[トップページ] [平成11年上期一覧][人物探訪][210.73 ユダヤ難民救出][316.8 人種問題]
_/ _/_/ _/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/ _/ _/ _/ Japan On the Globe (85) _/ _/ _/ _/ _/_/ 国際派日本人養成講座 _/ _/ _/ _/ _/ _/ 平成11年5月1日 8,384部発行 _/_/ _/_/ _/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/_/ _/_/ 人物探訪:2万人のユダヤ人を救った樋口少将(上) _/_/ _/_/ ■ 目 次 ■ _/_/ _/_/ 1.偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口 _/_/ 2.ユダヤ人排斥は日本の人種平等主義に反する _/_/ 3.ユダヤ人の脱出ルートを確保した日本 _/_/ 4.反ナチ派の闘士・カウフマン博士の依頼 _/_/ 5.ユダヤ人に安住の地を与えよ _/_/ 6.日独関係とユダヤ人問題は別 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/■1.偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口■イスラエルには世界的に傑出したユダヤ人の名を代々登録し、 その功績を永遠に顕彰する「ゴールデン・ブック」という本があ る。その中に、モーゼ、メンデルスゾーン、アインシュタインな どの傑出したユダヤの偉人達にまじって、「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」とあり、その次に樋口の部下であった安江仙江大佐の名が刻まれ ている[1,p516]。樋口季一郎少将−6千人のユダヤ人を救ってイ スラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を授けられたた外 交官・杉原千畝氏(本講座21号で紹介)とともに、日本人とユ ダヤ人との浅からぬ縁を語る上で、不可欠の人物である。 ■2.ユダヤ人排斥は日本の人種平等主義に反する■1933年にドイツにナチス政権が誕生して以来、大量のユダヤ人 難民が発生した。しかし、難民を受け入れる国は少なく、ユダヤ 人に同情的だった英米でさえ、入国を制限していた。難民のドイ ツ脱出がピークに達した39年には、ドイツ系ユダヤ人難民930 人を乗せたセントルイス号が、英国、米国での接岸をそれぞれの 沿岸警備隊の武力行使によって阻まれ、結局はドイツに戻って、 大半が強制収容所送りになるという事件も起きている。[2] こうした中で、当時の日本政府もユダヤ人難民に対する方針を 明確にする必要に迫られ、39年12月に5相会議(首相、外相、蔵 相、陸相、海相)で「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を決定した。その内容は、ユダヤ人排斥は日本が多年主張してきた人種平等 の精神と合致しない、として、 ・ 現在居住するユダヤ人は他国人と同様公正に扱い排斥しない。 ・ 新たに来るユダヤ人は入国取締規則の範囲内で公正に対処す る。 ・ ユダヤ人を積極的に招致はしないが、資本家、技術者など利 用価値のある者はその限りではない。(すなわち招致も可) という3つの方針を定めたものであった。[3]1919年、国際連盟の創設に際し、人種平等条項を入れるように 提案した(本講座53号、米国大統領の拒否により失敗)事に見 られるように、当時の日本は有色人種の先頭に立って、人種平等 を訴えていた。その立場からしても、ユダヤ人排斥は当然反対す べきものであった。■3.ユダヤ人の脱出ルートを確保した日本■この方針は現実に適用された。当時の日本軍占領下の上海は、 ビザなしの渡航者を受け入れる世界で唯一の上陸可能な都市だっ た。ユダヤ難民は、シベリア鉄道で満洲のハルピンを経由し、陸 路、上海に向かうか、日本の通過ビザを取得して、ウラジオスト ックから、敦賀、神戸を経由して、海路、上海を目指すルートを とった。杉原千畝氏が命がけで日本の通過ビザを発行した6千人のユダ ヤ人難民は、後者のルートを通った。そして、前者のルートで3 万人のユダヤ人を救ったのが、本編の主人公・樋口季一郎少将で ある。ちなみに、当時の上海には、2万7千人を超すユダヤ人難民が 滞在していた。42年には、東京のドイツ大使館からゲシュタポ (秘密治安警察)要員が3度にわたって、上海を訪問している。 この事実をつきとめたドイツ・ボン大学のハインツ・マウル氏は、 上海にドイツと同様のユダヤ人強制収容所を建設する事を働きか けたと見ている。しかし日本側は居住区を監視下においたが、身分証明書を示せ ば自由に出入りできるようにしており、大半のユダヤ人は戦争を 生き抜いて、無事にイスラエルや米国に移住した。猶太(ユダヤ)人対策要綱は、日米開戦後に破棄され、新たに 難民受け入れの禁止などを定めた対策が設けられたが、ここでも 「全面的にユダヤ人を排斥するのは、(諸民族の融和を説く)八 紘一宇の国是にそぐわない」とした。樋口季一郎少将はこの精神 をそのまま体現した人物であったと言える。■4.反ナチ派の闘士・カウフマン博士の依頼■「夜分、とつぜんにお伺いしまして、恐縮しております。」流暢な日本語でカウフマン博士は毛皮の外套を脱ぎながら言っ た。昭和12(1937)年12月、満洲ハルピンの夜は零下30度 近くまで下がり、吹雪が続いていた。博士は、50を超えたばかりの紳士で、ハルピン市内で総合病 院を経営し、日本人の間でもたいへん評判のよい内科医であった。 大の親日家であると同時に、ハルピンユダヤ人協会の会長として、 反ナチ派の闘士でもあった。 カウフマン博士が訪ねたのは、8月にハルピンに赴任してきた ばかりのハルピン特務機関長・樋口季一郎少将である。樋口少将は、着任早々、満洲国は日本の属国ではないのだ。だから満洲国、および、 満洲国人民の主権を尊重し、よけいな内部干渉をさけ、満人 の庇護に極力努めるようにしてほしい。と部下に訓示し、「悪徳な日本人は、びしびし摘発しろ」と命 じた。カウフマン博士は、その樋口に重大な頼み事を持ってきた のである。それは、ハルピンで極東ユダヤ人大会を開催するのを許可して 欲しいということだった。ナチス・ドイツのユダヤ人迫害の暴挙 を世界の良識に訴えたいというでのある。樋口はハルピンに来る前にドイツに駐在し、ロシアを旅行して、 ユダヤ人達の悲惨な運命をよく知っていた。樋口は即座に快諾し、 博士を励ました。[1,p45]■5.ユダヤ人に安住の地を与えよ■翌13年1月15日、ハルピン商工倶楽部で、第一回の極東ユ ダヤ人大会が開催された。東京・上海・香港から、約2千人のユ ダヤ人が集まった。樋口も来賓として招待されたが、部下は身の 危険を心配して辞退するよう奨めた。当時のハルピンでは、白系ロシア人とユダヤ人の対立が深刻化 しており、治安の元締めである機関長がユダヤ人大会に出席して は、ロシア人過激分子を刺激して、不祥事を引き起こす恐れがあ ったからだ。しかし、樋口は構わず出席し、カウフマン博士から求められる 来賓としての挨拶をした。曰く、ヨーロッパのある一国は、ユダヤ人を好ましからざる分子 として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。いっ たい、どこへ追放しようというのか。追放せんとするならば、 その行先をちゃんと明示し、あらかじめそれを準備すべきで ある。とうぜんとるべき処置を怠って、追放しようとするのは刃 をくわえざる、虐殺にひとしい行為と、断じなければならな い。私は個人として、このような行為に怒りを覚え、心から 憎まずにはいられない。ユダヤ人を追放するまえに、彼らに土地をあたえよ! 安 住の地をあたえよ! そしてまた、祖国をあたえなければな らないのだ。演説が終わると、すさまじい歓声がおこり、熱狂した青年が壇 上に駆け上がって、樋口の前にひざまずいて号泣し始めた。協会 の幹部達も、感動の色を浮かべ、つぎつぎに握手を求めてきた。■6.日独関係とユダヤ人問題は別■大会終了後、ハルピン駐在の各国特派員や新聞記者達が、いっ せいに樋口を包囲した。イギリス系の記者が、ぐさりと核心をつ いた質問をしてきた。ゼネラルの演説は、日独伊の三国の友好関係にあきらかに 水をさすような内容である。そこから波及する結果を承知し てして、あのようなことを口にしたのか。樋口はまわりを取り囲んだ十数人の新聞記者やカメラマンにや わらかい微笑をかえして言った。日独関係は、あくまでもコミンテルンとの戦いであって、 ユダヤ人問題とは切りはなして考えるべきである。祖国のな いユダヤ民族に同情的であるということは、日本人の古来か らの精神である。日本人はむかしから、義をもって、弱きを 助ける気質を持っている。・・・今日、ドイツは血の純血運動ということを叫んでいる。し かし、それだからといって、ユダヤ人を憎み、迫害すること を、容認することはできない。・・・世界の先進国が祖国のないユダヤ民族の幸福を真剣に考え てやらない限り、この問題は解決しないだろう。樋口の談話は、それぞれの通信網をへて、各国の新聞に掲載さ れた。関東軍司令部内部からは、特務機関長の権限から逸脱した 言動だとの批判があがったが、懲罰までには至らなかった。ユダ ヤ人迫害は人種平等の国是に反するという国家方針に沿ったもの であったからであろう。 (続く)[参考] 1. 「流氷の海」、相良俊輔、光文社NF文庫、H6.1 2. 「ユダヤ人排斥、日本政府拒む」、産経新聞、H10.3.30 3. 「人種平等を貫いた日本のユダヤ人政策」、宮澤正典、 日本の息吹、H10.9
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