分断しようとしていると糾弾した。

 これに対して橋下は「大人の態度」で対応することに成功した。彼女に対しては「それは非常にありがたい意見」と応じ、「朝礼」後のインタビューで次のように語った。

記者:初朝礼の感触はどうだったですか?


知事:いやあ、良かったんじゃないですか。ああやって意見も出たし。ええ、ちゃんとこう直接言えるような。まあ皆やっぱりまだ知事からこうしゃべられるからということで……。本当は意見交換したかったですけど時間がなかったんでね。徐々に徐々にちょっと意見交換していきたいなと思いますけどね。現場がああやって活気づかないとダメでしょ。


記者:かなり勇気を持って彼女[=職員]は発言したんじゃないですか?


知事:いやあそうだと思いますよ。立派だと思います。だからやっぱり現場でああやって議論して、上がくみ取って、どんどんトップに上げてくるってのはこれは良いことなので。これはちょっと彼女は粋に感じましたね[スマイル]。ええ。ああいう人が増えてくれば組織も変わってくるんじゃないですか。


橋下徹のこの「余裕」のリアクションは、一部サヨクまでも感心させた。日頃から左派的な意見を書いているid:Arisanさんをも「大したもんだ」と言わしめたほどだ。Arisanさんいわく、

 話は変わるが、先日橋下大阪府知事との対話で、知事に食ってかかった女性職員の態度は、まったく立派なものだったと思う。

 そして、その態度を「彼女は偉いと思う」と率直に認めた府知事も、やはり「見どころのある人」なのである。

 そういう勇気ある個人と個人との出会いと対決が、もっと社会のなかに露呈していくようでなければいけない。

 そして何より、自分の考えや思いを勇気を出して表明していく人たちの態度そのものへの尊敬と支持を、その発言内容への賛否や反応などに優先させるような、人として当たり前の態度を、われわれは謙虚に持つべきなのである。


http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080326/p1


 しかし問題は、橋下は若手職員の問題提起を完全にスルーしているということだ。彼女は橋下を正面から撃った。だが橋下は平然としている。そのことをリベラルは「ちょっといい話」として処理しようとしている。いったいこの空気は何なのだろうか?

 この問いについて考える前に、最近のもう一つの出来事を思い出しておこう。いわゆる「姜尚中トラメガ事件」である。

 日本のブルジョア団体である国際文化会館が、イタリアの共産主義者アントニオ・ネグリを招待していた。ネオリベ改革の進行で、人文系知識人は割を食っている。だがたまにはこういう「おいしい」事業もあって、サヨク大学人や出版業界を潤すことになっていた(って言うとなんか嫌みっぽいけど、僕もあわよくば甘い汁を吸いたいと思ってる一人なので悪く思わないでね。よろしくお願いします。まあ、「思想弾圧」とかいうレベルとは別にそういう事情もあるということです。ちなみにこれは「教科書問題」なんかも同じだよ。いわゆる「利権」です)。

 ところが事情によりネグリは来日できないことになった。このことに悲嘆にくれる知識人たちの姿は滑稽だ。しかし同時に彼らはラッキーだったのかもしれない。彼らは、「日本政府による思想弾圧」の被害者として自ら思考する責任から逃れる口実を得たからだ。これからは「もしネグリが来てたらスゴイ思想体験ができたのに〜」という思いと共に生きていくことができるだろう。

 ネグリの講演が予定されていた東京大学の安田講堂では、主役なしでイベントが開催されることになった。「姜尚中トラメガ事件」は、その場で発生した。松平耕一さんによるレポートを読んでみよう。

事態が突如として緊迫したのは、石田英敬がネグリとマルチチュードについて語り始めてのこと

早稲田大学の花咲[政之輔]さんと、そのお友達が、石田にアジを飛ばし始めたのだ


内容はよく分からなかったけれども、「駒場寮」という言葉が聞き取れた

「駒場寮」は、東大に昔あった、有名な自治寮だ

関東圏では、東大駒場寮、早稲田学生会館、法政学生会館が、順次、前世紀末から今世紀初めにかけて、強制解体させられていっている

学生による自治区の解体

それは、「帝国」が自治空間を、生権力により蹂躙・変革し、環境管理をすすめていく過程であった

そこらへんの因縁がもとになって、石田が糾弾されたのだとわかった


その瞬間、もっとも迷いなく迅速に動いたのは姜尚中だった

君たちやめなさい

終わってからにしなさい

やめないなら出て行きなさい

大きな声で威圧しつつ、花咲さんたちに詰め寄っていった


それが、マルチチュ−ドについて語る態度ですか

ヤジを認めないのはおかしい

というヤジでもって反駁する花咲さんたち


姜尚中は、花咲さんの足元においていったトラメガを持ち上げ、地面に叩きつけた

トラメガと床が、ごっちんこする音が構内に響いた

暴力反対! という声があがった


そのとき、安田講堂はマグニチュード1ぐらいで震えた

40年前は、マグニチュード7くらいはあったのでしょうか


マグニチュード?

マルチチュード?


http://literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry-334.html


上野千鶴子がネグリの暴力肯定に疑問を投げかけたあとだっただけに*1、姜尚中のこの行動は際だっていた。

 かどうかは僕は見に行かなかったので定かではない。ただ、この事件について話題にしたブログ(↑以外)をいくつか読んで印象に残ったのは、この青年たちの状況に対する介入への揶揄(やゆ)や迷惑感情の発露である。サヨク的なイベントに来ておいて青年たちへの反感を表明している人々は、ネグリや壇上の知識人から何ごとか重要なことを注入してもらいたかったのだろうか? その権利を侵害されて憤慨しているのだろうか? このイベントの秩序を乱した青年たちへの聴衆の反感は、与えられるべきものを手に入れられなかった消費者のクレームを思わせる(皮肉なのは、当のネグリ自身の思想が、そのような態度を真っ向から批判するものであるということだ)。「古くさい運動家にうんざり」などと書いている人は、子どもの頃から慣れ親しんできた教室空間にはうんざりしないのだろうか? 

 さて、橋下府知事が「大人」の度量を見せたのに対して、姜尚中は暴力的な抑圧者として振る舞った。このどちらが悪質だろうか?

 両方だ。けれども、大阪ではかろうじて守られたものが、東京ではほころびを見せている。それは何か?

 ズバリ、「ニワトリの無知」です。ジジェクいわく、

D

[1:10以降]


私の夢なのですが、ここが[19]36-37年のモスクワの中央委員会で、そう、私がスターリンであるとしましょう。私が演説をします。そして皆さんの内の一人が立ち上がって、私を批判し、攻撃したとしましょう。誰にでもわかることですが、次の日には、その人を最後に見たのは誰かということが問われるでしょう[その人は粛正されるってこと]。いいですね。しかしさらに別の人が立ち上がり、私つまりスターリンを攻撃した最初の人物を攻撃して、こう言ったとしたらどうでしょう。「お前は気が狂っているのか? ソ連では同志スターリンを攻撃したりしないんだぞ。お前はなんでこんなことをしているんだ」と。私は、この第二の男が最初の男よりもさらに速く姿を消すだろうと思います。つまり、スターリンを批判することが禁止されていただけではない。この禁止を公に語ることはさらに強く禁止されていたのです。*2


 壇上の権力者に従うというのはモスクワでも大阪でも東京でも共通のルールである。けれども、よくできた支配空間においては、まるで誰もが平等に自由に発言できるかのような「外観」が保たれている。誰もがスターリンに賛成する。自由闊達な議論が保証されていて、「たまたま」スターリンと意見が一致するのだ。「空気」を読むというのはそういうことである。

 東京でも大阪でも、その「空気」を読まない者が突如として出現した。姜尚中はマジギレすることによって、暗黙の掟を明示してしまった。したがって東大のイベントでは姜尚中こそが最大の反逆者であり、秩序の破壊者である。暴力は露わになった。SF映画の前半では、UFOにいくらミサイルを撃ってもダメージを与えることができない。その「シールド」がはげ落ちたのだ。*3

 一方大阪では、橋下知事のスマイルがかろうじて「空気」を防衛した。


 ……のだろうか?

 起立して知事に異議を唱えた若手職員の主張は、真っ向から現体制に敵対するものだ。橋下徹がバカであるという説を僕は信じない。彼はバカなのではなく、悪いのだ。橋下の主張や政策は、若干の不規則性を伴いつつも、概ねブルジョアジーを代表するものである。それに対して職員の介入は、プロレタリアートの立場からのものであった(彼女と僕とは党派的に相違があるかもしれないが、ここではそれは関係ない)。

 これは階級対立である。「自分の考えや思いを勇気を出して表明していく人たちの態度そのものへの尊敬と支持を、その発言内容への賛否や反応などに優先させるような、人として当たり前の態度を、われわれは謙虚に持つべき」などという「中立」な立場はありえない。問題は、自由闊達な議論や多種多様な意見表明の外観ではない。ブルジョアジーとプロレタリアートは共存共栄することはない。そしてブルジョアジーの「考えや思い」を粉砕することがプロレタリアートの歴史的使命なのだ。

 しかし彼女はあの大きなホールで一人であった。報道があったあとも、ゼネストが始まる気配はない。

 じゃあ、彼女は「空気の読めない痛い女」なのか?

 

 ここからは、一昨日のエントリーのコピペです。

 ジジェクという哲学者が年末の一発芸人のような頻度でリサイクルし続けている小話に、「ニワトリの無知」というのがある。

 あるところに、自分が米粒だと信じ込んでいる男がいる。彼は今にもニワトリに食べられてしまうのではないかという恐怖に怯えている。精神科医の治療により、彼は完全に治癒し、退院する。ところが男はすぐに医者の所に逃げ帰ってくる。「ニワトリに襲われる」と叫んでいる。

 医者いわく、「あなたはもう完治したじゃないですか。あなたは自分が米粒じゃなくて人間だということはわかっているでしょ」。

 男が答えて、「もちろん俺は人間だ。俺はわかっているよ。だがニワトリはそれをわかっているだろうか?」。←オチ

 ジジェクは東欧出身である。彼によれば、旧東側の全体主義社会もこの小話のように維持されていたのだそうだ。多くの人は、共産党なんか信じていなかった。本当に信頼できる身内同士では、独裁者の悪口ばっか言い合っていた。ところが一たび公の場に出ると、誰もがまるで共産党のことを信じている「かのように」振舞っていた。そうしないと制裁を受けるからだ。秩序はそうして維持されていた。むしろ本気で独裁者を信奉しているような人がパージされやすかった。そういう人は融通がきかないので、オモテとウラを使い分ける共産党支配にとってはむしろ扱いにくいからだ。

 そして東欧の民主化は、まさに『裸の王様』のラストシーンのように進行した。

 独裁者チャウシェシュクが最後の演説に立った時、広場に集まった群衆の中に彼を支持する者はほとんどいなかった。チャウシェシュク自身、もちろんそれはわかっていた。なのに彼がなぜのうのうと群集の前に自ら登場するような選択をしたのかというと、それまでもずっとそうだったからだ。これまでと同じように、誰も信じないような演説が行われ、誰も信じていないのに誰もが信じている「かのように」拍手喝采が行われるはずだった。

 ところがどこからともなくブーイングが始まる。あっという間に広がっていく。気がつくと隣に立っている奴までもがやっている。もう誰も止めることはできない。独裁者は演説の中断を余儀なくされる。

 人々は、この時はじめて「王様は裸だ」と気づいたのではない。そんなことは何十年も前からわかっていた。ブーイングが広がった瞬間は、真実が暴露された瞬間ではなく、裸の王様が裸であることを知らないかのように振舞うことを人がしなくなった瞬間である。

 チャウシェシュクの最後の演説を阻止する声を最初に挙げた人は、まさに巨大なニワトリの足元にいた。最初の一人だけではない。集会をひっくり返したくらいでは革命が成功するとは限らないし、一国を転覆しても独裁者のボスみたいなのがやってきて元の木阿弥になってしまうこともあるから、チャウシェシュクの礼賛集会を糾弾集会にした人々には、いつニワトリに飲み込まれないという保証はなかったはずだ。

 現に東欧ではそれまでに何度も民主化運動が鎮圧されてきたのだ。「プラハの春」は一過性のものでしかなかったが、89年革命は革命たるべき条件が整っていたと言えるかもしれない。しかしそれは今になってから言えることであって、もし条件が整備されているという確信が持てるまで待ってたら、きっといまだに待っているのである。

 チャウシェシュクを打倒した人々は、米粒ではなくて人間であった。ニワトリはいなかった。彼らは米粒から人間にジョブチェンジしたわけではなく、最初から人間だった。しかしニワトリは元々いなかったと言えるのは、彼らがあたかもニワトリがいないかのように行動したからだ。従って人間の自由とは、人間が本来の姿を取り戻すことではなく、米粒があたかも人間であるかのように振舞うことである。


 実を言うと、僕はルーマニア革命のことをよくは知らない。昔ニュースステーションで見ただけだ。けど僕はこの話が好きだ。そして同時に怖い。


シリーズ:自由と強制と(無)責任の政治学

『「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット』(前編後編

『「民主主義よ、お前はもう、死んでいる」——グアンタナモ化した政治と敵対性の外部化について』

『テラ豚丼祭りと「自由への恐怖」』

『反自由党は「ビラ配布→逮捕→有罪」を歓迎する――はてなとmixiと秋葉原グアンタナモ天国の比較自由論』

『和光大学YASUKUNIプリンスホテル、コケコッコーの政治と不正義のアウトソーシングについて』

*1http://d.hatena.ne.jp/Z99/20080329/1206808858

*2:"Imagine, a dream for me, we are in Moscow 36-37, central committee, OK, I’m Stalin. I give a speech. Then one of you stands up and criticizes me, attacks me. OK, everyone knows next day the question would be who saw that guy the last. OK. But then imagine that another guy stand up and attack the first guy who attacked me, Stalin, and would say “Are you crazy? We don’t attack Comrade Stalin in Soviet Union. Why are you doing this?” I claim that this second guy would disappear even faster than the first guy. That is to say, it wasn’t only prohibited to criticize Stalin; it was even more prohibited to publicly announce this prohibition."

*3:ただしトラメガを取り上げて落とすくらいはかわいいもので、もっと派手にやるとこうなります→ http://d.hatena.ne.jp/toled/20071101/1193937727

kk 2008/04/08 12:48 ご存知無いからこのようなことを書いたのだと思いますが、
彼女は後のインタビューで、自分は一切サービス残業はしていないと語り、
また府議がこの発言を受けて彼女の部署を調査した結果、彼女の部署は
基本的に残業が少なく、サービス残業が発生するような空気も無かったと
しています(これはその府議のブログで確認できますが)
ちなみに彼女は中核派の団体に所属しており、これらのことは空気読めない上での
発言でなく予定通りの行動でした。そういう意味ではプロレタリアートというのは
あながち間違いではないですがテロリストというほうがより正確でしょう

KYKY 2008/04/08 14:05 空気よりも文章を読めるようになりましょうね。

K+YK+Y 2008/04/08 16:03 エントリーに関係ないネタですが一応。↑のkさんのコメントについて。てか面倒なんで前に他所で見つけた文章のコピペ。

―――――

本人の「私はサービス残業をしてません」という発言が非難の対象になるのが信じられません。(いやもちろん非難する方々の感情の動きはよく理解できますが。)

むしろ、自分のためより、サービス残業で大変な思いをしている同僚のために、利他心から発言したことになってより立派になるのではと。

極端なたとえですが、あるチベット人が「どれだけ中国の支配のせいで悲惨な目にあってると思ってるんですか!」と発言したとします。「あなたは具体的にどういう悲惨な目にあっているのですか?」という問いに対して、「私個人は特に悲惨な目にあってはいません」と答えたとします。

このチベット人の方を非難するのっておかしいですよね。中国の支配のせいで悲惨な目にあっている人たちのために発言してるのでしょうし。「自分だけよけりゃそれでいい」って人じゃないことがわかるだけですよね。

―――――

それにしてもこの手の気に入らないものを叩くためのトリビアリズムってなんなんでしょうね。こんなもんに説得力を感じちゃうのか、せっせとあちこちに出向いて言説を散布する人たちはほんと興味深い。

kk 2008/04/08 19:34 >むしろ、自分のためより、サービス残業で大変な思いをしている
>同僚のために、利他心から発言したことになってより立派になるのではと。

これに一応つっこんでおくと、基本的には統計として残業は全体的に
少ない上に、ICカードで勤務時間が管理されてんのでシステム上
サービス残業できない(出来たらシステム破りで職務規定違反)んですけどね

toledtoled 2008/04/09 09:24 Kさん、KYさん、K+Yさん、コメントありがとうございます。

>kさん 2008/04/08 12:48
>ご存知無いからこのようなことを書いたのだと思いますが、
>彼女は後のインタビューで、自分は一切サービス残業はしていないと語り、

彼女が自分はサービス残業はしていないと語っている動画は知っています。そしてそれを見て僕は泣きました。僕にはその勇気はない。僕は言行不一致の卑怯な人間です。けれども僕は、少なくともその彼女の行動を尊敬する人間でありたいと思っています。

また彼女の特定の党派とのつながりについてあげつらうサイトも見ました。それが何か今回のことと関係ありますか?

実際のところはどうかわかりませんが、「予定通りの行動」であったとして、何か問題がありますか?

>KYさん 2008/04/08 14:05
「文章を読める」というのには色々なレベルがあります。そして他者が「文章を読める」かどうかを読めるかどうかというのも一つの能力です。

>K+Yさん 2008/04/08 16:03

フォローありがとうございます。ただ、これは僕の根拠のない憶測ですが、彼女はたまたまサービス残業をしていないのではなくて、政治的行為として拒否している可能性もあると思います。そして僕はそのことに敬意を表したいと思います。それは今の僕にはできないことだからです。

サービス残業とは何か? それは暗黙に強制されていることでありながら、労働者が自主的に選択しているという外観の演出です。選択肢が用意されているようでいて、選ぶことができるオプションは一つしかないのです。それを拒否することに、僕は人間の自由と希望を見ます。

>kさん 2008/04/08 19:34

それが演出というものです。それを言い出したらたとえば「日韓併合条約」だって「合法的」だったってことになります。でも、現在ではまともな人でそんなことを主張する人はいないですよね?

kk 2008/04/09 10:10 >それが演出というものです。
えーと、演出で、出来もしないサービス残業をあるように騙っているけど、
>そして僕はそのことに敬意を表したいと思います
出来ないはずのその行為はすばらしい!ということですね
ちなみに
>「日韓併合条約」だって「合法的」だったってことになります。
まともに資料読んでる人ほどどれだけ合法的か知ってるとおもいます

さだまさとさだまさと 2008/04/09 19:58 初めまして。
いつも楽しみに読んでいます。
なんというか、抵抗することその事自体が権力の中に織り込まれているというか、
そういう事態の中で自分に何ができるのか悩むばかりです。

>kさん
>出来もしないサービス残業をあるように騙っている

http://sankei.jp.msn.com/politics/local/080321/lcl0803211405001-n1.htm
どうも、サービス残業はあるようですよ、産経の記事を読むと。

toledtoled 2008/04/09 20:31 >kさん 2008/04/09 10:10

日韓併合条約について「まともに資料を読んでる」のに合法的であると判断されるのであれば、残念ながら僕はお力になれないかもしれません。ただしそれとちょっと矛盾しますが実は僕は合法非合法はどうでもいいと思ってます。法的にどうかということとは別のレベルで、単純に「悪い」のです。

>さだまさと さん 2008/04/09 19:58

ご愛読ありがとうございます。嬉しいです。

>なんというか、抵抗することその事自体が権力の中に織り込まれているというか、
>そういう事態の中で自分に何ができるのか悩むばかりです。

そうですね。そこが課題ですね。僕も悩んでます。↓でMazmotさんという方からいただいたコメントのことをときどき思い出します。
http://www.allneetnippon.jp/2007/07/2no.html#comment-315

kk 2008/04/09 21:10 >http://sankei.jp.msn.com/politics/local/080321/lcl0803211405001-n1.htm
この記事を読んでどこを縦読みすれば声高にサービス残業を主張するほど
残業があるのかわかりません。むしろ残業少ないって書いてるようですが。
>残念ながら僕はお力になれないかもしれません
頭の悪く見られそうな主張に対して突っ込みをいれてるだけですので
お構いなく。
それに合法だとか違法だとか言ってる割に、自分の感情論だけで
悪いとか可笑しな話ですね。法は感情で決まるんですか?w
あと根本的な、彼女や彼女に周りにはサビ残なんかなくて
単に自分に都合のいいレッテル貼りしてるだけって、
都合の悪い突っ込みは全スルーですか?

toledtoled 2008/04/10 06:17 >kさん 2008/04/09 21:10
>>http://sankei.jp.msn.com/politics/local/080321/lcl0803211405001-n1.htm
>この記事を読んでどこを縦読みすれば声高にサービス残業を主張するほど
>残業があるのかわかりません。むしろ残業少ないって書いてるようですが。

この記事の場合、縦読みよりは横読みがオススメです。

>それに合法だとか違法だとか言ってる割に、自分の感情論だけで
>悪いとか可笑しな話ですね。法は感情で決まるんですか?w

かなり良い線を行っています。より正確には、法よりも高度な次元にあるのが倫理というものです。で、感情で合法違法が決まると言ってるんじゃなくて、違法なんだけど、それ以前の問題として倫理的判断があると主張しているわけです。ただ、植民地支配や侵略戦争は悪であるという判断があれば、自ずから日韓併合条約の違法性も理解しやすくなるという循環はありますがね。この、法と倫理の関係については、↓の論文がお薦めです。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6142/ronbun/gohosei.html
一部専門用語が出てきますが、とりあえず読み進めていけば全体の趣旨はわかると思います。

>あと根本的な、彼女や彼女に周りにはサビ残なんかなくて
>単に自分に都合のいいレッテル貼りしてるだけって、
>都合の悪い突っ込みは全スルーですか?

う〜ん。彼女がサービス残業を拒否していることに敬意を表すると僕は書いたつもりなんですがね。。。

k 2008/04/10 07:10 >植民地支配や侵略戦争は悪であるという判断があれば
後の倫理観とやらで以前の法解釈がかわるのですか?w
遡及法ってご存知?それに朝鮮は別に植民地じゃございませんし
どことも戦争なぞしておりませんが。
>う〜ん。彼女がサービス残業を拒否していることに敬意を表すると
無い物をどうやって拒否したんでしょうか?
それとも世間一般にあるサービス残業について
アクロバティックに知事を責めたことを敬意を表したいと
おっしゃってるんでしょかね?

さだまさとさだまさと 2008/04/10 12:04 たびたびすみません。
>kさん
記事を引用した者として補足します。
記事の最後の部分、
>「自主判断で早朝出勤をしたり、執務時間後も仕事をする職員はたくさんいます。申し出れば残業になりますが、実際はいちいち報告しないことも多いのです。だから、残業代が発生する残業は少なくても、残業時間はけっこうあるという人もいます。それがサービス残業といえるかどうか分かりませんが…」
これ、明らかにサービス残業ですよね。
残業代のつかない残業のことをサービス残業と呼ばずに、他に何と呼ぶべきなんでしょうか?
そしてこの「自主判断」というヤツがくせものである事は、toledさんの一連の記事で問題にされていることです。

2008-04-05

和光大学YASUKUNIプリンスホテル、コケコッコーの政治と不正義のアウトソーシングについて

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 このブログを以前から読んでくださっている方はお気づきのように、反自由党はid:mojimojiさんと敵対関係にあります。もちろん革命が成功したら思想改造キャンプで対応させていただくつもりです。けれども↓のid:inumashさんへの反論記事でmojimojiさんがとてもいいことを書かれたので、グランドプリンスキャンプ高輪のVIPルームを用意させていただくことを先ほど党幹部会で決定しました。

inumash氏へ、「観客席なんかありません」


 (前略)

 問題が「みんなの」問題であるなら、「みんなの」問題に対して誰かが何かをやることを期待したり、やらないことに失望したりするお前は一体何者だ、ということになる。この、問題に対して外部に立っているつもりの「期待/失望する人」とは、つまりは、政治的にノンアクティブな自称「普通の人」、自称「市井の人」だろう。そして、「政治的にノンアクティブである」=「ノンポリである」とは、「現実を変えるために、自分自身は行動しない」という一点において保守であり、かつ、保守であることを自覚しない/したくない欺瞞的保守である。

 ・・・・・・で、inumash氏の論理の何が問題か。それは「広告代理店的」アプローチによって、ないはずの「観客席」を捏造するのだ。用意された「観客席」には、あらゆる問題を切断処理して心理的安寧を確保したい有象無象がなだれ込んで来る。この点において、inumash氏の論理は、「運動論として」ダメなのだ。バカなのかお人よしなのか、それともinumash氏自身が「観客席」にしがみつきたい人なのか、いずれかは知らないが。──同時に、inumash氏の記事に激しく同意している人たちにも言っておく。「観客席」に座っているつもりでいたい、という気持ちは分からないではないが、しかし、ないものはない。残念ながら、あなたも立派な当事者だ。


http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080404/p1


 ここに問題の核心があります。今日の政治言説は、まさにこの「想定された観客席」を巡って争っています。プリンスホテルによる日教組への会場使用拒否も、『靖国』の上映中止も、都知事選における弱小候補やその支持者への恫喝も、学歴差別も部落差別も、死刑反対派が終身刑の創設を提案するという倒錯も、「護憲派」による自衛隊活用論も、み〜んなそう。相手を直接否定するのでも自分を直接肯定するのでもなく、「想定された観客」が否定や肯定の根拠となります。責任のアウトソーシング、あるいはKY正義がここにあります。これについて、約一年前にmixiに↓の文章を書きました(一部修正)。


 2004年に、和光大学が麻原彰晃さんのお子さんの入学を取り消すというスゴイ事件があった。このことを振り返りながら今について考えている和光大学教員の文章を読んだ。

 まずは当時の和光大学学長の言い訳を思い出しておこう。

本学は当該合格者が入学した場合、当人が学内外で特異な存在となり、内外の不安や好奇な目にさらされることを防ぐ自信を持たない。その結果、本人に責任がなくとも、学内の平穏な教育環境を乱す可能性が大きい。

本学は小さいながら開学以来30 数年、学生一人一人を大切にすることを教育の原点と考え、教職員と学生ともども努力を重ねてきた。今回の事態に対し、本学の存在意義にまで立ち返り慎重に対処方を検討してきたが、本人の本学における自由な学習を護りきれないと同時に、在学生の学習環境を維持し切れないと考えざるを得ず、現時点では入学不許可という苦渋の選択をすることになった


http://kito.cocolog-nifty.com/topnews/2004/03/post.html


この決断に先立って、和光大学の当該学部教授会は学長に任せるという決定をしていた。その場の議長を務めた篠原睦治が自己批判をしている。

わたしは、長い間、障害を持つ者も持たない者も「地域の学校」で、一緒に遊ぶ、学ぶということを願って、障害を持つ子どもたちと彼らの親たちの願いにつながってきました。そんななかで、「障害児」が断られる際に、「お子さんは特異な存在とみなされて好奇な目にさらされるので可哀想」、「本人の学習環境を守れない」、「平穏な教育環境を乱すおそれがある」、「他の子どもたちの学習環境を破壊する」などと言われてきました。まずは、当該の者に同情する形をとりながら、やがて、当該の者は他の者に邪魔であると本音を吐いていくのですが、実は、今回の文書が、そのような言葉、論理とあまりにも近似しているので、慄然としました。*1


 こういう理屈による差別の正当化、っていうか、差別を正当化せずに実行していく理屈というのは他にもよくある。

 私は○○さんはいい人だと思う。でもあなたが○○さんと結婚したら、世間の人はどう思うかな。そんなことになったら、あなたにも○○さんにも不幸なことだし、なにより生まれるかもしれない子どもが最大の被害者だよ(「手塚プロダクションの歴史主義とアウトソーシングされた差別」)。

 とか。

 市民ホールの使用に際して思想チェックはありません。しかし日教組が集会をやると右翼が寄ってきて街の平穏が乱されます。そうすると言論の自由が守れないかもしれないし、一般市民の平和に対する脅威となるのでやっぱし日教組には貸せません。

 とか。

 こういうのがやっかいなのは、いくら事実や真実や正義をつきつけても、全く「暖簾(のれん)に腕押し」になってしまうことだ。本人はなんの罪も犯してないのに入学を取り消すなんてひどいとか、障害者を排除するのは差別だとか、出身地と愛は関係ないとか言っても、そういうことはぜ〜んぶ既に踏まえられている(ことになっている)。だから、ストレートに正論を主張しても、「青い人が現場の苦労も知らないで理想論を振りかざしている」ということになってしまいかねない。

 ジジェクという哲学者が年末の一発芸人のような頻度でリサイクルし続けている小話に、「ニワトリの無知」というのがある。

 あるところに、自分が米粒だと信じ込んでいる男がいる。彼は今にもニワトリに食べられてしまうのではないかという恐怖に怯えている。精神科医の治療により、彼は完全に治癒し、退院する。ところが男はすぐに医者の所に逃げ帰ってくる。「ニワトリに襲われる」と叫んでいる。

 医者いわく、「あなたはもう完治したじゃないですか。あなたは自分が米粒じゃなくて人間だということはわかっているでしょ」。

 男が答えて、「もちろん俺は人間だ。俺はわかっているよ。だがニワトリはそれをわかっているだろうか?」。←オチ

 ジジェクは東欧出身である。彼によれば、旧東側の全体主義社会もこの小話のように維持されていたのだそうだ。多くの人は、共産党なんか信じていなかった。本当に信頼できる身内同士では、独裁者の悪口ばっか言い合っていた。ところが一たび公の場に出ると、誰もがまるで共産党のことを信じている「かのように」振舞っていた。そうしないと制裁を受けるからだ。秩序はそうして維持されていた。むしろ本気で独裁者を信奉しているような人がパージされやすかった。そういう人は融通がきかないので、オモテとウラを使い分ける共産党支配にとってはむしろ扱いにくいからだ。


 教育基本法を変えるとかいう(「変えた」んだっけ?)問題について、反対派の意見をいくつか読んだ。もちろん僕は偏見を持って斜め読みしただけど、「あなた/わたしは米粒ではなくて人間です」っていうタイプの文章が多かったような気がする。

 しかし和光大学の件からもわかるように、そういう真実とか正義を示すだけでは、ニワトリの「存在」は消えない。和光大学の本当の実力者はどう思ってるか知らないが、教員の多くはあきらかにこんなことはおかしいと思ってただろう。少なくとも上記の篠原はそうだ。彼らは米粒ではなく、人間であった。彼らはそのことを知っていた。しかし彼らは不安だった。「ニワトリ」はそれを知っているだろうかと。「ニワトリ」が彼女を「特異な存在」にしてしまうのではないかと。「ニワトリ」が「平穏」を乱すのではないかと。「ニワトリ」によって「自由」が侵されるのではないかと。

 だから和光大学は、それが教育基本法を踏みにじるものであるということも、被害者に「当惑や苦痛を与える」ということも、「社会の批判のありうる」ということも、み〜んなわかっていた。だからいくら批判しようとも、「想定の範囲内」ということになる。

 このように、日本社会で最も良心的と思われるような人々からして、そもそも教育基本法を守っていない。ではなんで今さらそれを変えることに反対するんだろうか?  今が良いってわけじゃない。けど、基本法を変えるともっと悪くなっちゃうんだ、っていうのが想定問答集的な回答だろう。まあそうかもしれない。

 しかし元々あってないようなものをめぐって大騒ぎすることには、もう一つ意味があったと思う。

 法律が改正前と改正後でどう変わるのかということは、僕には読んでもピンと来ない。しかしまあ、反対派の意見を聞くと、たしかにちょっと悪くなってるかもね、っていう部分もあるかもしれない。これからは、これまでやっていたようなことが、ストレートに合法的に行われるようになるだろう。これまでもやってたんだけど、ちょっとアクロバティックな法解釈が必要になることがあった。これからはそういう手間が省ける。

 しかしサヨクはこれに反対である。もうこれだけで世界が終わってしまうかのような勢いで反対している人もいる(なのに反対がないかのように新聞に書いてたりするのは困ったことだ)。こういった人々にとって、改正前の基本法は自分自身の夢の代弁のようなところがあった。だからこそ、受験料を払って試験に合格した人の入学を突然取り消すというようなことをするのは「苦渋の選択」であった。

 しかし「世間」というのは得たいが知れない。篠原は、被害者の入学を認めると「風評被害」があるかもしれないと(誰かが「恐れた」と)思ったが、逆に入学を拒否することによってかえってイメージが悪化する可能性もあると考えたそうだ。 和光大学はKYS(空気読み過ぎ)だったのかもしれない。

 教育関係者は、自分自身の基準に照らしても「悪」に手を染めている。彼らにとってしかし教育基本法は正義の象徴であった。実践においては「ニワトリ」を口実として不正義に振る舞いつつ、しかし自分は正義に身を捧げているのだという欺瞞を可能にしていたのが旧教育基本法である。教育基本法は、自民党とサヨク教育者の歴史的妥協によって維持されてきた。昔カナマルと社会党の議員が賭けマージャンをやりながら国会の乱闘シーンの打ち合わせをやってたみたいなものだ。

 教育基本法の精神を実践する者はそもそも存在しなかった。改正反対派が守ろうとしていたのは法律ではなく、このような役割分担によって維持されてきた外観である。その意味で、彼らの運動は成功だったと言える。彼らはこれからも教育現場において自分は米粒ではないと知りながら米粒であるかのように振る舞うことだろう。彼らは「ニワトリ」の被害者なのだ。

 さてここまで相当意地悪い悪口を書いてきたが、当然ながらこういうことは自己批判として(も)言わないとみっともない。守るべき「みっと」は最初からないかもしれないが。

 もちろん、僕にとっての「ニワトリ」とはこの欺瞞的サヨクたちである。「米粒ではなく人間であることがわかっていながらニワトリを言い訳にして米粒であるかのように振舞う」ことをジジェクの猿真似で批判してきた。しかしじゃああなたは人間として行動するんですかと言われると困ってしまう。

 自ら欺瞞に居直っているのだとしたら、いったい僕は他人の欺瞞を暴いて何をしようというのだろう?


 「和光大学教員有志」も基本法改正に反対の声明を出した。篠原によれば、これに際して現代人間学部の最首悟学部長(当時)は教授会に3年前の入学拒否事件に改めて向き合うことを提案したそうだ。篠原いわく、

この提案をめぐっては、いろいろな意見が出た。「大学・学部の教育・研究に関わる事項を審議する教授会にふさわしい議題なのか」「教育基本法「改正」問題と「三女」入学取消し問題は分けて議論するべきではないか」「二つの問題をくっつけてしまうことで、「三女」入学取消し問題が霧散してしまわないか」など。

 しかし、[最首]学部長は引かなかった。実は、学部長は、来春で定年退職を迎える。学部長は、今春就任する前から「三女入学取消し」問題では、折々に、学内外に、そして、自他に、厳しく問いかけていた。この提案は、定年を直前にした学部長としての思いを込めた置き土産のようにも思われてきた。ぼくも、まもなくその立場に立つことができた。こうして、採決の結果、この提案に賛成する者は過半数に達した[。]*2


 3年前[4年前]の事件については今さら何を言っても無駄だし、今なら何でも言えるだろう。しかし最首悟のこの提案は、人間が米粒ではなく人間として振舞うために踏み出さなければならない最初の一歩を踏み出すための一歩を示しているのかもしれないと思う。

 問題は、私が米粒ではなくて人間であるということを自覚するということではない。私は人間であって米粒ではない。私はそれを知っている。ところがそれを知らないニワトリに私は脅かされている――そういうカラクリを暴いてみても、それ自体がまた「ニワトリ」になってしまう。「メタル・ニワトリ」だ。そこで、なぜそういう存在しないニワトリに恐怖するのかということについて、経済的・心理的に分析したりすることになる。でもそれがまた「ニワトリ・キング」となってしまう。

 だから、「ニワトリの無知」の小咄から何かを学ぶのであれば、それはどこにもニワトリはいないから心配するなということであってはならない。そうではなくて、ニワトリに飲み込まれそうになってても、自分が米粒であるとしか思えなくても、あたかも人間であるかのように行動せよということである。

 そして東欧の民主化は、まさに『裸の王様』のラストシーンのように進行した。

 独裁者チャウシェシュクが最後の演説に立った時、広場に集まった群衆の中に彼を支持する者はほとんどいなかった。チャウシェシュク自身、もちろんそれはわかっていた。なのに彼がなぜのうのうと群集の前に自ら登場するような選択をしたのかというと、それまでもずっとそうだったからだ。これまでと同じように、誰も信じないような演説が行われ、誰も信じていないのに誰もが信じている「かのように」拍手喝采が行われるはずだった。

 ところがどこからともなくブーイングが始まる。あっという間に広がっていく。気がつくと隣に立っている奴までもがやっている。もう誰も止めることはできない。独裁者は演説の中断を余儀なくされる。

 人々は、この時はじめて「王様は裸だ」と気づいたのではない。そんなことは何十年も前からわかっていた。ブーイングが広がった瞬間は、真実が暴露された瞬間ではなく、裸の王様が裸であることを知らないかのように振舞うことを人がしなくなった瞬間である。

 チャウシェシュクの最後の演説を阻止する声を最初に挙げた人は、まさに巨大なニワトリの足元にいた。最初の一人だけではない。集会をひっくり返したくらいでは革命が成功するとは限らないし、一国を転覆しても独裁者のボスみたいなのがやってきて元の木阿弥になってしまうこともあるから、チャウシェシュクの礼賛集会を糾弾集会にした人々には、いつニワトリに飲み込まれないという保証はなかったはずだ。

 現に東欧ではそれまでに何度も民主化運動が鎮圧されてきたのだ。「プラハの春」は一過性のものでしかなかったが、89年革命は革命たるべき条件が整っていたと言えるかもしれない。しかしそれは今になってから言えることであって、もし条件が整備されているという確信が持てるまで待ってたら、きっといまだに待っているのである。

 チャウシェシュクを打倒した人々は、米粒ではなくて人間であった。ニワトリはいなかった。彼らは米粒から人間にジョブチェンジしたわけではなく、最初から人間だった。しかしニワトリは元々いなかったと言えるのは、彼らがあたかもニワトリがいないかのように行動したからだ。従って人間の自由とは、人間が本来の姿を取り戻すことではなく、米粒があたかも人間であるかのように振舞うことである。


シリーズ:自由と強制と(無)責任の政治学

『「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット』(前編後編

『「民主主義よ、お前はもう、死んでいる」——グアンタナモ化した政治と敵対性の外部化について』

『テラ豚丼祭りと「自由への恐怖」』

『反自由党は「ビラ配布→逮捕→有罪」を歓迎する――はてなとmixiと秋葉原グアンタナモ天国の比較自由論』

*1:「「改正」教基法の成立直前の職場から」『社会臨床雑誌』15巻1号, p. 67.

*2:p. 68.