2.退職後の人生
1月末に、私の最終講義がありました。それが終わった後は、少しぼんやりと過ごしていました。しかし、今後のこともきちんと考えなければなりません。私は、香川大学以外に勤務する予定はありません。もちろん、愛知県の方で、何らかの形の非常勤でも依頼を受ければやるかもしれませんが、常勤ということはいまのところありません。非常勤もないでしょうが。
しかし、何もしないでいるわけにはいきませんから(そんなことをしていたら惚けてしまいますから)、とりあえず、趣味の農作業でもやろうかなと思っています。このところ、人に聞かれると、こういう答えをしてきました。
こういう言い方はいかんよなあ、と思い始めました。私らしくないのです。
3.私の最終講義
よかったら、私の最終講義の際、プロジェクターに映した下のファイルをみて下さい。カラーなどをつけているうちに、5メガほどになっていました。大体、この通り話しました。「である」調を「ですます」調に変えて話しただけです。この28ページ以降をみて下さい。
私は、社会主義の精神であった連帯とか共同性と絡めて、以下のように話しました。
ほとんどの日本人は、連帯とか共同体とかいっても、抽象的な人民とか大衆という言葉にはついていかず、結局、家族(それを支える企業)みたいなところに対象を絞って、それをより所にして生きてきたのではないか、しかし、その家族や企業がいまは崩壊しているのではないか、と。
もちろん、その解決の方法は、私にはわかりませんが、私は、(マルクス主義が好きそうな、昔からある)共同体の復活などは考えず、それより、私ならITを利用した緩いネットワークで、社会との関係を作っていきたいと話しました。この大学内でも、そうやって生きてきました、と。本当は、その後に、これが私の「連帯を求めて孤立を怖れず」だ、と書いていたのですが、誤解を受けてもいけないと思い、削除しました。
このように話したことは、自分の研究者としての一生を総括しながら到達した結論であります。「自己都合退職の私が最終講義はやる必要がない」と言い張ったのを、渡辺オノレさんが「やるべきだ」とこれまた言い張ったので、結局やることになったのですが、やる以上は、自分の研究をきちんと総括したいと思い、1年以上にわたって、何度も何度も書き直してきました。それだけ推敲を重ねた結果の結論でした。
そうである以上、退職後の人生もその生き方を貫くべきではないかと考えました。農作業にも意味を与える、自分の固有の生き方と関わらせる、そういうこだわりこそ、私の私らしさだ、と。
閑話休題4.結論
最終講義のファイル(2)
このファイルは、最終講義の時に配付した資料です。その一番下の紅葉マークの隣に「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」という言葉を入れています。これは藤沢周平『三屋清左衛門残日録』という本のなかで、藤沢が主人公に言わせている言葉です。
ただ、この本では、最初の部分で、藩の仕事を辞めた後の三屋の気持ちをこのように描きながら、その後の展開では、三屋が、隠居ながら、藩の政治に関わっていくという展開になっています、それでなければ小説にはなりませんからね。しかし、通常の人間は、そこまで役立ち続けるというわけにはいきません。
私は、(三屋と違い)大学からも学問からも、もう離れます。しかし、老後だ、老後だと言うだけにしたくありません。2月3日の(高松では3日ですが)「朝日新聞」に、立川談志が、年取っても、談志は談志で生きていきたいと言っています。私はそんな大物ではありませんが、安井は安井らしく、というところですね。ある日、子供の一人が帰ってきました。わが子も、自分が育った高松からお別れになるからということで、「高松市内の店で夕食にしよう」と言い出しました。「それもいいね」と言ってついていったら、その店に子供達全員が揃っていました。東京から飛行機で3人が飛んできて、2人は夕方まで高松市内で待っていたようでした。びっくりしましたね。わが奥さんも、私には内緒で、私が大学を辞めるということで、慰労会を開くという計画を練ってくれていたわけです。
人生、いろいろありましたが、これほどうれしかったことはありませんでした。この慰労会は最終講義の1週間前の土曜日でしたが(3人とも社会人で仕事をもっています)、私は、最終講義で、われわれ日本人は家族に「生きるより所」を求めてきたと話す予定でしたから、いわば、私の主張を逆に私の家族の方から実践されたようなものでした。と同時に、だからこそ、今後は、迷惑をかけないように、生きていかねばならないと覚悟したわけです。
グローバリゼーション
誰もみていないでしょうが、誰かみているかもしれないと思いながら、ホームページを作っていこうかと考えています。世の中に何も迷惑をかけないで、しかしながら、世の中とのつきあいを実現していく(実現しているかのように思いこむ)、これでいきます。
私が書くものは、写真を1・2枚載せる位のものでも、数メガでしょう。写真がなければ、数KBでしょう(このファイルなどは6KBほどです)。その程度の情報なら、世界中の多くの人が同じような試みをしても、情報処理に困ることはないでしょう。まさにITの切り開いた新たな世界です。グローバリゼーションとは、アメリカの価値観を世界に押しつけることではなく、多様な価値観が自由に行き来し、そこに国境がなくなる世界だと考えれば、肯定できるはずです。
それをITは実現してくれました。BODY BGCOLOR=greenyellowといれただけで、世界中どこでみても、パソコンのBGCOLORはいまあなたが見ている色と全く同じ色になるのです。考えてみたら、驚くべきことですよね。
どうせなら、日本語が自動的にきれいな英語に変換されるようになったらいいですね。しかし、そりゃだめだね。多様な価値観には多様な言語があるわけで、日本語特有なものが英語にすべて翻訳できるわけじゃないものね。多様な価値観・多様な言語が、国境で阻まれることがなければいいんですよね。英語ですべて統一してしまったら、多様性が消えてしまうものね。