42847 従軍慰安婦考

 (最新見直し2007.3.12日)

【「従軍慰安婦考」についてのれんだいこ見解】
 戦前の日本軍部の戦争犯罪が様々に告発されている。南京大虐殺事件、百人斬り事件に並んで「従軍慰安婦問題」もその一つとなっている。この流れは、日本の反戦平和運動から作り出されている。ところが、「日本軍部の戦争犯罪告発事例」は悉く反証されており、素人では判断できにくい。本サイトででは、「従軍慰安婦問題」の基礎知識を整理して、後日の判断の証としておく。  

 れんだいこは次のように思う。慰安婦の存在は歴史的事実である。問題は、1・それが日本政府が歴史責任を負うべき拉致=強制連行によって為された事件であり、2・それが日本政府が歴史責任を負うべき国家的性奴隷拘禁事件なのか、、3・当時の国際法に照らして戦争犯罪なのかどうか、ということにある。これらの歴史責任は、「従軍慰安婦制」が、国家的要請を受けたものであれ、1・民間業者の請負で運営され、2・相当の金額を呈示した上に成り立っており、3・奴隷的拘束ではない、いわゆる商取引の範疇のものであり、4・その商取引が騙されたものでなかったことが証明されれば免責される。

 興味深いことは、南京大虐殺事件、百人斬り事件でも然り、「従軍慰安婦問題」についても、実証的なのは右派系論者の方である。左派系論者のそれは「頭からの決め付け」でしかないように見受けられる。あぁこの貧困をなんとせんか。もう一つ、現在のイラク戦争でも判明するが、米英ユ同盟による残虐非道な市民虐殺に対する批判は高まらず、「従軍慰安婦」について声高な批判が罷り通っている変態さであろう。米軍の日本の主要都市無差別大空襲、原爆投下の歴史責任が免責され、「従軍慰安婦問題」が殊更論われるのは、俗に云う片手落ちだろう。

 れんだいこが思うのに、こういう史実解明はどんどんやれば良い。だがしかし、今現になされている米英ユ同盟が専ら為している悪逆非道蛮行に対する批判に結びつかなければ、何のために為しているのだということになるのではあるまいか。普通の感性ならそうなるべきところが妙に切断されており、単に「従軍慰安婦問題」が採りあげられていることが胡散臭い。

 2005.1.16日、2007.3.12日再編集 れんだいこ拝


【「中曽根証言」考】
 「ウィキペディア中曽根康弘」 は次のように記している。
 「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。」(松浦敬紀「終わりなき海軍」文化放送開発センター出版局、72ページ)

(私論.私見)

 これによれば、中曽根は戦時中、海軍主計として慰安所設置に関与していたことになる。してみれば、従軍慰安所施設が設置されていたのは史実だろう。しかし、よりによって、こんなところに中曽根が顔を出すとは。思えば奇妙なもので、戦後首相で唯一人、戦前一平卒として従軍した田中角栄が護憲を云い、戦前高級将校の海軍主計として従軍慰安婦施設を設営していた中曽根が改憲派となっている。中曽根の安逸さが見えてくる話ではないか。

 2007.3.10日 れんだいこ拝

【「小野田寛郎証言」考】
 小野田寛郎氏の「私が見た従軍慰安婦の正体」が「正論1月号」に掲載されており、それがサイトアップされているので、これを転載しておく。それによれば、慰安婦制度の実態が判明し、全体として商行為として存在しており、奴隷的拘束に基づくものではなかったことが明らかにされている。れんだいこは、これを貴重証言と思い、これをベースに理解すべき
ではないかと思う。
 私が見た従軍慰安婦の正体 小野田寛郎 (「正論」1月号掲載)

 首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。

 戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。

 外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。

 野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。

 淫らな言葉だが、中国戦線では「ツンコ・ピー」「チョウセン・ピー」と呼んでいた筈であるが、他の人の見ている所でする筈のないことだけに、「慰安所」のことも「慰安婦」のことも、公の場で自己の見聞を正確に発表する人が少ない。あまり詳しいと「よく知ってるね」と冷笑されるのが落ちだろう。

 では何故、君は、と私に聞かれるだろうが、幸い私はその実態を外から観察出来る立場にあったから、何も臆することなく、世の誤解を解くために発表することが出来るのだ。

 ◆漢口の「慰安所」を見学

 商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・旧ドイツ租界・旧ロシア租界・旧英国租界に分かれていて地区ごとにそれぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。

 日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、そうでない者は警備上難民区に住まされていた。

 難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。

 私は、仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。ある日、汚れた軍服を着た兵士に「慰安所はどこか知りませんか」と路上で尋ねられ、一瞬思い当たらず戸惑った。しかし看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と「憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したのでその通り教えてあげた。映画館と同様に日華区にあった。汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に間違いない。街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出してないからだ。

 私は「特殊慰安所」か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう、小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと早合点していた。

 ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので「慰安所」の出入りが自由であった。彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。

 私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。そこには内地人も鮮人も中国人もいた(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。

 群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。料金は女性の出身地によって上中下がある。また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。

 半島出身者に「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」、「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。

 ◆どこにもいなかった「性的奴隷」

 ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。

 私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。

 彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。

 先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。

 ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。

 当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。

 一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十三円程で、その三分の一を約四円として計算すると三十三万人で総額約百三十二万円になる。「零戦」など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。

 サラリーマンの初任給が四十円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である。

 以上が、私が商社員として約三年半の間、外部から眺め、また聞き得た「慰安所」と「慰安婦」の実態である。

 私が漢口を去った昭和十七年夏以降に、漢口兵站(作戦軍の後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関)の副官で「慰安所」等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、地名・位置等について多少の相違点は見いだしたが、本題の「慰安所」について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。これでは誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。

 商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う「いくらか貰うてんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。

 ◆問題にして騒ぎ出す者たちの狙い

 次に、軍関与の暴論について証言する。 私は二十歳で現役兵として入隊、直ちに中支の江西省南昌の部隊に出征した。初年兵教育が終わって作戦参加、次いで幹部候補生教育、途中また作戦と、一ケ年一度の外出も貰えずに久留米の予備士官学校に入校してしまったから、外出して「慰安所」の門を潜る機会に恵まれなかった。

 だが初年兵教育中、古い兵士には外出がある。外出の度にお土産をくれる四年兵の上等兵に「外出でありますか」と挨拶したら「オー、金が溜ったから朝鮮銀行に預金に行くんだ」と笑って返事をしてくれた。周りは周知の隠語だからクスリと笑うだけだった。

 南昌には師団司令部があった。「慰安所」には内地人も朝鮮人も中国人もいて、兵士は懐次第で相手を選んで遊んだのだろう。私は幹部候補生の教育を、南昌から三十キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。

 「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。もちろん勤務は二十四時間である。

 私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。その姿で「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。

 考えてみるまでもない、そこで遊んでいる兵士は丸腰どころではない。もっと無防備で不用心な姿の筈である。その将兵を守るべき責任は部隊にあるのは当然だ。それに性病予防の問題もある。そんな田舎に医師や病院がある筈がない。性病予防のため軍医や衛生兵が検査を実施するしかない。

 「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも中国人だった。彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。大人数なのだから、それなりの輸送手段もいる。辺鄙な場所だから部隊に頼る以外方法がない。部隊が移動する時もそうなるだろう。

 私の話す湖北省の言葉もだいたい通じたので、経営者と立ち話をして彼女たちについてそれなりの様子も聞き出せた。今でも「慰安所」の両側に部屋のある中廊下を巡察した不粋な自分の姿を思い出すが、こんな漫画にもならない風景が現実にあったのだ。これは私の部隊だけではないと思う。

 もう六十年も昔のことである。時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。したがって娼妓(ここでは慰安婦に相当する)に対する解釈も当然変化している。そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更これを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。言えることはただ一つ、不完全だからこそ喚き散らしていれぱ、何かが得られると狙っているということだ。

 戦場に身を曝し、敵弾の洗礼を受けた者として最後に言っておく。このことだけは確かだ。野戦に出ている軍隊は、誰が守ってくれるのだろうか。周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れないのだ。自分以上に強く頼れるものが他に存在するとでも言うのならまた話は別だが、自分で自分を守るしか方法はないのだ。

 軍は「慰安所」に関与したのではなく、自分たちの身を守るための行為で、それから一歩も出ていない。

 異常に多く実を結んだ果樹は枯れる前兆」で「種の保存の摂理の働き」と説明されるが、明日の命も知れぬ殺伐とした戦場の兵士たちにもこの「自然の摂理」の心理が働くと言われる。彼らに聖人君子か、禅宗の悟りを開いた法師の真似をしろと要求することが可能なのだろうか。

 現実は少ない給料の中から、その三分の一を「慰安所」に持って行ったことで証明されている。有り余った金ではなかったのだ。

 「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。根源に人間が生存し続けるために必要とするさがが存在するからだ。

 「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。



【「従軍慰安婦問題提起」考】
 1973年、千田夏光氏が「従軍慰安婦」を著作した。千田氏は、「従軍慰安婦」の歴史的背景として、次のように記している。
 概要「日本軍が第一次世界大戦でシベリア出兵を行ったとき強姦事件が多発した。そうした中で沢山の日本軍兵士が梅毒にかかり、強姦事件と性病を防止するために慰安婦が必要になった。だから日本軍では業者を呼んで慰安婦となる女性を集めた」。

 千田氏は、1993年の講談社文庫発行「従軍慰安婦」の中では、次のように記している。
 「日本軍は沢山の慰安婦を必要としたので、20,000人もの女性が1941年に日本軍に極秘裏に拉致された」。

 1983(昭和58)年、吉田清治氏がか自叙伝「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」を著し、次のような体験証言を発表した。
 概要「昭和18年に軍の命令で、彼と兵士が韓国済州島で婦女子を誘拐し、強制連行して慰安婦にした」。

 1989年、この本が韓国語に翻訳され広がった。しかし、韓国の地方紙の女性記者が済州島の古くからの住民と会い、事実関係を調査したところ、吉田氏の自叙伝の信憑性は裏付けられなかった。むしろ、氏が金目的で出版したことが分かった。1989.8.14日、彼女の記事が掲載されたが、地方紙であったため殆ど注目されなかった。

【「従軍慰安婦問題で公式謝罪と賠償を求める訴訟提起」考】

 1989(平成1).11.19日、日本の大分市の主婦、青柳敦子氏が、日本政府に「公式謝罪と賠償を求める裁判」を起こし、これを法廷で争うため、証言してくれる女性を捜しに韓国を訪れた。以下、証言者の証言能力を検証する。

 最初に現れたのは金学順で、彼女は当初、義理の父に40円で売られ、その義父に日本の売春宿に連れて行かれたと証言した。しかしその後、「義父と北京へ仕事を探しに行き、そこで日本兵に連れて行かれた」と証言内容を訂正した。いずれにせよ、当時、内地でもあった気の毒な「身売り」の話であって、国家による組織的な強制連行とは関係なかった。

 韓国のソウル大学の安垂直教授は、彼がコンタクト出来た40人以上の女性の証言を検討した所、半数以上の証言は矛盾していたり、時代背景と違っていたり、事実を歪められていたと語っている。彼はそのうち19人の証言をまとめて発表している、その内日本軍に強制されて慰安婦にさせられたと言っているのは4人に過ぎなかった。しかもその内の一人は釜山で働いたと言い、他の一人は富山で働いたと述べたが、釜山にも富山にも軍の慰安所はなかった。

 残る2人の内一人が金学順であり、今一人は文玉珠。文玉珠は、日本政府に対する訴訟で、慰安婦であったことを自ら明らかにし、「私は無理矢理に慰安所に連れて行かれて慰安婦にされました」と告発した。同女は当初は、娼婦として売られたと主張していた。

 奪われた記憶を求めて 元日本軍「慰安婦」沈達連さんの強制連行の現場から」は、「姉と一緒に拉致・誘拐された沈連蓮さん(69歳)の強制連行の証言」をルポしている。それによると、姉妹はある日、赤い腕章をした兵隊に突然手を捕まれ、幌をかぶせた一台のトラックに乗せられ、抵抗したが無駄であった。強制連行された女性は船に乗せられて海を渡り、20人ずつに分けられたと証言している。

 
「慰安所」での生活について次のように語っている。
 「着いてからは洗濯と炊事をさせられ、数日後に大勢の兵隊に犯されたのです。気がついたら病院でしたがすぐに戻されました。文字を知らない私は、他の女性たちよりも兵隊に殴られたのです。慰安所の周辺には山が多いために寒く、2〜3年すると体がボロボロになりました。食事の量は少なく、私たちを犯す兵隊たちの方もすごくやせていて、骨と皮の状態だったのです。若い兵隊ばかりだったので同情さえしました」。(1997.5.16日号「週刊金曜日」掲載

(私論.私見)

 この「沈連蓮の拉致証言」は貴重である。問題は、拉致が何時のことであったのか、慰安婦常態下での給金についての証言、解放時の様子の証言がなされていないことであろう。それと、「沈連蓮の拉致証言」の明かす慰安婦の生態は悲惨ではあるが、強制ではなかったことを逆に語っている証言ともなっている。


【朝日新聞が従軍慰安婦問題を採り上げる】
 1991(平成3)年、朝日新聞は、この年から翌年にかけて4回にわたり「従軍慰安婦問題」を報道した。1991(平成3).8.11日、社会面トップで「思い出すと今も涙」、「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」とのタイトルで、概要「日中戦争や第二次大戦の際、女子挺身隊の戦場に連行され,日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人が名乗り出た」と報じた。

【1990年代初頭、訴訟が相次ぐ】
 1991.12月、元従軍慰安婦だったという複数の韓国人女性が名乗り出て、過去を語り始めた。この頃より、日本の植民地主義・侵略による犠牲者の側から、日本の謝罪と補償を要求する訴訟が東京の裁判所に数十件なされている。訴えた人は、従軍「慰安婦」、南京などの大虐殺の犠牲者たち、戦時徴用から生きて帰った人たち、そして日本が中国で使用した生物学的・化学的攻撃の犠牲者およびその家族たちであった。

【1990年代初頭、従軍慰安婦問題への直接関与を示す証拠書類が発見される】
 この頃、中央大学の吉見義明教授は、防衛庁(現防衛省)の図書館に足を運び、2日間の調査で日本政府による従軍慰安婦問題への直接関与を示す証拠の書類を発見した。吉見教授によれば、旧日本軍が前線部隊のために慰安所を設置する命令を下した関係書類を、偶然、発見したのは1980年だったと語っている。書類には、中国北部を占領する旧日本軍の参謀が、慰安所の設置を求める内容が記されてた。旧日本軍兵士が、中国女性に性的暴行を加え、現地住民の怒りを買うことを避けることが目的だったという。一部の歴史家によれば、終戦までに約20万人の女性がアジア各地の慰安所で慰安婦として働かせられていたとも言われる。

【朝日新聞が、従軍慰安婦問題記事を再度採り上げる】
 1992(平成4)1.11日、一面トップで「慰安所、軍関与示す資料」、「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」と報道した。吉見教授の従軍慰安婦に関する研究が紹介されていた。翌日、政府が、この問題の調査に乗り出すことを約束した。

 朝日新聞は、この問題を取り上げる記事の中で、彼女らの最初の証言である「娼婦として売られた」云々のくだりの重要証言を報道しなかった。同社は、この歪曲報道に対し居直っており、「吉田清治の告白の嘘」についても沈黙している。

 朝日新聞の記事は、宮沢首相訪韓のわずか5日前に発表されたことにより、ソウル市内では抗・糾弾のデモ、集会が相次ぎ、日の丸が焼かれるなど扇動記事効果を発揮した。

【「宮沢首相が日韓首脳会談で謝罪】
 1992(平成4).1.16日、訪韓した宮沢首相は、事実を確認する余裕もなく、首脳会談で8回も謝罪を繰り返し、「真相究明」を約束した。

 廬大統領(当時)は、次のように述べている。
 「実際は日本の言論機関の方がこの問題を提起し、我が国(韓国)国民の反日感情を焚き付け、国民を憤激させてしまいました」。

【国連人権委員会に直訴される】
 1992(平成4).2.17日、宮沢首相の訪韓直後のこの日、日本弁護士連合会の戸塚悦郎弁護士が、国連人権委員会で、慰安婦を人道上の罪と位置づけ、国連の介入を求める発言をした。慰安婦問題を国際スキャンダルに仕立てようとするアプローチが展開されたことになる。

【「日本政府の調査」考】
 その後、日本政府は、独自の調査を勧めていくが、「強制連行はなかった」とする報告書を纏める結果となった。この発表のために、政府はおおがかりな文書調査と、元慰安婦への聞き込みを行った。この調査を実施した平林博・外政審議室室長は、1997(平成9).1.30日、参議院予算委員会で、片山虎之助議員(自民党)の質問に対し、次のような答弁をしている。
 政府といたしましては、二度にわたりまして調査をいたしました。一部資料、一部証言ということでございますが、先生の今御指摘の強制性の問題でございますが、政府が調査した限りの文書の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような記述は見出せませんでした。

 ただ、総合的に判断した結果、一定の強制性があるということで先ほど御指摘のような官房長官の談話の表現になったと、そういうことでございます。

 この判断の過程について、当時、内閣官房副長官だった石原信雄氏は、次のように明らかにしている。
 強制連行の証拠は見あたらなかった。元慰安婦を強制的に連れてきたという人の証言を得ようと探したがそれもどうしてもなかった。結局談話発表の直前にソウルで行った元慰安婦十六名の証言が決め手になった。彼女達の名誉のために、これを是非とも認めて欲しいという韓国側の強い要請に応えて、納得できる証拠、証言はなかったが強制性を認めた。

 もしもこれが日本政府による国家賠償の前提としての話だったら、通常の裁判同様、厳密な事実関係の調査に基づいた証拠を求める。これは両国関係に配慮して善意で認めたものである。元慰安婦の証言だけで強制性を認めるという結論にもっていったことへの議論のあることは知っているし批判は覚悟している。決断したのだから弁解はしない(櫻井よしこ「密約外交の代償」「文塾春秋」平成9年4月)。

 つまり、元慰安婦からの聞き取り調査では充分な裏付けがとられていないと明かされいる。「韓国側の強い要請」のもとで、「納得できる証拠、証言はなかったが強制性を認めた」という政治的判断に基づく決着であったことが証言されていることになる。

【「インドネシアでの聞き取り」考】
 (この項、転載元不明あしからず)
  日韓関係と同様、インドネシアとの間でも、慰安婦問題が焚きつけられた。平成5年に高木健一氏(金学順さんらの日本政府に対する訴訟の主任)ら、日本の弁護士3人がインドネシアにやってきて、地元紙に「補償のために日本からやってきた。元慰安婦は名乗り出て欲しい」という内容の広告を出した。

 兵補協会のラハルジョ会長は、「補償要求のやり方は、東京の高木健一弁護士の指示を受け」、慰安婦登録を始めた。会長は取材した中嶋慎三郎ASEANセンター代表に対して、「慰安婦に2百万円払え」と怒号したというから、名乗りでれば、2百万円もらえると宣伝している模様であった、と言う。

 インドネシアでの2百万円とは、日本なら2億円にも相当する金額なので、大騒ぎとなり、2万2千人もが元慰安婦として名乗りをあげた。ちなみに、当時ジャワにいた日本兵は2万余である。

 この様子を報道した中京テレビ製作のドキュメンタリー「IANFU(慰安婦)インドネシアの場合には」に、英字紙「インドネシア・タイムス」のジャマル・アリ会長は次のように語った。

 ばかばかしい。針小棒大である。一人の兵隊に一人の慰安婦がいたというのか。どうしてインドネシアのよいところを映さない。こんな番組、両国の友好に何の役にも立たない。我々には、日本罵倒体質の韓国や中国と違って歴史とプライドがある。「お金をくれ」などとは、360年間、わが国を支配したオランダにだって要求しない。

 ちなみに、この番組では、元慰安婦のインタビュー場面が出てくるが、ここでも悪質な仕掛けがあった。元慰安婦が語る場面で、日本語の字幕で戦争が終わると日本人は誰もいなくなっていたんです。私たちは無一文で置き去りにされたんです。と出ているのだが、実際には、インドネシア語で、あの朝鮮人は誰だったろう。全員がいなくなってしまったんです。私たちは無一文で置き去りにされたんです。と話していたのであった。慰安所の経営者は朝鮮人であり、戦争が終わると、慰安婦たちを見捨てて、姿をくらましたのである。

■6.あなた方日本人の手で何とかしてください■

 この番組の予告が、日本共産党の機関紙「赤旗」に出ていたことから、インドネシア政府は、慰安婦問題の動きが、共産党により、両国の友好関係を破壊する目的で行われていると判断したようだ。

 スエノ社会大臣が、すぐにマスコミ関係者を集め、次の見解を明らかにした。

1) インドネシア政府は、この問題で補償を要求したことはない。
2) しかし日本政府(村山首相)が元慰安婦にお詫びをしてお金を払いたいというので、いただくが、元慰安婦個人には渡さず、女性の福祉や保健事業のために使う。
3) 日本との補償問題は、1958年の協定により、完結している。

 インドネシア政府の毅然たる姿勢で、高木弁護士らのたくらみは頓挫した。この声明の後で、取材した中嶋氏は、数名のインドネシア閣僚から、次のように言われたという。「今回の事件の発端は日本側だ。悪質きわまりない。だが、我々は日本人を取り締まることはできない。インドネシアの恥部ばかり報じてインドネシア民族の名誉を傷つけ、両国の友好関係を損なうような日本人グループがいることが明白になった。あなた方日本人の手で何とかしてください」。

【「河野官房長官談話」考】
 聞き取りが終わったのが7.30日。そのわずか5日後の1993(平成5).8.4日、 河野洋平・官房長官が談話で次のように発表された(「河野談話」)。
 概要「政府調査の結果、次のことが判明した。慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主にこれら当たったが、その場合も、甘言、弾圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」、「われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」。

 石原副長官がすかさず軍・官の強制連行の証拠は発見出来なかった、と添えた。同日、宮沢政権は総辞職をした。

 日本政府は、この河野談話で、「心から」の「お詫びと反省」を内外の関係者に示し、旧日本軍が従軍慰安婦問題に、「直接あるいは間接に」関与した過去を認めた。

【「従軍慰安婦問題」が教科書に掲載される】
 「河野談話」は「政府の公式見解」となり、日本政府は、慰安婦が軍によって強制徴集されたことを公式に認めたことになった。これを契機として、中学高校のほとんどの歴史教科書に、「従軍慰安婦」が記述されることになった。平成8.6月末、中学校用歴史教科書の7年度検定結果が発表され、教科書を発行する7社が一斉に「従軍慰安婦」を掲載していることが明らかになった。いずれも、「強制連行」の一環として書いていた。これに対し、平成8年末、「新しい歴史教科書をつくる会」が結成され、「慰安婦」記述削除を訴えた。

【「従軍慰安婦問題」が国連に提訴される】
 「従軍慰安婦問題」が韓国、北朝鮮からアジア諸国に波及し、国連にまで持ち込まれている。国連は南京大虐殺以上の非人道的行為の大問題として近く断を下すための準備を進めている。この問題をマスコミが取り上げ、支援報道している。

 1994.3月、 ジュネーブに本部をおく国際法律家委員会が家庭内暴力を主テーマにした会合を開き、クマラスワミ女史が報告書の付属文書で「戦時の軍用性奴隷制問題に関する報告書」と題して、戦前の日本の慰安婦問題を取り上げた。幼い少女たちを含む多数の女性たちが戦時中、日本の軍事施設に監禁されたのみならず、殴打や拷問を受け、繰り返し強姦されたと指摘した。

 その中で、北朝鮮在住の元慰安婦の証言として、仲間の一人が一日40人もサービスするのはきついと苦情を言うと、ヤマモト中隊長は拷問したのち首を切り落とし、「肉を茹でて、食べさせろ」と命じたなどという話が紹介されている。この元慰安婦は、1920年に生まれ、13歳の時に一人の日本兵に拉致されたというのだが、1933年の朝鮮は平時であり、遊郭はあったが、軍専用の慰安所はなかった。その程度の事実確認もされていない証言が、4例紹介され、その上で日本政府に対し、被害者への補償、犯罪者の追及と処罰を勧告している。

 戸塚弁護士は、この時にもジュネーブで本岡昭次参議院議員(社会党→民主党)とともに、デモやロビー活動を行っている。報告書は、吉田清治の本や、慰安婦たちの証言を取り上げている。

 日本のジュネーブ外務省はこの文書に関する40頁の反論を作成し、根回し工作をしたもようだ。西側諸国代表の間では、クマラスワミ報告書の欠陥が理解されたが、韓国、北朝鮮、中国、フィリピンなどの関係国は立場上、強く反発した。

 このような攻防の結果、人権委員会では家庭内暴力に関する本文は「賞賛する」という最高の評価を得た一方、慰安婦に関する部分は、take note(留意する)という最低の評価であった。


 ソウルやマニラ、ジャカルタなど、過去「大東亜共栄圏」に属した多くの都市で、憤慨した犠牲者がぞくぞくと立ち上がり、50年前に彼女たちが体験 したことを語り始めた。韓国(南北)やフィリッピン、中国、タイ、インドネ シアなど各地で女性が名乗り出、自分たちが体験したことを活字や口頭で証言 し始めた。その人数は1997年初め、すでに23,000名に達した。

【国連人権委員会が「性的奴隷」規定する】
 1996.2月、国連の人権委員会は、「慰安婦」を「性的奴隷」と規定し、 この女性たちに日本がおかした行為を「反人道的犯罪」と断定した。この委員会は、日本が犠牲者に補償すること、公訴時効に関係なく責任者を処罰すること、さらに日本は教育課程にこの歴史的事実を含めることなどを勧告(クマラ スワミ勧告)した。

【アメリカ司法省の犯罪局が、戦犯と認められる日本人入国「不適格者名簿」を準備したと発表】
 1996.12月、アメリカ司法省の犯罪局は、戦犯と認められる日本人入国「不適格者名簿」を準備したと発表した。その名簿に入っている(名前 が明らかにされていない)12名中、3名は慰安婦組織に関係している一方、 残り9名は中国で細菌戦を行い、囚人たちを相手に数知れない残酷な罪を犯し たハルビンの「731部隊」関係者とされている。事件後50年たった現在、ワシントンは日本人をナチ戦犯と同じように扱うことに決めたが、これは彼らの犯罪が格別嫌悪すべきものであり、これに荷担した嫌疑がある者は公訴時効の保護を受けてはならないと宣言したことになる。 

【朝日新聞が特集記事】
 1997(平成9).3.31日、朝日新聞は、見開き2面を使って慰安婦問題の大特集を組んだ。この時、吉田著作に関し、「間も無くこの証言を疑問視する声が上がった。済州島の人たちからも氏の著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない。吉田氏は『自分の体験をそのまま書いた』と話すが、『反論するつもりはない』として、関係者の氏名などデータの提供を拒んでいる」と記述し、「真偽は確認できない」と従来記述を修正した。

 この特集で、見出しには「従軍慰安婦 消せない事実」、「政府や軍の関与明白」、「無理やりを認める供述/ “指示”“便宜”文書残る」と記しており、軍の強制連行を臭わせている。併せて、「裏を取らずに名乗り出た人の一方的な話だけで『無理やり』と決めつけた」、「軍の関与は強姦防止・性病予防であった」とも書いている。

【ゲイ・マクドゥーガル女史が、「元慰安婦への法的賠償を履行する機関の設置」を日本政府に勧告】
 平成10年8月、ゲイ・マクドゥーガル女史が、旧ユーゴスラビアなど戦時下における対女性暴力問題を調査した報告書を作成したが、その付属文書で、またも慰安婦問題を取り上げ、「レイプ・センターの責任者、利用者の逮捕」と「元慰安婦への法的賠償を履行する機関の設置」を日本政府に勧告した。

 慰安所は「レイプ・センター(強姦所)」と改称されている。しかし、これは人権小委員会の勧告としては採択されず、日本政府はマ女史の個人報告書に過ぎない、としている。

【米カリフォルニア州上下院が、「大戦中の日本軍犯罪に謝罪と賠償請求決議」を採択】
 本年8月には、米カリフォルニア州上下院が第二次大戦中に日本軍が行ったとされる戦争犯罪について、「日本政府はより明確に謝罪し、犠牲者に対する賠償を行うべきだ」とする決議を採択した。この「戦争犯罪」には、捕虜の強制労働、「南京虐殺」とならんで、「従軍慰安婦の強要」が含まれている。

 カリフォルニア州議会の決議には、アイリス・チャンの「レイプ・オブ・ナンキン」の影響が指摘されている。チャン氏は、中国政府の資金援助を受けたシナ系米人の団体に支援されている。


【「従軍慰安婦の実態」考】
 現在判明しつつあることは次の通り。慰安所は約400カ所存在した。大部分は、1カ所で10人〜20人の女性たちがそこで働いていた。全体ではおよそ4000の〜8000いたことになる。慰安所の労働条件は日本での女郎部屋と同等待遇であった。慰安婦の95%が戦場から生還した。

 従軍慰安婦達の高収入については多くの証言がある。1992.5.12日、毎日新聞が、一例として「文玉珠が2年間で2万6千円も貯めた事が、彼女の貯金通帳から明らかになった」と報じている。当時の帝国陸軍大将の年収は約6600円でしたので、その2倍の年収に相当する。尚、当時の2等兵の給料は僅か年間72円にすぎなかった。

【「南京攻略戦争時の貴重証言」考】
 「南京攻略戦」時下における「従軍慰安婦問題」に関する貴重な記録が紹介されている。渡辺卯七「第9師団経理部将校の回想・4,南京戦の思い出」参照。概略次のように記されている、とのことである。 中支那方面軍は指揮下の上海派遣軍や第10軍に37年12月1 1日、軍慰安所設置の指示を命じた。これを受けて第10軍の山崎正男少佐は、湖州における軍慰安所の設置について、日記(12月18日)に次のように書いている。
 「先行せる寺田中佐は憲兵を指導して湖州に娯楽機関を設置す。・・・別に 告知を出したる訳でもなく、入口に標識を為したるにもあらざるに、兵は何処からか伝え聞きて大繁盛を呈し、動(やや)ともすれば酷使に陥り注意しありとのことなり。 先行し来れる寺田中佐はもとより自ら実験済みなるも、本日到着せる大阪 少佐、仙頭大尉この話を聞き耐まらなくなったと見えて、憲兵隊長と早速出掛 けて行く。約一時間半にて帰り来る。・・・概ね満足の体なり」(南京戦史編集 委員会編「南京戦史資料集」)。

 つまり、慰安所は好評であった。

 1940年、軍中央は 「軍紀振作対策」をたて、「主として事変地に於て著意(ちゃくい)すべき事項」として慰安施設の「意義」を次のように評価している。 陸密第1955号「支那事変の経験より観たる軍 紀振作対策」(陸軍省、1940)には次のように記されている。
 「事変地に於ては特に環境を整理し慰安施設に関し周到なる注意を払ひ、殺 伐なる感情及劣情を緩和抑制することに留意するを要す。環境が軍人の心理延いては軍紀の振作に影響あるは贅言を要せざる所なり。 故に兵営(宿舎)に於ける起居の設備を適切にし、慰安の諸施設に留意するを 必要とす。特に性的慰安所より受くる兵の精神的影響は最も率直深刻にして、之が指 導監督の適否は志気の振興、軍紀の維持、犯罪及性病の予防等に影響する所大 なるを思わざるべからず」

【「肯定派の吉見教授見解」考】
 糾弾派の中心人物である吉見義明・中央大学教授は、岩波新書の「従軍慰安婦」で、次のように述べている。
 その女性の前に労働者、専門職、自営業など自由な職業選択の道が開かれているとすれば、慰安婦となる道を選ぶ女性がいるはずはない・・・たとえ本人が、自由意思でその道を選んだように見えるときでも、実は、植民地支配、貧困、失業など何らかの強制の結果なのだ。

【「否定派の藤岡教授見解」考】

 藤岡教授は次のような見解を述べている。

 概要「慰安婦問題は、日本を侮辱する政治目的で1990年 代に作り出された根拠のないスキャンダルである。それは外国勢力と結託 し日本を破壊する巨大な陰謀である。このようなウソが教科書に載せられれば、日本はたとえようのないほど淫乱で愚かで狂的な民族にみえてしまう」。


【国会審議】
 「日本会議」の「慰安婦「強制連行」はなかった」参照

 こうした世論を反映して平成九年の通常国会でも、いわゆる「従軍慰安婦」問題についての論議が相次いだ。一部この問題に触れたものも含めると、次のような議員が質問している。

1月30日 参議院予算委員会 片山虎之助議員(自民)・田村秀昭議員(新進)
2月3日 衆議院予算委員会 西村眞悟議員(新進)
2月7日 衆議院予算委員会 栗本慎一郎議員(自民)
2月19日 衆議院文教委員会 池坊保子議員(新進)
3月12日 参議院予算委員会 小山孝雄議員(自民)
3月18日 参議院予算委員会 板垣 正議員(自民)

 特に片山虎之助議員、小山孝雄議員、板垣正議員による質問によって、重要な政府答弁が相次いで引き出された。まず、片山議員は次のように追及した。
 そこで、今文部大臣が言われた平成五年八月四日の外政審議室の調査、それに基づく官房長官の談話がこれまた不正確なんですよ。軍が関与していると。関与はしていますよ。関与にもいい関与、悪い関与、積極的な関与、消極的な関与があるんだから。それは兵士を守るために消極的にはいい関与をしたんですよ。だから、それは私は否定しません。それじゃ、強制連行や強制募集、そういうことの事実が確認できたかどうかなんです。ところが、あの調査報告も官房長官談話もかなり曖昧なんです。そこで、外政審議室長、どういう調査をしましたか。

 平林博外政審議室長は次のように答弁している。
 お答えを申し上げます。政府といたしましては、二度にわたりまして調査をいたしました。一部資料、一部証言ということでございますが、今先生御指摘の強制性の問題でございますが、政府が調査した限りの文章の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような記述は見出せませんでした。ただ、総合的に判断した結果、一定の強制性があるということで先ほど御指摘のような官房長官の談話の表現になったと、そういうことでございます。

 調査は〈資料〉と〈証言〉に基づいてなされたが、〈資料〉には、軍や官憲が「強制」連行を行ったことを示す記述は一切なかった、ということがこの答弁で明らかになった。そこで片山議員は、〈資料〉すべての公開を求めたところ、政府はこれを了承した。

 それでは、「総合的に判断した結果」とはいかなることを意味するのか。〈証言〉が「強制」を裏付けたということなのか。この点を鋭く追及し、画期的な答弁を引き出したのが、公開された政府資料のすべてを調査するなど万全の準備を整えて質問に臨んだ小山孝雄議員であった。平林博外政審議室長が答弁した。

小山  (平成九年)一月三十日の本委員会で、片山委員の質問に対しまして、政府のこれまでの慰安婦問題に関する調査では慰安婦の強制連行はなかったという答弁をされましたけれども、もう一度外政審議室に確認をいたします。
平林  お答え申し上げてきておりますのは、政府の発見した資料の中に軍や官憲による慰安婦の強制連行を直接示すような記述は見出せなかった、こういうことでございまして、その点は確認させていただきます。(中略)
小山  先ほど慰安婦の強制連行はなかった、政府の資料から見出せなかったということを御答弁になりましたけれども、どうしてそういうことを平成五年八月四日の調査結果を報告するときに記入しなかったんでしょうか、あるいは発表しなかったんでしょうか。それどころか、報告書には「業者らが或いは甘言を弄し、或いは畏怖させる等の形で本人たちの意向に反して集めるケースが数多く、更に、官憲等が直接これに加担する等のケースも見られた。」と、ここまで書いております。それはなぜですか。
平林  平成五年八月の調査結果におきましては、個々の出典とか参考にした文献、証言等を個別に言及しておりません。実態として、今まで申し上げましたように、政府の発見した資料の中には強制連行を直接示す記述は見当たらなかったのでございますが、その他各種の証言集における記述でございますとか、韓国における証言聴取とか、その他種々総合的にやった調査の結果に基づきまして全体として判断した結果、一定の強制性を認めた上であのような文言になったということでございます。
小山  全体としてというのでは本当によろしくない。(中略)ここに報告書の写しを持っております。私がここに持っておりますので、どれがどれで、どれが公開されてどれが非公開なのか、明らかにしてください。
平林  今、先生のお持ちの資料の中には、日本の関係省庁、それから国立国会図書館、アメリカの国立公文書館等のほかに、関係者からの聞き取り先、あるいは参考としたその他の国の内外の文書及び出版物が並べられておると思うんですが、このうち公開していないものは関係者からの聞き取りだけでございまして、その他はすべて公開をしている次第でございます。
小山  参考とした国内外の文書は全部公開でしょうか。
平林  原則として、今おっしゃったとおりでございますが、韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会というのがございますが、ここの資料だけは内部資料だということで渡されておりますので、これは例外的に非公開ということになっております。
小山  そうしますと、我が日本国の各行政機関、それから国立国会図書館、国立公文書館、そして米国国立公文書館から出たものは全部公開されている。そこには強制連行を直接示す資料はなかったということが確認された。そうすると、残りは関係者からの聞き取り調査です。すなわち、元従軍慰安婦を中心とした関係者からの聞き取り調査、これは明らかにされていない。それから、参考文献の中に太平洋戦争犠牲者遺族会等韓国の遺族会が出した、まとめた元慰安婦の証言集、これが非公開ということですね。
平林  そのとおりでございます。
小山  その証言集の裏づけはとっておりますか。
平林  お答え申し上げます。個々の証言を裏づける調査を行ったかという御趣旨でございましたら、それは行っておりません。個々の方々、これは元従軍慰安婦もおりますし、元慰安婦もおりますし、それから軍人さんたちのあれもございますが、それの証言を得た上で個々の裏づけ調査をしたということはございません。
小山  そうしますと、公開されていない資料、そして個々の裏づけ調査をしていない資料で政府は平成五年八月四日の決定を行った、こういうことになりますか。
平林  結論としてそのとおりでございますが、全体を子細に検討して、総合的に判断した結果ということでございます。
小山  そういうことですから、当時この調査に当たった、政府の方針に携わった方々が今いろんなところで疑問を呈しておられる、こういうことだと思います。既に公表されているものでも研究者が、例えば秦郁彦千葉大教授だとか西岡力東京基督教大学助教授の詳細な調査、検証が行われていて、既に公にされている証言集等についてはほとんど信憑性がないということが立証されているわけであります。(中略)
 また、当時の外政審議室長も、今どこかの大使に行っていますが、「そのまま信ずるか否かと言われれば疑問はあります」と証言しております。さらにまた、聞き取り調査に行った当時の外政審議室の審議官田中耕太郎さんは、調査が終わった日にソウルでの記者会見で、証言をした慰安婦の方々の「記憶があいまいな部分もあり、証言の内容をいちいち詳細には詰めない。自然体でまるごと受けとめる」という記者会見をしたのも日本のマスコミにきっちり出ているわけであります。
 こうした経緯があるわけでございますけれども、やはりここで大きな疑問が残るわけでございまして、そうした資料をもとにああいう決定をしたんですかという疑問はまだまだ残るわけであります。

 以上の国会質疑・答弁によって、教科書に「従軍慰安婦」を記載する第一の根拠となっていた河野官房長官談話は全く権威を失ったといえる。 結論から言えば、政府は「河野官房長官談話の根拠となったものは、客観的裏付けのない元慰安婦の証言だけであった」と認めたのである。

 「談話」のもととなった調査資料の全貌と、公開・非公開の別が明らかとなった。「政府が発見した資料の中には強制連行を示す記述は見出せなかった」と平林外政審議室長が繰り返し強調したのは、公開文書のことを指している。ということは、「強制連行」を認めた河野官房長官談話の根拠となったものは非公開のものに限られる。

 すなわち韓国の遺族会がまとめた元慰安婦の証言集、および元慰安婦を中心とした関係者からの聞き取り調査である。この非公開資料について、「その証言集の裏づけはとっておりますか」と小山議員が質問したところ、「それは行っておりません」という答弁であった。河野談話は、公開もできない、裏づけ調査もなされていない、極めて信憑性の低い証言のみを根拠にしてなされたものであると結論された。

 今後、私たちはすべての議論を、「慰安婦の強制連行を認めた河野談話は公開もできない、裏づけ調査もなされていない、極めて信憑性の低い証言のみを根拠にしてなされたものである」こと、かつ政府もそれを国会の場で公式に認めたという点から始めてゆくべきである。

 課題は、二つある。一つは、「河野談話」は非公開の、裏付け調査もしていない韓国の元慰安婦の証言に基づいている。現在の私たちの状況は譬えて言えば、証拠能力があるかどうかも分からない非公開の資料によって一方的に「性犯罪国家」と有罪宣告されてしまったようなものである。

 政府の公文書が無罪を証明している以上、裁判のやり直しをするべきであり、そのためには「談話」の決定打となった「非公開の証言」を政府はすべて公開し、専門家によって客観的、学問的に徹底的に検証させるべきである。

 もう一つは、小山議員も最後に指摘していたが、宮澤首相や河野官房長官(当時)はなぜ、裏付け調査もしていない不確かな証言に基づいて、私たち日本人すべてに「アジアの女性たちを軍・官憲が拉致・監禁して性奴隷とした」という汚名を着せるようなことをしたのか、ということだ。「慰安婦の境遇にあった人々にも同情を禁じ得ないが、いくら調査しても強制性を示す文書は発見できなかったし、元慰安婦の証言も裏付けがとれない以上、現段階では『強制性』を認めるわけにはいかない」と、なぜ明言することができなかったのか。

【石原信雄元官房副長官発言】
 この点について産経新聞(平成九年三月九日付)のインタビューの中で、当時、「河野談話」作成に直接関わった石原信雄元官房副長官はこう述べている。
――ではなぜ強制性を認めたのか。
 「日本側としては、できれば文書とか日本側の証言者が欲しかったが、見つからない。加藤官房長官の談話には強制性の認定が入っていなかったが、韓国側はそれで納得せず、元慰安婦の名誉のため、強制性を認めるよう要請していた。そして、その証拠として元慰安婦の証言を聞くように求めてきたので、韓国で十六人に聞き取り調査をしたところ、『明らかに本人の意思に反して連れていかれた例があるのは否定できない』と担当者から報告を受けた。……」(中略)
――韓国側の要請は強かったのか。
 「元慰安婦の名誉回復に相当、こだわっているのが外務省や在韓大使館を通じて分かっていた。ただ、彼女たちの話の内容はあらかじめ、多少は聞いていた。行って確認したということ。元慰安婦へのヒアリングを行うかどうか、意見調整に時間がかかったが、やはり(担当官を)韓国へ行かせると決断した。行くと決めた時点で、(強制性を認めるという)結論は、ある程度想定されていた」
――それが河野談話の裏付けとなったのか。
 「日本側には証拠はないが、韓国の当事者はあると証言する。河野談話に『(慰安婦の募集、移送、管理などが)総じて本人たちの意思に反して行われた』とあるのは、両方の話を総体としてみれば、という意味。全体の状況から判断して、強制にあたるものはあると謝罪した。強制性を認めれば、問題は収まるという判断があった。これは在韓大使館などの意見を聞き、宮澤喜一首相の了解も得てのことだ」
――談話の中身を事前に韓国に通告したのか。
 「談話そのものではないが、趣旨は発表直前に通告した。草案段階でも、外政審議室は強制性を認めるなどの焦点については、在日韓国大使館と連絡を取り合って作っていたと思う」
――韓国側が国家補償は要求しないかわり、日本は強制性を認めるとの取引があったとの見方もある。
 「それはない。当時、両国間でお金の問題はなかった。(後略)」

 内閣官房副長官と言えば、単なる一官僚とはわけが違う。総理大臣を直接サポートする内閣の事務方の最高責任者である。そうした信憑性の高い証言から浮かび上がってくるのは、学問的な検証は二の次で、強制性を認めよと迫る韓国政府の圧力に屈してしまった日本政府の姿である。

 この石原元官房副長官の証言には幾つかの重大なポイントがあるが、整理すると次のようになる。いくら探しても日本側資料には強制性を認めるものは見つからなかった。韓国政府はあくまで強制性を認めるよう要請していた。そこで韓国政府は、強制性を認めさせるために、韓国政府が用意した元慰安婦の証言を聞くよう要請した。元慰安婦への聞き取り調査をするのは、強制性を認めるためであることを知りながら、日本政府は聞き取り調査を決定した。

 元慰安婦の証言を踏まえた河野談話の内容については、発表前に、外政審議室が、在日韓国大使館と連絡を取り合っていた。韓国政府の要請に応じて、元慰安婦への聞き取り調査を行い、強制性を認めれば(つまり日本が自らを性犯罪国家だと認めて謝罪すれば)、この問題は収まると、在韓大使館、宮澤首相、河野官房長官、谷野作太郎外政審議室長、田中耕太郎外政審議官、そして石原官房副長官(いずれも当時)は判断した。

 日本側が強制性を認めるかわりに、韓国側は補償を求めないというような密約・取引はなかった。日本側がたとえ「強制性」を認めても、韓国側がこれで元慰安婦への補償問題を決着させるかどうかは確認していない。(これでは、強制性を認めれば韓国政府は納得してくれるだろうという一方的な希望的観測だけで、あえて「強制性」を認めたことになり、「密約」説よりももっと始末が悪い。)

▼ 韓国政府主導で作成された「河野談話」

 日本政府はあくまで強制性を認めるよう要求する韓国政府の要請に屈して、韓国政府が用意した元慰安婦の証言を聞きに出掛け(これをヤラセと呼ばずして何と呼ぼう)、その証言の裏付けもとらないまま、〈証言〉を唯一の根拠にして「強制性」を認めるような「談話」を外政審議室が在日韓国大使館と連絡を取り合いながら作成し、更に日本側はその談話の趣旨を事前に韓国政府に了解を求めた上で、発表した――。
 石原元官房長官の証言を総合すると、これが、「河野談話」の作成・発表経緯である。
 この証言は事実なのか。平成九年三月十八日、参議院予算委員会において、この石原証言の真偽を質した板垣正議員に対して、平林博外政審議室長はこう答えている。

「一言で申し上げれば、(河野談話は)韓国側と協議をしたり交渉したりというたぐいの性格のものではなく、事前に通報してできるだけポジティブ(肯定的)な反応が出るようにという働きかけをやったものというふうに伺っております。」

 つまり、河野談話の内容について韓国政府と協議はしなかったが、韓国側が強制性を認めさせるために準備した元慰安婦の証言に基づいて日本政府は「談話」を作成し、発表前にその趣旨を韓国政府に通報したが、それは、韓国政府に「ポジティブな」(肯定的な)対応をしてもらうためだったというのである。要するに形式的にはどうあれ、実質的に「河野談話」はまさに韓国政府主導によって作成されたと認めたに等しい。

 それではなぜ、歴史の真実をねじ曲げ、我が国を「性犯罪国家」に仕立てあげてまで、韓国政府の意向を受け入れなければならなかったのか。石原元官房副長官は「強制性を認めれば問題は収まるという判断があった」としているが、「強制性を認めれば問題を収める」という韓国政府の言質を正式にとったわけではない。要するに何ら確証のない希望的観測に基づいて、強制性を認めたわけで、その後の展開は憂慮した通り、問題をこじらせただけであった。

 軍や官憲による強制を認めた以上、政府は国家補償すべきだという主張に屈して、「アジア女性基金」などという訳の分からないものを作って実質的に補償に踏み切ったが、あくまで国家補償を求めるグループの反発を買い、両国関係は更にこじれ、いまや韓国政府の中にさえ元慰安婦への国家補償を求める声が出始めている。歴史の真実をねじ曲げ、ありもしない「強制性」を認めたツケが、歴史教科書ばかりでなく、両国関係にも廻ってきているのである。

 敢えて韓国政府の意向に全面的に屈して「強制性」を認めたのは何故か。石原元官房副長官が証言したように、「これで韓国政府が慰安婦問題を決着させてくれる」という確証のない希望的観測からだけであったのか。それとも「強制性」を認めなければ、我が国の存亡が脅かされる事態が起ったとでもいうのだろうか。

 かくなる上は、「河野談話」の最高責任者である宮澤元首相や河野元官房長官に質すしかあるまい。櫻井さんは、宮澤元首相に取材を申し入れ、日時も了承されていたが、直前になって「なにを話しても影響が大きいから今は語り得ない」とキャンセルされている。であるならば国会で、「河野談話」に関わった宮澤元首相ら政治家や外務官僚に対して証人喚問を行い、その責任を追及するべきである。

▼失墜した国家行政の権威を回復するために

 それにしても国会での「慰安婦」論議を振り返って痛感させられるのは、国家行政の権威が著しく失墜していることである。教科書の権威の失墜と国家行政の権威の失墜は、当然のことながら連動している。政府が過去の官房長官談話の権威を守ろうとするのは当然であるし、教科書検定の権威を守ろうとするのも当然である。安易に間違いを認めることは出来ない。そんなことを安易に認めていては行政の連続性が断たれてしまうからである。一連の政府答弁は、概ねこの線から出ているものであろう。

 しかしながら、問題となっている河野官房長官談話や教科書検定は、行政の権威としての中身をかなしいほどに持っておらず、石原元官房長官の証言や片山、小山、板垣議員らの質問によってその中身の杜撰さばかりが明らかになり、その権威を守ろうとする政府の姿はまるで漫画になってしまうのである。「なかった」ことを「あった」と言った官房長官談話を「正しい」と主張しなければならない苦しさが、政府側答弁にはにじんでいる。

 しかし、もう取り繕うことはできまい。国会という国権の最高決定機関において、「政府資料には強制性を示す文書はなかった」「河野談話の根拠となったのは、韓国政府が用意した元慰安婦の証言であり、その証言は裏付けをとっていない」「韓国政府の用意した元慰安婦の証言によって強制性を認めた河野談話を、韓国政府が肯定的に受け止めてもらうように談話発表前に韓国政府に働きかけた(河野談話は韓国政府主導で決定した)」という新事実が次々と明るみに出てきている。

 残念ながら、石原元官房長官の証言や小山議員や板垣議員の質疑は産経新聞にしか掲載されていない(「河野談話」が裏付け調査もしていない韓国の元慰安婦の証言に基づいていることなどを、朝日、読売などは一切報じていない。自社の方針に合わない情報は一切報じない朝日らが「国民に知らせる権利」を主張しているのだから笑止である)。しかし、慰安婦問題に対する国民の関心の高さを思えば、真実はやがて国民すべての知るところになろう。

 一連の慰安婦論議の最後に登場した板垣議員の質問に対して、橋本首相(当時)はこう答え、「慰安婦」記述見直しの可能性に含みを持たせた。

 「慰安婦というものがあったことを消す事はできないと思います。それを形容詞がつくのか、いわゆるという言葉がつくのか、子供たちの教育の中にそれを取り込む必要があるのかないのか、むしろある程度自らの専門分野を決めた上での一般教養に移すべきものなのか。そうした点で文部省も検定委員会も今まで十分お考えになってこられたと私は思います。しかしこういう問題は幾ら考えても、よりよいものがあるならば考え直す事を妨げるものではないと、私はそのように思います。」

 平成八年、「河野談話」に基づいて中学校歴史教科書に一斉に登場した「従軍慰安婦」だが、「河野談話」の根拠は無残にも崩れ去った。学術的根拠のない「従軍慰安婦」は、教科書の学術性を守るためにも即刻削除するべきだ。
 それが難しければ差し当たって次善の策として、「日本を含めどこの国にも戦時中、慰安婦が存在した。特に我が国では、軍や官憲が直接『慰安婦』を強制連行したという疑いをもたれたが、あらゆる政府資料を調査した結果、軍・官憲が強制連行したという事実は発見されなった」と、教科書に記述させるべきである。(初出、『祖国と青年』平成九年四月号)

 1980年にフランスの文学者ロベール・フォリソンが述べ た言葉をとりあげよう。

 「ヒットラーがガス室を使用しユダヤ人を虐殺したと主張するのは、明らかに歴史的偽りである。この偽りで得をするのは主にイス ラエルと世界中のシオニストであり、その犠牲者はドイツ国民である」。この発言の文脈で仮にヨーロッパを東アジアに変えると、犠牲者の入れ替えなどがそのまま通用するのである。

 この発言の文脈で仮にヨーロッパを東アジアに変えると、犠牲者の入れ替えなどがそのまま通用するのである。





(私論.私見)

 参照 上杉千年著『検証従軍慰安婦』(全貌社)
 参照 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言3』(小学館)
 
従軍慰安婦強制連行捏造報道


■ 参考 ■
1. 「慰安婦の戦場の性」、秦郁彦、新潮選書、H11.6
2. 「闇に挑む!」、西岡力、徳間文庫、H10.9
3. 「慰安婦強制連行はなかった」、太子堂経慰、展転社、H11.2
4. 「歴史教科書への疑問」、日本の前途と歴史教育を考える
  若手議員の会編、展転社、H9.12.23
5. 「日本人が捏造したインドネシア慰安婦」、中嶋慎三郎、
  祖国と青年、H8.12
6. 「従軍慰安婦」、吉見義明、岩波新書、H7.4
7. 産経新聞、H11.08.27 東京朝刊 4頁 国際2面