■吉田清治の転落人生
(「良心の呵責に苦しむ元日本軍人」から「強制連行物を得意ネタとする目立ちたがり屋の詐欺師」に)

・朝日新聞 [91.5.22] 「済州島で従軍慰安婦を木剣ふるい無理やり動員」(写真入り)。
・朝日新聞 [91.10.10] 吉田清治氏は、慰安婦には人妻が多く、しがみつく子供を引き
 はがして連行、政府は資料を隠していると語った。(井上裕雅編集委員、写真入り)。
・朝日新聞夕刊「窓」欄 [92.1.23] 連行した女性は950人、「私が強制連行した朝鮮人
 のうち、男性の半分、女性の全部が死んだと思います」と吉田清治氏。「
・「マスコミに吉田清治さんの名前が出れば迷惑がかかるのではないか。心配で尋ねると、
 腹がすわっているのだろう、<いえいえ、もうかまいません>と(北畠清泰論説委員の紹介記事)
・吉田さんと部下、十人か十五人が朝鮮半島に出張する。総督府の五十人あるいは 人の警官と
 いっしょになって村を包囲し、女性を道路に追い出す。木剣を振るって若い女性を殴り蹴り、
 トラックに詰め込む。一つの村から三人、十人と連行して予定の百人二百人になれば下関に運ぶ。
・朝日新聞 [92.5.25] 吉田清治氏、7月、韓国に「謝罪の旅」に出るとの記事。
 男女6000人を朝鮮半島で強制連行した体験を「国会でもどこでも行って話す」つもりだが、
 いまだに実現しないと報じる。
(↓↓ますますエスカレートしていって、どうにもとまらない吉田君) 
・ニューヨーク・タイムズ [92.8.8]東京支局長のインタビュー記事(写真入り)。
・毎日新聞 [92.8.13] 吉田清治氏は8月12日ソウル市内の慰霊祭で元慰安婦らに謝罪、
 また補償のため日本による韓国新幹線計画の費用負担を主張。
・週刊新潮 [92.11.24] 吉田清治氏は、93年春に訪米して米マスコミ、在米朝鮮人(約100万人)に働きかけ、
 国連事務総長に慰安婦問題をアピールする予定と語る。

 ↓↓↓↓↓↓ 真相がばれる


・「昭和史の謎を追う」下巻 文藝春秋 1999年 秦郁彦
1)慰安婦狩の命令は西部軍→山口県知事→下関警察署長→吉田のラインで来たとしているが、
 関係者はこのような命令系統はありえないと否定する。
 依頼だとしても、済州島をふくむ朝鮮半島は朝鮮総督府と朝鮮軍の管轄管理下にあり、
 内地から出張しての狩りこみはありえず、もし必要があれば総督府が自身の手で集めるはずと述べている。
2)第一作である『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社 1977年出版)には、
 四四年四月労報が初めて慰安婦狩りを手がけたと記述し、
 第二作(1983年出版)の済州島行き(四三年五月)と矛盾する。
3)第一作に四四年二月結婚とあるが、第二作には済州島行き計画は、
 死んだ「家内の日記」に書いてあったと記述している。

・済州島の『済州新聞』(1989年8月14日付)
 解放44周年を迎え日帝時代に
済州島の女性を慰安婦として205名を徴用していたとの記録が
 刊行され大きな証言を与えている。しかし裏付け証言がなく波紋を投げている。
 この本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で15〜16人を強制挑発したり、
 法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を、裏付け証言する人は
 ほとんどいない。
島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信憑性に対して
 強く疑問を投げかけている

 城山里の住民のチョン・オク・タン(85歳の女性)は「
250余の家しかないこの村で、
 十五人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった
」と語った。
 郷土史家の
金奉玉(キム・ポン・オク)氏は「1983年に日本語版が出てから、
 
何年かの間追跡調査した結果、事実でない事を発見した

・平成8年(1996年)吉田君へのインタビュー(5月29日週刊新潮)
 「
本に真実を書いても何の利益もない。 事実を隠し自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、
  新聞だってやるじゃないか!