2005年 8月分 放映リスト

8月3日(水)放送 第230回
シリーズ終戦60年ソ連参戦の衝撃 〜満蒙開拓民はなぜ取り残された〜

8月24日(水)放送 第231回
日露衝突を回避せよ 〜高田屋嘉兵衛 決死の交渉劇〜

8月31日(水)放送 第232回
家康が最も恐れた男 〜敗者 石田三成の関ヶ原〜



第230回
シリーズ終戦60年
ソ連参戦の衝撃 
〜満蒙開拓民はなぜ取り残された〜

放送日

<本放送>
平成17年8月3日(水) 21:15〜21:58  総合 全国
<再放送>
平成17年8月12月(金)(※木曜深夜) 1:30〜2:13 総合 全国
出演者
松平 定知 アナウンサー
○スタジオゲスト:-
番組概要

その時:昭和20(1945)年8月9日

出来事:ソ連、対日参戦。満州国に侵攻
 ソ連軍は日ソ中立条約を破り、戦車5千台・兵員157万人の圧倒的戦力で当時日本の支配下にあった満州国(現在の中国東北部)に侵攻した。満州を守備していた日本軍は敗退。満州に移住していた100万を超す日本人居留民は戦闘に巻き込まれ、多くの犠牲を強いられた。このことは、戦後、シベリア抑留や中国残留孤児の問題を生むことになる。様々な史料や証言から、ソ連の対日参戦が引きおこした悲劇を描く。
番組の内容について
○松平キャスターのリポート場所について
*「平引揚桟橋」(京都府舞鶴市の平(たいら)地区、平成6年に復元)
傍らには、「慰霊碑」や「語り部の鐘」があります。舞鶴港は、昭和20年から33年までに、およそ66万5千人の引揚者と1万6千 の遺骨を受け入れました。戦後、舞鶴のほか、浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司が引揚港に指定されましたが 、昭和25年以降、舞鶴は国内唯一の引揚港となりました。(詳しいお問い合わせは、下記の舞鶴引揚記念館にお願いします)
*「舞鶴引揚記念館」(京都府舞鶴市)
引き揚げに関する資料、満蒙開拓団に関する資料、シベリア抑留に関する資料などが数多く収められ、展示されています。(連絡先Tel0773−68−0836)

○ソ連軍の満州侵攻の映像について
旧ソ連時代のプロパガンダ映画を使用しています。8月9日に撮影されたものではなく、また一部は戦争後に撮影された再現映像である可能性もあります。今回の番組では、これらの映像を特定の場所・時間のものであると限定せず、あくまでもソ連軍の満州侵攻の理解を助けるためのイメージ映像として使用しています。そのため「一部、再現映像を交えています」というスーパーを出しています。

○スターリンの演説について
1944(昭和19)年11月6日、ソ連十月革命記念日の式典でのスターリンの演説です。
ロシアの歴史学者、ボリス=スラヴィンスキーの著書「日ソ戦争への道」によれば、この演説の直前、スターリンは、駐モスクワのアメリカ大使に対して、対日参戦の意志を示したという事実が指摘されています。

○関東軍の兵力移動の図について
図では、昭和16年の太平洋戦争開戦当時に満州に駐在していた歩兵師団(1個師団は5千〜8千人規模)についてのみ記しました。満州から南方へ向けられたのは、図で示した師団以外に、独立守備連隊、戦車師団、通信関連の部隊などがあります。細かく列挙すると煩雑になるため、小規模な部隊・連隊は省略しました。詳しくは「戦史叢書・関東軍2」に記載されています。
また、図は、太平洋戦争開戦時にあった、兵力も充分に備えたいわゆる「在来師団」が満州からなくなったということを意味しており、「満州の兵力が全く無くなった」ということはありません。番組で後述するように、この不足を補うために「根こそぎ動員」と呼ばれる現地召集がおこなわれ、表向きは関東軍の兵力は維持されたのです。

○モスクワの在外公館と日本の外務省の外交電報について
史料は、外務省外交史料館(東京港区麻布台1−5−3)に保存されています。
史料名は、「大東亜戦争関係一件 戦争終結に関する日ソ交渉」。また「終戦工作の記録 下」(講談社文庫)にも掲載されています。

○8月9日の攻撃命令について
ソ連側の記録によれば、対日参戦の期日は6月以降、徐々に早まっています。
6月中旬…「8月5日までに兵力集中を終える。8月22日〜25日に攻撃開始」
6月28日(変更)…「7月25日までに諸準備を完了。8月11日に攻撃開始」
8月7日…「8月11日開始を9日に繰り上げる」
以上は、半藤一利氏著「ソ連が満州に侵攻した夏」に記載されています。

○ソ連の対日参戦布告について
モスクワ時間8月8日午後5時(日本時間同日午後11時)、ソ連外務委員モロトフから佐藤大使に対して、宣戦布告が手交され、大使は直ちに東京に打電したが、この公電は日本に到着していない。この内容を、日本政府がソ連側から正式に言い渡されたのは、8月10日午前11時15分から12時40分。ソ連マリク大使から、東郷茂徳外務大臣に対して言い渡された。

○「第十五国境守備隊 戦闘状況報告書」
元兵士の山西栄氏所蔵。山西氏がソ連軍の攻撃から逃れる中で書き留めたメモ類を、シベリア抑留中も密かに保管し、帰国後まとめた。

○元満蒙開拓民が切りひらいた栃木県那須町千振について
昭和21年から、元満蒙開拓団の人びとによって入植・開拓がすすめられました。現在は酪農が中心となっています。

○開拓記念碑の言葉について
 「皆んな傷つき皆貧しかった
  満州に失った愛し子、兄弟達のことを想うと、立つ力さえ抜けていった
  それでもヘコタレないで
  はげましあい、力をあわせて
  拓き造ったこの沃野(よくや)だ」
番組中に登場した資料について

-

参考文献
○半藤一利 「ソ連が満州に侵攻した夏」(文藝春秋)
○中山隆志 「関東軍」(講談社選書メチエ)
      「ソ連軍侵攻と日本軍」(図書刊行会)
○ボリス=スラヴィンスキー 「日ソ戦争への道」(共同通信社)
              「日ソ中立条約」(岩波書店)
○防衛研究所編 「戦史叢書 関東軍2」(朝雲新聞社)
        「戦史叢書 大本営陸軍部10」(朝雲新聞社)
○江藤淳監修  「終戦工作の記録 上・下」(講談社文庫)




第231回
日露衝突を回避せよ
〜高田屋嘉兵衛 決死の交渉劇〜

放送日

<本放送>
平成17年8月24日(水) 21:15〜21:58  総合 全国
<再放送>
平成17年9月2日(金)(※木曜深夜)00:15〜00:58  総合 全国
出演者
松平 定知 アナウンサー
○スタジオゲスト:山折哲雄さん(宗教学者)
番組概要

その時:文化10年(1813)9月16日

出来事:高田屋嘉兵衛の交渉で「ゴローニン事件」の解決が決定的となる
 江戸時代、商人の身で日本とロシアの紛争を巧みな交渉術で回避した高田屋嘉兵衛。嘉兵衛は、商いで北海を航行中、ロシア船にさらわれ捕虜となった。極寒の地から抜け出すために嘉兵衛が挑んだ賭け。それは自らが仲介役となり、日露紛争を解決することだった。やがて武力衝突の危機は高まり、嘉兵衛は自らの脱出のみならず、日本の命運までも背負うことに…。嘉兵衛はどのように日露の衝突を回避したのか。その決死の交渉劇に迫る。
番組の内容について
○「高田屋嘉兵衛」の読みについて
番組では「たかたやかへえ」で統一しています。嘉兵衛のご子孫である高田嘉七氏に確認の上、より一般的な発音である「たかた」としましたが、「たかだ」と発音しても間違いではないようです。

○「ゴローニン」の表記について
ほかに「ゴロウニン」「ゴローウニン」「ゴロヴニン」などの表記がありますが、研究者の方の見解に基づき今回は「ゴローニン」としました。なおNHKの過去の番組でもほとんどの場合「ゴローニン」と表記しています。

○「ウラァ タイショウ」という言葉について
「ウラァ」はロシア語で「万歳」という意味です。嘉兵衛がディアナ号の乗組員たちから「万歳、大将」という意味で伝えられた言葉です。

○「高田屋嘉兵衛遭厄自記」について(以下「遭厄自記」)
今回の番組の根本史料の一つで、「たかたやかへえそうやくじき」と読みます。写本が大阪府立中之島図書館に所蔵されていますが、一般には公開されていません。○嘉兵衛がロシア船に遭遇した時の感想について(「遭厄自記」からの引用・現代語訳)
「不審に思って目をこらすと小舟が近づいてきた。すると突然、船底から10人ほどが姿を現した。ロシア人だった。」

○嘉兵衛がロシアに捕らえられた時の感想について(「遭厄自記」からの引用)
「此度天運つき候(このたびてんうんつきそうろう)」

○嘉兵衛の書状について
史料名は「高田屋嘉兵衛書状」。神戸市立博物館に所蔵されていますが、一般には公開されていません。

○嘉兵衛が家族に宛てた手紙について(「高田屋嘉兵衛書状」からの引用・現代語訳)
「私に構うことなく商売に励んでくれ。おふさはただでさえ病人なのだから、くれぐれも心配しないように。来年には帰ってくるから。」

○カムチャツカ抑留中の嘉兵衛の感想について(「高田屋嘉兵衛上申書」からの引用・現代語訳)
「極力、節約を覚悟した。」

○嘉兵衛の脱出を賭けたリコルドとの交渉について(「遭厄自記」からの引用・現代語訳)
嘉兵衛「日本がゴローニン艦長を不法に捕らえたと恨んでいるだろうが、それは間違いだ。そもそもの問題は、フォボストフの暴行にある。それゆえ日本では、以降やって来たロシア人は生け捕り吟味せよとの、国の命令があったのである。」
リコルド「フォボストフの行いはロシアでも許されるものではない。ついては、艦長たちを取り戻す方法を示してはくれまいか。」
嘉兵衛「ロシアが日本に対し暴行行為を謝罪すれば、ゴローニンは解放される。」

○嘉兵衛が見た日本側の「要求文書」について
史料の日本での名称は「高橋三平・柑本兵五郎覚書」。近年、ロシア関係史の権威である岡山大学名誉教授・保田孝一先生がロシア国立史料館で発見されました。番組でご紹介したものは、原本のコピーで、保田先生が管理されています。

○日本側のゴローニン艦長解放の条件について(上記「要求文書」からの引用・現代語訳)
「海賊行為について、ロシアは謝罪文を提出すべし。そうすれば、ロシア人捕虜全員を返す。」

○嘉兵衛の人生観を表した言葉について(「遭厄自記」からの引用・現代語訳)
「私は一介の商売人である。心やすく暮らせれば、それでいい。」

○リコルドが嘉兵衛に宛てた手紙について(斉藤智之訳「対日折衝記」からの引用・現代語訳)
「親愛なる大将へ。今も私の友情に変わりはありません。あなたから学んだ、隣国への思いやり。私は、日本とロシアが友好を深めることを願っています。」

○嘉兵衛がリコルドに送った歌について(謡曲「高砂・四海海」からの引用)
「四海波静かにて 國も治まる時つ風 枝を鳴らさぬみ代なれや 逢ひに相生の松こそ めでたかりけれ」
番組中に登場した資料について

・「高田屋嘉兵衛肖像画」 北方歴史資料館 蔵
・「リコルド肖像画」 北方歴史資料館 蔵
・「高田屋嘉兵衛遭厄自記」 大阪府立中之島図書館 蔵
・「俄羅欺人生捕図」 早稲田大学図書館 蔵
・「高田屋嘉兵衛書状」 神戸市立博物館 蔵
・「高田屋嘉兵衛上申書」 市立函館図書館 蔵
・「高橋三平・柑本兵五郎覚書(日本側の要求文書)」 ロシア国立史料館 蔵
・「高田屋嘉兵衛銅像」 北海道根室市・金刀比羅神社

参考文献
・「高田屋嘉兵衛遭厄自記」 高田屋嘉兵衛翁顕彰会
・「日本幽囚記(上・中・下)」 岩波文庫
・「北海の豪商 高田屋嘉兵衛」 柴村羊五著 亜紀書房
・「高田屋嘉兵衛 日露交渉の先駆者」 須藤隆仙著 国書刊行会
・「高田屋嘉兵衛と北方領土」 原喜覚著 ぎょうせい
・「高田屋嘉兵衛」(絶版) 堀書店
・「高田屋嘉兵衛翁伝」 高田屋顕彰館・歴史文化資料館
・「対日折衝記(訳本)」 斉藤智之著 高田屋顕彰館・歴史文化資料館
・「菜の花の沖(一〜六)」 司馬遼太郎著 文春文庫
・「司馬遼太郎全講演(3)」 朝日文庫
・「北海を翔た男 まんが高田屋嘉兵衛ものがたり」 クニ・トシロウ著 実業之日本社
・「謡曲集(上)日本古典文学大系40」 岩波書店 ほか



第232回
家康が最も恐れた男 
〜敗者 石田三成の関ヶ原〜

放送日

<本放送>
平成17年8月31日(水) 21:15〜21:58  総合  全国
<再放送>
平成17年9月 6日(火)17:15〜17:58  BS2
平成17年9月9日(金)(※木曜深夜)00:15〜00:58  総合  全国
出演者
松平 定知 アナウンサー
○スタジオゲスト:笠谷 和比古さん(国際日本文化研究センター教授)
番組概要

その時:慶長5(1600)年9月15日

出来事:関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍が徳川家康の東軍に敗れる
 関ヶ原の戦いで徳川家康と死闘を繰り広げ、敗者となった石田三成。しかし、その緻密な才知と大局を見通す構想力は、家康を最も恐れさせる存在だった。豊臣秀吉のもと天下統一事業に辣腕を振るう三成は、戦乱の世を終わらせ新たな国造りを目指す。しかし、秀吉の死後、天下とりを狙う家康がその行く手を阻む。苦闘の末、三成は家康打倒の大戦略を編みだし、天下分け目の戦いに挑む。関ヶ原合戦を敗者・石田三成の側から描く。
番組の内容について
○三成を評価した秀吉の言葉について
「三成こそは天下にはばかるほどの知恵者である」
幕末の武士・岡谷繁実が古今の名将たちの言行を集め、明治42年に刊行した『名将言行録』に採録された秀吉の言葉を現代語訳しました。
一般的な書籍としては、昭和42年、新人物往来社より出版されています。

○三成が秀吉に仕官した経緯について
「秀吉公、三成の才智謀慮あるを知り、3百石にて召し出さる」
京都市の妙心寺寿聖院という寺院に残された石田家の過去帳『霊牌日鑑』の記録を要約しました。
この史料は一般公開されておらず、活字化もされていません。寺院自体も一般公開していません。今回は特別に許可をいただいて撮影しました。

○「賤ヶ岳の戦いで石田三成が先陣をきった」というナレーションについて
戦国時代の武将一柳家の記録『一柳家記』の記述によりました。
原文は「…其時之先懸衆(先陣を切った人々のこと)ハ加藤虎之助(清正)、大谷桂松(吉継)、石 田左吉(三成)、片桐助作、平野灌平、奥村半平、福島市松(正則)、同輿吉郎、大島茂兵衛、一柳次郎兵衛、同四郎右衛門、稲葉清六…。」
原史料は国立公文書館の内閣文庫で閲覧できます。
★国立公文書館 〒102−0091 東京都千代田区北の丸公園3番2号
電話03−3214−0621(代表)
一般的な書籍としては『改定史籍集覧14巻』で見ることができます。

○史料『一柳家記』に記された三成の幼名・「石田左吉」とテロップ表記「石田佐吉」が異なることについて 石田三成の幼名の表記に関しては「佐吉」と書いてあるものと「左吉」と書いてあるものと両方があり、三成自身の書状でも両方の表記が使われています。しかし、研究者の間では一般的に「佐吉」が使われていること、『国史大辞典』といった辞書類でも「佐吉」の表記が用いられていることが多いことを考慮し、テロップ表記は「石田佐吉」といたしました。
(「検地」の説明部分で紹介した史料『検地帳』の三成の幼名「石田佐吉」とテロップ表記の「石田佐吉」が異なることについても、上記と同様の理由です)

○番組の中で出てきた検地尺や検地升はどこで見ることができるのか?
<検地尺>鹿児島市の尚古集成館(薩摩藩島津家の史料を集めた博物館)に保管されています。
★ 尚古集成館 〒892−0871 鹿児島市吉野町9698−1
電話099−247−1511 
        開館時間  8:30〜17:30  年中無休
<検地升>大阪府教育委員会文化財保護課文化財調査事務所に保管されています。
     ただし、平時は一般公開されていません。今回は特別に許可をいただいて撮影しました。

○秀吉が三成の領地を加増した際に三成がこれを断った時の言葉について
「私が九州の大名になってしまったら大坂で政務を執る人がいなくなります。」
慶長三年(1598)に三成が家臣の大音新介に出した書状の言葉を要約したものです。
この書状は現在、大阪市の大阪城天守閣に保管されています。また一般的な書籍としては、昭和45年に朝日新聞社から出版された『戦国武将25人の手紙』(岡本良一・著)に掲載されています。
★ 大阪城天守閣 〒540−0002 大阪市中央区大阪城1−1
         電話06−6941−4030

○秀吉の死後、三成が家臣に対し、豊臣の天下を維持していく決意を語る言葉について
「天下が騒乱にあった時、太閤様が現れ世をしずめ、今ようやくこの繁栄を得た。
誰が跡継ぎの秀頼公の世になることを祈らないものがあろうか」
『名将言行録』に採録された三成の言葉を要約しました。(書籍の詳細は上記参照)

○「天下は回り持ちである」という家康の言葉について
「天地の格は定まりたることなきものなり」
家康の逸話集『披沙揀金(ひされんきん)』に載っている家康の言葉から引用しました。
原史料は国立公文書館の内閣文庫で閲覧することができます。(連絡先は上記参照)
また一般的な書籍は、全国東照宮連合会が編纂した版が平成10年に出版されています。
(国会図書館など大きい図書館で見ることができます)

○家康の行動を警戒する石田三成の言葉
「徳川殿、権威日々に増長すべし」。
戦国武将の言行を集めた江戸時代の書物『常山紀談』にある三成の言葉を要約しました。
原史料は国立公文書館の内閣文庫で閲覧することができます。(連絡先は上記参照)
また一般的な書籍としては、岩波文庫から昭和63年に出版されています。(現在は絶版)

○五大老・五奉行制について
秀吉の晩年に定められた制度で、「五大老」(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・上杉景勝)と、「五奉行」(石田三成・前田玄以(げんい)・増田長盛(ました・ながもり)・浅野長政・長束正家(なつか・まさいえ)が、幼い秀頼を補佐しながら秀吉没後の政治を合議で決めていくことを定めた制度。
秀吉が死んで半月後の慶長8年9月3日に、この10人が書いた起請文が残されており、番組内で紹介した条文は、この中の一つを要約したものです。
「重要な課題に関しては、大老・奉行10人の合議で取り決める」
原史料は毛利博物館所蔵の『毛利文書』で見ることができます。
一般的な書籍としては、『大日本古文書』の家わけ第八巻・毛利家文書之三という巻にあります。(P246 資料番号962)(国会図書館など大きな図書館で見ることができます)
★毛利博物館 〒747−0023 山口県防府市多々良1−15−1 
       電話0835−22−0001

○三成に引退を勧告した家康の言葉について
「今回の騒動は三成殿にも責任がある。自国に戻って1、2年謹慎されよ」
戦国武将の言行を集めた江戸時代の書物『古今武家盛衰記』にあった家康の言葉を要約しました。
原史料は国立公文書館内閣文庫で見ることが出来ます。(連絡先は上記参照)
また活字化されたものは『国史叢書』シリーズの第8巻にあります。(国会図書館など大きな図書館にあります)

○家康討伐の計画をめぐる石田三成とその友人・大谷吉継のやりとりについて
三成「天下は家康のものになろうとしている。戦いによって除くべし」
大谷吉継「三成とは昔からの親しい友だ。今さら見放すわけにもいかない」
慶長年間の武将の言行を集めた『慶長見聞書』に書かれた石田三成と大谷吉継の密会の記述から要約しました。
原史料は国立公文書館内閣文庫で見ることができます。(連絡先は上記参照)
また昭和54年に出版された『関ヶ原合戦史料集』(藤井治左衛門・編新人物往来社)で読むことができます。

○三成が奉行仲間とともに起草した徳川家康弾劾状について
「今度の家康公の行いは、太閤様に背き、秀頼様を見捨てるが如き行いである」
これは『内府ちかひ(ちがい)の条々』と呼ばれる書状で、三成が故・秀吉の法度に背いた家康の罪十三か条を挙げ諸大名に檄を発したものです。『筑紫古文書』という書物に全文がのっています。
原文は国立公文書館内閣文庫で閲覧することができます。また一般的な書籍では上記『関ヶ原合戦史料集』で読むことができます。

○毛利配下の大名と家康が交わした密約について
「戦闘に参加しなければ、毛利の所領は保証する」
毛利配下の吉川広家に対し、家康方の武将・井伊直政、本多忠勝が送った誓書を要約しました。
原史料は山口県岩国市の吉香神社に保管されています。(一般には非公開です)

○関ヶ原の戦いの直前、三成が仲間に送った手紙について
「小早川秀秋が敵と内通し、敵は勇気づいているという」
「毛利が出馬しないことを味方の諸将は不審がっている」
「人の心 計りがたし」
これは江戸時代に書かれた武将の言行録『古今消息集』に収められた増田長盛宛て9月12日の書状を要約したものです。原史料は国立公文書館内閣文庫で閲覧することができます。
また『関ヶ原合戦史料集』で読むことが出来ます。(書籍は上記参照)

○関ヶ原直前の三成の手紙を紹介した箇所でナレーションは「小早川が敵と内通し敵は勢いづいているという」といい、テロップは「大人 数で敵へ申しかたる」となっているが?
原文では「佐和山口から来た兵(小早川の軍勢を指す)が、大軍を擁して敵と内通し(中略)敵方は勢いづいている」。
 と書かれています。このためナレーションでは文意を要約し、画面では小早川が「内通した」とわかる箇所にテロップを紹介しました。

○関ヶ原の合戦における三成の戦いぶりの記述について
「三成は戦下手と評されていたが、その戦いぶりは尋常ではなかった」
江戸時代初期に書かれた天正・元和年間の記録を集めた書物『天元実記』の関ヶ原合戦の描写を要約したものです。原文は国立公文書館・内閣文庫で閲覧することができます。(現在、一般書物では出版されていません)

○捕縛された後の三成が語った「再起への決意」について
「私は再起するつもりでいた」
『名将言行録』(上記参照)に紹介された三成の最期に関する逸話から意訳しました。

○三成の最期を聞いた家康の感想について
「さすが三成は日本の政務を執りたる者なり。命をみだりに棄てざるは将の心とする所。恥辱にあらず」
『常山紀談』(上記参照)の中の家康の言葉を引用いたしました。

○石田三成、辞世の歌について
「筑摩江(ちくまえ)や 芦間(あしま)に灯すかがり火と ともに消えゆく わが身なりけり」
「築摩江」とは琵琶湖の東北岸沿いの土地の呼び名で、ここは三成の故郷でした。この歌は死を前にした三成が、湖岸のかがり火のはかない明かりに自分の姿を託して詠んだものといわれています。
番組中に登場した資料について

石田三成像 個人蔵
徳川家康像 大阪城天守閣
豊臣秀吉像 逸翁美術館
豊臣秀頼像 養源院
加藤清正像 熊本市立熊本博物館
福島正則像 妙心寺海福院
前田利家像 個人蔵
大谷吉継像 石田多加幸氏
毛利輝元像 毛利博物館

参考文献
『関ヶ原合戦史料集』(藤井治左衛門・編 新人物往来社)
『稿本 石田三成』渡辺世祐・著 雄山閣)
『石田三成のすべて』(安藤英男・編 新人物往来社)
『人物叢書 石田三成』(今井林太郎・著 吉川弘文館)
『現代視点 石田三成』(安藤英男・編 旺文社)
『石田三成』(小和田哲男 PHP新書)
『関ヶ原合戦』(二木謙一・著 中公新書)
『関原軍記大成1〜4』(宮川尚古・著 国史研究会)
『名将言行録』(岡谷繁実・著 新人物往来社)
『常山紀談』(湯浅常山・著 岩波文庫)



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