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---------------Japan On the Globe(138)  国際派日本人養成講座
        _/_/     人物探訪:届かなかった手紙    
         _/            〜あるユダヤ人から杉原千畝へ〜
        _/
  _/   _/    世界はアメリカを文明国という。私は、世界に
   _/_/     日本がもっと文明国だということを知らせましょう。
------------------------------------------H12.05.13 24,309部

■1.あなたは彼らの運命を心配してくださった■

         あの時代、突然に、ユダヤ人は西欧文化から放り出され
        ようとしていました。その文化を創り出すのに、ユダヤ人
        が力になっていたというのに---。そして同時に、お前た
        ちは余所者だ、と非難されました。ユダヤ人は破壊的な余
        所者で、強欲で、好色で、社会から一番いいところをもら
        うばかりで、何の貢献もしないといわれました。
        
         しかし、あなたは違っていました。彼らを迎え入れてく
        ださった。あなたは、ユダヤ人を母として、父として、子
        供として、思い出を大切にし、希望を抱く人間として見て
        くださった。あなたは、彼らがどこで眠るのか、どうやっ
        て暖をとるのか、気にかけてくださった。彼らの運命を心
        配してくださった。そう、心配されたのです。憎悪で対立
        していた世界で、それは希有のことでした。[1,p318]

     この手紙の「あなた」とは、杉原千畝。1940(昭和15)年、
    リトアニアの在カウナス日本領事代理として、逃げ場を失った
    ユダヤ人に2139通の日本通過ビザを出し、その何倍かの人々の
    命を救った。[a]
    
■2.杉原に贈る祝福■

     手紙の主は、ボストン大学のヒレル・レビン教授、現代のア
    メリカを代表する歴史家と言われる。93年2月、教授はリトア
    ニアの首都ビリニュスに設立されたユダヤ研究所の講義に招待
    された。そのおり、教授はカウナスで杉原がユダヤ人難民にビ
    ザを発行した領事館の建物を訪れた。
    
         私はその場に立ちすくみ、零下20度の寒さの中で、あ
        るユダヤ教の導師の言葉を繰り返していた。
        
        「私たちの祖先に奇跡が起きたところに立ったなら---人
        は祝福を送らなければならない」
        
         では、日本人の官吏・千畝に、私はどんな祝福を贈れば
        よかったのだろうか。[1,p20]
    
     冒頭の手紙は、すでに7年前に他界していた杉原に宛てたも
    のだ。「あなたはなぜユダヤ人を助けたのか?」、レビン教授
    はこれを明らかにすることが、杉原への「祝福」だと考えた。
    杉原の遺族、友人、同僚、救われたユダヤ人たちなどを尋ねて、
    教授は世界中を旅した。そして杉原の実像が徐々に姿をあらわ
    してきた。

■3.逃げ場を失ったユダヤ人■

    「ユダヤ人が西欧文化から放り出されようとしていた時代」、
    「憎悪で対立していた世界」とはどのようなものだったのか。
    
     1939年9月、独ソがポーランドを分割し、大量のユダヤ人難
    民が発生した。
    
         ソ連の国境警備兵は、越境しようとする者を片端から射
        った。他方、ナチスの国境警備兵は、もどってこようとす
        る者を片端から射った。二つの火線にはさまれた不運な難
        民は、国境沿いの無人地帯にとどまるしかなかった。
         そうこうしているうちに、厳冬になり凍死者が続出した。
        [1,p231]
        
     ユダヤ人難民たちは、「東欧のスイス」と呼ばれたリトアニ
    アに逃げ込んだが、そこも40年8月にはソ連に強制的に併合さ
    れ、「屠殺」が始まった。「カウナスの樹という樹には、誰か
    が吊されていた」[1,p386]
    
■4.ユダヤ人お断り■

     逃げ場を失ったユダヤ人たちに国際社会は冷たかった。39年
    6月、ユダヤ難民1128人を乗せたセントルイス号がハンブルク
    を出港してアメリカに向かったが、アメリカは入港を拒否。ほ
    とんどの乗客が正規の書類を持ち、アメリカの親戚が経済的責
    任を負うと保障したが、一人として上陸できず、船はホロコー
    ストの待つヨーロッパに戻る事になった。この呪われた航海は
    「ユダヤ人お断り」の象徴となり、後に映画にもなった。
    [1,p266]
    
     カウナスのアメリカ領事館にも、ユダヤ人のビザ申請が殺到
    したが、移民の割り当て枠がない、として申請受付を停止した。
    しかし、領事自身が「現実にビザが発行されたのは、移民割り
    当ての49%だった」と認めている。またポーランドの39-40
    年の移民割り当ては6524人だったが、うち5千人分が手つかず
    で残された。[1,p394-395]
    
     同様に、イギリスもユダヤ人のパレスチナ上陸を拒否し、ス
    ウェーデンは15載から50歳までの男性ユダヤ人は兵士にな
    る可能性があるから同国の中立性を脅かすとして、通過ビザさ
    え認めようとはしなかった。[1,p16,236]

■5.1分ごとに生命が救われているのを見た■

    「世界はアメリカを文明国という。私は、世界に日本がもっと
    文明国だということを知らせましょう」
    
     ユダヤ教の導師E・ポートノイに、杉原はこう語った。ポー
    トノイはミラー神学校の生徒300人分のビザを手に入れよう
    と、アメリカ領事館にかけあったが、「割り当てビザなど一枚
    もない」と突き放されたばかりだった。杉原がポートノイの長
    い話を聞き、ビザの発行を約束して、握手し、いつもの微笑を
    贈った時は、信じられない思いがした。
    
     ミラー神学校の生徒ズブニックが300枚文のビザを貰いに
    やってきた時には、日本領事館の前にはユダヤ人の長蛇の列が
    できていた。杉原のドイツ人秘書が、こんなに大勢は処理しき
    れないと音をあげると、ズブニックが手伝いを申し出た。
    
     杉原の横でビザ発給を手伝いながら、ズブニックは1分ごと
    に生命が救われているのを見た。それは「生涯最良の2週間だ
    った。」[1,p398-407]
    
■6.彼は手を挙げ、大丈夫と微笑んだ■

     当時16歳の娘だったL・カムシは、レビン教授にこんな思
    い出話を語った。
    
         日本領事館の前は延々長蛇の列だった。皆、それぞれに
        不幸な物語をかかえていたが、決まった行き先国も、お金
        ももってはいなかった。杉原は、私たちの両親のことを聞
        いた。父は亡くなり、母は書類を持っていないと答えると、
        非常に気の毒そうな顔をしてくれたので、この人は親切だ
        と思った。彼は頷き、旅券にスタンプを押してくれた。
        
         私たちにとって、政府関係者とは恐い存在だったので、
        領事館にいた間中、神経質になり、怯えていた。私たちは
        ただ、ポーランド語で「有り難う、有り難う」というだけ
        だったが、彼は手を挙げ、大丈夫と微笑んだ。
        
         事務所を出るとき、私たちは感極まって泣いてしまった。
        外にいた人々は、そんな私たちを珍しそうに見ていたが、
        背中を軽く叩き、幸運を祈ってくれた人もいた。[1,p421]

■7.日本帝国全体の原則■

     ドイツやソ連に追い立てられ、アメリカ、イギリス、スウェ
    ーデンにさえも、門前払いを食わされているユダヤ人。「誰も
    が閉ざした扉を、どうしてあなただけが開いたのか?」レビン
    教授の届かなかった手紙は問いかける。
    
     この疑問に駆られて、レビン教授は、杉原の子供時代からの
    一生をたどり、さらに当時の日本の外交政策まで、丹念に調べ
    ていく。そして発見したのは、扉を開けていたのは杉原だけで
    はなかった、という事だった。
    
     40年から41年にかけて、12以上のヨーロッパの都市の日本
    領事館で、ユダヤ人へのビザが発行されていた。特に目立つの
    は、カウナスの他では、ウィーン、プラハ、ストックホルム、
    モスクワなどだ。[1,p331]
    
     その前提となったのが、39年12月の5相会議(首相、外相、
    蔵相、陸相、海相)で決定された「猶太(ユダヤ)人対策要
    綱」だった。ここでは、ユダヤ人差別は、日本が多年主張して
    きた人種平等の精神に反するので、あくまでも他国人と同様、
    公正に扱うべきことを方針としていた。[1,p267][b]
    
     当時の外相、杉原の直接の上司だった松岡洋右はこう言って
    いた。「いかにも私はヒットラーと条約を締結した。しかし、
    私は反ユダヤ主義になるとは約束しなかった。これは私一人の
    考えではない。日本帝国全体の原則である。」[1,p171]
    
■8.難民を感動させた神戸での援助■

     いわば、ヨーロッパ各地の日本領事館の扉は、人種・国籍に
    関わらず、ユダヤ人に対しても公平に開けられていたのである。
    そして杉原は、たまたま多数のユダヤ人難民が追いつめられて
    いたカウナスで、職権上許されるギリギリまでその扉を広く開
    けて、彼らを迎え入れたのであった。
    
     杉原はソ連の命令でカウナスの領事館を閉ざしてからも、プ
    ラハの領事代理となり、そこでさらに多くのビザを出した。こ
    の頃、松岡外相は各国派遣大使の大量馘首に着手していたが、
    杉原はそれを免れている。外務省は杉原の行為を問題視してい
    なかったのである。[1,p448-452]
    
     松岡の言う「日本帝国全体の原則」は、発給だけではなかっ
    た。難民たちはシベリア横断鉄道の終点、ウラジオストックか
    ら、船で敦賀港に渡り、神戸に出る。日本の警察官、通関担当
    者はみな親切だった。前節のL・カムシ姉妹は、杉原ビザの滞
    在期間が10日間なのに、2ヶ月神戸にとどまった。神戸では
    ユダヤ人協会や、多くの神戸市民が援助してくれた。その後、
    アメリカにいた親戚から届けられたビザでサンフランシスコに
    渡った。今はニューヨークの郊外で暮らしている。[1,p437]
    
     ビザのとれないユダヤ人には、上海に渡る道があった。この
    国際都市は日本軍占領下で、2万7千人を超すユダヤ難民が比
    較的安全に暮らしていた。

■9.杉原とシンドラーとの違い■

     杉原は「日本のシンドラー」とよく呼ばれるが、両者の行為
    は本質的に異なる。私財をなげうって、ユダヤ人たちを助けた
    というシンドラーの行為は、あくまで個人的な善行である。そ
    れに対して、杉原の行為は、「日本帝国の原則」に基づいた国
    策に則ったものであった。それは、人道と国際正義にかなうも
    のであると同時に、我が国の国益にもつながるものであった。
    
     日本がロシアからの侵略から独立を守るべく日露戦争に立ち
    上がった時、ロシアのユダヤ人同胞を救おうと日本に協力した
    のがアメリカのユダヤ人指導者、銀行家のジェイコブ・シフで
    あった。日露戦争の総戦費19億円のうち、12億円がシフを
    通じて引き受けられた外債によるものだった。日本人はシフの
    助力に深く感謝し、ユダヤ人への好意を抱いた。[1,p47]
    
     1924年成立したアメリカの移民法は、日本人とユダヤ人の移
    民に対して、もっとも厳しかった。行き先を失ったユダヤ人は
    難民として中東欧にとどまり、反ユダヤ主義の標的となった。
    日本人移民はアメリカから閉め出され、満洲に向かった。
    
     ユダヤ人が独ソから追い立てられ、米英からも閉め出されて
    逃げ場を失った時、日本も英米のブロック経済化と、石油や鉄
    鋼、機械などの対日禁輸政策により生存圏を奪われつつあった。
    この時、日露戦争時と同様、日本は生存のために、ユダヤ資本
    との結びつきを探っていたのである。
    
     ユダヤ人と日本人は、共通した悲劇的運命を生きつつあった。
    そこに互いへの同情と連帯の心が生まれるのは、自然の成り行
    きと言える。
    
■10.「文明国」とは■

        「世界はアメリカを文明国という。私は、世界に日本がも
        っと文明国だということを知らせましょう」

     杉原の言葉は、このような状況の中で発せられたのである。
    それは広大な国土を持ちながら、人種差別感情から日本人やユ
    ダヤ人移民のみを厳しく制限したアメリカへの痛烈なしっぺ返
    しであった。
    
     杉原の言う「文明国」とは、進んだ科学技術や経済力を持つ
    国の事ではない。その国策が国益を追求しながらも、同時に人
    道と国際正義にかない、他国との共存共栄を目指す国と定義で
    きよう。ユダヤ人の虐殺や追放を国策とした独ソは言うにおよ
    ばず、人種的理由から厄介者扱いした英米もこの点では「文明
    国」とは言えない。
    
     杉原は、少なくとも人種平等という点においては、日本の方
    がはるかに文明国であることを知らしめようとしたのである。
    その行為は、個人的な善行というよりは、日本国民を代表する
    公的なものだった。レビン教授は次のように言う。
    
         私の著書「千畝」は、そう遠くない将来、ハリウッドで
        映画化されることになっている。この映画が公開されれば、
        世界中の人が「スギハラ」という日本人を知ることになる。
        
         世界中の人々が、彼の精神や行動を育んだ日本の風土と
        文化に強い関心を持つことになるだろう。そして、これま
        で以上に日本人に対してさらに深い尊敬の念を抱くだろう
        ことを私は期待している。[2]

     杉原への尊敬の念は、日本人全体におよぶべきものだ、とレ
    ビン教授は言う。とするなら、現代の我々は、それに値するよ
    うな「文明国民」となるという課題も同時に継承していると言
    えよう。

■リンク■
a. JOG(021) 6千人のユダヤ人を救った日本人外交官
   日本経由で脱出を願うユダヤ人6千人にビザを発給。「バンザ
  イ、ニッポン」誰かが叫びました。  「スギハァラ。私たちはあ
  なたを忘れません。」 

b. JOG(085) 2万人のユダヤ人を救った樋口少将(上)
   人種平等を国是とする日本は、ナチスのユダヤ人迫害政策に同
  調しなかった。 

c. JOG(086) 2万人のユダヤ人を救った樋口少将(下)
 救われたユダヤ人達は、恩返しに立ち上がった。

d. JOG Wing H12.05.12 杉原千畝をめぐる三題

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1.「千畝」★★★、ヒレル・レビン、清水書院、H10.8
2.「『ユダヤ人救出作戦』こそ日本の誇り」、SAPIO、H12.03.08

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「届かなかった手紙〜あるユダヤ人から杉原千畝へ〜」
                                        門田さん(東京)より

     なんという偶然でしょう。本日発売のイギリスの経済紙、フ
    ァイナンシャルタイムズ(FT)週末版(May 13/14)に杉原千畝が
    特集されていました。

     レビンの著書『千畝』を土台にした特集記事でしたが、レビ
    ン自身のコメントもあり、その中で氏は「日本は杉原の物語を
    日本の新しいイメージ作りのために用いればいい」と述べてい
    ました。また、ポール・エイブラハム記者も「もし(日本の)
    外務省の職務が日本の良いイメージの提示にあるのであれば、
    日本は好機を逃している」と書き添えていました。

     例えば、杉原の行為を知った世界が称賛した際、けっしてひ
    かえめに沈黙を保つのではなく、むしろ、このときこそ、国内
    の反体制団体が作り出した「性奴隷狩り」慰安婦問題や、未だ
    真相がわからない南京問題などに言及し、我々は真実を知りた
    い、と訴えれば、北京政府へ国際調査団受け入れの圧力を加え
    ることができるのです。発言と実行力の不足によって世界を敵
    に回しては、あまりに杉原の行為に申し訳がない永世の失態と
    なるでしょう。

■編集長・伊勢雅臣より

     「陰徳(人に知れないように施す恩徳)」という日本的な奥
    ゆかしさを発揮するには、現在の国際社会はあまりにも「ジュ
    ラシック・パーク(次号参照)」なのですね。

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