世界の終わりは君と一緒に
目覚めた咢は、訳が分からなかった。ぼうとした半覚醒の状態で体を動かそうとすると、指1本すら動かせなかったのだ。辛うじてうつ伏せになっている体勢は分かるが、それだけだ。自分はどこで寝ているのだと横になった顔を動かした時、頬にしゅるりと擦れるもの。 それがトレーラーの煙草臭いシーツではなく、おぞましいほど滑らかなシルクだと知り、咢はざっと青褪めた。
仕事か? 今からか?それとも、もう終わったところなのか?
寝起きの働かない頭が混乱している。落ちつけ、落ちつけ、と自分に言い聞かせて、うつ伏せのまま周りの状況を探る。 我に帰れば、一目瞭然ではあった。体に異常はないか、ぼんやりしていた意識を覚醒させれば、全身の痛みと倦怠感が、ついさっきまで何があったかを教えてくれた。上を向いている方の頬は青臭いものが乾いてぱりぱりとする。どこもかしこも痛むが、中でもじんじんと耐えがたい熱を持っているところ。そこから足の間をどろりとした精液が伝う感触に、咢は小さく呻いた。漏らした声は、掠れきっていた。 耳を澄ませば、入口に近いバスルームから、機嫌の良さそうな鼻歌とシャワーの水音が聞こえる。 (…ああ、そうだ) ついさっきまで、自分は。 獣のように這いつくばり、または想像したこともなかった無理な体勢を強いられ。 もしくは男の足元に跪き。 赤黒い肉塊を口で愛撫するのは体内を穿たれる苦痛に比べれば肉体的にはずっと楽だった、だから咢は少しでも時間を稼げるのなら喜んで口を開きさえした、その姿はふとした時に思い出されては咢をひどく苛んだ。 (考えるな考えるな考えるな) 生きている。なんとか無事に。それだけで十分だ。
動かない体に、明日はATができないなと思う。少なくとも数日は、大人しくしていなければならないだろう。この仕事にはだいぶ慣れた、慣れてしまったとはいえ体にかかる負担は相変わらずで、○風の仕事で負うような怪我とは種類の違う、体と心両方に後を引く性質の悪い痛みだった。
早く、空に戻りたい。早く、早く。
風を裂いてすべての重力から解き放たれる瞬間をなんとか思い浮かべて、咢はぴりぴりと引き攣る心をほんの少し緩めた。技巧はいらない、シンプルに高く飛ぶだけでいい。咢自身はスリルも何もないただの散歩にはあまり興味を持てなかったが、景色も目に入らないほどのスピードと機能性を重視した飛び方より、空にいることを体中で感じられる飛び方の方を亜紀人は喜んだからだ。 柔らかく頬を撫でる風がくすぐったいと笑う亜紀人を、ずっと見ていたかった。 亜紀人が笑ってくれるのなら、ずっと繰り返していたかった。
(ねえ咢、お月様に手が届きそうだね) (ファック、アホか) (だって、ほらぁ)
その空想はわずかながら咢を慰めたが、記憶の通りに伸ばした手は、シーツを掻くだけだった。
早く、空に戻ろう。こんなどろどろに汚れたシーツの海になんか一秒だっていたくない。 自分は、こんなことのために生まれた訳ではないのだ。
きゅ、とシャワーが終る音。 さあなんとか起き上がって、シャワーを浴びて、そして帰ろう。 あの檻へ。 自分たちをこんな目に遭わせている、飼い主の許へ。 自嘲の笑みを浮かべようとした、けれど顎の感覚がないほど疲れていて、頬を少し引き攣らせるだけだった。
がちゃ、とバスルームの扉が開く音に咢は身を竦め、客が去るまで寝たふりをしていようと決めた。もわりとした湯の気配、爽やかなボディソープの香り。それらにも紛れない、濃密な精の臭い。べたべたと男は裸足で部屋を歩く。 がちゃり、がちゃがちゃ。着替えているのだろうと思った男は、咢の知らない古い愛の歌を口ずさみながら、持ち込んだスーツケースを漁っている。上客だから特に粗相のないように、と兄に念を押された男。こんな男がこの国を動かしている1人だと言うのだから世も末だと咢は思う。男も例に漏れず、咢を大層気に入ったようで、相手をするのは今日で何度目だったろうか。 いつも自分が満足すれば、ベッドに沈んでいる咢のことなど一瞥もせずに自分だけ身なりを整えて去っていくのに。 (…?) この男が部屋にいる限り、シャワーにも行けない。何をやっているのかと、重い瞼を開ける。ずっしりと重い頭をなんとか起こし、足元の男を見た。そして、見たことを後悔した。
「あ、気がついたかい?」
爽やかな、通りのいい声。政治討論番組などで何度かテレビで見たことのあるその顔が、咢が存在だけは知っているグロテスクな玩具を手にしながら微笑んでいる。既に血の回らない頭から、ざっと血の気がひく。痺れてあまり役に立たない脳が、がんがんと警告を発している。延長だと、楽しそうに告げられた言葉の意味を理解するのにしばらく時間がかかった。
「大丈夫、お兄さんの許可はとったからね。時間はたっぷりある」
スイッチの入った玩具が奇妙な動きをしている。ああそんな風に動くのか、と他人事のように思った、そして他人事であればどれほど良かっただろう。さすがにそれが男性器を模したものであることは分かる。自分の腕よりも太いそれで、どうされるのかも。青褪めた頬にぐりぐり押し付けられたそれは生き物のように蠢いて、咢を獲物だと選定したように思えた。今にも噛みつかれるのではないかと、咢は思った。
ああ、目覚めるんじゃなかった、咢は心から後悔した。ふと頭をよぎるのは、朝の情報番組の、可愛らしいキャスターの声。もう何十年も前のことのようだった。帰国子女だというキャスターが、素晴らしい発音で、いい一日でありますように、と祈ってくれた。
そりゃどうも、くたばれメス豚。
生臭い舌が咢の頬をべろりと舐める。咢は例えようもない不快さに何度目か分からない吐き気を催したが、既に胃の中は空だった。呼吸するのがやっとの唇を捕らえ、無理に合わせてくる男の口からは腐臭がした。真上のたるんだ体が内側から腐り落ちていく姿を想像して自分をわずかに慰めようとしたが、ぐずぐずと腐っていく男に足を開き犯されている自分の姿は、腐乱死体よりも見るに堪えなかった。 芋虫のような指が体を這う。ごわごわとした豊かな陰毛がつるりとした尻に当たる。ばちんばちんと薄い尻に勢いよく肉がぶつかる音が、苦悶の声と同じ間隔で部屋に響く。明日には痣になってしまうことだろう。無理に広げられた股関節がぎしぎしと痛んだ。こんなことのために、毎日のストレッチを欠かさない訳ではけっしてないのに。
この男は自分にも咢にも薬を使い、それでも持たずに道具まで使って咢を凌辱することでようやく満足を得る。そこまでして欲しいものだろうかと咢はつくづく疑問に思う。そして自分にはもう関係のないことだろうと思った。この仕事を始めた時から、きっと一生まともなセックスはできないだろうと思った。 滅多にないことではあったが、女性を相手にすることもない訳ではなかった。咢は、ほぼ初めて触れる異性の姿に嫌悪と恐怖を募らせた。咢はいつの間にか、この仕事以外で会うすべての人間にも、自らを虐げる客の姿を重ねてしまっていた。微笑ましい好意からの接触も、ただただおぞましく、過剰に拒絶した。 生身の接触は咢にとってもはや苦痛でしかなかった。咢の中で、ただ1人触れあえない亜紀人だけが神格視されていくのも、仕方のないことだと言えた。 好意を跳ねのけられた相手が傷ついた顔をする度に、中の亜紀人が何か言いたげな表情をしたが、結局は口を噤んだ。まともな他人と深く関わるよりも先に、人間のもっとも醜い欲望を叩きつけられることを知ってしまった咢に、他人の優しさなど説けたはずもなかった。
「う゛、ぅ…ッ」
薬で無理矢理に性感を高められた体はただ苦しい。幼い体は薬の力を持ってしても勃起までは行かず、今はじんじんと膨張しているような不快な熱だけを持って、男の律動に合わせて白い腹の上でゆらゆらと揺れていた。 男の手が体中を這いまわる。この肌がいいのだとうっとり囁かれる度に、頭から熱湯でもかぶればこの仕事をしなくていいようになるのだろうかと思ったが、この体は咢の体ではない、少なくとも咢1人の体ではない。亜紀人の肌に自ら傷をつけるような真似は、想像することすら罪だった。
男の辿ったところから、腐臭が染みついて離れない。いくら熱い湯に浸かっても皮が剥けるほど擦っても、内臓にまで染みついて離れない。動かない体のあちこちで、蛆虫がのたくっている、ような気がする。朝が来たとき自分は腐り落ちているかもしれない。もしかしたらもうとっくに朝なのかもしれない、そうして自分はとっくに腐っているのかもしれない。
凌辱はもう終わりだと気を抜いてしまったことが幸いだったか災いだったか、食いしばることのできない口からは屠殺される牛のような声が間断なく漏れた。けれど、もうどうでもよかった。咢の体内で、男がぶるりと震えた。咢は固く目を瞑ってそれを受け入れた。見なければなかったことにできると、思っていた訳ではなかったが。
ぴりぴりと傷ついた直腸にねっとりとした精液をぶちまけられる感触には、今でも慣れなかった。口の中に胃液がぐっと込み上げる。注がれた精液が口まで達したのかもしれないと、あり得ないことを思った。 粘度の高い精液をどくどくと許容量をはるかに超えて注がれる度に、あばらの浮いた薄い胸が反る。喉の奥がびくびくと痙攣して呼吸が出来ない、悲鳴も上げられない。かは、と息を吸いかけては失敗する。閉じた瞼の裏、視界が白く点滅して、咢は自分が再び意識を失いかけていることを知った。 (だめだ、だめだ寝るな、まだだめだ寝るな、起きろ起きていろ最後まで寝るな大丈夫だこんなの) 痛々しく腫れた乳首に、男が噛みついた。ぐちゅり、と小さな肉が潰れる音がした。目の前が真っ赤に染まり、濃い鉄の匂いがぷんと漂う。その激痛に縋り、咢はなんとか意識を保った。
男は咢の上に圧し掛かり、満足気な息をついている。再び合わさった厚い唇から入り込んだナメクジのような舌が口内でのたくり、咢は総毛だった。冷たい汗がじっとりと体を伝う。 そして咢はこれで終わりではないことを知っていた。男は滴る汗を拭いもせず、子供のように無邪気な笑顔でグロテスクな玩具を手にした。それはまさしく凶器だった。 精液をごぷごぷと溢れさせているところに、けばけばしい色をしたグロテスクな玩具が当てられたと感じた瞬間、ぐっと奥まで押し入れられ、咢の視界がスパークした。常にないほど緩んだそこが、大きく裂ける。ブチブチと脳に響くのが何の音かなど、咢にはもう分からなかった。
あまりの痛みに四肢がつっぱる。一瞬気が遠くなったあと、杭のように打ち込まれた激痛は腰を中心にして全身に広がって行った。脊髄を駆けのぼるようにして脳に到達した痛みは明らかにに過負荷だと咢に告げた。けれど今咢にできることなど何もなかった。入るものなのだな、と他人事のように思うのがせいいっぱいだった。まともに直視などしたらどうなるか、自分でも分からなかった。 男は鮮血を不思議そうな目で見た。それから、一層興奮した面持ちで次の遊びに取りかかった。おぞましい玩具がずるずると無理に動かされる度、血の匂いが濃くなり、きいいんと耳鳴りがするほどの凄まじい痛みが走って、他人の前でなど泣きたくはないのにぼろぼろと涙が零れた。 これほどの痛みがこの世に存在するとは到底信じられなかった。顔を殴られるのにも腹を蹴り上げられるのにも慣れていた、しかし体の内側から肉を裂かれる痛みは、それらと比べ物にもならなかった。この激痛から今すぐ解放してやろうと言われたなら、引き換えにどんなことだってしただろう、しかし誰も咢にそんなことは言ってくれなかった。
泣いちゃったの、かわいそうに、などと涎を垂らしながら涙の筋に吸いつく男を押しのけることはおろか、顔を背ける力も残っていなかった。ただ、亜紀人の体を傷つけずには守れない自分の無力さが悔しかった。 (ごめん、亜紀人、ごめん…っ) 守りたかった。 この世界で唯1つ大切な亜紀人を守りたかった。 すべての攻撃から悪意から、完璧に守りたかった。 なのに今、亜紀人のためにできるのは少しでも体の負担をなくすように力を抜くことだけで。自分の体があればいいのに。咢は思った。自分の体があれば。こんなこといくらでもできる。どんな傷だって苦痛だって受けてみせるのに。 亜紀人を守るためには、亜紀人の体で戦わなければならない。亜紀人の体で、痛みを受けなければならない。それが咢は悔しかった。悔しくて悔しくて、しかたなかった。
亜紀人を守る。 ただそのためだけに生まれてきたのに。
初めて外に出て、誰よりも速く夜を駆けた時、自分にはそれができると信じていた。この力で亜紀人を守れると、自分にはそれが出来ると、疑うことなく信じていた。そんな自分を誇らしくさえ思っていたのに。 初めての仕事の時、咢のそんなささやかなプライドはがらがらと音を立てて崩れ落ちた。初めて見るような大きなベッドの上で、自分には何の力もないということを、自分はただの小さな子供なのだということを、咢は心底思い知らされた。
その身に他人を受け入れた時、咢はその段階になっても自分がどこかで兄を信じていたことを知った。どれだけひどい扱いを受けていても、こんな仕事を任されても、“亜紀人の実の兄”だというそれだけで、決定的な打撃は与えられないだろうと、どこかで甘えを持っていたことを、入口を悲痛な目で見つめていることを客に咎められて初めて自覚した。もちろん、兄が助けに来ることはなかった。ただの1度も。
亜紀人が泣いている。小さな体を更に小さくして、声もなく泣いている。 亜紀人が泣くのは、いやだ。 …泣くなよ。こんなこと、何でもないんだから。なあ、亜紀人。 (笑えよ、亜紀人) なあ。笑ってろって。お前が笑っているなら、俺は。 お前が笑うなら俺はなんだってできるから。
亜紀人は笑った。濡れた頬に広がるのは、状況にあまりにそぐわない、いつも通りの笑み。つらい時に笑うのは得意だった、けれど唇が震える、頬が引き攣る。それでも笑う、笑わなければならない、咢がそれを求めているのなら。 今、咢に激しい苦痛しか与えてくれない世界、そこで亜紀人さえ微笑んでくれれば自分は幸せなのだと、縋るように届けられた願いを叶えたかった、欺瞞でもなんでも、亜紀人に出来るのはそれだけだった、咢が望んでいるのはそれだけだった、だから亜紀人は笑わなければならなかった。 (―――笑え!) 全身全霊の力で、亜紀人は微笑んだ。微笑んでみせた。咢は、それだけでよかった。
――――ああ、よかった。亜紀人が笑っている。亜紀人が、
亜紀人がわらっているならそれだけでいい、
あきと、
なあ、あきと、 おれは、
「…アキトって誰?」
現実ではないところに行きつつあった咢の意識が、饐えた臭いに満ちたホテルの一室に引き戻された。そこで咢は無様に足を開き、肥え太った男に蹂躙されている。男の顔からどろりとした汗がぱたぱたと垂れて、咢の血の気の引いた体を汚した。
「…呼ぶな。お前が、お前らみてえな豚野郎が亜紀人の名を呼ぶな!」
全身の苦痛も忘れるほどの激しい痛みが、自らの血で汚れた小さな胸を刺した。 咢に許された、たった1つの聖域。汚された気がした。たとえ何をされようと、いっそ死んだ方がマシだと思うような夜も、ただひとり亜紀人を守るために必要なのだと思えば。
なのに今、脂ぎった醜い唇が亜紀人の名を口にしている。
他人の流す血も向けられる冷たい目も、何物も入り込めないはずの2人きりの世界。そこに今、男の濁った欲望が向けられ、ひび割れた傷からどろりと入り込んで腐食してくる。2人だけの聖域が汚される。それは、到底許せることではなかった。 この男は亜紀人が何者かも知らない、けれど人には晒せない性癖を持っている者特有の嗅覚でもって、この生意気な少年の大事な大事な、それこそ心の拠り所である存在だと見抜いた。くつくつと、男は楽しげに笑った。口の端に泡が溜まり、白痴のように見えた。
「アキトは、この仕事を知っているのかい?」 「黙れ、名前呼ぶな、殺す、殺すぞ!」 「かわいそうに、そんなに好きなんだねェ。妬けちゃうなァ。そうだ、よければ次はアキトも一緒に遊ぼうか」 「てめえ離せ、離せよッ!殺す!殺してやる!」
男は何も知らない、けれどそれは咢が何よりも恐れていることだった。既に体の自由は効かない。もしも今、眼帯をずらされたら。…もしも、兄にこの仕事を嫌だと言ったら。そうして、飼い主たる兄が、じゃあ亜紀人にさせようなどと言い出したら?
この男が亜紀人に触れるのか。この醜悪な、声が唇が舌が指が腕が性器が、亜紀人にも同じように触れるのか?一瞬頭に浮かべてしまった映像に、咢は痛みを忘れるほどの怒りに動かない体を震わせた。
普段、相手を少しでも楽しませまいと歯を食いしばり、時には見下したような視線をくれる少年の身も世もない反応に、男はひどくそそられた。嬲る手は止めないまま、咢の耳許で亜紀人を汚してみせた。 強引に埋め込まれたおぞましい玩具が体内を無残に抉るのも構わず、咢は暴れた。体の奥、感覚のほとんどないところが一瞬焼けるように熱くなり、それからじわじわと熱いものが溢れ出すのを感じる。手当ての難しい場所が大きく裂けたのだ、と理解はしても、それは今後の仕事に大事なATに支障を来すと分かってはいても、咢は四肢をばたつかせることをやめなかった。 怒りは鈍っていた感覚を再び鋭敏にさせ、限界を超えた幼い体に非常な苦痛を齎したが、それすら亜紀人を嬲られる痛みに比べれば、どうということはなかった。
「殺す…っ、殺す殺す殺す殺してやる―――――――ッッ!!」
絶妙のタイミングで――恐らくあと数秒遅ければ、我を忘れた咢が目の前の男の喉笛を噛み切っていただろうタイミングで―――男の携帯が鳴った。無機質な電子音に、男は少し興を削がれたような顔をした。 はっはっと息を荒げている咢を見下ろして少し考えた後、男は咢の顔に枕を強く押し付けた。声が漏れないのを確認してから、演説が心に残ると評判の低音で、愛想よく電話に出る。途端に表向きの誠実そうな顔で二言三言の会話を交わした後、さっさと着替えて部屋を飛び出していった。足を開き玩具を埋め込まれたままの咢を、振り向きもしなかった。 その間、咢の意識は浮き沈みを繰り返した。男が去ったことに気づいた時には、どれくらいの時間が経っていたのか分からなかった。
体中が温い水に浸っているようで、ひどく重かった。錆びた鉄の匂いが吐き気を催すほど部屋中に満ちていて、出血の程度が知れた。既に、指先の感覚はなくなりつつある。ただ、寒い。ぶるぶると瘧のように全身が震える、それとともに意識がちらちらと消えかける。体の中から響き続ける痛み、今や咢の感覚のすべては痛みそのものとなりつつあった。体の中から細切れに解体されていくようだ。体はどこまでもシーツに沈んでいくのに、喘ぐことも出来ない。 先ほど喚いた際に乾燥していた唇が裂けたのか、自らの吐息も鉄臭かった。既に出尽くしたと思っていた黄色い胃液がぐっと込み上げる。顔を横に向ける力もなくて、喉に少しの吐瀉物が絡んだが咢にはどうしようもなかった。閉じる気力もない口の中で、舌が喉を塞ぐようにだらりと力を失くしていたが、既に息苦しさも薄れつつあった。 体内に埋め込まれたままの玩具を取り除かなくてはと思っても、もう咢の体は何1つ意志の許には動かなかった。
ああ、だめだ、亜紀人のからだに、傷がついてしまう。
亜紀人の声が、好きだ。 2人きりの檻で、ひっそりと歌ってくれるんだ、俺だけのために。 綺麗な歌。優しい歌。あれが今、聞きたい。 亜紀人の指が、好きだ。 器用な指。左の眼帯を丁寧に撫でる、特別な指。 亜紀人の手のひら。大したことない怪我を、優しく撫でる手のひら。 亜紀人の瞳。笑う時、ふ、と緩むのを見るのが好きだ。 亜紀人の、亜紀人の、亜紀人の。
血が止まらない。意識が白く掠れていく。
ああ、だめだ、まだ。まだだ、がんばれ、がんばれ、起きろ、起きるんだ、平気だこんなの、何でもない、起きろ、まだやれる、
(もういいよ)
もう、いいんだよ。
優しい声に、咢は顔を上げた。 気づけば、そこはぼんやりと白い世界だった。その中で、ただ1人亜紀人が微笑んでいる。そちらへ行きかけて、咢は何かを思い出しそうになって顔を歪めた。
(怖い夢を見たんだよ。もう、怖いことはないんだよ。ね?)
後ろを振り返りそうになるのを、亜紀人がやんわりと押し留めた。何か、とても恐ろしいことがあったような気がするのだけれど。亜紀人がもう大丈夫というのなら、そうなのだろう。心に何か引っかかるものはあったけれど、咢は、二度と振り返らなかった。
だって、亜紀人が笑っている。他に何が要る?
(…そうだな) (一緒なら怖くないよ。咢がいるなら、僕は何にも怖くなんかないんだよ)
咢は笑った。繋いだ手は、温かかった。
(ね、行こう) (どこに行くんだ?) (どこにでも、だよ)
そうして2人は、2人だけの世界で走り出した。
時間の止まったような冷えたホテルの一室、滑稽な玩具だけが無骨な音を立てて蠢き続けていた。 けれど、2人にはもう関係のないことだった。
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