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◇ 便衣兵に対する裁判の義務は無いか? ◇

 

【4】 裁判義務の慣習法を実践した事例

 慣習法上、便衣兵に対する裁判が義務であったことが確認できましたが、この様な慣習法に従い、便衣兵を裁判に処した事例を提示します。

1.小川関治郎『ある軍法務官の日記』p160(抜粋)
昭和13年1月20日)
午後二時頃より李新民、陳金金の各軍律違反事件に付き審判、五時近く迄かかる 李新民は我が警備隊が蘇州河を下航中 他の李桂山、王考四と共に手榴弾を投下したるものにして同人は所謂遊撃隊に加入し之を脱せんとするも 李桂山等より脱せんとすれば殺すと脅迫され、又食ふに困る為彼等と共にしたりと述べ 自分が死の要求を為したるときは何れにしても進退きはまり食ふに困るゆえ無したるものなれば諦めると言ひながら涙を流して悲哀した



2.小川関治郎『ある軍法務官の日記』p167-168・p170-171(抜粋)
(昭和13年1月26日)
周継棠外六名軍律違犯事件の論告要旨を作成す 結論として「被告等は多数相結束して党を為し以て帝国軍に対し危害を加へんとする不逞団に属するものにして彼等の行為は帝国軍の安寧を害すること甚しきのみならず帝国の期待する東洋の平和を妨ぐるものなれば絶対に斯かる極悪分子は之を撲滅するの要ああること論を俟たざる所なり 故に厳重の制裁を以て之に臨み彼等全部は最も重き罰に処するを相当とす」
○周継棠外六名の軍律違犯事件に付き捜査報告を為し意見の通り司令官の審判請求の命令を受く 近く審判開始すべく着々その準備を為す

(昭和13年1月28日)
○午前九時より周継棠外六名軍律違犯事件を審判す この内にて周継棠は首領株にして第二区隊長たる地位にあり又元来流氓即ち無頼漢侠客にして以前子分五百名を有せしものなりといふ 見た所も他の者に比し相当しっかりした者と思はれたり 一時頃審理を終り直に執行の準備を為し五時半執行を終らす 自分は検察官として審判にも立会ひ続いて執行の指揮を為し憲兵をして執行せしめたり



3.小川関治郎『ある軍法務官の日記』p179、181-182
(昭和13年2月3日)
○陸丹書軍律違犯事件捜査報告あり
○午後同上事件被告を尋問す 本件は淞滬義勇軍遊撃隊の第二大隊にして配下の者二人に煙草の空缶に爆薬を詰めたる手榴弾を一個交付し日本軍に投擲せしめんとしたるものなり 被告は貸人力車業にして使用人百人余あり 外に兵器の密輸入も為したる如く資産も二十万円も有すと 遊撃隊の隊長としては四十人余の部下あり 連名簿ともいふべき義記と記せし部下の名を揚げたるものを所持し居たり 総隊長ともいふべきものは趙錫光といふ者なりと

(昭和13年2月 6日)
○次で陸丹書軍律違犯事件に付き審判に立会ふ 死の宣告ありたるにより午後上海北站停車場北方空地に於て執行す 三名の射手により小銃にて射撃したるも完全ならず 尚他の憲兵軍曹に於て拳銃にて二三発対撃して漸く執行し終るを見る

 以上の3つの事例は、小川関治郎氏の日記(『ある軍法務官の日記』みすず書房)より引用しました。小川氏は1885年生まれで、南京事件の起きた1937年は52歳、第10軍法務部長として杭州湾に上陸し、12月に南京に入城をしています。上記の1938年1〜2月の記述は、その後、中支那方面軍付となり上海に着任したときのものです。

 いずれの事例も便衣兵を取扱ったケースであり、正規の軍律会議を行っていることが解るとと思います(ただし、1番目の陳金金の場合は、処罰を執行する前に逃亡されています)。日本軍も、慣習法である無裁判処罰の禁止を遵守していることが解ります。


 なお、3番目の陸丹書のケースでは、次のような記述が為されています。

小川関治郎『ある軍法務官の日記』
(昭和13年2月9日)

△遊撃隊長逮捕銃殺さる(上海毎日新聞)殊勲!憲兵隊の活躍 河向ふの暗黒面を頼り小癪にも我に刃向ふ内部紛糾も表面化(四分五烈)。淞滬義勇軍遊撃隊の名を以て敗戦支那の誇大宣伝に踊らされ小癪にも皇軍に刃向はんと共同仏両租界の暗黒面を頼みに手榴弾投擲を唯一の手段として跳梁 最近漸く内部紛糾を醸して赤裸々に裏面を暴露しつつあるこの遊撃隊に対し我が憲兵隊本部ではこの機に徹底検挙を行ふべく同部全署員を動員 去る一月三十一日払暁共同租界某所を襲つて該義勇軍遊撃隊第二隊長某を逮捕、直ちに租界憲兵隊本部に留置取調べ中であったが去る六日午後二時憲兵隊死刑執行場にて銃殺に処した。この第二大隊長某は去る九月頃より一党を組織して目下共同租界内に本拠を置き近く皇軍に対し手榴弾投擲の挙に出でんとしてゐたるものであるが敗戦支那の宣伝に依るこの義勇軍組織にも漸く内訌の兆しが来しこの統制に必死となつていた処を我が憲兵隊本部の探知するところとなり同部員の手を動かして逮捕となるに至つたものである。

上記の隊長と言ふは六日自分が検察官として立会ひたる軍律会議に於て死を宣告し死を執行せし陸丹書なり

 陸丹書を処罰したという記事が上海毎日新聞に書かれていますが、ここで注目すべきは、この記事の中でまったく軍律会議に触れられていないことです。この記事では、憲兵本部で取り調べた後に銃殺したことになっています。

 軍律会議というものは、審判過程は公開されるものではなく、まして審判記録も公表されるものではありませんので、軍律会議に関わった人ではない限り、この上海毎日新聞の記事のように”逮捕→銃殺”と見えてしまうのだと思われます。

 軍律会議の事例を調べる難しさはこの様なところにあり、また、世に言う「即決処刑」なるものも、実際には軍律会議の後の処刑である事例も多くあるものと推測されます。

 
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