会 員 の 投 稿 2000年 |
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[mi-net.3241]臨床医の本音と悩み 00/2/15
[mi-net.3245] 臨床医の本音&悩み(RE:3241)
[mi-net.3249] Re: 臨床医の本音&悩み(RE:3241)
[mi-net.3252] Re:
[mi-net.3256] Re:臨床医の本音&悩み
[mi-net.3269] 被害者との関係について( Re: 臨床医の本音&悩み 3249)
[mi-net.3274] Re: 被害者との関係について 00/2/16
[mi-net.3284] RE: 被害者との関係について(Re: 3269)
[mi-net.3288] Re: 被害者との関係について
[mi-net.3293] Re: 被害者との関係について 3288
伊藤さん、こんにちは、岩岡です。
貴重なご意見ありがとうございました。
以下に書きますことは、あくまで一般論です。
また昨晩遅くに書いたものですので、眠気、アルコール等からの混乱お許し下さい。
伊藤さん、wrote.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
> 岩岡さんWROTE
> > 一般に医療事故訴訟は、患者さんのご家族の誤解、思いこみによることも多いと
> >思われます。
このように考える根拠は何でしょうか?
> 医療事故の個々事例をあまりご存知ない医療関係者から、時々、同様発言を耳にし
ます。
> 以前から、何を根拠にお話をされるのか疑問に思っていました。
>
> 医療事故被害者と協力医師の関係についての今後の問題点改善という意味でも感じ
>たことを率直に教えていただけると幸いです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これは、藤田さんからもご指摘を受けましたが、たしかに僕の言い過ぎでした。
決して多くはありませんね。
謝罪して以下のように訂正させていただきます。
「ご家族の誤解や思いこみによることもあると思われます。」
自分で見聞きしたり本で読んだ経験からです。
医療事故の個々の事例については、普通の(?)医師としてはある程度勉強している
つもりです。
具体例をあげます。
以前(数年前)、当院某科で入院中の患者さんに肺梗塞という救急疾患が発生した時
に、主治医が駆けつけ心臓超音波検査を施行し上記診断をつけ、すぐに治療開始しま
したが、重症例のため残念ながら1日で亡くなられました。
その後、患者さんのご主人(某大学助教授)が、当院を相手取って訴訟をおこしまし
たが、その訴状には、「心臓超音波検査を施行時に、医師が体位変換をしたことが、
肺梗塞を悪化させて死亡に至らしめた云々・・・。」と書いてあったそうです。
詳しくは説明しませんが、これは、医師から見れば素人の根拠の無い言いがかりにし
か過ぎないのですが、訴えられた医師(責任者は、部長)は、大変だったそうです。
共済組合の弁護士と共に準備書面を書いたり、自分で申立書を書いたりしたとのこと
す。
結局1年もしてから、やっと無理と分かり相手方が訴えを取り下げたそうですが・・
・。
このケースの場合、おそらく主治医とご家族の意志疎通が十分取れずに、ご主人が誤
解し、医師、医療機関に不信感を持ってしまわれたための訴訟と推測します。
これは、かなり極端な事例かもしれませんが、素人の方には、「不可抗力と医療ミス
の区別が難しい」ことも事実だと思います。・・・これは、医療事故を扱った経験の
乏しい弁護士さんでも同様の傾向があるのではないかと考えます。
ある医療過誤を専門になさっている弁護士さんのお話でも、医療過誤として相談され
る事例のうち実際に提訴出来るのは、2〜3割とのことです。
提訴された事例が、かならずしも医療過誤でない場合も、当然ありますよね。
もし医療過誤に詳しくない弁護士さんですと、きっと当院のような例まで提訴されて
しまうこともあるでしょう。
実際にMIネットで見聞した事例でも、複数の医師から「これで訴えられては医師
は、たまりませんね。」という意見が出た事例もございました。
このような場合、患者さんやご家族にきちんとした説明がしてあるか、急変後の対応
がきちんと出来たか、もしミスなり過ちがあれば、ちゃんと説明しきちんと謝罪した
かどうかが重要だと思います。
上記に気をつけることで、お互いに不幸な訴訟という事態は、随分避けられるのでは
ないか、と思います。
決して医師としてかばいあうわけではありませんが、きちんとした診断・治療をして
いても、臨床では予測不可能な事態や急変が起こることは、どうしても避けられない
場合があります。
結果論だけから判断されたら、救急医学、外科、脳外科、産婦人科、新生児科、循環
器科等の医師はとても困ります。
僕の悩みの一つは、自分の専門が糖尿病という救急とは関係が薄い分野(糖尿病性昏
睡という病態は1年に数例程度です。)であることです。つまり「自分が訴えられる
可能性が少ないから、そうして他の医師たちを批判、非難できるんだろう。」と言わ
れるのではないか、という悩みです。実際、鋭い指摘なのです。これは、医師でない
方には、なかなか分かっていただけない事かもしれませんが・・・。
今後日本でも、医師は、自分の身を守るために、ある程度アメリカ的な、あくまで訴
訟予防的観点からの形だけのインフォームド・コンセントやセカンド・オピニオンを
求める世界になっていくのかもしれませんね。・・・とても残念な事ですが。
それから、以下は臨床医の立場として是非、言っておきたいことですので、あえて皆
様のご批判を覚悟で書きます。
ここで言う医師とは、基本的に自分の場合ということでご理解下さい。
医師も科学者ですから、医療事故かどうかあくまで論理的、医学的に分析します。
亡くなった方の情緒的な部分はすべて切り離して考えます。
その上でどう見ても、これは医療者側の過誤、ミスだと自分で認識した場合に、初め
て患者さんの側に立って支援するなり鑑定書を引き受けることになるわけです。(普
通の医師は、この段階でも無関心というか関知しない方が多いのが現状ですが・・
・。)
是非、この立場をご理解下さい。
医療ミスの可能性も否定出来ない、とか、薬剤の副作用の可能性もある、という段階
から積極的に被害者側に立てる医師は、ごく少ないのではないかと思います。あくま
でボランティアとしての関与ですから・・・。
当然、通常の自分の仕事(あくまで外来や入院の患者さんを診て治すこと)が一番大
事ですから。
この点が弁護士さんのように依頼者の利益を第一に考える(もちろん社会正義や倫理
観がより上位に来ると思いますが・・・)職業との違いだと思います。(失礼な表現
でしたらお詫びします。)
個々の医師に過大な期待をされると困ってしまいます。
また今後、個々の医療事故の事例にどこまで直接的に関与していくべきか、でいつも
悩んでいるのが現状、本音です。
基本的には、鑑定医問題、早期からの専門家の関与、裁判の迅速化等、より根元的な
医療裁判のシステム改革に取り組んでいきたいと思っております。この点で「医療事
故部会」での研究会は、大変勉強になりました。
この意味からも「医療事故調査会」のような医師集団による鑑定組織は大変重要では
ないか、と考えております。
本来は、公的組織として、各科専門医集団によるこのような組織が必要だと思われま
す。
その「専門医の選定」をどうするか、が大きな問題ではありますが・・・。
さて、ここで医療事故の被害者の方に、是非お願いしたいことは、藤田さんが書かれ
た以下の文章です。
これは、医療事故裁判に原告側として日夜努力されている弁護士さん方にも当てはま
ることだと思います。
なかなか大変なことだとは思いますが・・・。
藤田さん、wrote.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私には、以下のような思いがあります。
* 医療事故被害者には、自分の被害だけに関心を持つのではなく、広く医療の
改善に関心を持ってもらい、「医療の改善のために自分にできることをしよう」
としてもらいたいと思っています。
* 「医療の改善のために自分にできることをしよう」とする被害者とそうでは
ない被害者とでは、前者の被害者に何とか協力したいです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このご意見に同感です。
僕も、今後、この観点から被害者の方に積極的にご協力するかどうかを判断したいと
思っております。
その点、「メディオ」の伊藤 隼也さん、阿部 康一さんは、まさに上記を積極的に
実践されておられる素晴らしい方々だと尊敬しております。
以前、伊藤さんから、折角、「メディオ」にお誘いいただいたのにお断りしてしまっ
た理由は、上記のようないろいろな悩みからということでご理解下さい。
いろいろ書きましたが、患者側に立っている(つもりの)臨床医の本音というか正直
な悩み告白でした。
長文失礼しました。
岩岡 秀明 iwaoka@gd5.so-net.ne.jp
岩岡さん、みなさん、こんにちは...
先日来の皆さんの議論、興味深く拝読しておりました。
ネット上でテキストだけでやり取りすることの難しさを考えている
うちに、時間が過ぎてしまいましたが....
僕も自分と医療事故との関わりについて考え直してみたいと思います。
>これは、藤田さんからもご指摘を受けましたが、たしかに僕の言い過ぎでした。
>決して多くはありませんね。
>謝罪して以下のように訂正させていただきます。
>
>「ご家族の誤解や思いこみによることもあると思われます。」
....いくつもの訴訟事例を拝見していて思うのは、「どうしてここで
キチンと説明していないのだろう」とか、「なぜ、こんな中途半端な
説明で終わらせてしまっているのだろう...」と言う事です。時間を
十分にとって繰り返しコミュニケ−ションを取る努力をすれば避ける
ことのできた「誤解」や「感情的な対立」は決して少なくないのでは
ないかと思います。医療ミスの検討に入る前の段階として、極端な
説明不足や、感情的対立があって、本質的な理解の妨げになっている
様に感じます。もちろん、背景には明らかなミスであっても、責任を
逃れるために言い逃れをしようとする病院や医師サイドの誤った姿勢
があるワケですが....家族に「誤解や思い込み」をいだかせる背景に
こそ、日本の医療が抱える根本的な問題がある様に思います。基本的
に家族は「シロウト」なのです。誤解も思い込みも何らかのコミュニ
ケ−ション不足からもたらされるものだとすれば、やはりその責任は
専門家である我々にあるのではないでしょうか?
>詳しくは説明しませんが、これは、医師から見れば素人の根拠の無い言いがかりにし
>か過ぎないのですが、訴えられた医師(責任者は、部長)は、大変だったそうです。
>共済組合の弁護士と共に準備書面を書いたり、自分で申立書を書いたりしたとのこと
>す。
>結局1年もしてから、やっと無理と分かり相手方が訴えを取り下げたそうですが・・
>・。
>このケースの場合、おそらく主治医とご家族の意志疎通が十分取れずに、ご主人が誤
>解し、医師、医療機関に不信感を持ってしまわれたための訴訟と推測します。
...かつて僕も似たような経験があります。頭蓋内出血を見落とした...
と言う事だったのですが(結論的には、若いお母さんが小さく生まれた
我が子を虐待していたのですが....)、完全に感情的になっているご家
族を前に、何を話しても全く信じてもらえなくて、ほとほと困り果てた
事がありました。このケ−スでも、私たちから見れば、経過が極めて不
自然であり、早い時期から「虐待」の可能性を疑っていたのですが、相
手方にすれば、「病院の見落とし」であると思い込んでしまっているわ
けですから、何を言っても「言い逃れ」としか受け取って貰えなくて...
当然、「訴訟」と言う話になりました。カルテも保全されましたし....
僕としても、いい加減ウンザリしてきたこともあって、後は訴訟でやり
合おう...と考えたりもしました(ある意味「戦闘モ−ド」に入ること
は簡単です)。しかし.....何も問題がある事はしていないと言う確信が
ある以上、何としても判っていただきたい..いや、判ってもらえるはず
だ....とも思いました。結局、話し合いを繰り返す中で、お互いに対す
る理解が生まれたのだと思いますが、長い時間はかかりましたが、結果
的には赤ちゃんの保護とお母さんのカウンセリングにこぎ着けることが
できました。
「意志疎通」とか「コミュニケ−ション」と言葉で言うのは簡単です。
しかし、それが実際にはどれほど難しいことか...ましてや、何らかのミ
スを犯してしまっている場合に、素直に「ごめんなさい」と言える人間が
どれだけいるのか...人間、だれしも自分がかわいいですからね.....
このときに、僕は一度もつれてしまった感情の糸を解すことは、並大抵の
事ではない...と言う事を身をもって学びました。
「自分が何か過ちを犯した場合でも、自分は素直にそれを認めることがで
きるだろうか?」
この問いかけは、以来、ずっと僕の頭の中にあります。カッコいい言い方か
もしれませんが、自分が犯したかも知れないミスを知りたい...と言う事が、
医療事故と関わる直接的な理由です。
>決して医師としてかばいあうわけではありませんが、きちんとした診断・治療をして
>いても、臨床では予測不可能な事態や急変が起こることは、どうしても避けられない
>場合があります。
>結果論だけから判断されたら、救急医学、外科、脳外科、産婦人科、新生児科、循環
>器科等の医師はとても困ります。
....もちろん、その通りです。でも、亡くなったお子さんを前に「私たちは
この子を病院の裏口から連れて帰るつもりで来たのではないのです!」と言
う家族の思いを真剣に受け止めたいと思います。「予測不可能な事態」や
「急変でした....」と片付けてしまいたくない.....「今、何が起こっている
のか?」「これから何が起こるのか?」をできる限り考えたい。ご家族にも
キチンと説明したい....とても難しいことなのですが......
>今後日本でも、医師は、自分の身を守るために、ある程度アメリカ的な、あくまで訴
>訟予防的観点からの形だけのインフォームド・コンセントやセカンド・オピニオンを
>求める世界になっていくのかもしれませんね。・・・とても残念な事ですが。
....医療が「防衛的」な姿勢を強めてゆくことは時代の流れなのかもしれま
せんが....まだ我々には時間がある...わずかですが....と、僕は思います。
アメリカの医療は進んでいるように受け取られていますが、本当でしょう
か?僕には到底そうとばかりは思えません(これは別の機会があれば論じた
いと思いますが....)。コミュニケ−ションをベ−スに、相互信頼に基づ
いた医療を実現する.....事は、そんなに「夢物語」なのでしょうか?
>医師も科学者ですから、医療事故かどうかあくまで論理的、医学的に分析します。
>亡くなった方の情緒的な部分はすべて切り離して考えます。
>
>その上でどう見ても、これは医療者側の過誤、ミスだと自分で認識した場合に、初め
>て患者さんの側に立って支援するなり鑑定書を引き受けることになるわけです。(普
>通の医師は、この段階でも無関心というか関知しない方が多いのが現状ですが・・
>・。)
....僕はこの点では岩岡さんとは意見が違います。
「情緒的な部分を切り離す」事は当然としても....^-^;;...
これも以前からはっきり言って来た事ですが、僕は「患者さんの立場に立って
支援する」つもりはありません。原告側だろうが被告側だろうが、あまり意識
したことはありません。関心があるのはあくまでも「事実関係」です。結果的
に、原告側のお手伝いをすることが多く、「極端に原告側に肩入れする医師」
とのご批判を受けていますが、本人は今も昔もそんな気はさらさらないです。
あくまでも「何がおこったのか」、「何が足りなかったのか」、「どうすれば
防げたのか」....と言う事です。なぜならば、同じような事を明日、いや、今
晩にでも自分が犯す可能性がある....と怯えているからです....^-^;;...
ですから、本当は意見書も鑑定書も書きたくないです...^-^;;...「普通の医
師」だって「無関心」と言う事は無いと思いますよ。そう言ったケ−スを知る
チャンスがない...と言う事が一番大きいのではないでしょうか?同じ病院内
であっても、隣の科で進んでいる医療事故訴訟の事は全く判らないですからね。
「鑑定」なんて事が自分にできるのか、ほとんど疑っています。ただ、「人の
ふり見て我がふり直せ」と言う、極めて小市民的な動機...なんです....
>医療ミスの可能性も否定出来ない、とか、薬剤の副作用の可能性もある、という段階
>から積極的に被害者側に立てる医師は、ごく少ないのではないかと思います。あくま
>でボランティアとしての関与ですから・・・。
....「薬害の範囲」についての議論も興味深く読ませていただきました....
自分が関係する可能性がある....と言う観点から言えば、「薬害」も「副作
用」も大差ありません(「薬害資料館」をどうするか...と言う点では、mi-
net 3239のゆきさんの提案に賛成です)。薬害だろうと、副作用だろうと、
それが「おかしい...」のであれば、それはそれで問題を提起して行く責任が
専門家にはあるはずです。
殊更に「被害者側に立つ」必要があるでしょうか....??
>個々の医師に過大な期待をされると困ってしまいます。
...僕は「必ずしも味方ではないかもしれませんよ....」と一言お断りする
事にしています。
>基本的には、鑑定医問題、早期からの専門家の関与、裁判の迅速化等、より根元的な
>医療裁判のシステム改革に取り組んでいきたいと思っております。この点で「医療事
>故部会」での研究会は、大変勉強になりました。
>
>この意味からも「医療事故調査会」のような医師集団による鑑定組織は大変重要では
>ないか、と考えております。
>本来は、公的組織として、各科専門医集団によるこのような組織が必要だと思われま
>す。
>その「専門医の選定」をどうするか、が大きな問題ではありますが・・・。
....「鑑定」は確かに大きな課題ですが.....僕は「鑑定」は「結果」ではな
いか....と思えてきました。先日の研究会でもでていましたし、岩岡さんの
「論壇」用の投稿案にもありましたが、「業績」になれば多くの医師が関心
を持つのであれば、その様な仕組みを作ればいいのではないか....と考え始
めています。まだ、具体的な案となるまで煮詰まっていませんが、事故ケ−ス
で症例検討会や死亡症例検討会はできないものか..?...と。うまく表現できま
せんが、意図するところは「集団鑑定」ではありません。純粋に「臨床ケ−
ス」として、医学的にふりかえってみる....それをまとめて定期的にレポ−ト
を刊行すれば、立派な「業績」にもなるでしょうし、貴重な教訓にもなると
思います。確かイギリスにはそんな内容の雑誌があったように記憶していま
す.....「裁判」や「鑑定」とは切り離したところで考えることができるよう
にしてみたい...と言う事です。これはあくまでも僕個人の夢想ですが.....
>藤田さん、wrote.
>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>私には、以下のような思いがあります。
>
>* 医療事故被害者には、自分の被害だけに関心を持つのではなく、広く医療の
>改善に関心を持ってもらい、「医療の改善のために自分にできることをしよう」
>としてもらいたいと思っています。
>
>* 「医療の改善のために自分にできることをしよう」とする被害者とそうでは
>ない被害者とでは、前者の被害者に何とか協力したいです。
>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
>このご意見に同感です。
....藤田さんのご意見、きっとそうなのだろうなあ....とは思いますが.....
自分としては、エゴイスティックな関わり方を続けてゆく中で、医療の改善
に繋がれば...と言う事かな....^-^;;....
長々と書いた割に、支離滅裂で....^-^;;...
言葉足らずな部分が多いと思いますが、皆さんのご批判をお待ちしています...
加部一彦@新生児科医
栗岡です。こんにちは。
岩岡さん、加部さんの真摯な投稿を大変興味深く拝見しました。
私は、発端の岩岡さんのご発言(「一般に医療事故訴訟は、患者さんのご家族の
誤解、思いこみによることも多いと思われます」。)は、それほど気になりません
でした。
患者は、最初は医学的知識について素人ですし、科学的な思考法の訓練をあまり
受けていないのですから、出発点は「どこかおかしい」、「こんなはずではなかっ
た」という思いこみから出発するのだと思います。
しかし、医師や看護婦や……の説明を聞き、自分で文献を調べ、他の人の意見(
SOも含め)を聞き、ときには弁護士に相談しながら、被害者から原告へといわば
「成長」してゆくのでしょう。その過程で、不可抗力で誰にも責任はない、と判断
したり、訴訟をしても勝てないし、その経済的・時間的余裕がない、と判断したり
して、結局提訴しない場合もあるでしょう。後者の場合には社会制度の不備という
問題が関係する可能性がありますが、本題からそれますので論じません。
「思いこみ」のまま医療事故訴訟になだれ込むことが多いかどうかは誰にも判定
できませんが、もし本当に思いこみだけで提訴してしまった事例があれば(あるは
ずだとは思います)、加部さんがお書きのように、ご本人のみならず、専門家とし
ての医師(被告側・原告側を問わず)や弁護士(これも同様)の力不足ということ
もあり得ます。もちろん、近代社会では最終的な判断主体が個人なので、たとえば
どんなに無理な訴訟だと弁護士や医師が説明しても提訴するということが生ずるの
はやむを得ないことです。その場合、医師や弁護士は、それでも専門家として関与
するかどうかを決定できます(「応召義務」の話に関わりますね)。
医師が理不尽な提訴の被告としてやむを得ず関与せざるを得ないケースは、いわ
ば避けられない「事故」のようなものですが、これも専門的職業にともなうリスク
としてやむを得ないのではないでしょうか。患者も、治療過程においてリスクを引
き受けます。たぶん、現在のところ医療において自称「医療被害者」が医師を理不
尽な争いに巻き込む確率よりは、患者が不適切な治療で被害を受ける確率の方が高
いので、MIネットは「患者をよりよい市民社会の担い手=医療の受け手」にする
というよりも、「医療被害を受けた患者を援助する」「問題のある医療から市民を
守る」という側面が強いのだと思います。
(こう考えてくると、「自分のできることをしましょう」というスローガンは、
とても重要だとわかりますね。専門家も市民もそれぞれにかみしめるべき言葉だと
思います。)
患者や家族が「医療事故」との思いこみから出発して妥当な判断ができる(本当
に事故かもしれないし、単なる思いこみだと納得するかもしれないし)ように「成
長」してゆくように、「被害者と思いこ」んだ市民に(「事故」のように)巻き込
まれた医師も、そのなかで医療と社会の関係について、あるいは人間(患者)の多
様性について、学習し、成長するということもあるのではないかと思います(よそ
事だから言える面がある事は自覚していますので、許してくださいね)。
藤田さんの議論には、一貫して「思いこんでいる(自称)被害者にはそのことを
きちんと伝えるのが本人のためだ」という正当な主張があると思います。私は、そ
の通りだと思います。岩岡さんや加部さんが、「科学者として」あるいは「患者さ
んの側に立って」という論点で議論をされていることも、同じ論点ですよね。加部
さんがこの後者について「岩岡さんとは立場が違う」と発言されていますが、基本
的な姿勢は近いのではないかと思います。
ただし、加部さんのこのご発言は、もう少し懐の深いものだと感じます。
>誤解も思い込みも何らかのコミュニ
>ケ−ション不足からもたらされるものだとすれば、やはりその責任は
>専門家である我々にあるのではないでしょうか?
私は、科学的な考え方で割り切れない部分が人間の行動にはたくさんあると思っ
ています。これは、科学でなく宗教や迷信に頼っても仕方がないと言っているので
なく、科学の一つ外に社会的な判断という枠組みがあり、科学的には決着の付かな
いことが普通だと思っているのです。
たとえば、「副作用」と「薬害」との区別は、社会条件によっても違ってくるで
しょう。治験で、正当な同意書を書いて参加してたまたまそれまで合理的には予期
されなかった被害を出してしまった場合と、治験データを書き換えて承認をうけて
被害をもたらした場合とでは、同じ「医薬品」の同じ「被害」でも社会的な判断と
して異ならざるを得ません。
私は、そのような難しい社会的判断が求められるときに、岩岡さんのように「患
者さんの側に立って」くださる医師がおられることは、とても貴重なことだと思っ
ています。そして、加部さんも、言葉のうえではともかく、実質的には同じように
行動してくださっていると(このMLでご本人や他の方々からいろいろな発言をう
かがう限りで)判断しています。
ついでにいえば、MIネットに参加してくださっている医師は、どのように自覚
されているかは別として、基本的にそういう方々だと考えております。(もし私が
なにも留保をつけずに医療や医師を直接間接に批判をすることがあれば、その「医
師」(や「弁護士」)からこのMLに参加されている方がたは除外しているのだと
ご理解ください。)
長くなりましたので、とりあえずここまで。
弁護士の藤田です。こんばんは。
栗岡 幹英さん wrote:
> 栗岡です。こんにちは。
>
> 岩岡さん、加部さんの真摯な投稿を大変興味深く拝見しました。
> 私は、発端の岩岡さんのご発言(「一般に医療事故訴訟は、患者さんのご家族の
> 誤解、思いこみによることも多いと思われます」。)は、それほど気になりません
> でした。
気になる人もいるでしょうね。
私自身は、医療事故訴訟の被害者ないし原告を全体的に一括して論じたり、また、
医師を全体的に一括して論じたりしないようにし、なるべく区別して論じるように心
がけようと思っています。
とりあえず簡単な表現をすれば、良い部分は評価し、良くない部分は批判する、と
いうことです。
例えば、医療事故訴訟の被害者ないし原告についてでも、医師についてでも、全体
として批判すれば、良い部分が発展しない結果を招きがちで、無用の反発や対立を促
進したりするなど、有益な結果を招かない危険が大きいと思っています。
医療事故訴訟の原告一般についてと受け取られる可能性があると思った叙述と、医
師一般についてと受け取られる可能性があると思った叙述について、それぞれ、私が
問題を指摘する趣旨の投稿をしたのは、そのような思いからです。
> 藤田さんの議論には、一貫して「思いこんでいる(自称)被害者にはそのことを
> きちんと伝えるのが本人のためだ」という正当な主張があると思います。私は、そ
> の通りだと思います。岩岡さんや加部さんが、「科学者として」あるいは「患者さ
> んの側に立って」という論点で議論をされていることも、同じ論点ですよね。加部
> さんがこの後者について「岩岡さんとは立場が違う」と発言されていますが、基本
> 的な姿勢は近いのではないかと思います。
私の考えについては、ちょっとニュアンスが違う点があるかも知れないと思います
ので、あとで、自分の言葉で少し書かせていただこうかなと思います。
藤田康幸
加部さん、栗岡さん、藤田さん、今晩は、岩岡です。
酔った一内科医の雑文に反応して下さり、感謝しております。
しらふで読むと、前後関係はばらばらだし、相変わらず語彙が貧困で同じ表現を繰り
返しているし・・・赤面の至りです
加部さん、wrote.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
> 家族に「誤解や思い込み」をいだかせる背景に
> こそ、日本の医療が抱える根本的な問題がある様に思います。基本的
> に家族は「シロウト」なのです。誤解も思い込みも何らかのコミュニ
> ケ−ション不足からもたらされるものだとすれば、やはりその責任は
> 専門家である我々にあるのではないでしょうか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
素晴らしい姿勢だと思います。
たしかにおっしゃるとおりですね。
自分も深く反省しなければならないと思いました。
加部さん、wrote.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
> 「自分が何か過ちを犯した場合でも、自分は素直にそれを認めることがで
> きるだろうか?」
>
> この問いかけは、以来、ずっと僕の頭の中にあります。カッコいい言い方か
> もしれませんが、自分が犯したかも知れないミスを知りたい...と言う事が、
> 医療事故と関わる直接的な理由です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この真摯な意識が素晴らしいですね。
実際に当事者になった場合、またはその指導医になった場合、きちんと過ちを認めて
謝罪出来るか、常に強く自覚していなければなりませんね。
加部さん、wrote.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
> これも以前からはっきり言って来た事ですが、僕は「患者さんの立場に立って
> 支援する」つもりはありません。原告側だろうが被告側だろうが、あまり意識
> したことはありません。関心があるのはあくまでも「事実関係」です。結果的
> に、原告側のお手伝いをすることが多く、「極端に原告側に肩入れする医師」
> とのご批判を受けていますが、本人は今も昔もそんな気はさらさらないです。
> あくまでも「何がおこったのか」、「何が足りなかったのか」、「どうすれば
> 防げたのか」....と言う事です。なぜならば、同じような事を明日、いや、今
> 晩にでも自分が犯す可能性がある....と怯えているからです....^-^;;...
> ですから、本当は意見書も鑑定書も書きたくないです...^-^;;...「普通の医
> 師」だって「無関心」と言う事は無いと思いますよ。そう言ったケ−スを知る
> チャンスがない...と言う事が一番大きいのではないでしょうか?同じ病院内
> であっても、隣の科で進んでいる医療事故訴訟の事は全く判らないですからね。
>
> 「鑑定」なんて事が自分にできるのか、ほとんど疑っています。ただ、「人の
> ふり見て我がふり直せ」と言う、極めて小市民的な動機...なんです....
>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この文章にも感銘を受けました。
たしかに、本来「病院側鑑定医」だの「患者側鑑定医」だの言う 言葉自体がおかし
いわけですね。
あくまで医学的に厳正中立に鑑定すれば良いわけですから。
こう考えれば、少し気が楽になります。
加部さんが、医師として「事実関係」をきちんと評価されて書かれた鑑定書が、「極
端に原告側に肩入れする医師」などと言われてしまうことが、逆にいかに「極端に被
告に肩入れする医師」が多いかという現状を表しているわけですね。
あの糖尿病の教授鑑定書のように・・・。
このような異常な状況を「普通の医師たち」に広くお知らせしていかなければならな
い訳ですね。
その第1歩として、「論壇」へ投稿しようと考えております。
加部さん、wrote.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
> 自分としては、エゴイスティックな関わり方を続けてゆく中で、医療の改善
> に繋がれば...と言う事かな.....
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こういう考えを通常「エゴイスティック」とは言いませんよね。^-^;;.
「非常にリベラルでアカウンタビリティーの高い医師」でしょうか。^-^;;...
]では、また。
岩岡 秀明 iwaoka@gd5.so-net.ne.jp
弁護士の藤田です。こんばんは。
On Tue, 15 Feb 00 18:32:45 +0900
栗岡 幹英 <jsmkuri@ipc.shizuoka.ac.jp>さん wrote: at [mi-net.3249] Re: 臨床医
の本音&悩み(RE:3241)
> 藤田さんの議論には、一貫して「思いこんでいる(自称)被害者にはそのことを
> きちんと伝えるのが本人のためだ」という正当な主張があると思います。私は、そ
> の通りだと思います。岩岡さんや加部さんが、「科学者として」あるいは「患者さ
> んの側に立って」という論点で議論をされていることも、同じ論点ですよね。加部
> さんがこの後者について「岩岡さんとは立場が違う」と発言されていますが、基本
> 的な姿勢は近いのではないかと思います。
私の考えについては、ちょっとニュアンスが違う点があるかも知れないと思います
ので、自分の言葉で少し書かせていただきます。
(以下は、あくまでも一般論であり、個別のケースについて述べるものではあ
りません。)
Aを、被害を受け(あるいは被害を受けたと思っていて)、一定の思いこみがある人
とし、Bを、Aから話を聞いたりした人とします。
このケースで、Bが、Aの思いこみについて、根拠が乏しい、一定の問題点が
ある、あるいは、誤っているなど(以下、単に「誤っている」とします。)と思
ったとします。
なお、ここでは、誰かの考えが絶対的に正しいのかどうかを問題にしません。
AもBも神ではなく、また、法治主義の下で現世的な紛争解決を担当する裁判
官も神ではありませんから。
B(あるいは、B1、B2、B3など)がAの思いこみが誤っていると思った
場合に、そのことをAに指摘しなければ、Aはその思いこみが是正されるチャン
スがない(あるいは、乏しい)と思います。
したがって、「Bが、Aの思いこみが誤りであると言わなければ、(結局にお
いて)、Aのためにならないことがある」(甲命題と呼びます。)と思います。
しかし、「Bは、Aの思いこみが誤りであると思ったら、それをAに言わなけ
ればAのためにならない(あるいは、AのためにはそれをAに言うべきである」
(乙命題と呼びます。)とまでは思いません。
甲命題と乙命題とは異なります。
乙命題が個々のケースで妥当するためには一定の条件が必要です。
Bが、Aの思いこみが誤りであると言うことは、Aにとっては耳に快くない場
合があります。
「良薬は口に苦し」ということもあるでしょう。
* Aについての条件
(Aが自分の思いに反することを言われることについてどの程度受容的なのかな
ど。批判受容能力とでも言うべきものは人によりさまざまです。なお、他人から
の批判についても無批判に受け入れるべきものではありませんから、正当な指摘
と不当な指摘を区別することが必要です。他方で、批判等について被感受性が高
すぎる人もいるように思います。)
* AとBの関係についての条件
(家族とか親しい友人などの場合は、Aがは自分の思いに反することを言われる
ことについて受容的であることが多いでしょう。AのBに対する信頼の有無や程
度によることでしょう。)
などによるでしょう。
私は、Aの話を聞くB(あるいは、B1、B2、B3など)が、Aの思ってい
ることを尊重するあまり、吟味等をすることなく、例えば、「そうですね。ひど
いですね。おっしゃるとおりですね。」その他の発言を通してAに同情する態度
にとどまるとしたら、Aの誤った思いこみが是正されるチャンスがない(あるい
は、乏しい)と思います。
もちろん、プロセスとしてAの話をよく聞くことは必要でしょう。しかし、そ
れにとどまっていては、是正のチャンスがない(あるいは、乏しい)ことになる
と思います。
ですから、私としては、甲命題は正しいものと思っています。しかし、乙命題
については、個別の条件によると考えます。
私は弁護士ですので、ついでに、弁護士の仕事との関係で、Aが依頼者でBが
弁護士の場合についても書いてみます。
依頼者Aの思っていることや気持ちを弁護士Bが理解することは必要ですが、
依頼者Aの思っていることや気持ちを弁護士Bが無批判に受け入れていたら、弁
護士として行うべき適切な仕事はできないと思います。
弁護士Bとしては、依頼者Aの思っていることがおかしいと思ったら、きちん
と指摘すべき義務があるだろうと思います(もちろん、指摘の仕方の問題はあり
ますが。)。
「岡目八目」という言葉があります。
弁護士が、立場や心情等において当事者本人と全く同一化したら、見えるはず
の事実も見えなくなり、冷静な判断ができない危険があります。
依頼者Aの正当な利益を図る目的も持ちながらも、依頼者Aの思いや気持ちと
完全に同一化することなく、一定の距離をおいて見る目や態度が必要だと思いま
す。
依頼者Aの立場と同一化して、(それでいて、というか、それゆえにか)依頼
者Aから強い信頼を得て、しかし、依頼者Aにとって客観的にはまずい結果をも
たらす例のことを聞くことがあります。そのような例では、まずい結果について
、依頼者Aとともに悲しみ、裁判官や相手方を非難することで、自らの弁護活動
の問題さを認識しないですませているのかも知れません。
このような例は、結局、「ひいきの引き倒し」と言うべきなんだろうと思いま
す。
弁護士の活動の場合に限らず、Aの思いについてBが吟味して問題点を指摘し
ないままにとどまるとすると、やはり、結局は「ひいきの引き倒し」に終わる場
合があるだろうと思います。
なお、Aが耳に快いことしか受容しない場合などには、さらに詐欺の被害にあ
るケースもあると思います。
巧妙な詐欺師の場合は、被害意識をもっているAに対して深い同情の姿勢を巧
みに示して取り入り、信頼を得ます。
もちろん、詐欺師の方が悪いのですが、詐欺の被害を受けるAにも全く問題が
なかったわけではないというケースもあることと思います。
藤田康幸 y.fujita@f.email.ne.jp
高田@能登です。
アドバイスやセカンドオピニオンにおいて、行為者と受益者(こんな言
い方をするのだろうか?)の心構えを、有り難うございました (^^)。
「大きなお世話」になるか、「有益な助言」になるか、受け取るご本人
次第の所がありますね。「助言」を受けようと思うAは、心を広く開い
て助言を聞く姿勢を示さなければ、自分にとっての益にはならないのは
当然ですが、助言者(のつもり)Bに取っても、Aに「大きなお世話」
と受け取られる事もあることを覚悟して助言しなければなりません。
ことに、ネット上の交信においては、この藤田さんの言うところの、甲
命題はすぐに理解できるのですが、乙命題の条件がハッキリしない(他
に交流がないことが多く、相手の性格などがわからない)ため、誤解を
生んでこんがらがる素地になっていると思います。
それ故、リアル・ワールドにおける会合、オフ会や研究会が、とても大
事だと思います。薬害部会のオフ、期待しています(参加できずに残念)。
では。
*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*
M.Takata (taka@xyz.club.ne.jp)
勝村久司です。
被害者との関係について、藤田さんの議論の整理に共感します。
市民運動だけではないですが、それぞれの世界での正論と正論が対立して見
えたとき、どちらを優先すべきか、と考えずに、両者を生かし、議論を整理
し、より幅の広い正論へと進めていくことが大切だと思います。
「いどうと人権」ということですが、今、僕が勤める高校には、1階に教室
がないのですが、車椅子で通う生徒がいます。府の財政難でエレベーターの設
置も凍結されています。そこで、来年度から、1階にある会議室を教室に転用
する案を先週の職員会議に提案しましたが、様々な意見が出された中、時間切
れ多数決でわずかの差で否決されました。その時の議論でも、改めてこのこと
の大切さを痛感しました。
それで、もう一度、大熊さんを中心に朝日新聞の記者らが書かれた「心のプ
リズム」(朝日文庫)を読み直したところです(大熊さんの関わった部分だ
け)。かなり昔に書かれたもののようなので、現在の大熊さん自身の評価がど
うなのかはわかりませんが、心をプリズムにかけることは、議論を整理するこ
とと同じような感じだと思うので勉強になりました。読みやすいので、これか
ら社会に出ていく生徒たちにも、情報化社会の中で(詐欺にあわないことなど
も含めて)議論を整理していくことが大切だと思い、すすめています。
mi−netには、様々な数多くの正論が寄せられ、それらを元に議論が整
理されていく過程がしっかりしていて素晴らしく思います。
薬害資料館のオフミには参加できませんが、成功をお祈りします。
けっこう睡眠時間も削って、ほとんど遊ぶこともなしに日々を送っているの
ですが(mi−netのメールも全部読んで)、いろんな市民団体関係から、
やれと言われていることがまだまだ山積み状態です。mi−netや薬害資料
館に対してほとんど何もできていませんので(思うことは色々とありますが、
自分の中でさえまとまらないことも多いので)発言を控えていましたが、せめ
てエールをと思いました。
**************
勝村久司
栗岡です。こんにちは。
藤田さんの議論で甲命題と乙命題の区別はよく分かります。わたしが「きちんと
伝える」と書いたことの「伝え方」に関わる問題ですね。
同じ言い方でもAの人格、Bの人格、そしてABの関係、さらにその伝えるとき
の状況などで全く異なって受け取られます。もともと受容しうる関係があるのか、
適切な伝え方がされているのか、適切な時期と場所を選んでいるのか、などなど。
言っていることは正当なのだけれども、言い方が気に障って受け入れにくいとか
、個人メールで言えば了解しあえることを公開のメールでとりあげられて怒りが先
立ってしまうとか、いろんなケースがありえます。
で、「きちんと伝える」ことの基本は、加部さんが強調しておられた「コミュニ
ケーション」ですね。
私は、コミュニケーションの本質は(ということで我田引水なのですが)、「時
間」の要素、あるいは「人間が変わりうる」ことへの信頼ではないかと思います。
そして、望ましい変わり方は、コミュニケーションを通して理解し、理解される体
験によって実現されることが多いだろうと考えます。
> 弁護士が、立場や心情等において当事者本人と全く同一化したら、見えるはず
>の事実も見えなくなり、冷静な判断ができない危険があります。
> 依頼者Aの正当な利益を図る目的も持ちながらも、依頼者Aの思いや気持ちと
>完全に同一化することなく、一定の距離をおいて見る目や態度が必要だと思いま
>す。
同様に当事者本人の立場に立たないことで、「見えるはずの事実が見えなくな」
ることもありうるのではないでしょうか。それは、被害者(原告)にとって「良い
結果」とは何か、という問題に関わります。
たとえば、昨日読んでいた訴状で、35歳初産の女性が(本当に医療ミスなのかど
うかは当然議論の余地がありますが)妊娠不可能になってしまった事件について、
その不妊になったことについて慰謝料400万円を請求していました。私は、この金額
が現在の一般的な訴訟で妥当な金額かどうかについて知識はありません。仮に弁護
士さんが、いくつかの例を挙げて「こういうものなのです」と説明するとします。
「冷静な判断」として妥当かもしれません。
しかし、この女性から見て400万円という金額について納得できるものかどうかと
いう問題が残ります。仮に「とうてい納得できない」と原告が考えるとして、私が
弁護士なら、彼女の納得できないという気持ちをまず理解したいと思います。
たぶん、被害者とともに弁護士も現実の法解釈や判例などとの狭間で苦しむこと
になりますが、その過程で被害者としての苦しみや絶望感、あるいはそのことから
生ずる軋轢(たとえば夫や義理の両親との関係など)を論理化し、訴状に表現し、
法的プロセスに乗せる過程で、被害者は(ときには弁護士も)多かれ少なかれ変わ
ることになるでしょう。
400万は納得できないが、800万なら、あるいは2000万なら納得できるか、という
問題にもし弁護士がすり替えてしまい、「客観的に見てこんなものですよ」と教え
るとすれば、結局信頼関係を結べないこともあり得ます。もし、2000万円なりある
いは1億円なりの結果を得て、その金額で被害者が「ああ良かった」と思っている
としたら(そういう可能性ももちろんあるでしょう)、それはあまり良い結果とは
私は思えません。
仮に勝訴して高額の損害賠償を得たとしても、それは、長い人生を通して受けた
被害をどう受け止めてゆくか、という彼女の課題にとって一つの要素にしか過ぎな
いわけです。むしろ、苦しみを受け止めいやしてゆくこの過程をどう歩んでゆくの
かという彼女の課題を共に受け止め、その勝訴の(ときには敗訴の)意味をともに
考えるという姿勢が大切ではないかと思います。
薬害裁判で被害者団体が薬害根絶を訴えることの意味を、私はこんな脈絡で考え
ています。
これは、たぶん藤田さんのおっしゃる「客観的にはまずい結果」の中身の問題です。
> 依頼者Aの立場と同一化して、(それでいて、というか、それゆえにか)依頼
>者Aから強い信頼を得て、しかし、依頼者Aにとって客観的にはまずい結果をも
>たらす例のことを聞くことがあります。そのような例では、まずい結果について
>、依頼者Aとともに悲しみ、裁判官や相手方を非難することで、自らの弁護活動
>の問題さを認識しないですませているのかも知れません。
以前藤田さんが「目的には段階がある」とご指摘でしたが、裁判の勝訴やその金
額が最終の目的になるとしたら、負けた場合には原告には全くなにも残らないこと
になるような気がします。裁判には負けたけれども、弁護士さんが自分の気持ちを
理解して法廷で適切に訴えてくれた、あるいは弁護士さんとのコミュニケーション
のなかで自分の受けた被害が自分の人生にとってもつ意味は整理できた、こういう
ことも「良い結果」でありうるのではないかと、私は思うのです。
このあたりは、「距離をおいて見る」という(たぶん近代科学が洗練してきた)
方法の他にも、人を成長させ、幸福にするものがあるだろうという私の考えに関わ
ることです。近代社会の原点にも「共感的理解」があるべきだ、とでも要約できる
かもしれません(保険の議論でもこれを基本においていたつもりでした)。
たぶん、藤田さんの論点とは相反するものではなくて、別の要素に着目して強調
しているだけなのではないかと思いますが、触発されて書いてみました。
弁護士の藤田です。こんばんは。
栗岡 幹英さん wrote:
> 藤田さんの議論で甲命題と乙命題の区別はよく分かります。わたしが「きちんと
> 伝える」と書いたことの「伝え方」に関わる問題ですね。
> > 弁護士が、立場や心情等において当事者本人と全く同一化したら、見えるはず
> >の事実も見えなくなり、冷静な判断ができない危険があります。
> > 依頼者Aの正当な利益を図る目的も持ちながらも、依頼者Aの思いや気持ちと
> >完全に同一化することなく、一定の距離をおいて見る目や態度が必要だと思いま
> >す。
>
> 同様に当事者本人の立場に立たないことで、「見えるはずの事実が見えなくな」
> ることもありうるのではないでしょうか。それは、被害者(原告)にとって「良い
> 結果」とは何か、という問題に関わります。
どうも趣旨がうまく伝わらない感じですかね。(^_^)
「同一化」というのは、A=Bになることですが、それでも、念のため「全く」と
か「完全に」とかを付け加えたのですがね。
なお、私は、大ざっぱな言い方の場合は「当事者(あるいは被害者)の立場に立
つ」という表現を使うことがありますが、厳密な言い方の場合はあまり使わないよう
にしています。
厳密には「本当に当事者(被害者)の立場に立てるのか(立てないではないか)」
という問題があるからと思っているからです。
悩み・苦しみ・不利益等が現にあるAと全く同じ立場にBはなりえないと思うから
です。Bが「Aの立場に立つ(あるいは、立っていると思っている)」ということに
は、一種の自己欺瞞のおそれがあるとも思います。
> > 依頼者Aの立場と同一化して、(それでいて、というか、それゆえにか)依頼
> >者Aから強い信頼を得て、しかし、依頼者Aにとって客観的にはまずい結果をも
> >たらす例のことを聞くことがあります。そのような例では、まずい結果について
> >、依頼者Aとともに悲しみ、裁判官や相手方を非難することで、自らの弁護活動
> >の問題さを認識しないですませているのかも知れません。
>
> 以前藤田さんが「目的には段階がある」とご指摘でしたが、裁判の勝訴やその金
> 額が最終の目的になるとしたら、負けた場合には原告には全くなにも残らないこと
> になるような気がします。裁判には負けたけれども、弁護士さんが自分の気持ちを
> 理解して法廷で適切に訴えてくれた、あるいは弁護士さんとのコミュニケーション
> のなかで自分の受けた被害が自分の人生にとってもつ意味は整理できた、こういう
> ことも「良い結果」でありうるのではないかと、私は思うのです。
勝訴・敗訴という裁判の結果だけがすべてではないことはそのとおりです。
いろいろな例があります。
例えば、労働裁判では、不当な差別や処分等と闘う中で、裁判自体は敗訴しても、
労働者の権利の確保が進んだり、労働運動が前身したりします。集団事件でない場合
でも、当事者は支援する仲間との出会いや交流などから、何ものにも代え難い経験を
したと実感することもあります。
あるいは、教科書裁判のように検定行政を直接的に問題にする事件では、判決の結
果にかかわらず、検定当局の恣意的な検定の抑止力になってきたことのほか、教育
学、法律学、歴史学の発展にとって大きな成果をもたらすという意義があります。
ほかにもいろいろありますが、もっと普通の事件でも、裁判は、当事者が一定の納
得を得るための手続としての面があります。
当事者は自分に不利な判決が出たら、もちろん不満足なのですが、それでも、こう
いう手続をとった結果なのだからということで(それなりに)やむをえない結果とし
て一定の納得をするということがあります。
多くの通常の民事裁判等では、こういう形の納得になるわけです
でも、やはり私は、栗岡さんと考え方が違うような気がします。
(個人メールでの議論とmi-net上での議論の区別が難しくなってきましたね。
(^_^))
例えば、裁判を既に起こしているPという人がいるとします。そして、Pが第一審
では勝訴するのが難しい状況だと思っていて、控訴審での対応(別の代理人の選任な
ど)を準備しているとします。
このようなケースで、BがPの気持ちを聞き、理解・同情等をし、Pが「理解して
くれる人がいた」という気持ちを持って、それでよしとしようという気持ちには私は
なりません。
裁判を起こすという決定をした(そして、請求の放棄や訴えの取り下げをしない)
Pとしては、第一審判決について簡単に諦めるべきではないと思います。控訴審にな
れば状況が変わると安易に期待することは誤りだと思います。
そのほかにも、事実関係いかんによっては、夫婦間の問題などいろいろな問題が含
まれている可能性があります。
BがPの話を聞いて、理解・同情・共感等をしたとして、それでPが例えば一種の
救いを感じて満足したとして、現に訴訟を起こしているPに対するBの行為として、
果たしてそのまま(訴訟でのより適切な対応に向けての助言等をしないこと)でよい
のだろうかという疑問があります
また、例えば、Qという人が娘の子の出産事故について訴訟を起こしたいと思って
いるとします。しかし、娘やその夫は訴訟の提起に賛成していないとします。
このようなケースで、BがQの気持ちを聞き、理解・同情等をし、Qが「理解して
くれる人がいた」という気持ちを持って、それでよしとしようという気持ちには私は
なりません。
娘やその夫は訴訟の提起に賛成していない理由は何なのかをきちんと把握して対応
する必要があるかも知れません。なお、本当に訴訟を提起したいなら、娘夫婦の積極
的協力までは得られないまでも、娘夫婦のいすれかが当事者として委任行為さえ行え
ば、あとは、それなりのやり方があります。
そのほかにも、事実関係いかんによっては、娘夫婦簡あるいは娘夫婦との間での問
題などいろいろな問題が含まれている可能性があります。
BがQの話を聞いて、理解・同情・共感等をしたとして、それでQが例えば一種の
救いを感じて満足したとして、訴訟を起こしてたいと思っているQに対するBの行為
として、果たしてそのまま(それ以上に訴訟提起に向けての助言等をしないこと)で
よいのだろうかという疑問があります
要するに、PやQという、訴訟との関係で現実的課題を持っている人について、そ
の現実的課題の前進と切り離して、「理解してくれる人がいた」という一種の救いを
持つことの独立的意義を見いだすことに疑問があります。
(もちろん、PやQが訴訟をしないという考えなら、別の話になります。)
藤田康幸 Fujita, Yasuyuki y.fujita@f.email.ne.jp