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いわゆる従軍慰安婦問題に対する日本政府の施策

 

 

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「新・ゴー宣」3巻

 

 

世界各国にもあった慰安婦・慰安所

2007/03/09 16:54

本日も慰安婦問題について書きたいと思います。私は、社会部時代から10年以上もこの問題に関していろいろと書いてきたので、正直なところ、少々うんざり している部分もあるのですが、やはり反論すべきところは反論しなければならないと思うので、しつこいですがこだわってみます。

 慰安婦問題をめぐる米下院の対日非難決議案は、「この『慰安婦』という日本政府により強制された軍の売春制度は、20世紀最大の人身売買事件のひとつ で、その残虐性と規模において前例がない」としています。しかし、この短い文章の中にも、いくつもの誤りがありますね。間違った前提の上に、間違った事実 認識と悪意を重ねてつくったかのような決議案といえます。

 米国と いう国は、自分達が常に正義であるかのように振舞いますが、実際にやっていることは違いますね。和平を求める日本の特使受け入れ要請を断った上で、落とす 必要のない原爆を実験目的で2発も投下し、何の罪もない非戦闘員を大量虐殺して、いまだに謝罪ひとつしたことのない国ですから…。

??10数年前の話ですが、硫黄島協会の設立者である故・和智元陸軍大佐の娘さんを取材した際に聞いたところによると、米兵は硫黄島や パラオなどの戦場から、日本兵の頭蓋骨を持ち帰って灰皿にしたり、遺体から歯を抜き取って記念のペンダントにしたりと、「野蛮」なことをいくらでもしてい たようです。和智氏のところに戦後何十年もたって「遺族に返還したい」と送ってきたそうでした。こうした問題について、日本人が優しいからあまり言わない だけだということを、彼らにもそろそろ気付いてもらいたいところですね(無理でしょうが)。

 話が脇にそれました。このブログでたびたび紹介している「史実を世界に発信する会」が、マイク・ホンダ下院議員に出した公開質問状に添えられた資料がよ くまとまっているので、そこから世界各国の慰安婦事情を記した部分を引用します。ホンダ議員がこれをきちんと読んでいるのかどうかは分かりませんが…・。

 《■世界各国に存在した「慰安所」「慰安婦」
 そもそも、第2次大戦が行われていた1940年代には、軍隊用の売春施設は特に珍しいものではなく、世界各国に存在していた。なぜなら、「戦場におけるセックス」の問題は、どの国の軍隊にとっても重要かつ解決困難な課題だったからである。

 (1)ソ連
 世界難民問題研究会協会のドイツ課長であるライヒリンク博士によれば、ソ連赤軍がベルリンまで侵攻してくる間に、190万人の女性が強姦されたという。そのうち140万人は旧ドイツ東 部領など、50万人は後のソ連占領地域において強姦されたとされる。ライヒリンク博士は、強姦の結果として生まれた子供の数をつかむことは不可能だとしつ つ、その数を29万2000人と推定している。数値の相当性の問題はおくとしても、こうした戦場の現実が「慰安所」の存在を要求するのである。

 (2)アメリカ
 アメリカ軍は1945年5月8日時点で、160万人の兵士がドイツに駐留していた。ハイデルベルクの米軍司令部は、45年3月から4月の間に裁判所で487件の強姦が扱われたとしている。1943年のシシリー島占領後、米軍はドイツイタリア軍が運営していた慰安所をシステムと人員ぐるみ引継ぎ、軍医とMPが規制した。
 アメリカ軍が日本に進駐したとき、最初の1か月、それも神奈川県下だけで2900件の強姦事件が発生した。7年の占領期間中には2536件の殺人と3万件の強姦事件を起こした。事態を憂慮したGHQは、ついに東京都に慰安所の設置を要求した。これはうわさや誇張ではなくれっきとした事実である。

 (3)フランス
 フランス軍 は45年4月21日にシュツッツガルトを占領した。福祉・保険関係の責任者になったガウブ教授はこう報告している。「女性住民はこの災難に十分な準備がな く、多くの場所で強姦事件が何百件となく起こった。60歳以上の女性も16歳以下の少女もこれを逃れることはできなかった」。

 (4)ドイツ
 ソ連に侵攻したドイツ軍は、ソ連ではスターリンが売春を禁じていたので、慰安所を新設せざるを得ず、慰安婦はしばしば強制徴用された。ドイツ本国への強制労働を拒否した若い女性は、代わりに慰安所で働かされた。ユダヤ人も同様であった。
 ノルウェー、デンマーク、ベルギー、オランダ、フランスではドイツ兵の子供が約20万人生まれたといわれる。

 (5)韓国
 ベトナム戦争に参加した韓国軍は、現地の慰安婦を米軍同様に利用し、ベトナム人との混血児がたくさん生まれている。そして韓国では、第2次大戦後も長期にわたり、米軍専用の売春施設が存在し、これを国家が管理していた。

 このように、戦場における性の問題は世界的な普遍現象である。日本軍は確かに慰安施設を戦地に誘致し利用していたが、これは専ら強姦事件の発生を最小限に抑えるための措置であった。

 日本の軍隊公娼システムにおいて、慰安所を運営したのは民間業者であり、軍の関与は生活物資の供給や衛生管理等にとどまる。こうした軍隊公娼システムは当時の世界各国に普通に存在していたものであり、日本だけがことさら非難をされる筋合いは全くない。》

 こうした事情をみるにつけ、どうして日本だけがこんなに批判されなければいけないのかと、改めて理不尽さに憤りを禁じえません。以前、ある元駐米大使に インタビューした際、彼は「歴史は勝者がつくるんだから仕方がない」と述べていましたが、戦争が終わって60年以上もたつのに、いつまで敗戦国民扱いに甘 んじていろというのでしょうか。

 現代史家の秦郁彦氏の著書「戦場と性」によると、旧日本軍の慰安婦は合計2万人から2万数千人で、日本人が4割、現地人3割、朝鮮人2割、その他1割と推定されるそうです。北朝鮮やホンダ氏が根拠なく主張している「20万人の朝鮮女性を強制連行」なんて、南京で30万人が虐殺されたという虚構と同じぐらいにありえない話ですね(そのでたらめな話が世界に流布されている点でも同じか)。

 日本だけでなく、世界中の戦後レジームをなんとかしてほしいと、大声をあげたくなる気持ちです。でも、国際社会は力がすべてですから、 非力な日本が何を言っても、なかなか通じないのでしょうね。諦めるつもりは毛頭ありませんが、歯がゆくて仕方がありません。
 


従軍慰安婦という名前の売春婦

 大金を稼ぐ”従軍慰安婦”(産経新聞コラム・産経抄)
 ▼紙数がないので一点だけ書くが、前に河野談話では「慰安所における生活は強制的な 状況の下での痛ましいものであった」ことを強調していた。では彼女たちはどんな状況の下で 暮らしていたのか。朝日新聞には、連合国軍がビルマの朝鮮人慰安婦に尋問した結果
(一九四四年)の報告がある▼それによると「一カ月三百−千五百円の稼ぎを得て、 五〇−六〇%は経営者の取り分だった」。そうだとすると彼女たちの月収は百五十円から 七百円ほどになっていた。昭和十九年ごろ、内地の日本人の月収はどれほどだったか
 ▼『値段の明治大正昭和風俗史』(週刊朝日編)によると、警察官の初任給が四十五円、 理髪料金が八十銭、銭湯が十二銭という物価である。大学の年間授業料は早大が 三百四十円、慶大が三百五十円、彼女たちはそれを一カ月ほどで稼ぎ出していた

「産経抄」 @
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2802/sankei/02.html
平成五年八月、宮沢内閣の終わりの日、官房長官の
河野さんが額に深くしわを刻んで語った 情景は、いまもありありと思い浮かべることができる。「慰安所における生活は、強制的な状況 の下での痛ましいものであった・・・」▼急いで取り寄せた慰安婦調査報告書には、強制連行を
明記した個所は一つもない。その後、当時の官房副長官石原信雄氏は、韓国側の要請で 行った聞き取り調査で「強制連行」という結論に導いたことを認めた。しかし、”河野談話”は ひとり歩きをはじめ、いまも慰安婦強制連行の虚説がまかり通っている

従軍慰安婦問題1   ■1.米軍がレポートする慰安婦の実態■
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog106.html
従軍慰安婦問題2   ■1.強制を示す文書はなかった■
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog107.html

 また、当時、韓国の外務省当局者がしきりに言っていたのは、強制性が認められないと、 韓国人従軍慰安婦たちはみずから進んで慰安婦になったということになる。これでは民族と しての体面、自尊心が許さない。何としても強制性だけは認めてもらわなくては困る。
植民地支配として戦争という状況下で、彼女たちに対して強制性がなかったということでは 韓国民は納得しないというものであった。

 河野洋平元官房長官の
慰安婦強制連行談話について、当時の官房副長官であった群馬県 出身の石原信雄氏が、ことし3月9日、産経に対する談話で、従軍慰安婦強制連行を日本 政府として初めて認めた河野談話は、政府調査から導き出されたものではなく、談話発表 直前に韓国で行った元慰安婦16名からの聞き取り調査に基づくものであったと語り、3、 本年3月11日に平林博内閣外政審議室長は、産経のインタビューに応じて、石原信雄 前官房副長官が日本側に慰安婦の強制連行の資料はなかったという、こういったことに ついて尋ねられて、平林室長は、そのとおりだと述べ、政府が強制連行を組織的に行った 公的記録は見つかっていないと述べ、・・・・・・・・

 孔韓国大使は、本当に強制性を認めることの重要性を指摘し、直接日本政府に要求した。
また、大使が記者会見で述べている点を、石原信雄氏は、慰安婦だった女性たちは自分の 意思に反して連行されたということを何らかの形で認めてくれれば女性たちの名誉が回復 されると、その点は非常に強く言っていたと思いますと言っております


 日本政府に聞き取り調査された韓国人元慰安婦16人の内、確か10人は強制連行を証言し、 日本政府はその証言の信憑性を認め、慰安婦強制連行承認の唯一の根拠とした。しかし、 彼女らは、それに先立ち、日本政府を相手取って、東京地裁に裁判を起こしていたが、その 訴状では強制連行とは異なり、聞き取り調査での証言は明らかに虚偽だった事実が後に 判明している。




「日本のためのとりなし」
http://www.sagamiono-ch.or.jp/intercessors/2001/2001.05/2001.05.pdf
 現地の新聞がすでに「吉田証言に該当する事実はない」と報道していたのです。
韓国政府も国際人権委員会も吉田証言を引用して報告書を書いていますが、それは日本の 朝日新聞が吉田証言をとりあげて、これを権威付けたからです。
 しかし、今日では、吉田証言は全くの嘘であることが証明されて、本人もフィクション であることを認めています。

 1991年から朝日新聞は従軍慰安婦強制連行に関する一大キャンペーンを開始しました。
始めの証言者となった金学順という朝鮮人慰安婦は日本軍に強制連行されたと報ぜられ ましたが、本人が日本に来て証言したところによれば、14歳の時、家が貧しかったので キーセンハウスに売られ、17歳になったとき、キーセンハウスの経営者である義父に日本軍 の慰安所につれて行かれたことが分かりました。しかし朝日新聞はこれについての訂正記事を出していません。また前出の吉田清治の嘘の証言も真実として報道しました。更に宮澤 首相訪韓の時に合わせて「挺身隊の名で連行された慰安婦の数は8万人とも20万人とも 言われる」という嘘の解説を載せました。その結果、1992年1月宮澤首相は韓国でこの件に ついて謝罪せざるを得ないようになりました。 

 1992年11月中央大学教授吉見義明編「従軍慰安婦資料集」が刊行されましたが、その中 に「強制連行」を示す資料は一つもありませんでした。その本の解説の中で吉見教授は
「一般には、強制連行というと人狩りの場合しか想定しない日本人が多いが、これは狭義の 強制連行であり、詐欺などを含む広義の強制連行の問題をも深刻に考えてしかるべきで あろう」と述べています。この人はこれまで「強制連行はあった」と論じてきたのに、色々調べ ていった末、それを裏付ける資料がないことが分かると論点をすり換えて「広義の強制連行」 を考えるべきだなどと言い始めました。また「政府が資料を隠しているのかもしれないから、 それが出てきたら事情が変わってくる」と暗示しているのも学者らしい狡さを見せつけられます。
 
 1997年1月3日の「朝まで生テレビ」に出演した吉見義明教授は、「植民地での奴隷狩り的 強制連行は確認されていない」ことと、および「挺身隊が慰安婦にさせられた例も確認されて いない」ことを認めました。これは日本政府の5年前に調査した公式発表と一致するものです。
 したがって、従軍慰安婦強制連行問題は、議論が出尽くして調査もしつくして決着している ものと言わねばなりません。

日本政府が聞き取り調査した16人の内、10人は「証言内容が支離滅裂で信用できない」。
そして、残り6人の強制連行被害証言には信憑性があるとして受け入れたのだったと思う。
しかし、その6人は、先立って東京地裁に提訴していたが、その訴状の内容は、強制連行と 明確に異なるものだった。つまり、騙されたわけだ。



藤岡信勝氏(東大教授)は産経新聞八月八日付の「正論」欄でこう述べている。
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/1998/9810/oshima.html
そもそも、慰安婦問題の発端から今日に至るまで、その主役は一貫して朝日新聞であった。
慰安婦問題のすべての出発点は、被害者の訴えでもなければ韓国政府の要求でもなく、 吉田清治という詐話師の書いた『私の戦争犯罪――朝鮮人強制連行』(一九八三年、 三一書房刊)という偽書である。昭和十八年に韓国の済州島で慰安婦の奴隷狩りをしたと いう著者の「証言」を、朝日は何の検証もせず論説委員が手放しでほめそやした。それが まったくのつくり話であったことが暴露されてからも朝日は、この大誤報についてただの一行 の訂正記事も読者への謝罪も行っていない。朝日はいつまで、こうした醜悪・卑劣な 「朝日新聞の正義」を貫くつもりなのか。

「読売新聞社説」
 いわゆる「従軍慰安婦」に関して読売新聞が8月4日、8月11日の両日社説を掲載し ました。8月4日は「『慰安婦』問題をもてあそぶな」と題するもので、中川農林水産 大臣の記者会見に関するものです。ここでは名前は挙げていませんが「わざわざ韓国の 反発をそそのかしている報道がある」「歴史を捏造していた一部マスコミが、捏造への 反省も訂正もないまま、重ねて問題発言だと騒いだからだ」と、この問題に対して態度 を明確に表明すると共に、一部のマスコミ(朝日新聞のことだと思います)を批判しま した。8月11日は「国連の権威損なう『慰安婦』報告」と題し「96年の一次報告は、 詐話師とさえ評されるある日本人が創作した“慰安婦狩り物語”をそのまま引用するなど、 きわめて粗雑なものだった」、「詐話師の偽書を称揚したり、勤労動員だった女子挺身隊 を“慰安婦狩り”だったと歴史を偽造するような一部マスコミや市民グループ等が、 国際社会に対して、偽情報を振りまいてきた」、「加えて浅薄な外交的思惑から、裏付け もないまま、慰安婦の『強制連行》認めたかのような93年の河野官房長官談話があった」 と「慰安婦強制連行説」を捏造した者と、それを追認した「河野談話」を厳しく批判して います。私が知る限り主要新聞でこの点を明確にして論じていたのは産経新聞のみだと 思っていました。今回読売新聞がほぼ同一の主張をしたことは「従軍慰安婦」の問題の
虚構性が広く認識されるようになった証拠だと思います。朝日新聞の記者の中川農林 水産大臣に対する引っかけ質問も自らの主張が破綻しつつある中でのなりふり構わぬ、 手段を選ばぬ逆襲だと思います。
http://www.kcn.ne.jp/~ca001/D5.htm


「3月2日付・読売社説(1) 」
そもそも、検定に提出される白表紙本は不公表のはずである。それが、中国、韓国に流出 して批判の対象となっていること自体が、おかしな現象である。
 これは、外国に迎合して“ご注進”することにより、外圧を利用する形で日本国内の世論 を操作しようとする一部マスコミが常用する手法の結果だろう。
 過去、何度となく、同じような現象があった。
 例えば、いわゆる従軍慰安婦問題。これは、そうした特定マスコミが、戦時の勤労動員 だった女子挺身(ていしん)隊(たい)を、強制的な“慰安婦狩り”制度だったと歴史を 捏造(ねつぞう)した結果、一時、日韓関係を極度に悪化させた。
 歴史を捏造してまで、日本を比類のない悪の権化に貶(おとし)めようなどというのは、 「自虐史観」の極みである。
http://isweb27.infoseek.co.jp/diary/kazuwo99/news/news3.shtml



1)※半島の日本統治時代における日本人について
 政治的な問題は別にして、私は当時の日本人との個人関係がどれだけ
大事なものとしてあったかを思うんです。妻の実家は咸興ではかなりの
金持ちの家でした。家をたくさん持っていましたので、日本人に貸して
いました。当時は朝鮮人より日本人のほうが高く貸せるからでした。多くの 日本人は、そんなふうに割高を承知で朝鮮人からちゃんと家を借りて住まっていたんです。日本人が勝手に韓国人の家を奪い取るなど、そんなことはなかったです。


2)※半島の日本統治時代における日本人について

−従軍慰安婦問題で言われているように、日本人が強制的に連れて行くようなことはほんとうにあったんですか。

 慰安婦問題の根本的な問題は、強制的に募集して連れて行った のにもかかわらず、今の日本では認めようとしないことです。ある 日本の大臣は「お金を払ったから売春婦であって、強制的に連れて 行ったのとは違う」という妄言を発してさえいます。
何千人の若い娘たちを、トラックに載せて連れて行ったことは疑いのない事実なのに、強制ではないというのはとんでもない発言です。
国家間の代表たちは、会えばさしさわりのない合議をしておいて、そのよそではまったく違う妄言をするんですよ。

−実際にトラックに乗せて連れて行くような場面をご覧になったことはありますか。

いえ、私は見ていません。

−その当時、そういうふうにして連れて行ったという話を聞いたことが ありますか。

その当時には聞いていませんでした。

−それならば、なぜ今になってそういう強制的な連行をしたと言われるんでしょうか。

 そうしたことがだんだんわかってきたからです。そういう話は最近、 あちこちで言われているんです。

3)※半島の日本統治時代における日本人について

 従軍慰安婦という言葉は最近になって出てきたものです。慰安婦がいたことは事実ですが、強制的に戦地へ連れて行くことなどは絶対にあり得ません。朝鮮も 同じ国内でしたから、法治国家として司法の三審制度もあり、無法地帯ではありませんでした。もちろん、警察権力もしっかりしていました。そういう法治主義 システムの網をかいくぐって、婦女子を強制的に連れて行くことなど、当時の朝鮮ではとうていできることではありませんでした。

4)※半島の日本統治時代における日本人について

 学校の先生はだいたいが日本人でした。日本人の先生たちはみんな、 非常にいい人たちでした。(中略)
ただ日本の教育での問題は、西洋的な教育ではなく、日本的な教育を行ったことのなかにありました。たとえば「神功皇后の三韓征伐」などの話が出てくるときには、非常に気をつけなければなりませんでした。それに 対して批判をしようものなら、大変なことになるからです。彼らは西洋の デモクラシーを十分身に付けてはいませんでしたから、そういう批判は
できません。

              「生活者の日本統治時代」 呉善花

当時の半島生活者の言葉から一部抜粋。
1、2、4は韓国人、3は日本人。


韓国軍慰安婦(ベトナム戦争時に韓国軍は従軍慰安婦をつれていた)

韓国軍にも慰安婦制度

朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度 韓国の研究者発表 2002/02/24

 朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度があったことが23日、立命館大学(京都市北区) で開かれている「東アジアの平和と人権」国際シンポジウム日本大会(朝日新聞社後援) で明らかにされた。韓国軍慰安婦について日本で公になったのは初めて。


発表した韓国・ 慶南大客員教授の金貴玉(キム・ギオク)さん(40)=社会学=は「日本軍の慰安婦 制度をまねたものではないか」とみている。
 金さんは96年、離散家族のインタビューの中で、「50年10月、韓国軍の捕虜に なり、軍慰安隊の女性と出会った」という男性の証言を得た。以後5年間インタビューを 重ね、「直接慰安所を利用した」「軍に拉致されて慰安婦にされかかった」という男女8 人の証言を聞いた。
 さらに金さんは、韓国の陸軍本部が56年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』 に「固定式慰安所−特殊慰安隊」の記述を見つけた。設置目的として「異性に対するあこ がれから引き起こされる生理作用による性格の変化等により、抑うつ症及びその他支障を 来す事を予防するため」とあり、4カ所、89人の慰安婦が52年だけで20万4560回の慰安を行った、と記す特殊慰安隊実績統計表が付されている。

 証言と併せ、軍隊が直接経営していた慰安所があった、と金さんは結論づけた。
 軍関係者の証言の中には、軍の補給品は第1から第4までしかないのに、「第5種補給 品」の受領指令があり、一個中隊に「昼間8時間の制限で6人の慰安婦があてがわれた」 とする内容のものもある。
 どんな人が慰安婦になったかは明らかではないが、朝鮮戦争時に娼婦(しょうふ)が急 増し、30万人にも及んだことから、金さんは「戦時の強姦(ごうかん)や夫の戦死がき っかけで慰安婦になった民間人も少なくない」と見ている。
 金さんは「設置主体だった陸軍の幹部の多くは日本軍の経験者だった。韓国軍の慰安婦 が名乗り出るためには、日本軍慰安婦問題の解決が欠かせない。韓国政府と、当時軍統帥 権を握っていた米国の責任も追及したい」と話している。
    ◇
 大阪外国語大学の藤目ゆき助教授(歴史学)の話 非常に重要な報告だ。軍慰安婦につ いては、韓国でもほとんど知られておらず、発見といっていい。韓国にいて韓国軍の暗部 を問うのは難しい。同胞の女性を性奴隷化した自国社会を直接問うことになるからだ。
アジア女性史研究の上でも、軍慰安婦と現在の軍事基地周辺での性暴力がどのようにつな がっているのかを知る助けになる。
(朝日新聞)

 

河野洋平談話

 

河野洋平

平成15年11月22日土曜日晴れ ×(平成17年6月10日一部追加訂正)
 現在は衆議院議長の役職にある
河野洋平は、平成5年8月に官房長官を務めていた時に、所謂従軍慰安婦の強制性を認めた上、謝罪を含む「いわゆる河野談話」を発表しました。

河野洋平談話(抜粋

平成5年8月4日

 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により 設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請 を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これ に加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを 問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げ る。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考え る。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。




 この事により、支那、南北朝鮮、腐れ偏向マスコミは客観的証拠のない従軍慰安婦強制連行という事について既成事実化をはかっています。

 しかし、平成9年3月12日の参議院予算委員会で、平林内閣外政審議室長は「政府の発見した資料の中には、強制連行を直接示す記述は見当らなかつた」と答弁しています。

また当時副官房長官であった、石原信雄氏は産経新聞のインタビューにてこの河野の談話について下記のように答えています。(97年3月9日産経新聞)
河野氏は調査の結果、強制連行の事実があったと述べているがーー
「随分探したが、日本側のデーターには強制連行を裏付けるものはない。慰安婦募集の文書や担当者の証言にも、強制にあたるものはなかった」

一部には、政府がまだ資料を隠しているのではという疑問もあるーーー
「私は当時、各省庁に資料提供を求め、(警察関係、米国立公文書館など)どこにでもいって(証拠を)探してこいと指示していた。薬害エイズ問題で厚生省が 資料を隠していたから慰安婦問題でも、というのはとんでもない話。あるものすべてを出し、確認した。政府の名誉のために言っておきたい」

ではなぜ強制性を認めたのかーーーー
「日本側としては、できれば文書とか日本側の証言者が欲しかったが、見つ からない。加藤官房長官の談話には強制性の認定が入っていなかったが、韓国側はそれで納得せず、元慰安婦の名誉のため、強制性を認めるよう要請していた。 そして、その証拠として元慰安婦の証言を聞くように求めてきたので、韓国で十六人に聞き取り調査をしたところ、『明らかに本人の意志に反して連れていかれ た例があるのは否定できない』と担当官から報告を受けた。十六人中、何人がそうかは言えないが、官憲の立ち会いの下、連れ去られたという例もあった。談話 の文言は、河野官房長官、谷野作太郎外政審議室長、田中耕太郎外政審議官(いずれも当時)らと相談して決めた」

聞き取り調査の内容は公表されていないが、証言の信憑性はーーー
「当時、外政審議室には毎日のように、元慰安婦や支援者らが押しかけ、泣 きさけぶようなありさまだった。冷静に真実を確認できるか心配だったが、在韓日本大使館と韓国側と話し合い、韓国側が冷静な対応の責任を持つというので、 担当官を派遣した。時間をかけて面接しており当事者の供述には強制性に当たるものがあると認識している。調査内容は公表しないことを前提にヒアリングして おり公表はできない」

韓国側の要請は強かったのかーーーー
「元慰安婦の名誉回復に相当、こだわっているのが外務省や在韓大使館を通 じて分かっていた。ただ、彼女たちの話の内容はあらかじめ、多少は聞いていた。行って確認したと言うこと。元慰安婦へのヒアリングを行うかどうか、意見調 整に時間がかかったが、やはり(担当官を)韓国へ行かせると決断した。行くと決めた時点で、(強制性を認めるという)結論は、ある程度想定されていた」

それが河野談話の裏付けとなったのかーーーー
「日本側には証拠はないが、韓国の当事者はあると証言する。河野談話には 『(慰安婦の募集、移送、管理などが)総じて本人たちの意志に反して行われた』とあるのは、両方の話を総体としてみれば、という意味。全体の状況から判断 して、強制に当たるものはあると謝罪した。強制性を認めれば、問題は収まるという判断があった。これは在韓大使館などの意見を聞き、宮沢喜一首相の了解も 得てのことだ」

談話の中身を事前に韓国に通告したのかーーー
「談話そのものではないが、趣旨は発表直前に通告した。草案段階でも、外政審議室は強制性を認めるなどの焦点については、在日韓国大使館と連絡を取り合って作っていたと思う。」

韓国側が国家補償は要求しない代わり、日本は強制性を認めるとの取引があったとの見方もあるーーー
「それはない。当時、両国間で(慰安婦問題に関連して)お金の問題はなかった。今の時点で議論すれば、日本政府の立場は戦後補償は済んでいるとなる」

元慰安婦の証言だけでは不十分なのではーーー
「証言だけで(強制性を認めるという)結論に持っていったことへの議論があることは知っているし批判は覚悟している。決断したのだから、弁解はしない」

 つまり、当時の官房副長官だつた石原信雄氏は、"慰安婦"を認めた背景に、元慰安婦とその支援者(NGOなど)や韓国側から強い圧力があつたと述べ、強制性の認定について「日韓両国間での妥協の産物」と明言し、暗にその圧力に屈したことを認めているのです。

それに対して、河野洋平は、平成11年10月5日の外相就任会見において「物理的証拠や、本人の他の人にはわかり得ない話などを踏まえて発表した。確信を持っている」(10月6日付 産経新聞朝刊)

 ところがこのバカはそれでいて、その前の朝日新聞の取材に対して
「『政府が法律的な手続きを踏み、暴力的に助成を駆り出した』と書かれた文書があったかといえば、そういうことを示す文書はなかった。けれども、本人の意思に反して集められたことを強制性と定義すれば、強制性のケースが数多くあったことは明らかだ」
(1997年3月31日朝日新聞)
これは、証拠は無いが、自分の思い込みだけで談話を出したという事をいっているのです。売国奴の真骨頂でしょう。


 以上より物理的証拠という物も何も示さず、本人のいった事をそのまま認めているだけという、客観的に物事を判断したのではないという事を自分で認めてい るのです。河野はあきれたバカとしか言い様がありません。自虐趣味の連中に多いタイプですけど、一国の外相(こいつは害相)としては最低です。
また、このひとは平成13年10月4日に、「自分が全責任を取る」と述べて、北朝鮮に50万トンの米支援を決定しました。
 この50万トンという量は、国連の世界食糧計画が要請した19万5000トンの要請を遙かに上回る援助で、金額にして1200億円もの金を犯罪国家にただでくれてやったのです。
 この大盤振る舞いは日本人拉致など問題解決には何の役にも立ちませんでした。結果はタダ取りされただけで、何もなりませんでした。

 1995年にバンコクで行われた東南アジア諸国連合外相会議に出席の途上、台風の影響で乗っていた飛行機が台湾に 緊急着陸した際には、その搭乗機から一歩も降りず、緊急着陸で世話になった台湾当局には給油の謝辞さへも伝えずにそのまま離陸し、そして、バンコクでは銭 其環中国外相に対して「台北空港で私は一歩も外に出ませんでした」(または「私は台湾の土を踏みませんでした」)と書いてあるのもありますが、どちらにし ても中国様に対してはシッポふり振りの忠犬ぶりです。

こういった売国奴といわれる政治家(まあ、この河野洋平の場合は単なるアホウかもしれません)がごろごろしているようです。


反日の連鎖
平成17年6月10日金曜日雨 
 あの竹島を南朝鮮にゆずれとコラムで書いた朝日新聞のスター若宮啓文氏が、五月三十日のそのコラム「風考計」で、 「中国で考えたこと 外交に礼儀と謙譲の心を」と題して
  「中国のトップはデモの行き過ぎをわびて礼儀をつくし、小泉首相は謙譲の精神で靖国参拝をとりやめる。これは、そんなに難しいことなのだろうか」と 書き、これまた売国奴である河野洋平が、翌日の五月三十一日には中曽根康弘、細川護煕、羽田孜に電話で個別に対談し、六月一日には都内の議長公邸に森喜 朗、海部俊樹、宮沢喜一、村山富市、橋本龍太郎の首相経験者五人(なんと醜いメンバーでしょう)を集めて小泉首相の靖国参拝自重を申し合わせました。
そして、朝日新聞は六月三日付の社説「靖国参拝 重鎮たちからの忠告 」としてすかさず河野たち売国奴を応援!
以下引用
 そんななかで、河野氏らが首相に異議を唱えたことの意味は大きい。この十数年の日本の政治と外交の責任を担ってきた人びとである。

 旧社会党の村山氏は戦後50年の節目で植民地支配と侵略にけじめをつけようと、反省とおわびの「談話」を出した。かつて日本遺族会の会長でもあった橋本氏は、一度は靖国神社を参拝しながら中国などの反発で中止した過去を持つ。森氏は小泉首相の後見人を自任する。
 それぞれの信条は別にして、日本の国益が損なわれているという共通の思いが6人を突き動かしたに違いない。
 河野氏の集まりには加わらなかった中曽根元首相も、講演で「個人的信条より 国家利益を考えてやめるべきだ」と首相に参拝中止を求めた。
 中曽根氏はこうも言った。「やめる方が勇気を要するが、勇気のあることをするのが政治家だ」
 首相は「適切に判断する」と繰り返すばかりではなく、重鎮たちの忠告を重く受け止める必要がある。
引用終わり
そして、これまた、支那国家副主席がすぐに「いかなる理由でも参拝は容認できず」といっています。
以下引用
 中 国の曽慶紅国家副主席は3日、日中協会会長を務める自民党の野田毅元自治相と北京の人民大会堂で会談し、小泉純一郎首相の靖国神社参拝について「日本の指 導者は口ではいろいろ言っているが、行動で示していない」と述べ、いかなる理由であれ、容認できないとの立場を明確にした。
(毎日新聞) - 6月4日1時26分更新

 でっ、またまた朝日新聞が五日の社説で「靖国参拝 遺族におこたえしたい」として、 「靖国神社に参拝する遺族や国民の、肉親や友人らを悼む思いは自然な感情だろう」としながらも「 上官の命令に従わざるを得なかった兵士らと、戦争を計画し、決断した軍幹部や政治家の責任とは区別する必要がある」といい、支那に対しては「中国が問題にしているのは一般兵士の追悼ではなく、戦争指導者の追悼である。A級戦犯が合祀された靖国神社を、日本国を代表する首相が参拝するのが許せないというのだ」とし、
続いて、「 侵略された被害国からのこの批判を、単純に「反日」と片づけるわけにはいかないと思う」として お得意の説を唱えています。
そして、河野洋平は森とともに七日に小泉純首相に「慎重の上にも慎重に判断すべきだ」と申し入れています。
 すかさず、支那八日付けの新聞各紙が、河野の行動を誉めています。
 同じく、売国奴の橋本龍太郎が八日、支那人民解放軍幹部や政府高官との会談のため北京入りし、同じ日に日中協会会長の自民党の野田毅元自治相は、小泉首 相に靖国神社参拝について「中国から言われて参拝をやめるのではなく、国益を考えて大局的な判断をすれば、事態は改善する」と中止を求めたたそうです。
(共同通信) - 6月8日
 
 その国内の反日日本人を支那メディアが、A級戦犯14人の「罪歴」を詳解する記事を、改めて連載し応援しています。
(サーチナ・中国情報局) - 6月8日16時19分更新

 売国奴の河野を安倍晋三幹事長代理が8日の記者会見で、「河野議長は元外相だが、現在は議長という三権の長の立場。外交権は行政府の長が有するということだから、もう少し慎重に考えていただきたい」と批判しました。
(毎日新聞) - 6月8日19時33分更新
 すかさず、これまた自民党の森前首相が9日に、安倍幹事長代理に「堂々といろいろな議論をしてもいいが、先輩を非難することはできるだけ避けるべきだ」と述べ、同席していた安倍氏に文句を言っています。
(毎日新聞) - 6月10日0時47分更新

そして、これまた売国奴の加藤紘一が、北京に20日からいって、靖国神社参拝問題などについて意見交換する。というニュースもありました。
(毎日新聞) - 6月9日18時48分更新

 次から次へと繰り出される、すばらしい反日ネットワークです。

 

吉田清二

吉田清治


吉田清治 
本名 吉田雄兎 戦後、下関市の市会議員に共産党から立候補しているぐらいですから、共産党と密接な関係にある。
 吉田清治の著書「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」(三一書房 1983)によると、斉州島での、「慰安婦強制連行」は一週間にわたり、10人の武装した 兵隊と憲兵に護衛された徴発隊によりおこなった。その徴発隊は島を縦横にかけめぐり、泣叫ぶ若い朝鮮人女性を狩りたて、片はしからトラックに積み込みこん だ。役得としてトラック上で強姦する兵もいたと書いています。
 場所は、帽子工場の女工から八人、貝ボタン工場で十六人、乾魚工場から二十七人、ソーセージ製造所から五十人、西帰浦の海女を五十人など合計二百五人を連行するなどナマナマしい情景が活写されている。
城山浦の貝ボタン工場での連行の様子を下記に引用します。

 女工たちは竹かごの中から貝殻を、手早く鉄わくの中へ入れ、足踏み機械を操作すると、一銭銅貨より小さなボタンを同時に十個ばかり作っていた・・・・隊員たちがすばやく工場内の二か所の出入り口を固め、木剣の先を突きつけて、女工たちを起立させた。
「体格の大きな娘でないと、勤まらんぞ」と山田が大声で言うと、隊員たちは笑い声をあげて、端の女工から順番に、顔とからだつきを見つめて、慰安婦向きの娘を選びだした。
 若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がおびえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は・・・・台をまわって行って娘の腕をつかんで引 きずりだした・・・・女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たちは若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打 ちすえていた。・・・・女工の中から慰安婦に徴用した娘は十六人であった。

 秦氏は吉田が「昭和十八・十九の二年間で千人以上」(赤旗1992年1月26日)「吉田さんらが連行した女性は少なくみても九百五十人」(朝日新聞 1992年1月23日夕刊)この非人道的行為による強制連行がおこなわれたのかどうか疑問に思い、1992年3月29日より済州島に渡り実地検証をしてい ます。
 当時、78歳の吉田に秦氏は連絡をとり「裏付けをとりたいので済州島の慰安婦狩に同行した部下の誰かを紹介して欲しい」と頼みましたが「本を書く時に二、三人に会って記憶を整理した」ことは認めたが「あちこちから聞かれるが、絶対に教えられない」と拒絶したそうです。

 そのために秦氏は日付と場所が特定されている済州島の城山浦にいき実地検証をおこなっています。
 
 吉田の著書が1989年に翻訳されて南朝鮮(韓国)で出版された時に、その記述内容に疑問をもった済州新聞の許栄善記者が現地で調査し、1989年8月14日付で同紙に著名入りの記事として下記のような内容の記事を書いています。
済州新聞の許栄善記者による1989年8月14日の記事
 解放四十四周年を迎え日帝時代に済州島の女性を慰安婦として二〇五名を徴用していたとの記録が刊行され大きな衝撃をあたえている。しかし裏付けの証言がなく波紋を投げている。
 (吉田著の概要を紹介)
しかし、この本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で十五〜十六人を強制徴発したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を裏ずづけ証言する人はほとんどいない。
島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信想性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オクタン(八五歳の女性)は「二五〇余の家しかないこの村で、15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語った。
以上

 郷土史家の金奉玉氏は「一九八三年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨している。

 これだけで、吉田の著書の内容について全面否定に近いが、現地調査を行った秦郁彦日大教授も、海女の研究家でもある康大元氏(慶応大学出身)の通訳によ り城山浦の老人クラブげ、四、五ケ所あった貝ボタン工場の元組合員など五人の老人と話し合って、吉田証言が虚構らしいことを確認した。
「何が目的でこんな作り話を書くのでしょうか」と、今は『済民新聞』の文化部長に移っている許栄善女史から聞かれ、私も答えに窮したが、「有名な南京虐殺 事件でも、この種の詐欺師が何人か現れました。彼らは土下座してザンゲするくせがあります」と答えるのが精一杯だったと秦氏は著書「昭和史の謎を追う  下」書いています。[p498]

 同じ著書で秦氏は続けて、下記のように記している。
 くだんの吉田も何回か韓国へ謝罪の旅に出かけ、土下座したり慰安婦の碑を建てたり、国連の人権委員会に働きかけたりしているようである。しかし彼の申し立てには、本名や経歴をふくめ、他にも不審な点が多い。たとえば
 1)慰安婦狩の命令は西部軍→山口県知事→下関警察署長→吉田のラインで来たとしているが、関係者はこのような命令系統はありえないと否定する。依頼だ としても、済州島をふくむ朝鮮半島は朝鮮総督府と朝鮮軍の管轄管理下にあり、内地から出張しての狩りこみはありえず、もし必要があれば総督府が自身の手で 集めるはずと述べている。

 2)第一作である『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社 1977)には、四四年四月労報が初めて慰安婦狩りを手がけたと記述し、第二作(1983)の済州島行き(四三年五月)と矛盾する

3)第一作に四四年二月結婚とあるが、第二作には済州島行き計画は、死んだ「家内の日記」に書いてあったと記述している。
 
 以上の事について私なりに説明を加えさせていただくと、吉田は第二作には一九四三年五月十五日に発令された軍の命令書の内容について、吉田の妻が当時 (一九四三年五月十五日)の日記に内容を書き残したと書いているが、第一作では吉田氏は一九四四年四月三日付けの動員命令書により女子挺身隊として慰安婦 を徴用したのが最初であり、結婚はその二か月前、つまり一九四四年二月になっている。御丁寧にその動員命令書も著書に書かれている。第一作である著書『朝 鮮人 慰安婦と日本人』に「私が朝鮮人の娘や女房に徴用をかけて軍の慰安所へ送る仕事がいやだったのは、朝鮮人の女がかわいそうだと思ったからではなく、 この徴用が売春にかかわる仕事だったからだ。私は二月上旬に結婚して、まだ二か月しかたってなかったので、売春婦を不潔に思い、嫌悪感をもっていた」と書 いています。p155〜156
氏は新婚だから、売春婦を不潔に思った。それだけでなく、慰安婦=売春婦だから、それを集めるのはいやだと言っているわけです。

 秦氏は
 もちろん済州島での事件が無根だとしても、吉田式の慰安婦狩がなかった証明にはならないが、今のところ訴訟の原告をふくめ100人を超える被害者側から該当する申告がないのも事実であると書いています。(同書 p499)

 以上は秦氏の著書のうち手許にある「昭和史の謎を追う・下」文春文庫より引用しそれに加筆させていただきました。(なるべく引用箇所とページは明記させていただきましたが、わかり辛いところ、間違いなどは御指摘いただけますとありがたく存じます)


 以下、その他の矛盾点を引用させていただく。
以下引用
 十五、朝鮮女子挺身隊
昭和19年
私は「朝鮮人女子挺身隊」の動員命令書を県庁の労政課で中村主事から手渡された。
略)
「慰安婦ですね。軍はどうして商売女をつかわんのですか」
「あんたはその方面にうといが、このごろのの遊廓は年増の女郎しか残ってないですよ。若い子はみんな産業戦士になって、赤たすきかけて軍需工場で働いてる んだから。朝鮮総督府の女子挺身隊は、大陸で兵隊さんに評判がいいそうですよ。若くて日本語がうまいから、クーニャンとかちがって、情がわくんでしょう な」
「労務報国会に、慰安婦の動員までやらせるようになったんですか」
「動員署は去年から、日本人の慰安婦の徴用をやっていますよ。実は課長が県内の事情を話して、こんどは朝鮮人を出すことで話がつきました。それで課長がこの動員は下関労報にと言いましてね」 p150〜151

動員命令書 (注 原文は縦書き)
(県労政発第○号)
 動員命令書
陸軍○○部隊の要請に基づき左記の通り労務動員を命ず
昭和十九年四月三日
   山口県知事 ×××× 印
山口県労務報国会下関支部長 ×××××殿
 記
一、皇軍慰問・朝鮮人女子挺身隊百名
一、年齢十八歳以上三五歳未満(既婚者にても可、ただし妊婦を除く)
一、身体強健(医師の身体検査及び花柳病検診を受け、診断書を要す)
一、給与 一個月金三十円也
     支度金として前渡金二十円也
     宿舎・食糧・衣服等を現物支給す
一、派遣期日 昭和十九年四月十日午後一時
一、集合場所 下関市細江町下関税関庁舎前
一、輸送指揮 陸軍○○部隊依託長谷川勇殿 p151〜152

 男の「朝鮮人狩り」ばかりやらされている動員係の連中は、女の朝鮮人狩りははじめてだったので、おもしろがってよくしゃべった。p154

第二作の引用部分でも出てきた「山田」と称する部下に対して、
 「短気をおこして狩り出しはやるなよ。志願した女も恐れてやめたりしてめんどうになる」
「だいじょうぶです。今日は大きな声はださないようにしています」 p160
 と、著書では済州島での慰安婦狩りより一年も経っているはずなのに下関での慰安婦の徴用は「狩り出しはやるな」と命令しています。
同じ吉田氏の著書「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」に書かれてている朝鮮人慰安婦の斉州島での、いわゆる「慰安婦強制連行」とは大きく違う。
ましてや、一年も前に斉州島で「慰安婦強制連行」をやったと書いているのである。

 これも、多くの方々が指摘されているように、女子挺身隊とは女学生の勤労動員のことであり、女子挺身隊と慰安婦は別のものです。それを、吉田は女子挺身隊という動員命令書により慰安婦を集めたと書いている。吉田のデタラメさを表す事例のひとつです。

ところで、
 吉田清治氏は著書の中で、実在の酒の名前を出しています。
「部長(吉田氏のこと)、関娘がはいりました。いい酒です。味見してみませんか」『朝鮮人 慰安婦と日本人』P79
関娘は
http://www.sekimusume.co.jp/top.htm下関のお酒らしいのですが、こんな売国奴に名前を出されてえらい迷惑なことでしょう。

 秦氏だけではなく、板倉由明氏(『諸君』1992年7月号)、上杉千年氏(『諸君』1992年8月号)、中川八洋氏(『歴史を捏造する韓国』)などによ り指摘されている吉田清治氏の著書の悪らつなところは、慰安婦関係だけではない。第一作では慰安婦よりも現地徴用と題した内容はありもしない強制連行のウ ソを書き連ねていることです。
 わざわざ、山口県から朝鮮に渡って「朝鮮人狩り」と称した「強制連行」をやるについては下記のように書いています。
労政課長による緊急動員計画の説明
「このたび呉鎮守府における、中国五県の労政課長会議の席上、半島労務者移入の件が決定された。これはブーゲンビル島海軍施設工事に、海軍作業愛国団とし て派遣されるものだ。山口県の割り当ては、土工八百人と大工・左官各五十人で、土工八百人は慶尚北道の半島労務者を移入することになった。その徴用業務は 山口県労務報国会の各支部に依託する。現地では鎮海要港の武官府の指示に従って、直接労務動員をおこなうことになる」
略)
「現地での朝鮮人狩りは総督府の労務協会がやってくれるのでしょう」
「このごろは内地各県からの申請が多くて、労務協会の斡旋だと三か月以上待たされるそうです。このたびは緊急を要するので、ご苦労だが現地をまわって直接狩り出すことになります」
(p111)

 昭和18年9月21日に下関より興安丸に乗り朝鮮の釜山港に着いた吉田達は福岡出身だという海軍少尉より「海軍軍属募集要項」を手渡されています。
その後、大邸にある海軍武官事務室にて白川兵曹長という名前をだして、その人より徴用についての指示を受けています。
徴用者の輸送には大邸警察署の護送車を海軍が借りたと書いています。p119
そして、奴隷狩り同然の徴用の様子は下記のように書いています。
 小川の木橋を渡って進むと大きな河があった。河ぶちの道路を走っていたら、広い河原に十人ばかりの男が見えた。流れに石を積み丸太を運んで河の堰の工事をやっていた。
略)
山田が先にとびだして男の頭に木剣を打ちこんだ。続けて胴を打った。男は麦わら帽子をとばして頭をかかえ、からだを曲げて低くうなった。山田は木剣の先を 男の腰に当て、ほろの下まで押して行き尻を一撃した。ほろの中の者が泣きわめく男を急いで引っぱりあげた。(p131〜132)

「大昌面の徴用は二十五名でしたが、帰りに琴湖江で一名拾いました。この非常時に朝鮮人のくせにのんびり魚釣りなんかしていたんで引っぱってきました。合計二十六名です」
 護送車から降ろされた徴用者の中にシャツの胸を血だらけにしたのがいた。額を大きくはれあがって紫色になり血がにじんでいた。
「あの野郎逃げようとしたんですよ。もうすこしで河へとびこまれるところでした」と小野田労報の職員がいった。(p138)

宇部労報の職員二人が若い男を狩りだしてきた。シャツとズボンが泥によごれて、顔がはれて鼻血をたらし、足を引きずっていた。だいぶ痛めつけたらしい「田の中を逃げまわって、しぶといやつでした」
略)
尻をけって護送車に追いたてた。(p142)

着のみ着のままで狩りだされた現地徴用の九十四人には灰色の海軍作業着に作業帽、地下たびが支給された。
略)
園田中尉が労報職員の前へ来て、謝辞を述べた。
「皆さんご苦労さまでした。さすが徴用の専門家だけあって、短期間にこのような優秀な労務者を集めてくれてありがとう。山口県ですみやかに作業愛国団を編 成して、期日までに呉鎮守府に派遣されるようお願いいたします。輸送中は脱走者をださないように、じゅうぶん警戒してください」(p146)

百九十八人の朝鮮人は九月二十八日午後「南大平洋方面海軍作業愛国団」として呉鎮守府に入団した。
十二月八日の開戦記念日に、山口県庁で日雇労務者動員会議が開かれ、労政課長から山口県派遣の海軍作業愛国団は、某島において将兵と供に全員玉砕せるもの と認定され、県内出身の大工・左官百人の日本人軍属に対しては、海軍省より遺族に一時金が支給されることになった」と発表された。(p149)

 以上のように、醜い奴隷がリのような強制連行があったかのごとく吉田は書くが、このような強制連行があろうはずはない事は多くの方々が指摘されているとおりです。

 この詐欺師について多くの方が糾弾してすでに1992年には決着がついています。
板倉由明氏(『諸君』1992年7月号)によると、吉田が昭和十五年(1940年)より中華航空株式会社に入社し、上海支社の営業所主任として勤務中にフ ランス領事館より頼まれた中国人が朝鮮人テロリストの「金九」として上海から広東行きの臨時便中島式AT機に同年に乗せたとするのはウソで、金九は昭和十 三年(1938年)十月に上海から重慶に潜入しています。
吉田はこのことにより、憲兵隊に捕まり、軍法会議にかけられ、法務官は少佐と二人の大尉で、その少佐から「懲役二年」を宣告され、南京の桜井部隊本部の軍刑務所に送られ、昭和十七年六月二十日に出所したことになっています。(P69〜70)
出所後は、同郷の先輩の世話とやらで、山口県労務報国会下関支部の動員部長として就職しています。(P71)

 ところが、中川八洋氏はその著書『歴史を捏造する韓国』にて下記のように指摘しています。
 二年間刑務所にいた前科者が、直ちに内務省系の動員部長に任用されることは万が一にもありえないと指摘し、中華航空の社員である民間人の吉田が軍人のみ を裁判する軍法会議の対象にはなりえないし、共産主義などの思想犯を取り締まる治安維持法の法律違反者は地方裁判所で裁かれる。(P229)

 また中川氏は吉田が著書「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」で昭和十八年五月頃の済州島では「決戦下のこのごろは−−−−事実上の軍政を敷いていた」(吉 田の著書のP103)と書いているが敗戦にいたるまで、我が国は軍政を朝鮮だけではなく、日本本土にもしいた事はないこと、朝鮮軍指揮下にある済州島に駐 屯していた日本陸軍部隊が内務省系の、しかも下関市レベルの一団体に協力することなどありえない事、内務省の管轄下にある末端組織に軍が直接依頼すること などありえないのに、吉田は慰安婦狩りの命令を「西部軍指令部付きの中尉」がした(P100)などと多くのウソを指摘しています。

 そして、中川氏は吉田清治の偽証言を満載した著書を真実だとした、朝日新聞の論説委員である北畠清泰の1992年1月23日付け朝日新聞夕刊のコラム「窓」による嘘宣伝の罪は大きいと書く。
北畠はいまだに訂正も謝罪もしていないそうである。

 このように嘘つきの吉田清治が書いたものが、売国奴の宮沢喜一と河野洋平により、正当化されてしまったのです。
売国奴の集まりである朝日新聞と、同じく売国奴宮沢喜一と河野洋平が我が国に与えた傷はあまりにも大きい。



<吉田清治が自身の慰安婦狩り証言について、現代史家の秦郁彦氏は他のところでも下記のように述べています>

 朝日新聞紙面に何回も登場した吉田清治の「済州島で慰安婦を強制連行した」という告白ですが、私が済州島へ行って調査した結果、まったくの作り話であることがわかりました。地元のマスコミからは「なんでこんな作り話を書くんですか」と逆に責められて困りました。
Will2005年4月号P46 上坂冬子氏との対談「従軍慰安婦のまぼろし」にて


 吉田氏はその後、秦氏との電話会見にも応じ、「人権屋に利用された私が悪かった」と、反省 の弁をほのめかしていたとのことです。(*「諸君!」1998年11月号 秦郁彦
「『空想虚言症』の記憶にさいなまれる『朝日新聞』」より)

 当の吉田氏は、一時、右翼や旧軍人からの脅しやいやがらせで、知人宅に身を寄せたこと もあったというが、「私がこれ以上言うと、元慰安婦や家族の方に迷惑がかかる。デッチ上げ といわれても構いません。私の役目はもう終わったのですから」
確かに、日本の謝罪外交を定着させた吉田氏の”役目”は終わったといっていいだろう。
ちなみに、吉田氏の履歴には不明な点が多いが、昭和22年4月の下関市議選に共産党から 立候補。僅か129票の得票で落選している。この人、機を見るに敏だけの人生のようなのだ。
(*「週刊新潮」1995年1月5日号「『慰安婦強制連行』問題をデッチ上げた変な日本人」
から抜粋)


「私はもう82歳。命なんて惜しくないんです。私が絞首刑になって慰安婦の怨みが晴らされる んなら、喜んで処罰されますよ。しかし、私が処罰されれば、私以外にも処罰されなければ ならない日本人はたくさんいるわけで、政府としても困るでしょうから。秦さんらは私の書いた 本をあれこれ言いますがね。まあ、本に真実を書いても何の利益もない。関係者に迷惑をかけ てはまずいから、カムフラージュした部分もあるんですよ。だから、クマラスワミさんとの面談も 断りました。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃ ありませんか。チグハグな部分があってもしょうがない。 」 と、当の吉田氏は相変らずだが、
秦教授に聞くと、「いやあ、さすがに職業的詐話師ですね。日本政府が事後立法で吉田を処罰 するなんてことはあり得ません。彼もそのところは分かっている。つまり、吉田はいかなる意味 でも安全なんですよ」と、呆れる。
「つい先日、彼とクマラスワミ報告書のことで話したんですが、彼は僕の著作を実によく読んで いましてね。こちらが指摘したいところを先に言い繕うんです。済州島での慰安婦狩りにしても、 今になって”全羅南道でも同じ慰安婦狩りをやった。その体験を混ぜて書いた。だからあれは
フィクションです。”などと言うわけです。じゃあ、全羅南道の件はいつの話かと聞けば”それは 地元の人に迷惑がかかるから言えない”とくる。彼は自ら処罰を望んでいながら、実際にはその ”資格”がないという、世にも珍妙な存在なんですよ」
(*「週刊新潮」1996年5月2・9日ゴールデンウィーク特集号「従軍慰安婦強制連行 『虚偽レポート』の元凶」から抜粋)



「日本のためのとりなし」
http://www.sagamiono-ch.or.jp/intercessors/2001/2001.05/2001.05.pdf
 現地の新聞がすでに「吉田証言に該当する事実はない」と報道していたのです。
韓国政府も国際人権委員会も吉田証言を引用して報告書を書いていますが、それは日本の 朝日新聞が吉田証言をとりあげて、これを権威付けたからです。
 しかし、今日では、吉田証言は全くの嘘であることが証明されて、本人もフィクション であることを認めています。

 1991年から朝日新聞は従軍慰安婦強制連行に関する一大キャンペーンを開始しました。
始めの証言者となった金学順という朝鮮人慰安婦は日本軍に強制連行されたと報ぜられ ましたが、本人が日本に来て証言したところによれば、14歳の時、家が貧しかったので キーセンハウスに売られ、17歳になったとき、キーセンハウスの経営者である義父に日本軍 の慰安所につれて行かれたことが分かりました。しかし朝日新聞はこれについての訂正記事を出していません。また前出の吉田清治の嘘の証言も真実として報道しました。更に宮澤 首相訪韓の時に合わせて「挺身隊の名で連行された慰安婦の数は8万人とも20万人とも 言われる」という嘘の解説を載せました。その結果、1992年1月宮澤首相は韓国でこの件に ついて謝罪せざるを得ないようになりました。 

 1992年11月中央大学教授吉見義明編「従軍慰安婦資料集」が刊行されましたが、その中 に「強制連行」を示す資料は一つもありませんでした。その本の解説の中で吉見教授は
「一般には、強制連行というと人狩りの場合しか想定しない日本人が多いが、これは狭義の 強制連行であり、詐欺などを含む広義の強制連行の問題をも深刻に考えてしかるべきで あろう」と述べています。この人はこれまで「強制連行はあった」と論じてきたのに、色々調べ ていった末、それを裏付ける資料がないことが分かると論点をすり換えて「広義の強制連行」 を考えるべきだなどと言い始めました。また「政府が資料を隠しているのかもしれないから、 それが出てきたら事情が変わってくる」と暗示しているのも学者らしい狡さを見せつけられます。
 
 1997年1月3日の「朝まで生テレビ」に出演した吉見義明教授は、「植民地での奴隷狩り的 強制連行は確認されていない」ことと、および「挺身隊が慰安婦にさせられた例も確認されて いない」ことを認めました。これは日本政府の5年前に調査した公式発表と一致するものです。
 したがって、従軍慰安婦強制連行問題は、議論が出尽くして調査もしつくして決着している ものと言わねばなりません。

日本政府が聞き取り調査した16人の内、10人は「証言内容が支離滅裂で信用できない」。
そして、残り6人の強制連行被害証言には信憑性があるとして受け入れたのだったと思う。
しかし、その6人は、先立って東京地裁に提訴していたが、その訴状の内容は、強制連行と 明確に異なるものだった。つまり、騙されたわけだ。



藤岡信勝氏(東大教授)は産経新聞八月八日付の「正論」欄でこう述べている。
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/1998/9810/oshima.html
そもそも、慰安婦問題の発端から今日に至るまで、その主役は一貫して朝日新聞であった。
 慰安婦問題のすべての出発点は、被害者の訴えでもなければ韓国政府の要求でもなく、 吉田清治という詐話師の書いた『私の戦争犯罪――朝鮮人強制連行』(一九八三年、 三一書房刊)という偽書である。昭和十八年に韓国の済州島で慰安婦の奴隷狩りをしたと いう著者の「証言」を、朝日は何の検証もせず論説委員が手放しでほめそやした。それが まったくのつくり話であったことが暴露されてからも朝日は、この大誤報についてただの一行 の訂正記事も読者への謝罪も行っていない。朝日はいつまで、こうした醜悪・卑劣な 「朝日新聞の正義」を貫くつもりなのか。



従軍慰安婦という売春婦についてはこちら

ちなみに朝鮮における売春についてはこちら

吉田清治と北畠清泰

 

吉田清治と北畠清泰

5月14日日曜日曇り一時雨 ○
 昨日の残りの刺身で飯を食った後、店を片付けてからスポーツセンターに行く。途中、高田馬場で開かれている古本市にてあの詐欺師の
吉田清治の 著書「私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行」(三一書房)などをを購入。この詐欺師の「朝鮮人慰安婦と日本人」(新人物往来社)は以前にこの古本市で見つけて購 入していたが、この詐欺師が済州島での慰安婦狩りをやったと書いてあるこの著書は手許になかったので、有難い。山田盟子など他のバカ日本人が書いた本には 必ずといっていいほど、本多勝一とこの吉田の著書が参考文献として載っているのには、今さらながら笑える。
 過去には、あの朝日新聞がこの詐欺師の本を何の検証もせずにそのまま記事にして、嘘を広めています。以下はその朝日新聞の北畠清泰の書いた記事です。

 吉田清治さんは、昭和十七年朝鮮人を徴用するために設けられた「山口県労務報告会下関支部」の動員部長になった。
略)
 記憶の中で最も心が痛むのは従軍慰安婦の強制連行だ。
 吉田さんと部下、十人か十五人が朝鮮半島に出張する。総督府の五十人あるいは百人の警官といっしょになって村を包囲し、女性を道路に追い出す。木剣を振るって若い女性を殴り、けり、トラックに詰め込む。
 一つの村から三人、十人と連行して警察の留置場に入れておき、予定の百人二百人になれば、下関に運ぶ。女性たちは陸軍の営庭で軍属の手にわたり、前線におくられていった。吉田さんらが連行した女性は、少なくみても九百五十人はいた。
朝日新聞一九九二年一月十三日付夕刊

 
朝日新聞編集委員兼論説委員 。
1937年生まれ。
朝日新聞調査研究委員、編集委員、「AERA」スタッフライター、大阪本社企画報道室長、論説副主幹などを経て
2000年4月現在:県立長崎シーボルト大学教授(国際情報学部情報メディア学科=宗教ジャーナリズム論)
専攻は、宗教団体の社会的機能。

 この北畠清泰という男も朝日新聞の目的である「我が国を貶める」という功績により、朝日新聞ではりっぱに出世しています。朝日新聞も北畠清泰も、すでに吉田清治という詐欺師の嘘が明らかになっているこの記事についての訂正もおわびもしていません。
 腐れ朝日新聞の姿勢と「朝日新聞にとっての」優秀な記者である北畠清泰という男がよく判る例です。

 こんな腐れ男に教えてもらう県立長崎シーボルト大学の学生も可哀想です。

 朝日新聞の従軍慰安婦問題、毒ガス問題、靖國問題、そして、ついには天皇責任論にまで手を変え品を変えて我が国を貶めようとするそのやりくちは全然変わっていません。

 

山田盟子

山田盟子

 先日、古本市で買ってきた「慰安婦たちの太平洋戦争」「続・慰安婦たちの太平洋戦争」という劣化本の著者がこの山田盟子というキチガイ女です。
まあ、この「続・慰安婦たちの太平洋戦争」という本の帯には「朝日新聞、毎日新聞ほか各誌で絶賛、ベストセラー続編」と書いてあるだけで、この本の程度が知れるというものです。

 この山田女史の従軍慰安婦というものに関しての嘘については、当時は合法であった売春を批判することにより、売春とは可哀想な女性が受けた性による暴力 のであるとして、戦場売春婦という「慰安婦」に軍が関与するのは当たり前のことであるのに、それを「日本軍が女性を恥辱・凌辱した」という嘘でからめたイ メージを作って、それを糾弾するのが当たり前だと思わせるという多くの売国奴どもが使う手法を駆使しているところです。
 その手法は、たんなる「戦時売春婦」のことを、あのNHKの番組が「問われる戦時性暴 力」などというグロイ名前を付けて放送した事などもそうです。 嘘で固めたイメージというものは下記の文章からも理解できます。
 
元参謀の大橋武夫は、
「ある町を攻撃、占領し、まだ残敵とパチパチうちあっているところへ、商売をさせてくれと業者がやってくる。もちろん女を連れてです。金になると、どんな危険な土地へも乗りこんでくる」
 このことは事実であったろうし、またこの言葉には軍部の言いのがれも入っている。性御用は勝手な業者によるもの、という防衛がうかがえる。
 性病で皇軍の戦力をおとしたくない軍にとって、業者の請負い型慰安所の方が、たんに衛生管理をするだけで、体面上にもよかったといえないだろうか。・P59〜60
 当時合法であった公娼制度については内務省の管轄であったが、軍を追っかけてきた慰安婦の置き屋に対して、内務省が関与できるはずもなく、軍が性病検査、その他の関与をするのは当たり前であるのに、ことさら悪のように書くことによって事実をねじ曲げているのである。


下記も同じく ・は「慰安婦たちの太平洋戦争」、・は「続・慰安婦たちの太平洋戦争」よりの引用です。

 1926年うまれの山田女史のアホな頭の程度をよくあらわしている文章として終章「ある慰安婦の叫び」で元慰安婦にあった時の事をこう書いています。
  彼 女に会って私は驚いた。まさしくその体は、ボロきれの性にいそしんだ事を雄弁に物語っていた。太い胴、そして行為に不在な心を示すように、手足は細くなえ ており、まるで枝打ちをされた盆栽を想わせた。彼女は日支事変、太平洋戦争、そして戦後にとかかわる慰安婦であったから、私は彼女に「娼婦盆栽」を感じた のであった。・p283
これって、動くのが嫌な、ただ太っているだけのおばあさんということでしょう。
このようなアホな文章がこの人の本には山盛りです。
以下その一部分だけですが抜粋させていただきます。(全部はあまりにも多すぎて書ききれません)

そのような女たちは、飯を男の腹の下で食った。腰がマヒし、尿意があっても立つこともできず
私のオ×××はゴムじゃあない、とうたったという。・p50

「なに寝台で寝たっきりで、おむすび食べならんわ、水のまなんわ、おしっこに行く間もなうて、ぬくいと思ったさに、すんどるちゅう調子で、ただ男に運動させとるだけの明けくれやった」・p199

三時間で76人もこなした女がいた。・p106
(180分で76人、ひとりあたり2・3分つまり140秒で全て済ませる。さすがはプロ・・・・・兵隊さんも大変ですな。)

ススぺキャンプ収容所
女たちは働けばキャラメルもまんじゅうも買えるとあって、生産を通して気持ちもととのい、男に媚びたりする女がいなくなった。・P195
(この山田というバカは、では現在も売春が非合法ながら根絶せずに、この豊かな我が国に存在するという事実をどう説明するのでしょうか)

でたらめ引用
「大東亜戦争中の連行朝鮮人は、内外あわせて六百万、そのうち行方不明は一般労働をふくめ二十万人」としている
 朴慶植『朝鮮人強制連行』
 ・p84
 この朝鮮人学校教員であった朴慶植については既に多くの方々がこの人物の卑劣さを指摘しております。そのような人間の書いた事をそのまま引用しているのです。(そう言えば、最近、あのバカ国家が840万人とかいう数字を出していたような・・・)

 日韓併合の結果、郡内の土地の半分は無主地として地主や日本の東拓などに取り上げられてた。東拓が村に乗り込むと、村からは数戸が満州や日本、そして沿海州などへと流れていった。
日本人地主の小作人になった者は、八割も「執租」でとりあげられた。「執租」とは物質がみのった時期に立見で決める小作料である。・p77
(これについては、別の機会に書きますが、朝鮮人のウソをそのまま書き写しているだけのバカです)

 この気狂い女が、あの詐欺師の吉田清治のウソをそのまま引用しているのにも笑えます。
「陸軍は内地において、防衛管区を西、東、中、と分けていたが、昭和十八 年に入っても、二千名の慰安婦徴募指令を出した。九州地区と山口県をふくむ西部陸軍防衛司令官は、山口県労務報告会動員部長吉田清治に対して、二百人の慰 安婦狩り込みを割り当てた。吉田は済州島へむかい、強権での女狩りを行った。・p130

「内地でも昭和18年5月31日までに、九州地区と山口県をふくむ陸軍防衛司令官より、二千人の陸軍用慰安婦の徴発がかかり、山口県の労務報告会では済州島に出向し、割り当ての200余名の女狩りを強行した。」・p180
 まあ、この詐欺師の吉田清治に関しては先に書きましたが、当時、朝鮮総督府管内であった済州島にどうして山口から出向で行かなければならないのでしょう。

 また、あまりの売国奴ぶりにバチがあたった松井やよりの言葉を引用しているのにはもっと笑わせてくれます。やはり、売国奴繋がりと言えましょうか。
「松井やよりは1986年(昭和61年)二月十一日に、渋谷の山手教会で開かれた建国記念日に反対する集会の講演で、タイ残留の朝鮮人慰安婦の話をした。
 『彼女を日本人の手で引き揚げることも大切かもしれないが、ひよっとすると、彼女らはーーーーほっといて欲しい。今さらあなたたち日本人の手を借りたくないというかもしれない』と語った (『戦争拡大の構図』 吉沢南)・P59


 文中に引用先のないでたらめな下記の記述もそのたぐいでしょう。

 陸軍兵の志願制度は、昭和十三年二月から施行されていた。しかし、兵もムスメも志願ではなく、実際は強権のおどしつきの人狩りであった。・p78
 朝鮮では昭和14年から、八十五万の男子強制連行がなされていた。路上でからめ捕われた学生も多かった。・p124

 朝鮮は産物ならぬ、性の大兵站基地とされ、女子愛国奉仕隊、女子挺身隊と、つぎつぎに淫獄の花嫁に狩りこまれていった。・p85

 北仏印には日本政府による黄麻などの強制作付と、冷害が重なったりして、昭和19年から戦争末期にかけて、二百万という餓死者を生むにいたった。・p25
これも、多くの方々が検証されデタラメという事がわかっている事です。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~tokutake/kyokasho.htm

 大部隊の兵は、洗面器や石油カンを打ならし、横列型で南下して行った。その地域の中国人を数十万生けどりにしょうと。
 左右の地平線に、夜は寒さよけに百余ケ所に天をこがすたき火がみえた。
 労工狩りはウサギ狩りともいわれていた。・P236
 討伐のときに、小麦、家畜から労工狩りへと進んだ。
 昭和十八年九月、北支の各師団(略)で、ウサギ狩りの実習があった。
 野原に円陣を張り、各中隊旗を立て、ドラを鳴らしてウサギを追い詰める練習だった。
 ウサギは人間のことだった。一ヶ月後に、まさしくウサギは人間にとってかわったのだ。・p240
吉田清治とおなじで、人間をウサギ狩りの実習をしてから捕まえるのだそうです。この女はアホ過ぎます。

 これでもかと日本軍が住民を虐殺したというくだりが多く書いてあるのですが、その裏付けになるソースがありません。何がなんんでも我々の先人が悪いという結論が先にありきの書き方。

 この女のデタラメぶりは支那がやっていた「三光作戦」を昭和16年には北京方面指令部にて決められたと書いている事です。・239


  八紘一宇、正義の聖戦とうそぶいた天皇の軍隊ではあったが、じつのところ戦国の野盗集団と変わらぬ無法集団といえた。小便一丁、糞八丁、強姦二十丁が、進軍のおくれの歩数とされていた。・p103


 これまた多くの人から嘘をしてきされた詐欺師と千田夏光の文章も引用しています。・P251
その中でも千田の大嘘のひとつ「原善四郎少佐による朝鮮人慰安婦一万人動員」を・P64で引用し、大恥を書いています。千田夏光という詐欺師については中川八洋氏がその著書「歴史を捏造する韓国」で指摘されており、別に引用させていただきます。

 南機関についても書いているのですが、「ある日、五、六人と連れ立って、野菜を買い出しにいったとき、部下の一人がいきなり一人の僧に連れて行かれた。
 彼は後を追って、「だれだ!」と、唯何したら、
「お前の部下か。今のようなことはするなと言っているところだ。自分らは五・十五に関係した者で、現在、南特務機関にいる。私らが長年努力した仕事をこわさないでくれ。日本では死んだことになっている人間が私らだ。この仕事に命をかけている」といって立ち去った。・P122
と南機関のことを書いてあるのですがいくら読んでも、この文章から何を言いたいのか、何ののことなのか全然わかりません。
そして、山田女史は「南機関も藤原機関も、日本軍の第15軍と連携して、侵奪に加わった」・P123と書いているのですが南機関の鈴木大佐は感状までもらっているのですが、日本憎しであるバカ女にはわからないようです。

 美子は一年半で千円の前借りも抜いた。なのに、そこから離れる気が起きなかった。
昭和19年(1944年)の夏、部隊は南方戦線にもっていかれだした。副官は、
「君たちを連れて行けない。兵たちは死地には連れて行きたくないと考えているようだ。別の働き口をみつけなさい」
と申し渡した。美子たち十六人の慰安婦は、そのとき泣いて同行をたのんだのだった。
 彼女たちはそれっきりで慰安婦をやめ、満州で宿屋の女中や料理屋の仲居になったりした。略)しかし、二度と体を売らなかった。・p138
これって、戦時売春婦に対して、日本軍の兵士がやさしかった事というだけでしょう。

 日本海軍がセレべス島における白人女子抑留所としたカンピリ収容所においての所長の山地正氏(兵曹)はもちろん、 柴田弥一郎司令長官、神谷参謀長、寺田先任参謀などが白人女性を慰安婦としなかった(・P235〜228)「彼女たちは兵にまじって、洗濯、炊事、弾薬運 びにと、粉骨砕身してくれた。なんと感激の意を表してよいかわからないのです。なかにひとり身重の女がいます。骨が折れるでしょうが、よろしくお願いいた します」と補給部隊に慰安婦を託している。(・P179〜180)と山田女史は著書に書きながら敵が上陸するまでは女を我慢しろ。上陸したら強姦してもかまわん。ただしすんだら、女はかならず殺して埋めることだ」・P210
「おもいっきりやっちまえ!後の人間が世界史をひもどいたとき、全員とりはだが立つような大虐殺をやってみせよう」藤重正従大佐・P211

昭和19年の京漢作戦に、第十二軍の四コ師団が参加したとき、稲村大隊長は部下の将校と下士官を集め、猛烈な訓示を行った。
「何がなんでも洛陽は一番乗りしなければならぬ。洛陽にはいったら、わたしは両手でトウモロコシを取って、一度に処女を三人ずつ強姦してやる・・・」と。
 『戦争と奴隷』津山章作 ・p106

 夢声はシンガポールの虐殺は記録していない。したがって、水野分隊に殺された、シンガポールの俳優のことを知ったら、さぞ腹を立てたに違いない。・p98
日本人は欲しがっている物を人々から奪った。車も時計もミシンなど、他の侵奪地でやったことはなんでもやった。
略)
進駐当時の日本軍は、マレー人から見ると「武士道」という規範を持っていた。武士道によると、兵士は、勇気があって、義務を果たすのに忠実で、苦痛に十分耐えることができ、上官の命令に対して従順である。
 なおマレーシアの現中学二年生には「日本は第二次世界大戦のとき、勇敢な日本のパイロットが、飛行機に爆弾を積んで敵艦にぶつかっていった。彼らは神風操縦士と名づけられた」と「歴史のなかのマレー」で教えている。
 夢声の見た芝居は、虐殺もいとわない皇軍を美化したものであった。マレー人の見た武士道の兵とは、天皇症候群の皇軍であった。
・p99〜100
 この女は、慰安婦にやさしい兵士も気にくわない、武士道という規範を日本軍が持っているのも気にくわないし、虐殺を徳川夢声が記録していないのも気にく わない。その夢声がマレーで靖国神社がでてくる芝居に涙をこぼしたのも気にくわない。勇敢な日本のパイロットと教えているのが気にくわないようで、どうし ても、日本軍は悪でならなければいけないようです。

それは下記の文章でも明らかです。
「カーサの後方にも、慰安婦はいたんでしょうね」
とたずねると、とたんに彼は怒声をとばした。
「なんでそんな仕事をする。なんば慰安婦を捜したところで、だれかねぎらいをくれるんか。それに慰安婦は、銭を取って体を開いとったんだ」
 筆者は遠い異国にでむいて、頭ごなしに叱りとばされ、驚きもし、哀しくもなって泣かざるをえなかった。インドネシアの取材でも元兵士に数人あったが、忠勇な兵士の化石のような人が多かった。
彼が筆者の仕事をなんと思おうが、筆者には天皇制下の兵は兵囚、慰安婦は性囚としか思ってないとつげた。・132
 これではなんのための取材でしょう。最初から結論ありきであり、自分のイデオロギーにあわないものは認めないといっているのです。このようなバカ女が歴史を語っているのです。どうしようないバカ女です。


「一人が自動車一台ずつ持って掠奪に行くんだ。銀貨、時計、洋服地なんかね。古年兵だから軍の意志を知りぬいているので、こんなこと平気ですよ。でも二回ほど強姦罪で銃殺されるところを見たな。わたしらは仮にやっても尻尾をつかまれるようなことはしないから」・p202
これって、この証言者がたんなる犯罪者で、それを軍がきびしく取り締まっていたということにしかならないのですが、このキチガイ女にとっては違うようです。しかし、一人自動車一台ってどこの軍隊でしょう・・・
 現地人を「慰安婦」に強制しただけで銃殺刑に処すほどの日本の軍規は世界第一級に厳格であったのです。例えば、一九九三年八月十五日の毎日新聞には一九 四四年にジャワ島セマランで、一人の陸軍少佐が、部下がこの強制をやったことに対して、この部下の行為を黙認した罪で死刑になり、他に軍・民あわせて七名 が七〜二十年の禁固刑になったという記事が掲載されています。

 兵たちは、私娼や慰安所通いや強姦などで性病にかかると、いきお”狂気の魔法”を欲した。特効秘薬として、生きた人間の脳味噌や肝を欲しがった。・p112
と書きながら
「明治末、長崎には死体買いの中国人やら生肝買いがおった。」と同じページに書いているは洒落でしょうか。

 断髪の女のなかには、兵士に強姦され、挙句に脳味噌や胆が性病薬として喰われたり煎じ薬にされたりした。略)
このように天皇の軍隊は、古い呪術をこよなく愛したのである。・P241〜232
「古い呪術をこよなく愛した」笑いどころでしょうが、人食いの伝統は支那のものです。

 この女のバカなとところはまだまだあります。
 サイパンが玉砕する前に、H島にいた女学生志願慰安婦たち数人が、隊長のの配慮で最後の帰国船に乗せられたことがあった。
 彼女たちは出航後に、朝鮮に向かう船とすれちがった。その船の甲板から、
「大本営が満州になるらしいぞ!」
乗組員が叫んだ。おどろいた彼女たちは、さっそくその船に乗り継ぎをした。・P265
海上ですれちがった船からの声を聞き取りなど普通はできませんし、出港してしまって、すれ違った船にどうやって乗り継ぎをするのでしょう。アホ過ぎる。

偏った思想
「戦犯におとしめられた朝鮮人の俘虜監視員たちがいる。陸軍省が昭和十七年に、朝鮮人三千人を俘虜監視員として強制徴用した。そのうち百三十人が戦犯とされて処刑された。強制した植民地の労務者に戦争の罪を着せた事実・・・」・p246
連合国による戦犯裁判の不当性を訴えるのではなく、我が国が悪いという論理・・・・
 
「慰安婦たちの太平洋戦争」は「城田すず子」という日本人娼婦の話から始まる。
 中国の慰安婦が、相当の稼ぎをしていることを、出入りの船員からきかされたりして、こんな古いところでウジウジしていても、ラチがあかないとあせりだしていた。・p23
高島順子という女性については
女たちの方も三ヶ月もすれば借金が抜けるとあって、いきおい稼ぎに気合いが入った。・p39
順子はその慰安所で翌春まで稼ぐと、慰安所をたたんだ国井茂といっしょに帰国した。玉の井にはもどらず、回復した弟を引き取って、新宿で小料理屋をはじめた。・p43
積慶里慰安所の兵の利用は、九時から17時まで、下士官は二十時まで、将校は二十時以降泊れた。
料金は一時間で兵一円、下士官一円五十銭、将校と軍属は一時間三円、泊まりは将校十円である。・p68
 楼 のなかには大阪松島の二百戸のうちから、軍のお声がかりで呼ばれた娼家もあり、福原妓楼の支店もあった。たいてい本店にあやかり、大阪清南楼とか、清富士 楼、松本楼、勝己楼、松浦楼など九軒、ほかには朝鮮人の経営する三好、青山、三成、泰平、平和、花乃屋、武漢など十一の妓楼、これらには内地慰安婦百三十 名、朝鮮人慰安婦百五十名がいた。
 遊びでは昭和十八年にショートで五円四十銭、下士官九円、将校の泊まりで十八円とはねあがっていった。・p67

 朝鮮出身の慶子は、獣性のくらしを、金を貯めこむ張り合いで日々をやりすごし、五万をためて京城で小料理屋をやりたいという目標を立て、そのころで三万を積みたてた。あくまでもそれは、真の生きがいの代償ともいえるものだが。
 春子はボロっきれの性で得る金を、朝鮮の故郷に送り、親に田地田畑を買わせた。親への孝行という意識下に、性奴の自分を置くことによって、みじめな抑圧を解き放ったのだ。・p69

 山田女史は慰安婦の事をことさら醜く書き、
  慰安所は陰湿な荒んだ荒野であり、女の本然である生命を育むことが許されない不毛地である。・p68
くらがえの慰安婦たちは、積慶里にくるまでだって、人肉市場の囚われ人であったのだ。・72
慰安所とはあくまで女という人格の没落場所であり、隔離と隷属であり、女としてこれ以上落ちこむ先のない最低条件の生存場所なのであり、まさに人間の閉鎖囚獄を彼女は拒否し、おののいたのである。・74
と書いていいますが、それでいて、作家の戸川幸夫の文章として「そこは軍人軍属の社交場であった。彼女らの前身は日本国内で芸妓、赤線などで働いていた者がほとんどだったが、なかには自ら志願して、あるいは説得されて来た者もあり、処女もまじっていた。したがって気位が高く、嫌な客は拒否した」(『戦場の紙碑』戸川幸夫)・P223と引用しています。その娼婦の稼ぎは先に書いたこの山田女史の文章より、少なくとも、慰安婦の中に日本人慰安婦も多くいたし、朝鮮人慰安婦とも当時は合法であった売春により大金を稼いでいたものが多くいた事がわかります。
また、慰安所の経営者は朝鮮人も多くいたこともわかります。
それを、無理矢理、「真の生きがいの代償」「親への孝行という意識下に、性奴の自分を置くことによって、みじめな抑圧を解き放ったのだ」と書いたり、醜い 娼品、性囚、獣獄、獣性という造語をつかったりすることにより、当時の日本軍が悪かったという摺り替えをおこなっています。

 慰安婦の稼ぎに関しては山田女史も「慰安婦たちの太平洋戦争」のp68「続 慰安婦たちの太平洋戦争」P171〜2にて引用している有名な米軍による 1944年夏に北ビルマのミートキーナーにて捕らえられた朝鮮人慰安婦二十人と抱え主の北村夫婦(日本人)からの尋問記録を要約したレポート(米 国立公文書館所蔵)があります。その内容はいずれも慰安婦としての生活が山田女史のいう地獄では無かったことを表していますが、山田女史はこの中から意図 的に一部だけを引用し「前借金を親に払った」「個室を与えられた」「水曜日は検診のために休日」「生活はかなり豊かで町へ買い物にも出かけた」「兵からの 贈物が多く、娯楽やスポーツをやりパーティにもでた」などということを引用せずに、「行列する旧日本兵を相手に、週七日間、休みなく働かされつづけた」 「前借金の返済をおえて帰国の権利ができた慰安婦もいたが、戦況悪化を理由に軍が許さなかった」・P172、自由外出厳禁・p97と書いたり、慰安婦と関 係ない挺身隊を慰安婦と偽って書いて事実をゆがめています。

 この山田盟子(本名光子)という人も吉田清治と同じく職業詐欺師ということでしょう。

 また、山田女史は日支事変にも太平洋戦争にも、軍の性囚にされた慰安婦の九割は、植民地朝鮮からの女立たちであった。・p84
 朝鮮人慰安婦については、日本が朝鮮に総督府をおいた時点から、すでに性の兵站基地として組み込まれており、かつ中国やアジア侵攻と同時に、楼主や女衒、軍権商人の餌食にされてきたのだった。・p170
 と書きますが、秦氏は慰安婦の総数一万数千人、民族別の割合は日本人四割、現地人三割、朝鮮人二割、その他一割と推計しており、(秦氏の著書慰安婦と戦場の性」より)一番多かったのは日本人であると書いています。
 そして、朝鮮の売春やキーセンについては他で書いたとおりで、我が国が朝鮮を併合してから朝鮮の女性の地位が向上しました。
 
 その他、山田女史の著書の興味深い箇所は
海軍特務局長を殺した慰安婦の朝鮮人楼主については、「朝鮮における無数の安重根の一人であったのだ」
「母国を汚す醜悪な権力を特務局長にみて、殺害へとむかった。」
・p130〜131
には笑わせれますが、単なる人殺し朝鮮人をどう見ればこういう風に見れるのでしょう。あの人殺し在日朝鮮人ライフル魔金嬉老に対して、朝鮮人差別と戦ったなどといっていたバカどもを思い出しました。
そして、「第十一章虹のかなたに」として
 十五年戦争中、日本側に利用された中国人慰安婦の資料が、中国側に記録物でもいいからあるのかとたずねあてたかった。ファシズムの遊色政策で、吸い寄せられ、あるいは徴用された女たちを知りたかった。
 貶められた女たちを、はっきりと見える存在として認識したかった。そのことは戦時中に少女であった私などにとって、「見えなかった日本」そのものに迫る課題に思えるからだ。その意を大使館に伝えたところ、
「自分たちでやったことは、自分たちが御存じでしょう」
 と、もっともらしい返事を受けた。
蒋介石の政治圏でも日本軍の統治内でも、中国娼妓の営業は野放しにされていた。戦後、毛沢東主席による中央政策では、多数の女たちのを淫業から飛翔させた。・p141
体で国への奉仕を強いられた女たちに、中国のような施策はなされなかった。
略)
戦場垢をつけるのに強姦も慰安所通いもいるとされた。慰安婦はヤクザ軍隊の麻酔剤であり、戦力保持用の性具であった。・p150

 また、吉沢南という同じ詐欺師の著書よりも引用して
「ベトナムの軍隊はじつに立派だった。女のことで問題をおこしたことはな い。そんな話もきいたこともなかった。・・・・・人民のための軍隊という自覚が強かった。ボロ軍隊だったが、精神だけはりっぱだったね。山道や村で娘と 会っても、兵たちを彼女たちは怖がらなかった。日本軍はそうはいかない」(『私たちの中のアジアの戦争』吉沢南)・P57

 共産主義の支那、ベトナムがよくて、我が国が悪いという考え方は歴史を捏造し、我が国国民に嘘を信じ込ませるというマルクス主義に冒されているであろう山田盟子という人の考え方がよく判る文章だと思います。

 

 


ちなみに朝鮮における売春についてはこちら


http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog106.html        



 _/    _/_/      _/_/_/  Media Watch: 「従軍慰安婦」問題(上)
        _/  _/    _/  _/          〜日韓友好に打ち込まれた楔〜
       _/  _/    _/  _/  _/_/               13,135部 H11.09.25
 _/   _/   _/   _/  _/    _/  Japan On the Globe(106) 国際派日本人養成講座
  _/_/      _/_/    _/_/_/   _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
    
■1.米軍がレポートする慰安婦の実態■

   米軍情報部は、北ビルマのミチナ慰安所で収容された慰安婦か
  らの聞き取りをもとに、以下のような報告書を残している。
  
     女性たちはブローカー(および経営主)が、300〜1000円の
    前借金を親に払って、その債務を慰安所での収入で返還してい
    る。経営者との収入配分比率は40〜60%、女性たちの稼ぎは月
    に1000〜2000円、兵士の月給は15日〜25円。[1,p270]

     慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋に宿
    泊して、・・・・寝起きし、業を営んだ・・・・彼女たちの暮らしぶり
    は、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。
    
     慰安婦は接客を断る権利を認められていた・・・・負債の弁済を
    終えた何人かの慰安婦は朝鮮に帰ることを許された[1,p275]

   また、ビルマのラングーンで慰安婦をしていた文玉珠さんの手
  記では、その生活ぶりを次のように語っており、米軍のレポート
  を裏付けている。

     支那マーケットにいって買物した。ワ二皮のハンドバッグと
    靴をわたしのために買った。母のためにもなにか買った。
    
     将校さんたちに連れられてジープに乗って、ぺグーの涅槃像
    をみに行った・・・・ヤマダイチロウ(日本兵の恋人)と大邱の母
    の無事を祈って帰ってきた。[1,p276]
  
   ちなみに文玉珠さんは、平成4年に日本の郵便局を訪れ、2万
  6145円の貯金返還の訴訟を起こして敗れている。千円もあれば故
  郷の大邱に小さな家が一軒買えると体験記で述べているが、現在
  の貨幣価値なら、4〜5千万円程度の金額を、3年足らずで貯め
  たことになる。[2,p301]
  
   「従軍慰安婦」というと、海外では"military sexual slavery
  (軍用性奴隷)"などと呼ばれるように、日本軍によって郷里から
  強制連行され、戦地では何の自由もなく、もちろん無給で、ひた
  すら兵士にもてあそばれた、というイメージが定着している。し
  かし、この米軍の報告書では、まったく違う実態が報告されてい
  る。一体、どちらが真実に近いのか?

■2.慰安婦問題の経緯■

 まず慰安婦問題の経緯を時系列的に見渡しておこう。

  1) 昭和58(1983)年、吉田清治が、著書「私の戦争犯罪・朝鮮
    人連行強制記録」の中で、昭和18年に軍の命令で「挺身隊」と
    して、韓国斉州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたとい
    う「体験」を発表。朝日新聞は、これを平成3('91)年から翌
    年にかけ、4回にわたり、報道。

  2) 同3年8月11日、朝日新聞は、「女子挺身隊」の名で戦場
    に連行され、売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」の一
    人が名乗り出た、と報道。

  3) 同4年1月11日、朝日新聞は、一面トップで「慰安所、軍
     関与示す資料」、「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」
     と報道。この直後の16日から訪韓した宮沢首相は首脳会談
     で8回も謝罪を繰り返し、「真相究明」を約束。

  4) 同5年8月4日、河野官房長官談話、政府調査の結果、「甘
     言、弾圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例
     が数多くあり、更に、官憲等が直接に荷担したこともあっ
     た」と発表。

   この河野談話によって日本政府は、慰安婦が軍によって強制徴
  集されたことを公式に認めてしまったことになる。これを契機と
  して、中学高校のほとんどの歴史教科書に、「従軍慰安婦」が記
  述されることになっていった。

   今日では、各方面の調査が進み、以上の報道、発表がどれだけ
  の事実に基づいていたのかが明らかになってきた。以下、この4
  点を検証する。

■3.吉田清治の慰安婦狩り■

   まず1)、吉田清治の「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」
  では、韓国斉州島での、慰安婦強制連行を次のように、描写して
  いる。

     若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がお
    びえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は・・・・台をまわ
    って行って娘の腕をつかんで引きずりだした・・・・女工たちはい
    っせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たちは若い
    娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打
    ちすえていた。・・・・女工の中から慰安婦に徴用した娘は十六人
    であった。

   当時は、戦地での強姦事件を防ぐために、公娼業者に戦地で開
  業させていた。戦地であるから、業者の指名、戦地への移動、営
  業状態の監督などは、軍の関与が当然あった。これらは当時、合
  法であった公娼制度の戦地への延長で、特に問題はない。
  
   「従軍慰安婦」問題とは、本人の意思に反した「強制連行を、
  軍が組織的に行ったか、どうか」の問題なのである。したがって、
  吉田の言うような強制連行が事実であったら、これは日本の国家
  的犯罪となる。
  
■4.日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物■

   吉田の記述は済州島の城山浦にある貝ボタン工場という設定だ
  が、この記事に疑問をもった済州新聞の許栄善記者が現地で調査
  し、以下のような記事を書いている。
  
     島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信想性に対
    して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オク
    タン(八五歳の女性)は「250余の家しかないこの村で、15
    人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はな
    かった」と語った。
    
     郷土史家の金奉玉は「1983年に日本語版が出てから、何年か
    の間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は
    日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨
    している。
    
   現地調査を行った秦郁彦日大教授は、許栄善女史から、「何が
  目的でこんな作り話を書くのでしょうか」と聞かれ、答えに窮し
  たという。[1,p232]

   この吉田清治を、朝日新聞は、宮沢首相の訪韓前後1年の間に、
  4回も紙面に登場させたのだが、秦教授の調査の後は、ぷっつり
  と起用をやめた。今日では、慰安婦問題の中心的糾弾者である吉
  見義明中央大教授すら、吉田清治の著作は採用しなくなっている。

■5.名乗り出た慰安婦■

   次に2)の自ら名乗り出た慰安婦について。平成3年8月11
  日付け朝日新聞は、社会面トップで「思い出すと今も涙」「元朝
  鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」とのタイトルで、「日
  中戦争や第二次大戦の際、女子挺身隊の戦場に連行され、日本軍
  人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人
  が」名乗り出たと報じた。

   しかし、この女性、金学順さんは、「女子挺身隊」として連行
  などされていない事を、8月14日の記者会見で自ら語っている。
  ある韓国紙はそれを次のように報じた。[2,p291]
  
     生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキ
    ーセン検番(日本でいう置屋)に売られていった。三年間の検
    番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父
    に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊
    の前だった」「ハンギョレ新聞」'91年8月15日付

   当時、内地でもよくあった気の毒な「身売り」の話なのである。
  国家による組織的な強制連行とは関係ない。

   そもそも「女子挺身隊」とは、昭和18年9月に閣議決定され
  たもので、金学順さんが17歳であった昭和14年には存在して
  いない制度である。さらに「女子挺身隊」とは、販売店員、改札
  係、車掌、理髪師など、17職種の男子就業を禁止し、25歳未
  満の女子を動員したものであり、慰安婦とは何の関係もない。

   さらに「従軍慰安婦」という言葉自体が、当時は存在しなかっ
  た。従軍看護婦は、軍属(軍隊の一部)であり、従軍記者、従軍
  僧は、法令により定められた身分で指定された部隊につく。慰安
  婦は公娼業者が雇ったもので、それはたとえば、県庁の食堂に給
  食業者を入れていた場合、その業者の被雇用者は、県の職員では
  なく、身分も契約も県とは関係ないのと同じ事だ。「従軍慰安
  婦」とは、従軍看護婦などとの連想で、あたかも部隊の一部であ
  ると読者に思い込ませるための造語である。

   金学順さんは、その後、日本国を相手とした訴訟の原告の一人
  となるが、それを支援しているのが太平洋戦争犠牲者遺族会であ
  り、この記事を書いた朝日の槙村記者は、会の常任理事の娘と結
  婚している。当然、韓国語も達者であり、金学順さんの話した内
  容はよく知っていたはずである。
  
   金学順さんが「売られた」という事実を隠し、「女子挺身隊と
  して連行された」というこの記事は槙村記者による、意図的な捏
  造記事である。その後の訂正記事も出していない。
  
■6.強制連行された慰安婦はいたか?■

   韓国で慰安婦問題の取組みの中心となっている「挺身隊問題対
  策協議会」は、元慰安婦として登録された55名のうち、連絡可
  能な40余名に聞き取りをした。論理的に話が合うか、など、検
  証をしつつ、その中から信頼度の高い19人を選んで、証言集を
  出版した。
  
   今まで何らかの機会に、強制連行されたと主張しているのは、
  9人だが、信憑性があるとしてこの証言集に含められたのは、4
  人のみ。さらにそのうちの二人は富山、釜山と戦地ではない所で
  慰安婦にされたと主張していて、「従軍慰安婦」ではあり得ない。
  残る二人が、金学順さんと、冒頭の4〜5千万円相当の貯金をし
  たという文玉珠さんなのだが、この証言集では、強制連行された
  とは述べていない。
  
   結局、韓国側調査で信憑性があるとされた証言のうち、従軍慰
  安婦として強制連行されたと認められたものは、ひとつもない、
  というのが実態である。[2,p275]

■7.軍の関与とは■

   次に宮沢首相の訪韓直前に発表され、公式謝罪に追い込んだ
  3)の「慰安所、軍関与示す資料」の朝日新聞記事はどうか。
  
   発見された文書とは昭和13年に陸軍省により、「軍慰安所従業
  婦等募集に関する件」であり、その中では、
  
     民間業者が慰安婦を募集する際、@軍部諒解の名儀を悪用、
    A従軍記者、慰問者らを介した不統制な募集、B誘拐に類する
    方法を使って警察に取調べられるなどの問題が多発しているの
    で、業者の選定をしっかりし、地方憲兵警察と連繋を密にせよ
    [2,p267]
  
  と命じている。すなわち「関与」とは、民間の悪徳業者による
  「強制連行」を、軍が警察と協カしてやめさせようとした事なの
  である。
  
   この内容を「慰安所、軍関与示す資料」、「部隊に設置指示 
  募集含め統制・監督」とタイトルをつけて、一面トップで報道し、
  さらに次のような解説を載せた。
  
    従軍慰安婦。1930年代、中国で日本軍兵士による強姦事件が多
    発したため、反日感情を抑えるのと性病を防ぐために慰安所を
    設けた。元軍人や軍医などの証言によると、開設当初から約八
    割は朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主と
    して朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は八万
    とも二十万ともいわれる。
  
   これらをあわせ読めば、ほとんどの読者は、「日本軍が組織的
  に強制連行に関与した」と思い込むであろう。まことに巧妙なひ
  っかけ記事である。

   この記事が、狙い済ましたように、宮沢首相訪韓のわずか5日
  前に発表されたことから、絶大な効果を発揮した。ソウル市内で
  は抗議・糾弾のデモ、集会が相次ぎ、日の丸が焼かれる中で、宮
  沢首相は事実を確認する余裕もなく、8回も盧泰愚大統領に謝罪
  を繰り返した。(続く)

■ 参考 ■
1. 「慰安婦の戦場の性」、秦郁彦、新潮選書、H11.6
2. 「闇に挑む!」、西岡力、徳間文庫、H10.9
3. 「慰安婦強制連行はなかった」、太子堂経慰、展転社、H11.2
4. 「歴史教科書への疑問」、日本の前途と歴史教育を考える
  若手議員の会編、展転社、H9.12.23
5. 「日本人が捏造したインドネシア慰安婦」、中嶋慎三郎、
  祖国と青年、H8.12
6. 産経新聞、H11.08.27 東京朝刊 4頁 国際2面
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/★★読者の声★★_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
                      DAI HIROSEさんより

 昨年、東南アジアを旅行し、バングラデシュのセント・マーテ
  ィン島という小さな島(ビルマの横に位置します)に宿泊したとき
  のことでした。本当に人懐っこい住人らに囲まれて食事をご馳走
  してもらい、その後村を紹介してもらい、村長と会話する機会が
  会った。かなり年をめいた人であった。英語で会話だったので 
  正確な会話を表現できないが彼等はこのように日本を語った。

   「日本は良い国だ。我々は日本が好きだ。戦争中にイギリスか
  ら我々を解放してくれた。イギリス人は我々を動物のように扱い、
  こき使ったが、日本人は優しかった。暴力などなにもしなかった。
  島民は日本の軍人と協力して、平和に過ごしていたんだ」


   私は本当に驚いた。彼等が戦争時の日本を肯定してたからだ。
   ある場所で心無いものがひどいこともしたのは事実であろうが、
  このように50年以上過ぎた今でも好意を持ってくれるほど、う
  まく共存していたのはも事実であろう。彼等島民を日本に連れて
  いって生きた証人として発言してもらい、戦時中の日本を絶対悪
  のように扱うマスコミの糾弾したいものだ。彼等が発言できる間
  に日本の誤った歴史認識を変え、日本、アジア、そして地球全体
  を誇れる国民になれるだろうか。

      
   アジアを旅行し、本当によかったと思う。

c 1999 [伊勢雅臣]. All rights reserved.

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog107.html 

         _/    _/_/      _/_/_/  Media Watch: 「従軍慰安婦」問題(下)
        _/  _/    _/  _/               〜仕掛けられた情報戦争〜
       _/  _/    _/  _/  _/_/                           13,284部 H11.10.02
 _/   _/   _/   _/  _/    _/  Japan On the Globe(107)  国際派日本人養成講座
  _/_/      _/_/    _/_/_/   _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

■1.強制を示す文書はなかった■

   宮沢首相は、盧泰愚大統領に調査を約束し、その結果が、4)
  (前号)、翌平成5年8月4日の河野官房長官談話となった。政
  府調査の結果、「甘言、弾圧による等、本人たちの意思に反して
  集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接に荷担したこ
  ともあった」と発表され、慰安婦強制連行があったことは、政府
  の公式見解となった。
  
   この発表のために、政府はおおがかりな文書調査と、元慰安婦
  への聞き込みを行った。前号冒頭に紹介した米軍の報告書も、こ
  の文書調査で発見されたものだ。それでは、いかなる事実によっ
  て「官憲等が直接に荷担した」と結論づけたのか?
  
   この調査を実施した平林博・外政審議室室長は、平成9年1月
  30日、参議院予算委員会で、片山虎之助議員(自民党)の質問
  に対し、次のような答弁をしている。[3,p204]

     政府といたしましては、二度にわたりまして調査をいたしま
    した。一部資料、一部証言ということでございますが、先生の
    今御指摘の強制性の問題でございますが、政府が調査した限り
    の文書の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すよ
    うな記述は見出せませんでした。
    
     ただ、総合的に判断した結果、一定の強制性があるというこ
    とで先ほど御指摘のような官房長官の談話の表現になったと、
    そういうことでございます。
    
■2.総合的に判断した結果■

   資料はなかったが、「総合的に判断した結果」、強制性があっ
  たという。この判断の過程について、当時、内閣官房副長官だっ
  た石原信雄氏は、次のように明らかにしている。
  
     強制連行の証拠は見あたらなかった。元慰安婦を強制的に連
    れてきたという人の証言を得ようと探したがそれもどうしても
    なかった。結局談話発表の直前にソウルで行った元慰安婦十六
    名の証言が決め手になった。彼女達の名誉のために、これを是
    非とも認めて欲しいという韓国側の強い要請に応えて、納得で
    きる証拠、証言はなかったが強制性を認めた。
    
     もしもこれが日本政府による国家賠償の前提としての話だっ
    たら、通常の裁判同様、厳密な事実関係の調査に基づいた証拠
    を求める。これは両国関係に配慮して善意で認めたものである。
    元慰安婦の証言だけで強制性を認めるという結論にもっていっ
    たことへの議論のあることは知っているし批判は覚悟している。
    決断したのだから弁解はしない(櫻井よしこ「密約外交の代
    償」「文塾春秋」平成9年4月)[3,p58]

   元慰安婦からの聞き取り調査は、非公開、かつ裏付けもとられ
  ていないと明かされいるが、そうした調査の結果、「韓国側の強
  い要請」のもとで「納得できる証拠、証言はなかったが強制性を
  認めた」ものなのである。
  
   聞き取りが終わったのが7月30日。そのわずか5日後の8月
  4日、河野談話が発表された。同日、宮沢政権は総辞職をした。
  まさに「飛ぶ鳥跡を濁して」の結論であった。

■3.日本の言論機関が、反日感情を焚きつけた■

   「強い要請」を行ったという韓国政府の態度について、石原氏
  は国会議員との会合で次のように語っている。

     もう少し補足しますと、この問題の初期の段階では私は韓国
    政府がこれをあおるということはなかったと。むしろこの問題
    をあまり問題にしたくないような雰囲気を感じたんですけれど
    も、日本側のいま申した人物がとにかくこの問題を掘り起こし
    て大きくするという行動を現地へいってやりまして、そしてこ
    れに呼応する形で国会で質問を行うと。連携プレーのようなこ
    とがあって、韓国政府としてもそう言われちゃうと放っておけ
    ないという、そういう状況があったことは事実です。[4,p314]

   この「いま申した人物」について、石原氏は「ある日本の弁護
  士さん」として、名前は明かしていない。
  
   慰安婦問題は、日本の一部の人間が焚きつけた、という認識は、
  韓国側の盧泰愚大統領の次の発言にも、見られる。
  
     日本の言論機関の方がこの問題を提起し、我が国の国民の反
    日感情を焚きつけ、国民を憤激させてしまいました。(文芸春
    秋、H5.3 )[1,p302]

■4.インドネシアに現れた日本人弁護士たち■

   日韓関係と同様、インドネシアとの間でも、慰安婦問題が焚き
  つけられた。平成5年に高木健一氏(金学順さんらの日本政府に
  対する訴訟の主任)ら、日本の弁護士3人がインドネシアにやっ
  てきて、地元紙に「補償のために日本からやってきた。元慰安婦
  は名乗り出て欲しい」という内容の広告を出した。[5]
  
   兵補協会のラハルジョ会長は、「補償要求のやり方は、東京の
  高木健一弁護士の指示を受け」、慰安婦登録を始めた。会長は取
  材した中嶋慎三郎ASEANセンター代表に対して、「慰安婦に2百
  万円払え」と怒号したというから、名乗りでれば、2百万円もら
  えると宣伝している模様であった、と言う。
  
   インドネシアでの2百万円とは、日本なら2億円にも相当する
  金額なので、大騒ぎとなり、2万2千人もが元慰安婦として名乗
  りをあげた。ちなみに、当時ジャワにいた日本兵は2万余である。
  
   この様子を報道した中京テレビ製作のドキュメンタリー「IA
  NFU(慰安婦)インドネシアの場合には」に、英字紙「インド
  ネシア・タイムス」のジャマル・アリ会長は次のように語った。
  
     ばかばかしい。針小棒大である。一人の兵隊に一人の慰安婦
    がいたというのか。どうしてインドネシアのよいところを映さ
    ない。こんな番組、両国の友好に何の役にも立たない。我々に
    は、日本罵倒体質の韓国や中国と違って歴史とプライドがある。
    「お金をくれ」などとは、360年間、わが国を支配したオラ
    ンダにだって要求しない。

■5.慰安婦番組での仕掛け■

   ちなみに、この番組では、元慰安婦のインタビュー場面が出て
  くるが、ここでも悪質な仕掛けがあった。元慰安婦が語る場面で、
  日本語の字幕で
  
     戦争が終わると日本人は誰もいなくなっていたんです。私た
    ちは無一文で置き去りにされたんです。
    
   と出ているのだが、実際には、インドネシア語で、
  
     あの朝鮮人は誰だったろう。全員がいなくなってしまったん
    です。私たちは無一文で置き去りにされたんです。
    
   と話していたのであった。慰安所の経営者は朝鮮人であり、戦
  争が終わると、慰安婦たちを見捨てて、姿をくらましたのである。
    
■6.あなた方日本人の手で何とかしてください■

   この番組の予告が、日本共産党の機関紙「赤旗」に出ていたこ
  とから、インドネシア政府は、慰安婦問題の動きが、共産党によ
  り、両国の友好関係を破壊する目的で行われていると判断したよ
  うだ。
  
   スエノ社会大臣が、すぐにマスコミ関係者を集め、次の見解を
  明らかにした。
  
    1) インドネシア政府は、この問題で補償を要求したことはな 
       い。
    2) しかし日本政府(村山首相)が元慰安婦にお詫びをしてお
       金を払いたいというので、いただくが、元慰安婦個人には
       渡さず、女性の福祉や保健事業のために使う。
    3) 日本との補償問題は、1958年の協定により、完結している。

   インドネシア政府の毅然たる姿勢で、高木弁護士らのたくらみ
  は頓挫した。この声明の後で、取材した中嶋氏は、数名のインド
  ネシア閣僚から、次のように言われたという。

     今回の事件の発端は日本側だ。悪質きわまりない。だが、我
    々は日本人を取り締まることはできない。インドネシアの恥部
    ばかり報じてインドネシア民族の名誉を傷つけ、両国の友好関
    係を損なうような日本人グループがいることが明白になった。
    あなた方日本人の手で何とかしてください。

■7.国内で急速に冷める関心■

   地道に調査を進める人々の努力により、奴隷狩りのような強制
  連行の事実はないことが明らかになると、さすがに慰安婦問題を
  糾弾する人々の間でも、強制性の定義を修正せざるを得なくなっ
  てきた。たとえば、糾弾派の中心人物である吉見義明・中央大学
  教授は、岩波新書の「従軍慰安婦」で、次のように述べている。
  
     その女性の前に労働者、専門職、自営業など自由な職業選択
    の道が開かれているとすれば、慰安婦となる道を選ぶ女性がい
    るはずはない・・・たとえ本人が、自由意思でその道を選んだ
    ように見えるときでも、実は、植民地支配、貧困、失業など何
    らかの強制の結果なのだ。[6,p103]

   「強制性」をここまで広義に解釈すれば、現代の風俗関係の女
  性たちも、貧困や失業など何らかの「強制の結果」であり、国家
  が謝罪と補償をすべきだ、ということになってしまう。さすがに
  このような暴論では、常識ある国民の理解を得られるはずもなく、
  国内の慰安婦問題に関する関心は急速に冷めていった。

■8.国連での攻防■

   しかし国際社会では、事実の伝わりにくさを利用して、慰安婦
  問題をスキャンダルに仕立てようとするアプローチが今も展開さ
  れている。その最初は宮沢首相の訪韓直後の平成4年2月17日、
  日本弁護士連合会の戸塚悦郎弁護士が、国連人権委員会で、慰安
  婦を人道上の罪と位置づけ、国連の介入を求める発言をした事で
  ある。
  
   平成8年3月にジュネーブで開かれた国連の人権委員会に提出
  されたクマラスワミ女史の報告書は、家庭内暴力を主テーマにし
  ているのに、その付属文書に「戦時の軍用性奴隷制問題に関する
  報告書」と題して、半世紀以上前の日本の慰安婦問題を取り上げ
  ている。
  
   戸塚弁護士は、この時にもジュネーブで本岡昭次参議院議員
  (社会党→民主党)とともに、デモやロビー活動を行っている。
  
   報告書は、やはり吉田清治の本や、慰安婦たちの証言を取り上
  げている。その中で、北朝鮮在住の元慰安婦の証言として、
  
     仲間の一人が一日40人もサービスするのはきついと苦情を
    言うと、ヤマモト中隊長は拷問したのち首を切り落とし、「肉
    を茹でて、食べさせろ」と命じた。
    
   などという話が紹介されている。この元慰安婦は、1920年に生
  まれ、13歳の時に一人の日本兵に拉致されたという拉致された
  というのだが、1933年の朝鮮は平時であり、遊郭はあったが、軍
  専用の慰安所はなかった。その程度の事実確認もされていない証
  言が、4例紹介され、その上で日本政府に対し、被害者への補償、
  犯罪者の追及と処罰を勧告している。
  
   日本のジュネーブ外務省はこの文書に関する40頁の反論を作
  成し、根回し工作をしたもようだ。西側諸国代表の間では、クマ
  ラスワミ報告書の欠陥が理解されたが、韓国、北朝鮮、中国、フ
  ィリピンなどの関係国は立場上、強く反発した。
  
   このような攻防の結果、人権委員会では家庭内暴力に関する本
  文は「賞賛する」という最高の評価を得た一方、慰安婦に関する
  部分は、take note(留意する)という最低の評価であった。
  [1,p259]
  
■9.情報戦争から、いかに国益と国際友好関係を守るか■

   平成10年8月、今度は、ゲイ・マクドゥーガル女史が、旧ユ
  ーゴスラビアなど戦時下における対女性暴力問題を調査した報告
  書を作成したが、その付属文書で、またも慰安婦問題を取り上げ、
  「レイプ・センターの責任者、利用者の逮捕」と「元慰安婦への
  法的賠償を履行する機関の設置」を日本政府に勧告した。
  
   慰安所は「レイプ・センター(強姦所)」と改称されている。
  しかし、これは人権小委員会の勧告としては採択されず、日本政
  府はマ女史の個人報告書に過ぎない、としている。
  
   本年8月には、米カリフォルニア州上下院が第二次大戦中に日
  本軍が行ったとされる戦争犯罪について、「日本政府はより明確
  に謝罪し、犠牲者に対する賠償を行うべきだ」とする決議を採択
  した。この「戦争犯罪」には、捕虜の強制労働、「南京虐殺」と
  ならんで、「従軍慰安婦の強要」が含まれている。[7]
  
   カリフォルニア州議会の決議には、アイリス・チャンの「レイ
  プ・オブ・ナンキン」の影響が指摘されている。チャンの本につ
  いては、本講座60号で紹介したように、中国政府の資金援助を
  受けたシナ系米人の団体が支援している。
  
  ★ JOG(60) 南京事件の影に潜む中国の外交戦術

   南京事件と慰安婦問題は基本的に同じ構造をしている。チャン
  の本は、日米関係に対する楔であり、慰安婦は日韓友好への楔と
  して仕掛けられた。これらの問題について、米国や韓国の対応を
  非難することは、友好関係を破壊しようとする狙いに乗ることに
  なる。
  
   国家の安全を脅かすものは、テポドンや工作船のようなハード
  の武力だけではない。一国の国際的地位を貶め、友好国との関係
  に楔を打ち込むような情報戦争が、外国と国内勢力の結託により
  次々と仕掛けられている。こうした攻撃から、いかにわが国の国
  益と国際友好関係を守るか、ソフト面の自衛体制が不可欠となっ
  ている。
  
■ 参考 ■
1. 「慰安婦の戦場の性」、秦郁彦、新潮選書、H11.6
2. 「闇に挑む!」、西岡力、徳間文庫、H10.9
3. 「慰安婦強制連行はなかった」、太子堂経慰、展転社、H11.2
4. 「歴史教科書への疑問」、日本の前途と歴史教育を考える
  若手議員の会編、展転社、H9.12.23
5. 「日本人が捏造したインドネシア慰安婦」、中嶋慎三郎、
  祖国と青年、H8.12
6. 「従軍慰安婦」、吉見義明、岩波新書、H7.4
7.  産経新聞、H11.08.27 東京朝刊 4頁 国際2面

c 1999 [伊勢雅臣]. All rights reserved.

 

http://homepage3.nifty.com/yoshihito/ian-fu-1.htm

朝鮮における従軍慰安婦(その2)


[1:朝日のキャンペーン記事と宮沢訪韓]

平成4年1月に宮沢首相が韓国を訪問するのに狙いを定めて、その5日前の平成4年(1992年)1月11日の朝刊から、朝日新聞は朝鮮人慰安婦のキャン ペーン記事を掲載しました。見出しだけでも「慰安所、軍関与示す資料発見、民間任せ政府見解揺らぐ」、「部隊に設置指示、募集含め統制・参謀長名で、次官 印も」、「<謝罪を><補償を>の声さらに」等々でした。このスクープと称するものの出所は防衛研修所図書館の「陸支密大日誌」 で、30年前から公開されていて慰安婦関係の書類が含まれていたことも、軍が関与したことも、従軍慰安婦研究者の間では新発見でも無く周知の事実でした。

このキャンペーン記事は朝日の予想通り大反響をを呼び、日本国内や韓国のマスコミにも詳しく報道され、日本政府は慌てふためいて情報の確認、分析や反論も しないまま、宮沢首相は早々と3日後の記者会見で「軍の関与を認め、お詫びしたい」と発言する始末でした。その後訪韓した首相を待ち受けていたのは大勢の 反日抗議デモで、天皇の人形が焼かれたり、名乗り出た元慰安婦が座りこむなど、反日デモが荒れ狂いました。毎日新聞ソウル支局の下川特派員によれば、

宮沢首相が青瓦台(大統領官邸)の記者会見場で、卑屈な表情を浮かべている姿が記憶に生々しい、1時間15分の首脳会談で、宮沢首相は8回も謝罪と反省を繰り返した−−−−。韓国の大統領主席補佐官は、韓国人記者たちに謝罪の回数まで披露した。こんな国際的に非礼な記者発表は見たことがない。

[2:軍の関与の正体とは]

朝日新聞が報じた資料とは陸軍省兵務課が作成し派遣軍などに通達した、「軍慰安所従業婦等募集に関する件」と題するもので、

  • 従業婦等の募集などに当たっては、派遣軍が統制し、
  • これに任ずる人物(慰安婦斡旋業者)の選定を周到適切にし、実施に当たっては関係地元の憲兵および警察当局との連携を密にして、軍の威信保持上ならびに社会問題上遺漏無きよう配慮せよ。

と指示したものであり、公娼制度下にあった当時としては常識的なものでした。内容については

  1. 外地勤務の慰安婦を業者が募集する際に、悪質な斡旋業者が無知な婦女をだまして勧誘/応募させることの無いように、注意を喚起したものである。
  1. 朝鮮人慰安婦に限ったものではない。

  2. 強制連行を類推させるものではない。

  3. まして軍が慰安事業の主体になっているわけではない。

それまでの政府の説明の中では、意味の紛らわしい、どのようにでも解釈できる「関与という言葉」を使い、慰安婦の「募集」についての関与を否定してきましたが、陸軍が現地軍(方面軍)に対して、斡旋業者を選定に際しての注意を喚起したに過ぎないのです。

[3:事実よりも政治的決着を優先]

宮沢総理が訪韓した際に、従軍慰安婦の件について謝罪することになった理由は
  1. 吉田清治の嘘の証言。(朝鮮における従軍慰安婦その1に記載)
  1. 朝日新聞のセンセーショナルな世論誘導報道。

  2. 慰安婦原告第1号である、金学順の証拠能力の無い証言。(朝鮮における従軍慰安婦その1に記載)

でしたが上記について簡単な事実関係の調査もせずに、訪韓に際して日本側が謝罪をすれば、韓国側も今後問題としないであろう と、お得意のその場限りの甘い判断をした結果でした。更に平成5年(1993年)8月4日に公表された「慰安婦問題に関する第二次調査報告結果」と、関連 した「河野洋平内閣官房長官談話」により、特に河野談話では調査資料の上からは全く存在しない慰安婦に対する「強制」を、政府が公式に認め謝罪することになりました。なぜそうしたのか?。

宮沢内閣の「重大な判断の誤り」が日本民族にもたらしたものは、日本の名誉に将来にわたる「慰安婦の強制連行」という虚偽の汚点を残したことでした。

[4:密約外交の代償、痛恨の河野談話]

これについては「文芸春秋」の平成9年4月号にジャーナリストの桜井よしこが当時の関係者にインタービューした内容が載っています。

石原信雄(都知事の息子ではなく当時の官房副長官、事務方のトップ)の発言

第1次調査では従軍慰安婦募集の強制性は見つからず、韓国政府も当初はそれほどこの問題に積極的ではなかったため、これで収まると思った。(政府)の関与を認めただけでは決着しないと思った、(韓国に16人の従軍慰安婦の聞き取り調査に)行くと決めた時点で(募集の強制性を認めるという)結論は、ある程度想定されていた。韓国側の要求により、慰安婦達の名誉が回復されるということで、強制性を認めたんです。当時外政審議室には毎日のように、元慰安婦や支援団体が押し掛け、泣き叫ぶようなありさまだった。最後まで迷いました。あれは両国関係に配慮してそうしたわけです。真実よりも外交的判断を優先させて、慰安婦の証言だけで結論にもっていった。−−−批判は覚悟している。

国賊、河野洋平(当時、官房長官)の発言

河野官房長官 政府が法律的な手続きを踏み、暴力的に女性を従軍慰安婦に狩り出したとする強制を裏付ける文書はなかった。けれども本人の意思に反して集められたことを強制性と定義すれば、強制性のケースが数多くあった。

河野という政治家は救いようが無いバカだと思います。日韓の間で当時問題になっていたのは、日本の軍隊、警察などの国家権力が売春婦集めに物理的強制力を行使したかどうかであって、そのような証拠は無かったことを河野自身も認めています。

意志に反して売春婦にさせられたのであれば、それはカネの為に娘を売った親やそれを商品として買い集め、売春宿に送り込んだ仲介業者(その多くは朝鮮人)、それに売春宿の経営者の問題であり、利用者側に過ぎない日本の責任では無いことは明らかです。

証拠も存在しないのに、韓国に対する政治的配慮から慰安婦募集に国家の強制性を認めたために、日本民族の子々孫々に至るまで汚名と、えん罪を負わせる結果になりました。

注:)[慰安婦の身の上話を聞かされて]

残念なことに河野という人物は昔からいわれているように、四角いタマゴと女郎のホントの話は存在しない。つまり「女郎(売春婦)の身の上話」はウソで塗り固めたものであることを知らないらしい。 女郎(売春婦)は客から身売りされた理由を聞かれれることが多いので、予め3〜5種類の身の上話を作っておき、農村出身の客には凶作で食う米が無いのでと か、商人の客には父親が事業に失敗して、などと相手に応じて哀れな身の上話をするのが常識でした。韓国での聞き取り調査ではお得意の強制連行の作り話を聞 かされて、しかも裏付け調査も全くせずに、それを信じ込んだのが原因でした。

平林博(当時、内閣外政審議室長)の発言

(元慰安婦の)証言を得た上で、箇々の裏付け調査をしたことはない。事前に当方の意図するところを(韓国へ)通報した(打ち合わせした)ということが直前にあったと聞いている。(慰安婦)の募集段階で、官憲などが直接かかわることは無かった。軍や警察の服装に似た人がいたことから、慰安婦が政府の関与と受け取った場合があるかもしれない。

[5:韓国が仕掛けたワナ、交換条件]

河野官房長官談話が出た平成5年8月4日は、すでに細川連立政権の誕生(8月6日成立)が決まっていました。その前に懸案事項を片づけておきたいという焦りが、土壇場の訪韓ヒャリング、河野談話となりました。韓国側から持ち出された慰安婦への補償はしなくてよい代わりに、強制性」を認めるという「交換条件」は、去りゆく宮沢政権にとって魅力的でしたが、それは日本の将来に禍根を残す「深い落とし穴」でもありました。これは日本外交の大失敗、敗北であるといえます。

その後の慰安婦裁判では必ず、河野談話が原告側の主張 を補強する証拠として提出され、平成10年4月27日の山口地裁下関支部での元慰安婦が起こした国家賠償を求める裁判の判決では、河野談話が強制連行の証 拠と認定されただけでなく、被告である国の抗弁権をも制約する結果となりました。それだけでなく河野談話が国連のクマラスワミ報告(国連人権委員会、女性 に対する暴力)にも強制連行が「事実として」引用されました。

前述の石原官房副長官の話
国家賠償の前提としての話であれば、通常の裁判同様、厳密な事実関係の調査に基づいて証拠を求めます。その当時は慰安婦の名誉をまもる為に韓国が「強制の存在」を要求していましたが、それを裏付ける資料が存在しなかったにもかかわらず、日本が認めれば問題が沈静化し解決すると期待していたのです。

[6:軍隊と慰安婦の問題]

ナポり女性の性病検診 従軍慰安婦に関する訴訟では、原告側は国家組織として関与したのは日本だけとよく主張しますが、それは間違いです。歴史をたどれば遠征するフランスのナポ レオン軍に同行した娘子軍(売春婦)の数は、兵士と同数はあろう。風紀の頽廃と性病は敵軍の砲火の10倍もの犠牲を作った、とナポレオンの陸軍大臣カル ノーは本に書きました。ナポレオンの遠征によりヨーロッパ大陸では性病が蔓延しましたが、それがきっかけとなり1802年にフランスでは売春婦たちの登録 と性病検診が義務付けられ公娼制度が発足しましたが、それが各国に広がり、イギリスではクリミヤ戦争(1853〜1856年)を契機に公娼制が導入されま した。

第二次大戦における各国政府や軍隊にとっての共通の悩みは、「性病による戦力の低下を防ぎつつ、いかにして若い兵士達へ適当な性の捌け口を与えるか」でした。

  1. 米国、英国型
    社会が私娼中心の段階にありしかも世論、特に祖国の女性の監視が厳しい状態のために、現地人女性に対する買春を黙認する形式を採りました。さらに婦人部隊の兵士(ピーク時には米国26万人、英国44万人)やナースに代替の役目が期待されました。
  1. 芸者ハウス 日本においても占領軍の指示に基づき日本の内務省が設置した R A A ( Recreation Amusement Association 、占領軍慰安協会)が高給で日本人売春女性(プロもアマも)を雇い入れ、米兵たちの要求に応えました。

    R A A が最初に新聞に出した広告の文面は、「戦後処理・国家的緊急施設、新日本女性求む」でしたが応募者が殺到し、1,360名の売春女性が採用されました。新聞記者のマーク・ゲインが書いた「ニッポン日記」によれば、

    R A A の本部には450名の事務員がおり、所属のダンサー(その大部分は淫売が副業)が2,000名、外人との性交渉にもいささかの「たじろぎ」も見せない売春に練達した職業女性が、350名に達するという状況だった。協会は東京だけでも33箇所の営業所を持っている。

    と述べていました。

    それでも新聞報道によれば、背の高い男、色の白い/黒い男たちによる強姦事件が多発し、米軍が積極的関与を控えた結果、兵士たちの性病感染者が増加しました。

  2. 日本、ドイツ型
    日本もドイツも平時から本国で公娼制度(管理売春制度、女郎屋)が定着していたので、戦地では監督役を警察から軍に肩代わりするだけで済みました。慰安所 の数については昭和17年(1942年)現在で、日本が約4百箇所、ドイツも5百箇所と似たような規模で、開設の理由から管理運営の仕組みまで似ていまし た。

    ドイツについては国防軍用だけでなく、アウシュビッツの囚人向けや、外国人強制労働者用にも慰安所がありましたが、目的は同性愛の排除、囚人の団結阻止、労働成績の向上でした。

  3. ソ連型
    日本軍に限らず戦争にはレイプの話はつきものですが、第二次大戦末期にソ連軍がドイツと満州、北朝鮮で、大規模なレイプを繰り広げた話はあまりにも有名です。戦時中に有名なユダヤ系の作家のイリア・エレンブルグは「ゲルマン女性は諸君の戦利品だ」という宣伝パンフレットを配り、兵士達のレイプを煽動したとされました。国や軍の幹部が半ば公然とレイプによる「復讐」を 奨励したのはソ連軍だけかと思っていたら、ベトナム戦争(1970年)中のカンボジャ VS 南ベトナム、バングラデシュ独立戦争(1971年)でもおこなわれました。さらに旧ユーゴスラビアの内戦(1992年)では「民族浄化」を目的とする組織 的レイプが起きて、国際裁判に掛けられようとしています。

    ソ連についてはシベリアに抑留されていた元軍医の体験記を読むと、慰安婦の集団を専用列車に乗せてシベリア大陸にある軍の基地を巡回慰安するサービスがあ るのだそうです。ある日彼が目撃したのは専用列車から降りた大勢の若いスラブ系慰安婦達が、駅前の広場で人目もはばからず脱糞、放尿をしてからトラックに 乗せられて、近くの基地に商売に行ったのだそうです。日本人捕虜達は広場の汚物の掃除をさせられたと書いてありました。

終戦から6週間後の昭和20年(1945年)9月27日に大田(南朝鮮)の朝鮮軍司令部は、東京の陸軍参謀次長に宛てて次の要旨を打電しました。
鉄原(ソウルの北80キロ)から脱出した日本人の報告によると、進駐して来たソ連軍は略奪ののち、9月1日に広島屋(遊郭街)に24人の邦人婦女を閉じこめ、連日のレイプで6人が死亡、他は10日頃にウラジオへ連行したらしい。また吉州でも250人の婦女がレイプされた後、殺されたという。他の都市も同様かと思われる。38度線より北とは連絡不能のゆえ、中央の外交手段で処置されたい。なお南朝鮮も米軍不在の地域は無政府状態で、邦人財産が奪われつつある。

[7:巨額のカネを稼いだ慰安婦の実態]

平成4年に韓国の元従軍慰安婦の文玉珠が起こした、「戦時郵便貯金の払い戻し請求訴訟」別名下関裁判というのをご存じですか?。彼女は戦時中にビルマで従軍慰安婦をして貯めた26,245円を郵便貯金にしていましたが、後にその中から5,000円を 朝鮮の実家に送り、敗戦後の混乱の中で預金通帳を紛失してしまい、昭和40年に預金は失効しました。それを27年後の平成4年になって預金の払い戻しを国 に要求したのです。勿論元慰安婦個人ができる裁判ではありません。そこには例によって元従軍慰安婦を「だし」に使い日本の威信失墜を図る反日左翼主義者た ちが裁判の筋書きを書き、彼女はそれに原告として利用されただけでした。戦時中の大卒の初任給が100円から150円の時代に26,000円の貯金とは、その金があれば当時東京でも家が何軒も買えた大金でした。

裁判の過程で明らかにされたことは、彼女が僅か2年半の間にこのカネを稼いだということでした。つまり30か月で2万6千円を貯金したので、毎月870円も貯金したことになります。大東亜戦争陸軍給与令(昭和18年)によれば、最下級の2等兵の月給は7円50銭で、下士官である軍曹が23円〜30円、戦地手当を含めると約2倍になったので、当時の兵士の収入を平均すると月額30円程度でした。彼女はその30倍も稼いだわけです。それだけではありません、陸軍中将の年俸でも5,800円でしたから、彼女は在ビルマ日本軍最高指揮官よりも、多く稼いでいたことにになります

反日左翼主義者による従来からの主張によれば、強制連行され性的奴隷の はずの従軍慰安婦が、それ程の大金を貯金できる身分であったことが公の場で初めて明らかになりました。裁判によって朝鮮人慰安婦の実体が偏向マスコミや反 日左翼の主張とは大きく異なっていたことが分かり、彼らにとって正に「ヤブ蛇」になりました。悔し紛れに彼女達には行動の自由が制限されていたと反論する 者もいましたが、兵隊でも看護婦でも戦地では同じ様に行動制限がありました。例によって朝日新聞は裁判の過程で明らかになった、慰安婦が稼ぎ貯金した巨額 の金額についての報道を一切しませんでした。偏向新聞の購読者は、朝日の主張に沿って洗脳されるのです。

注:)米国、国立公文書館の慰安婦に関する資料
朝鮮人慰安婦 捕虜にした朝鮮人従軍慰安婦について米軍が聞き取り調査をした記録が、戦争情報局関係資料、心理戦チーム報告書 No.49、ビルマ(1944年10月1日)に記載されています。

[募集]
1942年(昭和17年)5月、日本人の業者が朝鮮半島に赴き、東南アジアにおける「軍慰安業務」のためとして女性を募集した。高収入、家族の借金返済のための好機、軽労働等の宣伝に応じて多くの女子が慰安婦業務に応募し200〜300円の前払い報酬を受領した。

[日常生活]
(原告の文玉珠も生活していた)ビルマのミートキーナにおいては、 通常二階建ての大きな建物に住んでおり、一人一部屋を与えられていた。食事は経営者が用意したものであった。食事や生活用品はそれほど切り詰められていた わけでもなく、彼女らは金を多くもっていたので、欲しいものを買うことができた。兵士からの贈り物に加えて、衣類、靴、タバコ、化粧品を買うことができ た。
ビルマにいる間、彼女らは(日本軍)将兵と共にスポーツをして楽しんだり、ピクニックや娯楽、夕食会に参加した。彼女らは蓄音機(レコード・プレーヤー)を持っており、町に買い物に出ることを許されていた。

以上の事実からも反日左翼主義者や補償目当ての韓国人が主張した、従軍慰安婦について「籠の鳥」の生活や、強制連行されたとする主張はウソであったことが分かります。再度述べますがこれまでの強制連行の裁判では、7万〜20万人も強制連行の被害者がいたと主張しながら、犯行を裏付ける証人となる目撃者が肉親を含めて、一人も現れませんでしたその理由とは強制連行はもともと存在しなかった、だから目撃証人が得られず、従って証人が出廷しなかったということです。

現在でも売春立国の韓国から日本のカネ目当てに、大勢の慰安婦が来日しては不法滞在、不法残留を続け、大卒初任給が20万円の日本で、毎月100万円以上稼ぐ者が大勢いるのも戦時中の従軍慰安婦と同様で、私には十分納得できます。

参考までに平成16年12月1日付読売新聞の記事によれば、韓国人不法残留者の数は、平成16年1月現在で46,425名で、その殆どが女性でした。彼女達が何の商売をしていたのかは、容易に想像できます。

[8:朝まで生テレビの放送で]

平成9年(1997年)1月31日に放送された「朝まで生テレ」の番組の中で従軍慰安婦問題の討論に出演した女性に対する強制連行「あり派」の旗頭で、ア ジア太平洋における日本の戦争犯罪を熱心に追求してきた中央大学吉見義明教授は、従軍慰安婦の強制連行「無かった派」の小林よしのり、藤岡信勝東大教授、 西岡力との討論の中で、西岡力の「では朝鮮では(女性の)強制連行は確認できないんですね?」という質問に対して、あり派の吉見教授が「そうですね」と言って確認できないことを認めました。つまり「植民地での奴隷狩り的強制連行は、確認されていないこと」、および「女子挺身隊が慰安婦にさせられた例も、確認されていないこと」をテレビの前で明確に認めました。これは日本政府の5年前に調査した公式発表と一致するものです。従軍慰安婦問題について、強制連行「あり派」である吉見側の完敗でした。もともと日本と日本人を貶(おとし)める為に、でっちあげようとしたのでした。

[9:最高裁判決]

平成16年11月29日の報道に依れば、戦時中に軍人、軍属、慰安婦として旧日本軍に連行され(?)、非人道的な扱いを受けたとして、韓国人やその遺族合計三十五人が、日本政府に対して一人当たり2千万円の損害賠償を求めた訴訟の上告審判決が二十九日、最高裁第二小法廷でありましたが、1審、2審に次いで最高裁も原告の訴えを却下し、原告(韓国人)側の敗訴が確定しました。この判決は至極当然のものであり、左翼主義者のイデオロギーに基づく政治目的と、強欲な韓国人の金銭目的の産物であるこの種の訴訟は、これで終了することでしょう。

昭和40年(1965年)に締結された「請求権及び日韓経済協定」によれば、第2条に対日請求権は「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」と明記されていました。それによって韓国は当時の国家予算の50パーセントに相当する有償2億ドル、無償3億ドルの日本からの経済援助を受け取りましたが、一方日本政府も当時の乏しい外貨準備高の18億ドルの中から三分の一に近い5億ドルの援助をしたのでした。

示談成立後にもかかわらず韓国は、ことあるごとに謝罪やカネを要求し、日本は世界の旧植民地宗主国に例がない植民地支配に対する、謝罪や補償を繰り返してきましたが、イギリス、アメリカ、イタリア、ドイツ、ベルギー、フランス、オランダ、スペイン、ポルトガルなどの国を見習い、朝鮮半島に文明開化をもたらした歴史の事実を主張し、今からでも毅然とした態度をとるべきです。

[10:歴史に対する評価方法]

凶作にあえぐ東北地方では「娘を売っても、馬売るな」と もいわれていて、米などの生産に欠かせない馬は、娘よりも大事な地位にありました。農村では貧困が原因で娘の身売りが日常的におこなわれましたが、このま ま村にいて一家が飢えるよりも、自分が親のために犠牲となり、白い飯が食べられる慰安婦になろうと決心した娘がいたと思います。その一方で娘は親の所有物 と見なして、やむなく慰安婦に売った親が日本にも朝鮮にもいたはずです。

慰安婦の問題を論じる際に反日左翼主義者が朝鮮人従軍慰安婦の人権のみを主張し、日本人従軍慰安婦の人権や、更に韓国で平成16年(2004年)9月まで公認されていた売春制度について、売春の非倫理性を含めて非難せずにいるのは極めて片手落ちというものです。

歴史について善悪の判断、評価をする場合には、現在の価値観ではなく、その時代の法律、道徳、倫理観(人身売買による公娼制度の存在)、社会規範などを、基準にするのが正しい方法です。

これは植民地支配の歴史を論じる場合にも、当然当てはまりますが、従軍慰安婦問題という六十年以上前の事柄を、現代の法律、道徳、倫理観、人権感覚などで判断しようとす一部の日本人や多くの在日は、歴史を判断する際の基本原則に対する自らの無知や、浅薄な思考を、さらけ出すものです。

それはあたかも六十年まえの物価を、現在の貨幣価値そのままで判断し、高い安いを論じるような、愚かな行為と同じことです。

 

従軍慰安婦は強制です
少年A:「河野談話の早期削除を画策する安倍晋三と怪しげな仲間達、中川昭一や麻生太郎や下村博文が「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」と「日本会議」の奴らばかりなのはど〜して??」

俺:「ん?それはね、この組織に属する議員がすべてとは言わないが、バカウヨと同類の歴史認識をもつ議員が非常に多いからだよ、ちと古いがバカウヨの総本山から
毒電波を紹介しよう」

【産経のプロパガンダ 歴史の歪曲、捏造資料】

2006年10月30日 産経新聞 【主張】河野談話 再調査と見直しが必要だ
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/shuchou/25379/
慰安婦問題に関する河野洋平官房長官談話(平成5年)の見直しに言及した下村博文官房副長官の発言が波紋を広げている。野党は「閣内不一致」として追及する構えだが、問題視される発言とは思われない。
この発言は、下村氏が都内の講演で行ったものだ。個人的見解としたうえで、河野談話について「もう少し事実関係をよく研究し、時間をかけ客観的に 科学的な知識を収集して考えるべきだ」と述べた。政治家として当然の発言である。安倍晋三首相も「私も官房副長官時代に議員の資格でいろんな意見を言っ た」と問題視していない。
野党は、下村発言が安倍首相の国会答弁と食い違っているとしている。確かに、首相は参院本会議や衆院予算委員会で、内閣として河野談話を受け継ぐことを重ねて表明している。
しかし、衆院予算委で首相は以前の自分の考えについて、こうも言っている。「当時の官房副長官の話を聞いた結果、当初、報道されていた内容と違う と疑問を持った」「当時、『狭義の強制性』が果たしてあったかの確証については、いろんな疑問点があると申し上げた。その後、『広義の強制性』に議論が変 わっていった」
河野談話が抱える問題点の核心をついた答弁である。当時の官房副長官は石原信雄氏で、「狭義の強制性」は軍や官憲による強制連行のことだ。
河野談話はいわゆる「従軍慰安婦の強制連行」を認めていた。だが、それを裏付ける証拠は日本側が集めた公式文書になく、談話発表の直前にソウルで 行った元慰安婦からの聞き取り調査のみに基づいて「強制連行」を事実と認めたことが、後に石原氏の証言で明らかになった。その後、一部マスコミが「広義の 強制性」に論点をすり替えたこともよく知られている。(以下略)

※衆議院議員 自民党 下村 博文 (シモムラ ハクブン)
http://seiji.yahoo.co.jp/giin/jimin/000454/
日本の前途と歴史教育を考える議員の会 事務局長
日本会議国会議員懇談会 事務局長


( ゚Д゚)ハァ!?  もうさ〜この狭義だとか広義だとかいう詭弁いいかげんやめたら
どうせ、安倍晋三のことだから、正論のアホな論客か日本会議の誰かの入れ知恵なんだろうけど プッ

しかも、一部マスコミって朝鮮カルト産経のことだと思うけど、論点すり替えて歴史の史実を歪曲してるの、あなた達とバカウヨ議員達でしょ、そんなデタラメばかり書いてるから、扶桑社の教科書採択率が数%しかないんですよ。

それに、リーダーシップの欠片もない安倍晋三だから内閣不一致発言は日本國民全体がとっくにあきらめてるけど、それを必死に擁護する朝鮮カルト産経ってどうなの??

醜さが同類の安倍晋三に言いたいことがあるんだけど、公式文書による軍による強制の証拠ならオランダの公文書館にあるのに、日本政府が調べてない だけでしょ、それに日本、アメリカ、台湾の未公開の公文書の調査と、東南アジアを植民地にしていた連合国側イギリス、オランダ、フランスの公文書の調査も してないし、なにより、公文書以外の兵士の日記や、証言も、すべて証拠として認めないで スル━ ってなんですか (゚∀゚)

朝鮮での軍による強制が、証言以外の公式文書では見つからなかったことは認めますよ、しかし、それをもって他の国でも軍による強制はなかった、な んて論点のすり替えは、産経や「つくる会」や自民党のバカ議員による議員連盟「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(会長・中山成彬元文科相)ぐらい にしか通用しませんよ、なぜなら中国やインドネシアやフィリピンなどにいた従軍慰安婦達に日本軍がした「狭義の強制性」の証拠を否定できてないからです。

ようは、日本政府による従軍慰安婦の調査では、最初、軍の関与と強制を否定するための調査だったんだけど、否定できない事実が次々に出てきちゃって、認めざるえなくなっただけでしょ??

それが気に食わない、「名前がムダに長い自民党バカ議員の会」や「日本会議」やらの宗教ウヨの連中が、自分達に都合のいい歴史に歪曲しようと、圧 力かけたり、電波飛ばしまくったりして、けっきょくアメリカでの「慰安婦決議案」提出なんて問題にまで発展して、ご主人様アメリカにお仕置きとして “げ んこつ” ゴチ〜〜〜ン!! とされそうになって、ファビョ ファビョ してるだけでしょ??

自分のような真っ当な歴史認識を持つ日本國民にとって、今だによその国から戦争責任を問われ続ける原因を作り出す、一部のバカ政治家どもの、このような愚行を重ね

る行為は、迷惑千万である!!

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記者が忠南論山の陸軍第2訓練所に入所した 1980年当時までにしても論山訓練所垣根を越せばいわゆる '毛布部隊'にあえた. 当時訓練兵だった記者が '毛布部隊'を直接目撃したことではないが訓練所助教や期間病たちは自分たちが '毛布部隊'と遭遇して '激戦'を行った '武勇談'をよく話したりした.

'毛布部隊'は訓練所垣根の外で毛布一枚を '武器' して訓練兵たちを相対する娼婦たちの俗称. こんな移動式私娼形態の毛布部隊員話は美談や神話のように聞こえたりした. しかし軍が直接慰安部隊を設置して運用したら問題が変わる.

▲韓国軍の朝鮮戦争期間 '慰安婦' 運用事実を報道した日本 <?????> 2月24日付け記事.(太い船内)
去る 2月22日 <?????> に '韓国軍も慰安婦運用した'と言う発掘記事の初回分が報道された以後独自の反応は大きく三種類で分類することができる.

第一, 軍医暗い恥部を公開して反省しようということ. 第二, 旧(旧) 日本軍隊慰安婦(慰安婦) 制度とは違う公娼(公娼)なので不法ではないということ. そして終わりは公娼でも私娼でも軍が展示(戦時)に士気高揚のために慰安婦を利用したのが何が過ちかと言うのだ. この 2回分記事は主にその二番目反応と直結された返事を盛っている.

この発掘企画記事の初回分でよく見たように, 韓国軍が 1951年頃から 1954年まで '特殊慰安台'という名前で固定式あるいは移動式慰安婦制度を取り入れて運用したのは否認することができない歴史的事実だ. そんな事実は陸軍本部が 1956年に編纂した公式記録な <????(後方戰史)> (あいさつの方)と目撃者たちの証言に裏付される.

< ????> に積まれた '特殊慰安台実績統計表'は 1952年度に 4ヶ牛どおり編成された慰安台 89人が年間 20万4560人の兵力を '慰安'したと記録している. 慰安婦 1人が一日平均 6?7人の将兵を慰安したのだ. またチェ名臣・チァギュホン・ギムフィオなど予備役将軍たちも朝鮮戦争期間に経験した慰安婦制度に対して "現わしたくない恥ずかしい軍部の恥部だが事実だ"と証言している.

もちろん韓国軍慰安婦制度は句日本軍 '従軍慰安婦' 制度を真似った跡にもかかわらず二つの制度は本質的に違う. 韓国軍慰安婦は慰安婦動員方式や規模などでも句日本軍従軍慰安婦と比較にならないが, なによりも後者は強制性を帯びている国家動員体制の一環で施行されたという点が違う.

しかしその同じ根本的な差にもかかわらず韓国軍慰安台は設置同期や運営方式面で日本軍従軍慰安婦制度を真似って似ている姿をしたことまた事実だ. 言わば慰安所の前で列をなして慰安婦を待つ軍人たちと戦闘力損失を防止するために定期的に性病検診をする軍医の姿などは日本軍従軍慰安所の風景と違うとこ ろないのだ.

また軍票(日本軍) 代りにチケット(韓国軍) みたいな対価が支払いされた取り引き形式に運用された点も外形上に似ている姿だ. 日本右翼はこれを立てて余分の慰安所制度を一種の公娼制のようなことで正当化したりする. しかし軍票は日本の主要銀行がいつでもお金で取り交わしてくれる一種の '有価証券'だった. また公娼制が国家が女性の性を統制した場合なら慰安所の場合は展示という状況で国家よりもっと力強い力を発揮する軍が管理・運営の主体という点で被害女性 たちに対する人権染躪はもっと極甚になるしかなかった.

韓国軍 '特殊慰安台'は事実上の公娼

ところで注目する事実は当時国軍が設置して運営したこの '特殊慰安台', すなわち固定式慰安所の性格が事実上の公娼だったという点だ. 言わば軍医公式記録には "休戦によってこのような施設の設置目的が解消されるに至って公娼廃止の潮流に順命(順命)して檀紀 4287年 3月これを一斉に閉鎖した"( <????> 148?149ページ)つらくてある. 余分の自らが '特殊慰安台'を公娼と認めているのだ.

短期(檀紀)を西紀(西紀)に換算すれば, 慰安所を '一斉に閉鎖'一時点は 1954年 3月だ. ところで 1947年 11月11日米軍政庁が公布した公娼廃止領(法律第7号)の発效した時点は 1948年 2月からだ. 明確な記録はないが慰安所設置時点は 1951年に推定される. したがって郡は公娼廃止領江戸かかわらず 1951年から 1954年まで約 3年間不法で公娼を設置・運営した犯法行為をほしいままにしたのだ.

結局軍が '公娼廃止の潮流に順命して慰安所を閉鎖した'と言う記録はふと見れば事実のようだが実際では自分の犯法行為を隠蔽するために事実を巧みに歪曲したのだ. 軍は政府の公娼廃止領にもかかわらず事実上の公娼を 3年間も不法で運営したけれども '公娼廃止の潮流に順命して閉鎖'したことのように記録しているからだ.

それなら朝鮮戦争当時余分の慰安所を設置・運営する犯法行為の主体は誰だろう. これに対してはまだ明確な記録や証言を捜すことができない. ただ韓国軍の '慰安台' 運用事実を初めて申し立てたギムグィオック博士(慶南大北朝鮮専門大学院ビジティングプロフェッサー)は <????> わ予備役将軍たちの回顧録そして関連者の証言などを土台でこんなに主張する.


"'特殊慰安台', すなわち余分の慰安所は陸軍によって設置されたのは間違いない事実だ. 当時韓国軍の作戦体系上余分の慰安台の設置及び管理問題に対しての上では国連軍の最終承認の下に運営されたことに推定されて, 下では特殊慰安台部隊長の責任の下に総括されたことと見える."


国連軍の最終承認の下に運営されたはずだという推定は 1950年 7月韓国政府が陸・海・空軍の作戦指揮圏を国連軍総司令官に委任したことに根拠を置いている. しかし <????> 度明らかにしているように, 慰安所運営は電線ではない後方に限っていた. また慰安台のさばる作戦指揮圏の範疇に含まれないから国連軍の最終スングインハに運営されたはずだという推定は説得力が劣ったように見える.

しかし当時国防省と陸軍の首脳部はこのような不法行為の責任で自由ではないようだ(国防省に合同参謀会議の設置された時点は '特殊慰安台'を閉鎖することわずか一月前の 1954年 2月なので合同参謀は慰安婦設置・運営の繋船上から除かれる).

▲ チョン・イルグォン前陸軍参謀総長. 朝鮮戦争当時日本軍 '慰安婦' 制度を真似った '特殊慰安台'を軍に設置した不法行為の核心責任者中の一人に推定される.
慰安所を設置・運営した時点の歴代陸軍参謀総長は △5代チョン・イルグォン中将(1950. 6?1951. 6) △6台李鍾賛中将(1951. 6?1952. 7) △7台バックソンヨブ大将(1952. 7?1954. 2) △8代チョン・イルグォン大将(1954. 2?1956. 6) などだ. 1951年に推定される設置時点で見ればチョン・イルグォン・李鍾賛二人の総長の一人だ.

1948年創軍当時の軍首脳部人脈が大部分日本軍・関東軍出身だったが, 二人の総長皆日本陸士出身だ. 朝鮮戦争時代に慰安婦制度を目撃したギムフィオ将軍(予備役陸軍所長)の "過去日本軍隊従軍経験がある一部連帯幹部たちが部下詐欺高揚のための発想から始まったこと"という証言はそれに対する手がかりを提供する. ギムグィオック博士も "軍隊慰安婦創設の企画者が確かに日本軍や関東軍出身者とか彼に影響を受けた者に推正することができる"と明らかにする.

余分の関係者たちは李鍾賛総長が 1952年釜山政治波動の時軍医政治的中立を力説した '本当に軍人の象徴'で見なされて来た点に映して一応チョン・イルグォン総長の方に余分の慰安台設置・運営可能性の比重を大きく置く. 一方当時国防省長官の中では第2代シン・ソンモ長官(1949. 3?1951. 5)課題3台イギブング長官(1951. 5?1952. 3) の一人が設置を承認したことに推定される.

韓国軍慰安婦, これらはだれか?

それなら果して軍隊慰安婦, これらは誰だろう. ところで既存の資料どこにも慰安婦正体に対する言及はない. ギムグィオック博士によれば, ただいくつかの文献では少なくない帰還日製余分の慰安婦たちが朝鮮戦争当時性(性) 売買業で流れて行ったという経験的陳述による推定だけあるだけだ. 1996年から束草で越南民研究をしてから初めて韓国軍慰安婦問題に対して関心を持って関連者たちをインタビューして来た金博士の推定によれば慰安婦の正 体と類型は何種類で分けられる.

金博士がまず注目したことは, たとえ小規模ではあるが日本ミリタリズムの '慰安婦' 募集形態を瓜二つな形態の慰安婦が存在したという事実だ. それはちょうどブックパゴングザックワンと慰安婦の '不幸な出会い'だった. 匿名を要請したブックパゴングザックワン出身人士とのインタビューを通じて金博士が明らかにしたこの一番目類型は拉致と強姦によって '慰安婦'になった事例だ.

ムンアムゲ(69) さんは 1951年 5月頃原産前海にある島で他の女性同盟院 3人と一緒に集まっている途中当時原産前海の女道で諜報工作活動をしたブックパゴングザックワンドルに拉致されてからなかでも一人(李何某下士官)に劫奪 あった後強制で '慰安婦'になったケース.

門さんは結局 1953年 7月停電になるまで女道で以下士官の子供を生んで一緒に暮した. 一緒に拉致された他の女性たちも昼には軍人たちのご飯と洗濯をして夜には '慰安婦'にならなければならなかった. こんな事は隣近譲り渡しでもあった.

金博士によればムンさんを拉致したブックパゴングザックワン催何某さんは "部隊内に慰安婦を連れていることは過ちだが, '私たち'が '日本軍'とは違わないか, 私たちとは血が通わアンヌニャであり拉致した慰安婦問題に対する説明を濁ごした"と言うのだ. また他の類型は本隊と落ちて独立的に炊事生活をしなければならなかったブックパゴングザックワン部隊員たちが '慰安婦'を雇ったケース. 金博士は自分の論文でこれらの正体に対してこんなに明らかにしている.


"ブックパゴングザックワン 1は余分の慰安婦たちは職業的に身を売る女性たちだったと一蹴した. ブックパゴングザックワン 2度ここに同意した. ところでブックパゴングザックワン 1や 2行っていた原産先に進むに慰安婦で全女性は 'その島へ来て郡だって飯をたいて洗濯してくれてほしい元金新調することができる'と言う話にだまされて来たと工作員 2は行き違う証言を言った. 戦争未亡人として生活苦に苦しみながら一種の 'だね労務者'になったことは彼の選択だったと言っても軍隊慰安婦になったことは断ることができない強制的な状況で起こった事だった. なおかつ拉致された女性たちに選択権や拒絶圏は与えられなかった."


▲ 朝鮮戦争期間に韓国軍と米軍が逮捕した人民軍看護婦 2人. 当時逮捕した北朝鮮女性の一部はレイプされるとか強制で '慰安婦'になった.
1950年当時医科大学生だった李何某(73) さんは拉致または強要によって軍隊慰安婦になる所だったまた他の女性の事例だ. 6・25 当時ソウルに残ってから人民軍に協力したことから国軍に逮捕したこのさんは他の女医大生 3人と一緒に引き継ぎされた部隊の将校 4人に '割当'になった. このさんは幸いに自分を可愛想にここは一将校の助けで釈放されたが他の 3人はあの時以後二度と見られなかった.

拉致または強要によって事実上の軍 '慰安婦' 役を一事例は多くないが朝鮮戦争に参戦した予備役将軍たちの回顧録にも一部登場する. 1951年 8月陸軍いわゆる(総合31期)に任官して 1984年 8月陸軍所長に予編したギムフィオ将軍の回顧録 <??? ??> (2000年)がそれだ.

1951年 8月任官するやいなや東部戦線首都社団(師団長ソングヨチァン)に倍速されて香炉峰戦闘に参加したギムフィオ将軍が当時に導いた小隊院たちは大部分首都社 団が咸境道に進撃してから中共君の介入で興南撤収作戦の時にデ洞(帯同) 越南した主に咸興-原産地域高校出身の現地入隊青少年たちだった. ところで当時国軍は男子学生たちだけではなく一部女子高生たちも '特殊目的'で大同越南したことと見える.

北朝鮮女性拉致して '慰安婦'で利用したり

ギムフィオ将軍の回顧録によれば, 以後電線をすり抜けて来た首都社団は 1951年 11月~1952年 4月智異山工費討伐作戦に動員されて当時南原に位したバックソンヨブ将軍が導く西南誌で戦闘司令部隷下主力部隊で 8社団などと合同で作戦に参加した. 金将軍は小将時代討伐作戦途中に智異山の戦闘地域指揮所で目撃した光景をこんなに記録している.


"大隊長天幕の中で分明して戦闘服を着した少女一人が出て伸びを伸ばして体操をしているのではないか! 先任下賜にどうする英文なのか問って見たら大隊長が北進当時咸興女子高生を愛妾で連れ, 撤収して作戦期間の中でスンチョンに仕えてから最近 OPで伴ったというのだった. 数日後代代丈室で手水大領指示があったのか当番病が飯ごうで水を暖めて持って行っていた."


▲ 朝鮮戦争直前に当時 38線以南である壅津半島を訪問して女学生たちの迎接を受けたUN現場視察団. 1950年 10月?12月北朝鮮地域を占領した米軍と韓国軍の一部将校たちは中共君の介入で後退しながら一部女学生たちを '特殊目的'で大同越南したことで現われた.
金将軍は当時行軍する時綿布団寝具と女化粧品箱が戦闘小隊院の貸し下げをの中でリュックサックの上にお負けで載せられて行く悲しい現実を木刀して怒った が, 占領地での強姦と拉致は実はたくさんある状況だった. '軍隊慰安婦'になる所だった前の李何某さんと国軍出身で人民軍解放戦死になった非転向長期囚量定号さんや他の国軍出身者たちの証言によれば, 国連軍と国軍は 1950年 10月?12月北朝鮮地域を占領したうちにかなり多い数の民間女性たちを劫奪したことと見える. これに対してギムグィオック博士はこんなに推正する.


"特に左翼賦役疑いがいる若い女性に対する強姦は実際及び仮想的に対する統制及び悉歯方式の一つだった. 非公式的に 1950年にも軍隊慰安婦や慰安台は存在したことと見えて, むしろ軍医風紀紊乱を憂慮して 1951年以後余分の慰安台を公式創設したし一線軍部隊でも非定期的に軍隊慰安婦を動員したことと見える."


そしてこのように民間人強姦と拉致によってもう '慰安婦' 生活を経験した女性たちのかなり多い数は自暴自棄の心情で私娼で流れて行ってから再び '軍隊慰安婦'という公娼に編入される悪循環を繰り返えしたように見える.

予備役将軍たちが憶えるまた他の類型は売春町から仕こんで来た貧しい女性たちに関するのだ. こんな女性たちに対する '慰安'の対価は買うという恤兵部も開くんだってあいさつ先で出費したというのだ. しかしこれらの証言でも現われる明らかな事実は展示の下に特別慰安台を利用すること以外にも前方の部隊たちは必要の時軍隊慰安婦を採用することができたな らことと見える. それでギムグィオック博士は余分の政府が明らかにした慰安台廃止時点に対しても次と問題を申し立てる.


"軍部隊が公式運営した公娼としての慰安台は 1954年 3月に消滅したのか分からないが, ブックパゴングザックワンの証言では事実上の慰安台が存在している. その慰安台は私娼の形式で存在するが軍部隊が公式的な '厚生費'の名目で出費してブックパゴングザックワンに対する褒賞の形態で存在して来たようだ."


それなら朝鮮戦争当時韓国軍慰安婦の規模はどの位だったろうか. ギムグィオック博士は "現在としては朝鮮戦争当時公式・非公式的慰安婦規模が分かるあてがない"と前提しながらも "ただ戦争直前私娼の規模をしのぐと推正するだけだ"と言う.

▲ 朝鮮戦争期間後方で進行された 'ズィザブギ作戦'(工費討伐作戦)で生け捕りされた女性ゲリラ. これらの中一部は軍 '慰安婦'で動員されたはずだという疑惑が申し立てられている.
ところで関連記録によれば, 1947年 11月米軍政庁が公娼廃止領を発表する直前の 1947年 10月20日現在公娼の規模は 2124人だった. しかし翌年 2月公娼廃止領が発效した後人 1948年 10月末になると私娼は 5万名余で急増する. また朝鮮戦争が終わった後性売買をする女性は 30余万人で増える. 公娼が廃止されながら私娼は急増したのだ.

一部女性学者たちはこのように性売買女性の増えたことは生活苦だけではなく '日製末期数千名医慰安婦たちが解放以後故国に入って来て生計を引き継ぐことができなくて娼妓と転落'したところも原因があったことに推定される. しかし他の一方では前で例であげた場合のように, 民間女性たちが拉致と強制の形態で慰安婦になった事例もあったのだ. 次は金博士の指摘だ.

"もし一足譲歩して軍隊慰安婦が過去球・私娼出身だったと言っても, 朝鮮戦争戦前(戦前) 5万名余の球・私娼が前後 30余万人で増えた問題とかかって見る時説明されない. 軍隊慰安婦がどんなに動員されたしその規模はどのゾングドヨッヌンがに対して確かに糾明することはできないとしてもまだ朝鮮戦争当時軍部責任を引き受けた 者等が生存しているので政府政府はこの問題に対して真相を糾明する責任がある"


強制されてない慰安婦も被害者
従軍慰安婦や強制連行について議論があるが、その原因は敗戦による
債務不履行が原因ではないか。
勤めてた会社が倒産して、給料が払われないとなったとき、それが数百万
レベルだったら、おいそれと諦めるはずがない。
弁護士に相談したり、訴訟を起こしたり、場合によっては旧経営者の家の
前でハンストやったりするかもしれない。慰安婦たちが単なる詐欺師集団で
国をゆすってお金を引き出させることが目的なら国連にまで話を持っていく
ような真似をするだろうか。
結局、働いた分だけ返せっていうのが向こうの言い分で 条約で拒否と
いう堂々巡りをどうにか解消するために、詭弁をろうしているのではないか。
結局安倍総理はお国のために協力してくれたにも関わらず、敗戦による
国債や軍札、あらゆる債務不履行が行なわれたことへの言及・そして
そのことへのなんらかの補償がなければ、彼らは永久に日本を罵倒し
つづけるだろう。
忘れてはならないのは、彼らもまた日本のために尽くしてくれた人間たちで
あること。
堂々 | URL | 2007/03/09/Fri 06:40 [EDIT]
管理人の承認待ちです。
このコメントは管理人の承認待ちです。
- | | 2007/03/08/Thu 14:19 [EDIT]
「さと」さんと「jk」さんへ
とりあえず、コメント欄では書ききれないから記事にしたんで読んでみて
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-33.html
やっしゃん | URL | 2007/02/25/Sun 11:03 [EDIT]

 

 

続 従軍慰安婦は強制です
従軍慰安婦は強制ですという記事を書いたら「さと」さんと「jk」さんという方から以下のようなコメントをもらった、自分の書いた記事の内容とぜんぜん違う事を、一方的、感情的にコメント欄へ書いているようだ。
誤解してるだけかもしれないので説明させていただきます。

馬鹿も休み休み言って欲しい。君がまっとうな歴史認識を持っているなど聞いて呆れる。
20万人の学校帰り、買い物帰り、勤務中、農作業中、家庭団欒の最中の一般朝鮮人女性を日本軍という巨大組織がいきなり誘拐して連れ去り終戦まで性の奴隷にしたなどという事実が存在するのなら、20万例とは言わない、一例だけで結構なのでご紹介願いたい。
現在まで、多くのひま人の努力の甲斐もなく そのような女性はただの一人も確認できていない。日本軍の誘拐を目撃した人間さえ一人も確認されていない。20万人の誘拐事件だ、一人で良いから目撃者の実名を挙げてみよ。
  君のような人間を偽善者という。
さと | URL | 2007/02/24/Sat 17:39


日本軍が数万の韓国人女性を誘拐したに違いないと思い込んでいるのでしょう。
jk | URL | 2007/02/24/Sat 18:18


まず、自分は記事の中に朝鮮人のことなど、何処にも書いてない(笑)
それから、慰安婦についての嘘の部分はアメリカに抗議するべきだと思っているし、20万人という数字をどこから出してきたのか知らないが、この数字はあきらかに嘘なのだから、日本政府は抗議するべきだ。
ただし、アメリカ下院の議決案に「20万人の誘拐事件があった」と書いてあればの話だが(笑)

「狭義の強制性は軍や官憲による強制連行のことだ。By産経」を定義とすると「あった」のか「なかった」のかと言えば「あった」と書いただけだ。

韓国での狭義の強制性がない → 他の国での狭義の強制性はあった → ○狭義の強制性はあった

韓国での狭義の強制性がない → ×狭義の強制性はない

これを「強制性」の否定ありきの、論点そらし、史実の歪曲だと書いたのだ。

> 君のような人間を偽善者という。

どこが?? なぜ??

> 一人で良いから目撃者の実名を挙げてみよ。

とりあえず、ネットで「狭義の強制性」に関する記事を探してきたんで、これを読んでください。

〜〜〜引用開始〜〜〜

まずはオランダ領をみていくことにする。

オランダ政府報告書によると戦時下のジャワを中心とするインドネシアでは15万人を越えるオランダ人が日本軍の管理する捕虜収容所および民間人抑留所に収容されていた。
そこで軍の担当者と業者が収容されていたオランダ人女性に目をつけ 、高待遇を餌にして慰安婦になるように勧誘や説得を行った 。 抑留所を管理していた 第16軍軍政監部は 強制しないこと 、自由意志で応募したことを証明する本人のサイン付き同意書を取るように指示したが、違反する出先部隊もあった 。その代表例が白馬事件である 。

白馬事件とはスマラン慰安所で行われた強制売春のことで、1948年に女性たちの告発により戦後のBC級裁判の法廷で裁かれ 、死刑を含む10数人の有罪者を出している 。有罪者のなかには軍人のほかに 、慰安所を経営していた日本人業者も含まれている 。法廷では慰安婦にされた35人のうち25名が強制だったと認定した 。

1994年のオランダ政府報告書ではオランダ領インドネシア各地の慰安所で働いていた200〜300人の白人女性のうち少なくとも65人を強制売春の犠牲者だと判定している。逆に言えば志願者もいたことも冷静に認めているようだ 。

他にオランダ人女性以外の事件として南ボルネオの強制売春事件がある。主として日本人の現地妻だったインドネシア女性を強制的に慰安婦にしたかどで13人の軍人たちが有罪となっている 。

なんとオランダ領では強制連行の証拠があり裁判まで行われていた。

〜〜〜引用終り〜〜〜

スマランの白馬事件(少将・大佐が有罪になっている)は、日本軍軍人の強制連行の証拠が明確に残っている。
当時ジャワには既に現地人・日本人等の慰安婦はいたにもかかわらず、わざわざ司令部に具申して白人慰安婦専用の慰安所を作り、この強制連行・売春強要事件を引き起こした。

収容所に足を運んで、女の品定めしたのも強制連行したのも陸軍の軍人で、しかも軍を管理する将校が軍務の中で軍組織を使って行った犯罪で、オランダ女性は本人の意思に反して強制連行され慰安婦にさせられた、売春強要事件だ。
俘虜管理部も南方軍司令部も確認済みで、1944/4には慰安所は閉鎖されている。





次にフィリピンの慰安婦の証言をみてみよう。

〜〜〜引用開始〜〜〜

ヘンソンさん 著書「ヘンソンの苦難」から

42年2月、近所の山路で3人の日本兵にレイプされた。直後に抗日人民軍のフク団(フクバラハップ)に加入、アンへレス地区で伝令や物資調達を担 当、翌年4月組織の指示で男性ゲリラと荷車に武器と弾薬を忍ばせて運ぶ途中、日本軍の検問所で捕まり、駐屯地に監禁、「慰安婦」にされた。
44年1月、ゲリラ仲間が襲撃して奪還してくれた。

職業的慰安婦とは違ったケースである 。 ヘンソンさんを含むフィリピンの慰安婦たちのほとんどは 、業者が介在する余地がなく慰安所暮らしではない 。フィリピンの場合 ゲリラ討伐や内偵に便乗した虐待やレイプが行われていたと思われる 。

慰安婦たちのリーダー的存在であるヘンソンさんはアジア女性基金に反対していたが 、その後気持ちが変わり96年8月に第一号として200万円の償い金を受け取っている 。
彼女は 英文で回想録の原稿を執筆したほどの知力の持ち主で 、記述も筋道が通っており 最も信憑性の高い証言者だと思われる 。 残念ながら 彼女を9ヶ月監禁した部隊名や隊長名がわからず、直接的な裏づけを取ることはできていない 。
しかし 、タルラック憲兵分隊にいた北崎茂三少尉は 、ゲリラとの戦いで兵士たちの気持ちは荒れていたから申し立てのような状況はありえただろうと語っている 。
事実 、フィリピンの第14部隊は軍紀が乱れていると定評があり 42年5月2日の陸軍省会議で 大山法務局長 が 「 南方軍の犯罪件数237件 、支那事変に比して少なし 。第14軍には強姦多し 」 と報告している。

〜〜〜引用終り〜〜〜

オランダ領では裁判まで行われており強制連行の証拠がある、他にも、極東軍事裁判関係文書の中からモア島で5人の現地女性を兵営改造の慰安所 に強制連行した中尉の尋問記録(検察文書5591号)が見つけられているなど、 確実な軍の強制連行の例はあります。

またフィリピンでは直接の裏づけとなるものが あるわけではないが、関係者の証言や歴史的事実と矛盾しない 信憑性のある証言も存在する。
中国での裁判でも 117師団長 鈴木啓久中将が慰安婦の誘拐を行ったという 筆供述書を提出しています。

【参考・引用資料ソース】
http://www.geocities.jp/nannjakorea/rekisi/ianfu6.html
http://www006.upp.so-net.ne.jp/nez/ian/





次ぎに日本の政府機関と軍(在上海陸軍武官室、総領事館、憲兵隊)によって慰安所の設置が決定されたことを直接的なかたちで示す公文書を見てみよう。

〜〜〜引用開始〜〜〜

    皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件
  本件ニ関シ前線各地ニ於ケル皇軍ノ進展ニ伴ヒ、之カ将兵ノ慰安方ニ付、関係諸機関ニ於テ考究中ノ處、頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果、施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依り設置スルコトトナレリ。  
(以下略)

この依頼状から、1937年の12月中旬に上海の総領事館と陸軍武官室と憲兵隊の三者間で協議がおこなわれた結果、前線に陸軍慰安所を設置することが決定され、その運用に関して三者間に任務分担の協定が結ばれたことが判明する。
(以下略)

1937年の遅くとも12月中旬には華中の日本陸軍を統括する中支那方面軍司令部レベルで陸軍慰安所の設置が決定され、その指揮下にある各軍(上海派遣軍と第10軍)に対して慰安所開設の指示が出されたと考えてまずまちがいない。
それをうけて各軍で慰安所の開設が進められるとともに、関係諸機関(特務機関、憲兵隊、領事館)が協議して任務分担を定め、領事館は慰安所の営業 主(陸軍の委託を受けて慰安所の経営をおこなう売春業者)および慰安所で働く女性の身許確認と営業許可業務、渡航上の便宜取り計らい、内地・植民地の関係 諸機関との交渉にあたり、憲兵隊は営業主と従業婦の前線慰安所までの輸送手配と保護取締、特務機関が慰安所用施設の確保・提供と慰安所の衛生検査および従 業酌婦の性病検査の手配を分担することになったのである
(以下略)

なお、一般公娼施設と軍慰安所との間に明確に警察の管轄区分がなされていた点で、軍事警察が占領地の風俗営業取締を担当していた日露戦争中の満州軍政や第一次大戦期の青島占領とは性格を異にするのである。
(以下略)

〜〜〜引用終わり〜〜〜

【陸軍慰安所の設置と慰安婦募集に関する警察史料ソース】
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/2semi/nagai.html





最後は、産経新聞の元社長が日本軍による強姦を認めているのを見てみよう。

1983年産経新聞社長だった鹿内信隆氏の証言
フィリピンでの日本軍に関して(鹿内氏は1942年当時主計将校として陸軍省勤務)

本間軍団の経理部のいちばん偉い人は、私どもの経理学校の上官だった人ですが、名前はここで申し上げないほうがいいとおもう。上陸作戦がすんでから、その人が陸軍省に報告に来られた。経理担当の最高の師団将校ですから。
で、その人の報告は、要するに「すばらしい」というんです。
何がすばらしいのかといったら、マニラ大学の女の学生は全部セレベスとか、方々の島々の豪族の娘たちが集まっていた。
ところが、日本軍がマニラに上陸したら、島に帰れなくなっちゃった。
寄宿舎にいるやつが、みんな孤立しちゃったわけだ。
それを日本の将校がいただくわけだ。
それが、いかにすばらしいかという報告で終始一貫おわっちゃったわけね。
その戦況報告のはなしが……。

「いま明かす戦後秘史 上」サンケイ出版 1983  P29〜30


( ´,_ゝ`)プッ



以上をもって軍による狭義の強制性と、強姦はあったと結論付けるに至ったわけですが、間違ってますか??

これを読んでも、まだ「狭義の強制はない」と言い張る人がいるなら、自分とは永遠に歴史認識が交わることはないと思います。

ここまで調べるのに、ぶっちゃけかなり疲れた(笑)

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福岡県民さんへ

> 「早稲田大学の学生数名が強姦グループを作り強姦事件を起こしたら、それは、”早稲田大学が”強姦事件を起こしたことになる。」この場合、道義的には、早 稲田大学にも責任があるのは当然です。しかし、組織の構成員(による犯罪グループ)がした犯罪と、組織としてした犯罪は、区別して考えるのが常識です。あ なたのお考えは違うようですね。


指揮権を持った将校が職権を用いて行った行為は当然、軍や国家に責任が伴う。
ましてや、白馬事件は将官・佐官クラスまで絡んで、指示を出している。
これが、日本軍主導でないなら、中国大陸で横行した佐官クラスの独断専行の軍事行動もすべて日本軍主導でないことになってしまう。

しかも、少将・大佐と言えば旅団・連隊の指揮官クラスだ。
2等兵10人とか20人の部隊じゃないんだが。。。

それ以外の質問はkubomさんとかぶってるので、そちらをお読みください。
管理人 | URL | 2007/03/04/Sun 18:16 [EDIT]
たとえ話をすると、こういうことですね。
 お説、よくわかりました。
  たとえ話をすると、こういうことですね。
「早稲田大学の学生数名が強姦グループを作り強姦事件を起こしたら、それは、”早稲田大学が”強姦事件を起こしたことになる。」
  この場合、道義的には、早稲田大学にも責任があるのは当然です。しかし、組織の構成員(による犯罪グループ)がした犯罪と、組織としてした犯罪は、区別して考えるのが常識です。あなたのお考えは違うようですね。

  強姦防止や性病感染を防ぐ目的での軍専用の売春制度は、現在でもオランダ軍などに存在します。’40年代当時は完全に合法です。戦後の日本でも、アメリカ軍の命令で米軍専用の売春組織が作られています。

>それを日本の将校がいただくわけだ。
  鹿内信隆氏の話が本当だとして、「それを日本の将校がいただくわけだ」の意味を「強姦」と断定した理由はなんでしょうか。その可能性があるのは事実ですが、断定もできません。強制的ではあっても「白馬会」のような”交際組織”を作ったという意味にもとれますから。
福岡県民 | URL | 2007/03/04/Sun 12:56 [EDIT]
Kubomさんへ

支持してくださって、ありがとうございます。
ブックマークは社交辞令だと思いますが(^^;)

お互いに、意見の違いはありますが、今だに戦後処理にゴタついてる日本外交のダメぶりに対する怒りは同じみたいですね。
遺棄化学兵器問題ですか・・自分も以前に興味があって調べたことあるんですが、ロシアが金を出してないことや必要以上に日本が負担するのはおかしいと思ってます。
こちらのサイトが詳しかったんで、知ってるとは思いますが一応貼っときますね。
『正論』“遺棄化学兵器スクープ”の虚と実
http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000255.html
管理人 | URL | 2007/03/02/Fri 02:16 [EDIT]
貴殿の活動を支持します。
ご回答と資料開示有難うございます。なかなか詳しいですね。
意見の違う所はありますが、
本ブログ構成の軟らかさ、貴殿のまじめさ、
資料による客観的な見識を支持致します。
ブックマークしました。

なお私は、
同和問題で脅されている地方自治体の様に頼りない日本政府と、
日本国を貶めているだけの国会議員を微力ながらも糾弾したい。
現在記者達から逃げ回っていて、中国遺棄化学兵器問題でも
中心人物である河野洋平代議士は、事の顛末を表に晒し
辞職すべきであると考えています。

ともあれ、今後のご活躍を期待しております。
kubom | URL | 2007/03/01/Thu 08:54 [EDIT]
kubomさんへ 、ちと最近忙しいので返事遅くなりました

>当事者は犯罪者として断罪されている、皇軍による強制連行でない事の証左。

当 事者を裁いたのは戦後の連合国側です。白馬事件の重要な点は、「強制連行」の事実が陸軍省まで伝わったにもかかわらず、慰安婦の幽閉処置を解除しただけ で、軍としては何等処分を行わなかったことです。 日本軍内ではだれも軍法会議にかけられていません。 陸軍刑法では「戦地又ハ帝国軍ノ占領地ニ於テ婦女ヲ強姦シタル者ハ無期又ハ 一年以上ノ懲役ニ処ス。」とあり、慰安婦の強制連行・集団強姦は、もちろん 日本軍の軍規に照らしても大きな罪だったわけですが、 まったく処分の対象としなかった所に、慰安婦の強制連行に対する軍の考え方が示されています。 軍は強制連行した部隊・軍人を軍律違反とは認定しなかったのです。強制連行を行ったのは方面軍直属の士官候補生隊であり、 逃亡兵でも敗残兵でもない、れっきとしたエリート部隊の組織的行動です。連合軍のバタビア裁判では、この件で人道上の罪として、死刑1名を 含む11名の有罪が宣告されています。組織的犯罪に対する裁判ですから 命令されて強制連行に加わっただけの兵士は罪を問われていません。

>売春が違法ではない時代の事である。この事をもって強制を裏付る事例とはならない。

当時でも、「強制」「監禁」とかが伴う売春は違法でしょ、これが違法にならないなら国として強制売春を公認してたことになりますが?

>本文は途中から、″強姦はあった″に変わっているのは何故か、皇軍による強制性に係わる議論だったのでは?

ブログの前半に書いてある、スマランの「白馬事件」に関する強制連行を示す公文書、1948年2月14日に下されたバタビア臨時軍法会議判決の判決文の内容で、ある被告は、「強制売春のための婦女子誘拐」「売春強要」「婦女強姦」で死刑となってます。
ですから、文末に強姦はあったと書いたわけですが、議論が変わってるとの指摘には同意です。

>客観的な裏付けさえあれば麻生さんも稲田さんも多くの日本人もちゃんと認めるはず。似非か似非でないかの判断は、その裏付け次第である。

一部の政治家が談話を変更しようとしてますが、正確に史実の検証をした結果の変更というよりも、宣伝的で、自分達の支持団体や保守向けの言葉を、メディアを通じて発することを優先してばかりいるようにみえます。
あと、予測できたはずの、アメリカでの対日ロビー活動について、外交戦略をまともに検討すらしてない日本政府にも、うんざりさせられます。

自分は日本政府がもっと謝罪しろなんて思ってはいませんし、よその国にも河野談話で納得してもらうしかないと思ってるんで、なぜいまさら談話を変更しようとして、反日感情を煽り歴史問題の悪循環を繰り返すのか疑問です。
管理人 | URL | 2007/02/28/Wed 21:12 [EDIT]
強制性と強姦の有無とは次元が違う
・オランダ人の件:
  当事者は犯罪者として断罪されている、皇軍による強制連行
  でない事の証左。

・慰安所設置の件:
  性病の蔓延を防ぐ為の措置と書いてある。現在の日本ならば
  慰安所を設置した組織が犯罪性を疑われてもしかたない
  が、売春が違法ではない時代の事である。
  この事をもって強制を裏付る事例とはならない。

本文は途中から、″強姦はあった″に変わっているのは何故か、皇軍による強制性に係わる議論だったのでは?

強姦に関して言うなら、軍紀により禁止してはいたものの、
実際の戦地では結構あったと考えるのが普通。
強姦事件の有無を論議しているのならば貴殿の論理は
正しいと思う。しかし、
現在話題となっているハルモニは、所謂売春婦(職業)と
認識されている。売春婦にわざわざ謝罪・賠償するお人よし
国家はないのであるが、それを執拗に迫る韓国系の方達がいる。
日本人はなんで??という事になる。
(十分承知して悪意をもって声を挙げているのであろうが)

客観的な裏付けさえあれば麻生さんも稲田さんも多くの日本人も
ちゃんと認めるはず。
似非か似非でないかの判断は、その裏付け次第である。
また、当事者でないのなら感情的になってはいけない。
kubom | URL | 2007/02/27/Tue 22:16 [EDIT]
鈴木さんへ
コメントありがとうございます
>麻生が、「客観的事実にもとづいていない」
麻生は、どこがどう事実に基づかないのか、説明するべきだと思います


ピアズさんへ
>ブログ管理人様が取り上げている慰安婦問題、本当は安倍問題なのかもしれません。広義・狭義の強制などという話題は、安倍総理が河野談話を継承するのかどうかという極めて政治的な判断の過程で出てきたものに過ぎないのではないでしょうか。
つまり ブログ管理人様は慰安婦問題を安倍政権批判のための道具とみなしているのではないかと思うのです。

貴重な意見ありがとうございます。
慰安婦を問題にし削除、歪曲の抗議活動を日本会議や日本の前途と歴史教育を考える議員の会は昔からやっていて、安倍晋三はその中心的人物だったので、どうしても安倍晋三批判になってしまいます。
決して批判のための道具にしてるわけではありません。


らーめんさんへ
ネットで知りました、さすが産経ですね〜出演者が酷すぎです。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/diplomacy/40910
稲田朋美は「うそだと分かっていることに抗議しないことが国益を損ない、国家の名誉を棄損している」と言ってます(笑)
こんな嘘を平気でつける人間が国会議員をやってることに驚かされます。


まずい棒さんへ
応援ありがとございますm(__)m

自分は歴史とは、悲劇を繰り返さないために、回避して、解決するための記録だと思ってるから、史実の歪曲はゆるせなくなります。
さすがに今回の記事は、書きながら変なコメントがつくことは覚悟しました(笑)
日本政府や自分が他国の犯罪行為に非難することは、当たり前として、歴史問題については史実の検証、外交政策、日本の名誉回復とを混同してコメントしないように書いとくべきだったかもしれません。
管理人 | URL | 2007/02/27/Tue 10:25 [EDIT]
jk氏とさと氏には、建設的な議論を期待したが、冷静で客観的な視点が欠けてるうえに、読解力まで奪われてるようで、相手にするだけ時間のムダだったようです。
まぁ想定内ですがwww

こんな弱小ブログに来て、チベット人を救えだ、偽善者だと書き込んでる、あなた達ヒマ人のほうが、よっぽど不幸臭が出まくりで、成長過程の挫折と無念さがこちらのもひしひしと伝わってきます。

妄想が好きなのか知らないが、自分の記事中の「狭義の強制があるのか、ないのか」について一切コメントせずに米兵、中共、ベトナム、韓国、チベット、拉致問題などを書き込んで、論点そらしに必死すぎだし、排他的感情が出過ぎです。

よって、コメント削除と出入り禁止にしました。
管理人 | URL | 2007/02/27/Tue 08:40 [EDIT]
この手の人達って (さとさん&jkさんのコメントを読んで)
 管理人氏が、従軍慰安婦のことを書いているのに、チベットで中国人が、ベトナムで韓国人がどうのこうのと全く関係の無いことを書きたてる。(無論、侵略行為自体が非難されるのは当然。)
  しかし、ここで中国軍、韓国軍の紛争地での犯罪行為を書いて、一体何になるというのか?日本の戦争犯罪も大目に見てもらえるとでも思っているのだろうか?
  おまけに、反論出来ないとみるや「見下げ果てた云々」「偽善者」等の的を得ない人格攻撃。傍から見ていて目に余ったのでコメントさせて頂きました。
  管理人様も大変でしょうがこれからも頑張ってください。
 
 
  
 
 
 
まずい棒 | URL | 2007/02/26/Mon 22:44 [EDIT]
昨日フジTVで稲田と櫻井がすごい嘘言いふらしてましたね
らーめん | URL | 2007/02/26/Mon 19:18 [EDIT]
 双方論点がかみ合っていない感はありますが、従軍慰安婦問題が大きな話題として取り上げられている経緯からすると さとさんjkさんのご指摘なさっていることの方が本筋のような気がします。
  ブログ管理人様が取り上げている慰安婦問題、本当は安倍問題なのかもしれません。広義・狭義の強制などという話題は、安倍総理が河野談話を継承するのかどうかという極めて政治的な判断の過程で出てきたものに過ぎないのではないでしょうか。
  つまり ブログ管理人様は慰安婦問題を安倍政権批判のための道具とみなしているのではないかと思うのです。
  そして、さとさんjkさんは慰安婦問題そのものについて述べているのであって、その本質は 一部の日本軍将校、下士官、兵が引き起こした犯罪で説明できるようなものではないことは確かでしょう。
  今回は ひとつの出来事に向き合う、人としての姿勢について考えさせられました。
ピアズ | URL | 2007/02/26/Mon 11:07 [EDIT]
あきれた麻生
本件、麻生が、「客観的事実にもとづいていない」との態度を表明した。
「客観的事実」を調べもしないヤツラ。 まさに戦争犯罪人の流れを汲む
オツムしか持っていないやつら。 
自民党の稲田という議員は、女だった。(知らなかった) お前も、性奴隷に
されてみるがいい。 同じ女性の哀しみ、憤怒に寄り添えない心を持って
いるなら、同じ体験を味わえば分かるだろう。

 

1)慰安所は実在した

 文書による証拠も残っており、この点に関しては右も左も関係なく事実関係が確定している。安倍首相も同じ認識である。

 (2)日本軍が慰安婦を強制徴募した証拠は無い

 公平を期すために言えば、2007年の現時点で、との留保が入る。「証拠は隠滅された」と主張するのは個人の自由だが、証拠が見つかって居ないのは事実。

 (3)生存する元慰安婦に賠償を

 ここからが議論の対象である。

 <A>国家が強制徴募した訳ではないが、生活困窮者である彼女たちは救済すべき

 日本政府が採った方針がこれ。結果として政府が民間団体基金を一部拠出する、間接的な国家賠償。

 <B>生存している元慰安婦の証言に基づき、国家が賠償すべき

 もう一つの立場がこれ。大事なのは、AであれBであれ、「道義的責任」をその立脚点としていること。そしてBは、「道義的責任」があるなら「直接的責 任」もある「はず」だからこれを認めろ、と言い、反論を唱えると「広義も狭義も関係ない、言葉遊びはやめよ(韓国中央日報)」と言っているわけですな。

 

アメリカ軍の慰安婦リポート後学のメモ

A "comfort girl" is nothing more than a prostitute or "professional camp follower" attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers.(「慰安婦」とは、売春婦にすぎない。もしくは「野営追随プロ」、軍人の利益の為日本陸軍に付属する。)大東亜戦争の真実を広めてくれる方もしくは旧宮家の復籍こそGHQの呪縛を断ち日本が独立主権国家として再興する近道であると信じる方は、一日一押人気ブログランキングをクリック願います?h?????n?[?g

日本語訳

UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION
Psychological Warfare Team
Attached to U.S.Army Forces India-Burma Theator
APO 689

Japanese Prisoner
of War Interrogation
Report No. 49. Place interrogated : Ledo Stookade
Date Interrogated : Aug. 20 - Sept. 10, 1944
Date of Report : October 1, 1944
By : T/3 Alex Yorichi
Prisoners : 20 Korean Comfort Girls
Date of Capture : August 10, 1944
Date of Arrival : August 15, 1994
at Stookade


前書き

このレポートはビルマ、ミーチーナ陥落後1944年8月10日前後の、掃討作戦により捕らえられた、20人の韓国人「慰安婦」と、2人の日本民間人の取調べから得られた情報である。

このレポートは日本人がどのようにして韓国人「慰安婦」を募集したか、彼女らの生活、仕事の状況、彼女らの日本軍人に対する関係と反応、そして彼らの軍事情勢に対する理解度を明らかにする。

「慰 安婦」とは、売春婦にすぎない。もしくは「野営追随プロ」、軍人の利益の為日本陸軍に付属する。「慰安婦」と言う言葉は日本人特有のものである。他のレ ポートでは「慰安婦」とは日本陸軍が戦う為に不可欠なものであり、どこでも見受けられると記されている。このレポートではしかし、日本人に募集され、ビル マにて彼らの陸軍に付属していた韓国人「慰安婦」のみを扱うものである。日本人は1942年、ビルマに703名のこれらの女性(*1)を送ったと報告して いる。

*1(原文ではgilrs=主に少女を意味する言葉が使われているが、後に慰安婦の平均年齢25歳と書かれている為、女性と約しました。)


募集:

1942年5月上旬、東南アジアの新しく勝ち得た属領で、「慰安奉仕」をさせる韓国人女性を募集する目的により、日本人代理業者は韓国に到着した。この「奉仕」の本質は特定されず、病院の負傷患者の訪問、包帯を巻いたり、軍人を明るくする事に関連する物と考えられた。
この代理業者が動機として利用したものは大金、家族の借金の返済、簡単な仕事、新天地シンガポールで新しい人生を送れるなどである。この虚偽の説明に基づいて、多くの女性が海外勤務に志願し、何百円かの前金を受けた。

これらの大部分の女性は無知で、教養が無かった。しかし、わずかながらだが以前から売春と関連があった者も居る。彼女らはサインした契約書により、家族の借金返済の為受けとった前金の金額により、6ヶ月から1年間、軍規と「舎監(*2)」に束縛された。

お およそ、800名の女性がこのように集められ、彼女らは1942年、8月20日前後ラングーンに彼女らの舎監と降り立った。彼女らは8人から22人のグ ループで到着した。ここから彼女らはビルマの各地、大抵は近くに日本陸軍基地があるまあまあ大きな町へに分散していった。最終的に4つのグループがミー チーナにたどり着いた。彼らはキョウエイ、キンスイ、バクシンロ、モモヤマであった。キョウエイの一家は「マルヤマクラブ」と呼ばれていた。が、彼女らが ミーチーナに到着した後、ミーチーナ駐屯地の司令官である
マルヤマ大佐と同じ名前の為変更された。

*2(ほぼポン引きと同義語)


性格:

取 調べでは、平均的韓国人「慰安婦」は約25歳、無教養、大人気なく、利己的であることを見せる。彼女は白人の基準からも、日本人の基準からも可愛くはな い。彼女は自己中心的な傾向があり、自分の事を話すのが好きである。彼女の知らない人の前での態度は静かで、控えめだが、彼女は「男を手玉に取る方法を 知っている。」(*3)
彼女は自分の「専門職」が好きでない事を申し立て、その事や、家族の事に付いて話したがらない。ミーチーナとレドゥーでの米国軍人から捕虜として受けた扱いにより、彼女は彼らの方が日本軍人よりも感情的だと感じている。
彼女は中国とインドの部隊を恐れている。

*3(自分が女である事を利用した悪巧みの方法を知っている?
     いまいち訳しきれてません)


住居と仕事の状況:

ミーチーナで彼女らは大抵大きな2階建ての建物を宿舎として与えられ(大抵は校舎)、各女性に個別の部屋が割り当てられ、各々の女性は生活し、睡眠をとり、業務に勤めた。
ミー チーナでは彼女らの食事は、日本陸軍からの配給が無い為、舎監によって、準備されそして購入していた。彼女らはビルマの他の所と比べて高級地近くに住んで いた。この事は彼らのビルマ2年目では特にそうである。彼らは贅沢に暮らした、それは彼女らの食事や物質は大量には配給されず、彼女らが望む品物を買える だけの十分なお金を持っていたからである。彼女らは服、靴、タバコ、そして化粧品を買え、実家から慰問袋を受け取った多くの軍人から、多くのプレゼントを 貰っていた。

ビルマに留まっている間は将兵と共に、スポーツイベントに参加したり、ピクニックに出席したり、娯楽、社交ディナー等で彼女ら自身楽しんだ。彼女らは蓄音機も持ち、町の中では買い物に行くことも許された。


優先システム:

彼女らの業務状態は陸軍規定の元にあり、過密地域では規則は厳格に実施された。
陸軍は過密地域では金額、優先順位、各種の部隊が過密して働いてる地域での計画が必要だと考えた。取調べによると、平均的なシステムは以下の通り。

1 兵士     10AM〜5PM    1.50円   20〜30分
2 NGO      5PM〜9PM    3.00円   30〜40分
3 将校      9PM〜12PM   5.00円   30〜40分

これらは中央ビルマでの平均金額である。将校は12円で一晩留まる事が許された。
ミーチーナではマルヤマ大佐が平均金額のほぼ半分まで金額を削減させた。


日程:

兵士はしばしば建物内の混雑に不満を漏らした。
陸軍は長居をする事に対し非常に厳しかった為、多くの状況で彼らは奉仕を受けずまま去らなければならなかった。この問題を解決する為に陸軍は特定の曜日を特定の部隊に割り当てた。大抵1日に付き、部隊から2人が兵士らを識別する為、建物に駐在した。
秩序維持を為に、憲兵も見回りを勤めた。
下記に記したものがナイミョウに滞在していた間、第18師団の各種部隊がキョウエイで使用した日程である。

日曜    18師団、司令部、所属
月曜    機甲部隊
火曜    工兵
水曜    休日、毎週の健康診断
木曜    衛生兵
金曜    山岳砲兵部隊
土曜    輸送部隊

将校は週7日来る事が許されていた。
彼女らはこの日程でも過密極まりなく、その為、全ての客に構っていられないと文句を言い、それ故多くの兵隊に悪感情をもたらした。

兵士は建物を訪れ、支払いをし、左側に順番、右側に名前の書かれた約5センチ四方のボール紙のチケットを受け取る。「彼の順番が来た時」に各々の兵士の身分、階級が明らかにされる。彼女らは客を拒否する特権を与えられており、個人が酷く酔っていた時等、頻繁に行使された。


給料と居住状況:

「舎 監」は彼女達が契約した時に被った債務金額に次第で彼女らの総収入の50〜60%を受け取る。これによると、月平均で女性は1500円を総収益をあげ、彼 女は750円を「マスター」に返済する事になる。多くの「マスター」は食事や品物に高値を付け、彼女らの生活を困難なものにした。

1943年後半、陸軍は債務を返済した女性へ帰省を命令し、何人かの女性は寄って、韓国へと帰国した。

この取調べでは彼女らの健康状態も良い事を示している。
彼女らはあらゆる種類の避妊用具を十分に支給され、しばしば、兵士自身も陸軍から支給された物を持って来る事があった。彼女らは衛生の問題において客と自分の世話が出来る様、良く訓練されていた。
かかりつけの日本軍医が週に1回訪れ、病気が見付かった女性は皆治療を受け、隔離され、最終的には病院へ送られた。この同じ手順が陸軍内部でも遂行された。が、興味深い事には兵士は彼が拘束された(*4)期間の間、給料を失う事は無かった。

*4(病気による隔離、拘束)


日本人兵士への反応:

取調べにより、彼女らと将兵との間柄に置いては、二つの名前に帰結した。
それらは、ミーチーナ駐屯地の司令官である、あのマルヤマ大佐と援軍を率いて来たミズカミ少将である。二人は対照的で、前者は堅物で利己的で冷淡で、部下への配慮も無い。後者は善良、親切な男で、立派な軍人であり、彼の元働く部下へも最大の配慮をする。
大佐は彼女らの常連であり、少将が訪れた事は聞かれた事が無い。
ミーチーナの陥落とともに、マルヤマ大佐は逃亡したと思われ、一方、ミズカミ少将は、部下を撤退させることができなかった故に自決した。


兵士の反応:

普通の日本軍人は慰安ハウスで見られる事は、ばつの悪い事のようで、ある女性の言う所によると、「満員で列に並んで自分の順番を待つのにも恥ずかしがりがち」しかしながら、極めて多くの結婚の申し込みがあり、ある場合に置いては実際に結婚した。

全ての女性が彼女らの所へ来た将兵のうち、翌日前線へ向かう兵士と、酔った物が最悪であると同意した。しかし同様に、酷く酔った日本人兵士であっても、彼女らと機密や軍事問題を話題にする者が居ない事にも同意した。
しかし、女性の方から軍事問題を会話を始めても、将校又は下士官兵は話さず、むしろ「そのような女性らしくない話題について話す事を説教された。酔っ払ったマルヤマ大佐でさえ決してそのような問題について話す事は無かった。」

兵士はよく実家からの雑誌や、手紙や、新聞を受け取ることをいかに楽しみにしているか
表現したと言う。彼らはまた、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチ、歯ブラシ、小さな人形、口紅や木製の服(*5)であふれた慰安袋を受け取った事にも言及した。
口紅と服は女性の物であり、彼女達は何故実家の人達がそのような物を送るのか理解出来ないが、送り主は彼女自身か、現地の女かしか受け入れられなかったと憶測する。

*5(ありえないけど、wooden clothes=木製の服と書いてあります。
 

軍事情勢:

ミーチーナと臨時滑走路への第一攻撃で、町の防衛に200名を残し、200名の日本人が死亡した。弾薬は極わずか。

敵 の臨時滑走路西への攻撃の前、ミーチーナ周辺に駐屯していた兵士は北部と西部で攻撃していた味方の波乱の為、他の場所に派遣された。約400名が取り残さ れ、第144連隊から大きく孤立した。どうやらマルヤマ大佐の町が攻撃されるとは思わなかったようである。後に、第56師団のミズカミ少尉が2ヶ連隊以上 の増援を率いてきたが、それでも町を死守する事は出来なかった。

味方の爆撃が強烈で恐ろしかった事は女性達みなの総意で、そのおかげで、彼女達は塹壕で最後の日の殆どを過ごした。1、2人はそこでも仕事を営んだ。
慰安ハウスは爆撃を受け、何人かの女性は負傷し死亡した。


撤退と捕獲:

「慰安婦」の撤退と最終捕獲の話はやや曖昧で彼らの心も混乱しており、様々なレポートによると、下記のような事が起こったようだ。
7月31日の夜、3箇所の「慰安婦達」(バクシンロがキンスイに合流)、家族連れ、お手伝い達ら63人の集団が、イラワジ川を小さなボートで渡りはじめた。彼らは結局、ウェインマウの近くに上陸し、8月4日まで留まったがウェインマウには1度もよらなかった。
そこから8月7日に敵との小衝突により仲間と別れるまで、彼らは兵士の集団の進路に付いていった。3時間の合間を置き、彼女らは兵士達の後を付いて行くよう命令されたが、結局兵士や渡った手段の痕跡を見出せないまま川の堤防に佇む結果となった。
彼らはイギリス将校率いる兵士に8月10日カアヒンにて捕まるまで、近くの家に留まった。彼らはミーチーナに連行され、そこからこのレポートの元となった、取調べが行われたレドゥー防御柵へと移された。


要望:

彼女達誰一人として、ミーチーナで使用された「拡声器」を聞いたものは居なかったが、何人かは「ラジオ放送」に付いて兵士達が口に出すのを小耳に挟んでいる。

彼女らは陸軍が彼女らの捕獲の事を知れば、他の女性達の命が危険に晒されるので、「慰安婦」の捕獲の事を伝えるチラシ(*6)を使用しないよう求められた。
They did think it would be a good idea to utilize the fact of their capture in any droppings planned for Korea. (*7)

*6(投降を訴える為にばらまく物と思われる)
*7(理解出来んす)


英語の原文

UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION
Psychological Warfare Team
Attached to U.S.Army Forces India-Burma Theator
APO 689

Japanese Prisoner
of War Interrogation
Report No. 49. Place interrogated : Ledo Stookade
Date Interrogated : Aug. 20 - Sept. 10, 1944
Date of Report : October 1, 1944
By : T/3 Alex Yorichi
Prisoners : 20 Korean Comfort Girls
Date of Capture : August 10, 1944
Date of Arrival : August 15, 1994
at Stookade


PREFACE

This report is based on the information obtained from the interrogation of twenty Korean "comfort girls" and two Japanese civilians captured around the tenth of August, 1944 in the mopping up operations after the fall of Myitkyin a in Burma.

The report shows how the Japanese recruited these Korean "comfort girls", the conditions under which they lived and worked, their relations with and reaction to to the Japanese soldier, and their understanding of the military situation.

A "comfort girl" is nothing more than a prostitute or "professional camp follower" attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers. The word "comfort girl" is peculiar to the Japanese. Other reports show the "comfort girls" have been found wherever it was necessary for the Japanese Army to fight. This report however deals only with the Korean "comfort girls" recruited by the Japanese and attached to their Army in Burma. The Japanese are reported to have shipped some 703 of these girls to Burma in 1942.


RECRUITING;

Early in May of 1942 Japanese agents arrived in Korea for the purpose of enlisting Korean girls for "comfort service" in newly conquered Japanese territories in Southeast Asia. The nature of this "service" was not specified but it was assumed to be work connected with visiting the wounded in hospitals, rolling bandages, and generally making the soldiers happy. The inducement used by these agents was plenty of money, an opportunity to pay off the family debts, easy work, and the prospect of a new life in a new land, Singapore. On the basis of these false representaions many girls enlisted for overseas duty and were rewared with an advance of a few hundred yen.

The majority of the girls were ignorant and uneducated, although a few had been connected with "oldest profession on earth" before. The contract they signed bound them to Army regulations and to war for the "house master " for a period of from six monthes to a year depending on the family debt for which they were advanced ...

Approximatedly 800 of these girls were recruited in this manner and they landed with their Japanese "house master " at Rangoon around August 20th, 1942. They came in groups of from eight to twenty-two. From here they were distributed to various parts of Burma, usually to fair sized towns near Japanese Army camps.
Eventually four of these units reached the Myitkyina. They were, Kyoei, Kinsui, Bakushinro, and Momoya. The Kyoei house was called the "Maruyama Club", but was changed when the girls reached Myitkyina as Col.Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina, objected to the similarity to his name.


PERSONALITY;

The interrogations show the average Korean "comfort girl" to be about twenty five years old, uneducated, childish, and selfish. She is not pretty either by Japanese of Caucasian standards. She is inclined to be egotistical and likes to talk about herself. Her attitude in front of strangers is quiet and demure, but she "knows the wiles of a woman." She claims to dislike her "profession" and would rather not talk either about it or her family. Because of the kind treatment she received as a prisoner from American soldiers at Myitkyina and Ledo, she feels that they are more emotional than Japanese soldiers. She is afraid of Chinese and Indian troops.


LIVING AND WORKING CONDITIONS;

In Myitkyina the girls were usually quartered in a large two story house(usually a school building) with a separate room for each girl. There each girl lived, slept, and transacted business. In Myitkina their food was prepared by and purchased from the "house master" as they received no regular ration from the Japanese Army. They lived in near-luxury in Burma in comparison to other places. This was especially true of their second year in Burma. They lived well because their food and material was not heavily rationed and they had plenty of money with which to purchase desired articles. They were able to buy cloth, shoes, cigarettes, and cosmotics to supplement the many gifts given to them by soldiers who had received "comfort bags" from home.

While in Burma they amused themselves by participating in sports events with both officers and men, and attended picnics, entertainments, and social dinners. They had a phono-graph and in the towns they were allowed to go shopping.


PRIOR SYSTEM;

The conditions under which they transacted business were regulated by the Army, and in congested areas regulations were strictly enforced. The Army found it necessary in congested areas to install a system of prices, priorities, and schedules for the various units operating in a particular areas. According to interregations the average system was as follows ;


1. Soldiers 10 AM to 5 PM 1.50 yen 20 to 30 minutes
2. NGOs 5 PM to 9 PM 3.00 yen 30 to 40 minutes
3. Officers 9 PM to 12 PM 5.00 yen 30 to 40 minutes


These were average prices in Central Burma. Officers were allowed to stay overnight for twenty yen. In Myitkyina Col. Maruyama slashed the prices to almost one-half of the average price.


SCHEDULES :

The soldiers often complained about congestion in the houses. In many situasions they were not served and had to leave as the army was very strict about overstaying . In order to overcome this problem the Army set aside certain days for certain units. Usually two men from the unit for the day were stationed at the house to identify soldiers. A roving MP was also on hand to keep order. Following is the schedule used by the "Kyoei" house for the various units of the 18th Division while at Naymyo.



Sunday ----- 18th Div. Hdqs. Staff
Monday ----- Cavalry
Thuesday ----- Engineers
Wednesday ----- Day off and weekly physical exam.
Thursday ----- Medios
Friday ----- Mountain artillery
Saturday ----- Transport



Officers were allowed to come seven nights a week. The girls complained that even with the schedule congestion was so great that they could not care for all guests, thus causing ill feeling among many of the soldiers.

Soldiers would come to the house, pay the price and get tickets of cardboard about two inches square with the prior on the left side and the name of the house on the other side. Each soldier's identity or rank was then established after which he "took his turn in line". The girls were allowed the prerogative of refusing a customer. This was often done if the person were too drunk.


PAY AND LIVING CONDITIONS;

The "house master" received fifty to sixty per cent of the girls' gross earnigs depending on how much of a de bt each girl had incurred when she signed her contract. This moant that in an average month a girl would gross about fifteen hundred yen. She turned over seven hundred and fifty to the "master". Many "masters" made life very difficult for the girls by charging them high prices for food and other articles.

In the latter part of 1943 the Army issued orders that certain girls who had paid their debt could return home. Some of the girls were thus allowed to return to Korea.

The interrogations further show that the health of these gilrs was good. They were well supplied with all types of contraceptives, and often soldiers would bring their own which had been supplied by the army. They were well trained in looking after both themselves and customers in the matter of hycine. A regular Japanese Army doctor visited the houses once a week and any girl found diseased was given treatment, secluded, and eventually sent to a hospital. This same procedure was carried on within the ranks of the Army itself, but it is interesting to note that a soldier did not lose pay during the period he was confined.


REACTIONS TO JAPANESE SOLDIERS;

In their relations with the Japanese officers and men only two names of any consequence came out of interrogations. They were those of Col. Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina. and Maj.Gen.Mizukami, who brought in reinforcements. The two were exact opposites. The former was hard, selfish and repulsive with no consideration for his men; the latter a good, kind man and a fine soldier, with the utmost consideration for those who worked under him. The Colonel was a constant habitue of the houses while the General was never known to have visited them. With the fall of Myitkyina, Col. Maruyama supposedly desorted while Gen. Mizukami committed sucide because he could not evacuate the men.


SOLDIERS REACTIONS;

The average Japanese soldier is embarrassed about being seen in a "comfort house" acoording to one of the girls who said, "when the place is packed he is apt to be ashamed if he has to wait in line for his turn". However there were numerous instances of proposals of marriage and in certain cases marriages actually took place.

All the girls agreed that the worst officers and men who came to see them were those who were drunk and leaving for the front the following day. But all likewise agreed that even though very drunk the Japanese soldier never discussed military matters or secrets with them. Though the girls might start the conversation about some military matter the officer or enlisted man would not talk, but would in fact "scold us for discussing such un-lady like subjects. Even Col.Maru yama when drunk would never discuss such matters."

The soldiers would often express how much they enjoyed receiving magazines, letters and newspapers from home. They also mentioned the receipt of "comfort bags" filled with canned goods, magazines, soap, handkerchiefs, toothbrush, miniature doll, lipstick, and wooden clothes. The lipstick and cloths were feminin and the girls couldn't understand why the people at home were sending such articles. They speculated that the sender could only have had themselves or the "native girls".


MILITARY SITUATION;

"In the initial attack on Myitleyna and the airstrip about two hundred Japanese died in battle, leaving about two hundred to defend the town. Ammunition was very low.

"Col.Maruyama dispersed his men. During the following days the enemy were shooting haphazardly everywhere. It was a waste since they didn't seem to aim at any particular thing. The Japanese soldiers on the other hand had orders to fire one shot at a time and only when they were sure of a hit."

Before the enemy attacked on the west airstrip, soldiers stationed around Myitkyina were dispatched elsewhere, to stom the Allied attack in the North and West. About four hundred men were left behind, largely from the 114th Regiment. Evid ently Col.Maruyama did not expect the town to be attacked. Later Maj.Gen.Mizukami of the 56th Division brought in reinfo rcements of more than two regiments but these were unable to hold the town.

It was the concensus among the girls that Allied bombings were intense and frightening and because of them they spent most of their last days in foxholes. One or two even carried on work there. The comfort houses were bombed and several of the girls were wounded and killed.


RETREAT AND CAPTURE;

The story of the retreat and final capture of the "comfort girls" is somewhat vague and confused in their own minds. From various reports it appears that the following occurred: on the night of July 31st a party of sixty three people including the "comfort girls" of three houses(Bakushinro was merged with Kinsui), families, and helpers, started across the Irrawaddy River in small boats. They eventually landed somewhere near Waingmaw, They stayed there until August 4th, but never entered Waingmaw. From there they followed in the path of a group of soldiers until August 7th when there was a skirmish with the enemy and the party split up. The girls were ordered to follow the soldiers after three hour interval. They did this only to find themselves on the bank of a river with no sign of the soldiers or any mea ns of crossing. They remained in a nearby house until August 10th when they were captured by Kaahin soldiers led by an English officer. They were taken to Myitleyina and then to the Ledo stockado where the interrogation which form the basis of this report took place.


REQUESTS;

None of the girls appeared to have heard the loudspeaker used at Myitkyina but very did overhear the soldiers mention a "radio broadcast"
They asked that leaflets telling of the capture of the "comfort girls" should not be used for it would endanger the lives of other girls if the Army knew of their capture. They did think it would be a good idea to utilise the fact of their capture in any droppings planned for Korea.

 

http://www.ohmynews.com/articleview/article_view.asp?at_code=67635

 

記者が忠南論山の陸軍第2訓練所に入所した 1980年当時までにしても論山訓練所垣根を越せばいわゆる '毛布部隊'にあえた. 当時訓練兵だった記者が '毛布部隊'を直接目撃したことではないが訓練所助教や期間病たちは自分たちが '毛布部隊'と遭遇して '激戦'を行った '武勇談'をよく話したりした.

'毛布部隊'は訓練所垣根の外で毛布一枚を '武器' して訓練兵たちを相対する娼婦たちの俗称. こんな移動式私娼形態の毛布部隊員話は美談や神話のように聞こえたりした. しかし軍が直接慰安部隊を設置して運用したら問題が変わる.

▲韓国軍の朝鮮戦争期間 '慰安婦' 運用事実を報道した日本 <?????> 2月24日付け記事.(太い船内)
去る 2月22日 <?????> に '韓国軍も慰安婦運用した'と言う発掘記事の初回分が報道された以後独自の反応は大きく三種類で分類することができる.

第一, 軍医暗い恥部を公開して反省しようということ. 第二, 旧(旧) 日本軍隊慰安婦(慰安婦) 制度とは違う公娼(公娼)なので不法ではないということ. そして終わりは公娼でも私娼でも軍が展示(戦時)に士気高揚のために慰安婦を利用したのが何が過ちかと言うのだ. この 2回分記事は主にその二番目反応と直結された返事を盛っている.

この発掘企画記事の初回分でよく見たように, 韓国軍が 1951年頃から 1954年まで '特殊慰安台'という名前で固定式あるいは移動式慰安婦制度を取り入れて運用したのは否認することができない歴史的事実だ. そんな事実は陸軍本部が 1956年に編纂した公式記録な <????(後方戰史)> (あいさつの方)と目撃者たちの証言に裏付される.

< ????> に積まれた '特殊慰安台実績統計表'は 1952年度に 4ヶ牛どおり編成された慰安台 89人が年間 20万4560人の兵力を '慰安'したと記録している. 慰安婦 1人が一日平均 6?7人の将兵を慰安したのだ. またチェ名臣・チァギュホン・ギムフィオなど予備役将軍たちも朝鮮戦争期間に経験した慰安婦制度に対して "現わしたくない恥ずかしい軍部の恥部だが事実だ"と証言している.

もちろん韓国軍慰安婦制度は句日本軍 '従軍慰安婦' 制度を真似った跡にもかかわらず二つの制度は本質的に違う. 韓国軍慰安婦は慰安婦動員方式や規模などでも句日本軍従軍慰安婦と比較にならないが, なによりも後者は強制性を帯びている国家動員体制の一環で施行されたという点が違う.

しかしその同じ根本的な差にもかかわらず韓国軍慰安台は設置同期や運営方式面で日本軍従軍慰安婦制度を真似って似ている姿をしたことまた事実だ. 言わば慰安所の前で列をなして慰安婦を待つ軍人たちと戦闘力損失を防止するために定期的に性病検診をする軍医の姿などは日本軍従軍慰安所の風景と違うとこ ろないのだ.

また軍票(日本軍) 代りにチケット(韓国軍) みたいな対価が支払いされた取り引き形式に運用された点も外形上に似ている姿だ. 日本右翼はこれを立てて余分の慰安所制度を一種の公娼制のようなことで正当化したりする. しかし軍票は日本の主要銀行がいつでもお金で取り交わしてくれる一種の '有価証券'だった. また公娼制が国家が女性の性を統制した場合なら慰安所の場合は展示という状況で国家よりもっと力強い力を発揮する軍が管理・運営の主体という点で被害女性 たちに対する人権染躪はもっと極甚になるしかなかった.

韓国軍 '特殊慰安台'は事実上の公娼

ところで注目する事実は当時国軍が設置して運営したこの '特殊慰安台', すなわち固定式慰安所の性格が事実上の公娼だったという点だ. 言わば軍医公式記録には "休戦によってこのような施設の設置目的が解消されるに至って公娼廃止の潮流に順命(順命)して檀紀 4287年 3月これを一斉に閉鎖した"( <????> 148?149ページ)つらくてある. 余分の自らが '特殊慰安台'を公娼と認めているのだ.

短期(檀紀)を西紀(西紀)に換算すれば, 慰安所を '一斉に閉鎖'一時点は 1954年 3月だ. ところで 1947年 11月11日米軍政庁が公布した公娼廃止領(法律第7号)の発效した時点は 1948年 2月からだ. 明確な記録はないが慰安所設置時点は 1951年に推定される. したがって郡は公娼廃止領江戸かかわらず 1951年から 1954年まで約 3年間不法で公娼を設置・運営した犯法行為をほしいままにしたのだ.

結局軍が '公娼廃止の潮流に順命して慰安所を閉鎖した'と言う記録はふと見れば事実のようだが実際では自分の犯法行為を隠蔽するために事実を巧みに歪曲したのだ. 軍は政府の公娼廃止領にもかかわらず事実上の公娼を 3年間も不法で運営したけれども '公娼廃止の潮流に順命して閉鎖'したことのように記録しているからだ.

それなら朝鮮戦争当時余分の慰安所を設置・運営する犯法行為の主体は誰だろう. これに対してはまだ明確な記録や証言を捜すことができない. ただ韓国軍の '慰安台' 運用事実を初めて申し立てたギムグィオック博士(慶南大北朝鮮専門大学院ビジティングプロフェッサー)は <????> わ予備役将軍たちの回顧録そして関連者の証言などを土台でこんなに主張する.


"'特殊慰安台', すなわち余分の慰安所は陸軍によって設置されたのは間違いない事実だ. 当時韓国軍の作戦体系上余分の慰安台の設置及び管理問題に対しての上では国連軍の最終承認の下に運営されたことに推定されて, 下では特殊慰安台部隊長の責任の下に総括されたことと見える."


国連軍の最終承認の下に運営されたはずだという推定は 1950年 7月韓国政府が陸・海・空軍の作戦指揮圏を国連軍総司令官に委任したことに根拠を置いている. しかし <????> 度明らかにしているように, 慰安所運営は電線ではない後方に限っていた. また慰安台のさばる作戦指揮圏の範疇に含まれないから国連軍の最終スングインハに運営されたはずだという推定は説得力が劣ったように見える.

しかし当時国防省と陸軍の首脳部はこのような不法行為の責任で自由ではないようだ(国防省に合同参謀会議の設置された時点は '特殊慰安台'を閉鎖することわずか一月前の 1954年 2月なので合同参謀は慰安婦設置・運営の繋船上から除かれる).

▲ チョン・イルグォン前陸軍参謀総長. 朝鮮戦争当時日本軍 '慰安婦' 制度を真似った '特殊慰安台'を軍に設置した不法行為の核心責任者中の一人に推定される.
慰安所を設置・運営した時点の歴代陸軍参謀総長は △5代チョン・イルグォン中将(1950. 6?1951. 6) △6台李鍾賛中将(1951. 6?1952. 7) △7台バックソンヨブ大将(1952. 7?1954. 2) △8代チョン・イルグォン大将(1954. 2?1956. 6) などだ. 1951年に推定される設置時点で見ればチョン・イルグォン・李鍾賛二人の総長の一人だ.

1948年創軍当時の軍首脳部人脈が大部分日本軍・関東軍出身だったが, 二人の総長皆日本陸士出身だ. 朝鮮戦争時代に慰安婦制度を目撃したギムフィオ将軍(予備役陸軍所長)の "過去日本軍隊従軍経験がある一部連帯幹部たちが部下詐欺高揚のための発想から始まったこと"という証言はそれに対する手がかりを提供する. ギムグィオック博士も "軍隊慰安婦創設の企画者が確かに日本軍や関東軍出身者とか彼に影響を受けた者に推正することができる"と明らかにする.

余分の関係者たちは李鍾賛総長が 1952年釜山政治波動の時軍医政治的中立を力説した '本当に軍人の象徴'で見なされて来た点に映して一応チョン・イルグォン総長の方に余分の慰安台設置・運営可能性の比重を大きく置く. 一方当時国防省長官の中では第2代シン・ソンモ長官(1949. 3?1951. 5)課題3台イギブング長官(1951. 5?1952. 3) の一人が設置を承認したことに推定される.

韓国軍慰安婦, これらはだれか?

それなら果して軍隊慰安婦, これらは誰だろう. ところで既存の資料どこにも慰安婦正体に対する言及はない. ギムグィオック博士によれば, ただいくつかの文献では少なくない帰還日製余分の慰安婦たちが朝鮮戦争当時性(性) 売買業で流れて行ったという経験的陳述による推定だけあるだけだ. 1996年から束草で越南民研究をしてから初めて韓国軍慰安婦問題に対して関心を持って関連者たちをインタビューして来た金博士の推定によれば慰安婦の正 体と類型は何種類で分けられる.

金博士がまず注目したことは, たとえ小規模ではあるが日本ミリタリズムの '慰安婦' 募集形態を瓜二つな形態の慰安婦が存在したという事実だ. それはちょうどブックパゴングザックワンと慰安婦の '不幸な出会い'だった. 匿名を要請したブックパゴングザックワン出身人士とのインタビューを通じて金博士が明らかにしたこの一番目類型は拉致と強姦によって '慰安婦'になった事例だ.

ムンアムゲ(69) さんは 1951年 5月頃原産前海にある島で他の女性同盟院 3人と一緒に集まっている途中当時原産前海の女道で諜報工作活動をしたブックパゴングザックワンドルに拉致されてからなかでも一人(李何某下士官)に劫奪 あった後強制で '慰安婦'になったケース.

門さんは結局 1953年 7月停電になるまで女道で以下士官の子供を生んで一緒に暮した. 一緒に拉致された他の女性たちも昼には軍人たちのご飯と洗濯をして夜には '慰安婦'にならなければならなかった. こんな事は隣近譲り渡しでもあった.

金博士によればムンさんを拉致したブックパゴングザックワン催何某さんは "部隊内に慰安婦を連れていることは過ちだが, '私たち'が '日本軍'とは違わないか, 私たちとは血が通わアンヌニャであり拉致した慰安婦問題に対する説明を濁ごした"と言うのだ. また他の類型は本隊と落ちて独立的に炊事生活をしなければならなかったブックパゴングザックワン部隊員たちが '慰安婦'を雇ったケース. 金博士は自分の論文でこれらの正体に対してこんなに明らかにしている.


"ブックパゴングザックワン 1は余分の慰安婦たちは職業的に身を売る女性たちだったと一蹴した. ブックパゴングザックワン 2度ここに同意した. ところでブックパゴングザックワン 1や 2行っていた原産先に進むに慰安婦で全女性は 'その島へ来て郡だって飯をたいて洗濯してくれてほしい元金新調することができる'と言う話にだまされて来たと工作員 2は行き違う証言を言った. 戦争未亡人として生活苦に苦しみながら一種の 'だね労務者'になったことは彼の選択だったと言っても軍隊慰安婦になったことは断ることができない強制的な状況で起こった事だった. なおかつ拉致された女性たちに選択権や拒絶圏は与えられなかった."


▲ 朝鮮戦争期間に韓国軍と米軍が逮捕した人民軍看護婦 2人. 当時逮捕した北朝鮮女性の一部はレイプされるとか強制で '慰安婦'になった.
1950年当時医科大学生だった李何某(73) さんは拉致または強要によって軍隊慰安婦になる所だったまた他の女性の事例だ. 6・25 当時ソウルに残ってから人民軍に協力したことから国軍に逮捕したこのさんは他の女医大生 3人と一緒に引き継ぎされた部隊の将校 4人に '割当'になった. このさんは幸いに自分を可愛想にここは一将校の助けで釈放されたが他の 3人はあの時以後二度と見られなかった.

拉致または強要によって事実上の軍 '慰安婦' 役を一事例は多くないが朝鮮戦争に参戦した予備役将軍たちの回顧録にも一部登場する. 1951年 8月陸軍いわゆる(総合31期)に任官して 1984年 8月陸軍所長に予編したギムフィオ将軍の回顧録 <??? ??> (2000年)がそれだ.

1951年 8月任官するやいなや東部戦線首都社団(師団長ソングヨチァン)に倍速されて香炉峰戦闘に参加したギムフィオ将軍が当時に導いた小隊院たちは大部分首都社 団が咸境道に進撃してから中共君の介入で興南撤収作戦の時にデ洞(帯同) 越南した主に咸興-原産地域高校出身の現地入隊青少年たちだった. ところで当時国軍は男子学生たちだけではなく一部女子高生たちも '特殊目的'で大同越南したことと見える.

北朝鮮女性拉致して '慰安婦'で利用したり

ギムフィオ将軍の回顧録によれば, 以後電線をすり抜けて来た首都社団は 1951年 11月~1952年 4月智異山工費討伐作戦に動員されて当時南原に位したバックソンヨブ将軍が導く西南誌で戦闘司令部隷下主力部隊で 8社団などと合同で作戦に参加した. 金将軍は小将時代討伐作戦途中に智異山の戦闘地域指揮所で目撃した光景をこんなに記録している.


"大隊長天幕の中で分明して戦闘服を着した少女一人が出て伸びを伸ばして体操をしているのではないか! 先任下賜にどうする英文なのか問って見たら大隊長が北進当時咸興女子高生を愛妾で連れ, 撤収して作戦期間の中でスンチョンに仕えてから最近 OPで伴ったというのだった. 数日後代代丈室で手水大領指示があったのか当番病が飯ごうで水を暖めて持って行っていた."


▲ 朝鮮戦争直前に当時 38線以南である壅津半島を訪問して女学生たちの迎接を受けたUN現場視察団. 1950年 10月?12月北朝鮮地域を占領した米軍と韓国軍の一部将校たちは中共君の介入で後退しながら一部女学生たちを '特殊目的'で大同越南したことで現われた.
金将軍は当時行軍する時綿布団寝具と女化粧品箱が戦闘小隊院の貸し下げをの中でリュックサックの上にお負けで載せられて行く悲しい現実を木刀して怒った が, 占領地での強姦と拉致は実はたくさんある状況だった. '軍隊慰安婦'になる所だった前の李何某さんと国軍出身で人民軍解放戦死になった非転向長期囚量定号さんや他の国軍出身者たちの証言によれば, 国連軍と国軍は 1950年 10月?12月北朝鮮地域を占領したうちにかなり多い数の民間女性たちを劫奪したことと見える. これに対してギムグィオック博士はこんなに推正する.


"特に左翼賦役疑いがいる若い女性に対する強姦は実際及び仮想的に対する統制及び悉歯方式の一つだった. 非公式的に 1950年にも軍隊慰安婦や慰安台は存在したことと見えて, むしろ軍医風紀紊乱を憂慮して 1951年以後余分の慰安台を公式創設したし一線軍部隊でも非定期的に軍隊慰安婦を動員したことと見える."


そしてこのように民間人強姦と拉致によってもう '慰安婦' 生活を経験した女性たちのかなり多い数は自暴自棄の心情で私娼で流れて行ってから再び '軍隊慰安婦'という公娼に編入される悪循環を繰り返えしたように見える.

予備役将軍たちが憶えるまた他の類型は売春町から仕こんで来た貧しい女性たちに関するのだ. こんな女性たちに対する '慰安'の対価は買うという恤兵部も開くんだってあいさつ先で出費したというのだ. しかしこれらの証言でも現われる明らかな事実は展示の下に特別慰安台を利用すること以外にも前方の部隊たちは必要の時軍隊慰安婦を採用することができたな らことと見える. それでギムグィオック博士は余分の政府が明らかにした慰安台廃止時点に対しても次と問題を申し立てる.


"軍部隊が公式運営した公娼としての慰安台は 1954年 3月に消滅したのか分からないが, ブックパゴングザックワンの証言では事実上の慰安台が存在している. その慰安台は私娼の形式で存在するが軍部隊が公式的な '厚生費'の名目で出費してブックパゴングザックワンに対する褒賞の形態で存在して来たようだ."


それなら朝鮮戦争当時韓国軍慰安婦の規模はどの位だったろうか. ギムグィオック博士は "現在としては朝鮮戦争当時公式・非公式的慰安婦規模が分かるあてがない"と前提しながらも "ただ戦争直前私娼の規模をしのぐと推正するだけだ"と言う.

▲ 朝鮮戦争期間後方で進行された 'ズィザブギ作戦'(工費討伐作戦)で生け捕りされた女性ゲリラ. これらの中一部は軍 '慰安婦'で動員されたはずだという疑惑が申し立てられている.
ところで関連記録によれば, 1947年 11月米軍政庁が公娼廃止領を発表する直前の 1947年 10月20日現在公娼の規模は 2124人だった. しかし翌年 2月公娼廃止領が発效した後人 1948年 10月末になると私娼は 5万名余で急増する. また朝鮮戦争が終わった後性売買をする女性は 30余万人で増える. 公娼が廃止されながら私娼は急増したのだ.

一部女性学者たちはこのように性売買女性の増えたことは生活苦だけではなく '日製末期数千名医慰安婦たちが解放以後故国に入って来て生計を引き継ぐことができなくて娼妓と転落'したところも原因があったことに推定される. しかし他の一方では前で例であげた場合のように, 民間女性たちが拉致と強制の形態で慰安婦になった事例もあったのだ. 次は金博士の指摘だ.

"もし一足譲歩して軍隊慰安婦が過去球・私娼出身だったと言っても, 朝鮮戦争戦前(戦前) 5万名余の球・私娼が前後 30余万人で増えた問題とかかって見る時説明されない. 軍隊慰安婦がどんなに動員されたしその規模はどのゾングドヨッヌンがに対して確かに糾明することはできないとしてもまだ朝鮮戦争当時軍部責任を引き受けた 者等が生存しているので政府政府はこの問題に対して真相を糾明する責任がある"

 

AFP News brief

Japan's war time sex slaves still seeking apology

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The tears trickle down Virginia Villarma's weathered face as she recalls the day back in 1943 when she lost her youth and her innocence.

Sent out by her aunt to get some food she was attacked by a group of Japanese soldiers on a suburban Manila street and tossed like an animal into the back of a jeep.

Then just 14 years old, she was taken to a barracks in the port area and thrown into a bare room where she was stripped and raped repeatedly by soldiers, three or four at a time.

At first she screamed and tried to fight off her attackers but they punched and kicked her tiny body until she passed out. When Villarma awoke the room was silent but the pain has stayed with her for ever.

"That is when my hell began," the soft-spoken 78-year-old grandmother told AFP as she wrapped and unwrapped a pink handkerchief around her fingers.

Occasionally she would stop and take off her gold rimmed glasses and dab her eyes.

"I want people to know what happened to us back then and why we who are left will never give up until Japan formally apologises to all of us -- living and dead -- for what they did.

"For three months I was abused from morning to night. They were the longest three months of my life."

An allied bombing raid saved Villarma from more abuse and in the confusion she managed to escape but her life had been changed forever.

In later years, when her husband found out she had been a sex slave for the Japanese, he walked out on her and their five children.

When Prime Minister Shinzo Abe told parliament earlier this month there was no evidence Japanese troops forced sex slaves into brothels during the Second World War he again turned the spotlight on a large group of women who have become known as the "forgotten ones."

They came from many parts of Asia, some are now dead, many could never marry because of the shame, some were so brutalized they could never have children while others just shut themselves away from society all together.

Japan would prefer to ignore this part of its war time history but grey haired women like Villarma and her friend Simeona Ramil, 79, also brutalized as a sex slave, will never allow Japan to forget.

From Indonesia to China as many as 200,000 women, some as young as 12, were used as sex slaves according to a report by Amnesty International in 2005.

Despite the widespread prevalence of what was essentially institutionalised rape the issue of comfort women was ignored by the International Military Tribunal for the Far East that was established after the war to prosecute Japanese war criminals.

-- "He played with me as a cat would with a mouse" --

For decades these women remained silent hoping the nightmares would go away.

Only in the 1990s did survivors start to speak out about their ordeal.

Women like Jan Ruff-O'Herne, born in Java in 1923 in what was then known as the Dutch East Indies (Indonesia), has become an international advocate for the protection of women in war.

She was 19 when the Japanese invaded Indonesia.

Together with thousands of women and children she was interned in a prison camp for three and a half years.

"Many stories have been told about the horrors, brutalities, suffering and starvation of Dutch women in Japanese prison camps," she told the US House of Representatives' hearing on "Protecting the Human Rights of Comfort Women" in February.

"But one story was never told, the most shameful story of the worst human rights abuse committed by the Japanese during World War II ... the story of the 'comfort women' and how these women were forcibly seized against their will, to provide sexual services for the Japanese Imperial Army."

Now living in Australia where she has a grown family, Ruff-O'Herne told how in 1944 high ranking Japanese officers arrived at the camp and selected 10 "pretty girls".

"I was one of the 10," she said. Despite protests from their families the girls were packed into the back of a truck and driven to a Dutch colonial house used by the Japanese as a brothel.

"We were a very innocent generation," she told the congressmen.

"I knew nothing about sex. The horrific memories of 'opening night' of the brothel have tortured my mind all my life.

"We were told to go to the dining room, and we huddled together in fear, as we saw the house filling up with military. I got out my prayer book and led the girls in prayer in the hope that this would help us.

"Then they started to drag us away, one by one. I could hear the screaming coming from the bedrooms. I hid under the table, but was soon found. I fought him. I kicked him with all my might.

"The Japanese officer became angry because I would not give myself to him. He took his sword out of its scabbard and pointed it at me, threatening me.

"I curled myself into a corner, like a hunted animal that could not escape.

"He then threw me on the bed and ripped off all my clothes. He ran his sword all over my naked body, and played with me as a cat would with a mouse.

"I still tried to fight him, but he thrust himself on top of me, pinning me down under his heavy body. The tears were streaming down my face as he raped me in a most brutal way. I thought he would never stop.

"When he eventually left the room, my whole body was shaking. I gathered up what was left of my clothing, and fled into the bathroom.

"There I found some of the other girls. We were all crying, and in total shock. In the bathroom I tried to wash away all the dirt and the shame off my body. Just wash it away.

"But the night was not over, there were more Japanese waiting, and this went on all night. It was only the beginning, week after week, month after month."

Gil Won-Ock, an 80-year-old South Korean woman, still suffers from flashbacks and nightmares.

"Whenever those vivid, terrifying memories are brought back my heart beats suddenly and I cannot breathe," she told AFP, gasping for breath.

She said Abe only "added insult to injury" when he questioned whether comfort women were forced to serve as wartime sex slaves.

-- Japanese denials add to decades of silent agony --

"How could a human being say things like that?" she asked.

Gil is among a handful of former comfort women who have been meeting outside the Japanese embassy in central Seoul every Wednesday for the past 15 years in a vigil to press Tokyo to officially apologise and pay compensation.

Gil was 13 years old when she was lured by bogus promises of work at a factory and confined to a shack near a Japanese military barracks in the northeastern part of China that housed many other Chinese and Korean girls.

"Because of the infections in the wounds I received in the productive organ, I had to undergo operations four times and had my womb removed," Gil said.

Lee Yong-Soo was 16 when she was "kidnapped" in the southeastern Korean city of Daegu by a Japanese soldier in 1944 and shipped to a brothel in Taiwan.

She was raped, beaten and tortured with electricity when she attempted to escape.

The Wednesday rally recently drew several Japanese activists, including Hiroko Tsubokawa.

"We urge the Japanese government to stop adding pain to those grandmothers (comfort women) and solve this issue immediately," she told the crowd.

Japan has never formally apologized for its sex slavery.

In 1995 it established the Asian Women's Fund but the fund's restriction to private sector donations was seen as the government evading its responsibility.

When Abe said there was no evidence that women had been coerced into sexual slavery, he appeared to be contradicting a statement in 1993 by a senior official in which he voiced "sincere apologies and remorse" acknowledging that Japan's Imperial Army was involved "directly or indirectly" in sexual slavery.

But in the ensuing controversy, Abe has insisted that he does stand by the 1993 apology.

Su Zhiliang, director of the Chinese Comfort Women Research Centre, said: "Abe's remarks are nonsense. Maybe he had some political purpose."

For the most part only a few Chinese women have come forward to tell their story not wanting to bring shame on their families, Su said.

Su claims there were more than 400,000 comfort women in Asia of which 200,000 were Chinese, figures that contradict estimates by groups like Amnesty.

"Many of the victims do not want to recall the nightmare again, that is why so many choose to keep silent," he said.

Four cases filed since 1995 on behalf of Chinese women have all failed in the Japanese courts.

In Taiwan between 1,000 and 2,000 women were forced into sexual slavery, according to lawyer Wang Ching-feng who heads the Taipei Women's Rescue Foundation.

Since 1992, however, only 45 women have come forward.

"Some of them died abroad, some killed themselves for what they regarded as shame they have brought to their families, others dared not to let their family or relatives know what they had done before and chose to bury their pain and agony in their minds," Wang told AFP.

She said the Japanese government "must apologise" to the victims and compensate them or their relatives.

"It (the Japanese government) has a moral as well as a legal responsibility," she said.

Now the case has been taken up by US Democratic congressman Michael Honda who is trying to push a motion through the House of Representatives calling on Japan to make a "formal" apology.

"These women have too long been denied their dignity and honour," he told the House in February.

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c 2007 AFP - Romeo Gacad

http://www.france24.com/france24Public/en/administration/afp-news.html?id=070315022324.sx61jdpj&cat=culture

 

 

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件名:「台湾の声」【論説】所謂「従軍慰安婦」問題

【論説】所謂「従軍慰安婦」問題

                    時局心話會代表 山本善心
                     
       今年1月31日、米国のマイク・ホンダ下院議員(65)ら7名は「かつての
戦争で、日本の官憲は20万人の若い女性を強制的に性奴隷として売春宿
に連行した。日本の歴代首相はそれを認めたからこそアジア女性基金を作
り、元慰安婦たちに賠償金を支払ったものである。謝罪は日本の首相が公
式声明で発表し、これらの歴史的事実を子どもたちに教育すべきだ」との対
日非難決議案を米下院に提出した。

 その後、ホンダ議員が中国当局と繋がる在米中国人団体から一貫して多
額の献金を受けていたことが明らかになった(07.3.15産経)。しかも日
本を糾弾する言動や活動方針については、中国側の反日認識と同一歩調
を取っていることも判明。歴史問題に関する反日宣伝の広告塔である、と
の実態が暴露された。

 慰安婦問題については韓国が中心と見られていたが、実質的には中国
が裏で操作していた、との報道に「やっぱりか」という声が上がっている。中
国側がホンダ議員を手足として使い、ロビー活動やマスメディアを通して執
拗に対日工作を行っていたことは薄々伝えられていた。


米国日系議員の反日


 従軍慰安婦問題は「河野談話」から始まり、米国に飛び火して世界的な
関心事となった。米国のリベラル紙であるニューヨーク・タイムズ紙の2月6
日付社説でも、ホンダ議員の発言が取り上げられ「日本軍の性的奴隷」「売
春ではなくレイプだった」などと掲載されている。はじめて記事を目にした米
国の読者はこれを本気にし、日本の非人道的行為に驚いていよう。

 「こうした日本批判に対し、日本の総領事館は何もせず傍観しているだけ
ではないか」との不信の声があがっている。ニューヨークの桜井本篤総領
事は「反論投稿
は行わず、総理のお考えを個別に説明するだけ」と呑気なことを言っている。

 中韓はじめ米国の一部で、対日批判の立役者である日系のホンダ議員
は英雄扱いだ。しかし彼は「日本軍が無理やりに強制連行し、言うことを聞
かない慰安婦は集団暴行したうえ、殺害、手足切断、強制中絶を行った」と
まで言い切っている。


反対勢力の意見


 ホンダ議員は孤軍奮闘して民主党、リベラル系を巻き込み、対日非難決
議案を通過させようとしているが、これに反対する勢力が大方であるのも
事実である。公聴会でも賛成したのは提案者であるホンダ議員と議長の2
人だけだった。共和党や民主党議員にも彼らと見解を異にする者が大勢
だ。

 反対勢力の意見を要約すると@日本の首相や閣僚は、慰安婦問題につ
いて1993年以来何度も謝罪している、A2世代前の先人の行為を理由に
現在の日本国民を懲罰するのは不当だ、B米国も含め世界のどの国も過
去には罪を犯してきたがそれほど謝罪はしていない、C今の日本が米国の
同盟国として人道主義を推進し、世界的にも重要な民主主義の旗手である
ことをこの決議案は無視するに等しい、というものだ(3月5日付産経新聞)。


「慰安婦」の実態


 元兵士たちの体験談や日韓統治時代の資料の中には、軍の関与による
強制連行の事実は出てこない。中国戦線での慰安婦や業者は中国人や韓
国人が多く、兵士の間でも、外地での慰安婦には「ツンコ・ピー」(中国系)、
「チョーセン・ピー(朝鮮系)」と呼び、兵士間では「ピー買い」という隠語が
使われていた。外地では多くの中国人や韓国人の業者により、中韓系の娘た
ちが駆り出されていたのである。

 元兵士によると、1940年代頃のツンコ・ピーやチョーセン・ピーは一回の
代金が1円、日本人は1円50銭だった。当時の兵士たちの給与は3分の1が貯
金、3分の1が生活費、残り3分の1が慰安婦代というのが一般的であったら
しい。それゆえ当時の外人慰安婦の懐は潤沢だったが、兵士は金欠だったという。


 この問題に関心を持つ筆者は、40年前から元兵士の方にたくさんの戦争
体験を伺う機会があった。ほとんどの方はすでに故人であるが、それによると
「従軍看護婦はいたが、『従軍慰安婦』という呼び名はなかった」というのが
全員の意見であった。戦地に春を売る女性がいたのは、公娼が法で認めら
れていたからである。

 日本の「東北飢饉」と同じく韓国にも「春窮」と呼ばれる飢饉があり、貧しい
農家が娘を身売りせざるを得ない時代だった。中には農家の弱みにつけ込
んで強引に娘を引き連れていく業者もいたであろう。こうした時代背景の中
での行為を「広義の強制性」と解釈している。

 慰安所は軍の集まるところに開設されている。軍人にとって一番恐いのは
性病であり、軍医や衛生兵が慰安婦の検査を行うなど、軍が管理すること
で軍人や慰安婦の安全が保たれた。一方、軍人の性的処理を果たすため
の施設は軍の協力なしにはできないのである。つまり軍人も慰安婦も、身
の安全を得るために軍の関与が必要不可欠だった。


河野談話とは何か


 1993年8月4日、河野洋平官房長官(当時)は宮澤内閣総辞職の前日を
選んで下記のような談話を発表した。

「慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送、管理は旧日本軍が直接あるいは
間接に関与した。慰安婦の募集は軍の要請を受けた業者が主としてこれに
当たったが、当時は強圧など本人たちの意見に反して集められた事例が数
多くあり、官憲等が直接これに加担した」

 これは官憲による慰安婦募集の強制性を認めたも同然で、韓国で拡大解
釈されるのはいつものことだ。しかしこの談話を作成した石原信雄元官房副
長官は、後日談として次の証言をしている。「韓国側は慰安婦募集の強制性
を盛り込むよう執拗に働きかけてきた。これを認めれば韓国側も矛を収めて
くれるのではないかと期待し承諾した」というのだ。これは日本の戦後史に
残る外交政策上の失敗であった。


軍律の厳しい日本軍


 日本政府は慰安婦問題について、外交的に波風を立てず“先送り、事な
かれ主義”が得策と判断した。しかしこの問題を大げさに報道すれば、誰も
が慰安婦に同情するのは当たり前だ。こうして「河野談話」は解釈の違いこ
そあれ、事実関係を検証することなく公表された。

 筆者の父は中国で軍医として活躍したことがあり、当時のことをよく語って
くれた。「軍人は忠節を誓うを本分とすべし」との貼り紙が至る所に貼りめぐ
らされていた。また軍律に厳しい憲兵隊の存在は、兵士にとって恐怖であ
る。事実インドネシア・ジャワ島では、オランダ人の女性捕虜を本人の同意
なく働かせた日本の軍人5人が軍紀違反で死刑に処されている。軍律の厳
しい日本軍で強制連行などがあれば、即座に軍法会議で処罰されることは
明らかだ。


新談話を発表せよ


 こうした歴史的事実を安倍首相はよく理解しているはずである。たとえ問
題にならなくても、将来の子どもたちのために「新官房長官談話」を発表す
るべきだ。し
かし首相は、軍当局の関与と強制性を認めた「河野談話」を引き継ぐと明言
した上で「強制性」をめぐる解釈の違いを指摘、理論展開している。

 首相は軍の強制連行の証拠がない以上、軍人が家に押しかけ娘を強引
に連れ出す「狭義の強制性」はないと主張している。しかし先述のような時
代の背景の中で行われた「広義の強制性」であるという定義を主張しても、
解釈の仕方やズレが内外で軋轢を生むのは当然の帰結であろう。

 この問題は、首相の出方次第で八方塞がりになりかねない。首相が「河
野談話」を継承する限り、正面から反論しても勝ち目はなく、外交的にも真
意が伝わらずに逆効果となる。安倍首相は、「日本は自由な国だから意見
を言うのは悪いことではない」と考えているが、相手は「河野談話」を錦の御
旗に、問答無用の構えで全く根拠のないバイ菌をばらまいているのだ。    
 








『台湾の声』  http://www.emaga.com/info/3407.html




『日本之声』 http://groups.yahoo.com/group/nihonnokoe (Big5漢文)





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