「沖縄11万人デモ」の扱い方でわかる各メディアの“位置”
9月29日、沖縄県宜野湾市の海浜公園で、沖縄戦で日本軍が集団自決を強制したという記述が教科書検定で削除されたことに抗議する「沖縄県民大会」が開かれた。参加者は11万人という巨大な“抗議デモ”であった。
我が国において、このくらい大規模な抗議デモ(もしくは集会)というのは、学生運動活発なりしころのデモと95年の米兵による少女暴行事件を除いては、おそらく皆無ではないだろうか。そうでないとしても、これほどのデモや集会が行なわれたのだから、新聞各紙(全国紙)はいずれも次の日の朝刊では写真つきのトップニュースとして扱った・・・と思っていたら、そうではなかった。
産経新聞は当然としても(笑)、読売と日経が違ったのは驚きだった。その抗議デモや日本軍が強制したかどうかについての見解の違いはあって当然だが、二面扱いとか三面以下に目立たぬように載せるというのは理解できない。
このことに関しては、テレビ朝日の朝の番組でアナウンサー氏も感情的になって指摘していた。
朝日新聞の感情的な文章にもとまどってしまうが、読売新聞の「削除」という言葉を一切使わず「修正」「訂正」という言葉を使用している記事は、明らかにミスだ。もちろん、わざと「削除」を使用しなかったのだろうが、あれは削除であって修正や訂正ではないから、ミスとなる。
ジャーナリズムというのは一体なんであるか? 人によりその定義は異なるかもしれない。しかし、ジャーナリズムというものの重要な役割の中に、国家権力の監視というものが含まれることに異議を唱える者は誰もいないだろう。
それが、国家権力におもねるような、表現方法や意図的な視覚操作(編集作業)を行なうのなら、もうそれはジャーナリズムとは言えない。
今回のデモにより、文科省は見直しを検討すると発表したが、正確には「修正された記述の見直しができるかどうか」を検討するというものだ。
「見直しできるかどうか」なんてものは、役所の都合である。真実をねじ曲げられたから、それを正せと言われて、「都合が悪いから、できないかもしれません」と答えたわけである。
この国の教科書検定というのは、文科省の御都合によって内容を勝手にいじくることだと自ら公言したようなものだ。
それにしても・・・
読売新聞の文章は完全に、日本軍の強制はなく沖縄県民の「感情」をなだめるという理由で文科省が見直しを検討することにした、という論調である。これほどはっきりと強制の証拠(生き証人など)がある事柄を、「あったかなかったかわからない」と言うのだ。
読売新聞が右寄りだろうがタカ派だろうが構わないし、いろんなタイプのジャーナリズムがあっても良いと思う。しかし、権力者側におもねってしまってはいけない。ジャーナリストはペンで剣に立ち向かうからこそジャーナリストであって、常に剣を持つ者たちに対して批判の気持ちをいだいておらねばならない。この世が極楽浄土や天国ではない以上、権力者側は常に不正を行ない、国民・市民から利益を搾取する可能性がある。その心配をしなくて良い世の中こそ理想国家であるが、そうでないからそれらを監視し糾弾する者たちが必要なのだ。その者たちこそがジャーナリストである。
自分たちがペンを剣に持ち替えてしまっているということにお気づきでない自称ジャーナリストの方々のなんと多いことか・・・。
参考記事:
asahi.com:沖縄、11万人が訴え 教科書検定「撤回を」 - 社会.
yomiuri online 集団自決に軍関与、沖縄県民11万人余参加で決議採択
yomiuri online 教科書の沖縄戦「集団自決」修正問題、文科省が見直し検討
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こうして史実は作られるのか 県民大会について「95年の県民大会の参加者数を大きく [続きを読む]
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