― 朝鮮人慰安婦の場合 ―
1993(平成5)年8月4日、日本政府は河野洋平・内閣官房長官の談話によって強制連行を認めてしまいました。このためでしょうか、アメリカの議会内部や大学などで慰安婦展示会が開かれるやら、国連で非難されるやらの惨状を呈しました。
ヒラリー上院議員(クリントン元大統領夫人)も強い関心を示したとの報道もありましたので、先々とんでもない影響がでるかもしれません。
このような結果を生んだ大きな要因に、メディアの影響、わけても朝日新聞報道を無視するわけにはいきません。慰安婦問題のほとんどは朝日が原因といってよいのです。
以下、問題となった報道を振り返りますが、その前に、まず1983(昭和58)年11月10日付けの朝日新聞「ひと」欄を見てください。(下写真)。
登場するのは「朝鮮人を強制連行した謝罪碑を韓国に建てる吉田清治さん」 で、略歴と著作『私の戦争犯罪』(三一書房)の紹介とともに、次のように報じています。
この「ひと」欄には「従軍慰安婦」については一言もなく、労働者の強制連行として書かれています。この吉田清治が慰安婦問題のキーパーソンとして関わってくるのです。
1991(平成3)年8月11日付け朝日新聞は、「ソウル10日発植村隆」として、「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」 の見出しのもと、次のようにつたえました。
〈 日中戦争や第2次大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、16団体約30万人)が聞き取り作業を始めた。同協議会は10日、女性の話を録音したテープを朝日新聞社に公開した。・・〉
この女性は中国東北部(旧満州)生まれ、17歳のとき2〜300人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れていかれ、毎日3、4人の相手をさせらたといいます。数ヵ月後に逃げることができ、戦後はソウルに落ちついたということです。
この女性は朝日報道3日目の8月14日、はじめて金学順という実名を出してソウルでの記者会見を行いました。そのときの発言を、8月15日付け「ハンギョレ新聞」が次のようにつたえています(西岡力、「文藝春秋」1992年4月号)。
「生活が苦しくなった母親によって14歳のとき平壌にあるキーセンの検番に売られていった。3年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れられていった所が、北中国の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」
本人が話すとおり、「キーセン(妓生)」として売られたのであって、「女子挺身隊」として日本官憲の強制力で連行されたのではなかったのです。また、「女子挺身隊」というのは、終戦も近い1944(昭和19)年8月の「女子挺身勤労令」により、勤労奉仕として工場など働いたもので慰安婦とはなんの関係もありません。ですが、韓国では「従軍慰安婦=女子挺身隊(員)」と決めつけていて、子どもまでも女子挺身隊として動員された、つまり日本軍兵士の慰みものとして強制連行されたと一層、非難に油を注いでいるのです。
「従軍慰安婦=女子挺身隊(員)」説の出所については、次項をお読みください。
こういう事実関係があるにもかかわらず、植村記者は「女子挺身隊の名で連行された」と書き、「慰安婦強制連行」を強く示唆したのです。誤まりはだれにでもあるもので、訂正さえすれば問題視するにはあたらないでしょう。しかし、この場合、植村記者はキーセンとして売られたことを故意に隠して記事にした疑いが残るのです。
というのも、植村記者がこの事実を知らなかったとは考えにくく、その後、長文の署名記事を書きながらこの事実をやはりつたえていないなどからです。
また、朝日は抗議にもかかわらず今日なお、間違いを認めていないのです。女性は日本に補償を求め、原告の一人として東京地裁に訴えを起こすことになります。
8月11日付けの朝日新聞の切抜きがなかったものですから、縮刷版からコピーしたのが左の写真です。ですが、8月12日付けなのです。
「ソウル10日発植村隆」とありますので、同一の記事のはずですが、見出しが「慰安婦に痛み 切々と」とあり、違っています。これはよくあることですからよしとして、不思議なのは11日に記事がなく、12日に掲載されていることです。また、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」たという部分がきれいに削除されていました。
途中経過は略しますが、金学順さんら元慰安婦3人を含む35人が日本政府を相手に補償請求の訴訟を起こしたのが、1991(平成3)年12月6日でした(右写真は同日付け「朝日」一面)。
朝日は訴状によるものとして、「従軍慰安婦として前線に狩り出された3人は、当時15歳から18歳だったが、組織的、強制的に故郷から引きはがされ、逃げることのできない戦場で、日本兵の相手をさせられた」と報じますが、金さんがキーセンとして売られたことには触れていません。訴状にはこのことも書かれていたというのにです。このあたりから、知りながら故意に隠した疑いがでてくるわけです。
訴訟を応援するためでしょう、朝日新聞は冒頭に書いた吉田証言をさかんに紙面に登場させます。また、各地で行われた市民グループなどの「訴訟支援集会」を積極的に取り上げてました。
吉田清治は『朝鮮人慰安婦と日本人』(1977、新人物往来社)と「人」欄で紹介された『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』(1983、三一書房)の2冊を書いていて、前者の記述が紙面に引用されます。
〈 記憶のなかで、時に心が痛むのは従軍慰安婦の強制連行だ。
吉田さんと部下、十人か十五人が朝鮮半島に出張する。総督府の五十人、あるいは百人の警官といっしょになって村を包囲し、女性を道路に追い出す。木剣を振るって若い女性を殴り、けり、トラックに詰め込む。(略)
吉田さんらが連行した女性は少なく見ても九百五十人はいた。
「国家権力が警察を使い、植民地の女性を絶対に逃げられない状態で誘拐し、戦場に運び、一年二年と監禁し、集団強姦し、そして日本軍が退却する時には戦場に放置した。私が強制連行した朝鮮人のうち、男性の半分、女性の全部が死んだと思います」
吉田さんは七十八歳である。
「遺言として記録を残しておきたい」と、六十歳を過ぎてから、体験を書き、話してきた」 〉
―1992(平成4)年1月23日付け、コラム「窓」―
朝日報道はこれだけではありません。「木剣ふるい無理やり動員」(1991年5月22日付け大阪版)と書き、あるいは「乳飲み子から母引き裂いた 日本は今こそ謝罪を」(同年10月10日付け大阪版)とも書きました。
朝日新聞の読者はもとより、これらを目にした誰もが「強制連行」は疑いのない事実と思ったことでしょう。朝日新聞の記者が十分に裏づけをとったうえでの報道と読者は思うはずです。しかし、この例にかぎらず、日本軍の「悪行」となると、朝日にかぎらずほとんどの報道機関が裏づけをとることなどまったく忘れてしまいます。それもこれも日本軍を叩くことのみが目的で、国民を「善導」するくらいに思っているのでしょう。その結果、日本軍の残虐さのみがイメージとして国民の脳裏に刻み込まれてしまう、これがもう30年もつづいてきたのです。
ですから、「一人の証言というのは危険、検証が必要」などという意見は当然のことのように無視されます。
ですが、やはりこの「証言」、「真っ赤なウソ」だったのです。
幸いなことに、秦郁彦教授の手でこのことが明らかになりました。危ないところでした。もし、教授の調査がなければ「慰安婦強制連行」が認知されてしまいました。それどころか、吉田証言に追随するように多数の証言者が現れて惨状を呈したはずです。このことは、「南京虐殺」における虚偽証言から類推できることです。
左写真は1992(平成4)年1月11日付けの1面トップで、「慰安所 軍関与示す資料/政府見解揺らぐ」などと大きな見出しが躍っています。
発見されたという「資料」がなぜ、強制連行の証明になるのか、「軍関与」といっても、「慰安婦募集」にあたって、誘拐まがいの民間悪質業者を排除するための関与で、いわば「善意の関与」ではないかなどと、しばしば批判の対象になる報道です。
記事から少し引用します。吉見義明教授(中央大学)が防衛研究所に保管されていた「陸支密大日記」などの資料から見つけたもので、
〈 日本国内で慰安婦を募集する際、業者などがトラブルを起こして警察ざたになるなどしたため、陸軍省兵務課が作成、派遣軍などに通達された。「募集などに当たっては派遣軍が統制し、これに任ずる人物の選定を周到適切にし、実施に当たっては関係地方の憲兵および警察当局の連携を密にして軍の威信保持上ならびに社会問題上遺漏なきよう配慮」するよう指示・・〉 と書かれています。
軍にとっては、「結核と性病」の予防、排除が重大な関心事でした。ですから、慰安婦の性病予防などで、「慰安所」に関与するのはむしろ当然のことだったのです。また、慰安婦が業者から騙されないよう、金銭の管理などに当たっていたことも多くの事例が報告されています。
それに、新資料発見のように書いてありますが、秦教授によれば周知のものだったとのことです。ですが、この報道が宮沢喜一首相の訪韓直前だったこともあって、宮沢首相は韓国首脳との会談で何回も謝罪することになったのです。
影響をおよぼしたという点では、これらの本文より次の「従軍慰安婦」の説明の方かもしれません。以下、全文をお目にかけましょう。
明らかに女子挺身隊を慰安婦と間違っています。しかも、8〜20万人の慰安婦の大部分を占める朝鮮人慰安婦を強制連行したというのですから、韓国のメディアが飛びつき、その勢いに押されて韓国政府が日本に強く出ざるをえない、という悪循環がまたはじまったのです。
そして、明らかな誤りにもかかわらず、今日まで訂正されていません。
なお、慰安婦数については、秦教授が資料に当たった結果、総数は1万数千人、内訳は日本人(内地人)が最大と見積もっています。
まず、吉田清治証言をとりあげましょう。吉田証言といえば、「偽証」を代表する一例として、しばしばお目にかかります。したがってご存じの方が多いと思いますが、おさらいの意味で書いておきます。
吉田清治は10年間以上、慰安婦問題のキーパーソンでした。なにせ、強制連行にみずから関わったと証言したただ一人の日本人だったからです。
1983(昭和58)年に発行された『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』(1989年に韓国語訳)がさきがけになりました。この本に書かれている約50ページの記述が、ナマナマしい証言だっただけに、強制連行の決定的な証拠としての役割を果たしました。朝日新聞をはじめ「赤旗」などが大きく取り上げ、強制連行が疑いのない事実として定着しつつあったのです。そのうえ、他からの証言が出てこないのは、当時の関係者が事実を隠しているからだとさえ疑われたものです。
本にはこんなことが書かれています。
山口県労務報国会下関支部動員部長だったという吉田は、1943(昭和18)年5月15日、西部軍司令部(福岡)から「皇軍慰問・朝鮮人女子挺身隊二百名、年齢十八歳以上三十歳未満・・」の動員命令を受けとった。動員地区は朝鮮の済州島である。吉田は部下9人を連れて済州島に上陸。軍から10人の武装兵の応援をえて、軍用トラック2台に分乗、島内を回る。貝ボタン製造工場、干しイワシ製造工場などで、1週間で205人の朝鮮人女性を強制連行した、というのが概要です。
少し長くなりますが、貝ボタン工場の場面を本から引用してみます。
30人ほど働いている工場の出入り口を、吉田らはすばやく固めます。そして、
ごく普通の読者はなんの疑いも持たないでしょう。なにせ、当の本人が書いたものですから。
ですが、吉田証言にかぎらず、この「証言」を事実とするには問題があるのです。事実というからには客観的な裏づけが必要ですし、それに一人の証言だけというのは危険なのです。ですが、さっそく報道の対象となりました。
秦教授が吉田氏に慰安婦狩りに同行した人を紹介してほしいと依頼したところ拒否されました。そこで1992年3月末、済州島に渡って調査したというわけです。ところが地元の「済州新聞」は、すでに韓国語訳された『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』についての論評がなされていたというのです。
同紙の許栄善記者(女性)は吉田の本から連行の模様などを記しながら、次のように書いています。
〈 解放四十四周年を迎え、日帝時代済州島女性を慰安婦として二百五名徴用して行ったという記事が出され大きな衝撃を投げかけているが、それを裏づけるの証言がなく波紋を広げている。(連行の模様、略)
しかし、この本に記録されている城山浦貝ボタン工場で十五〜十六名を強制徴発したということや、法環里などのあちこちの村落で行われたこの慰安婦事件の話は、これに対する証言者がほとんどいない。彼らはあり得ないことと一蹴しており、この記録の信憑性に対する強い疑いを投げかけている。
城山里の住民のチョン・オク・タン氏(八十五歳)は、「そんなことはない。二百五十余の家しかない村落で、十五人も徴用されたとすればどの位大事件であるか・・、当時そんな事実はなかった」と断言した。
郷土史学家者の金奉玉氏は「日本人たちの残酷性と非良心的一面をそのまま反映したものだ。恥ずかしくて口に出すのもはばかれるようなことをそのまま書いたもので、本だと呼ぶことさえできないと思う。八三年に原本が出た時、何年かの間追跡した結果、事実無根の部分もあった。むしろ日本人の悪徳ぶりを示す道徳性の欠如した本で、軽薄な金儲け主義的な面も加味されていると思う」と憤慨した。 〉 (『現代コリア』 1993年6月号)
さらに、秦教授は「済民新聞」に移って文化部長を務める許栄善氏に合い、許氏から、「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」と逆に聞かれ、答えに窮したといいます。
吉田証言をよく比較検討すれば証言内容に食い違いがあるなど、もう十分に虚偽であることは立証されています。それになにより、本人がこのことを認める発言もしています。
この偽証は日本にとって大きな負担となり、現代史を大きく歪めることにもなりました。韓国に謝罪に出かけるといってはテレビが追いかけ、集会での謝罪の模様を報じもしました。吉田本の刊行が1983年、秦教授の調査が1992年ですから実に満8年以上が経過しました。この間、吉田証言はただ一人の勇気ある告白としてもてはやされました。次の一文がこのことを語っています。
〈 吉田さん以外すすんで実態を証言しようとする人はなく、吉田証言がなかったら日本人からの強制連行に関する証言はなされず、闇から闇に葬られていっただろうと思うとき、日本人として、日本人の責任感と良心が瀬戸際で守られたことに、吉田さんに感謝しなければならないと思います。〉
―『強制連行と従軍慰安婦』(平林久枝編、92年刊)の解説から―
吉田証言が虚偽であったことに一点の疑いもありません。ですが、偽証と判明した後、「朝日」は吉田証言に触れることはなかったようです。無視していれば立ち消えになるとでも思っているのでしょう。吉田証言を持ち上げた記者諸氏も知らん振りを決め込んでいます。
記述が長くなりすぎたようです。こちらの「偽証」は簡単に済ませることにします。
1998(平成10)年8月11日から1週間、「記憶はさいなむ―元兵士たちは 今」と題した連載がはじまりました。もちろん、いかに日本軍が悪逆であったかを告発するもので、兵士本人たちから語らせるという趣向です。
左写真(8月11日付け)はその1回目で、「後悔しない、うそじゃないから」と大見出しをつけて慰安婦連行を証言した主計下士官の話は、やはり「うそだった」というお粗末の一席だったのです。
この主計下士官は、 〈 中国北部の部隊で前任者から慰安所管理の引き継ぎを受けたこと。朝鮮半島まで慰安婦集めに行ったこと。通訳が連れてきた女性たちは列車に乗ってから"仕事"を知り、泣き叫んだこと。
「これを言わなきゃ死ねない」「この問題が解決しないと、戦争は終わらない」と、男性は語った。〉 などと、朝日記者に語ったというのです。
この証言も秦郁彦教授が調べて、「諸君!」(1998年11月号)に詳述されていますので、ぜひ図書館などでお読みになってください。
主計下士官というのは誤まり(虚偽)で上等兵だったそうでが、上等兵という下級兵士が中国北部から越境して朝鮮に出張すること自体、ありえないこと。また出張にあたっては、この上等兵が所属する大隊副官が、「私がハンコを押さないと出られないが、管外出張はめったにないもので、朝鮮へ出せば憶えています。・・」と話していることなどから、「偽証」は証明されています。
この朝日連載の問題点は、証言者の所属部隊などがまったく書かれていないことです。また、裏づけ取材をしていたとは読めないことです。
所属部隊が書いてなければ、同じ部隊に所属していた人が読んでも、自分の部隊のこととは思わないでしょうから、異議も出ようがありません。もちろん、検証はきわめてやりにくくなります。このような報道は報道以前の問題で、なにより不公正だと私は思います。
今回、秦教授が検証できたのは、以前、この上等兵の証言が「北海度新聞」に実名登場し、その記事の切りぬきを所持していたからでした。このため、山岸上等兵の所属部隊(独立歩兵第195大隊)がわかったわけです。
それにしても、こうまでして「慰安婦強制連行」を事実と強弁する、普通の感覚では考えられないことです。こうして慰安婦問題はことあるごとに今なお問題となってくるのです。朝日の罪深さ、もっと多くの人が知り、批判すべきと思いますが。
― 2005年 4月 1日より掲載 ―