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朝鮮出兵
―侮蔑表現が盛りだくさん―

国定韓国中学校国史教科書

壬辰倭乱の勃発

16世紀末、朝鮮では両班社会の分裂で、社会的混乱がひどくなり国力も弱まった。
このとき日本は、豊臣秀吉によって100余年間つづいた混乱が収集され、統一国家が成立した。国内統一に成功した豊臣秀吉は、部下の将軍たちの関心を海外へ向けることで国内の不平勢力をなだめ、あわせて自身の大陸に対する侵略的野心をとげようとわが国に侵略した。これが壬辰倭乱である(1592)。
釜山鎮と東莱城では、上陸する倭軍を迎え鄭撥・宋象賢が力の限り戦ったが、ついに防御に失敗し、ほどなく忠州の防御線もくずれた。いまだ戦争の準備態勢もできていなかった朝鮮は、鳥銃(引用者注:火縄銃)でよく訓練された倭軍をくい止めることはできなかった。かくして漢陽は陥落し、王は義州まで避難しなければならなかった。倭軍は平壌と咸鏡道地方を北上し、韓半島全域を手中に収めようとした。

水軍の活躍

朝鮮軍は、陸地での惨敗とは異なり、海上ではいたるところで倭軍を殲滅した。
当時倭軍の作戦は、北上する陸軍を支援するために水軍を南海と西海へ北上させて、戦争物資を調達し、陸軍と協力して攻撃しようとするものであった。そこで日本水軍は、慶尚道の海岸を略奪しつつ全羅道海岸へ接近してきた。
当時全羅道の海岸警備をまかされていた人は李舜臣であった。彼は戦争1年前に赴任し、今後あるかどうかもわからない倭軍の侵入に備えて、亀甲船をつくり、戦艦と武器を整備し、水軍を訓練して兵糧を蓄えるなど事前に万全を期した。
このように準備を重ねた李舜臣は、倭の艦隊を迎え、南海岸各地でこれを撃退した。朝鮮水軍は、玉浦海戦で最初の勝利をあげた後、つづいて唐浦、唐項浦、閑山島、釜山浦などでつづけて大きな戦果をあげた。とくに閑山島大捷は、朝鮮水軍が挙げた最大の勝利で、壬辰倭乱当時、大きな成果をあげた三大捷の一つに数えられている。
このように李舜臣の活躍で、朝鮮軍は制海権を掌握し、倭軍の本国連絡路を遮断し、全羅道と西海岸を倭の侵入より守ることができた。

義兵の活躍

海戦でつづけて勝利をあげているとき、陸地でも戦況がかわってきた。全国各地で儒生、農民、僧侶などが義兵を組織し、いたるところで倭軍をうち破り、苦しめた。義兵は自発的に立ちあがり、自分の家族と財産、そして村を守る一方、国家を守るために倭軍を迎え撃った。
義兵は、自分の地元の地理に明るく、地形うまく利用することができただけでなく、自然条件に合った武器と戦術を活用したために、少ない犠牲で大きな被害を与えた。
当時の代表的な義兵将としては、郭再祐、趙憲、高敬命、休静、惟政などを数えることができる。

倭乱の克服

義兵の活動が全国的に活発になり、水軍の重なる勝利で戦況が朝鮮側に有利に展開していたとき、明の軍隊も合流して反撃を加えた。このとき金時敏は晋州城で、権慄は幸州山城で大きな勝利をあげた。そこで倭軍は朝鮮軍に対する攻撃をゆるめ、戦列を整えるために休戦をうったえた。
しかし、和議の交渉が決裂すると、倭軍が再び侵入してきた。そこで、一時身を引いていたが再び登用された李舜臣は、倭軍を鳴梁へ誘き入れて大きな打撃を与え、勝利をあげた。また陸地でも戦陣を整え、倭軍の北上を阻止するなど大きな戦果をあげた。そのため倭軍は戦意をなくし、逃亡し始めたが、李舜臣率いる朝鮮の水軍は逃亡する倭の船舶数百隻を露梁海上でことごとく撃破し、最後の勝利をつかんだ。

これを見て分かるように、朝鮮出兵の日本軍をわざわざ「倭軍」と記述している。日本でいえば「チョン」とか「鮮人」といった表現を堂々と使っているようなものである。さらに問題なのは、この戦争のことを「乱」と称していることである。「乱」というのは言うまでもなく「内乱」を表す表現で、対外戦争の名称には不適当なものである(対外戦争の場合は「役」を用いる)。にもかかわらず、「倭乱」という表現を用いているのは、日本を野蛮国とみなす差別意識が背景にある。
左翼が唱える「正しい歴史認識」によれば、この戦争は「朝鮮出兵」と表現することすら不適切で、「朝鮮侵略」か「壬辰倭乱」でなければならないそうだが、「近隣諸国」に対する媚態・迎合の最たるものといえる。

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