元寇と応永の外寇
―自国の侵略は「征伐」―
国定韓国高等学校国史教科書
自主性の試練
高麗は蒙古との講和以後自主性を著しく損なうに至った。講和後、高麗が最初にうけた試練は日本征伐に動員されたことであった。高麗は、国号を元と変えた蒙古の強要によって日本征伐のための軍隊をはじめ多くの人的・物的資源を徴発された。したがって長い戦乱で国家経済が破綻に直面していた高麗としては、苦痛をより深くなめるようになった。しかし2次にわたる高麗・元連合軍の日本遠征は、台風によってすべて失敗に帰した。
国定韓国中学校国史教科書
女真、日本との関係
《女真族の記述は省略》
高麗末に大きな騒乱を起こした倭寇は、朝鮮初期にもわが国の海岸に侵入して略奪をやめなかった。そこで世宗のとき、李従茂などが200余隻の艦隊を率いて倭寇の討伐に向かい、対馬島を征伐した。
このように、自国による侵略行為はことごとく「征伐」と記されている。かつて韓国は、豊臣秀吉の朝鮮の役のことを「朝鮮征伐」と記述するのは不適当な表現だと主張してきたが、そういう自分達は平然と「征伐」という用語を使っている。
韓国人や日本の左翼は元寇について、「高麗は元に強要されただけで、乗り気ではなかった。」と主張し、挙句の果てには「日本が元寇を防ぐことができたのは、高麗人民の各種抵抗活動のおかげである。」などという開き直ったトンデモな主張を展開しているが、それは史実に反し正しくない。1272年、高麗の王世子・椹(後の忠烈王)は「惟んみるにかの日本、未だに聖化を蒙らず。故に詔を発して軍容を継耀せしめんとせば、戦艦兵糧まさに須いる所あらん。もし此事を以て臣に委ねなば」「王師を小助せん」などとフビライを唆していることから分かるように、高麗は元寇に積極的に加担しており、「戦争責任」を免れることはできない。
それに、実際に動員された高麗兵の士気も高く、釈円鑑は「東征頌」で、「鼓ヘイ巨浸に轟き、旌旆長雲を払う。驍勇皆死に趨き、英雄競いて勲を立てんとす。」と日本侵略を鼓舞していた。
そして、戦場となった対馬と壱岐では、
・男は殺害、女は集められて手の平に穴を開けられて縄を通され船縁に吊るされた。
・200人の少年少女が「強制連行」され、高麗王とその妃に献上させられる。
など、残虐行為を繰り返した。
清代の徐継畭の『瀛環志略』、朝鮮後期の安鼎福の『東史綱目』には、倭寇の原因は日本に対する侵略(元寇)を行った高麗人に対する報復という一面があることを指摘している。
≪参考資料≫
下條正男『日韓・歴史克服への道』