[トップページ] [平成11年上期一覧][人物探訪][210.73 ユダヤ難民救出][316.8 人種問題]


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        _/  _/    _/  _/           Japan On the Globe (86)
       _/  _/    _/  _/  _/_/      国際派日本人養成講座
 _/   _/   _/   _/  _/    _/    平成11年5月8日 8,808部発行
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_/_/  人物探訪:2万人のユダヤ人を救った樋口少将(下)
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_/_/           ■ 目 次 ■
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_/_/   1.2万人のユダヤ人、吹雪の中で立ち往生
_/_/   2.難民の件は承知した
_/_/   3.難民、到着
_/_/   4.ドイツ外相からの強硬な抗議
_/_/   5.ゼレラル・ヒグチの出発
_/_/   6.オトポールの恩を返すのは、いまをおいてない
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■1.2万人のユダヤ人、吹雪の中で立ち往生■
   昭和13(1938)年3月8日、ハルピン特務機関長・樋口少将の
  もとに重大事件のニュースがもたらされた。
       満洲国と国境を接したソ連領のオトポールに、ナチスのユ
      ダヤ人狩りからのがれてきた約二万人のユダヤ難民が、吹雪
      の中で立往生している。
       これらのユダヤ人は、満洲国に助けを求めるために、シべ
      リア鉄道を貨車でゆられてきたのであるが、満洲国が入国を
      拒否したため、難民は前へ進むこともできず、そうかといっ
      て退くこともできない。
       食糧はすでにつき、飢餓と寒さのために、凍死者が続出し、
      危険な状態にさらされている
   これらのユダヤ難民は、フランクフルトからポーランドに流れ
  込んだのだが、すでに数百万のユダヤ人を抱えていた同国は、彼
  らを体よくソ連領に追いやってしまった。  
   ソ連は難民達をシベリアでもほとんど開発を放棄した酷寒の地
  に入植させたのだが、都市生活者ばかりの難民達に開拓ができる
  はずもなく、彼らは満洲国を経由して、上海へ脱出しようとして、
  オトポールまでたどりついた所であった。  
■2.難民の件は承知した■
   ハルピンのユダヤ人協会会長・カウフマン博士も飛んできて、
  樋口に同胞の窮状を訴えた。しかし、満洲国外務部(外務省)を
  飛び越えて、独断でユダヤ人を受け入れるのは、明らかな職務権
  限逸脱である。  
   なぜ外務部は動かないのか。ユダヤ人問題で下手に動いて、ヒ
  ットラーから横やりでも入ったら、関東軍からにらまれるからだ
  ろう。樋口は腹立たしさを覚えた。彼らは満洲国の独立国家とし
  ての自主性をまったく失っている。満洲建国の理想として世界に
  掲げた旗印は「五族協和」であり、「万民安居楽業」ではなかっ
  たか。  
       博士! 難民の件は承知した。だれがなんといおうと、私
      がひきうけました。博士は難民のうけいれ準備にかかってほ
      しい。
   力強い樋口のことばに、カウフマン博士は感きわまり、声をあ
  げて泣いた。「博士、さあはやく、泣いている場合ではありませ
  んぞ。」樋口はすぐに満鉄本社の松岡総裁を呼び出し、列車の交
  渉を始めた。
■3.難民、到着■
   それから2日後の3月12日。ハルピン駅では列車の到着を待
  つカウフマン博士をはじめ、十数人のユダヤ人協会の幹部が、救
  護班を指図しながら、温かい飲み物や、衣類などの点検に忙しそ
  うに動きまわっていた。
   やがて、轟然たる地ひびきをたてて、列車がホームにすべりこ
  んできた。痩せたひげだらけの顔が、窓に鈴なりになって並んで
  いる。期せずして、はげしいどよめきの声が、ホームいっぱいに
  ひろがった。列車が停止すると、救護班がまっさきに車内にとび
  こんだ。病人や凍傷で歩けない人たちが、つぎつぎにタンカで運
  ぴだされてくる。  
   ホームのあっちこちで、だれかれのべつなく肩にとびつき、相
  擁して泣き崩れる難民たち。やつれはて、目ばかりギョロつかせ
  ていた子供たちは、ミルクの入った瓶をみると、狂ったように吠
  え、わめき、オイオイと泣きだした。
 「よかった。ほんとによかった!」
   カウフマン博士は、涙で濡れた顔をぬぐおうともせず、ホーム
  を走りまわって、傷ついた難民にいたわりの声をかけている。  
   数刻後、樋ロは、オトポールの難民ぜんぶが、ハルピンに収谷
  されたという報告をうけた。凍死者は十数人、病人と凍傷患者二
  十数名をのぞいた全員が、商工クラブや学校に収容され、炊きだ
  しをうけているという。救援列車の手配がもう一日おくれたら、
  これだけの犠牲者ではすまなかっただろうと医師たちは言ってい
  た。  
   難民の8割は大連、上海を経由してアメリカへ渡っていったが、
  あとの4千人は開拓農民として、ハルピン奥地に入植することに
  なった。樋口は部下に指示し、それらの農民のために、土地と住
  居をあっせんするなど、最後まで面倒を見た。
■4.ドイツ外相からの強硬な抗議■
   樋口のユダヤ難民保護に対して、案の定、ドイツから強硬な抗
  議が来た。リッべントロップ独外相は、オットー駐日大使を通じ
  て次のような抗議書を送ってきた。  
       満洲国にある貴国のある重要任務にあたる某ゼネラルは、
      わがドイツの国策を批判するのみか、ドイツ国家および、ヒ
      トラー総統の計画と理想を、妨害する行為におよんだのであ
      る。
       かかる要人の行為は、盟邦の誓いもあらたな、日独共同の
      目的を侵害するばかりか、今後の友好関係に影響をおよぼす
      こと甚大である。この要人についてすみゃかに、貴国におけ
      る善処を希望している。
   樋口は、関東軍司令部からの出頭命令を受け、参謀長・東条英
  機(後の首相)に対して次のように述べた。
       もし、ドイツの国策なるものが、オトポールにおいて、追
      放したユダヤ民族を進退両難におとしいれることにあったと
      すれば、それは恐るべき人道上の敵ともいうべき国策ではな
      いか。
       そしてまた、日満両国が、かかる非人道的なドイツの国策
      に協力すべきものであるとするならば、これまた、驚くべき
      軽侮であり、人倫の道にそむくものであるといわねばならな
      いでしょう。
       私は、日独間の国交親善と友好は希望するが、日本はドイ
      ツの属国ではないし、満洲国もまた、日本の属国ではないと
      信じている。      
   樋口は、東条の顔を正面から見据えて言った。「東条参謀長!
  ヒトラーのおさき棒をかついで、弱い者いじめをすることを、正
  しいとお思いになりますか」    
   東条は、ぐっと返事につまり、天井を仰ぐしぐさをしてから、
  言った。    
       樋口君、よく分かった。あなたの話はもっともである。ち
      ゃんと筋が通っている。私からも中央に対し、この問題は不
      問に付すように伝えておこう。    
■5.ゼレラル・ヒグチの出発■
   樋口を待っていたのは、「不問」どころか、参謀本部第2部長
  への栄転だった。ドイツからの「善処」要求のわずか5ヶ月後に、
  このような人事を行ったということは、「人種平等を国是とする
  我が国はヒトラーのお先棒は担がない」という強烈なメッセージ
  ではなかったか。
   出発の当日、駅頭は、二千人ちかい見送りの群集で、埋めつく
  されていた。その人波の中には、数十キロの奥地から、わざわざ
  馬車をとばして駆けつけてきた開拓農夫の家族たちなどもまじっ
  ていた。樋口が土地や住居の世話をしたユダヤ難民たちであった。
  
   樋口が駅頭に立つと、いっせいに万歳の声がわきおこった。日
  の丸と満洲国旗とをうちふり、「ゼネラル、ヒグチ!」と、ロ々
  に連呼しあう。 孫に手をひかれた白髪のユダヤの老婆は、路面
  にひざまずいて樋口を拝み、涙をながしつつけていた。  
   待合室に入ると、カウフマン博士が、白系ロシア人の代表者ロ
  ザノフとともにやってきた。ユダヤ人と白系ロシア人は、血なま
  ぐさい暗闘を繰り返していたのだが、樋口が親睦のクラブまで作
  って、仲介に努力していたのである。  
   ロザノフは、カウフマン博士の頬に長い接吻をし、巧みな日本
  語で言った。  
       これが閣下に対する餞別です。閣下の言葉を忘れず、これ
      から仲良くやっていきます。      
   樋口が「あじあ」号の最後尾の展望台に立つと、列車は高らか
  に警笛を響かせて、ゆっくりと動き出した。
   「ヒグチ!」「ヒグチ!」。群衆は堰を切ったように改札口を
  乗り越え、ホームにあふれ出した。あどけない顔をした少年達は
  銀髪を振り乱し、両手を振り上げながら、あじあ号を追って走り
  続けた。  
■6.オトポールの恩を返すのは、いまをおいてない■
   終戦後、ソ連極東軍は、札幌にいた樋口を「戦犯」に指名し、
  連合軍総司令部に引き渡しを要求してきた。停戦後の8月19日
  まで、北千島を攻撃してきたソ連軍は、北方防衛の責任者であっ
  た樋口に大損害を与えられ、北海道上陸を阻止された事を恨んで
  いたのである。
   樋口の危機を聞いて、ニューヨークに総本部を持つ世界ユダヤ
  協会が動き出した。その幹部の中には、オトポールで救われた人
  々もいた。  
  「オトポールの恩を返すのは、いまをおいてない」世界各地に散
  らばっているユダヤ人に檄がとび、樋口救出運動が始まった。世
  界ユダヤ協会は、アメリカの国防総省を通じて働きかけ、マッカ
  ーサー総司令部は、ソ連からの引き渡し要求を拒否し、逆に擁護
  することを通告したのである。  
   長い歴史を通じて迫害を受けてきたユダヤ人は、それだけに他
  人から受けた恩義を簡単には忘れないのだろう。エルサレムの丘
  に立つゴールデン・ブックに刻まれた「偉大なる人道主義者、ゼ
  ネラル・樋口」の銘はその証である。
[参考]
1. 「流氷の海」、相良俊輔、光文社NF文庫、H6.1
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/★★読者の声★★_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
★JOG(85,86)「2万人のユダヤ人を救った樋口少将」について 
            大東 正さん(大阪府在住、34歳)より
   今回の樋口季一郎少将のお話を読み、胸に熱いものが込み上げ、
  知らず知らずのうちに涙していました。俗っぽい言い方ですが
  「ええ話やなあ」と思いました。
   戦後の民主主義教育を受けて育った世代の一人として、戦前お
  よび戦中の歴史に対してあまりにも無知であったことを最近痛感
  しています。こんなにも立派な日本人がいたことを、どうして学
  校でちゃんと教育しないのでしょうか。自分の国に誇りを持つた
  めにも、自国の歴史をきちんと学び、自分に子供ができたらきち
  んと伝えたいと思います。
   さて、わたしは現在インターネットで、アメリカ人の友人とメ
  ール交換をしているのですが、日本の歴史の話をするときにうま
  く英訳できなくて、もどかしく感じることが多々あります。特に、
  今回のような話はその友人にぜひとも紹介したいと思うのですが、
  英訳に時間がかかりそうでしり込みしています。
   そこで、虫のいいお願いですが、もし可能であれば、今後は英
  訳版の発行なども検討していただければと思います(英語の勉強
  もできて一石二鳥と、都合のいいことを考えております)。
★編集部より どなたか、今回の樋口少将の分だけでも、英訳をし
  ていただけないでしょうか。

★JOG(85,86)「2万人のユダヤ人を救った樋口少将」について  
           佐々木和人さん(富山県在住、34才) より
   JOG編集長伊勢さん、こんにちは。毎回この国際派日本人養成
  講座の記事を興味深く読んでいますが、今回の樋口少将に関する
  記事も、いままで学校の授業等では教えられてなかった内容のも
  ので、大変考えさせられるものでした。 
   本講座では今までにも杉原千畝氏、今村中将、松井大将といっ
  た大東亜戦争当時の日本人についての記事が掲載されていました
  が、それらの記事を改めて読み返して私は、「このような人たち
  は、当時の日本では決して例外的な人ではなかったのではないか。
  」という事を感じました。
   そこで思い出したのが映画「プライド」の東條氏の台詞です。
  東京裁判でいわゆる南京事件の事が持ち出されていると聞いた時、
  東條氏はまず「そんな馬鹿な事があるものか。」と言い、そして
  日本軍の指導者の中に、民間人も無差別に殺せ、などという命令
  を出す者などいるはずが無い、という内容の事を言いました。映
  画の中の台詞でしたが現実もほぼ同様だったのではないかと思い
  ます。
   大東亜戦争において日本軍が敗れた事について、「自分たちは
  弱かった。」あるいは「力が足りなかった。」という事は認める。
  しかし「日本軍は狂気の集団だった。」とか「殺人鬼だった。」
  などという事は断じて認められない、というのがその時の東條氏
  の、さらには他の戦犯たちの共通の心境だったように思います。

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