という秀才の声が、ネットで話題になった。これについて論じる。
( ※ ゲーム脳やケータイ脳との関連で。)
【 注記 】
本項は、星一徹ふうの、スパルタ式である。論調はすごく厳しい。生クリームみたいな甘い話を望む人は、本項を読まないでください。(萌えキャラでも見ていればいい。)
──
このことは最近、ネット上で話題になった。
→ 「勉強ができる」という蔑称
著者は女性。中高一貫の女子校を経て、東大に入って、理学博士になった。
彼女の子供のころからの体験談。「勉強ができる」と言われていたが、ろくなことはなかったという。「頭のいい子」という称号がついて回った。それは、賞賛の意味でそう呼ばれることも多かったが、「変わってる」「すかしてる」という意味での蔑称として呼ばれることもあったという。級友に集団でいじめられた記憶はないが、小学校三、四年生のころの教師には手ひどくいじめられたという。そこで、
「勉強ができるせいで蔑まれた」
という結論。そして、この理由を、社会に帰して、こう主張する。
「日本の科学技術の発展を妨げているもののひとつは、勉強ができることを蔑みの対象とするような、小学校から企業にも広がる精神風土なのではないか」
──
これについて、あれこれとコメントや批判などが来たようだ。だが、ざっと目を通しても、どれもがピントはずれだと思う。そこで、私なりに、見解を示してみたい。
( ※ この件は、「ゲーム脳」「ケータイ脳」などの問題と関連する。最近の若い人々に特有の傾向の一つとして認識できる。そこで、一種の時代の問題として、文化論的に論じる。)
( ※ なお、この女性のプロフィールを見ると、ポスドク時代を経て、新婚さんだというから、30歳前後の比較的若い女性だと思える。)
──
初めにお断りしておこう。以下では、かなり厳しい見解を述べるが、別に、この女性を批判することが目的ではない。(ブログには本人を批判する声が多いが、私はその立場ではない。)
この女性は、特に風変わりなのではなく、現代の若者に典型的なもので、ありふれたものだと思う。ゲームやケータイばかりをやっていて、ろくに友人たちと遊ばなかったという子供時代を経たならば、こういうふうに育ったとしても当然だ、という気がする。
その意味で、批判するとしたら、この女性だけではなくて、現代の若い人々全般だ、ということになる。この女性はその代表ないし典型であるだけだ。特にこの人を批判したいわけではない。
その趣旨で、以下の話を述べる。
( ※ この人は俎上に上がるので、迷惑千万だと思うかもしれないが、本人にとっても役立つ話もあるので、できれば斟酌していただきたい。ただし、本人にとっては迷惑がかかりそうなので、その点では、初めにお詫びしておく。)
──
誤解を防ぐために、本項の主旨をはっきりと明示しておこう。こうだ。 |
いきなり厳しい言葉を浴びせるが、この人は認識ミスをしているようだ。私はそう思う。
「勉強ができるせいで蔑まれた」
というのが彼女の認識だ。だが、それは正しくあるまい。正しくは、こうだ。
「勉強ができるとしても、蔑まれることがある」
勉強ができる人は、蔑まれることもあるし、蔑まれないこともある。勉強ができるのに蔑まれることもあるし、勉強ができていて尊敬されることもある。
つまり、蔑まれるかどうかは、勉強ができることとは関係がない。両者は無関係のことだ。
ところが、彼女は、ここに因果関係をつけてしまう。
勉強ができる ⇒ 蔑まれる
というふうに。しかし、この論理は、あっけなく破綻する。例外がいくらでもあるからだ。それが前述のことだ。つまり、「蔑まれるかどうかは、勉強ができることとは関係がない」ということだ。
──
彼女は理系であるくせに、因果関係というものをまったく理解できない。ある現象があったときの原因を、ただ一つの理由に帰してしまう。実証されたわけでもないのに、思い込みで。
ではなぜ、彼女はそういう思い込みを得たのか?
それはおそらく、前もって別の思い込みがあったからだ。それは、
「勉強ができれば尊敬されて当然だ」
という思い込みだ。それがあったから、それとは反対の現象にぶつかったとき、論理をひっくり返して、
「勉強ができるせいで尊敬されない(蔑まれる)」
というふうに認識してしまう。論理の倒錯が起こってしまうわけだ。(非論理的な発想。)
──
彼女は、勝手な思い込みを取る前に、現実を見るべきだ。自分一人を見るだけでなく、大勢の人々を見るべきだ。そうすれば、ただちに事実がわかるはずだ。
「頭のいい子には、蔑まれる子もいるし、尊敬される子もいる」
この事実は、まわりを見れば、すぐにわかるはずだ。
私の体験で言っても、このことは成立する。クラスには、頭のいい子は何人かいたし、そのレベルは、上記の彼女と同レベルだったと思う。
それでも、同じぐらいの秀才を見ても、尊敬される子もいたし、尊敬されない子もいた。では、その違いは?
尊敬される子は、クラス員などをして、明るくて人望の厚い子であった。
尊敬されないのは、根暗で勉強ばかりやっていて、内に閉じこもっている子だった。
私の体験では、クラスには三人の秀才がいたが、そのうち二人は、上記のように分かれた。
( ※ この二人は、勉強ができるだけでなく、勉強をとても熱心にやっている努力家であり、秀才タイプだった。一方、もう一人、変人タイプがいた。勉強は[宿題さえも]学校以外ではちっともやらないで、朝から晩まで遊んでばかりいて、いたずらばかりやっている。そのくせ、常に成績は傑出して一番という子。それが誰であるかは……想像してください。 (^^); )
──
とにかく、「勉強ができるかどうか」は、尊敬されるか蔑まれるかとは、全然別のことだ。なのに、両者を結びつけて、
「勉強ができるせいで尊敬される」
「勉強ができるせいで蔑まれる」
というふうに思うようでは、物事を勘違いしていることになる。人間関係というものをまったく理解できていないことになる。(一種のオタクか。理系オタク?)
──
では、勉強は無関係だとしたら、彼女はなぜ蔑まれたのか? ここでは、次のように考えるといい。
「勉強ができるにもかかわらず、蔑まれた」
つまり、他の子を見れば、勉強ができて愛されるのに、彼女はなぜか、勉強ができても蔑まれた。それは、なぜか?
ここから先は、話が厳しくなるが、次のように言えるだろう。
「彼女には蔑まれる理由があった」
では、それは何か? 通常、思い浮かぶのは、何らかの欠点だ。
「頭が悪い」
「デブである」
「容姿が悪い」
など。
しかし、それよりも決定的な理由がある。
「性格が悪い」
ということだ。そして、その典型は、こうだ。
「自分の損得ばかりを考えていて、他人への思いやりが欠けている」
──
彼女には、その傾向があったか? 実物に会ったわけではないから断言はできないが、その傾向はあったと思う。なぜなら、そのことが、ブログの文章にも表れている。
彼女のブログには「自分は正しい」「世間が間違っている」という趣旨の言葉ばかりが書かれている。自分の正当化と、他者や社会への憎しみ。……これじゃ、まるでトンデモマニアと同様である。他人を批判するばかりで、自己に対する尊大さがあふれている。
こういう人は、世間から決して尊敬されないだろう。むしろ、蔑まれるだろう。
──
彼女は人生というものがまったくわかっていない。人生経験が少ないのかもしれないが、30歳ぐらいになっても人生経験が少ないとしたら、それまで人生経験を積む作業をまったくサボっていたとしか思えない。(勉強のしすぎ。自分の知力を高めることに熱中して、他者への思いやりが欠落している。そういうことだろう。)
そこで、彼女のために、人生というものを教えてあげよう。
人生では、彼女のように、つらさを味わうこともあるだろう。しかし、人生とはもともと、そういうものだ。この社会には、つらいことはたくさんある。理不尽なこともある。そういうものなのだ。
そして、それに対して、「社会が悪い」などと批判しても、何にもならない。そういう批判は単に、彼女が「世間知らず」であることを意味し、また、彼女に「社会への適応力がない」ことを意味するだけだ。……簡単に言えば、オタクなのである。
──
まともな人生経験があれば、そうではないはずだ。社会を恨むよりは、社会に感謝するはずだ。
たとえば、彼女は、自分が東大で学べたことに感謝していいはずだ。なのに、そうしない。それはおおかた、
「東大に入れたのは自分の実力だ、自分が頭がいいからだ」
とでも思っているのだろう。しかし、それは間違いだ。
彼女が東大で学べたのは、国立大学というものがあったからだ。それゆえ、高い学費を払わなくても、最高レベルの教育環境に入ることができた。一方、米国ではハーバード、英国ではオックスフォード、というものがあるが、いずれも私学であり、高い学費を要求される。なのに、彼女は日本にいたおかげで、国立大学で学べた。そして、それは、社会の税金でまかなわれているのだ。
とすれば、東大で学べたことで、「社会の皆さん、ありがとうございます」と感謝するべきだろう。実際、私はとても感謝している。その感謝を忘れたことはない。だから、社会から与えられたものを、社会に還元したいと思って、いろいろと努めている。
なのに、彼女には、そういう観念はない。社会への感謝のかわりに、社会に対する恨みだけがある。
とすれば、こういう人は、蔑まれても仕方ない、とも言える。
「他人が悪い、社会が悪い」
と恨んでばかりいて、自分が与えられたものをすっかり見失っている。一種の恩知らず。これでは、周囲からどう思われるかは、自明の理だろう。
──
彼女がなすべきことは、
「自分は頭がいいんだから、もっと報われて当然だ」
と思うことではない。むしろ、
「自分は才能を伸ばすだけの教育を社会から与えられたのだから、せっかく育てた力を十分に発揮して、社会に還元しよう」
と思うべきだ。
なのに彼女は、やっていることも思っていることも、正反対である。
──
このようなことは、彼女に影響するだけでなく、彼女の子供にも影響する。彼女が今の考えを改めなければ、子供にも悪影響が及ぶ。彼女の二の舞みたいなものができてしまう。
たぶん彼女は、
「勉強が一番大切なことですよ。しっかりと勉強しなさい」
というふうに教育しているのだろう。しかし、そんなことをしてはならない。(もし、そうすれば、彼女の二の舞になるだけだ。)
なすべきことは、何か? 子供にこう教育することだ。
「勉強は、自分のためにやることです。それより大切なのは、世の中のためになるようにすることです。自分の利益のことだけ考えるような利己的な人になってはいけません。世のため、人々のためになるように、優しい人間になりましょう。困ったお年寄りがいたら、助けてあげましょう。体の具合の悪い人がいたら、助けてあげましょう。人間にとって一番大切なのは、優しさです。勉強などは、二の次、三の次です」
こういうふうに教えるべきなのだ。
そして、彼女がもし、自分の親からそういう立派な教育( or しつけ)を受けていたならば、彼女は立派な子供に育っただろう。そういう子供は、人々から愛され、尊敬されるので、ブログに書いたような苦労を味わうことはなかっただろう。
結局、彼女に欠けていたのは、「人間性」だったのだ。「勉強ができなければ、蔑まれることもなかっただろう」ということは、成立しない。仮に彼女が、勉強ができなければ、「自分のことばかり考えている女」として、もっと手ひどくいじめられたかもしれない。
────────────
ただし、注意してほしい。
最初にも述べたが、上記のことは、特に彼女だけを批判しているのではない。同様のことは、同年代の大多数の人々に当てはまる。
・ ゲームばかりやっている子供
・ ケータイばかりやっている子供
こういうのは、わんさといる。そして、そのなかには、
・ 勉強ばかりやっている子供
というのもいるだろう。(それが彼女だ。)
そして、こういう連中はすべて「オタク」なのだ。その対象は、ゲーム、ケータイ、勉強、というふうに形を変えているが、そのいずれにも、共通点がある。それは、
「自分の狭い世界に閉じこもって、社会性・協調性を有しない」
ということだ。子供時代に、ちゃんと仲間といっしょに遊べばいいものを、引きこもりオタクみたいに閉じこもって、ゲーム、ケータイ、勉強ばかりに熱中している。
そのせいで、他人の心を推し量ることもできないし、他人への優しさもろくにない。
──
「いや、私はそんなことはありません」
と反論する人もいるかもしれない。もしそうならば、次のチェックリストで、確認してほしい。
電車では常に老人や妊婦に席を譲るようにしている。
階段で重い荷物を持っている老人を見たら助ける。
困っている老人を見たら、声をかける。
困っている外人を見たら、声をかける。
集団行動をするときは、常に最弱者に目を配る。
ブログやホームページでも、社会貢献に努める。
PTAや自治体活動などで率先的に奉仕する。
身障者にはなるべく優しくふるまおうと常に努める。
自分が与えられた多くのものに、常に感謝する。
自分が与えられた分、なるべく還元したいと思う。
これらは別に、珍しいことではない。欧州や、あるいは途上国では、このリストに対して全項目「イエス」と答える人が大多数だろう。ただし、日本では、そうではあるまいが。
( ※ ちなみに、米国では、ボランティア活動をしている人がすごく多い。先日はオバマもやっていた。日本は全然違うが。)
──
とにかく、日本では、こういうふうに「オタク」つまり「社会性のない人々」が多すぎる。
それが肝心の点だ。(例の彼女を批判したいわけではない。例の彼女は、ただの一例にすぎない。)
────────────
さて。問題はこのあとだ。
このような社会的な傾向があるとしたら、いったい何がこのような事態を引き起こしたのか?
理由はいろいろと考えられるだろう。「ゲーム」「ケータイ」など。だが、それだけが理由ではあるまい。現代のように、ゲームやケータイがあふれている社会でも、まともに育っている子供は決して少なくない。
では、その違いは、何か?
──
私が思うに、それは、教育環境であろう。親が子供の躾をないがしろにしておけば、子供は駄目な子供になる。「勉強だけなさい」と言われて、あとはゲーム機だけを与えられているような子供は、結局はスポイルされてしまう。
一方、親からちゃんとした人間教育や躾を施されていれば、人間的に優しさを備えた子供になる。
そして、そのような人間教育をもたらすのは、親だけではない。周囲の友人や、大人たちも影響する。
──
ちなみに、私の例を挙げよう。私はちっとも蔑まれなかったし、とても楽しい小学生時代を過ごした。ほとんど天国のような気分だった。 (^^);
私と彼女とは違う。では、どこが違うか? 私がとても善良であったことか? いや、私はやんちゃな悪戯っ子であったし、とても善良ではなかった。悪戯が過ぎて、教師に「悪太郎」と呼ばれたことすらあった。それほどの悪ガキだった。 (^^);
私と彼女との違いは、私のまわりの人間環境が良かったことだ。すばらしい級友がいたし、すばらしい教師がいた。今にして思っても、実にすばらしい人々であったと思う。
手に負えない悪戯っ子であった悪ガキをていねいに扱って、きちんと教育してくれた教師。いつも快活だった、明るい優しい親友たち。(超美人の異性を含む。 (^^); )
実にすばらしい環境があったと思う。その意味で、私はとても幸運であった。
──
私の子供時代はそうだった。そして、例の彼女も、すばらしい教師や仲間がいれば、ひどい思いを味わうこともなかっただろう。また、彼女自身が、彼らの影響を受けて、仲間に対して優しくしようとふるまっただろう。「勉強だけできても意味がないよ」ということを教えてくれるような、大人や仲間たちと出会って、人間形成の時間を過ごして、ちゃんとした愛される子供になれただろう。
しかし彼女は、そのいずれも得られなかったようだ。たぶん、ゲーム機とかテレビとか、そんなものばかりを与えられていたのだろう。本をたくさん読むのはいいが、本以外には大切なものを何も与えられなかったのだろう。そしてまた、親は、「勉強なさい」とだけ言って、「世の中のために尽くせる人になりなさい」とは言わなかったのだろう。
その意味で、彼女は、いくらか不運であったとも言える。そういう根源的な不運があるせいで、その後、いくら多くのものを得ても、感謝するどころか、他人を恨むようになってしまった。そういうことなのだろう。
──
子供のころの教育環境というものは、とても大切なものだ。
私が思うに、彼女の受けたころには、年老いた教師がいただけなのだろう。若々しい優秀な教師が、愛情と情熱あふれる教育をしてくれた、という体験はなかったのだと思う。(最近のテレビドラマと、昔のテレビドラマを見ても、その違いがわかる。昔は熱情、今はクール。全然違う。)
若い教師から情熱的な教育を受けた私は幸運だったが、それを得られなかった彼女は不運だった。こういう教育制度(教育環境)の違いが、彼女には不運をもたらしたのかもしれない。
現代の子供はゆとり教育(など)で遊んでいるが、その一方で、教師は疲弊している。教育のレベルは低下する一方だ。彼女はその被害者と言えなくもない。
──
だから、彼女が嘆くとしたら、
「頭がいいせいで蔑まれる」
という点ではなくて、
「頭がいいだけでは蔑まれることもある」
ということに気づかずに成長してしまった自分の不運さだ。── まともな教育を得られないせいで、まともな人間形成ができないままだった。そのせいで、勉強ばかりができる(勉強しかできない)、未熟な人間になってしまった。
それは、彼女のせいではあるまい。彼女の不運だ。そこには、時代ゆえの不運がある。
仮に、彼女がもっと古い時代に生まれてきたなら、もっとすばらしい教育を受けて、もっと豊かな人間性を獲得できただろう。ゲームやケータイや塾通いなどをしないで、人間として一番大切なものを育まれただろう。もしそうだったなら、彼女は後年、「勉強ができるせいで蔑まれる」などとは書かず、「せっかく得た自分の能力を社会に還元するにはどうしたらいいでしょうか?」というようなことを書いていただろう。
────────────
最後に少し、補足しておこう。
彼女の主張するように、
「頭がいいせいで蔑まれる」
ということはない。正しくは、
「頭がいいかどうかは、尊敬されるかどうかには関係ない」
ということだ。そのあとで、こう思うべきだ。
「人間の価値は、(頭がいいというような)能力の有無によって決まるのではない。その能力をどう使うかによって決まる」
自分の能力を、自分の利益だけに使うとすれば、そんな人間は社会にとっては何の役にも立たないから、尊敬されることはない。また、社会から教育などの福祉を得ていながら、その投資効果を還元しないということは、一種の泥棒であるから、泥棒が軽蔑されるのは当然だ。
自分の能力は、自分のためだけでなく社会の向上のために使うべきなのだ。そうすれば、その人は社会にとって有益だから、尊敬される。
──
彼女は、「自分がいかに多くのものを与えられていたか」を気づいていないようだ。そこで、そのことを気づかせてあげよう。
彼女は「中高一貫の女子校」で学んだという。とすれば、まず間違いなく、私学に入ったことになる。とすれば、それだけ裕福な家庭に育ったことになる。これは、幸運なことだ。
私はそうではなかった。近所の公立以外に入ることなど、経済事情からして許されなかった。夢見ることさえ不可能だった。
その後、高校は国立に入ったが、そこで初めて、国立中学で学んだ仲間がいかにすばらしい教育を受けてきたかを悟った。まるで天国と地獄ぐらいの差があった。そのときようやく、「自分も国立中学で学びたかったな」と心から思った。(私よりも学力の低い級友がどんどん国立中学に入っていたから、合否の点では問題なかったはずだ。)
だから、中学時代に限れば、彼女は圧倒的に多くのものを得られた。そして、それは、彼女が私よりもずっと優秀な頭脳を備えていたからではなくて、彼女が裕福な家庭に生まれたからだ。(ちなみに、私の母方の実家は、すごい富豪だったが、農地改革で全資産を国家に没収された。それでも国を恨む言葉は一言も漏れなかった。)
例の彼女は、自分の幸運を忘れている。また、親への感謝を忘れている。何もかも自分の実力でやったと思い込んでいる。視野があまりにも狭い。
だから、彼女に、アドバイスしよう。彼女が尊敬されるためには、頭が平凡になればいいのではない。あるいは逆に、もっと頭が良くなればいいのでもない。あるいは、美人になればいいのでもない。……もっと心優しくなればいいのだ。
つまり、まわりの人々を恨むかわりに、まわりの人々に優しい慈しみの手を与えればいいのだ。たとえば、ボランティアなどをして。
そして、人々に多くのものを与えたとき、初めて気づくはずだ。多くのものを人々に与えることによって、自分がいかに多くのものを得られることになったかを。
【 追記 】
( ※ 特に読む必要はありません。)
( ※ この箇所は、コメント欄への加筆から移転しました。)
論理力の欠如している人があまりにも多いので、論理を説明しておく。 |
【 注記 】
本項を読んで、「これは非難だ、中傷だ、悪口だ!」と怒り狂っている人が多いようだ。そこで、彼らの勘違いをわかりやすく説明しておこう。
( ※ 「勉強よりも愛が大切だな」と思った人は、誤解していないので、特に読まなくていい。)
( ※ 文字が小さいので、読みにくければ、ブラウザで拡大して下さい。)
|
【 補記 】
私の個人的感想を言えば、彼女は、ちょっと気が弱いだけです。特に珍しいわけではなく、世の中にいる普通の女性です。「性格が悪い」とか「社会性がない」とかいうことは特にありません。誰だって、聖人ではないので、少しぐらいは性格のアラはあります。
私の推定では、彼女、気が利いて、こまやかで、優しいはずです。彼女に向かって、「性格の悪い女」という罵声を浴びせないで下さいね。彼女にも愛を。
【 関連サイト 】
→ 孤児院出身者の話 ,その続編(コメントも)
とてもためになる話。ぜひ、ご覧になることをお勧めします。
( ※ あまりにも多くを与えられた人は、自分が与えられているものに気づかないものです。そのあげく、「与えられていない」と騒いで、他人を非難するものです。)
【 関連項目 】
→ 勉強なさい 〜 偉くなるために
※ ひょっこりひょうたん島の歌。こういう優れた番組があった時代は
いい時代だった。
※ なお、上記ページの歌詞を見れば、逆に、本項の意図もわかる。
本項は、結論としては、次のようになるだろう。
「つらいこともあるだろうが、それを社会のせいにするべきではない。
社会を恨むよりは、人間らしくなるよう、人間性を形成しよう。
そのためには、ゲーム、ケータイ、勉強にとらわれてはならない」
紹介したブログに寄せられたコメントや、そこにリンクやトラックバックを付けたサイトなどを見ると、あまりにもひどい文章が多すぎる。彼女はそれに丁寧に答えているが、馬鹿ではない。また、悪人でもない。(オタクっぽいだけだ。)
ひるがえって、ある有名アルファ・ブロガーのひどさといったら。馬鹿の見本か。 (^^);
それを見て感じたのは、こうだ。
「蔑まれているというのは、彼女の被害妄想にすぎない」
だいたい、世の中、自分の悪口を言われるぐらいのことは、よくあることだ。彼女はちょっとそれを過大に考えすぎているのだと思う。だから、
「すべては彼女の脳内妄想にすぎなかった」
というのが、事実に一番近いかもね。
「教師には、手ひどくいじめられた。」
ということだが、これは教師のスパルタ教育を誤解したのかも。星一徹や丹下段平みたいな教育者だったのかもね。
「勉強ができるせいで、しごかれる」
ということは、十分に考えられる。
「ゲーム脳」「ケータイ脳」は、その言葉から世間的に理解されている意味とは、全然違っています。
それぞれの言葉は、(本サイトにおける)言葉がリンク先の項目で説明されているので、ちゃんとそちらの項目を読んでから、それらの言葉を理解してください。
※ 「ゲーム脳」「ケータイ脳」というのは、「そんなことを言うやつはトンデモだ!」と言うトンデモマニアを引っかけるための毛針です。あんまりあっさり引っかかると、詰まらないので、もうちょっと頭を使ってくださいね。
──
なお、彼女のことを非難している、というふうに誤読している人もいるようですが、それはあまりにもひどい誤読なので、ちゃんと本文を読み直してください。
──
なお、同種の人々に一言。
「頭がいい」という天賦の才をせっかくもらっていながら、それに感謝するどころか、それを恨むようでは、決して幸福にはなれません。
また、「頭がよければそれだけで人生万事ハッピー」と思っているような能天気だとしたら、どうしようもない。とりあえずは、次項(ひょうたん島の歌)でも見てください。
──
好きな男の子に「お前は頭いいから、俺とは違うよな」と言われて、胸をえぐられるような思いをしたり、女の子グループに「ちょっと勉強できるからって、大きな顔しないでよ」と仲間はずれにされたことがきっかけで、勉強、特に理数系から遠ざかる女子は、きっとたくさんいると思う。
──
この例を受けて、彼女は「勉強ができるせいで蔑まれた」と思っているらしい。しかし、それは違う。(被害妄想みたいなものだ。)
この例は何かというと、「皮肉」なのである。このくらいのことなら、私だって何べんもいわれてきた。それどころか、「変人」とばかり言われてきた。さらには今では、「トンデモ」と言われて、トンデモマニアの集中攻撃を受けている。
しかし、それが何だというのだ? 世の中には、皮肉を言う連中はいっぱいいる。本項についても、さっそく皮肉を浴びせる連中がいる。
で、それが何だというのだ? いちいち連中の皮肉に付き合っている必要はない。皮肉を言われたからといって、「蔑まれた」と落ち込んでいる暇はない。
例の彼女だって、記事にはさんざん皮肉が浴びせられた。しかしそれは、「彼女の頭がいいから」ではない。「世の中にはトンデモマニアみたいに皮肉を浴びせる連中がいるから」だ。
そんな気違いみたいな連中が何を言おうが、気にすることはあるまい。大切なことは、もっと別にある。
はっきり言って、彼女は、いちいち皮肉に傷ついているよりは、もっと別の生き方をするべきだったと思う。ただ、それは、彼女だけの力ではできなかった、とは思うが。(その意味では同情に値する。)
彼女が悲しむべきだったとしたら、頭がよかったことではなくて、強い生き方ができなかったことだ。悲しむべきことを間違えている。大人になっても、いまだに間違えている。(その意味では同情に値しない。)
彼女は今からでも、もっと強い生き方をするべきだ。非難するコメントを蹴散らす手間をかけるよりは、馬鹿の相手をやめる方がいいだろう。(その意味では、はてなダイアリーというブログは、絶対にやめた方がいいですね。コメントの承認制ができないらしいから。馬鹿と付き合わざるを得ない。)(……なお、ついでだが、はてなというのは、狂人かオタクの集団みたいなところがある。人を攻撃して喜ぶような、頭のおかしな連中がつるんでいるようだ。そういう傾向がいくらか見られる。そんな集団のいるところにいると、ますます頭がおかしくなりそうだ。)
( ※ なお、本項は、前項までの数項目の、延長上にある。なるべく、先にそちらを読んでほしい。本項だけを単独で読むと、「この女性を批判している」というふうに感じるだろう。もしそう感じたとしたら、本項だけを単独で読んでいるせいだ。怒る前に、他の項目と読み合わせてほしい。……本項の趣旨は、個人批判でなく、一種の文化論だ、とわかるだろう。)
──
なお、例の女性ご本人は、「人間性が欠けている」というような表現について、誹謗中傷だと感じているようだ。これも被害妄想なので、はっきりと指摘しておく。
初めから何度も書いたように、「人間性が欠けている」というような表現は、同時代の多くの人々についても当てはまるし、それについて言及するという趣旨で述べている。(そのことは、前項までの数項目までを読めばわかるはずだ。)
具体的に言えば、「電車で席を譲らない」というのは、特に彼女のことを言っているのではなく、同じ世代の人々全般について言っている。実際、電車に乗っても、老人に席を譲るのは、私だけ、……ということがとても多い。若い世代は、平気でおしゃべりやらケータイやらをやっていて、老人に席を譲ることなど、あまりない。
こういう世代的なの人間性のことを私は話題にしている。(なお、彼女がことさら俎上に上がることについては、最初にお詫びしている。)
この世では、皮肉を言われたり、蔑まれたり、罵倒されたり、……といったことは、数限りなくある。それは誰においても、起こることだ。(実際、私なんか、ネット上でものすごい罵倒を浴びせられ続けている。)
しかし、そんなことでいちいち傷つかない方がいい。また、「自分の頭がいいせいだ」などとは思わない方がいい。
ネット上には悪意のある人々が多数いるし、実社会にも悪意のある人々が多数いる。そういう人々は、他人を攻撃することでしか、自分の傷を癒すことができない。
→ http://openblog.meblog.biz/article/1391280.html
Aという人が傷つけられるとしたら、その人を傷つけるBという人もまた、自分が傷ついているがゆえに、傷つけるのだ。
それはちょうど、「自分が蔑まれるのは、自分のせいじゃなくて、社会のせいだ」というふうに、社会を非難するのに似ている。
この社会というものは、理不尽なものだ。しかし、そうであるなら、この社会を非難するよりは、この社会を改善するために、微力を尽くせばいい。それは一種のボランティアだ。そして、そういうことをすることで、かえって心を満たされるものだ。社会を批判するかわりに、社会を改善するために奉仕することで、愚かな人々とは一線を画することができる。
「こいつは馬鹿だ、トンデモだ!」
というふうに他人を攻撃することで自分の慰めをするような連中と、つるんでいる限り、いつまでたっても自分を幸せにすることはできまい。
→ ヤンママのワガママ
http://openblog.meblog.biz/article/1400068.html
これを読んでも、「私への誹謗中傷だわ」なんて思わないでください。頭のいい人は、やたらと被害妄想が強いが。
「心優しくせよ、と言っているくせに、この文章はちっとも心優しくないじゃないか!」
そういう人には「甘ったれるな!」と言ってやりたい。
「心優しくせよ」と言ったのは、弱者に対してだ。老人や妊婦など。
一方、文句を言っている人の多くは、健康な若者であり、かつ、水準以上の知性の持主だ。例の彼女に至っては、他人から見ればものすごく恵まれた立場にある。裕福な家庭に生まれ、中高一貫の女子校に入り、東大に入り、職を得て、夫と子供を得ている。幸福を絵に描いたような人生を送っている。それでいながら、ちょっとだけ不自由をしたからといって、「まだ足りない」と欲張って、「社会が悪い」と文句を言っている。(舌切り雀を参照。)
だから私は彼女には、
「自分がいかに恵まれているかに気づけ」
と教えてあげたい。さもなければ、いつまでたっても幸福になれない。
はっきり言っておこう。彼女に必要なのは、彼女への心優しい言葉ではない。彼女を成長させるための、すごく厳しい言葉だ。
なお、彼女は基本的な誤認をしていると思えるので、その点も指摘しておこう。
「人生は天国であるべきだ」(比喩的に)
と彼女は思っているのだろう。そうとしか思えない。ガザで苦しんでいる人々もいるのに、そういうことにはまったく目を向けず、何一つ手を差し伸べようとしない。それでいて、自分ばかりは「あれもほしい、これもほしい」と際限なく要求する。
「人生は戦場だ」(比喩的に)
これがこの世界の現実だ。社会で働いている人ならば、そのことを実感しているはずだ。たとえば、ワーキングプアで困っている人もいる。そういう人々は戦場で敗軍に着いたことを実感しているはずだ。
「頭がいいと言われたのでひどく傷ついた」なんて、戦場の兵士から見れば、冗談だとしか思えない。ガザで手や足を失った子供を前にして、同じ言葉を言えるだろうか? もうちょっと世界の現実に目を向けてほしいものだ。
彼女に必要なのは、たかがかすり傷ぐらいでナイチンゲールの手を求めることじゃない。自分自身がナイチンゲールになることだ。
彼女は彼女なりに、すばらしい貢献ができる。彼女は大きな力をもつ。彼女は多くの人々を救うことができる。なぜなら、その力を社会から与えられたからだ。
この件では、私(管理人)あてに、さんざん批判が来たが、おかげで彼女への批判はすっきりと消えたと思う。それどころか彼女への共感が増えたと思う。
よかったですね。これで、私としての務めは少しは果たせたことになるかもしれない。
つまり、連中はどうせ誰かを攻撃せずにはいられないのだから、それらの連中が攻撃する相手は、か弱い女性よりは、私であるべきなのだ。
なお、どこかの連中に忠告しておくが、よってたかって女性に押しかけて、悪口を書き込むような真似は、やめてほしい。それは「ブログ炎上事件」に似て、犯罪に近い。
悪口を言わずにはいられないなら、私あてに言うべきだ。この件についての悪口は、私が引き受けます。
私は、コメントを受けてもたいていは承認しないと思うが、とにかく、例の女性のコメント欄に悪口を書くのは、やめてほしい。
はてなというのは、コメントを拒否できない駄目なシステムなのだから、そんなところに悪口コメントを書き込むのは、弱者いじめに等しい。そんなことをやるやつは、人間のクズだよ!
(……これも釣りだが、とにかく、悪口を言うなら、私あてに言ってほしい。)
「頭が悪くても尊敬される人」もいるという
文言があっても良かったように感じます。
あと「外人」は蔑視用語です。
「外国人」と訂正おねがいいたします。
そんなこと戦前の大日本帝国の国民がしていた悪しき習慣です。
私は小中学校でそう学びました。
加えて、公務員の立場である先生方には
「卒業式の国歌斉唱時に起立しない」
という形で国家に奉仕する姿勢はないという断固たる意思を見せていだだきましたし。
滅私奉公なんてことをやってるのは自衛隊員の連中だけでたくさんです。
申し訳ありませんが、私はその立場を取らないので、修正しません。この手の「言葉狩り」には反対するので。
問題は、言葉ではなくて、意識です。「外国人」という言葉を使っても、人々の意識が変わらなければ、今度は「外国人という差別語を使うな」となって、循環が続きます。
「害人」という言葉ならば要修正ですが、「外」は何の悪意もありません。問題があるとしたら日本人の「内・外」意識です。これは悪意でも何でもなく、ただの守旧性です。言葉を改めて解決する問題ではありません。
なお、当の外人に聞くと、「全然問題じゃないよ」と日本語で答える人は多いですよ。英語のサイトを読んでも、自分で Gaijin と呼ばれた、と書く人は多いが、特に怒っていない人が多いですよ。
一部の人が騒いでいるだけでは?
?????
書くべきサイトを間違えているのでは?
人を愛することと、滅私奉公とは、全然別のことです。
もしかして、同じことだと思って、女性に期待している?
タイムスタンプは 下記 ↓
しかし、持論を述べるならば少し立場が極端だと思います。何か社会奉公をしないとそれだけで悪だとでも言うような…。
管理人さんは「愛」を至上とする向きのようですが、それに関して日本と諸外国を同列に見るのは少し違うモノがあるような気がします。
なぜならば、諸外国においては愛によって神の報償、もしくは死後の報償を得られると宗教的に説明づけられているのが一般的であり、一種の損得行動であると考えられるからです。
故に、宗教の存在しない日本での愛の減少は当然と言えるのではないでしょうか。
イスラム教は特に典型的で、善人は死後天国で72人の処女とセックスを楽しむことが出来るとしています。
また、極端に言うならば、宗教的説明を得ない「愛」に関しても利己行動で有るとも言えます。
利他的行動というのは一種の自己満足という見返りを得、同時に精神的安定を図っていると考えられるからです。
事実私はこういう考えで対人関係を行っていますが、特に不便や矛盾を感じた事はありません。
又、今現在対人関係は非常に円滑です。
個人的には愛が至上だとは思いません。頭が至上だとも思いません。損得が至上だとも社会が至上だと思いません。
何よりも「バランス」が肝要だと思います。なにかに偏る事はマイナスにしかなり得ないのではないでしょうか。
確かに現代は合理主義が台頭したことによって愛が欠落している、という前提で言えば愛は必要なものだと言えますが、過ぎたるは及ばざるが如しではないかと。
根本的に
「世界には正しいモノも間違っているモノも何一つ無い」
「正義の反対は又違う正義」
「絶対的な悪も正義も存在しない」
というのが根本にあるのでこういう持論になっているのかもしれません。
多分上記は理論的に間違っては居ないとは思いますが、もし理論的欠陥を見出したら是非突っ込んで欲しいと思います。
また、もう一つ明らかな問題点が有ります。
自分は「オタク」と言われる類の人間ですが、それだけで蔑視される筋合いは無いのではないでしょうか?
そもそもオタクとは「ある一つの物事に熱中している人」であって、「社会性に欠ける人間」ではありません。あくまで傾向が存在というだけで、イコールで結ばれるべき事柄では無いはずです。
事例を挙げるならば、私の友人には多くのオタクが居ますが、中には社交性に富み、皆の人気を集めるオタクも居ます。
相手が非オタでもいつも周囲を笑わせているような人間、オタクにも関わらずスポーツマンである人間、単純に性格が良く一緒に居るだけで安心するような人間等、色々な人間が居るのです。
オタクというのは恥ずべき蔑称では有りません。私は奇人変人と言われたりすると寧ろうれしいくらいです。
なぜならば、奇人変人であるが故に熱中する分野に対して特化した能力が発生する可能性が高まるからです。これは歴史的(偉人)にも証明されていることです。
故に、今回の女性の場合は「オタク」であることが原因なのではなく、あくまで「性格が悪い」もしくは「社会性が無い」事そのものが原因であると言うべきです。
えーっと色々と批判的な事を書きましたが、理論的には秀逸で、このような意見を拝見することで、人間的な深みが増したと思います。
どうもありがとうございました。
あと一つ付け加えるならば、自分自身を含め、社会的最大問題と言えるのは「マイナス思考」というモノだと私は思います。
私の場合、これが私の総てのマイナス要素を生み出しているように思えるのです…
乱文長文失礼しました。
「勉強よりも、(人間的な)愛が大切だ」
が主題なら、件の彼女について多くを論ずるのは、あまり適格じゃないと思う。
では、どうするのかというと:
1.発言したいポイントを絞る.
2.誤解を招きやすい言葉をつかわない.
管理人さんの場合、これだけ守れば,一般的な人格形成論の一つだということが伝わると思う。
いいこと言ってるんだから、そこを直すともっとよくなるのに。頑張って。
何度も同じ言葉が来るのですが、私はオタクを蔑視しているわけではなくて、オタクを救ってあげたいのです。ヤク中で自己破壊をする患者を救ってあげたいのと同じ。「自分には関係ないや」と放っておくのが賢明でしょうが、どういうわけか、私は損することをする役回りになっています。
たしかに口は悪いし、「オタクって素敵ですね」と褒めることもないのですが、基本的には、オタクに対する愛情で、「一生未婚のまま」という状況を救ってあげようとしています。
→ http://openblog.meblog.biz/article/1046136.html
> オタクとは「ある一つの物事に熱中している人」であって、「社会性に欠ける人間」ではありません。
私は、前者(マニア)ではなくて、後者の意味で使っています。そう理解して下さい。
> 今回の女性の場合は「オタク」であることが原因なのではなく、あくまで「性格が悪い」もしくは「社会性が無い」事そのものが原因であると言うべきです。
そ、そんな……
人がせっかくぼかして書いているのに…… (^^);
その通りですね。反省します。
例の彼女にも申し訳なく思います。ごめんなさい。(何度もお詫びしたけれど、改めてごめんなさい。)
別に、理論と言うほどではなくて、ちょっと思いついたことを書いただけですが、いつのまにか大々的になってしまいました。論理も入り乱れているし。
後から考えると、もっとまともな文章にした方がいいとは思います。しかしまあ、たかがブログですから、下手な文章は我慢して下さい。
それでも、ご迷惑をかけた方々には、お詫び申し上げます。
全然ぼけてないと思えるのですが……
件の女性に対しては性格が問題だ、とはっきり言っているように見受けられます。
その上で、「オタク」と一括りにして語るのは何の意味もなさず、むしろオタクに反感を買うだけの無意味な行為であると言わざるを得ません。
理解してください、と言われましても上記の事を踏まえると私には「管理人さんは思い込みでオタク=社会性に欠ける人間」と考えているんだな、としか思えませんでした……
また、「オタクを救いたい」と上から目線でモノを言うのも反感を買う原因になるのではないかと思われます。
私はオタクで有る事に対して憐れみの目で見られるのは嫌です。なぜならば、オタクで有ることに何の劣等感も持たないからです。
劣等感はむしろ単純な性格的な問題の方が多く持っていますし、これに関しては運がなかったとか言われるのはかまいません。自分でもそう思いますし。
でも、オタクであることに対して「運がなかった」とか言われるのは相手が相手なら憤慨するかもしれません。むしろ運が良いと思っているのですから。
結婚観の違いも大きそうですね…私は結婚はどうでもよくて、己の道を究めることが唯一の幸福の手段だと思います。
自らを愛深き者だと驕るな
ごめんなさい。
私は、寛容の心もなく、愛も浅き者です。私はまだまだ未熟者です。
しかし、未熟者でも、愛を語ることは大切だと考えます。
ジョン・レノンのイマジンをみんなで歌うことも大切だと考えます。たとえ全員が聖人ではなくとも。
アクセス数が急速に増えたと思ったら、大手サイトで紹介されてしまった!
→ http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20090209_headline/
冗談じゃない! こんな大手サイトに掲載されるのは、予定外です。
大人数には対応できなくなるので、コメントの受付を停止します。
また、後日に掲載予定だった次の項目を、急遽、掲載します。
→ http://openblog.meblog.biz/article/1402207.html
ここでは、例の女性のブログを紹介して、その情報提供に感謝しています。
なお、私の個人的感想を言えば、彼女は、「性格が悪い」とか「社会性がない」とかいうことは特にありません。普通の女性です。彼女に向かって、罵声を浴びせないで下さいね。