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東京大空襲の見解で米国に毅然 1905年3月1〜10日、清国の奉天(現在の瀋陽)で日露戦争最後の大戦闘が行われた。日本軍25万人、ロシア軍37万人が激突した奉天会戦である。3月10日、日本軍は奉天に突入、制圧し、勝利を不動のものにした。後にこの日が陸軍記念日となった。筆者の好きな軍歌「歩兵の本領」でも、「アルプス山を踏破せし/歴史は古く雪白し/奉天戦の活動は/日本歩兵の粋と知れ」と歌われている。 45年3月10日、アメリカ空軍は300機を超える戦略爆撃機B29で東京を空襲する。筆者の父は、当時、江戸川区に住んでおり、この空襲に遭遇した。火の中を逃げまどう人々、メタンガスが腹にたまり膨れ上がった死体の山が打ち寄せる隅田川岸、小さな子供をおぶったまま炭素化している母子の死体の様子について、父から何度も話を聞かされた。父は「人の焦げるにおいはとても嫌で、記憶に焼き付く。このにおいが、平和ないまになっても、突然よみがえってくるんだ」とつぶやいていた。 筆者は93年10月4日のモスクワで父のこの話を思いだした。その日、エリツィン露大統領が国会議事堂に戦車で大砲を撃ち込んだ。砲弾には火薬が詰められていなかったが、摩擦熱で火災が発生した。国会議事堂は白亜の大理石で建てられたので「ベールィー・ドーム(ホワイトハウス)」と呼ばれていたが、上部は火災で真っ黒になった。そこから、人の焦げたなんとも形容しがたい嫌なにおいがする。このにおいはいまでも、突然、筆者の記憶によみがえってくることがあり、その日は一日中憂鬱(ゆううつ)だ。 社団法人日本戦災遺族会の調査によれば、45年3月10日の東京都区部の空襲による死亡者は8万3793人、負傷者は4万918人に上っている。軍事目標だけでなく、広範な民間人を巻き込む無差別爆撃は当時の戦時国際法に違反している。この点について、鈴木宗男衆議院議員が質問主意書で、「政府はアメリカ軍による東京大空襲は当時の国際法に違反して行われたものと認識しているか」とただした。 これに対して、3月23日、政府は安倍晋三内閣総理大臣名で「当時の状況についてはさまざまな見方があり、お尋ねの東京大空襲は、当時の国際法に違反して行われたとは言い切れないが、国際法の根底にある基本思想の一たる人道主義に合致しないものであったと考えられる」という答弁書を閣議決定した。筆者はこの内容を高く評価する。安倍内閣が対米追従であるという見方は浅薄だ。アメリカ政府が東京大空襲について「国際法の根底にある基本思想の一たる人道主義に合致しないものであった」という認識を示すことはありえない。同盟国であっても完全に一致した歴史認識をもつことは不可能だ。 マスコミは扱わないが、安倍内閣は過去の歴史についてもっと踏み込んだ見解も表明している。鈴木宗男氏が43年11月3日の大東亜宣言について、「大東亜宣言には、『米英は自国の繁栄のためには他国家他民族を抑圧し特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行ひ大東亜隷属化の野望を逞うし、遂には大東亜の安定を根柢より覆さんとせり』との文言があると承知するが、政府はこの認識を現時点でどのように評価しているか」とただしたのに対し、政府は2006年10月6日の内閣答弁書で「御指摘の文言は、会議の参加国が当時における認識を示したものであると考える」と答えている。大東亜宣言に署名した、大日本帝国、中華民国(汪兆銘政権)、タイ国、満州国、フィリピン共和国、ビルマ国が米英は侵略国であるという認識をしていたと、現在の安倍内閣が確認しているのである。この歴史認識にアメリカが同意することは絶対にないと思う。 現在、アメリカ議会で慰安婦決議が問題になっているが、事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢で反論することは当然のことだ。ただし、慰安婦を含む戦争に関連した歴史認識問題に日米共通の認識をつくることができるという幻想はもたない方がよい。筆者は安倍内閣は本格保守政権と認識している。それは、質問主意書に対して、ときにアメリカの基本的な歴史認識と衝突するような内容でも、ひるまずに答弁し、日本国家と日本人の歴史を取り戻すことに貢献しているからだ。この点についてマスコミが公平な評価をしないことに筆者は違和感を覚える。 FujiSankei Business i. 2007/3/29 ラスプーチンと呼ばれた男 佐藤優の地球を斬る/安倍政権の歴史認識 http://www.business-i.jp/news/sato-page/rasputin/200703290005o.nwc 政府答弁書「東京大空襲は国際法基本思想に合致せず」 03/24 15:04 政府は23日の閣議で、昭和20年3月10日の米軍による東京大空襲について「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れないが、国際法の根底にある基本思想の一つたる人道主義に合致しないものだった」とする答弁書を決定した。鈴木宗男衆院議員の質問主意書に答えた。 答弁書はまた、空襲による死傷者数について、日本戦災遺族会の調査に準拠して(1)死亡者8万3793人(2)負傷者4万918人-とした。 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/44634/ 一九四五年三月十日の東京大空襲に関する質問主意書 提出者 鈴木宗男 一 一九四五年三月十日の東京大空襲(以下、「東京大空襲」という。)による死者、負傷者、被災者の数を明らかにされたい。 二 政府は、アメリカ軍による「東京大空襲」は当時の国際法に違反して行われたものと認識しているか。 右質問する。 平成十九年三月十五日提出 質問第一二〇号 http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/166120.htm?OpenDocument 近聞遠見:外は一目置いている=岩見隆夫 能登半島地震が発生した25日、石川県選出の森喜朗元首相に、真っ先に見舞いの電話をかけたのは民主党の長老、西岡武夫だった。森の国会事務所まで足を運んだのは自民党の青木幹雄参院議員会長である。 「これがワセダなんだなあ」 と森は言う。3人は同じ時期、早大に在学していた。慶大ならこうはいかないだろう、というニュアンスもこもっている。 政界にかぎらず、早大出身者は結束が固い。慶大はクールと言われるが、小泉政権時代は慶大閥が取りざたされた。 その点、安倍晋三首相と同学の成蹊大卒は与野党通じ古屋圭司元副経済産業相1人だ。学閥を作りたくても、作りようがない。安倍政権のまとまりが悪い理由の一つは、案外そんなところにもあるのかもしれない。 昨年9月末、初組閣を終えたあとの記者会見で、人事方針を聞かれ、安倍は、 「政治は結果が大切、結果を出せる方を選んだ」 と述べた。しかし、政権発足から半年が過ぎて、結果を出すどころか、足を引っ張る閣僚が目立つのに驚く。それが支持率を下げている。 世論調査の結果をみると、世間は安倍の指導力にも懐疑的だ。頼りない首相と映っている。だが、外の目は違う。 ドイツの有力紙「フランクフルター・アルゲマイネ」は、先に安倍が訪独した際、 <安倍首相は、内政では戦後最大のがんだった教育基本法の改正にメスを入れ、国際テロや極東アジアにおける緊張の高まりに備え、防衛庁の「省」への格上げを実現した。 また、日本でもようやく現代の凄惨(せいさん)な情報戦に対応し、日本版NSC(国家安全保障会議)創設の筋道をつけた> などと報じ、外交面の活動も高く評価した。 ドイツ在住のノンフィクション作家、クライン孝子は、そうした現地の空気を、 <(安倍は)日本の新しい国家像を内外に印象づけたわけで、欧州では戦後の日本の首相としては珍しく大胆かつ斬新な政治家として、一目置かれている> と伝えている。(17日付「産経新聞」) また、パリでは、防衛省に昇格した時の式典あいさつで、安倍がドゴール将軍(第5共和制初代大統領)の著書「剣の刃」の一節を引用し、 「難局に立ち向かう精神力の人は、自分だけを頼みとする……」 と述べたことがニュースになり、すこぶる評判がいいという。 アジアでも、ある財界首脳が、 「昨年秋の安倍訪中の前と後に中国に行ったが、空気がガラリと変わっていた。幹部が口をそろえて安倍さんを激賞する。こんなに急変するものかとびっくりしましたね」 と言うように、安倍は人気者だ。 米国とは慰安婦問題がこじれているが、4月の安倍訪米で調整されるだろう。同盟関係が揺らぐようなテーマではない。 総じて、国際社会での安倍は、好感度が高い。しかし、国内の目は厳しく、とても一目など置かれていない。この温度差は何に起因するのだろうか。かつて、 <戦後、一国民主主義、一国繁栄主義、一国平和主義、まとめて一国とじこもり主義が日本の常識の主流であった> と批判したのは、政治学者の京極純一である。いまもその性癖が日本の世論を偏狭にしていないか。そろそろ、とじこもりでなく<世界のなかの日本>に開眼する時ではないか。(敬称略) http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/iwami/kinbun/news/20070331ddm003070165000c.html 「戦後体制からの脱却」を進める安倍首相 【安倍政権6カ月 孤独と苦悩の日々】 2007年 03月 30日
在シドニー総領事館元工作員が実名告発 日本の最先端技術を盗む中国国家全部 「産業スパイ・工作員の全手口」 (SAPIO 2006年3月22日号) 日本の軍事・産業技術のスパイ活動に最も積極的な国が中国であることは間違いないだろう。 強大化する中国の最大の"弱点"は技術カの低さにあるが、それを補うためには、技術大国であり、しかも防諜体制が杜撰な日本は格好の標的であるからだ。 中国の対外スパイ活動について、最も詳しく語ることができるのが、自ら元工作員であることを告白し、オーストラリアで“亡命”した陳用林氏である。昨年9月に陳氏との接触に成功し、その後もコンタクトを持ち続けている国際ジャーナリスト・大野和基氏が、陳氏の証言をもとに、中国の対外工作活動の実態をレポートする(文中のカギ括弧はすべて陳氏の発言)。 在シドニー中国総領事館の一等書記官だった陳用林氏は、昨年5月末に総領事館を脱出し、妻子とともにオーストラリアに政治亡命を求めた。結局、政治亡命は認められず、7月に保護ビザを与えられることになるが、彼の事実上の“亡命”は、世界中の情報関係者から大変な注目を集めた。 陳氏は、“亡命”直後の6月4日、シドニーで開かれた天安門事件16周年記念集会で、自身が中国政府の工作員であったことを明かしたうえで、中国の対外諜報の実情を暴露・告発した。 「中国政府はオーストラリア国内に1000人以上ものスパイを潜伏させ、反体制派の中国人やその家族を拉致し、秘密裏に本国に強制送還している」 陳氏は総領事館から逃亡後、妻、そして小学生の娘とともに、シドニー市内に隠れて生活をしている。 陳氏の証言が、日本にとっても重要であるのは言うまでもない。自ら、中国政府のためにスパイ活動をしてきた人物で、その手口を誰よりも熟知しているからだ。 「反政府分子摘発では拉致、殺害も辞さない」 やや長くなるが、陳氏の経歴と、オーストラリアで従事していた諜報活動が具体的にどのようなものであったのかを説明しておく必要があるだろう。 上海近郊に生まれた陳氏は、大学で国際政治を専攻したために、就職先は外交部(外務省)しかなかったという。 「大学では西洋の政治思想も勉強していたので、中国共産党の本質を客観的に見ることもできたが、完全には共産党の思想は抜けなかった」 大学卒業後、北京郊外の印刷工場に送られて、毛沢東思想の洗脳を受ける。さらに91年8月に正式に外交部に採用されてからも、実際の仕事を開始する92年6月までの間、徹底した再教育を受け、共産党思想を叩き込まれたという。 94年8月までは北京で勤務、その後98年8月までフィジーの中国大使館に勤務。その後一旦北京に戻り、シドニーに赴任したのは2001年4月だった。 シドニーに赴任してからの陳氏の仕事は、オーストラリア国内にいる反政府分子を探し出し、中国政府に報告すること。特に気功集団『法輪功』の信者を監視することが最重要任務だった。 「例えば、シドニーの公会堂で彼らの集会があるときは、市議会に圧カをかけて中止させるとか、信者がパスポート更新のために領事館にやってきたときにパスポートを没収するといった方法だ。 ただし、非協力的な信者は拉致して、『61Oオフィス』に引き渡していた」 『61Oオフィス』とは、99年6月10日、中国憲法が要求する手続きをバイパスして、法輸功を弾圧する目的だけのために、当時の江沢民国家主席の指示のもとに作られた組織で、中国国内はもとより、日本を含む海外拠点にも作られた。『61Oオフィス』には法的な制約がない。いわばナチス・ドイツのゲシュタポや文化大革命の際の中央委員会に似通った組織である。法輪功弾圧に関しては全権を与えられているので、拉致、殺害など、あらゆる手段が認められている。 「シドニーの中国総領事館にいる間、中国当局の指示の下で、工作活動に従事していた。 例えば、中国で多額の汚職事件を起こしたある都市の副市長が、オーストラリアに滞在する妻と息子に会うためにやってきたことがある。このとき、副市長を中国に連れ戻すために、彼の息子の拉致が計画・実行された。拉致を実行するときは、麻酔薬を使って眠らせ、漁船に乗せて公海上に停泊させていた貨物船まで連れていった。そこから、副市長に連絡して『即刻、中国に戻らないと、息子の命はない』と伝え、さらに直接息子と話をさせて、拉致が本当であることも証明する。実際、この方法で本国に連れ戻したが、彼は帰国後、死刑判決を受けた」 陳氏の主任務であった法輪功対策では、特別対策室を領事館の中に作り、本国に強制送還する具体的な方法を定期的に話し合っていたという。 「強制送還された信者の中には、調査に協力せず、自殺する者もいたと表向きには言われているが、実際は尋問中に殴り殺された者がほとんどだ」 しかし陳氏は、実際に信者に接触すればするほど、彼らがまったく無害であることに気付くようになる。これが“亡命”のきっかけとなった。 「彼らが信じている『真実、自制、思いやり』は、何も間違っていないと思うようになった。 私は、次第に中国政府の指示に従わないようになり、パスポートも更新させるようにした。 ところがある日突然、領事館の自分の机の上からコンピュータがなくなっていた。それを見たときに、亡命しようと決意した」 米国防総省を震憾させたサイバー・スパイ集団 陳氏が直接携わっていたスパイ活動は、「エージェント」と呼ばれる情報提供者を確保することから始まる。法輪功の場合は、実際に内部にいる信者であるが、もちろんエージェントの確保は一筋縄ではいかない。 「中国への愛国心に訴えることは当然だが、やはりよく使う手はカネだ。個人情報を提供するとー件につき、最低でも1万元(約14万円)ほどの報酬を渡す。重要なエージェントの場合は、魅力ある女性を使って性的な関係を結ばせて取り込むこともある。こうなるともう協力を拒否するのはほとんど不可能になる。一旦、エージェントにしてしまうと、各人にコード番号があてがわれ、情報収集をしてもらうことになる」 陳氏は日本で工作活動をしていたわけではないが、エージェントを使う方法は、日本でもよく使われていると指摘する。 「日本の場合は、ビジネスマンとして日本企業で働いていたり、大学や大学院に留学したりしている中国人が多い。彼らを情報提供者として使うので、手間がかなり省ける。 しかも、きちんとした本職や肩書きを持っているので、スパイであることが発覚しにくい。 特に、親が中国政府の人間で、その子供が留学、赴任している場合、スパイ活動に従事している可能性が高いと言っていいだろう」 このようなスパイ活動は、反政府分子の監視にとどまらず、先進国の最先端技術を盗む「産業スパイ活動」にも及んでいる。むしろ、産業大国である日米両国に対しての諜報活動では、この分野が最も重要視される。 「産業スパイの方法には、大きくわけて2つある。 一つは“サイバー・スパイ”と呼ばれるもので、アメリカのケースで言えば、軍事施設、核研究所、国防総省と契約している企業のコンピュータにハッキングし、あらゆる種類のテクノロジーを盗んでいる。 例えば、“Titan Rain(タイタン・レイン)”というコード・ネームを持つサイバー・スパイ集団はアメリカの国防を揺るがしている。これは中国が国家支援しているスパイで、特に軍事情報を盗むことにかけては世界一だ。最近彼らが盗んだ情報には、軍事ヘリコプターのスペック、軍隊が使っている戦闘計画用のソフトがある」 もう一つは、ヒューミント(HUMINT=Human Intelligence)、つまり人間が直接行なうスパイ活動。 この場合は、中国の国家安全部(諜報活動を行なう政府の情報機関)から直接派遣される。 「対日、対米のヒューミント工作で最も多いパターンは、現地にダミー会社を作り、駐在員として赴任させる方法だ。 表面的にはまったく普通の企業と変わらないから、スパイかビジネスマンかの区別はつかない。 彼らは、欲している情報がどこにあるかを特定すると、その企業とビジネス交渉を通じて技術を盗む。 表面上は正式な商取引だから、相手はスパイと交渉しているとは気付かない」 こうした情報収集活動は、発覚しないようにするために、独自に行動するという。 「彼らが個別に収集した情報を統括する人間が各国の大使館や領事館にいるが、私もその役割を担っていた。 日本は中国の諜報技術をあなどっているようだが、私が考える限り、CIAと能力に遜色はない。 盗聴器などもCIAが使用しているものとほとんど同性能だ。重要人物の車にはGPS装置を取り付け、いつどこに行ったかを常に把握している」 「日本には中国情報機関のダミー会社が多数存在する」 さらに陳氏は、工作活動が露見するのを防ぐために行なわれる、いわゆる“口封じ”が徹底していることも指摘する。 「私自身“亡命”してから、自分が追尾されていることはよくわかっている。娘が通っている学校にも監視がある。彼らが実際に暗殺を遂行するときは事故に見せかける方法を使うので、自分の自動車の車輸のネジが緩んでいないか、常にチェックしている。 これは日本ではなくアメリカのケースだが、かつて毛沢東の主治医だった人物が、アメリカで毛沢東についての本を出版した。ところが、彼が第2弾を準備しているとき、突然心臓病で死んだことがある。あれだけ健康だった人が突然心臓病になるはずがない。FBIも調査したが、殺されたという確証は出てこなかった。殺されたのだとすれば、実に手が込んでいると言わざるを得ない」 陳氏は、米下院議員のヘンリー・ハイド(共和党・イリノイ州選出)の招聘で渡米し、人権に関する下院小委員会をはじめとする各委員会の公聴会で、中国のスパイについて証言しているが、そこで「オーストラリアには、1O00人以上のスパイがいる」と述べ、さらに「アメリカにはさらに多いスパイがいる」と付け加えた。私のインタビューに対しても、「アメリカにはオーストラリアの3倍の数のスパイがいるはずだ」と答えている。 では、日本にいる中国人スパイはどうか。 「オーストラリアよりも多くいるはずだ。これは法輸功のような反政府分子を弾圧する目的というより、日本の技術を盗むためだと言っていい。 アメリカから盗んでいるのは、核やミサイルの軍事技術だが、日本の場合は(軍事転用が可能かどうかにかかわらず)最先端技術に関する情報だ。日本企業に普通に就職している中国人研究者は、入社当時はスパイではなくとも、途中でリクルートされて、エージェントになるケースが多い。 研究者をスパイとして使う理由は、彼らが中国に必要な技術が何か見極める能力を持っているからだ。 さらに日本には、(国家安全部が作った)多くのダミー会社があることは間違いない」 日本の防諜体制は皆無に等しいと陳氏は認識している。 中国が先進国に追いつくには、技術を盗むしか方法がないということかもしれないが、これに対して日本の対策はあまりにも杜撰なのである。アメリカは陳氏の告発を重要視し、ハイド議員らは彼を公聴会に招聘した。日本政府、あるいはスパイ活動に晒されている日本企業は、陳氏の発言をアメリカ以上に重く受け止めるべきであろう。 中国・亡命工作員 陳用林 インタビュー by 大野和基 http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/chin02.html 2007年 03月 29日
1944年10月1日 アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属 アメリカ戦時情報局心理作戦班 APO689 秘 日本人捕虜尋問報告 第49号 尋問場所レド捕虜収容所 尋問期間1944年8月20日〜9月10日 報告年月日1944年10月1日 報告者T/3 アレックス・ヨリチ 捕虜朝鮮人慰安婦20名 捕獲年月日1944年8月10日 収容所到着年月日1944年8月15日 はじめに この報告は、1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。 この報告は、これら朝鮮人「慰安婦」を徴集するために日本軍が用いた方法、慰安婦の生活および労働の条件、日本軍兵士に対する慰安婦の関係と反応、軍事情勢についての慰安婦の理解程度を示している。 「慰安婦」とは、将兵のために日本軍に所属している売春婦、つまり「従軍売春婦」にほかならない。「慰安婦」という用語は、日本軍特有のものである。この報告以外にも、日本軍にとって戦闘の必要のある場所ではどこにでも「慰安婦」が存在してきたことを示す報告がある。しかし、この報告は、日本軍によって徴集され、かつ、ビルマ駐留日本軍に所属している朝鮮人「慰安婦」だけについて述べるものである。日本は、1942年にこれらの女性およそ703名を海上輸送したと伝えられている。 徴 集 1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地——シンガポール——における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。 これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡された金額に応じて6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。 これらの女性およそ800人が、このようにして徴集され、1942年8月20日ごろ、「慰安所の楼主」に連れられてラングーンに上陸した。彼女たちは、8人ないし22人の集団でやって来た。彼女たちは、ここからビルマの諸地方に、通常は日本軍駐屯地の近くにあるかなりの規模の都会に配属された。結局、これらの集団のうちの四つがミッチナ付近に到達した。それらの集団は、キョウエイ、キンスイ、バクシンロウ、モモヤであった。キョウエイ慰安所は「マルヤマクラブ」と呼ばれていたが、ミッチナ駐屯部隊長の丸山大佐が、彼の名前に似た名称であることに異議を唱えたため、慰安婦たちが到着したさいに改称された。 性 向 尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は25歳くらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準からいっても白人的基準からいっても、美人ではない。とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。自分の「職業」が嫌いだといっており、仕事のことについても家族のことについても話したがらない。捕虜としてミッチナやレドのアメリカ兵から親切な扱いを受けたために、アメリカ兵のほうが日本兵よりも人情深いと感じている。慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている。 生活および労働の状況 ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。 彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。 料金制度 慰安婦の営業条件は軍によって規制され、慰安所の利用どの高い地域では、規則は厳格に実施された。利用度の高い地域では、軍は料金、利用優先順位、および特定地域で作戦を実施している各部隊のための利用時間割り当て制を設ける必要があると考えた。尋問によれば普通の料金は次のとおりであった。 1兵午前10時〜午後5時1円50銭20分〜30分 2下士官午後5時〜午後9時3円30分〜40分 3将校午後9時〜午前0時5円30分〜40分 以上は中部ビルマにおける平均的料金であった。将校は20円で泊まることも認められていた。ミッチナでは、丸山大佐は料金を値切って相場の半分近くまで引き下げた。 利用日割り当て表 兵士たちは、慰安所が混んでいるとしばしば不満を訴えた。規定時間外利用については、軍がきわめて厳しい態度をとっていたので、多くの場合、彼らは用を足さずに引き揚げなければならなかった。この問題を解決するため、軍は各部隊のために特定日を設けた。その日の要員として、通常当該部隊員二名が、隊員の確認のために慰安所に配置された。秩序を保つため、監視任務の憲兵も見まわった。第18師団がメイミョーに駐留したさい、各部隊のために「キョウエイ」慰安所が使用した利用日割表は、次のとおりである。 日曜日——第18師団司令部。 月曜日——騎兵隊 火曜日——工兵隊 水曜日——休業日、定例健康診断 木曜日——衛生隊 金曜日——山砲兵隊 土曜日——輜重隊 将校は週に夜7回利用することが認められていた。慰安婦たちは、日割表どおりでも利用度がきわめて高いので、すべての客を相手にすることはできず、その結果、多くの兵士の間に険悪な感情を生みだすことになるとの不満をもらしていた。 兵士たちは慰安所にやって来て、料金を支払い、厚紙でこしらえた約2インチ四方の利用券を買ったが、それには左側に料金額、右側に慰安所の名称が書かれていた。次に、それぞれの兵士の所属と階級が確認され、そののちに兵士は「列をつくって順番を待った」。慰安婦は接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。 報酬および生活状態 「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。 1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める胸の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。 さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気配りすように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦はすべて処置を施され、隔離されたのち、最終的には病院に送られた。軍そのものの中でも、まったく同じ処置が施されたが、興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえなくなることはなかったという点が注目される。 日本の軍人に対する反応 慰安婦と日本軍将兵との関係において、およそ重要な人物としては、二人の名前が尋問から浮かび上がっただけである。それは、ミッチナ駐屯部隊指揮官の丸山大佐と、増援部隊を率いて来た水上少将であった。両者の性格は正反対であった。前者は、冷酷かつ利己的な嫌悪すべき人物で、部下に対してまったく思いやりがなかったが、後者は、人格のすぐれた心のやさしい人物であり、またりっぱな軍人で、彼のもとで仕事をする人たちに対してこの上ない思いやりをもっていた。大佐は慰安所の常連であったのに対し、後者が慰安所にやって来たという話は聞かなかった。ミッチナの陥落と同時に丸山大佐は脱出してしまったものと思われるが、水上将軍のほうは、部下を撤退させることができなかったという理由から自決した。 兵士たちの反応 慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は、「慰安所」にいるところを見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」そうである。しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。 すべての慰安婦の一致した意見では、彼女たちのところへやって来る将校と兵士のなかで最も始末が悪いのは、酒に酔っていて、しかも、翌日戦前に向かうことになっている連中であった。しかし、同様に彼女たちが口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった慰安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか、「そのような、女にふさわしくないことを話題にするな、といつも叱ったし、そのような事柄については丸山大佐でさえ、酒に酔っているときでも決して話さなかった」。 しばしば兵士たちは、故郷からの雑誌、手紙、新聞を受け取るのがどれほど楽しみであるかを語った。彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などがいっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした。口紅や下駄は、どう考えても女性向きのものであり、慰安婦たちには、故郷の人びとがなぜそのような品物を送ってくるのか理解できなかった。彼女たちは、送り主にしてみれば、自分自身つまり「本来の女性」を心に描くことしかできなかったのであろうと推測した。 軍事情勢に対する反応 慰安婦たちは、彼女たちが退却し捕虜になる時点まで、さらにはその時点においても、ミッチナ周辺の軍事情勢については、ほとんど何も知らなかったようである。しかし、注目に値する若干の情報がある。 「ミッチナおよび同地の滑走路に対する最初の攻撃で、約200名の日本兵が戦死し、同市の防衛要員は200名程度になった。弾薬量はきわめて少なかった。」 「丸山大佐は部下を散開させた。その後数日間、敵は、いたる所で当てずっぽうに射撃していた。これという特定の対象を標的にしているようには思われなかったから、むだ撃ちであった。これに反して、日本兵は、一度に一発、それも間違いなく命中すると判断したときにのみ撃つように命令されていた。」 ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである。その後、第56歩兵団の水上少将がニ箇連隊〔小隊〕以上の増援部隊を率いて来たものの、それをもってしても、ミッチナを防衛することはできなかった。 慰安婦たちの一致した言によれば、連合国軍による爆撃は度肝を抜くほど熾烈であり、そのため、彼女たちは最後の時期の大部分を蛸壺〔避難壕〕のなかで過ごしたそうである。そのような状況のなかで仕事を続けた慰安婦も1、2名いた。慰安所が爆撃され、慰安婦数名が負傷して死亡した。 退却および捕獲 「慰安婦たち」が退却してから、最後に捕虜になるまでの経緯は、彼女たちの記憶ではいささか曖昧であり、混乱していた。いろいろな報告によると、次のようなことが起こったようである。すなわち、7月31日の夜、3つの慰安所(バクシンロウはキンスイに合併されていた)の「慰安婦」のほか、家族や従業員を含む63名の一行が小型船でイラワジ川を渡り始めた。彼らは、最後にはワインマウ近くのある場所に上陸した。彼らは8月4日までそこにいたが、しかし、一度もワインマウには入らなかった。彼らはそこから、一団の兵士たちのあとについて行ったが、8月7日に至って、敵との小規模な戦闘が起こり、一行はばらばらになってしまった。慰安婦たちは3時間経ったら兵士のあとを追って来るように命じられた。彼女たちは命令どおりにあとを追ったが、結局は、とある川の岸に着いたものの、そこには兵士の影も渡河の手段もなかった。彼女たちは、付近の民家にずっといたが、8月10日、イギリス軍将校率いるカチン族の兵士たちによって捕えられた。彼女たちはミッチナに、その後はレドの捕虜収容所に連行され、そこでこの報告の基礎となる尋問が行なわれた。 宣 伝 慰安婦たちは、使用されていた反日宣伝リーフレットのことは、ほとんど何も知らなかった。慰安婦たちは兵士が手にしていたリーフレットを2、3見たことはあったが、それは日本語で書かれていたし、兵士は彼女たちを相手にそれについて決して話そうとはしなかったので、内容を理解できた慰安婦はほとんどいなかった。一人の慰安婦が丸山大佐についてのリーフレット(それはどうやらミッチナ駐屯部隊へのアピールだったようであるが)のことうを覚えていたが、しかし、彼女はそれを信じなかった。兵士がリーフレットのことを話しあっているのを聞いた慰安婦も何人かいたが、彼女たちたまたま耳にしたからといって、具体的な話を聞くことはなかった。しかし、興味深い点としては、ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べたことが注目される。 要 望 慰安婦のなかで、ミッチナで使用された拡声器による放送を聞いた者は誰もいなかったようだが、彼女たちは、兵士が「ラジオ放送」のことを話しているのを確かに聞いた。 彼女たちは、「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん他の慰安婦の生命が危険になるからである。しかし、慰安婦たちは、自分たちが捕虜になったという事実を報じるリーフレットを朝鮮で計画されていると盂家に活用するのは名案であろうと、確かに考えたのである。 付録A 以下はこの報告に用いられた情報を得るために尋問を受けた20人の朝鮮人「慰安婦」と日本人民間人2人の名前である。朝鮮人名は音読みで表記している。 名 年齢 住 所 1 「S」 21歳 慶尚南道晋州 2 「K」 28歳 慶尚南道三千浦〔以下略〕 3 「P」 26歳 慶尚南道晋州 4 「C」 21歳 慶尚北道大邱 5 「C」 27歳 慶尚南道晋州 6 「K」 25歳 慶尚北道大邱 7 「K」 19歳 慶尚北道大邱 8 「K」 25歳 慶尚南道釜山 9 「K」 21歳 慶尚南道クンボク (ママ) 10 「K」 22歳 慶尚南道大邱 11 「K」 26歳 慶尚南道晋州 12 「P」 27歳 慶尚南道晋州 (ママ) 13 「C」 21歳 慶尚南道慶山郡〔以下略〕 14 「K」 21歳 慶尚南道咸陽〔以下略〕 15 「Y」 31歳 平安南道平壌 16 「O」 20歳 平安南道平壌 17 「K」 20歳 京畿道京城 18 「H」 21歳 京畿道京城 19 「O」 20歳 慶尚北道大邱 20 「K」 21歳 全羅南道光州 日本人民間人 1 キタムラトミコ 38歳 京畿道京城 2 キタムラエイブン 41歳 京畿道京城 出典:吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店pp.439-452 http://members.at.infoseek.co.jp/ash_28/ca_i02_1.html http://a777.ath.cx/ComfortWomen/proof_jp.html http://likecoffee.iza.ne.jp/blog/entry/136269/ |
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