○マタイス弁護人 次に小川関治郎の宣誓口供書、弁護側文書二七〇八号を提出いたします。
○ 裁判長通例の条件附で受理します。
〔書記 弁護側文書二七〇八号は法廷証三四〇〇号といたします〕
○マタイス弁護人 弁護側文書二七〇八号、法廷証三四〇〇号の朗読を開始いたします。それは小川関治郎の宣誓供述書であります。
〔朗読〕
一、自分は一九三七年九月末頃、第十軍(司令官柳川中将)の法務部長を命ぜられ、杭洲湾北岸に上陸して南京戦に参加し、翌年一月四日、中支那方面軍付となり、松井司令官に直属した。
二、第十軍は杭州湾上陸直後、中支那方面軍の指揮下に入った。松井司令官は軍紀・風紀の厳守は勿論なるも、支那良民の保護と外国権益の擁護の為め、厳格に法を適用せよと達せられた。
三、自分は南京へ着く迄の聞に約二十件位の軍紀犯及風紀犯を処罰した。風紀犯の処罪(罰)に付て困難を感じたことは和姦なりや強姦なりや不分明なることであった。
その理由は支那婦人のある者は日本兵に対して自ら進んで挑発的態度を取ることが珍らしくなく、和合した結果を良人又は他人に発見せられると婦人の態度は一変して大袈裟に強姦を主張したからである。然し自分は強姦と和姦とを問はず起訴せられたものは夫々事実の軽重により法に照して処罰した。苟くも脅迫の手段を用ひたものは厳罰に処した。
*「ゆう」注 小川は日本兵の言い分を鵜呑みにしている。もし「支那婦人」が自ら「和合」に応じたことがあったとしても、「支那婦人」は「貞操」か「生命」かの窮極の選択を迫られ、やむえず「貞操」を犠牲にした、と考えるのが自然。
四、自分は十二月十四日正午頃、南京に入り、午後、第十軍の警備地区(南京の南部)の一部を巡視した。其の時、中国兵の戦屍体を六、七人見た丈で、他に屍体は見なかつた。第十軍は十二月十九日、南京を撤退し、杭州作戦に転進した。其の南京駐留期間内に自分は日本兵の不法行為の噂を聞いた事なく、又、不法事件を起訴せられた事もなかった。日本軍は作戦態勢の儘で軍紀は頗る厳粛であった。松井軍司令官は元より、上官から、不法行為すべしとの命令を受けたことは勿論ないし、不法行為を容認せよと命ぜられたこともない。(P256)
*「ゆう」注 「陣中日記」によれば、小川は各所で大量の死体を目撃しており、これは明らかなウソ。
五、憲兵も松井司令官の命令を厳守し、取締警戒を厳にして居た。上砂中佐(憲兵)の如きは、自分が審理の上、徴罪不起訴を言渡した事件に対し、手緩るいと抗議を申出た程で、日本兵の不法行為は厳に取締られて居た。(P256-P257)
六、一九三八年一月四日、自分が上海の司令部で松井大将に会ったとき、大将は、「犯罪の処断は的確厳正にせよ」と特に語を強めて言はれ、自分は此の旨を帯し自分の任務を厳行した。
昭和二十二年 ( 一九四七年 ) 十月六日
於東京
供述書 小川関治郎
(『南京大残虐事件資料集 第1巻』)
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