三・一事件
―自称「非暴力独立運動」―
国定韓国初等学校社会科教科書
≪3.三・一運動≫
三・一運動はどのように展開されたか、その後の独立運動にどのような影響を与えたか、調べてみよう。
わが民族の独立宣言は、日本で新学問を勉強していた留学生によってまずはじまった。1919年2月8日、世界の動きを国内より早く知ることができた留学生たちは、わが民族の独立を宣言し、その宣言文を日本政府や各国の大使館に伝えた。当時、国内の宗教指導者らと若い知識人らも、国民の心と世界情勢の動きに刺激され、民族全体が参加する独立運動を起こす準備をしていた。
日本での二・八独立宣言は、国内のこうした動きを促した。さらに天道教、仏教、キリスト教などの宗教団体が心を一つに合わせて手を握り、学生たちを先頭に独立万歳運動をひそかに計画した。二千万の同胞が声を一つに合わせて独立万歳を叫ぶその日は、高宗皇帝(引用者注:李太王のこと)の葬儀の日に定められた。
1919年3月1日の朝、ソウルには興奮と緊張感がたちこめていた。この日、朝から独立宣言式の話が広がり、タプコル公園 (引用者注:かつては「パコダ公園」と言っていた)では、日本人には秘密のうちに独立宣言書が配布されていたからであった。二千万の同胞に、独立のために立ちあがることを訴える張り紙も張り出された。数多くの学生、市民たちがタプコル公園に集まりはじめた。
午後2時、民族代表33人は独立宣言書を朗読し、大韓独立万歳を叫んだ後、日本警察と憲兵に捕われた。
一方、タプコル公園に集まった市民、学生たちは、民族代表が日本警察に引きたてられていったことを知ると、すぐに独立宣言式を行った。一人の青年がふところから独立宣言書を出して朗読した。場内はさらに厳粛になってきた。独立宣言文が朗読されると、独立万歳を叫ぶ声が天をつくようであった。示威の群集は堰を切ったように街にあふれ出て、大韓独立万歳を叫んだ。
ソウルでの三・一運動は、このようにはじまったのである。
ソウルの街のいたる所に、独立のために二千万の同胞がともに立ちあがることを促す文書が貼り出された。
「高宗皇帝は日本人の企みで亡くなった。力の弱い世界の諸民族は、自ら力を合わせて独立を得た。二千万の同胞よ。われらも一致団結して、奪われた主権を取りもどし、滅びつつある民族を救おう。高宗皇帝と明成皇后(引用者注:閔妃のこと)の怨恨をはらそう」
すべての市民たちが参加した万歳運動は、真夜中になってもやむことがなかった。
万歳運動の行列がソウル中をおおうと、あわてた日本は、武装した警察と軍隊を動員した。日本警察は、学生や市民の非暴力示威を銃剣で残酷に鎮圧した。
ソウルでの万歳示威は、商店街がシャッターをおろして学校は休校となる状態で、あらゆる市民が参加して、3月末まで続けられた。
その熱気はソウルだけのものではなかった。万歳運動は釜山、平壌はもちろん全国の主要都市に広がっていった。
ソウルと同じく、地方都市での万歳示威も、主に学生と若い知識層を中心にしてすべての市民が積極的に参加し、わが民族の強い独立の意志を見せた。
三・一運動と関連した地元の遺跡と、伝わっている話を調べてみよう。
商人たちは商店のシャッターをおろして万歳示威に参加し、労働者も仕事をやめて日本に対抗した。
独立万歳運動は、3月中旬から4月初旬の間に、全国の農村にまで広がっていった。農民が集まる市場そのものが万歳示威の中心地になったのである。
こうして、三・一運動は民族指導者と学生が先頭に立ち、商人、労働者、農民、婦女子にいたるまで200余万人が参加した、大規模な抗日独立運動に発展していった。
三・一運動の状況は、すぐ国外の同胞たちにも知らされた。間島、沿海州、ハワイなどのわが民族が住んでいる場所で万歳示威が起き、わが民族の独立の意志を示し、日帝の蛮行を暴露する行事を催した。
すると日本は、独立万歳運動を妨害するために、あらゆる悪行を犯した。彼らは太極旗を持って万歳を叫ぶ人びとに向かって銃を撃ち、民衆や教会、学校に火をつけ、はなはだしくは一村の住民すべてを殺してしまったこともあった。
柳寛順をはじめ、数多くの人びとが死んだり投獄されたり、あらゆる拷問で苦しめられた。
三・一運動は、わが民族が国を必ず取りもどすという決意を堅固にし、独立精神を世界に行動で示したものであった。こうして世界は、わが民族を新しい目で見るようになった。
他民族の支配に抵抗して独立しようとする運動は、われわれのような状況にあった中国、インドなどのアジア諸民族にも大きな感銘と勇気を与えた。そして、世界諸国家がわが国の独立問題に関心を持つようになり、日本の侵略と非人間的な行為を批判しはじめたのである。
三・一運動を通じてわが民族指導者たちは、独立に対する新しい希望を持つようになった。民族指導者たちは、独立運動をより効果的に展開するために、中国の上海に大韓民国臨時政府を樹立した。
一方、日帝も三・一運動を通じてわが民族を武力だけでもっては支配できないことを悟った。そして、わが国の文化発展に力をつくすと述べたが、それは実際にはわが国を永遠に支配しようとする企みであった。
三・一運動の持つ歴史的意味を考え、それを文や絵に表現してみよう。
この記述をみると、非暴力的独立運動に対して、邪悪なる日帝の警察や軍が無慈悲で暴力的弾圧をおこなったかのような印象を受ける。
しかし、実際には「3月における騒乱の概要」「4月における騒乱の概要」のように、運動参加者は官公庁を襲撃するなどの暴力的破壊活動を行っており、軍が治安出動するのはある意味当然である。決してインドのガンジーが行ったような非暴力的独立運動ではなかったのである。